残酷な描写あり
1.真白き夜明け-2
ふわりとした温かな気配を感じ、ハオリュウは目を覚ました。
瞳を開けて、彼は硬直する。
鼻先に触れんばかりの位置に、緋色の衣服に包まれた豊かな双丘が迫っていた。あたりには干した草の香が漂い、波打つ黒髪がハオリュウの頬を撫でる。
「あ、すみません。起こしてしまいましたか」
優しげで、けれど申し訳なさそうな声が、頭上から落ちてきた。見上げれば、絶世の美女が彼に微笑みかけている。
「ミンウェイさん……」
椅子に座ったまま眠り込んでしまった彼に、彼女が毛布を掛けてくれた、ということらしい。分かってしまえば、なんのこともない話である。
しかし――、なんとも……強烈な目覚めであった。
彼は、白い陽射しの窓へと顔をそらし、心を落ち着ける。
……彼女が無防備なのは、彼に対する警戒心が皆無であるという証拠に他ならない。彼が彼女に寄せる感情は憧憬、あるいは思慕、敬慕の類であって、恋慕ではないのは分かっている。だからといって、妙齢の女性に半人前の扱いを受けるのは承服いたしかねた。
ハオリュウの顔が、渋面を作る。
「きちんとベッドでお休みになられたほうがいいですよ。お父様には私がついていますから」
彼の心の内は理解してくれないようであったが、彼女が彼を気遣ってくれているのは伝わってくる。
父、コウレンがこの屋敷に到着してから、彼はずっと椅子でうつらうつらしながら脇に控えていた。確かに疲れていた。しかし、彼は首を横に振った。
「いえ。目を覚ましたときに僕がそばに居たほうが、父も混乱が少ないでしょうから」
ルイフォンの話では、コウレンは斑目一族や厳月家のことを口走り、力関係に怯えていたという。ここが、斑目一族とは別の凶賊の屋敷だと知ったら、恐慌状態に陥るに違いない。善良なだけが取り柄の、庭師のような男なのだ。みっともなく取り乱すかもしれない。
ハオリュウは、これ以上、鷹刀一族の人々に迷惑をかけたくなかったし、藤咲家の恥を晒したいとも思わなかった。
思わず険しい表情になってしまったハオリュウだが、幸運にも、ミンウェイはちょうどコウレンの顔色を見ようと彼に背を向けたところだった。彼女は医者でもあるそうで、具合いを看てくれているようだった。
「そうですね。起きたら見知らぬ場所にいたのでは、お父様も驚かれますね。差し出がましく、すみませんでした」
彼を振り返り、恐縮したように頭を下げる。そして彼女は「あなたは本当に、お父様思いの優しい方ですね」と微笑んだ。
その瞬間、ハオリュウの心にさざ波が立った。彼女の目には、彼は父親を心配する孝行息子にしか映っていない――。
「そんなんじゃありません。ただ、僕は父を……」
見張っているだけだ、と言いそうになり、ハオリュウはぐっとこらえた。
コウレンは当主としての自覚に欠け、いつも秘書であるハオリュウの伯父に頼ってばかりだ。親族に腰抜け、腑抜けと言われるのも、完全なる誹謗中傷とは言い切れない。
自分がついていないと不安だ。凶賊を前にして、どんな行動を取るか分からない。――そんな言葉を、彼は呑み込んだ。
ふと気づくと、途中で黙り込む形となってしまった彼の顔を、ミンウェイが気づかしげに覗き込んでいた。
「……なんでもありません」
彼は、逃げるように目線をそらす。
――けれど、その間際で、彼女に闇色の瞳を見られてしまった。
「ハオリュウさん?」
ミンウェイが不審の声を上げる。
窓から差し込む光が明るければ明るいほどに、ハオリュウの顔には影が落ちる。不満も運命と受け入れ、ひとりきりで抱え込む。抑圧した感情があふれ出ていた。
早く出ていってくれと、ハオリュウは願った。けれどミンウェイは、何故か溜め息をついた。
ふぅ、という息遣いのあとに、干した草の香りが漂う。横を向いたままの彼からは見えなかったが、うつむき加減になった彼女が、落ちてきた髪を払ったのだ。
「――メイシアが言っていたわ。『お父様がのんびりしている分、異母弟がしっかりしている』って。自己紹介みたいな話題のひとつだったから、特に気にしてなかったけど、あれはそんなに軽い意味じゃなかったのね」
今までとは違う口調。声質は変わらないのに、雰囲気ががらりと変わっている。
「『非捕食者』のあなたが、『捕食者』であろうとしている。……悲しいわ」
「……僕がしっかりしていないと、藤咲家は喰われてしまうんですよ」
毒を含んだ、乾いたハスキーボイス――。
たゆんだ糸なら、どんな言葉も聞き流せただろう。けれど張り詰めた糸であるハオリュウは、載せられた言葉を強く弾き返した。
「そうね。そうかもしれない」
ミンウェイは否定しなかった。さっきまでの彼女だったら、優しい慰めの言葉を掛けてくれたであろうに。
こちらが本当の彼女なのだと、ハオリュウは悟る。落胆している自分自身に、彼は年上の女性に甘えたかっただけ――褒められ、認められたかっただけだという、なんとも情けない本心を暴かれた。
半人前扱いされて当然の、子供だった。
彼が自己嫌悪に奥歯を噛みしめたとき、「でも――」という彼女の声が続く。
「――今は、あなたは鷹刀と手を組んでいるのよ。少しだけ、気を楽にしていいわ」
「……え?」
ハオリュウは耳を疑い、思わず彼女の顔を見上げた。
ミンウェイは、すらりと背を伸ばし、胸を張っていた。けれど、それは自信に満ちあふれた姿とは違う。切れ長の瞳には陰りがあった。
「結局は自分で解決するしかないことでも、誰かがそばに居るだけで冷静さを失わずにすむ。これは大きいわ」
そう言って、彼女は穏やかに笑う。その言葉の裏には、〈蝿〉の〈影〉たちと対峙したとき支えてくれた、シュアンの存在があった。
勿論、ハオリュウはそのことを知らない。ただ、彼女がそっと寄り添ってくれたのだと気づいた。――おそらく彼女もまた、悲しい『捕食者』なのだ、と。
「……ミンウェイさん、聞いてくれますか?」
ためらいがちに、ハオリュウは口を開いた。
ミンウェイは少しだけ驚いたように、目を瞬かせる。けれど、何を、とは聞き返さずに、ただ短く「ええ」とだけ答えた。
「僕は――父とは決して仲がよいわけではありません」
『僕と父』の仲、ではない。『僕』だ。
「父は血統だけで当主になりました。けれど、息子の僕は違うんです。努力しなければ認められない。それを父は理解していない。なのに無邪気に『君がいれば安心だ』と言うんです。嬉しそうに」
ミンウェイは、ハオリュウの話の邪魔にならないように、そっと近くにあった椅子を引き寄せた。コウレンが運び込まれたときに、メイシアが座っていた椅子だ。
彼女は音もなくそれに座り、彼と目線を合わせる。わずかな草の香りだけが、彼の言葉にかぶさった。
「父は本当に、ごくごく普通の人間で――今だって僕は、目覚めた父が取り乱したり、鷹刀一族の人たちに失礼なことを言ったりしないか、恐れています。僕は、まったく父を信用していない」
ハオリュウはそこで、ベッドに横たわるコウレンを見た。いつもなら、きっちり櫛の目が見える髪は、乱れて額に掛かっている。だが呼吸は安定していて、胸元がゆっくり動いていた。
「けれど、ミンウェイさん。……救出されて帰ってきた父を見て、ショックだったのも事実なんです。一気に十も歳を取ったようでした。――腰抜けなら、腰抜けのまま、僕を助けようなんて考えずに、藤咲の家から出なければよかったのにっ……!」
ハオリュウは拳を握りしめた。指に食い込む金の指輪は、父のこともえぐっていたに違いないのだ。
「本当に……父様は……!」
封じ込めていた感情が噴き上げ、濁流となって暴れ出した。やり場のない思いが渦を巻き、身を犯していく。ハオリュウは、それを押さえ込むように口を一文字に結び、うつむいた。
肩を震わせ、漏れ出しそうな声を殺す。さらさらと落ちてきた前髪で、情けない顔を覆い隠す。
理不尽な陰謀、無力な自分――。守りたいものを、守れるだけの力が欲しい。
噛みしめた唇に、痛みが走った。
――どのくらいそうしていたのだろうか。それは長いようにも、短いようにも感じられ、実のところよく分からない。
だが、その間、草の香りが揺れなかったことから、ミンウェイが身じろぎもせずに、そこに居てくれたことが分かる。彼が自分自身で心を鎮めるまで、彼女は黙って待っていてくれたのだ。
気恥ずかしく、ばつが悪い。なんて言葉を放つか、逡巡する。
「――すみません。ありがとうございました」
彼が選んだ言葉は、謝罪と感謝だった。それが一番素直な気持ちだった。
吐き出してしまえば、不思議と心が落ち着いた。ハオリュウは、無意識に怒らせていた肩を下ろす。
ミンウェイは、ただ軽く首を振り、波打つ髪を豪奢に揺らした。
「いいえ。……ありがとう」
そう言って、彼女は長い睫毛を軽く伏せる。
彼女が『ありがとう』と返すのは、ちぐはぐな受け答えなのだが、ハオリュウは自然に受け止めた。心を開いてくれてありがとう。そういうことなのだろう。
窓から注ぎ込む白い陽射しが、ハオリュウの背中を押す。いろいろあったけれども、これでひと段落だ。
ふと、ミンウェイが音もなく立ち上がった。
ハオリュウが後ろ姿を目で追うと、その先にワゴンが置いてあった。ティーセットとサンドイッチの軽食が載せられている。
もともと彼女は、これらを届けに彼を見舞いに来て、彼が寝ていたので毛布を掛け、その結果、起こしてしまった、ということだったらしい。紅茶を淹れる軽やかな音と共に、芳醇な香りが漂う。彼は勧められるままに、紅茶をいただき、サンドイッチを摘んだ。
それほど空腹だったわけではないが、美味いものを口にすると心が安らぐ。ハオリュウは、ほっと息をつき、改めてミンウェイと向き合った。
「鷹刀一族の方々には、本当にお世話になりました」
ハオリュウは深々と頭を下げた。
初めは凶賊というだけで、嫌悪感があった。斑目一族に誘拐されたばかりということもあり、鷹刀一族も凶悪で粗暴な害悪だと決めつけた。だが接していくうちに、ふたつの一族の明白な違いが分かる。藤咲家と厳月家が、互いに貴族といえど、まったく違うのと同じことだった。
「父が目を覚ましたら、実家から車を呼んで帰ります。改めてご挨拶に参りますが、父の状態が不安なのと、何より母が待っているので……。慌ただしくてすみません」
心労のため、母は正気を失った。そのことを父や異母姉に伝えるのは気が重いが、ふたりの無事な姿を見れば、母も快方に向かうに違いない。そう信じる。
ゆっくりとだが、確実に良い方向へと進んでいる。――と、思ったとき、ハオリュウは先送りにした案件について思い出し、顔を曇らせた。
「どうしたの?」
ミンウェイが、心配そうな目を向けてくる。それを見て、そういえば彼女は『あいつ』を可愛がっているのだったな、とハオリュウは思う。
彼は真顔になり、口調を改めた。――ささやかな、いたずら心を持って。
「……ミンウェイさん。これは、愚痴ですよ? 決して文句ではありません」
「はい?」
きょとんとした顔で、彼女が彼を見る。
「あなたの叔父のルイフォンが、僕の姉様に駆け落ちしようと持ちかけたんですよ」
その瞬間、彼女は目を見開き、何かを叫びそうになった口を両手で覆った。美しい顔は上気し、瞳はきらきらと輝いている。
明らかに喜んでいるのに、渋い顔のハオリュウの手前、気持ちを抑えようとしているらしい。けれど、次第に頬が緩んできているので、まったく意味がない。
ハオリュウは、追い打ちをかけるように、沈痛な面持ちを作って続けた。
「しかも、姉様も、その気なんです」
「あら、まぁ……、そうなの?」
ミンウェイの声が上ずっている。
やはりこれは、彼女のお好みの話題だったらしい。ハオリュウは内心でほくそ笑んだ。だが表向きは生真面目な顔のままだ。
「……ミンウェイさん、喜んでいますね。僕としては頭の痛い問題なんですよ」
「あ、いえ……。……ごめんなさい。あなたの立場からすれば飛んでもないことかもしれないけれど、ルイフォンは弟みたいなものだから、やはり純粋に嬉しいわ」
ハオリュウにたしなめられて、年上の美女がしょんぼりする姿は新鮮だった。
少々やりすぎだったかもしれないと反省する彼に、「それで……?」という彼女の遠慮がちの目線が向けられる。切れ長の瞳は、これ以上この話を続けていいものか打診しつつ、その奥にある好奇心を隠しきれていなかった。
「『家事もできない姉様が、いきなり平民の生活なんて無理。実家で特訓したら、祝福して送り出してあげる』と言いました」
ハオリュウは、にっこりと笑う。
「……え?」
にわかには信じられないと、ミンウェイはしばらく表情を止め、やがて緩やかに満面の笑顔を咲かす。軽く開いた口元には、指先が添えられ、その隙間から呟くような声が漏れた。
「あなたは猛反対すると思っていたわ……」
予想通りの反応に、ハオリュウはくすりと笑う。鉄壁の美女のように見えて、実のところミンウェイは素直で純粋だ。そんなことが徐々に分かってくるのも、なんだか嬉しい。
「賛成か、反対かなら、勿論、反対ですよ。身分や立場の問題だけじゃない。出会ったばかりの人間に一生を託す気になるなんて、どうかしている。――けど、姉様自身が彼を選んだんです。そしたら、仕方ないじゃないですか」
ハオリュウはそこで真顔になった。今度は演技ではない、真実の顔だった。
「……祝福しますよ。――ルイフォンは、いい奴です」
「ハオリュウ……」
瞳を潤ませ、「ありがとう」と言ってくるミンウェイに、ハオリュウは困惑する。彼女に礼を言われる筋合いはない。彼は異母姉のために決断しただけだ。
「それに、ルイフォンが少しでも姉様を泣かせるようなら、すぐにでも僕が迎えに行くまでです」
「そんなこと言って、本当にそうなるなんて思っていないのでしょう?」
ミンウェイがくすりと笑う。どうやら、彼女も彼のことを、だいぶ理解したようだった。
――今はまだ眠っている父、コウレン。
目を覚ましたら、速やかに実家に連れて行くつもりではあるが、あのルイフォンのことだ。挨拶をしたい、とか言い出すだろう。
精神状態が不安定というのが気になるが、驚いたとしても反対することはないだろう。何しろ、平民の母を強引に妻に迎えた男なのだ。
「父様。皆、待っています。早く目を覚ましてください」
ハオリュウの呟きは、白い陽射しと共にコウレンへと注がれていった。
瞳を開けて、彼は硬直する。
鼻先に触れんばかりの位置に、緋色の衣服に包まれた豊かな双丘が迫っていた。あたりには干した草の香が漂い、波打つ黒髪がハオリュウの頬を撫でる。
「あ、すみません。起こしてしまいましたか」
優しげで、けれど申し訳なさそうな声が、頭上から落ちてきた。見上げれば、絶世の美女が彼に微笑みかけている。
「ミンウェイさん……」
椅子に座ったまま眠り込んでしまった彼に、彼女が毛布を掛けてくれた、ということらしい。分かってしまえば、なんのこともない話である。
しかし――、なんとも……強烈な目覚めであった。
彼は、白い陽射しの窓へと顔をそらし、心を落ち着ける。
……彼女が無防備なのは、彼に対する警戒心が皆無であるという証拠に他ならない。彼が彼女に寄せる感情は憧憬、あるいは思慕、敬慕の類であって、恋慕ではないのは分かっている。だからといって、妙齢の女性に半人前の扱いを受けるのは承服いたしかねた。
ハオリュウの顔が、渋面を作る。
「きちんとベッドでお休みになられたほうがいいですよ。お父様には私がついていますから」
彼の心の内は理解してくれないようであったが、彼女が彼を気遣ってくれているのは伝わってくる。
父、コウレンがこの屋敷に到着してから、彼はずっと椅子でうつらうつらしながら脇に控えていた。確かに疲れていた。しかし、彼は首を横に振った。
「いえ。目を覚ましたときに僕がそばに居たほうが、父も混乱が少ないでしょうから」
ルイフォンの話では、コウレンは斑目一族や厳月家のことを口走り、力関係に怯えていたという。ここが、斑目一族とは別の凶賊の屋敷だと知ったら、恐慌状態に陥るに違いない。善良なだけが取り柄の、庭師のような男なのだ。みっともなく取り乱すかもしれない。
ハオリュウは、これ以上、鷹刀一族の人々に迷惑をかけたくなかったし、藤咲家の恥を晒したいとも思わなかった。
思わず険しい表情になってしまったハオリュウだが、幸運にも、ミンウェイはちょうどコウレンの顔色を見ようと彼に背を向けたところだった。彼女は医者でもあるそうで、具合いを看てくれているようだった。
「そうですね。起きたら見知らぬ場所にいたのでは、お父様も驚かれますね。差し出がましく、すみませんでした」
彼を振り返り、恐縮したように頭を下げる。そして彼女は「あなたは本当に、お父様思いの優しい方ですね」と微笑んだ。
その瞬間、ハオリュウの心にさざ波が立った。彼女の目には、彼は父親を心配する孝行息子にしか映っていない――。
「そんなんじゃありません。ただ、僕は父を……」
見張っているだけだ、と言いそうになり、ハオリュウはぐっとこらえた。
コウレンは当主としての自覚に欠け、いつも秘書であるハオリュウの伯父に頼ってばかりだ。親族に腰抜け、腑抜けと言われるのも、完全なる誹謗中傷とは言い切れない。
自分がついていないと不安だ。凶賊を前にして、どんな行動を取るか分からない。――そんな言葉を、彼は呑み込んだ。
ふと気づくと、途中で黙り込む形となってしまった彼の顔を、ミンウェイが気づかしげに覗き込んでいた。
「……なんでもありません」
彼は、逃げるように目線をそらす。
――けれど、その間際で、彼女に闇色の瞳を見られてしまった。
「ハオリュウさん?」
ミンウェイが不審の声を上げる。
窓から差し込む光が明るければ明るいほどに、ハオリュウの顔には影が落ちる。不満も運命と受け入れ、ひとりきりで抱え込む。抑圧した感情があふれ出ていた。
早く出ていってくれと、ハオリュウは願った。けれどミンウェイは、何故か溜め息をついた。
ふぅ、という息遣いのあとに、干した草の香りが漂う。横を向いたままの彼からは見えなかったが、うつむき加減になった彼女が、落ちてきた髪を払ったのだ。
「――メイシアが言っていたわ。『お父様がのんびりしている分、異母弟がしっかりしている』って。自己紹介みたいな話題のひとつだったから、特に気にしてなかったけど、あれはそんなに軽い意味じゃなかったのね」
今までとは違う口調。声質は変わらないのに、雰囲気ががらりと変わっている。
「『非捕食者』のあなたが、『捕食者』であろうとしている。……悲しいわ」
「……僕がしっかりしていないと、藤咲家は喰われてしまうんですよ」
毒を含んだ、乾いたハスキーボイス――。
たゆんだ糸なら、どんな言葉も聞き流せただろう。けれど張り詰めた糸であるハオリュウは、載せられた言葉を強く弾き返した。
「そうね。そうかもしれない」
ミンウェイは否定しなかった。さっきまでの彼女だったら、優しい慰めの言葉を掛けてくれたであろうに。
こちらが本当の彼女なのだと、ハオリュウは悟る。落胆している自分自身に、彼は年上の女性に甘えたかっただけ――褒められ、認められたかっただけだという、なんとも情けない本心を暴かれた。
半人前扱いされて当然の、子供だった。
彼が自己嫌悪に奥歯を噛みしめたとき、「でも――」という彼女の声が続く。
「――今は、あなたは鷹刀と手を組んでいるのよ。少しだけ、気を楽にしていいわ」
「……え?」
ハオリュウは耳を疑い、思わず彼女の顔を見上げた。
ミンウェイは、すらりと背を伸ばし、胸を張っていた。けれど、それは自信に満ちあふれた姿とは違う。切れ長の瞳には陰りがあった。
「結局は自分で解決するしかないことでも、誰かがそばに居るだけで冷静さを失わずにすむ。これは大きいわ」
そう言って、彼女は穏やかに笑う。その言葉の裏には、〈蝿〉の〈影〉たちと対峙したとき支えてくれた、シュアンの存在があった。
勿論、ハオリュウはそのことを知らない。ただ、彼女がそっと寄り添ってくれたのだと気づいた。――おそらく彼女もまた、悲しい『捕食者』なのだ、と。
「……ミンウェイさん、聞いてくれますか?」
ためらいがちに、ハオリュウは口を開いた。
ミンウェイは少しだけ驚いたように、目を瞬かせる。けれど、何を、とは聞き返さずに、ただ短く「ええ」とだけ答えた。
「僕は――父とは決して仲がよいわけではありません」
『僕と父』の仲、ではない。『僕』だ。
「父は血統だけで当主になりました。けれど、息子の僕は違うんです。努力しなければ認められない。それを父は理解していない。なのに無邪気に『君がいれば安心だ』と言うんです。嬉しそうに」
ミンウェイは、ハオリュウの話の邪魔にならないように、そっと近くにあった椅子を引き寄せた。コウレンが運び込まれたときに、メイシアが座っていた椅子だ。
彼女は音もなくそれに座り、彼と目線を合わせる。わずかな草の香りだけが、彼の言葉にかぶさった。
「父は本当に、ごくごく普通の人間で――今だって僕は、目覚めた父が取り乱したり、鷹刀一族の人たちに失礼なことを言ったりしないか、恐れています。僕は、まったく父を信用していない」
ハオリュウはそこで、ベッドに横たわるコウレンを見た。いつもなら、きっちり櫛の目が見える髪は、乱れて額に掛かっている。だが呼吸は安定していて、胸元がゆっくり動いていた。
「けれど、ミンウェイさん。……救出されて帰ってきた父を見て、ショックだったのも事実なんです。一気に十も歳を取ったようでした。――腰抜けなら、腰抜けのまま、僕を助けようなんて考えずに、藤咲の家から出なければよかったのにっ……!」
ハオリュウは拳を握りしめた。指に食い込む金の指輪は、父のこともえぐっていたに違いないのだ。
「本当に……父様は……!」
封じ込めていた感情が噴き上げ、濁流となって暴れ出した。やり場のない思いが渦を巻き、身を犯していく。ハオリュウは、それを押さえ込むように口を一文字に結び、うつむいた。
肩を震わせ、漏れ出しそうな声を殺す。さらさらと落ちてきた前髪で、情けない顔を覆い隠す。
理不尽な陰謀、無力な自分――。守りたいものを、守れるだけの力が欲しい。
噛みしめた唇に、痛みが走った。
――どのくらいそうしていたのだろうか。それは長いようにも、短いようにも感じられ、実のところよく分からない。
だが、その間、草の香りが揺れなかったことから、ミンウェイが身じろぎもせずに、そこに居てくれたことが分かる。彼が自分自身で心を鎮めるまで、彼女は黙って待っていてくれたのだ。
気恥ずかしく、ばつが悪い。なんて言葉を放つか、逡巡する。
「――すみません。ありがとうございました」
彼が選んだ言葉は、謝罪と感謝だった。それが一番素直な気持ちだった。
吐き出してしまえば、不思議と心が落ち着いた。ハオリュウは、無意識に怒らせていた肩を下ろす。
ミンウェイは、ただ軽く首を振り、波打つ髪を豪奢に揺らした。
「いいえ。……ありがとう」
そう言って、彼女は長い睫毛を軽く伏せる。
彼女が『ありがとう』と返すのは、ちぐはぐな受け答えなのだが、ハオリュウは自然に受け止めた。心を開いてくれてありがとう。そういうことなのだろう。
窓から注ぎ込む白い陽射しが、ハオリュウの背中を押す。いろいろあったけれども、これでひと段落だ。
ふと、ミンウェイが音もなく立ち上がった。
ハオリュウが後ろ姿を目で追うと、その先にワゴンが置いてあった。ティーセットとサンドイッチの軽食が載せられている。
もともと彼女は、これらを届けに彼を見舞いに来て、彼が寝ていたので毛布を掛け、その結果、起こしてしまった、ということだったらしい。紅茶を淹れる軽やかな音と共に、芳醇な香りが漂う。彼は勧められるままに、紅茶をいただき、サンドイッチを摘んだ。
それほど空腹だったわけではないが、美味いものを口にすると心が安らぐ。ハオリュウは、ほっと息をつき、改めてミンウェイと向き合った。
「鷹刀一族の方々には、本当にお世話になりました」
ハオリュウは深々と頭を下げた。
初めは凶賊というだけで、嫌悪感があった。斑目一族に誘拐されたばかりということもあり、鷹刀一族も凶悪で粗暴な害悪だと決めつけた。だが接していくうちに、ふたつの一族の明白な違いが分かる。藤咲家と厳月家が、互いに貴族といえど、まったく違うのと同じことだった。
「父が目を覚ましたら、実家から車を呼んで帰ります。改めてご挨拶に参りますが、父の状態が不安なのと、何より母が待っているので……。慌ただしくてすみません」
心労のため、母は正気を失った。そのことを父や異母姉に伝えるのは気が重いが、ふたりの無事な姿を見れば、母も快方に向かうに違いない。そう信じる。
ゆっくりとだが、確実に良い方向へと進んでいる。――と、思ったとき、ハオリュウは先送りにした案件について思い出し、顔を曇らせた。
「どうしたの?」
ミンウェイが、心配そうな目を向けてくる。それを見て、そういえば彼女は『あいつ』を可愛がっているのだったな、とハオリュウは思う。
彼は真顔になり、口調を改めた。――ささやかな、いたずら心を持って。
「……ミンウェイさん。これは、愚痴ですよ? 決して文句ではありません」
「はい?」
きょとんとした顔で、彼女が彼を見る。
「あなたの叔父のルイフォンが、僕の姉様に駆け落ちしようと持ちかけたんですよ」
その瞬間、彼女は目を見開き、何かを叫びそうになった口を両手で覆った。美しい顔は上気し、瞳はきらきらと輝いている。
明らかに喜んでいるのに、渋い顔のハオリュウの手前、気持ちを抑えようとしているらしい。けれど、次第に頬が緩んできているので、まったく意味がない。
ハオリュウは、追い打ちをかけるように、沈痛な面持ちを作って続けた。
「しかも、姉様も、その気なんです」
「あら、まぁ……、そうなの?」
ミンウェイの声が上ずっている。
やはりこれは、彼女のお好みの話題だったらしい。ハオリュウは内心でほくそ笑んだ。だが表向きは生真面目な顔のままだ。
「……ミンウェイさん、喜んでいますね。僕としては頭の痛い問題なんですよ」
「あ、いえ……。……ごめんなさい。あなたの立場からすれば飛んでもないことかもしれないけれど、ルイフォンは弟みたいなものだから、やはり純粋に嬉しいわ」
ハオリュウにたしなめられて、年上の美女がしょんぼりする姿は新鮮だった。
少々やりすぎだったかもしれないと反省する彼に、「それで……?」という彼女の遠慮がちの目線が向けられる。切れ長の瞳は、これ以上この話を続けていいものか打診しつつ、その奥にある好奇心を隠しきれていなかった。
「『家事もできない姉様が、いきなり平民の生活なんて無理。実家で特訓したら、祝福して送り出してあげる』と言いました」
ハオリュウは、にっこりと笑う。
「……え?」
にわかには信じられないと、ミンウェイはしばらく表情を止め、やがて緩やかに満面の笑顔を咲かす。軽く開いた口元には、指先が添えられ、その隙間から呟くような声が漏れた。
「あなたは猛反対すると思っていたわ……」
予想通りの反応に、ハオリュウはくすりと笑う。鉄壁の美女のように見えて、実のところミンウェイは素直で純粋だ。そんなことが徐々に分かってくるのも、なんだか嬉しい。
「賛成か、反対かなら、勿論、反対ですよ。身分や立場の問題だけじゃない。出会ったばかりの人間に一生を託す気になるなんて、どうかしている。――けど、姉様自身が彼を選んだんです。そしたら、仕方ないじゃないですか」
ハオリュウはそこで真顔になった。今度は演技ではない、真実の顔だった。
「……祝福しますよ。――ルイフォンは、いい奴です」
「ハオリュウ……」
瞳を潤ませ、「ありがとう」と言ってくるミンウェイに、ハオリュウは困惑する。彼女に礼を言われる筋合いはない。彼は異母姉のために決断しただけだ。
「それに、ルイフォンが少しでも姉様を泣かせるようなら、すぐにでも僕が迎えに行くまでです」
「そんなこと言って、本当にそうなるなんて思っていないのでしょう?」
ミンウェイがくすりと笑う。どうやら、彼女も彼のことを、だいぶ理解したようだった。
――今はまだ眠っている父、コウレン。
目を覚ましたら、速やかに実家に連れて行くつもりではあるが、あのルイフォンのことだ。挨拶をしたい、とか言い出すだろう。
精神状態が不安定というのが気になるが、驚いたとしても反対することはないだろう。何しろ、平民の母を強引に妻に迎えた男なのだ。
「父様。皆、待っています。早く目を覚ましてください」
ハオリュウの呟きは、白い陽射しと共にコウレンへと注がれていった。