残酷な描写あり
1.舞い込んできた小鳥-1
「空が青いな……」
鷹刀ルイフォンは眩しさに目を細め、そう呟いた。
こうして庭先に寝転んでいると、普段なら気づかないような、大地の湿った温かさを感じる。上空を飛ぶ鳥の声に耳を澄ませば、体が大気に溶けていくようだ……。
春の陽気は程よく温かく、満開の桜が時折り恥ずかしそうに花を散らしている。
ルイフォンの柔らかな、しかしやや癖のある前髪にも、花びらがひとひら舞い降りる。――黒髪、そして黒目。この国の民が持つ色合いだ。
不意に、あくびが口を衝いて出た。
腫れぼったい目からは涙が滲む。昼間から寝てしまうのはもったいない気がするが、どうやら限界のようだった。
このまま花に抱かれて、しばらく仮眠を取ることにしよう。
彼はそう考えて、凝り固まった手足と共に、一本に編まれた髪を大きく投げ出した。
髪は、そのままにして寝ると、背中に当たって痛いからである。背の半ばまであり、先端を青い飾り紐で留めていた。そして、その中央には金色の鈴――。
ほどなくして規則的な寝息が漏れてきた。
穏やかな午後の陽射しが、ルイフォンの頬を明るく照らす。
寝顔には、大人になりかけの、どことなくあどけなさの残る十六歳の少年の素顔が垣間見えた。この空間だけを切り取れば、平和でのどかな一枚の絵画のようであった。
風が、静かに流れる……。
と、そのとき――。
ルイフォンは素早く寝返りをうち、体を横にずらした。
そのすぐあとに、地面を打つ鋭い音。
先ほどまで彼が寝転がっていた場所には、一本の短刀が突き刺さっていた。
ルイフォンは飛び起きた。彼の髪もまた、金色の鈴を煌かせて彼の動きに合わせてついてくる。
周囲に神経を張り巡らせる。
見開いた目に力を込める。
姿勢を低くとりながら息を吐き、軽く膝を曲げて次の攻撃に備えた。
前方から、風を斬る鋭い気配――。
凶刃がルイフォンを捕らえる手前で、彼は猫のようにしなやかに、ひらりとよける。銀光が頬をかすめ、背後の桜に突き刺さった。その衝撃に樹枝が揺れ、薄紅色の花が舞う。
桜吹雪の降り注ぐ中、ルイフォンは着地すると同時に身を屈め、地面に突き刺さったままの短刀を引き抜いた。
相手は正面――。
次はどう来るか。
彼は、ごくりと唾を呑む。短刀を握った手に汗がにじむ。滑って落とさぬよう、更に強く握り締める。
再び――風を裂く音を、肌で感じる。
高速で飛来してきた刃を感覚で捕らえ、体に触れる直前に短刀で叩き落す。
痺れるような確かな感触を腕に残し、甲高い音が響く。
――しかし、それは罠であった。
彼が刃に気を取られている隙に、茂みの陰に隠れていた襲撃者が飛び出してきたのだ。
「ルイフォン様、油断しすぎですよ」
笑みを含んだ声が響く。
壮年の大男が、ルイフォンの首筋にぴたりと刀を当てていた。
湾曲した幅広の刀は、まるで死神の鎌のようで、男がもう少し手首を返していればルイフォンの頭は胴体と泣き別れしていただろう。
「チャオラウ、寝込みを襲うのは卑怯だろ?」
ルイフォンは不服そうに睨む。
敵の襲撃……ではない。目の前の大男は、鷹刀一族の護衛役にして、ルイフォンの武術師範でもある草薙チャオラウである。
「今朝の分の稽古ですよ」
「……っ! さぼったのは悪かった。けど……!」
「まぁ、いいですよ。夜遊びしたい日もあるでしょうから」
「今日は夜遊びじゃない!」
しかし、ルイフォンの抗議は鮮やかに無視された。
「この体勢から切り返せますか?」
楽しげに尋ねるチャオラウに、ルイフォンは短刀を捨てて両手を上げた。
「お前相手に、無理」
「情けないですね」
「寝不足でふらふらだから勘弁してくれ」
泣き言を言うルイフォンに、チャオラウはやれやれ、といった体で刀を引いた。――しかし、それこそがルイフォンの狙いだった。
チャオラウが見せた一瞬の油断。それを確実に捉え、ルイフォンは鋭く足を蹴り上げる。
狙うは、鳩尾。
捕らえた! と、肉の衝撃を期待した瞬間、彼の右足は標的を失った。
「なっ……?」
チャオラウは、すっと片足を下げ、軽く半身で受け流していた。ルイフォンが踏み込む際、わずかに体が沈んだのを見逃さなかったのである。
チャオラウは、下げた足を戻しながら、そのまま流れるような動作でルイフォンの軸足を薙ぎ払う。
次の瞬間、ルイフォンは背中から地面に落ちていた。
「……!」
呼吸が止まる。受け身を取る暇もなかったため、ストレートに衝撃がきた。胸が詰まり、頭に鈍痛が響く。
仰向けになったルイフォンの喉元で、チャオラウの刀身が光る。
小さな痛みが走り、ルイフォンは軽く斬られたのを感じた。
「……参りました」
「まだまだ甘いですが、今のはよかったですよ」
わずかに唇を歪めるだけ。けれどチャオラウにしては珍しく、感心したような満足げな笑みだった。
円を描くように腕を回し、チャオラウは刀を鞘に収める。かちん、と鍔鳴りの音。それを合図に稽古は終了した。
チャオラウが膝を付き、ルイフォンを助け起こす。並ぶと頭ひとつ分以上、背の高い相手をルイフォンは見上げた。
「で、なんの用だ?」
「総帥がお呼びです」
「親父が?」
安眠妨害の黒幕を知り、ルイフォンは眉を跳ね上げた。くだらない用件だったら、どう報復してやろうかと策を巡らせ始めたとき、意外な言葉が彼の耳に入ってきた。
「今、門に闖入者が現れましてね」
「ほぅ」
大華王国一の凶賊の屋敷に来るとはまた物好きな、とルイフォンは思った。過去の侵入者たちの末路を思うと、顔も知らないそいつに同情したくもなる。
しかし、次の瞬間。彼は顔色を変えた。
「わざわざ俺を起こしに来たということは、ただの賊じゃない、ってことだな?」
「ご名答」
早々に追い払ったのであれば、ルイフォンが呼ばれることはない。
「どんな奴だ?」
「若い女ですよ。総帥は、お会いになるおつもりなんでしょう」
「は? ……はあぁ?」
ルイフォンは頭を抱えた。
まったく、あの親父殿はいくつになったら女遊びから引退するのだろう。
彼は自分の異母兄姉の正確な人数を知らなかった。自分が末子であるということになっているが、それも怪しい。
凶賊の総帥ともなれば、常に命を狙われているようなものだ。不用意に不審者を屋敷に入れるべきではない。しかし残念ながら、彼の父はそういった常識的な判断力を持ち合わせていないのであった。
「今、ミンウェイ様が対応してらっしゃいます」
チャオラウがそう言うのとほぼ同時に、ルイフォンは尻のポケットから携帯端末を取り出した。素早く数回タップすると、ディスプレイにふたりの若い女の姿が映し出される。
ひとりは総帥を補佐し、一族を切り盛りしている身内のミンウェイ。
そして、もうひとりは……。
ルイフォンは思わず尻上がりの口笛を吹いた。
「これは……親父が通すのも無理ないな」
つややかな黒絹の髪に白磁の肌。淡いピンク色のワンピース姿と相まって、この庭の桜の精が人に化けたのかと見紛うほどの儚げな美少女だった。
「貴族、……か?」
ちょっとした物腰から彼女の品の良さが窺える。
「名前は『藤咲メイシア』だそうです」
「藤咲……」
どこかで聞いたような、聞いていないような名前を反芻しながら、ルイフォンは端末を操作して検索する。貴族の情報なら王宮のシステムに侵入すれば、あっさり手に入るはずだ。――少なくとも表向きのものは。
ルイフォンの目が、すぅっと細くなった。
獲物を見つけた猫のような、好戦的な笑みを浮かべる。
「チャオラウ、親父は執務室だな?」
そう尋ねながらも、ルイフォンはチャオラウの返答を待たずに駆け出していた。
鷹刀ルイフォンは眩しさに目を細め、そう呟いた。
こうして庭先に寝転んでいると、普段なら気づかないような、大地の湿った温かさを感じる。上空を飛ぶ鳥の声に耳を澄ませば、体が大気に溶けていくようだ……。
春の陽気は程よく温かく、満開の桜が時折り恥ずかしそうに花を散らしている。
ルイフォンの柔らかな、しかしやや癖のある前髪にも、花びらがひとひら舞い降りる。――黒髪、そして黒目。この国の民が持つ色合いだ。
不意に、あくびが口を衝いて出た。
腫れぼったい目からは涙が滲む。昼間から寝てしまうのはもったいない気がするが、どうやら限界のようだった。
このまま花に抱かれて、しばらく仮眠を取ることにしよう。
彼はそう考えて、凝り固まった手足と共に、一本に編まれた髪を大きく投げ出した。
髪は、そのままにして寝ると、背中に当たって痛いからである。背の半ばまであり、先端を青い飾り紐で留めていた。そして、その中央には金色の鈴――。
ほどなくして規則的な寝息が漏れてきた。
穏やかな午後の陽射しが、ルイフォンの頬を明るく照らす。
寝顔には、大人になりかけの、どことなくあどけなさの残る十六歳の少年の素顔が垣間見えた。この空間だけを切り取れば、平和でのどかな一枚の絵画のようであった。
風が、静かに流れる……。
と、そのとき――。
ルイフォンは素早く寝返りをうち、体を横にずらした。
そのすぐあとに、地面を打つ鋭い音。
先ほどまで彼が寝転がっていた場所には、一本の短刀が突き刺さっていた。
ルイフォンは飛び起きた。彼の髪もまた、金色の鈴を煌かせて彼の動きに合わせてついてくる。
周囲に神経を張り巡らせる。
見開いた目に力を込める。
姿勢を低くとりながら息を吐き、軽く膝を曲げて次の攻撃に備えた。
前方から、風を斬る鋭い気配――。
凶刃がルイフォンを捕らえる手前で、彼は猫のようにしなやかに、ひらりとよける。銀光が頬をかすめ、背後の桜に突き刺さった。その衝撃に樹枝が揺れ、薄紅色の花が舞う。
桜吹雪の降り注ぐ中、ルイフォンは着地すると同時に身を屈め、地面に突き刺さったままの短刀を引き抜いた。
相手は正面――。
次はどう来るか。
彼は、ごくりと唾を呑む。短刀を握った手に汗がにじむ。滑って落とさぬよう、更に強く握り締める。
再び――風を裂く音を、肌で感じる。
高速で飛来してきた刃を感覚で捕らえ、体に触れる直前に短刀で叩き落す。
痺れるような確かな感触を腕に残し、甲高い音が響く。
――しかし、それは罠であった。
彼が刃に気を取られている隙に、茂みの陰に隠れていた襲撃者が飛び出してきたのだ。
「ルイフォン様、油断しすぎですよ」
笑みを含んだ声が響く。
壮年の大男が、ルイフォンの首筋にぴたりと刀を当てていた。
湾曲した幅広の刀は、まるで死神の鎌のようで、男がもう少し手首を返していればルイフォンの頭は胴体と泣き別れしていただろう。
「チャオラウ、寝込みを襲うのは卑怯だろ?」
ルイフォンは不服そうに睨む。
敵の襲撃……ではない。目の前の大男は、鷹刀一族の護衛役にして、ルイフォンの武術師範でもある草薙チャオラウである。
「今朝の分の稽古ですよ」
「……っ! さぼったのは悪かった。けど……!」
「まぁ、いいですよ。夜遊びしたい日もあるでしょうから」
「今日は夜遊びじゃない!」
しかし、ルイフォンの抗議は鮮やかに無視された。
「この体勢から切り返せますか?」
楽しげに尋ねるチャオラウに、ルイフォンは短刀を捨てて両手を上げた。
「お前相手に、無理」
「情けないですね」
「寝不足でふらふらだから勘弁してくれ」
泣き言を言うルイフォンに、チャオラウはやれやれ、といった体で刀を引いた。――しかし、それこそがルイフォンの狙いだった。
チャオラウが見せた一瞬の油断。それを確実に捉え、ルイフォンは鋭く足を蹴り上げる。
狙うは、鳩尾。
捕らえた! と、肉の衝撃を期待した瞬間、彼の右足は標的を失った。
「なっ……?」
チャオラウは、すっと片足を下げ、軽く半身で受け流していた。ルイフォンが踏み込む際、わずかに体が沈んだのを見逃さなかったのである。
チャオラウは、下げた足を戻しながら、そのまま流れるような動作でルイフォンの軸足を薙ぎ払う。
次の瞬間、ルイフォンは背中から地面に落ちていた。
「……!」
呼吸が止まる。受け身を取る暇もなかったため、ストレートに衝撃がきた。胸が詰まり、頭に鈍痛が響く。
仰向けになったルイフォンの喉元で、チャオラウの刀身が光る。
小さな痛みが走り、ルイフォンは軽く斬られたのを感じた。
「……参りました」
「まだまだ甘いですが、今のはよかったですよ」
わずかに唇を歪めるだけ。けれどチャオラウにしては珍しく、感心したような満足げな笑みだった。
円を描くように腕を回し、チャオラウは刀を鞘に収める。かちん、と鍔鳴りの音。それを合図に稽古は終了した。
チャオラウが膝を付き、ルイフォンを助け起こす。並ぶと頭ひとつ分以上、背の高い相手をルイフォンは見上げた。
「で、なんの用だ?」
「総帥がお呼びです」
「親父が?」
安眠妨害の黒幕を知り、ルイフォンは眉を跳ね上げた。くだらない用件だったら、どう報復してやろうかと策を巡らせ始めたとき、意外な言葉が彼の耳に入ってきた。
「今、門に闖入者が現れましてね」
「ほぅ」
大華王国一の凶賊の屋敷に来るとはまた物好きな、とルイフォンは思った。過去の侵入者たちの末路を思うと、顔も知らないそいつに同情したくもなる。
しかし、次の瞬間。彼は顔色を変えた。
「わざわざ俺を起こしに来たということは、ただの賊じゃない、ってことだな?」
「ご名答」
早々に追い払ったのであれば、ルイフォンが呼ばれることはない。
「どんな奴だ?」
「若い女ですよ。総帥は、お会いになるおつもりなんでしょう」
「は? ……はあぁ?」
ルイフォンは頭を抱えた。
まったく、あの親父殿はいくつになったら女遊びから引退するのだろう。
彼は自分の異母兄姉の正確な人数を知らなかった。自分が末子であるということになっているが、それも怪しい。
凶賊の総帥ともなれば、常に命を狙われているようなものだ。不用意に不審者を屋敷に入れるべきではない。しかし残念ながら、彼の父はそういった常識的な判断力を持ち合わせていないのであった。
「今、ミンウェイ様が対応してらっしゃいます」
チャオラウがそう言うのとほぼ同時に、ルイフォンは尻のポケットから携帯端末を取り出した。素早く数回タップすると、ディスプレイにふたりの若い女の姿が映し出される。
ひとりは総帥を補佐し、一族を切り盛りしている身内のミンウェイ。
そして、もうひとりは……。
ルイフォンは思わず尻上がりの口笛を吹いた。
「これは……親父が通すのも無理ないな」
つややかな黒絹の髪に白磁の肌。淡いピンク色のワンピース姿と相まって、この庭の桜の精が人に化けたのかと見紛うほどの儚げな美少女だった。
「貴族、……か?」
ちょっとした物腰から彼女の品の良さが窺える。
「名前は『藤咲メイシア』だそうです」
「藤咲……」
どこかで聞いたような、聞いていないような名前を反芻しながら、ルイフォンは端末を操作して検索する。貴族の情報なら王宮のシステムに侵入すれば、あっさり手に入るはずだ。――少なくとも表向きのものは。
ルイフォンの目が、すぅっと細くなった。
獲物を見つけた猫のような、好戦的な笑みを浮かべる。
「チャオラウ、親父は執務室だな?」
そう尋ねながらも、ルイフォンはチャオラウの返答を待たずに駆け出していた。