残酷な描写あり
1.舞い込んできた小鳥-2
『お父様と異母弟さんを助けたいのなら、それしかないと思うわ』
藤咲メイシアの耳をねっとりとした女の声が蹂躙したのは、ほんの数時間前のことだ。脳裏に毒々しい紅い唇の動きが、鮮明に焼き付いている。
そんな口車に乗るなんて愚かなことだ、と彼女は思った。
それなのに。
気づいたら、ハンドバッグひとつだけで家を飛び出していた。
メイシアは今、重圧感を持ってそびえ立つ、高い外壁を見上げている。
硬い煉瓦の質感は天まで続くかのようで、ちっぽけな彼女は押しつぶされてしまいそうな錯覚を覚えた。
思わず体を縮こめた彼女の視界の上端を、黒い影が横切る。無意識に目で追うと、抜けるような青空の中を一羽の鳥が飛んでいた。
空の住人は、力強く羽ばたき、遙か天空を舞う。
悠然と、自由に。
これから鳥籠に入ろうとするメイシアを嘲笑うかのように。
この壁は籠の中と外を分ける檻だ。
メイシアの瞳に涙が盛り上がり、こぼれ落ちそうになる。彼女は慌てて金刺繍のハンカチで目元を抑えた。大人びて見えるように、と施した化粧が崩れしまってはいけない。
メイシアの心とは裏腹に、爽やかな春風が彼女の長い黒髪を揺らし、背中を押した。どこからともなく運ばれてきた桜の花びらが、彼女の前に薄紅色の道を作った。
そして、その先には鉄格子の門。
彼女はいつも身につけているお守りのペンダントを握りしめ、硬く目を瞑った。
藁にもすがる思いで、祈りを捧げる。
ゆっくりと開いた瞳に、彼女は三人の黒服の男を映した。鋭い目つきで門を守るように立っている。警護の者であろう。皆が皆、小山のような巨躯を誇り、腕の太さなどは彼女の三倍くらいある。
彼らはメイシアの存在なんてとっくに気がついていて、ちらちらと無遠慮な視線を投げつけてきていた。まだほんの少しだけ彼我の距離があるために、威嚇にとどめているだけにすぎない。
メイシアは震える足に力を込め、男たちの元へと歩を進めた。
「なんの用だ?」
男のひとり――頬に大きな刀傷のある大男が大きく一歩、緩やかに前に出た。わずかに腰を落とし、構えをとる。射抜くかのような眼光がメイシアを捕らえた。
「ここが、鷹刀一族の総帥の屋敷と知ってのことか? この大華王国一の凶賊、鷹刀イーレオ様の屋敷と、な!」
目にもとまらぬ速さで男が刀を抜いた。銀色の鋭い切先が眼前で煌めき、メイシアは死の到来を覚悟した。
……しかし『その瞬間』は訪れなかった。
輝く刃紋はメイシアの眉間わずか数センチのところでぴたりと止まり、メイシアの命をこの世に留めていた。
「ふん……。あいにく鷹刀はカタギに手を出すような下衆ではないんでな」
ちん、と鍔鳴りの音をたてて男が刀を鞘に収める。
全身から力が抜け、操者を失った操り人形のように、メイシアはその場にへたり込んだ。
――これが、凶賊。
暴力的な手段によって勢力を誇る集団。彼らのことを、この大華王国では凶賊と呼ぶ。
男たちはメイシアに蔑みの眼差しを向けていた。
「これに懲りたら家に帰りな」
刀傷の男が吐き捨て、持ち場に戻るべく踵を返す。
「ま、待ってください……!」
かすれる声とありったけの勇気を振り絞って、メイシアは叫んだ。いまだ笑いが止まらない膝を押さえつけ、どうにか立ち上がる。
「私は、藤咲メイシアと申します」
最後まで声が震えぬよう、努めてはっきりと告げる。
「鷹刀イーレオ様にお話がありまして、参りました。お取り次ぎをお願いいたします」
刹那、男たちの顔色が変わった。
「イーレオ様にお会いしたい、だと?」
「はい、お願いいたします」
深々と頭を垂れるメイシアに、刀傷の男が低い声を落とした。
「嬢ちゃん、俺たちの仕事はな、イーレオ様のお許しのない者をこの門に近づけないことなんだよ」
「お願いします! どうしても、……どうしても、イーレオ様のお力が必要なのです!」
「つまみ出せ」
その号と共に、彼の背後に控えていた男たちがにじり寄り、メイシアの腕を乱暴に捻り上げた。これまでの十八年の生の中で、一度も受けたこともない痛みと恐怖が、彼女を襲う。
「きゃあああ……!」
メイシアの悲痛な叫びが木霊した、そのときだった。
「おやめなさい!」
凛とした女の声が響いた。
はっと、振り向いた男たちの視線の先には、ひとりの美女が立っていた。
彼女は屋敷から続く長い石畳の上を、音もなく滑るようにやってきた。すらりと背が高く、颯爽と足を運ぶたびに緩やかに波打つ長い髪が豪奢に揺れる。
年の頃は二十代半ばくらいだろうか。すっとひかれた眉に切れ長の目。高い鼻梁。彼女の身を包む、チャイナドレスを思わせる衣服の陰影からは、スタイルのよさが窺えた。太腿まである深いスリットから覗く脚線美が眩しい。
「ミンウェイ様……!」
「モニタ監視室から連絡がありました。何やら門のあたりで不穏な動きがあると」
「ははぁ! お騒がせして申し訳ございせん。この者がイーレオ様に会わせろとのたまいまして……」
「ええ、だいたいのところは把握しています。お役目ご苦労様でしたね」
畏まる男たちにミンウェイは笑みをこぼした。そして続けた。
「彼女を連れてくるように言付かっています。手を離してあげてください」
「……は?」
男たちは戸惑いから、暫くの間、半開きの口を隠せないでいた。だが、ミンウェイの急かすような視線に気づくと、すぐに「ははっ」と、拘束を解いた。
ミンウェイが音もなく寄ってきて、メイシアの両手を取る。その手首には、男の指の跡が赤く、くっきりと残っていた。
「身内の無礼をお許しください」
ミンウェイはメイシアの手首を優しくさすり、深々と頭を下げた。ミンウェイの手からは働く者の硬さが感じれ、髪からは干した草のような柔らかな香りが漂った。
「ご案内いたします」
そう言ったあとで、ミンウェイは刀傷の男に視線を投げた。その意図を察し、彼は一歩メイシアに近づき、目礼をする。
「お荷物をお預かりいたします」
「いえ、お気遣いは……」
言いかけて、メイシアは男の眼光に気づいた。ベルボーイに荷物を預けるのとまったく意味が違う。これは不審物を持ち込ませないための措置だ。
自分の勘違いを恥じつつ、彼女は黙って男にハンドバッグを渡した。
藤咲メイシアの耳をねっとりとした女の声が蹂躙したのは、ほんの数時間前のことだ。脳裏に毒々しい紅い唇の動きが、鮮明に焼き付いている。
そんな口車に乗るなんて愚かなことだ、と彼女は思った。
それなのに。
気づいたら、ハンドバッグひとつだけで家を飛び出していた。
メイシアは今、重圧感を持ってそびえ立つ、高い外壁を見上げている。
硬い煉瓦の質感は天まで続くかのようで、ちっぽけな彼女は押しつぶされてしまいそうな錯覚を覚えた。
思わず体を縮こめた彼女の視界の上端を、黒い影が横切る。無意識に目で追うと、抜けるような青空の中を一羽の鳥が飛んでいた。
空の住人は、力強く羽ばたき、遙か天空を舞う。
悠然と、自由に。
これから鳥籠に入ろうとするメイシアを嘲笑うかのように。
この壁は籠の中と外を分ける檻だ。
メイシアの瞳に涙が盛り上がり、こぼれ落ちそうになる。彼女は慌てて金刺繍のハンカチで目元を抑えた。大人びて見えるように、と施した化粧が崩れしまってはいけない。
メイシアの心とは裏腹に、爽やかな春風が彼女の長い黒髪を揺らし、背中を押した。どこからともなく運ばれてきた桜の花びらが、彼女の前に薄紅色の道を作った。
そして、その先には鉄格子の門。
彼女はいつも身につけているお守りのペンダントを握りしめ、硬く目を瞑った。
藁にもすがる思いで、祈りを捧げる。
ゆっくりと開いた瞳に、彼女は三人の黒服の男を映した。鋭い目つきで門を守るように立っている。警護の者であろう。皆が皆、小山のような巨躯を誇り、腕の太さなどは彼女の三倍くらいある。
彼らはメイシアの存在なんてとっくに気がついていて、ちらちらと無遠慮な視線を投げつけてきていた。まだほんの少しだけ彼我の距離があるために、威嚇にとどめているだけにすぎない。
メイシアは震える足に力を込め、男たちの元へと歩を進めた。
「なんの用だ?」
男のひとり――頬に大きな刀傷のある大男が大きく一歩、緩やかに前に出た。わずかに腰を落とし、構えをとる。射抜くかのような眼光がメイシアを捕らえた。
「ここが、鷹刀一族の総帥の屋敷と知ってのことか? この大華王国一の凶賊、鷹刀イーレオ様の屋敷と、な!」
目にもとまらぬ速さで男が刀を抜いた。銀色の鋭い切先が眼前で煌めき、メイシアは死の到来を覚悟した。
……しかし『その瞬間』は訪れなかった。
輝く刃紋はメイシアの眉間わずか数センチのところでぴたりと止まり、メイシアの命をこの世に留めていた。
「ふん……。あいにく鷹刀はカタギに手を出すような下衆ではないんでな」
ちん、と鍔鳴りの音をたてて男が刀を鞘に収める。
全身から力が抜け、操者を失った操り人形のように、メイシアはその場にへたり込んだ。
――これが、凶賊。
暴力的な手段によって勢力を誇る集団。彼らのことを、この大華王国では凶賊と呼ぶ。
男たちはメイシアに蔑みの眼差しを向けていた。
「これに懲りたら家に帰りな」
刀傷の男が吐き捨て、持ち場に戻るべく踵を返す。
「ま、待ってください……!」
かすれる声とありったけの勇気を振り絞って、メイシアは叫んだ。いまだ笑いが止まらない膝を押さえつけ、どうにか立ち上がる。
「私は、藤咲メイシアと申します」
最後まで声が震えぬよう、努めてはっきりと告げる。
「鷹刀イーレオ様にお話がありまして、参りました。お取り次ぎをお願いいたします」
刹那、男たちの顔色が変わった。
「イーレオ様にお会いしたい、だと?」
「はい、お願いいたします」
深々と頭を垂れるメイシアに、刀傷の男が低い声を落とした。
「嬢ちゃん、俺たちの仕事はな、イーレオ様のお許しのない者をこの門に近づけないことなんだよ」
「お願いします! どうしても、……どうしても、イーレオ様のお力が必要なのです!」
「つまみ出せ」
その号と共に、彼の背後に控えていた男たちがにじり寄り、メイシアの腕を乱暴に捻り上げた。これまでの十八年の生の中で、一度も受けたこともない痛みと恐怖が、彼女を襲う。
「きゃあああ……!」
メイシアの悲痛な叫びが木霊した、そのときだった。
「おやめなさい!」
凛とした女の声が響いた。
はっと、振り向いた男たちの視線の先には、ひとりの美女が立っていた。
彼女は屋敷から続く長い石畳の上を、音もなく滑るようにやってきた。すらりと背が高く、颯爽と足を運ぶたびに緩やかに波打つ長い髪が豪奢に揺れる。
年の頃は二十代半ばくらいだろうか。すっとひかれた眉に切れ長の目。高い鼻梁。彼女の身を包む、チャイナドレスを思わせる衣服の陰影からは、スタイルのよさが窺えた。太腿まである深いスリットから覗く脚線美が眩しい。
「ミンウェイ様……!」
「モニタ監視室から連絡がありました。何やら門のあたりで不穏な動きがあると」
「ははぁ! お騒がせして申し訳ございせん。この者がイーレオ様に会わせろとのたまいまして……」
「ええ、だいたいのところは把握しています。お役目ご苦労様でしたね」
畏まる男たちにミンウェイは笑みをこぼした。そして続けた。
「彼女を連れてくるように言付かっています。手を離してあげてください」
「……は?」
男たちは戸惑いから、暫くの間、半開きの口を隠せないでいた。だが、ミンウェイの急かすような視線に気づくと、すぐに「ははっ」と、拘束を解いた。
ミンウェイが音もなく寄ってきて、メイシアの両手を取る。その手首には、男の指の跡が赤く、くっきりと残っていた。
「身内の無礼をお許しください」
ミンウェイはメイシアの手首を優しくさすり、深々と頭を下げた。ミンウェイの手からは働く者の硬さが感じれ、髪からは干した草のような柔らかな香りが漂った。
「ご案内いたします」
そう言ったあとで、ミンウェイは刀傷の男に視線を投げた。その意図を察し、彼は一歩メイシアに近づき、目礼をする。
「お荷物をお預かりいたします」
「いえ、お気遣いは……」
言いかけて、メイシアは男の眼光に気づいた。ベルボーイに荷物を預けるのとまったく意味が違う。これは不審物を持ち込ませないための措置だ。
自分の勘違いを恥じつつ、彼女は黙って男にハンドバッグを渡した。