残酷な描写あり
2.謎めきのふたつの死-1
仕事部屋でのイーレオ吊し上げの会議から、数日後。
ルイフォンとメイシアは、〈ケル〉の家を訪れていた――。
閑静なたたずまいの郊外の一軒家。
ルイフォンが生まれ育ったその場所は、屋敷というほどには大きくはなく、しかし、ただの家と呼ぶには立派すぎる、そんな塩梅の住居であった。
門扉に仕掛けられた認証は相変わらずで、この家を管理するコンピュータ〈ケル〉が、いつも通りに無言で迎え入れてくれる。
そのまま、すぐにも屋内へと向かおうとするメイシアを誘い、ルイフォンは庭へと回った。鷹刀一族の屋敷にあるものほどの大樹ではないが、こちらにも見事な桜の木があるのだ。
花は終わってしまったが、代わって濃い若葉の香りが、全身を包み込む。
目に鮮やかな新緑と、そこからこぼれ落ちる木漏れ日。彼女と肩を並べて芝を歩けば、陽の光がまるで万華鏡のように、きらきらと形を変えながら輝きを放つ。
「すっかり、季節が変わったな」
ごくごく自然に、彼は自分の指先を彼女の掌の中に滑り込ませ、指を絡めて握りしめた。
「う、うん……」
彼女は、いまだに慌てたように顔を赤らめる。
けれどそのあとに続くのは、芽吹きを思わせるような、伸びやかな笑顔だ。黒曜石の瞳が愛しげに彼を見つめ、彼女の指先もぎゅっと彼を握り返す。
そして、ほんの少し。彼の肩に触れるか触れないかという、とてもわずかな距離であるが、彼に身を任せるように体を寄せた。
「メイシア」
名を呼ぶと、彼女は、ぱっと彼を見上げた。黒絹の髪がさらりと揺れ、艷やかな感触が彼の首筋をかすめる。
彼女が無意識に放つ色香に、彼はどきりとした。
匂い立つような稀有なる佳人。そんな言葉がぴったりくる。
彼は自信家だが、彼女に釣り合っていると思うほど、うぬぼれてはいない。けれど彼女は、彼を信じてついてきてくれる。
――だからこそ、彼女のことは大切にせねばと、改めて思う。
「思わず、お前を連れてきちまったけどさ……。よく考えれば、今回のことは俺がひとりで行けばいい案件だった」
彼女の覚悟を確かめず、ただひとこと『一緒に来てくれ』だけで、タンデムシートに乗せた。彼女の緊張を背中に感じながら、彼はバイクを走らせた。
「ごめんな。……お前は上の部屋で待っていてくれ。俺ひとりで、地下に降りるよ」
メイシアが気にしないように、ルイフォンは努めて柔らかく言う。しかし、彼女は驚いたように目を丸くした。
「どうして? 私が一緒じゃ駄目なの?」
「駄目ってわけじゃないけどさ……」
悲しげな眼差しのメイシアに、ルイフォンは口ごもる。
危険――ではない。
だが、今更かもしれないが、穢れなき彼女を、これ以上、血なまぐさい世界に引きずり込みたくないのだ。
「俺はこれから、母さんが殺されたときの『もうひとりの目撃者』と話をする。――母さんは、首を落とされて死んだ。その映像を……見ることになるかもしれない」
彼の言葉に、彼女は首を振る。
「それでもいい。私も行く。私自身が『ルイフォンのそばに居たい』と思っているから」
彼女は笑顔で答える。彼の心に負担をかけないようにしながら、応えてくれる。
「ルイフォンが居るから、平気なの」
そう言って照れたように、額をこつんと彼の胸に載せた。
ルイフォンの心が、ほわりと温かくなり、彼は彼女を抱きしめる。
「メイシア……。ありがとう」
桜花は流れ、青葉が茂る。
メイシアは、まさに桜の化身だと、ルイフォンは思う。
春風に巻かれ、舞い踊らされていた彼女が、今は薫風を浴びながら、鮮やかに瑞々しく華やいでいる。
「……お母様は〈ケル〉のそばで、その……亡くなられたのよね?」
彼の胸から聞こえる彼女の言葉は、遠慮がちに語尾が揺れていた。
それはルイフォンへの気遣いと――、おそらくは王族への畏敬。もと貴族の彼女は、信仰心とは別に王族への服従めいた感情があるらしい。
彼女自身、自分の中にあるその気持ちに気づいたのだろう。首を振って、言い直す。
「キリファさんは……シルフェン先王陛下に『殺された』のよね……」
ルイフォンは、硬い顔をしているメイシアの髪をくしゃりと撫でた。
「それを……確かめに行こう」
彼女の緊張がわずかに緩み、「はい」という声が凛と響く。
そして、ふたりは歩き始める。
キリファの死の真相を知る『目撃者』――地下にいる〈ケル〉に会いに……。
先日ルイフォンは、〈七つの大罪〉や王族について、いろいろと隠しごとをしていたイーレオを問い詰めた。
その流れの中で、先王は腹心だった甥に殺されたとこと、反逆者である甥は一度は幽閉されたものの、『女王の婚約者』として表舞台に戻ってきたことが語られた。
――如何にもきな臭い、この甥こそが、現在の〈七つの大罪〉を牛耳っている人物に違いない……。
それでお開きになる――と思われた。
そのときだった。
唐突にメイシアが「待ってください」と、慌てたように手を挙げたのだ。おとなしい彼女にしては、珍しいことだった。
皆が驚く中、彼女はおずおずと口を開く。
「殺された先王陛下には、殺されるだけの『罪』があった、ということはございませんか?」
出過ぎた真似をと恥じ入るように、そして先王に対して恐れ多いことをと身を固くしながらも、彼女はきっぱりと言い切った。
一同の注目の視線が、困惑を帯びる。彼女の言わんとしていることを理解できなかったためだ。
メイシアは自分の言葉の足りなさに気づき、顔を赤らめた。恐縮に肩を縮こませ、ペンダントをぎゅっと握りしめる。
「鷹刀から見れば、先王陛下はイーレオ様との話し合いにきちんと応じ、一族を〈七つの大罪〉から解放することを認めた人物です。悪い印象の方ではありません。殺されたとなれば『被害者』と感じるでしょう。けれど……」
そこでメイシアは、曇りなき黒曜石の瞳で、まっすぐにイーレオを捕らえた。
「先王陛下は、甥に対して、殺意を抱かれても仕方ないほどの『罪』を犯していた、というふうには考えられませんか? ――先王陛下は、決して善人ではないのですから。……それは、イーレオ様もご存知でしょう?」
「メイシア?」
常とは違う彼女に、ルイフォンは戸惑う。
メイシアの声は、緊張を帯びながらも澄み渡り、揺らぐことはなかった。
「先に、ルイフォンと相談してから、お尋ねしようと思っていました。……けれど、先王陛下のお話が出たので、今、お訊きしてしまいます。――イーレオ様。なにとぞ、お答えください」
メイシアは一度、言葉を切り、イーレオに喰らいつくような視線を向けた。
「ルイフォンのお母様――キリファさんを死に追いやったのは……シルフェン先王陛下ではありませんか?」
ルイフォンは一瞬、呼吸を忘れた。
頭の中が真っ白になる。
「……イーレオ様のお話からすると、そうとしか考えられないんです」
隣りにいるはずのメイシアの声が、遠くに聞こえた。
ルイフォンは、はっと思い出す。
彼女は、イーレオは〈悪魔〉なのではないかと彼に告げたとき、こうも言っていた。
『イーレオ様のお話を繋ぎ合わせると、キリファさんは〈七つの大罪〉の頂点に立つ〈神〉という人に殺された――そういうことになるの』
〈七つの大罪〉は、王の私設研究機関で、その頂点に立つ〈神〉は、この国の王である。
そして、母が殺された当時の国王は、先王シルフェン――。
普段の彼ならば、すぐに気づいたはずだ。それなのに、記憶の改竄のせいなのか、母の死に関する情報への感覚が、まるで目隠しをされているかのように鈍い。
「親父、本当なのか……!?」
ルイフォンは血相を変えて立ち上がり、イーレオの表情を読み解く。
イーレオは凪いだ目をしていた。その意味を考え、ルイフォンの心臓は早鐘を打つ。
母は〈天使〉だった。しかも、特別に〈猫〉の名まで与えられていた。〈七つの大罪〉の〈神〉であった先王とは面識があったはずだ。
「母さんは、王に殺された……」
どんな事情があったのかは分からない。けれど、充分にあり得る……。
「ルイフォンが陛下のお姿を見たのなら、キリファさんが記憶を改竄したのも納得できます。仇を討てるような相手ではありませんし、それよりもユイランさんに預けた『手紙』にあとを託していたのだと思います。……イーレオ様、どうか教えてください」
遠慮がちでありながらも強い意志を感じるメイシアの細い声が、そう締めくくる。
――そして次の瞬間、ルイフォンは左手にぬくもりを感じた。
「!?」
立ち上がっていた彼の手を、メイシアの両手がそっと包み込んでいた。優しい手つきに、彼は今、自分がどんな顔をしているのかを察する。
「あぁ……」
我を忘れるところだった――。
こんな重要な局面で、冷静さを失っては、自慢の頭の回転も台無しだ。
ルイフォンは目元を和らげ、右手でメイシアの頭を撫でた。それから、何ごともなかったかのように、すとんと着席する。
それを見届けると、イーレオはゆっくりと告げた。
「メイシアの言う通りだ。――キリファは、先王シルフェンに殺された」
深く響く、魅惑の低音。
はっきりとした断定に、ルイフォンの全身が粟立つ。だが彼は、努めて平静を保ち、軽い口調で言い放った。
「さすがメイシアだ。お前は、本当に賢いな」
「ルイフォン……」
彼女の目は、涙目になっていた。こんな大事なことを相談なしに言い出して、申し訳ないと思っているのだろう。
そんなことはないのだ。
まったく、彼女らしくて――愛おしい。
メイシアの髪をくしゃくしゃと撫で回すと、いつもの自分が返ってくる。心が研ぎ澄まされ、思考が鋭く巡り始める。
「つまり、殺されたからといって、先王が『善』で、被害者とは限らない。きな臭いのは甥のほうじゃなくて、先王かもしれない――」
メイシアが、小さく頷いた。
「しかも、母さんが殺されたのは四年前。先王が殺されたのも四年前――母さんが殺された少しあとだ。このふたつの死には、何か関係がありそうだ……」
ふたつの死には、なんの意味があるのか。
必ず真実を突き止め、すべてを明らかにしてやる……!
ルイフォンは好戦的に嗤う。そこへリュイセンが、不機嫌極まりないという顔で口を挟んだ。
「けど、先王の甥が、先王を殺したのなら、やはり奴が現在の〈七つの大罪〉を牛耳っている可能性が高いわけだろう? つまり、〈蝿〉を蘇らせて、鷹刀を襲った『黒幕』ってことだ。甥が胡散臭いことに変わりはない」
兄貴分の強い憤慨に、ルイフォンはややも鼻白む。しかし彼が口を開くよりも前に、メイシアがさっと答えた。
「ええ。そうなります」
そして彼女は、再び遠慮がちにイーレオに尋ねる。
「だからイーレオ様、教えてください。キリファさんは何故、先王陛下に殺されなければならなかったのでしょうか。その理由が分かれば、先王陛下のことが少しは理解できるかと思います」
メイシアの真剣な眼差しが、イーレオを刺す。
それを受けたイーレオは、肩で深い息をついた。
「すまんな」
低く呟く。はらりと顔に掛かった黒髪が、妙にやつれた様相を醸し出し、彼の実年齢を垣間見せる。
「俺は無力で……いまだに何も知らんのだよ」
「なんだって?」
ルイフォンの声が跳ね上がった。続いてメイシアも、焦ったように問う。
「イーレオ様は、詳しい経緯をご存知だったのではないのですか? それなら何故、キリファさんを殺害した相手を知っているのですか? 現場にいたのは、ルイフォンだけだったはずです……!」
「それは……」
ためらうような顔で、イーレオはエルファンに視線を移す。
エルファンは、ぴくりと眉を動かした。だが、感情のようなものを見せたのはそれきりで、麗しの美貌から表情を消し去る。
彼は姿勢を正し、落ち着き払った素振りで長い指を優雅に組み合わせた。そして、美しくも冷たい、氷のような声を落とす。
「あの場にいたのは、ルイフォンだけではない」
「えっ?」
ルイフォンが驚きの声を上げる。
「――〈ケル〉だ。あの家の警護を任されたコンピュータ、あの家のすべてを知る『もの』が、駆けつけた私に教えたのだ……」
ルイフォンとメイシアは、〈ケル〉の家を訪れていた――。
閑静なたたずまいの郊外の一軒家。
ルイフォンが生まれ育ったその場所は、屋敷というほどには大きくはなく、しかし、ただの家と呼ぶには立派すぎる、そんな塩梅の住居であった。
門扉に仕掛けられた認証は相変わらずで、この家を管理するコンピュータ〈ケル〉が、いつも通りに無言で迎え入れてくれる。
そのまま、すぐにも屋内へと向かおうとするメイシアを誘い、ルイフォンは庭へと回った。鷹刀一族の屋敷にあるものほどの大樹ではないが、こちらにも見事な桜の木があるのだ。
花は終わってしまったが、代わって濃い若葉の香りが、全身を包み込む。
目に鮮やかな新緑と、そこからこぼれ落ちる木漏れ日。彼女と肩を並べて芝を歩けば、陽の光がまるで万華鏡のように、きらきらと形を変えながら輝きを放つ。
「すっかり、季節が変わったな」
ごくごく自然に、彼は自分の指先を彼女の掌の中に滑り込ませ、指を絡めて握りしめた。
「う、うん……」
彼女は、いまだに慌てたように顔を赤らめる。
けれどそのあとに続くのは、芽吹きを思わせるような、伸びやかな笑顔だ。黒曜石の瞳が愛しげに彼を見つめ、彼女の指先もぎゅっと彼を握り返す。
そして、ほんの少し。彼の肩に触れるか触れないかという、とてもわずかな距離であるが、彼に身を任せるように体を寄せた。
「メイシア」
名を呼ぶと、彼女は、ぱっと彼を見上げた。黒絹の髪がさらりと揺れ、艷やかな感触が彼の首筋をかすめる。
彼女が無意識に放つ色香に、彼はどきりとした。
匂い立つような稀有なる佳人。そんな言葉がぴったりくる。
彼は自信家だが、彼女に釣り合っていると思うほど、うぬぼれてはいない。けれど彼女は、彼を信じてついてきてくれる。
――だからこそ、彼女のことは大切にせねばと、改めて思う。
「思わず、お前を連れてきちまったけどさ……。よく考えれば、今回のことは俺がひとりで行けばいい案件だった」
彼女の覚悟を確かめず、ただひとこと『一緒に来てくれ』だけで、タンデムシートに乗せた。彼女の緊張を背中に感じながら、彼はバイクを走らせた。
「ごめんな。……お前は上の部屋で待っていてくれ。俺ひとりで、地下に降りるよ」
メイシアが気にしないように、ルイフォンは努めて柔らかく言う。しかし、彼女は驚いたように目を丸くした。
「どうして? 私が一緒じゃ駄目なの?」
「駄目ってわけじゃないけどさ……」
悲しげな眼差しのメイシアに、ルイフォンは口ごもる。
危険――ではない。
だが、今更かもしれないが、穢れなき彼女を、これ以上、血なまぐさい世界に引きずり込みたくないのだ。
「俺はこれから、母さんが殺されたときの『もうひとりの目撃者』と話をする。――母さんは、首を落とされて死んだ。その映像を……見ることになるかもしれない」
彼の言葉に、彼女は首を振る。
「それでもいい。私も行く。私自身が『ルイフォンのそばに居たい』と思っているから」
彼女は笑顔で答える。彼の心に負担をかけないようにしながら、応えてくれる。
「ルイフォンが居るから、平気なの」
そう言って照れたように、額をこつんと彼の胸に載せた。
ルイフォンの心が、ほわりと温かくなり、彼は彼女を抱きしめる。
「メイシア……。ありがとう」
桜花は流れ、青葉が茂る。
メイシアは、まさに桜の化身だと、ルイフォンは思う。
春風に巻かれ、舞い踊らされていた彼女が、今は薫風を浴びながら、鮮やかに瑞々しく華やいでいる。
「……お母様は〈ケル〉のそばで、その……亡くなられたのよね?」
彼の胸から聞こえる彼女の言葉は、遠慮がちに語尾が揺れていた。
それはルイフォンへの気遣いと――、おそらくは王族への畏敬。もと貴族の彼女は、信仰心とは別に王族への服従めいた感情があるらしい。
彼女自身、自分の中にあるその気持ちに気づいたのだろう。首を振って、言い直す。
「キリファさんは……シルフェン先王陛下に『殺された』のよね……」
ルイフォンは、硬い顔をしているメイシアの髪をくしゃりと撫でた。
「それを……確かめに行こう」
彼女の緊張がわずかに緩み、「はい」という声が凛と響く。
そして、ふたりは歩き始める。
キリファの死の真相を知る『目撃者』――地下にいる〈ケル〉に会いに……。
先日ルイフォンは、〈七つの大罪〉や王族について、いろいろと隠しごとをしていたイーレオを問い詰めた。
その流れの中で、先王は腹心だった甥に殺されたとこと、反逆者である甥は一度は幽閉されたものの、『女王の婚約者』として表舞台に戻ってきたことが語られた。
――如何にもきな臭い、この甥こそが、現在の〈七つの大罪〉を牛耳っている人物に違いない……。
それでお開きになる――と思われた。
そのときだった。
唐突にメイシアが「待ってください」と、慌てたように手を挙げたのだ。おとなしい彼女にしては、珍しいことだった。
皆が驚く中、彼女はおずおずと口を開く。
「殺された先王陛下には、殺されるだけの『罪』があった、ということはございませんか?」
出過ぎた真似をと恥じ入るように、そして先王に対して恐れ多いことをと身を固くしながらも、彼女はきっぱりと言い切った。
一同の注目の視線が、困惑を帯びる。彼女の言わんとしていることを理解できなかったためだ。
メイシアは自分の言葉の足りなさに気づき、顔を赤らめた。恐縮に肩を縮こませ、ペンダントをぎゅっと握りしめる。
「鷹刀から見れば、先王陛下はイーレオ様との話し合いにきちんと応じ、一族を〈七つの大罪〉から解放することを認めた人物です。悪い印象の方ではありません。殺されたとなれば『被害者』と感じるでしょう。けれど……」
そこでメイシアは、曇りなき黒曜石の瞳で、まっすぐにイーレオを捕らえた。
「先王陛下は、甥に対して、殺意を抱かれても仕方ないほどの『罪』を犯していた、というふうには考えられませんか? ――先王陛下は、決して善人ではないのですから。……それは、イーレオ様もご存知でしょう?」
「メイシア?」
常とは違う彼女に、ルイフォンは戸惑う。
メイシアの声は、緊張を帯びながらも澄み渡り、揺らぐことはなかった。
「先に、ルイフォンと相談してから、お尋ねしようと思っていました。……けれど、先王陛下のお話が出たので、今、お訊きしてしまいます。――イーレオ様。なにとぞ、お答えください」
メイシアは一度、言葉を切り、イーレオに喰らいつくような視線を向けた。
「ルイフォンのお母様――キリファさんを死に追いやったのは……シルフェン先王陛下ではありませんか?」
ルイフォンは一瞬、呼吸を忘れた。
頭の中が真っ白になる。
「……イーレオ様のお話からすると、そうとしか考えられないんです」
隣りにいるはずのメイシアの声が、遠くに聞こえた。
ルイフォンは、はっと思い出す。
彼女は、イーレオは〈悪魔〉なのではないかと彼に告げたとき、こうも言っていた。
『イーレオ様のお話を繋ぎ合わせると、キリファさんは〈七つの大罪〉の頂点に立つ〈神〉という人に殺された――そういうことになるの』
〈七つの大罪〉は、王の私設研究機関で、その頂点に立つ〈神〉は、この国の王である。
そして、母が殺された当時の国王は、先王シルフェン――。
普段の彼ならば、すぐに気づいたはずだ。それなのに、記憶の改竄のせいなのか、母の死に関する情報への感覚が、まるで目隠しをされているかのように鈍い。
「親父、本当なのか……!?」
ルイフォンは血相を変えて立ち上がり、イーレオの表情を読み解く。
イーレオは凪いだ目をしていた。その意味を考え、ルイフォンの心臓は早鐘を打つ。
母は〈天使〉だった。しかも、特別に〈猫〉の名まで与えられていた。〈七つの大罪〉の〈神〉であった先王とは面識があったはずだ。
「母さんは、王に殺された……」
どんな事情があったのかは分からない。けれど、充分にあり得る……。
「ルイフォンが陛下のお姿を見たのなら、キリファさんが記憶を改竄したのも納得できます。仇を討てるような相手ではありませんし、それよりもユイランさんに預けた『手紙』にあとを託していたのだと思います。……イーレオ様、どうか教えてください」
遠慮がちでありながらも強い意志を感じるメイシアの細い声が、そう締めくくる。
――そして次の瞬間、ルイフォンは左手にぬくもりを感じた。
「!?」
立ち上がっていた彼の手を、メイシアの両手がそっと包み込んでいた。優しい手つきに、彼は今、自分がどんな顔をしているのかを察する。
「あぁ……」
我を忘れるところだった――。
こんな重要な局面で、冷静さを失っては、自慢の頭の回転も台無しだ。
ルイフォンは目元を和らげ、右手でメイシアの頭を撫でた。それから、何ごともなかったかのように、すとんと着席する。
それを見届けると、イーレオはゆっくりと告げた。
「メイシアの言う通りだ。――キリファは、先王シルフェンに殺された」
深く響く、魅惑の低音。
はっきりとした断定に、ルイフォンの全身が粟立つ。だが彼は、努めて平静を保ち、軽い口調で言い放った。
「さすがメイシアだ。お前は、本当に賢いな」
「ルイフォン……」
彼女の目は、涙目になっていた。こんな大事なことを相談なしに言い出して、申し訳ないと思っているのだろう。
そんなことはないのだ。
まったく、彼女らしくて――愛おしい。
メイシアの髪をくしゃくしゃと撫で回すと、いつもの自分が返ってくる。心が研ぎ澄まされ、思考が鋭く巡り始める。
「つまり、殺されたからといって、先王が『善』で、被害者とは限らない。きな臭いのは甥のほうじゃなくて、先王かもしれない――」
メイシアが、小さく頷いた。
「しかも、母さんが殺されたのは四年前。先王が殺されたのも四年前――母さんが殺された少しあとだ。このふたつの死には、何か関係がありそうだ……」
ふたつの死には、なんの意味があるのか。
必ず真実を突き止め、すべてを明らかにしてやる……!
ルイフォンは好戦的に嗤う。そこへリュイセンが、不機嫌極まりないという顔で口を挟んだ。
「けど、先王の甥が、先王を殺したのなら、やはり奴が現在の〈七つの大罪〉を牛耳っている可能性が高いわけだろう? つまり、〈蝿〉を蘇らせて、鷹刀を襲った『黒幕』ってことだ。甥が胡散臭いことに変わりはない」
兄貴分の強い憤慨に、ルイフォンはややも鼻白む。しかし彼が口を開くよりも前に、メイシアがさっと答えた。
「ええ。そうなります」
そして彼女は、再び遠慮がちにイーレオに尋ねる。
「だからイーレオ様、教えてください。キリファさんは何故、先王陛下に殺されなければならなかったのでしょうか。その理由が分かれば、先王陛下のことが少しは理解できるかと思います」
メイシアの真剣な眼差しが、イーレオを刺す。
それを受けたイーレオは、肩で深い息をついた。
「すまんな」
低く呟く。はらりと顔に掛かった黒髪が、妙にやつれた様相を醸し出し、彼の実年齢を垣間見せる。
「俺は無力で……いまだに何も知らんのだよ」
「なんだって?」
ルイフォンの声が跳ね上がった。続いてメイシアも、焦ったように問う。
「イーレオ様は、詳しい経緯をご存知だったのではないのですか? それなら何故、キリファさんを殺害した相手を知っているのですか? 現場にいたのは、ルイフォンだけだったはずです……!」
「それは……」
ためらうような顔で、イーレオはエルファンに視線を移す。
エルファンは、ぴくりと眉を動かした。だが、感情のようなものを見せたのはそれきりで、麗しの美貌から表情を消し去る。
彼は姿勢を正し、落ち着き払った素振りで長い指を優雅に組み合わせた。そして、美しくも冷たい、氷のような声を落とす。
「あの場にいたのは、ルイフォンだけではない」
「えっ?」
ルイフォンが驚きの声を上げる。
「――〈ケル〉だ。あの家の警護を任されたコンピュータ、あの家のすべてを知る『もの』が、駆けつけた私に教えたのだ……」