残酷な描写あり
2.眠らない夜の絡繰り人形ー1
外灯が闇を緩く照らし、夜桜を白く浮かび上がらせていた。
夜風に吹かれた花びらは、流星のように煌めきながら散っていく。
メイシアはテラスに出て、じっと空を見上げていた。部屋の中にいるよりは、少しでもルイフォンを近くに感じられる気がしたのだ。
彼女は、最後にふたりきりで交わした会話を思い出していた。
「もし、三時間経っても俺から連絡がなかったら、藤咲家として警察隊に通報してくれ」
鋭く研ぎ澄まされたテノールが、メイシアの鼓膜を叩いた。
「……そんな顔をするなよ。大丈夫だ」
ルイフォンの優しい手がメイシアの頭をくしゃりと撫でる。掌の温かさが頭皮をじわりと包み込み、それが体中に広がっていった。
体温が急上昇していくのを止められず、メイシアは真っ赤な頬を両手で覆った。自分でもおかしいと思うのだが、今まで以上に彼のことを意識してしまっている。
「警察隊にお任せできるのなら、ルイフォンが行くことはないのではないですか?」
早鐘を打つ心臓を抑え、できるだけ平静を保ち、メイシアは尋ねた。
今までは、斑目一族や厳月家と繋がっている指揮官が邪魔をしていたので、『斑目一族が父を囚えているという事実はない』と突っぱねられていたが、現在は状況が変わっているはずだった。
しかし、ルイフォンは首を振った。
「警察隊が動き出すより先に、斑目が動く可能性が高い」
斑目一族が『動く』とは、すなわち父の殺害。それよりも早く、ルイフォンは救出しようとしているのだ。
けれど――と、メイシアの瞳が陰る。
ルイフォンは、貧民街で傷だらけになって戦ってくれた。彼が本来、前線で戦う人間ではないことは、彼女にだって理解できる。なのに、その傷も癒えぬうちに、再び行こうとしているのだ……。
「メイシア!」
ややもすれば叱りつけるかのようにも聞こえる声で、ルイフォンが彼女の名を呼んだ。
「俺を信じろ」
そう言って、抜けるような青空の笑顔をこぼす。
彼は猫背を更に曲げて、メイシアの後ろの壁に手をついた。そして、そのまま、彼女の唇に口づけた。
メイシアは、ルイフォンの名残りを探るように、自らの唇を指先で押さえる。
――どうか、無事でいて……。
胸元のペンダントを握りしめ、彼女はそう祈った――。
「班目への『経済制裁』の件、ご苦労だった。迅速な対応に感謝する」
それなりの年齢であるにも関わらず、艶やかな美貌の持ち主――鷹刀イーレオは、執務机に頬杖を付きながら言った。崩した姿勢からは傲慢さではなく、親しみが漂っている。
「鷹刀の情報があってこそ、です。――今後も頼みにしていますよ」
鷹刀一族と手を組んだ警察隊員、緋扇シュアンは、軽く世辞を交えて笑いかけた。
不正の証拠を受け取った彼は、即座に行動した。その結果、斑目一族の資金は既に大部分が凍結され、麻薬や密輸入品は押収されている。
シュアンはそんな報告と、もうひとつの用件のために、現場から鷹刀一族の屋敷に舞い戻ってきたのだった。
「それで、こちらに残していった警察隊員のことなのですが……」
「ふたりの捕虜のうち、巨漢は偽の警察隊員で、若いのは本物の警察隊員――お前の先輩ということだったな」
「ええ。捕らえたからには口を割らせるつもりでしょう? 俺も同席させてもらえませんかね?」
軽い口調で、シュアンは言う。しかし、内心は緊張状態にあった。
先輩は、貴族の令嬢を替え玉と決めつけて発砲した。普段の先輩とは別人のような、あり得ない蛮行だった。
絶対に、何か事情がある。シュアンは、それを知りたい。だから、どうしても同席の許可が欲しかった。
だが、鷹刀一族とは手を組んだとはいえ、わきまえるべき距離がある。それを一歩間違えれば、シュアンなど一瞬のうちに、後ろにいる護衛の刀の錆だろう。
イーレオが、含みのある目を向けてきた。深い海を思わせる眼差しに、シュアンはたじろぎそうになる。
ぎぃ、と椅子が鳴き、イーレオが姿勢を正した。
「……お前は、〈七つの大罪〉という組織を知っているか?」
深く低い声だった。
シュアンは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ええ、俺も裏側の人間ですから、――ある程度は」
その答えには、かなりの誇張があった。
〈七つの大罪〉という組織の存在は広く知られ、恐れられているが、詳しいことは謎に包まれている。何しろ、実在を危ぶむ声さえ上がっているのだ。だからシュアンの知っていることなど、ごく表層のものに過ぎない。
ただ、主に非道な人体実験などを行う『闇の研究組織』とだけ聞いて……。
シュアンは、はっと顔色を変えた。
「まさか……先輩は〈七つの大罪〉に……」
「察しがよくて助かるな。説明が省ける」
「あ、はは……なるほどね」
自分でも何が可笑しいのか分からないが、シュアンの口からは笑いが漏れた。
「――ええ、噂に聞いていますよ。〈七つの大罪〉は、昔、鷹刀と組んでいたが、今は斑目だと」
「俺が総帥になったとき、一方的に縁を切った。気に食わなかったからな」
過去を思い出したのか、イーレオの言葉が少しだけ途切れ、そして続けられた。
「そういうわけだ。――緋扇、お前は帰れ」
「は?」
シュアンは、何を言われたか分からなかった。この流れで、『帰れ』と言われるなど、微塵にも思っていなかったのだ。
徐々に理解が脳に染み込み、それに比例してシュアンの腹の底がぐつぐつと沸き立つ。彼はわざとらしく鼻を鳴らし、三白眼で睥睨した。
「〈七つの大罪〉の名前に、俺が怖気づくとでも? イーレオさん、あんた俺を見くびりすぎだ」
そんなシュアンに、イーレオは何を思ったのか、すっと立ち上がった。ゆっくりとシュアンに近づき、彼の肩にぽん、と手を置く。
隣に立たれると、イーレオは思っていた以上に上背の高い男だった。
――そして、天から声が降る。
「餓鬼が――……自惚れるな」
ぞくり、とした。
抗いがたい恐怖が、シュアンを襲った。気づいたときには、シュアンはイーレオの手を――凶賊の総帥の手を、容赦なく叩き落としていた。
「あ……」
しまった、と思ったときにはもう遅い。シュアンの瞳に、片手をさするイーレオの姿が映る。
全力疾走でもしたかのような汗が、どっと流れてきた。激しい動悸。まともに呼吸ができない。
後ろに控えていた護衛が動いたのが見えた。シュアンの濁った三白眼が見開く。
「や、やめろ……」
狂犬と呼ばれるようになってから、命を惜しいと思ったことはなかった。いつだって刹那に生きてきた。危険とは、シュアンにとって、その先の快感を生み出すための手段でしかなかった。
「俺はまだ……」
まだ、なんだというのだろう。まだ、死にたくない、だろうか。――シュアンは自問した。
自らに問いかけ、そして『否』と答えを出した。
「俺はまだ、何も成しちゃいねぇ! このままじゃ、俺という人間が存在した意味がねぇんだよ!」
シュアンは懐に手を滑らせ、拳銃を握る。
「動くな!」
傍らに立っていたイーレオの心臓に拳銃を突きつけた。
「この距離なら、天井から例の人工知能が俺を撃ち抜くより、俺のほうが速い!」
この執務室に仕掛けられた地獄の番犬〈ベロ〉。奴の攻撃は百発百中だが、今だけは勝算がある。このまま鷹刀イーレオを人質にして、屋敷の外まで出ればいい。シュアンは荒く息をつきながら考えた。
「く、くくく……。面白いな、お前は」
イーレオが喉の奥で笑った。神経を逆なでされ、シュアンの眉が上がる。
「何が可笑しい?」
「お前に俺は撃てない。俺を撃った瞬間に、お前は殺されるんだからな。――お前はまだ、これからやりたいことがあるんだろう? 死んだらできまい」
「……っ!」
「だが、俺の部下が、お前に手を出せないのも確か――」
そう言ったイーレオの体が、重力に身を委ねるかのように、ふらりと後ろに倒れるのをシュアンは感じた。突きつけた銃口から心臓が遠ざかり、力強く押し付けていた銃身が抵抗を失い、シュアンはバランスを崩す。
と、同時に、イーレオは体を捻り、自らも倒れながら、シュアンに足を掛けて引き倒した。
「な……っ!?」
ぼさぼさ頭に載せられていた制帽が、宙を舞う。受け身を取ることも叶わず、シュアンは思い切り床に叩きつけられた。
「――まぁ、俺が捕まったままならば、だがな」
シュアンと共に倒れたはずのイーレオが、いつの間にか立ち上がっており、シュアンの拳銃を握る手を踏みつける。
――言葉はおろか、呼気すら出なかった。
シュアンは呆然と、イーレオの涼やかな顔を見上げる。毛足の長い絨毯が、ちくちくと頬を刺した。それは昼間の〈ベロ〉の殺戮の名残りを物語るかのように、乾いた血で固まっていた。
左手は自由だ。だが、体術で凶賊に敵うべくもない。そういえば、昼間は次期総帥エルファンに、同じように床に転がされたのだ。
万事休すなのか――?
絶望の海に飲まれながら、それでも救いを求め、シュアンの視線があちらこちらへと悪あがきをする。
そんなシュアンに、イーレオが「なぁ、緋扇」と、魅惑の微笑を落とした。
「どうして俺は、こんなに強く美しいのだと思う?」
シュアンは自分の耳を疑った。
「……は?」
やっとのことで出た声は、とても間抜けな響きをしていた。
イーレオは答えを求めていたわけではないようで、シュアンの阿呆面にも構わず、言葉を続ける。
「鷹刀という一族は、濃い血を重ねて合わせて作った、〈七つの大罪〉の最高傑作なんだよ」
「な……んだって……?」
「――と、言ったら信じるか?」
冗談とも本気とも取れる告白――だが、鷹刀イーレオがこの場で言うからには、嘘であるはずもなかった。
シュアンは言葉を返せなかった。
イーレオは静かに、「だから――」と、言を継ぐ。
「鷹刀と〈七つの大罪〉は、互いに利用し合う、ウィン・ウィンの協力関係だった。一族の中には、奴らの技術に夢中になり、自ら望んで、〈悪魔〉と呼ばれる〈七つの大罪〉の研究者になる者もいた」
夜の静寂に、イーレオの声が淡々と流れる。その話は、幻想的な言葉にくるまれ、お伽話めいていた。
「俺は、そんな狂った一族から、俺が本当に大切にしたい者たちを守るために、父を殺し、長兄を殺し、血族のほとんどを殺し……。〈七つの大罪〉の〈神〉に、別れを告げた」
「〈七つの大罪〉の〈神〉……?」
シュアンの呟きにイーレオは答えず、ただ薄く笑う。
「今、斑目の背後にいる〈七つの大罪〉が何を考えているのかは、俺も分からん。だが、これはもう、お前には関係のないことだ。お前と手を組んだのは、凶賊の情報交換に関してだけだからな」
シュアンは――不敵に嗤った。
「ならば、別の取り引きをするまでだ。――先輩に会わせてくれ。そしたら俺の裁量で、先輩がどうなっても鷹刀は無関係ということにしてやる」
「ほぅ? どういうことかな?」
まるで、いたずらの相談でも持ちかけられた子供のように、イーレオの目が楽しげに細まった。
「先輩は表向き、貴族に発砲した罪で、独房に入れられたことになっている。なのに、いなくなっていたら、どうなるか? ――先輩は巨漢と違って正規の警察隊員だ。きっちり事実関係を調べることになるだろう。そして、先輩の姿が最後に確認されたのは、この鷹刀の屋敷だ。鷹刀が疑われるのは、まず間違いない」
「ほほう。お前は、この俺を脅迫するのか」
「そうだな、凶賊の総帥を脅迫するってのも面白い」
シュアンが、ぎらりと狂犬の牙を見せる。
床に転がされた無様な姿。唯一ともいえる特技の、射撃の技倆を支える右手はイーレオに踏みつけられたまま。なのにシュアンは、凶賊の総帥に挑戦的な目を向けた。
「それじゃ、これは脅迫だ。先輩の身柄について、俺の口利きがなければ鷹刀は疑われる。だから、あんたらは俺を殺すことはできない。俺の言いなりになるしかないのさ!」
この場を切り抜け、先輩に会うためだけの、出任せの方便だった。もっともらしいが、実のところ、鷹刀一族が疑われたところで証拠不充分で終わるだろう。
ここにいたのが次期総帥エルファンだったなら、図に乗るなと柳眉を逆立てたに違いない。あるいは、シュアンの猿知恵を鼻で笑い、軽く論破しただろうか。
しかし、シュアンを踏みつけていたのは、イーレオだった。
「いいだろう」
「え……?」
右手に載せられていた重みが、すっと消える。
あまりの呆気なさにシュアンが唖然としている間に、イーレオは執務机の定位置に戻っていた。
「お前のことだから、後悔なんてしないだろう? なら、会ってこい」
相変わらずの頬杖をついた姿勢で、じっとシュアンを見る。含みのある目。深い海を思わせる眼差し。この話を始めたときと、寸分変わらない。シュアンの働いた非礼など、まるでなかったかのようだ。
「それで? 先輩はどこにいるんですか?」
シュアンは内心の動揺を隠し、飛ばされた制帽を拾いながら立ち上がった。
「メイドに案内させる。そこに、ミンウェイがいる」
「え、彼女が?」
それは意外だった。捕虜を吐かせるのなら、屈強な男があたると思っていたのだ。
「本当は、あの子に任せたくないんだが、あの子以上の適任がいなくてな」
「それはどういう……?」
「適任なのは、あの子が薬物――自白剤の扱いに長けているからだ。そして、任せたくない理由は……」
イーレオの目が、ふっと陰る。
「……今、俺たちの前をうろついている〈悪魔〉が〈蝿〉という名前で、〈蝿〉というのは、あの子の父親だからだ」
「え……?」
「言ったろ? 鷹刀と〈七つの大罪〉は密接な繋がりがあったと。一族の中には〈悪魔〉になった者もいると」
「あ、ああ……。それじゃ、その〈蝿〉ってのは、あんたの息子ってわけだ」
「娘婿だ。――だが、俺の甥でもある。奴は俺が総帥位を奪うときに殺した長兄の息子だ」
シュアンは「はぁ」と曖昧に相槌を返した。近親婚は、ややこしい。
「要するに、捕虜の口から父親の話が出るかもしれないから、イーレオさんとしては彼女に任せたくない、と」
「そういうことだ。しかもミンウェイは、プライベートが関わるかもしれないから、と言って助手を拒んだ。ひとりにしてほしい、と」
「……っ?」
シュアンは疑問を口走りそうになり、慌てて口をつぐんだ。
イーレオは、先輩に会ってこいと、シュアンに言った。だが、そこには、プライベートという言葉で、他人を退けたミンウェイがいるという。
本当に行っていいのか。――気にはなるが、下手に尋ねて前言撤回されてもつまらない。
だからシュアンは、代わりに別のことを口にした。
「……そもそもなんで、父と娘が敵対することになったんだ?」
「あの子とヘイシャオ――〈蝿〉の本名だ――は、敵対しているわけではない」
「は?」
「俺が総帥になったときに、ヘイシャオは妻と共に身を隠した。だから俺は、ミンウェイが生まれたことを知らなかった。奴の妻、俺の娘はミンウェイが生まれてすぐに死んだらしいがな」
イーレオの顔がわずかに寂寥を帯びる。それは過去を悔いているように見えたが、正確なところはシュアンには分からない。
「奴がずっと、男手ひとつで、あの子を育てた。……そのことを知ったのは、奴が暗殺者として、あの子を連れて現れたときだ」
予想外に深刻になってきた話に、シュアンはごくりと唾を呑む。
「奴はエルファンに殺され、残されたあの子を俺が引き取った」
「ほぅ……。え? なんだって!?」
「なのに、今ごろになって、どうして、再び奴が湧いて出たのか……」
「なっ……!? 『湧いて出る』って、そいつは殺されたって……!」
「〈悪魔〉の亡霊の相手なんて、祓魔師でも呼んでこないと太刀打ちできんな」
最後のひとことは、イーレオとしては気の利いた冗談のつもりだったのだが、シュアンは聞いてなどいなかった。
「いや、イーレオさん! それは今、出てきた奴か、前に殺された奴の、どっちかが偽者ということだろう!?」
シュアンの唾が飛ぶ。だが、イーレオは、彼の叫びを何処吹く風と聞き流す。
「〈七つの大罪〉というのは、そういうところなのさ」
そう言って、〈七つの大罪〉の最高傑作といわれる美貌に、婉然とした笑みを載せた。
「――行ってこい、緋扇……」
執務室に魅惑の声が響く。
ほんの一瞬だけ間があり、イーレオの瞳に鋭い光が宿った。
「頼んだぞ、――シュアン」
「イーレオ様、あの警察隊員を、たいそう気に入られましたね」
ずっと背後に控えていたイーレオの護衛、チャオラウが無精髭を揺らして苦笑した。
「欲しいね、あの男」
シュアンが退出したあとの扉を、名残惜しげに見やりながら、イーレオが呟く。
「――けど、あれは狂犬だから飼い犬にはならないし、飼い犬になったら俺の興味がなくなるかもしれないな」
イーレオは、人が悪そうな笑みを浮かべる。
言いたい放題の主人に、チャオラウは、やれやれといった体で肩をすくめた。
夜風に吹かれた花びらは、流星のように煌めきながら散っていく。
メイシアはテラスに出て、じっと空を見上げていた。部屋の中にいるよりは、少しでもルイフォンを近くに感じられる気がしたのだ。
彼女は、最後にふたりきりで交わした会話を思い出していた。
「もし、三時間経っても俺から連絡がなかったら、藤咲家として警察隊に通報してくれ」
鋭く研ぎ澄まされたテノールが、メイシアの鼓膜を叩いた。
「……そんな顔をするなよ。大丈夫だ」
ルイフォンの優しい手がメイシアの頭をくしゃりと撫でる。掌の温かさが頭皮をじわりと包み込み、それが体中に広がっていった。
体温が急上昇していくのを止められず、メイシアは真っ赤な頬を両手で覆った。自分でもおかしいと思うのだが、今まで以上に彼のことを意識してしまっている。
「警察隊にお任せできるのなら、ルイフォンが行くことはないのではないですか?」
早鐘を打つ心臓を抑え、できるだけ平静を保ち、メイシアは尋ねた。
今までは、斑目一族や厳月家と繋がっている指揮官が邪魔をしていたので、『斑目一族が父を囚えているという事実はない』と突っぱねられていたが、現在は状況が変わっているはずだった。
しかし、ルイフォンは首を振った。
「警察隊が動き出すより先に、斑目が動く可能性が高い」
斑目一族が『動く』とは、すなわち父の殺害。それよりも早く、ルイフォンは救出しようとしているのだ。
けれど――と、メイシアの瞳が陰る。
ルイフォンは、貧民街で傷だらけになって戦ってくれた。彼が本来、前線で戦う人間ではないことは、彼女にだって理解できる。なのに、その傷も癒えぬうちに、再び行こうとしているのだ……。
「メイシア!」
ややもすれば叱りつけるかのようにも聞こえる声で、ルイフォンが彼女の名を呼んだ。
「俺を信じろ」
そう言って、抜けるような青空の笑顔をこぼす。
彼は猫背を更に曲げて、メイシアの後ろの壁に手をついた。そして、そのまま、彼女の唇に口づけた。
メイシアは、ルイフォンの名残りを探るように、自らの唇を指先で押さえる。
――どうか、無事でいて……。
胸元のペンダントを握りしめ、彼女はそう祈った――。
「班目への『経済制裁』の件、ご苦労だった。迅速な対応に感謝する」
それなりの年齢であるにも関わらず、艶やかな美貌の持ち主――鷹刀イーレオは、執務机に頬杖を付きながら言った。崩した姿勢からは傲慢さではなく、親しみが漂っている。
「鷹刀の情報があってこそ、です。――今後も頼みにしていますよ」
鷹刀一族と手を組んだ警察隊員、緋扇シュアンは、軽く世辞を交えて笑いかけた。
不正の証拠を受け取った彼は、即座に行動した。その結果、斑目一族の資金は既に大部分が凍結され、麻薬や密輸入品は押収されている。
シュアンはそんな報告と、もうひとつの用件のために、現場から鷹刀一族の屋敷に舞い戻ってきたのだった。
「それで、こちらに残していった警察隊員のことなのですが……」
「ふたりの捕虜のうち、巨漢は偽の警察隊員で、若いのは本物の警察隊員――お前の先輩ということだったな」
「ええ。捕らえたからには口を割らせるつもりでしょう? 俺も同席させてもらえませんかね?」
軽い口調で、シュアンは言う。しかし、内心は緊張状態にあった。
先輩は、貴族の令嬢を替え玉と決めつけて発砲した。普段の先輩とは別人のような、あり得ない蛮行だった。
絶対に、何か事情がある。シュアンは、それを知りたい。だから、どうしても同席の許可が欲しかった。
だが、鷹刀一族とは手を組んだとはいえ、わきまえるべき距離がある。それを一歩間違えれば、シュアンなど一瞬のうちに、後ろにいる護衛の刀の錆だろう。
イーレオが、含みのある目を向けてきた。深い海を思わせる眼差しに、シュアンはたじろぎそうになる。
ぎぃ、と椅子が鳴き、イーレオが姿勢を正した。
「……お前は、〈七つの大罪〉という組織を知っているか?」
深く低い声だった。
シュアンは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ええ、俺も裏側の人間ですから、――ある程度は」
その答えには、かなりの誇張があった。
〈七つの大罪〉という組織の存在は広く知られ、恐れられているが、詳しいことは謎に包まれている。何しろ、実在を危ぶむ声さえ上がっているのだ。だからシュアンの知っていることなど、ごく表層のものに過ぎない。
ただ、主に非道な人体実験などを行う『闇の研究組織』とだけ聞いて……。
シュアンは、はっと顔色を変えた。
「まさか……先輩は〈七つの大罪〉に……」
「察しがよくて助かるな。説明が省ける」
「あ、はは……なるほどね」
自分でも何が可笑しいのか分からないが、シュアンの口からは笑いが漏れた。
「――ええ、噂に聞いていますよ。〈七つの大罪〉は、昔、鷹刀と組んでいたが、今は斑目だと」
「俺が総帥になったとき、一方的に縁を切った。気に食わなかったからな」
過去を思い出したのか、イーレオの言葉が少しだけ途切れ、そして続けられた。
「そういうわけだ。――緋扇、お前は帰れ」
「は?」
シュアンは、何を言われたか分からなかった。この流れで、『帰れ』と言われるなど、微塵にも思っていなかったのだ。
徐々に理解が脳に染み込み、それに比例してシュアンの腹の底がぐつぐつと沸き立つ。彼はわざとらしく鼻を鳴らし、三白眼で睥睨した。
「〈七つの大罪〉の名前に、俺が怖気づくとでも? イーレオさん、あんた俺を見くびりすぎだ」
そんなシュアンに、イーレオは何を思ったのか、すっと立ち上がった。ゆっくりとシュアンに近づき、彼の肩にぽん、と手を置く。
隣に立たれると、イーレオは思っていた以上に上背の高い男だった。
――そして、天から声が降る。
「餓鬼が――……自惚れるな」
ぞくり、とした。
抗いがたい恐怖が、シュアンを襲った。気づいたときには、シュアンはイーレオの手を――凶賊の総帥の手を、容赦なく叩き落としていた。
「あ……」
しまった、と思ったときにはもう遅い。シュアンの瞳に、片手をさするイーレオの姿が映る。
全力疾走でもしたかのような汗が、どっと流れてきた。激しい動悸。まともに呼吸ができない。
後ろに控えていた護衛が動いたのが見えた。シュアンの濁った三白眼が見開く。
「や、やめろ……」
狂犬と呼ばれるようになってから、命を惜しいと思ったことはなかった。いつだって刹那に生きてきた。危険とは、シュアンにとって、その先の快感を生み出すための手段でしかなかった。
「俺はまだ……」
まだ、なんだというのだろう。まだ、死にたくない、だろうか。――シュアンは自問した。
自らに問いかけ、そして『否』と答えを出した。
「俺はまだ、何も成しちゃいねぇ! このままじゃ、俺という人間が存在した意味がねぇんだよ!」
シュアンは懐に手を滑らせ、拳銃を握る。
「動くな!」
傍らに立っていたイーレオの心臓に拳銃を突きつけた。
「この距離なら、天井から例の人工知能が俺を撃ち抜くより、俺のほうが速い!」
この執務室に仕掛けられた地獄の番犬〈ベロ〉。奴の攻撃は百発百中だが、今だけは勝算がある。このまま鷹刀イーレオを人質にして、屋敷の外まで出ればいい。シュアンは荒く息をつきながら考えた。
「く、くくく……。面白いな、お前は」
イーレオが喉の奥で笑った。神経を逆なでされ、シュアンの眉が上がる。
「何が可笑しい?」
「お前に俺は撃てない。俺を撃った瞬間に、お前は殺されるんだからな。――お前はまだ、これからやりたいことがあるんだろう? 死んだらできまい」
「……っ!」
「だが、俺の部下が、お前に手を出せないのも確か――」
そう言ったイーレオの体が、重力に身を委ねるかのように、ふらりと後ろに倒れるのをシュアンは感じた。突きつけた銃口から心臓が遠ざかり、力強く押し付けていた銃身が抵抗を失い、シュアンはバランスを崩す。
と、同時に、イーレオは体を捻り、自らも倒れながら、シュアンに足を掛けて引き倒した。
「な……っ!?」
ぼさぼさ頭に載せられていた制帽が、宙を舞う。受け身を取ることも叶わず、シュアンは思い切り床に叩きつけられた。
「――まぁ、俺が捕まったままならば、だがな」
シュアンと共に倒れたはずのイーレオが、いつの間にか立ち上がっており、シュアンの拳銃を握る手を踏みつける。
――言葉はおろか、呼気すら出なかった。
シュアンは呆然と、イーレオの涼やかな顔を見上げる。毛足の長い絨毯が、ちくちくと頬を刺した。それは昼間の〈ベロ〉の殺戮の名残りを物語るかのように、乾いた血で固まっていた。
左手は自由だ。だが、体術で凶賊に敵うべくもない。そういえば、昼間は次期総帥エルファンに、同じように床に転がされたのだ。
万事休すなのか――?
絶望の海に飲まれながら、それでも救いを求め、シュアンの視線があちらこちらへと悪あがきをする。
そんなシュアンに、イーレオが「なぁ、緋扇」と、魅惑の微笑を落とした。
「どうして俺は、こんなに強く美しいのだと思う?」
シュアンは自分の耳を疑った。
「……は?」
やっとのことで出た声は、とても間抜けな響きをしていた。
イーレオは答えを求めていたわけではないようで、シュアンの阿呆面にも構わず、言葉を続ける。
「鷹刀という一族は、濃い血を重ねて合わせて作った、〈七つの大罪〉の最高傑作なんだよ」
「な……んだって……?」
「――と、言ったら信じるか?」
冗談とも本気とも取れる告白――だが、鷹刀イーレオがこの場で言うからには、嘘であるはずもなかった。
シュアンは言葉を返せなかった。
イーレオは静かに、「だから――」と、言を継ぐ。
「鷹刀と〈七つの大罪〉は、互いに利用し合う、ウィン・ウィンの協力関係だった。一族の中には、奴らの技術に夢中になり、自ら望んで、〈悪魔〉と呼ばれる〈七つの大罪〉の研究者になる者もいた」
夜の静寂に、イーレオの声が淡々と流れる。その話は、幻想的な言葉にくるまれ、お伽話めいていた。
「俺は、そんな狂った一族から、俺が本当に大切にしたい者たちを守るために、父を殺し、長兄を殺し、血族のほとんどを殺し……。〈七つの大罪〉の〈神〉に、別れを告げた」
「〈七つの大罪〉の〈神〉……?」
シュアンの呟きにイーレオは答えず、ただ薄く笑う。
「今、斑目の背後にいる〈七つの大罪〉が何を考えているのかは、俺も分からん。だが、これはもう、お前には関係のないことだ。お前と手を組んだのは、凶賊の情報交換に関してだけだからな」
シュアンは――不敵に嗤った。
「ならば、別の取り引きをするまでだ。――先輩に会わせてくれ。そしたら俺の裁量で、先輩がどうなっても鷹刀は無関係ということにしてやる」
「ほぅ? どういうことかな?」
まるで、いたずらの相談でも持ちかけられた子供のように、イーレオの目が楽しげに細まった。
「先輩は表向き、貴族に発砲した罪で、独房に入れられたことになっている。なのに、いなくなっていたら、どうなるか? ――先輩は巨漢と違って正規の警察隊員だ。きっちり事実関係を調べることになるだろう。そして、先輩の姿が最後に確認されたのは、この鷹刀の屋敷だ。鷹刀が疑われるのは、まず間違いない」
「ほほう。お前は、この俺を脅迫するのか」
「そうだな、凶賊の総帥を脅迫するってのも面白い」
シュアンが、ぎらりと狂犬の牙を見せる。
床に転がされた無様な姿。唯一ともいえる特技の、射撃の技倆を支える右手はイーレオに踏みつけられたまま。なのにシュアンは、凶賊の総帥に挑戦的な目を向けた。
「それじゃ、これは脅迫だ。先輩の身柄について、俺の口利きがなければ鷹刀は疑われる。だから、あんたらは俺を殺すことはできない。俺の言いなりになるしかないのさ!」
この場を切り抜け、先輩に会うためだけの、出任せの方便だった。もっともらしいが、実のところ、鷹刀一族が疑われたところで証拠不充分で終わるだろう。
ここにいたのが次期総帥エルファンだったなら、図に乗るなと柳眉を逆立てたに違いない。あるいは、シュアンの猿知恵を鼻で笑い、軽く論破しただろうか。
しかし、シュアンを踏みつけていたのは、イーレオだった。
「いいだろう」
「え……?」
右手に載せられていた重みが、すっと消える。
あまりの呆気なさにシュアンが唖然としている間に、イーレオは執務机の定位置に戻っていた。
「お前のことだから、後悔なんてしないだろう? なら、会ってこい」
相変わらずの頬杖をついた姿勢で、じっとシュアンを見る。含みのある目。深い海を思わせる眼差し。この話を始めたときと、寸分変わらない。シュアンの働いた非礼など、まるでなかったかのようだ。
「それで? 先輩はどこにいるんですか?」
シュアンは内心の動揺を隠し、飛ばされた制帽を拾いながら立ち上がった。
「メイドに案内させる。そこに、ミンウェイがいる」
「え、彼女が?」
それは意外だった。捕虜を吐かせるのなら、屈強な男があたると思っていたのだ。
「本当は、あの子に任せたくないんだが、あの子以上の適任がいなくてな」
「それはどういう……?」
「適任なのは、あの子が薬物――自白剤の扱いに長けているからだ。そして、任せたくない理由は……」
イーレオの目が、ふっと陰る。
「……今、俺たちの前をうろついている〈悪魔〉が〈蝿〉という名前で、〈蝿〉というのは、あの子の父親だからだ」
「え……?」
「言ったろ? 鷹刀と〈七つの大罪〉は密接な繋がりがあったと。一族の中には〈悪魔〉になった者もいると」
「あ、ああ……。それじゃ、その〈蝿〉ってのは、あんたの息子ってわけだ」
「娘婿だ。――だが、俺の甥でもある。奴は俺が総帥位を奪うときに殺した長兄の息子だ」
シュアンは「はぁ」と曖昧に相槌を返した。近親婚は、ややこしい。
「要するに、捕虜の口から父親の話が出るかもしれないから、イーレオさんとしては彼女に任せたくない、と」
「そういうことだ。しかもミンウェイは、プライベートが関わるかもしれないから、と言って助手を拒んだ。ひとりにしてほしい、と」
「……っ?」
シュアンは疑問を口走りそうになり、慌てて口をつぐんだ。
イーレオは、先輩に会ってこいと、シュアンに言った。だが、そこには、プライベートという言葉で、他人を退けたミンウェイがいるという。
本当に行っていいのか。――気にはなるが、下手に尋ねて前言撤回されてもつまらない。
だからシュアンは、代わりに別のことを口にした。
「……そもそもなんで、父と娘が敵対することになったんだ?」
「あの子とヘイシャオ――〈蝿〉の本名だ――は、敵対しているわけではない」
「は?」
「俺が総帥になったときに、ヘイシャオは妻と共に身を隠した。だから俺は、ミンウェイが生まれたことを知らなかった。奴の妻、俺の娘はミンウェイが生まれてすぐに死んだらしいがな」
イーレオの顔がわずかに寂寥を帯びる。それは過去を悔いているように見えたが、正確なところはシュアンには分からない。
「奴がずっと、男手ひとつで、あの子を育てた。……そのことを知ったのは、奴が暗殺者として、あの子を連れて現れたときだ」
予想外に深刻になってきた話に、シュアンはごくりと唾を呑む。
「奴はエルファンに殺され、残されたあの子を俺が引き取った」
「ほぅ……。え? なんだって!?」
「なのに、今ごろになって、どうして、再び奴が湧いて出たのか……」
「なっ……!? 『湧いて出る』って、そいつは殺されたって……!」
「〈悪魔〉の亡霊の相手なんて、祓魔師でも呼んでこないと太刀打ちできんな」
最後のひとことは、イーレオとしては気の利いた冗談のつもりだったのだが、シュアンは聞いてなどいなかった。
「いや、イーレオさん! それは今、出てきた奴か、前に殺された奴の、どっちかが偽者ということだろう!?」
シュアンの唾が飛ぶ。だが、イーレオは、彼の叫びを何処吹く風と聞き流す。
「〈七つの大罪〉というのは、そういうところなのさ」
そう言って、〈七つの大罪〉の最高傑作といわれる美貌に、婉然とした笑みを載せた。
「――行ってこい、緋扇……」
執務室に魅惑の声が響く。
ほんの一瞬だけ間があり、イーレオの瞳に鋭い光が宿った。
「頼んだぞ、――シュアン」
「イーレオ様、あの警察隊員を、たいそう気に入られましたね」
ずっと背後に控えていたイーレオの護衛、チャオラウが無精髭を揺らして苦笑した。
「欲しいね、あの男」
シュアンが退出したあとの扉を、名残惜しげに見やりながら、イーレオが呟く。
「――けど、あれは狂犬だから飼い犬にはならないし、飼い犬になったら俺の興味がなくなるかもしれないな」
イーレオは、人が悪そうな笑みを浮かべる。
言いたい放題の主人に、チャオラウは、やれやれといった体で肩をすくめた。