残酷な描写あり
1.真白き夜明け-1
散りかけた桜の花びらを白く透かし、執務室へと輝く朝日が注ぎ込まれる。昨日よりも一日分だけ多く春の暦を重ねた今日は、一段と緩く穏やかな光をまとっていた。
そんな晴れやかな陽射しの中、ローテーブルを挟んで向かい合う一組の男女がいた。
ふたりとも若くはないが、美男美女の取り合わせとして、申し分ない容貌をしている。しかし、思い思いにソファーに身を投げ出す様は、春の恵みを享受しているというには渋面に覆われ過ぎていた。交わす視線は、無言の愛の睦言などとは程遠い、共謀者のそれ。――すなわち、彼らが逢瀬を楽しんでいるわけではないことを、雄弁に物語っていた。
「今更、〈七つの大罪〉が出てくるとはね……」
シャオリエは組んだ足を組み直しながら呟いた。彼女は、ルイフォンとメイシアを店から送り出して以降の話をイーレオから聞いていたのであるが、それがあまりにも長く複雑だったため、体が強張ってしまっていた。
「もうとっくに瓦解したかと思ったのに。いったい誰が指揮を取っているのかしら」
彼女のその問いに、イーレオは溜め息で答えるしかなかった。肘掛けに頬杖を付き、落とした視線のまま、秀でた額に皺を寄せる。
押し黙ってしまった彼を見て、シャオリエは自分の口元に指を寄せた。愛用の煙管がないのは口さみしいが、それは言っても仕方がない。
それより、さて。図体ばかりが大きくなったこの男に、どう言ってやるべきなのか。彼女はしばし迷う。
今や総帥を名乗るイーレオだが、彼女にとっては、いまだに庇護の対象であった。
「発端は、貴族の厳月家が、名誉ある役職欲しさにライバルの藤咲家を陥れようと斑目を雇った――と聞いていたけれど、どうも違うわね。無駄な役者が多いわ。……そして、無関係の鷹刀を強引に引きずり込んでいる」
イーレオが目線を上げると、シャオリエのアーモンド型の瞳が、肉食獣のような眼光を放っていた。彼は体を起こし、絶対の信頼と、尊敬と情愛と畏怖までを捧げる彼女に、「つまり――?」と言葉を促した。
「〈蝿〉を名乗る男が、お前を狙っている。初めから、斑目も、厳月家も、警察隊も、すべて奴の駒にすぎない」
嫋やかで儚げな声質を裏切る、鋭く厳しい声が、空気を斬り裂いた。
シャオリエだって、なんでも背負い込みたがるこの男に、更に責任を押し付けるようなことは言いたくない。しかし、すべてがイーレオを絡め取るための罠にしか見えなかった。なのに肝心の彼は、人のよさを利用され、どんどん深みにはまっているように思える。
「勘違いしないで。別に、断言する気はないわ。私の一意見よ」
彼女は軽く腕を組んで、溜め息をついた。
「ただ、今更のように厳月家とメイシアの婚約話なんてものが出てきた以上、〈蝿〉は厳月家という駒で何か仕掛けてくると私は予測するわ。……何を画策しているのかは分からないけれど」
「待ってくれ。それじゃあ、俺を追い込むために藤咲家は利用されたというわけか?」
イーレオが身を乗り出す。
「そういうことね。――冷たいようだけど、お前が気に病む必要はないわ。〈蝿〉は、単に貴族同士の不仲を利用しただけよ。藤咲家には付け入られる隙を見せたという落ち度があるわ」
シャオリエの言い分に、イーレオの眼鏡の奥の瞳が不服を訴えた。しかし、彼女の酷薄にも見える美貌は揺るぐことなく、静かな迫力を持つ声が彼の感情を押し返す。
「すべての責任が自分にあると考えたら、お前は潰れる。お前は組織の『王』なんだから、自分が守るべき範疇を間違えないで」
シャオリエとて、非情になりたいわけではない。けれどすべてを救うことなど無理なのだ。ならば、優しすぎる総帥の負担が少しでも軽くなるよう、悪役でも買って出る。それが彼を総帥に据えた、彼女の義務だと考えていた。
「それよりも気になるのが『〈蝿〉』ね。奴はいったい何者なのか。そして、奴に〈天使〉を与えたのは誰なのか……」
シャオリエは再び足を組み替え、ローテーブルの上の書類に目を落とす。
それは、メイシアの父を救出したときのことをまとめた、ルイフォンの報告書であった。彼が眠る前に記し、執務室に置いていったものだ。
そのとき、執務室の扉が――〈ベロ〉が来訪者を告げた。ただし、それはルイフォンが仕掛けた虹彩認証を通過したというだけの知らせであり、意思があるかのように自在に喋る〈ベロ〉の言葉ではない。
偽の警察隊を大虐殺の憂き目に遭わせた冥府の守護者は、あれ以来、気配を消してしまった。『もう手出ししない』と宣言したように、今まで通りに沈黙を保つつもりらしかった。
「失礼します」
指先に制帽を引っ掛け、軽く会釈したのは、警察隊の緋扇シュアンであった。
中肉中背の体を、気だるそうに動かしながら入ってくる。不健康そのものの肌は青白く、もともと隈の濃かった目が更に落ち窪み、げっそりと頬がこけていた。
意外な相手の登場に、イーレオは「どうした?」と尋ねる。
「辞去のご挨拶です」
荒れた唇に微妙な声色を載せて、シュアンは答えた。
昨晩、ミンウェイが捕虜を自白させるのに同席したシュアンは、彼女と共にその顛末をイーレオに報告し、そのまま一晩、屋敷に滞在した。客間を勧めるミンウェイを断り、自らの手で物言わぬ骸と変えた彼の先輩、ローヤンのそばで時を過ごしたのだった。
「随分と早いな。もう少し、ゆっくりしていって構わないぞ」
イーレオは、シュアンに穏やかな微笑を向ける。
捕虜たちの正体が〈蝿〉の〈影〉と聞き、イーレオは戦慄した。そして、ミンウェイのそばにシュアンがいてくれたことに感謝していた。
「いえ。射撃の自主訓練があるんで」
「ほう。お前が勤勉とは知らなかった」
「一発の弾丸の重さをね、……確かめに行くんですよ」
シュアンはそう言いながら、ぼさぼさ頭を制帽で押さえつけ、目深にかぶった。
「――それより、逢い引きの邪魔をしてしまいましたね。とんだご無礼を」
シュアンは、執務室に入った瞬間にシャオリエの姿を確認したのであるが、謝罪するより先にイーレオに声を掛けられてしまったのである。
「無粋者はこれで失礼しますから。ごゆっくり」
シュアンの経験では、こういう場合は、できるだけ平然とするのが吉である。そして、できれば女とは目を合わさずに、早々に退散するに限るのだ。
急ぐシュアンに、イーレオが苦笑交じりの否定を返そうとしたとき、シャオリエがすっと立ち上がった。
「坊や。年上をからかうと長生きできないわよ」
そんなことを言いながら、彼女はシュアンに近づく。ただ歩いているだけなのに、細い腰のくびれからは艶めかしさが漂う。ふわりと羽織ったストールをなびかせ、白い胸元をちらつかせた。
すぐそばにシャオリエが来ると、シュアンは扇情的な香りに包まれた。小柄な彼女が踵を上げ、彼の頬に触れる。
シュアンは――動けなかった。
色香のせいではない。
恐怖。
以前、イーレオに肩に手を置かれ、『自惚れるな』と言われたときと同様の――。
イーレオが懇意にしている女が、ただの女であるはずがなかった。シュアンは自分の愚かさを認識する。
シャオリエは、小さくて華奢な手をすっと滑らせ、シュアンの制帽を払い落とした。
「人前で、顔を隠すものではないわ」
そう言って、にっこりと笑う。見る者によっては男を蕩かす魔性の微笑みなのだろうが、シュアンにとっては人喰いの魔性にしか見えない。
「お前が『緋扇シュアン』ね。〈影〉を殺した――」
『殺した』という言葉に、シュアンの眉がぴくりと動いた。
「あら? 不満?」
シャオリエがくすくすと笑う。可愛らしい、とすら表現できそうな仕草を見せる彼女を、シュアンはぎょろりとした三白眼で睨みつけた。
「ああ、その顔。いいわね、ゾクゾクするわ」
「……あんたが何者か知らんが、年長者なら初対面の相手に対する礼儀くらい、わきまえているものじゃないのか?」
相手が格上と分かっていても、それで屈するシュアンではない。そんな彼に、シャオリエは嬉しそうに目を細めた。
「シャオリエ、よ。繁華街で娼館を営んでいるわ。よかったら遊びに来て。いい娘がいっぱいいるわよ」
シャオリエはシュアンに名刺を差し出す。完全に馬鹿にされている。
かちんと来たシュアンだが、力を得るために人脈作りを繰り返してきた彼には、名刺を無下に振り払うことはできず――。
「――え? 『シャオリエ』?」
「ええ」
「鷹刀イーレオが総帥位に就くときに、暗躍した……?」
シュアンは鷹刀一族と手を組むにあたり、過去から現在に至るまでの様々な情報を集めた。その中に、イーレオの頭が上がらない唯一の人物として『シャオリエ』の名があった。
しかし、三十年前に二十歳そこそこであった『シャオリエ』は、現在では五十近くになっているはずである。なのに、目の前の女はどう見ても四十手前であった。
「お前、射撃場に行くと言っていたわね。何をするつもりなの?」
不意に、シャオリエが尋ねた。
「自主訓練だと言ったはずだが?」
「どうかしら? ……例えば、リボルバー式の銃の半分に弾を込めて――バンッと……」
シャオリエの手が銃をかたどり、シュアンのこめかみに突きつけられる。
「まさか」
「あらぁ? だって、お前、生きることも死ぬことも自分で選べない、迷子のような顔をしているじゃない?」
「…………」
「時と場合によっては、『死』は何よりも魅力的よ。お前みたいな坊やに、抗えるかしら?」
アーモンド型の瞳の目元が、意味ありげに嗤う。見透かされるような視線に、シュアンはぞくりとした。
恐怖から逃れるかのように、シュアンは屈み、床に落ちた制帽を拾う。
――一晩の間に、一度も揺らがなかったと言えば、それは嘘だ。先輩を撃った現実から、逃れたいと何度も思った。
「……俺は、これから……自分の撃ち砕いた『無限の可能性』を背負って……生きていかなきゃならねぇんだよ……!」
床を向いたまま制帽を握りしめ、シュアンは小さく独りごちる。
次に顔を上げたとき、彼は頭のてっぺんに制帽を載せた。見開いた三白眼が、鋭く光っていた。
「ともかく、これで失礼。上と話をつけてきますから、先輩の身柄をしばらく頼みます」
ソファーに座ったままのイーレオに、シュアンは声を掛ける。そして、そのまま背を向けた。
「ミンウェイを、ありがとね」
扉が閉まる間際、シュアンはそんなシャオリエの声を聞いたような気がした――。
「……まったく。本当に、あなたは何を言い出すか分かりませんね」
やや、すねたようにイーレオがぼやく。シャオリエは「失礼ね」と言いながら、彼の向かいの席に戻った。
気まぐれなシャオリエが、珍しい毛並みのシュアンに興味を持ったのは明らかだった。イーレオは溜め息をつく。
「シャオリエ。あれは狂犬――」
そう言いかけて、彼は「いや」と、否定した。軽く頭を振り、背の中ほどで結わえた髪を揺らす。
「あれは『野犬』だ。手なずけられるものじゃない」
断言されるのは、面白くない。だが、シャオリエが気を悪くすることはなかった。イーレオの言葉の裏が見えたからだ。
「お前も、あの男を欲しいと思っているわけね?」
「否定はしませんよ。けど、彼は野生にいるから美しいのであって、飼い慣らしたら魅力を失うのだと思いますよ」
「確かに、そうねぇ。……残念」
そしてふたりは、どちらからともなく笑い合ったのだった。
小鳥たちのさえずりが聞こえる。ささやきを交わすように、澄んだ鳴き声が追いかけ合い、重なり合っていく。
薄目を開ければ、カーテンの隙間から、まっすぐに降りてくる光の筋が見えた。それは純白に輝くベールとなって、彼の隣で眠る彼女を飾る。――花嫁のように。
彼は、そんな彼女と指先を絡め合い、手を握り合っていた。
――執務室に報告書を置いてきたあと、ルイフォンはベッドに倒れ込んだ。
ずっと、そばについていてくれたメイシアが、心配そうに顔を覗き込んできたのは覚えている。だから、彼女の手を掴み……そのまま眠ってしまったらしい。
大の字に寝転んだ彼が、強引に引き寄せたからだろう。彼女はベッドの端のほうで、横向きになって、こちらを向いていた。
凛と輝く黒曜石の瞳は、今は閉ざされ、隠されている。代わりに、瞼の縁を、くっきりとした睫毛が緩い弓を描いている。その目元からは、普段は感じられない、あどけなさが漂い、無邪気で、無防備だった。
口元に掛かった黒髪のひと房は、なんとも艶かしい。まるで、薔薇色の唇の柔らかさを強調するかのよう。また、そこから漏れ出す吐息は、白いシーツにわずかな湿り気をもたらしていた。かすかでありながら確かなその音が、彼を誘っている。
甘やかな人肌の匂いに、彼は――。
……駄目だろ。
ルイフォンは自分を叱咤する。
彼が不埒なことをしたところで、彼女は怒らない。その自信はある。
けれど、そういう問題じゃない。
この先ずっと、この手を取り続けているために、彼は今日、彼女の父親と話す。
それからだ。
一晩中、彼女を握り続けた手は、既に感覚が鈍くなっていた。けれど、確実に彼女と繋がっているのを感じる。
……単刀直入に言うのでいいんだろうか。
洒落た言葉など柄ではないが、一生に一度のことだから、のちのちメイシアの中で残念な思い出になってしまっては可哀想だ。
ルイフォンは光のベールを見上げ、眉間に皺を寄せた。
そんな晴れやかな陽射しの中、ローテーブルを挟んで向かい合う一組の男女がいた。
ふたりとも若くはないが、美男美女の取り合わせとして、申し分ない容貌をしている。しかし、思い思いにソファーに身を投げ出す様は、春の恵みを享受しているというには渋面に覆われ過ぎていた。交わす視線は、無言の愛の睦言などとは程遠い、共謀者のそれ。――すなわち、彼らが逢瀬を楽しんでいるわけではないことを、雄弁に物語っていた。
「今更、〈七つの大罪〉が出てくるとはね……」
シャオリエは組んだ足を組み直しながら呟いた。彼女は、ルイフォンとメイシアを店から送り出して以降の話をイーレオから聞いていたのであるが、それがあまりにも長く複雑だったため、体が強張ってしまっていた。
「もうとっくに瓦解したかと思ったのに。いったい誰が指揮を取っているのかしら」
彼女のその問いに、イーレオは溜め息で答えるしかなかった。肘掛けに頬杖を付き、落とした視線のまま、秀でた額に皺を寄せる。
押し黙ってしまった彼を見て、シャオリエは自分の口元に指を寄せた。愛用の煙管がないのは口さみしいが、それは言っても仕方がない。
それより、さて。図体ばかりが大きくなったこの男に、どう言ってやるべきなのか。彼女はしばし迷う。
今や総帥を名乗るイーレオだが、彼女にとっては、いまだに庇護の対象であった。
「発端は、貴族の厳月家が、名誉ある役職欲しさにライバルの藤咲家を陥れようと斑目を雇った――と聞いていたけれど、どうも違うわね。無駄な役者が多いわ。……そして、無関係の鷹刀を強引に引きずり込んでいる」
イーレオが目線を上げると、シャオリエのアーモンド型の瞳が、肉食獣のような眼光を放っていた。彼は体を起こし、絶対の信頼と、尊敬と情愛と畏怖までを捧げる彼女に、「つまり――?」と言葉を促した。
「〈蝿〉を名乗る男が、お前を狙っている。初めから、斑目も、厳月家も、警察隊も、すべて奴の駒にすぎない」
嫋やかで儚げな声質を裏切る、鋭く厳しい声が、空気を斬り裂いた。
シャオリエだって、なんでも背負い込みたがるこの男に、更に責任を押し付けるようなことは言いたくない。しかし、すべてがイーレオを絡め取るための罠にしか見えなかった。なのに肝心の彼は、人のよさを利用され、どんどん深みにはまっているように思える。
「勘違いしないで。別に、断言する気はないわ。私の一意見よ」
彼女は軽く腕を組んで、溜め息をついた。
「ただ、今更のように厳月家とメイシアの婚約話なんてものが出てきた以上、〈蝿〉は厳月家という駒で何か仕掛けてくると私は予測するわ。……何を画策しているのかは分からないけれど」
「待ってくれ。それじゃあ、俺を追い込むために藤咲家は利用されたというわけか?」
イーレオが身を乗り出す。
「そういうことね。――冷たいようだけど、お前が気に病む必要はないわ。〈蝿〉は、単に貴族同士の不仲を利用しただけよ。藤咲家には付け入られる隙を見せたという落ち度があるわ」
シャオリエの言い分に、イーレオの眼鏡の奥の瞳が不服を訴えた。しかし、彼女の酷薄にも見える美貌は揺るぐことなく、静かな迫力を持つ声が彼の感情を押し返す。
「すべての責任が自分にあると考えたら、お前は潰れる。お前は組織の『王』なんだから、自分が守るべき範疇を間違えないで」
シャオリエとて、非情になりたいわけではない。けれどすべてを救うことなど無理なのだ。ならば、優しすぎる総帥の負担が少しでも軽くなるよう、悪役でも買って出る。それが彼を総帥に据えた、彼女の義務だと考えていた。
「それよりも気になるのが『〈蝿〉』ね。奴はいったい何者なのか。そして、奴に〈天使〉を与えたのは誰なのか……」
シャオリエは再び足を組み替え、ローテーブルの上の書類に目を落とす。
それは、メイシアの父を救出したときのことをまとめた、ルイフォンの報告書であった。彼が眠る前に記し、執務室に置いていったものだ。
そのとき、執務室の扉が――〈ベロ〉が来訪者を告げた。ただし、それはルイフォンが仕掛けた虹彩認証を通過したというだけの知らせであり、意思があるかのように自在に喋る〈ベロ〉の言葉ではない。
偽の警察隊を大虐殺の憂き目に遭わせた冥府の守護者は、あれ以来、気配を消してしまった。『もう手出ししない』と宣言したように、今まで通りに沈黙を保つつもりらしかった。
「失礼します」
指先に制帽を引っ掛け、軽く会釈したのは、警察隊の緋扇シュアンであった。
中肉中背の体を、気だるそうに動かしながら入ってくる。不健康そのものの肌は青白く、もともと隈の濃かった目が更に落ち窪み、げっそりと頬がこけていた。
意外な相手の登場に、イーレオは「どうした?」と尋ねる。
「辞去のご挨拶です」
荒れた唇に微妙な声色を載せて、シュアンは答えた。
昨晩、ミンウェイが捕虜を自白させるのに同席したシュアンは、彼女と共にその顛末をイーレオに報告し、そのまま一晩、屋敷に滞在した。客間を勧めるミンウェイを断り、自らの手で物言わぬ骸と変えた彼の先輩、ローヤンのそばで時を過ごしたのだった。
「随分と早いな。もう少し、ゆっくりしていって構わないぞ」
イーレオは、シュアンに穏やかな微笑を向ける。
捕虜たちの正体が〈蝿〉の〈影〉と聞き、イーレオは戦慄した。そして、ミンウェイのそばにシュアンがいてくれたことに感謝していた。
「いえ。射撃の自主訓練があるんで」
「ほう。お前が勤勉とは知らなかった」
「一発の弾丸の重さをね、……確かめに行くんですよ」
シュアンはそう言いながら、ぼさぼさ頭を制帽で押さえつけ、目深にかぶった。
「――それより、逢い引きの邪魔をしてしまいましたね。とんだご無礼を」
シュアンは、執務室に入った瞬間にシャオリエの姿を確認したのであるが、謝罪するより先にイーレオに声を掛けられてしまったのである。
「無粋者はこれで失礼しますから。ごゆっくり」
シュアンの経験では、こういう場合は、できるだけ平然とするのが吉である。そして、できれば女とは目を合わさずに、早々に退散するに限るのだ。
急ぐシュアンに、イーレオが苦笑交じりの否定を返そうとしたとき、シャオリエがすっと立ち上がった。
「坊や。年上をからかうと長生きできないわよ」
そんなことを言いながら、彼女はシュアンに近づく。ただ歩いているだけなのに、細い腰のくびれからは艶めかしさが漂う。ふわりと羽織ったストールをなびかせ、白い胸元をちらつかせた。
すぐそばにシャオリエが来ると、シュアンは扇情的な香りに包まれた。小柄な彼女が踵を上げ、彼の頬に触れる。
シュアンは――動けなかった。
色香のせいではない。
恐怖。
以前、イーレオに肩に手を置かれ、『自惚れるな』と言われたときと同様の――。
イーレオが懇意にしている女が、ただの女であるはずがなかった。シュアンは自分の愚かさを認識する。
シャオリエは、小さくて華奢な手をすっと滑らせ、シュアンの制帽を払い落とした。
「人前で、顔を隠すものではないわ」
そう言って、にっこりと笑う。見る者によっては男を蕩かす魔性の微笑みなのだろうが、シュアンにとっては人喰いの魔性にしか見えない。
「お前が『緋扇シュアン』ね。〈影〉を殺した――」
『殺した』という言葉に、シュアンの眉がぴくりと動いた。
「あら? 不満?」
シャオリエがくすくすと笑う。可愛らしい、とすら表現できそうな仕草を見せる彼女を、シュアンはぎょろりとした三白眼で睨みつけた。
「ああ、その顔。いいわね、ゾクゾクするわ」
「……あんたが何者か知らんが、年長者なら初対面の相手に対する礼儀くらい、わきまえているものじゃないのか?」
相手が格上と分かっていても、それで屈するシュアンではない。そんな彼に、シャオリエは嬉しそうに目を細めた。
「シャオリエ、よ。繁華街で娼館を営んでいるわ。よかったら遊びに来て。いい娘がいっぱいいるわよ」
シャオリエはシュアンに名刺を差し出す。完全に馬鹿にされている。
かちんと来たシュアンだが、力を得るために人脈作りを繰り返してきた彼には、名刺を無下に振り払うことはできず――。
「――え? 『シャオリエ』?」
「ええ」
「鷹刀イーレオが総帥位に就くときに、暗躍した……?」
シュアンは鷹刀一族と手を組むにあたり、過去から現在に至るまでの様々な情報を集めた。その中に、イーレオの頭が上がらない唯一の人物として『シャオリエ』の名があった。
しかし、三十年前に二十歳そこそこであった『シャオリエ』は、現在では五十近くになっているはずである。なのに、目の前の女はどう見ても四十手前であった。
「お前、射撃場に行くと言っていたわね。何をするつもりなの?」
不意に、シャオリエが尋ねた。
「自主訓練だと言ったはずだが?」
「どうかしら? ……例えば、リボルバー式の銃の半分に弾を込めて――バンッと……」
シャオリエの手が銃をかたどり、シュアンのこめかみに突きつけられる。
「まさか」
「あらぁ? だって、お前、生きることも死ぬことも自分で選べない、迷子のような顔をしているじゃない?」
「…………」
「時と場合によっては、『死』は何よりも魅力的よ。お前みたいな坊やに、抗えるかしら?」
アーモンド型の瞳の目元が、意味ありげに嗤う。見透かされるような視線に、シュアンはぞくりとした。
恐怖から逃れるかのように、シュアンは屈み、床に落ちた制帽を拾う。
――一晩の間に、一度も揺らがなかったと言えば、それは嘘だ。先輩を撃った現実から、逃れたいと何度も思った。
「……俺は、これから……自分の撃ち砕いた『無限の可能性』を背負って……生きていかなきゃならねぇんだよ……!」
床を向いたまま制帽を握りしめ、シュアンは小さく独りごちる。
次に顔を上げたとき、彼は頭のてっぺんに制帽を載せた。見開いた三白眼が、鋭く光っていた。
「ともかく、これで失礼。上と話をつけてきますから、先輩の身柄をしばらく頼みます」
ソファーに座ったままのイーレオに、シュアンは声を掛ける。そして、そのまま背を向けた。
「ミンウェイを、ありがとね」
扉が閉まる間際、シュアンはそんなシャオリエの声を聞いたような気がした――。
「……まったく。本当に、あなたは何を言い出すか分かりませんね」
やや、すねたようにイーレオがぼやく。シャオリエは「失礼ね」と言いながら、彼の向かいの席に戻った。
気まぐれなシャオリエが、珍しい毛並みのシュアンに興味を持ったのは明らかだった。イーレオは溜め息をつく。
「シャオリエ。あれは狂犬――」
そう言いかけて、彼は「いや」と、否定した。軽く頭を振り、背の中ほどで結わえた髪を揺らす。
「あれは『野犬』だ。手なずけられるものじゃない」
断言されるのは、面白くない。だが、シャオリエが気を悪くすることはなかった。イーレオの言葉の裏が見えたからだ。
「お前も、あの男を欲しいと思っているわけね?」
「否定はしませんよ。けど、彼は野生にいるから美しいのであって、飼い慣らしたら魅力を失うのだと思いますよ」
「確かに、そうねぇ。……残念」
そしてふたりは、どちらからともなく笑い合ったのだった。
小鳥たちのさえずりが聞こえる。ささやきを交わすように、澄んだ鳴き声が追いかけ合い、重なり合っていく。
薄目を開ければ、カーテンの隙間から、まっすぐに降りてくる光の筋が見えた。それは純白に輝くベールとなって、彼の隣で眠る彼女を飾る。――花嫁のように。
彼は、そんな彼女と指先を絡め合い、手を握り合っていた。
――執務室に報告書を置いてきたあと、ルイフォンはベッドに倒れ込んだ。
ずっと、そばについていてくれたメイシアが、心配そうに顔を覗き込んできたのは覚えている。だから、彼女の手を掴み……そのまま眠ってしまったらしい。
大の字に寝転んだ彼が、強引に引き寄せたからだろう。彼女はベッドの端のほうで、横向きになって、こちらを向いていた。
凛と輝く黒曜石の瞳は、今は閉ざされ、隠されている。代わりに、瞼の縁を、くっきりとした睫毛が緩い弓を描いている。その目元からは、普段は感じられない、あどけなさが漂い、無邪気で、無防備だった。
口元に掛かった黒髪のひと房は、なんとも艶かしい。まるで、薔薇色の唇の柔らかさを強調するかのよう。また、そこから漏れ出す吐息は、白いシーツにわずかな湿り気をもたらしていた。かすかでありながら確かなその音が、彼を誘っている。
甘やかな人肌の匂いに、彼は――。
……駄目だろ。
ルイフォンは自分を叱咤する。
彼が不埒なことをしたところで、彼女は怒らない。その自信はある。
けれど、そういう問題じゃない。
この先ずっと、この手を取り続けているために、彼は今日、彼女の父親と話す。
それからだ。
一晩中、彼女を握り続けた手は、既に感覚が鈍くなっていた。けれど、確実に彼女と繋がっているのを感じる。
……単刀直入に言うのでいいんだろうか。
洒落た言葉など柄ではないが、一生に一度のことだから、のちのちメイシアの中で残念な思い出になってしまっては可哀想だ。
ルイフォンは光のベールを見上げ、眉間に皺を寄せた。