残酷な描写あり
R-15
21話『一触即発』
「もうそろそろ、山から出られそうですね」
手元の地図に視線を落としながら呟いたのはクロノだ。
アウラも傍らを歩きながら、少しづつ周囲の木々が減っていくのを感じていた。
山に棲まう動物達の姿も少なくなっていき、彼らの生息圏──大自然から離れている。
「思ったより、時間かからなかったな」
「この地図が割と正確だったので助かりました。如何せん、ケシェルのエドム側は来た事が無かったですし」
エドムという国自体には行った経験があるものの、エドムの周辺地域に足を踏み入れた経験はなかった様子だった。
下山を始めて一時間ほどが経過しているが、相変わらず危険な魔獣の気配など一切無く、何の滞りもなく進んでいる。
ただでさえ二人共消耗が激しい事を考えれば、寧ろそうであって欲しいというもの。
エドムからエリュシオンはこの山を挟んだ隣同士である為か、地竜車に乗りさえすれば数時間で帰国できるらしい。
「……地竜車分のお金、大丈夫かな」
ポケットから、貨幣を入れた小さな麻袋を取り出す。
紐を解いて中身を確認するも、帰国に必要な運賃ギリギリというところ。
ただでさえナルがギルドから拝借してきた金で生活させて貰っているというのに、借金をこれ以上増やしたくはない。
今回の依頼達成分の報酬も、基本的にはギルドへの返済に充てる予定であった。
ナーガの討伐こそ成し遂げたが、現を抜かしている場合ではない。
(とりあえず分割で返金するとして、あんまり手元には残らないだろうな…)
そんなことを思いながら、重い溜め息を零すアウラ。
山積みになっている問題がまだまだあるのだと、改めて認識させる。
「地図の通りなら、山を下りたすぐ近くに小さな町があるみたいなので、そこで帰りの地竜車を捕まえましょうか」
「そうだな。……いやぁ、ホントに疲れたわ。色々と」
単純な調査と探索。ただそれだけの依頼。
イレギュラーにイレギュラーが重なり、結果的に並大抵の依頼より高い難易度の任務だった。
落ち着いた状態で考えて見れば、どう見ても尋常では無い。
ましてや竜種など、最初の依頼で相手取って良いレベルの怪物ではない。
「戻ったら、どうかゆっくり休んでください。流石にハードでしたしね」
「そうさせて貰うよ。数日休んだらカレンにまた叩きのめされて、調子を戻したら依頼を受けにいくさ」
体力的にも魔力的にも、今の状態はガス欠も良い所だ。
仮に、帰ってすぐに鍛錬を再開したとしてもカレンの剣技に付いていける筈は無い。地下での戦いの中で見せたような集中力を長時間維持する事も難しい。
休む事も大切な事には変わりないのだ。
「────ん」
ふと、クロノの後ろを歩くアウラの足が止まる。
目を細め、何処か遠くを見据えている。その視線の先にあったのは────、
「どうしました?」
「いや、下りきったところに────人か?」
アウラの眼は、確かに前方に存在するモノを捉えていた。クロノも続いて、瞬間的に「強化」した眼で同じ方向を見る。
二人の視線には、確かにこちらを見据える人の姿が映っていた。
何の魔術も扱っていないアウラの眼ではその細部までは分からないが、魔術を以て視力を向上させたクロノの眼は、その人影の動きを捉えている。
「近付いて来ますね……」
スイッチを切り替え、大鎌を顕現させる。
脚部から順に魔力を集中させていき、いつでも口火を切れるように備える。
近づく人影が少しでも怪しげな素振りを見せれば、その瞬間、彼女は携えた大鎌を以て、相手の首を刈り取りに行くだろう。
(アウラさんはまだ戦える状態じゃない。それに、相手は一人……木々が生い茂るこの地形なら、私の方が速い)
あくまでも平静を保ったまま、開戦の境界線を推し量る。
敵意を宿すクロノの瞳に映る男は、見た所武具と思しき物は持ち合わせていない。
彼女の持ち味は何よりもその「速さ」だ。
多頭の魔獣の攻撃を凌いで尚トップスピードを維持し続けるという並外れた芸当が、クロノの魔術師──戦士としての実力の高さを物語っている。
まだ回復し切っていないアウラを除けば、クロノと相手との1対1。
相手が手負いのアウラに気づく前に仕留める。クロノはそのつもりだった。
数秒の間を置いて、再び緊張感を漲らせる。
「そんなにピリピリしちゃって────俺、もしかしてそんな怪しい人に見える?」
何処か愚痴のように零しながら、その男はゆっくりと手を翳した。
アウラのクロノの二人に向けてでは無く──彼らを囲う空間そのものに向けて。
口元を微塵も動かす事無く、その者は魔力にカタチを与える。
ほぼ同時。
男の術式が組み上がるまでのコンマ数秒の間、クロノは詠唱を済ませ、飛ぶ様に動き出していた。
「アグ────っ」
クロノに続きアウラも魔術を行使しようとするが、身体がソレを許さなかった。
心臓が一際大きく鼓動し、身体の内側から熱いものがこみ上げてきた。すかさず口元に手を当て、外に出ようとするものを寸前で押さえる。
膝を付いた状態で前方を見ると、完全に出遅れたアウラを取り囲むように正方形が展開されていた。
本来必要である筈の詠唱を介さずして、結界を敷いて見せたのだ。
(結界術……!)
アウラの身体は、彼自身の想像以上に十全では無かった。
魔力が3割程残っているとはいえ、疲弊している身体は魔術の行使を拒んでいる。
自分より先に臨戦態勢に入っていたクロノの方が結界の展開よりも速く動き出しており、木々の間を縫うように動き、男との距離を瞬く間に縮めていく。
(────いや、この子速っ────!)
魔術師らしからぬ移動速度に、男は焦燥を隠せないでいる。
魔術をメインとして扱う者からすれば、異端とも言えるだろう。
彼女の場合は基礎となる「強化」に加え、他の魔術にも精通している。それらを駆使しながらの、鎌を用いての白兵戦がクロノの戦い方であった。
洞窟内の時程の速度には程遠いが、オドを用いた強化であっても、初見の相手を凌駕する事は容易い。
冒険者としての経験──積み重ねてきた物の数が違う事を体現している。
「……っ、捉えた────」
獣の如き低姿勢のまま、標的が己の間合いに入った事を確信する。
男の視界の外から、命を狩る鎌を携えた死神が迫る。
木々の間を通り、幹を蹴って一直線に仕留めに行く。男が気付いた時には既に大鎌を振りかぶり、その命に指をかける。
僅か数センチのレベル。その刃が皮膚をなぞり、肉を断つ──その直前。
「────待った!」
男の数メートル後ろから、力強く耳に響くもう一つの声があった。
芯のある、女性の声。
敵意に染まっていたクロノの瞳も、その声がした拍子に元の色を取り戻す。
彼女の持つ大鎌は、少しでも揺れれば男の首を斬り落とす程の距離にあった。
まさに紙一重。制止する声がコンマ数秒でも遅ければ、クロノは容赦なく男の命を刈り取っていた事だろう。
「ふぅ、危なかった……私達は別に怪しい者という訳では無いんだ。そこの彼は私の連れでね、不必要に警戒させてしまった点については謝罪しよう。だから、一旦その武器を降ろしてくれないか?」
ホッとしたように一息付いて、その女性はクロノにそう頼み込む。
捉えようによっては、この状況は互いに同胞を人質に取られている。クロノは魔術師を──そして、眼前の女性はアウラを。
故に彼女は、力づくで止めに入るのではなく、言葉での交渉を選択した。
荒事は避けたい、というスタンスなのだろう。
「……分かりました」
対するクロノも要求に応じ、携えた鎌を下ろした。
だが、その瞳に宿る敵意は完全には取り除かれていない。
「……遅いぜエイル。ガチで死ぬかと思ったぞ」
「今のは貴方が全面的に悪いですよ、ロア。警戒している相手に無闇に魔術を仕掛けようとすれば、それに応じて戦いになるのは当然でしょう」
腰に手を当て、結界を敷いてアウラを拘束した男を諫める。
後ろで結った、僅かに青みがかった白髪に、宝石のように美しい碧眼。籠手に胸当て、鉄靴を纏い、腰には鞘に入った剣を差していた。
態度こそ冷静ではあるが、その視線は刺すように鋭い。
その場にいるだけで覇気を纏うような彼女とは違い、ロアと呼ばれた男は何処か気だるげな雰囲気を放っている。
緑色の外套を羽織った、僅かに茶色がかったの黒髪の青年だ。
対極に位置するようなイメージを持つ二人。その上下関係は明確だった。
「──第一、油断が過ぎる。安易に結界で拘束しようと出たものの、魔術を成立させる前に速度で負け、挙句の果てに為す術なく間合いを詰められるなんて……それでも「熾天」の魔術師ですか?」
厳しい口調で、結果的に敗北を喫したロアに徹底的にダメ出しする。
(めっちゃボロクソに言われてる────!)
結界の中でも、二人の会話は鮮明に聞こえてくる。
一瞬の駆け引きでロアが敗北した要因を的確に指摘し、総評を下した。
そこに何一つ間違いはなく、その凛とした佇まいも相俟って、エイルという女剣士が己より遥か格上の存在であるとアウラに認識させた。
一ミリの容赦もない指摘は、並の人間のメンタルを容易に粉々にするだろう。
「相変わらず手厳しいなぁ……悪かったな少年、今術を解くよ」
エイルの指摘を軽々と流し、謝罪と共に指を鳴らす。
すると、アウラを取り囲んでいた結界は瞬く間に消滅した。
「あ、ありがとうございます……っ」
自由にはなるも、無理に魔術を行使しようとした反動は残っている。
ナーガ相手にヴァジュラの異能を解放した時のような、吐き気と悪寒が身体の奥底から湧き上がる。
拒否反応に耐えながら立ち上がり、ヴァジュラを杖代わりにして歩き出す。
今の全員の視線は、エイルただ一人に集められていた。
「エイル……ん? エイルって確か……あ」
ロアが言った名前に引っ掛かる部分があったのか、クロノは腕を組んで暫く思案していた──そして気付いたのか、クロノの顔は見る見るうちに青ざめていく。
全身の血の気が一気に引いて行く。
自分がしでかしてしまった事を、彼女は冷静になってから理解した。
状況が状況、互いに被害を出さずに済んだが、それを差し引いても、取り返しのつかない所業だったようで、
「っ……すみませんでした! 私、とんでもない事を……!」
頭を下げ、己の過ちを告白する。
眼前に佇む、エイルという剣士が一体何者であるのかを、彼女はたった今思い出した。
つい数分前まで、冷静を保ち続けていた彼女が大きく動揺するのを見て、アウラも今置かれている状況を把握する。
「最高位の剣士のお仲間とは知らず……本当に申し訳ございませんでした……!」
「────え、最高位の……って事はまさか」
必死に謝罪を重ねるクロノの言葉を聞き、アウラの顔も引き攣る。
ケシェル山に向かう途中、彼女の口から、もう一人の最高位の冒険者について聞いたのだ。その者は剣士であり、隣国のエドム王国のギルドに在籍しているのだという。
そして、ケシェル山の反対側はエドム側のギルドの管轄──即ち、この二人組はあちらの人間。
「な、────」
ソレは、驚愕が最も近しい表現だった。
ナーガを相手取った時以上の緊張が全身を縛り上げる。魔術の反動による苦しみなど、一瞬でアウラの脳から忘れさせた。
目の前にいる者が、一体誰なのか。
第一階級である「原位」の遥か高み。
クロノの師に並び、あらゆる冒険者の頂点に君臨する者の一人。
ヒトを超え、神の領域に踏み込んだ者のみが至る事のできる、至高の世界。
「……この方は、最高位の「神位」の座を持つ冒険者にして「剣帝」の異名を持つ剣士────エイル・ステファノスさんです」
クロノは汗を滲ませながら、その名を紡ぐ。
声が震えるのを限界まで抑えていた。
その異名は、エイルという人物が別格である事を証明している。
剣の帝王──感じられる威容と覇気だけでも、眼の前の女性には相応しい名であった。
極点の一角。その存在との邂逅は、アウラの想像よりも遥かに早く訪れた。
手元の地図に視線を落としながら呟いたのはクロノだ。
アウラも傍らを歩きながら、少しづつ周囲の木々が減っていくのを感じていた。
山に棲まう動物達の姿も少なくなっていき、彼らの生息圏──大自然から離れている。
「思ったより、時間かからなかったな」
「この地図が割と正確だったので助かりました。如何せん、ケシェルのエドム側は来た事が無かったですし」
エドムという国自体には行った経験があるものの、エドムの周辺地域に足を踏み入れた経験はなかった様子だった。
下山を始めて一時間ほどが経過しているが、相変わらず危険な魔獣の気配など一切無く、何の滞りもなく進んでいる。
ただでさえ二人共消耗が激しい事を考えれば、寧ろそうであって欲しいというもの。
エドムからエリュシオンはこの山を挟んだ隣同士である為か、地竜車に乗りさえすれば数時間で帰国できるらしい。
「……地竜車分のお金、大丈夫かな」
ポケットから、貨幣を入れた小さな麻袋を取り出す。
紐を解いて中身を確認するも、帰国に必要な運賃ギリギリというところ。
ただでさえナルがギルドから拝借してきた金で生活させて貰っているというのに、借金をこれ以上増やしたくはない。
今回の依頼達成分の報酬も、基本的にはギルドへの返済に充てる予定であった。
ナーガの討伐こそ成し遂げたが、現を抜かしている場合ではない。
(とりあえず分割で返金するとして、あんまり手元には残らないだろうな…)
そんなことを思いながら、重い溜め息を零すアウラ。
山積みになっている問題がまだまだあるのだと、改めて認識させる。
「地図の通りなら、山を下りたすぐ近くに小さな町があるみたいなので、そこで帰りの地竜車を捕まえましょうか」
「そうだな。……いやぁ、ホントに疲れたわ。色々と」
単純な調査と探索。ただそれだけの依頼。
イレギュラーにイレギュラーが重なり、結果的に並大抵の依頼より高い難易度の任務だった。
落ち着いた状態で考えて見れば、どう見ても尋常では無い。
ましてや竜種など、最初の依頼で相手取って良いレベルの怪物ではない。
「戻ったら、どうかゆっくり休んでください。流石にハードでしたしね」
「そうさせて貰うよ。数日休んだらカレンにまた叩きのめされて、調子を戻したら依頼を受けにいくさ」
体力的にも魔力的にも、今の状態はガス欠も良い所だ。
仮に、帰ってすぐに鍛錬を再開したとしてもカレンの剣技に付いていける筈は無い。地下での戦いの中で見せたような集中力を長時間維持する事も難しい。
休む事も大切な事には変わりないのだ。
「────ん」
ふと、クロノの後ろを歩くアウラの足が止まる。
目を細め、何処か遠くを見据えている。その視線の先にあったのは────、
「どうしました?」
「いや、下りきったところに────人か?」
アウラの眼は、確かに前方に存在するモノを捉えていた。クロノも続いて、瞬間的に「強化」した眼で同じ方向を見る。
二人の視線には、確かにこちらを見据える人の姿が映っていた。
何の魔術も扱っていないアウラの眼ではその細部までは分からないが、魔術を以て視力を向上させたクロノの眼は、その人影の動きを捉えている。
「近付いて来ますね……」
スイッチを切り替え、大鎌を顕現させる。
脚部から順に魔力を集中させていき、いつでも口火を切れるように備える。
近づく人影が少しでも怪しげな素振りを見せれば、その瞬間、彼女は携えた大鎌を以て、相手の首を刈り取りに行くだろう。
(アウラさんはまだ戦える状態じゃない。それに、相手は一人……木々が生い茂るこの地形なら、私の方が速い)
あくまでも平静を保ったまま、開戦の境界線を推し量る。
敵意を宿すクロノの瞳に映る男は、見た所武具と思しき物は持ち合わせていない。
彼女の持ち味は何よりもその「速さ」だ。
多頭の魔獣の攻撃を凌いで尚トップスピードを維持し続けるという並外れた芸当が、クロノの魔術師──戦士としての実力の高さを物語っている。
まだ回復し切っていないアウラを除けば、クロノと相手との1対1。
相手が手負いのアウラに気づく前に仕留める。クロノはそのつもりだった。
数秒の間を置いて、再び緊張感を漲らせる。
「そんなにピリピリしちゃって────俺、もしかしてそんな怪しい人に見える?」
何処か愚痴のように零しながら、その男はゆっくりと手を翳した。
アウラのクロノの二人に向けてでは無く──彼らを囲う空間そのものに向けて。
口元を微塵も動かす事無く、その者は魔力にカタチを与える。
ほぼ同時。
男の術式が組み上がるまでのコンマ数秒の間、クロノは詠唱を済ませ、飛ぶ様に動き出していた。
「アグ────っ」
クロノに続きアウラも魔術を行使しようとするが、身体がソレを許さなかった。
心臓が一際大きく鼓動し、身体の内側から熱いものがこみ上げてきた。すかさず口元に手を当て、外に出ようとするものを寸前で押さえる。
膝を付いた状態で前方を見ると、完全に出遅れたアウラを取り囲むように正方形が展開されていた。
本来必要である筈の詠唱を介さずして、結界を敷いて見せたのだ。
(結界術……!)
アウラの身体は、彼自身の想像以上に十全では無かった。
魔力が3割程残っているとはいえ、疲弊している身体は魔術の行使を拒んでいる。
自分より先に臨戦態勢に入っていたクロノの方が結界の展開よりも速く動き出しており、木々の間を縫うように動き、男との距離を瞬く間に縮めていく。
(────いや、この子速っ────!)
魔術師らしからぬ移動速度に、男は焦燥を隠せないでいる。
魔術をメインとして扱う者からすれば、異端とも言えるだろう。
彼女の場合は基礎となる「強化」に加え、他の魔術にも精通している。それらを駆使しながらの、鎌を用いての白兵戦がクロノの戦い方であった。
洞窟内の時程の速度には程遠いが、オドを用いた強化であっても、初見の相手を凌駕する事は容易い。
冒険者としての経験──積み重ねてきた物の数が違う事を体現している。
「……っ、捉えた────」
獣の如き低姿勢のまま、標的が己の間合いに入った事を確信する。
男の視界の外から、命を狩る鎌を携えた死神が迫る。
木々の間を通り、幹を蹴って一直線に仕留めに行く。男が気付いた時には既に大鎌を振りかぶり、その命に指をかける。
僅か数センチのレベル。その刃が皮膚をなぞり、肉を断つ──その直前。
「────待った!」
男の数メートル後ろから、力強く耳に響くもう一つの声があった。
芯のある、女性の声。
敵意に染まっていたクロノの瞳も、その声がした拍子に元の色を取り戻す。
彼女の持つ大鎌は、少しでも揺れれば男の首を斬り落とす程の距離にあった。
まさに紙一重。制止する声がコンマ数秒でも遅ければ、クロノは容赦なく男の命を刈り取っていた事だろう。
「ふぅ、危なかった……私達は別に怪しい者という訳では無いんだ。そこの彼は私の連れでね、不必要に警戒させてしまった点については謝罪しよう。だから、一旦その武器を降ろしてくれないか?」
ホッとしたように一息付いて、その女性はクロノにそう頼み込む。
捉えようによっては、この状況は互いに同胞を人質に取られている。クロノは魔術師を──そして、眼前の女性はアウラを。
故に彼女は、力づくで止めに入るのではなく、言葉での交渉を選択した。
荒事は避けたい、というスタンスなのだろう。
「……分かりました」
対するクロノも要求に応じ、携えた鎌を下ろした。
だが、その瞳に宿る敵意は完全には取り除かれていない。
「……遅いぜエイル。ガチで死ぬかと思ったぞ」
「今のは貴方が全面的に悪いですよ、ロア。警戒している相手に無闇に魔術を仕掛けようとすれば、それに応じて戦いになるのは当然でしょう」
腰に手を当て、結界を敷いてアウラを拘束した男を諫める。
後ろで結った、僅かに青みがかった白髪に、宝石のように美しい碧眼。籠手に胸当て、鉄靴を纏い、腰には鞘に入った剣を差していた。
態度こそ冷静ではあるが、その視線は刺すように鋭い。
その場にいるだけで覇気を纏うような彼女とは違い、ロアと呼ばれた男は何処か気だるげな雰囲気を放っている。
緑色の外套を羽織った、僅かに茶色がかったの黒髪の青年だ。
対極に位置するようなイメージを持つ二人。その上下関係は明確だった。
「──第一、油断が過ぎる。安易に結界で拘束しようと出たものの、魔術を成立させる前に速度で負け、挙句の果てに為す術なく間合いを詰められるなんて……それでも「熾天」の魔術師ですか?」
厳しい口調で、結果的に敗北を喫したロアに徹底的にダメ出しする。
(めっちゃボロクソに言われてる────!)
結界の中でも、二人の会話は鮮明に聞こえてくる。
一瞬の駆け引きでロアが敗北した要因を的確に指摘し、総評を下した。
そこに何一つ間違いはなく、その凛とした佇まいも相俟って、エイルという女剣士が己より遥か格上の存在であるとアウラに認識させた。
一ミリの容赦もない指摘は、並の人間のメンタルを容易に粉々にするだろう。
「相変わらず手厳しいなぁ……悪かったな少年、今術を解くよ」
エイルの指摘を軽々と流し、謝罪と共に指を鳴らす。
すると、アウラを取り囲んでいた結界は瞬く間に消滅した。
「あ、ありがとうございます……っ」
自由にはなるも、無理に魔術を行使しようとした反動は残っている。
ナーガ相手にヴァジュラの異能を解放した時のような、吐き気と悪寒が身体の奥底から湧き上がる。
拒否反応に耐えながら立ち上がり、ヴァジュラを杖代わりにして歩き出す。
今の全員の視線は、エイルただ一人に集められていた。
「エイル……ん? エイルって確か……あ」
ロアが言った名前に引っ掛かる部分があったのか、クロノは腕を組んで暫く思案していた──そして気付いたのか、クロノの顔は見る見るうちに青ざめていく。
全身の血の気が一気に引いて行く。
自分がしでかしてしまった事を、彼女は冷静になってから理解した。
状況が状況、互いに被害を出さずに済んだが、それを差し引いても、取り返しのつかない所業だったようで、
「っ……すみませんでした! 私、とんでもない事を……!」
頭を下げ、己の過ちを告白する。
眼前に佇む、エイルという剣士が一体何者であるのかを、彼女はたった今思い出した。
つい数分前まで、冷静を保ち続けていた彼女が大きく動揺するのを見て、アウラも今置かれている状況を把握する。
「最高位の剣士のお仲間とは知らず……本当に申し訳ございませんでした……!」
「────え、最高位の……って事はまさか」
必死に謝罪を重ねるクロノの言葉を聞き、アウラの顔も引き攣る。
ケシェル山に向かう途中、彼女の口から、もう一人の最高位の冒険者について聞いたのだ。その者は剣士であり、隣国のエドム王国のギルドに在籍しているのだという。
そして、ケシェル山の反対側はエドム側のギルドの管轄──即ち、この二人組はあちらの人間。
「な、────」
ソレは、驚愕が最も近しい表現だった。
ナーガを相手取った時以上の緊張が全身を縛り上げる。魔術の反動による苦しみなど、一瞬でアウラの脳から忘れさせた。
目の前にいる者が、一体誰なのか。
第一階級である「原位」の遥か高み。
クロノの師に並び、あらゆる冒険者の頂点に君臨する者の一人。
ヒトを超え、神の領域に踏み込んだ者のみが至る事のできる、至高の世界。
「……この方は、最高位の「神位」の座を持つ冒険者にして「剣帝」の異名を持つ剣士────エイル・ステファノスさんです」
クロノは汗を滲ませながら、その名を紡ぐ。
声が震えるのを限界まで抑えていた。
その異名は、エイルという人物が別格である事を証明している。
剣の帝王──感じられる威容と覇気だけでも、眼の前の女性には相応しい名であった。
極点の一角。その存在との邂逅は、アウラの想像よりも遥かに早く訪れた。