残酷な描写あり
3.冥府の警護者-4
時を巻き戻そうとでもするかのように、切なげな光がすぅっと反時計回りに流れた。
そして清らかな〈ケル〉の声が、四年前のできごとを紡いでいく――。
王が部屋に到着すると、〈ケル〉は小さな珠から本来の姿へと形を変えた。
それはキリファの要望であったが、〈ケル〉にとっては、最大の処理能力を発揮できるようになった瞬間でもあった。
〈ケル〉は、ずっと迷っていた。
大切な友人であるキリファが、命を懸けて為そうとしていることは正しいのだろうか?
――否。
〈ケル〉が作られたときから、いずれその日が来ることは分かっていた。だから、受け入れようと思った。でも、それは『今』でなくてもいいはずだ――!
決意した〈ケル〉は、即座に〈ベロ〉に連絡をとった。
キリファは、『口うるさいから』と言って〈ベロ〉には何も話していなかったが、一瞬にも満たない時間で、すべての事情は伝わった。最大の処理能力を活かせば、造作もないことだった。
〔〈ベロ〉様、どうか、エルファンに――!〕
キリファはまだ、エルファンに言っていないことがある。
そのままにして、よいわけがない。
〔〈ケル〉、落ち着いて。今、エルファンをそちらに向かわせたけど、どうしても移動に時間が掛かるわ〕
〈ベロ〉にそう言われた瞬間、〈ケル〉はルイフォンを起こすことを思いついた。
息子が乱入してくれば、キリファはためらうかもしれない。ルイフォンを呼んで時間を稼いでもらう。――今から考えれば、他にも手段はあったのかもしれない。けれど、そのときの〈ケル〉は、これしかないと思ったのだ。
「それで、俺が呼ばれたわけだな」
ルイフォンが相槌を打つと、〈ケル〉が頷くように光を揺らした。
〔あの日、あなたはこの姿の私と会っています。おそらく、あなたには理解できなかったと思いますが、私が〈ケル〉であることも告げています。……けれど、あなたは覚えていませんよね?〕
「すまないが、母さんに消されているらしい」
彼がそう言うと、〈ケル〉は頷くように光の波紋を広げた。
現れたルイフォンを見て、キリファはくすりと笑った。
「〈ケル〉、あんたはきっと、最後で耐えられなくなると思っていたわ。だって、あんたは優しいもの」
怒っている様子はなかった。それどころか、「今まで協力してくれてありがとう」とすら、彼女は言った。
「でも、ごめんね。あたしは、あたしのやりたいようにやるわ――」
刹那、キリファの背中が白金に輝き、光の糸が噴き出した。強く弱く、あるいは太く細く、白金の光が紡ぎ出され、瞬く間に〈天使〉の羽を構成していく。
網の目のように広がった羽が、優美に伸ばされ、ルイフォンを包み込んだ。
光の糸の中を、さまざまな情報が複雑に絡み合いながら流れ、行き交うのが〈ケル〉には見えた。王や〈ケル〉に関する記憶の改竄と、この夜のことを深く考えてはいけないという命令が、ルイフォンに刻み込まれていくのが分かった。
「行きなさい、ルイフォン。そして、忘れなさい。あんたは、ずっと眠っていたの。何も見ていない、何も知らないの」
子守唄のようにキリファの声は優しく、その瞳は愛しげにルイフォンを見つめていた。
ルイフォンの体は、言葉に誘われるように、ふらふらと歩き出し、しかし途中でその場に崩れ落ちた。キリファとしては、自室に戻ってから眠ってほしかったのだろうが、仕方ないわね、とばかりに微苦笑する。
それから彼女は、今まで黙って成り行きを見ていた王と向き合った。
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する、この国の王――シルフェン。
「待たせたわね」
キリファは、王に嗤いかけた。
〔そして、キリファは斬られ、王は彼女の体を持ち去りました……〕
ぽつりと。
涙の雫が落とされたかのように、〈ケル〉は告げた。ルイフォンは口を開きかけ、しかし何を言ったらよいのか分からず、再び口を閉ざす。
そんなふうに彼が戸惑っているうちに、〈ケル〉はまた、光の波紋を広げて溜め息をつき、悲しげに続けた。
〔そこに、血相を変えたエルファンが飛び込んできました。私は、キリファに部屋を灼くようにと頼まれていたのに、呆然としていて何もしていませんでした〕
「ああ。エルファンから聞いている。意識を失った俺と、大量の血痕を見た、ってな」
母の予定通りなら、そこにはルイフォンはおらず、部屋は灼かれて血痕は消されていたはずだった。
〈天使〉のキリファは熱暴走によって、ひとり静かに命を落とした。――そういうシナリオだった。〈天使〉を知らない当時のルイフォンに対しては、大人たちが何かしらの説明をつけるだろうと、母は踏んでいたに違いない。
「お前はエルファンに、母さんが殺されたときの映像を見せたんだろ? 何故、そんなことをしたんだ?」
母の望みに従うつもりなら、先王のことは隠しておくべきだ。なのに〈ケル〉は、わざわざ教えるような真似をした。不可解な行動だ。
〔エルファンの暴走を止めるためです〕
「エルファンの『暴走』?」
おうむ返しの語尾が、思わず跳ね上がる。
ルイフォンは大きく目を見開いたまま、絶句した。
異母兄は常に冷静で、氷のような男だ。基本的に無表情で、たまに感情を見せたかと思えば、高圧的で皮肉げなものばかり。そういう人間のはずだ――。
エルファンは半狂乱になっていた。
それはそうだろう。キリファの危機と聞いて駆けつけてみれば、大量の血痕が残されているだけで彼女の姿はない。
そして、ルイフォンが倒れている。うつ伏せの状態で右手を伸ばし、固く拳を握っている。何かを掴み、そこで力尽きた、そんなふうに――。
エルファンは、ルイフォンに駆け寄った。
抱き起こすと、ルイフォンの握りしめられたままの右手が、だらんと垂れた。人形のような動きにエルファンは青ざめ、慌てて呼吸を確かめる。
それから、ほっと安堵の息をついた。
体は温かく、脈もあった。外傷を調べても何もない。ただ気を失っているだけだ。
けれど、まだ幼さの残る顔立ちには血の気がなかった。キリファにそっくりな癖のある前髪が額に掛かり、髪の黒さが肌の白さを引き立てている。
エルファンは、じっとルイフォンを見つめ、小さく「キリファ……」と呟き、その声を呑み込んだ。
「ルイフォン」
彼は、ルイフォンの頬を軽く叩いた。
「起きろ。何が起きた?」
音のない部屋に、低い声が響く。
「おい、ルイフォン! キリファはどうした!?」
ルイフォンは目覚めない。〈ケル〉には、それが脳内介入の余波だと分かった。
だが、エルファンは知る由もない。不安に駆り立てられた彼は、ルイフォンの頬を思い切り叩く。
「起きろ。キリファは何処にいる?」
叩かれたルイフォンの頬は、うっすらと腫れ上がっていた。しかし、エルファンは構わない。
彼は、意識のないルイフォンの体を激しく揺さぶる。それは、床に叩きつけんばかりの勢いで、狂人めいた行為だった。
「いつまで寝ているつもりだ? とっとと起きて、キリファを襲った奴のことを言え!」
地の底から噴き出すような、湧き立つ炎の怒り。なのに、限りなく冷たく、凍れる声が木霊した――。
「エルファンが、そんな……?」
ルイフォンの口から出た声はかすれ、別人のようだった。
〔いつまでも目覚めぬあなたに、エルファンは業を煮やし、ついに刀まで抜こうとしました〕
光が陰る。〈ケル〉の心を映すように。
〔血痕が残っていて、キリファの姿が見当たらないとなれば、彼女は襲われ、連れ去られたと考えるのが自然です。――エルファンもそう考えていました。毒づき、罵りの言葉を吐きながら……キリファの身を案じていました〕
「……!」
ルイフォンの心臓が、大きな音を立てた。
不可解に思えた〈ケル〉の行動が、その理由が分かった。
つまり――。
〔エルファンは、キリファが既にこの世の者ではない可能性を、微塵にも考えていませんでした。――だから……、だからっ、私はっ……!〕
〈ケル〉の悲痛な声が響く。
くらりと目眩がしそうなほどに、たわむように光が揺らぐ。
〔私は――エルファンに、真実の映像を見せました。……彼の希望を打ち砕くために――!〕
ひと筋の光がきらりと輝き、長い尾を引きながら流星のように流れ落ちる。
〔だって、そうしなければ、エルファンは永遠に……、地の果てまでも……、キリファを探しに行こうとするから……!〕
血を吐くような〈ケル〉の慟哭。
滂沱の涙の如き光が、部屋を巡る。あとから、あとから、とめどなく光が流れ続ける。
「〈ケル〉!」
ルイフォンは叫んだ。
「自分を責めるな!」
〔私は、エルファンにとって、何よりも残酷なことをしたのです……!〕
「でも、エルファンのためだ」
〔いいえ! そもそも、私が余計なことをしたのが間違いでした!〕
強く叩きつけるような〈ケル〉の声。
〔私は、キリファが望んでいた通りに、彼女と王との会見を静かに見届け、誰にも知らせずにこの部屋を灼いていればよかったのです。そうすればエルファンに、キリファの最期を見せる必要はありませんでした……!〕
〈ケル〉の後悔が、痛いほど伝わってくる。
けれど、〈ケル〉のどこが悪かったというのだろう。〈ケル〉は母の、エルファンのためを思い、心を砕いただけだ。
「……っ」
噛み締めた唇が切れ、口の中に鉄の味が広がる。
隣から、メイシアの嗚咽が聞こえてきた。邪魔をしないよう、ずっとこらえていたらしい。口元をハンカチで抑えている。瞳を見れば、案の定、真っ赤だった。
メイシアの泣き顔を見て、ルイフォンはすっと冷静になった。
彼女の肩を抱き寄せ、くしゃりと髪を撫でる。彼女は縮こまって「ごめんなさい」と涙混じりの声を漏らした。いったい何に謝っているのやら、相変わらずの彼女に、彼の心が温かくなる。
この涙は、彼女の優しさだ。
そして〈ケル〉の『涙』も、優しさからできている。
「〈ケル〉」
ルイフォンは、呼びかけた。ずっと気になっていたことを、今こそ問おうと思った。
「お前は、エルファンを呼んだんだよな?」
〔はい、そうですが……?〕
「何故、親父じゃなくて、エルファンだったんだ?」
はっと〈ケル〉が息を呑んだのが分かった。それで充分だった。――その答えが欲しかった。
〔あ、あのっ、そのっ……、イーレオではなかったのは……〕
しどろもどろの〈ケル〉に、ルイフォンはくすりとする。
意地悪のようなことをして〈ケル〉を困らせても可哀想だ。彼は、自分のほうから言葉を重ねた。
「お前は知っていたんだろ? たとえ、すれ違っていたとしても、今でも母さんとエルファンは互いに想い合っている、ってこと」
〔……!〕
「お前は本当に、エルファンには嘘を信じ込ませるべきだったと思うか? それより、真実を伝えられてよかったと思えないか?」
〔ルイフォン……〕
「俺なら、真実を知りたい」
きっぱりと言い切り、ルイフォンは挑戦的に笑う。
「エルファンは、俺と似ているはずだ。だから、俺と同意見だと思う。――俺たちに、優しい嘘は必要ない」
〔――ああ……〕
周り中の光が、きらきらと輝いた。それは涙のようでありながら、〈ケル〉の微笑みのようでもあった。
四年もの間ずっと、〈ケル〉はこの封じられた小部屋の中で、孤独な涙を流し続けていたに違いない。
悔いて、悔いて、悔いて……。
友情と感情の板挟みになった運命を呪い、巻き戻すことのできない時の流れを恨み、そして、何もできなかった自分を責め続けた。
「〈ケル〉。俺は、お前が起こしてくれてよかったと思っている。母さんの最期に立ち会わせてくれて感謝している。礼を言うよ。――ありがとう」
ルイフォンがそう言った瞬間、〈ケル〉は戸惑うように、しかし、きっぱりと〔いいえ〕と言った。
予想外の反応に彼は戸惑い、瞳を瞬かせる。
〔私に感謝する必要はありません。あなたがキリファの最期を覚えているのは、あなた自身の強い意志によるものです〕
「俺自身の意志?」
ルイフォンは訝しげに眉を寄せた。
〔確かに私は、あなたを呼びました。けれどあなたは、この部屋に来た途端に、キリファの『忘れなさい』という命令を受けたのです。あなたはそこで寝てしまい、キリファの最期を見ることもなく、『朝までぐっすり眠っていた』という記憶しか残らないはずでした〕
「え……?」
自然と足が一歩、後ずさった。
「でも、俺は覚えているし、母さんの最期も見た……!」
覚えている。忘れるはずがない。ぎらりと煌めく白刃が、母の首を……。
悲惨な記憶だ。
残酷な記憶だ。
けれど、敬愛する母の最期の姿なのだ。どんなに辛くとも、刻み込んでおくべき記憶だ。
〔ええ。だから、『あなたの強い意志』で覚えているのです〕
「どういうことだよ?」
苛立ちにとがる声を努めて抑え、ルイフォンは問う。
〔まず、キリファの脳内介入を受けて、あなたが眠ってしまったと思ったのは、私やキリファの勘違いでした。あなたは命令に対抗しようとしたために、あの場に崩れ落ちただけで、意識はありました。――あなたは確かに、キリファの最期を見届けたのです〕
「じゃあ、俺は母さんの命令とやらを跳ねのけたから、最期の記憶を覚えている、ってことか?」
そう考えれば納得できる。
しかし〈ケル〉は即答しなかった。しばし考え込むように光が揺れ、やがて〔推測ですが……〕と前置きをする。
〔それは、半分正しくて、半分違うと思います。――あなたは、王や私のことは忘れました。当然、抱いたであろう復讐心すらも忘れました〕
「……っ!」
腹立たしいことに、その通りだった。
憮然とするルイフォンに、〈ケル〉がそっと尋ねる。
〔王が去ったあとの、あなたの行動を、あなた自身は覚えていますか?〕
「え? いや、全然」
〔そうですか……。あなたは、床を這うようにして、体を引きずりながら動き出しました〕
眠ってしまったとばかり思っていたルイフォンの肩が、ぴくりと動いた。
よく見れば、彼の両目は、かっと見開かれていた。
いつからそうだったのか、〈ケル〉には分からない。けれど、彼の表情から、彼がずっと意識を保っていたことを悟った。
何も映していないような、虚ろな瞳からは次から次へと涙があふれていた。けれど、それを拭うための両手は動かず、代わりに固く歯を食いしばっている。
――ルイフォンは、声を殺して泣いていた。
どのくらい、そうしていただろうか。
ふと、彼は動き出した。
まだ体の自由が効かないのか、立ち上がろうとして、よろける。だから彼は体を引きずり、床を這うようにして歩み始めた。
〈ケル〉には、彼が何をしようとしているのか、分からなかった。
「……、……」
ルイフォンは何かを呟き、右手を遠くに伸ばす。
きらりと。彼の指の間で、金色の光が散った。
彼は小さな光を大切そうに握りしめ、そこで今度こそ意識を失った――。
〔あなたが〈天使〉の脳内介入にあらがい、記憶を残すことができたのは、おそらくキリファの鈴が存在したからです〕
「鈴!?」
ルイフォンは叫ぶと同時に、自分の後ろ髪を乱暴に胸元に手繰り寄せた。
一本に編まれた髪の先は青い飾り紐で留められ、その中央で金色の鈴が光る。彼が常に身につけているお守りのようなものであり、かつては母のチョーカーとして彼女の首元を飾っていた鈴だった。
「……そうか」
シャオリエの娼館で目覚めたとき、ルイフォンは自分の拳が固く握られていることに気づいた。こわばる指を一本一本、開いてみれば、鈴が現れた。
それを見た瞬間、彼は母の革のチョーカーが斬れたことを思い出した。鈴は、電灯の光を金色に反射させながら、放物線を描いて飛んだのだ。
「鈴が……、母さんの首にあるはずの鈴が、俺の手にあるということが――母さんは首を落とされ、俺が現場で拾ったという証拠になった……」
〔はい。その証拠によって、キリファが書き込んだ『ぐっすり眠っていた』という記憶に矛盾が生じたため、『忘れなさい』という命令が破棄されたのだと考えられます〕
「……なるほどな」
〔家が強盗に襲われたという記憶も、辻褄を合わせるために、あなた自身が作り上げたものです。キリファは関与していません〕
「鈴のおかげ、か……」
ルイフォンは、自分の毛先で光る金色の鈴を、指先でそっと撫でる。
『それ、首輪じゃん』
幼いルイフォンは、からかい混じりにそう言った。すると母は、胸を張った。
『そうよ。あたしは鷹刀の飼い猫なのよ』
とてもとても自慢げに――幸せそうに笑っていた。
彼女は、肌身離さずチョーカーを身につけていた。それは、『鷹刀の飼い猫』という言葉の裏に隠した、贈り主への想いを示していた。
「……まったく。……母さんも、あと、ちょっと待ってりゃよかったのに……」
それでも母は、自分のやりたいようにやっただろうか。ルイフォンにしたのと同じく、エルファンにも〈天使〉の羽を見せただろうか。
たぶん、そうしただろう。
何故なら、彼女は我儘で自分勝手だからだ。一国の王すらも利用した謎の企みの成功を疑わず、自信過剰の笑みを見せたはずだ。
「……」
わけの分からない感情が胸に押し寄せ、苦しくなる。
ルイフォンは無意識に手を伸ばし、隣にいるメイシアを強引に抱き寄せた。驚いた彼女は小さく声を漏らすが、彼の胸に収まると、華奢な手をそっと背に回してくれた。
「メイシア」
名を呼びながら、彼女の長い髪に顔をうずめる。
「母さんは、物凄くとんでもない奴で、救いようもないくらい身勝手な奴だった」
返答に困ったよう息遣いが、彼の耳朶をくすぐる。
「母さんが何を考え、何をしようとしていたのか……。俺は、暴いてやる!」
思いを声に出すと、心臓が締め付けられるように痛んだ。
いくら真相にたどり着いたとしても、過去には戻らない。それが分かっているから、切なく空虚だ。
ルイフォンが重い息を吐き出したとき、ふわりと、メイシアの手が彼の髪に触れた。細い指先が、すっと猫毛を滑る。
「うん。私も知りたい。ルイフォンと一緒に」
透き通るような声が、心に響いた。純粋に知りたいから、だから真実を求めようと、彼の背中を押している。
温かい。
胸の中が、ゆっくりと満たされていく。
「ああ。……ありがとな」
彼は顔を上げ、彼女の額に自分の額をこつんと合わせた。
そして、彼は天井を仰ぎ、姿なき〈ケル〉に告げる。
「〈ケル〉、いろいろ、ありがとう」
〔いえ、だから私は、そんな……〕
慌てる〈ケル〉を遮り、ルイフォンは朗らかに言う。
「これからも、よろしく。――母さんの親友」
〔……!〕
その途端、煌めくように光が弾け、柔らかな優しい風となって流れていった。
そして清らかな〈ケル〉の声が、四年前のできごとを紡いでいく――。
王が部屋に到着すると、〈ケル〉は小さな珠から本来の姿へと形を変えた。
それはキリファの要望であったが、〈ケル〉にとっては、最大の処理能力を発揮できるようになった瞬間でもあった。
〈ケル〉は、ずっと迷っていた。
大切な友人であるキリファが、命を懸けて為そうとしていることは正しいのだろうか?
――否。
〈ケル〉が作られたときから、いずれその日が来ることは分かっていた。だから、受け入れようと思った。でも、それは『今』でなくてもいいはずだ――!
決意した〈ケル〉は、即座に〈ベロ〉に連絡をとった。
キリファは、『口うるさいから』と言って〈ベロ〉には何も話していなかったが、一瞬にも満たない時間で、すべての事情は伝わった。最大の処理能力を活かせば、造作もないことだった。
〔〈ベロ〉様、どうか、エルファンに――!〕
キリファはまだ、エルファンに言っていないことがある。
そのままにして、よいわけがない。
〔〈ケル〉、落ち着いて。今、エルファンをそちらに向かわせたけど、どうしても移動に時間が掛かるわ〕
〈ベロ〉にそう言われた瞬間、〈ケル〉はルイフォンを起こすことを思いついた。
息子が乱入してくれば、キリファはためらうかもしれない。ルイフォンを呼んで時間を稼いでもらう。――今から考えれば、他にも手段はあったのかもしれない。けれど、そのときの〈ケル〉は、これしかないと思ったのだ。
「それで、俺が呼ばれたわけだな」
ルイフォンが相槌を打つと、〈ケル〉が頷くように光を揺らした。
〔あの日、あなたはこの姿の私と会っています。おそらく、あなたには理解できなかったと思いますが、私が〈ケル〉であることも告げています。……けれど、あなたは覚えていませんよね?〕
「すまないが、母さんに消されているらしい」
彼がそう言うと、〈ケル〉は頷くように光の波紋を広げた。
現れたルイフォンを見て、キリファはくすりと笑った。
「〈ケル〉、あんたはきっと、最後で耐えられなくなると思っていたわ。だって、あんたは優しいもの」
怒っている様子はなかった。それどころか、「今まで協力してくれてありがとう」とすら、彼女は言った。
「でも、ごめんね。あたしは、あたしのやりたいようにやるわ――」
刹那、キリファの背中が白金に輝き、光の糸が噴き出した。強く弱く、あるいは太く細く、白金の光が紡ぎ出され、瞬く間に〈天使〉の羽を構成していく。
網の目のように広がった羽が、優美に伸ばされ、ルイフォンを包み込んだ。
光の糸の中を、さまざまな情報が複雑に絡み合いながら流れ、行き交うのが〈ケル〉には見えた。王や〈ケル〉に関する記憶の改竄と、この夜のことを深く考えてはいけないという命令が、ルイフォンに刻み込まれていくのが分かった。
「行きなさい、ルイフォン。そして、忘れなさい。あんたは、ずっと眠っていたの。何も見ていない、何も知らないの」
子守唄のようにキリファの声は優しく、その瞳は愛しげにルイフォンを見つめていた。
ルイフォンの体は、言葉に誘われるように、ふらふらと歩き出し、しかし途中でその場に崩れ落ちた。キリファとしては、自室に戻ってから眠ってほしかったのだろうが、仕方ないわね、とばかりに微苦笑する。
それから彼女は、今まで黙って成り行きを見ていた王と向き合った。
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する、この国の王――シルフェン。
「待たせたわね」
キリファは、王に嗤いかけた。
〔そして、キリファは斬られ、王は彼女の体を持ち去りました……〕
ぽつりと。
涙の雫が落とされたかのように、〈ケル〉は告げた。ルイフォンは口を開きかけ、しかし何を言ったらよいのか分からず、再び口を閉ざす。
そんなふうに彼が戸惑っているうちに、〈ケル〉はまた、光の波紋を広げて溜め息をつき、悲しげに続けた。
〔そこに、血相を変えたエルファンが飛び込んできました。私は、キリファに部屋を灼くようにと頼まれていたのに、呆然としていて何もしていませんでした〕
「ああ。エルファンから聞いている。意識を失った俺と、大量の血痕を見た、ってな」
母の予定通りなら、そこにはルイフォンはおらず、部屋は灼かれて血痕は消されていたはずだった。
〈天使〉のキリファは熱暴走によって、ひとり静かに命を落とした。――そういうシナリオだった。〈天使〉を知らない当時のルイフォンに対しては、大人たちが何かしらの説明をつけるだろうと、母は踏んでいたに違いない。
「お前はエルファンに、母さんが殺されたときの映像を見せたんだろ? 何故、そんなことをしたんだ?」
母の望みに従うつもりなら、先王のことは隠しておくべきだ。なのに〈ケル〉は、わざわざ教えるような真似をした。不可解な行動だ。
〔エルファンの暴走を止めるためです〕
「エルファンの『暴走』?」
おうむ返しの語尾が、思わず跳ね上がる。
ルイフォンは大きく目を見開いたまま、絶句した。
異母兄は常に冷静で、氷のような男だ。基本的に無表情で、たまに感情を見せたかと思えば、高圧的で皮肉げなものばかり。そういう人間のはずだ――。
エルファンは半狂乱になっていた。
それはそうだろう。キリファの危機と聞いて駆けつけてみれば、大量の血痕が残されているだけで彼女の姿はない。
そして、ルイフォンが倒れている。うつ伏せの状態で右手を伸ばし、固く拳を握っている。何かを掴み、そこで力尽きた、そんなふうに――。
エルファンは、ルイフォンに駆け寄った。
抱き起こすと、ルイフォンの握りしめられたままの右手が、だらんと垂れた。人形のような動きにエルファンは青ざめ、慌てて呼吸を確かめる。
それから、ほっと安堵の息をついた。
体は温かく、脈もあった。外傷を調べても何もない。ただ気を失っているだけだ。
けれど、まだ幼さの残る顔立ちには血の気がなかった。キリファにそっくりな癖のある前髪が額に掛かり、髪の黒さが肌の白さを引き立てている。
エルファンは、じっとルイフォンを見つめ、小さく「キリファ……」と呟き、その声を呑み込んだ。
「ルイフォン」
彼は、ルイフォンの頬を軽く叩いた。
「起きろ。何が起きた?」
音のない部屋に、低い声が響く。
「おい、ルイフォン! キリファはどうした!?」
ルイフォンは目覚めない。〈ケル〉には、それが脳内介入の余波だと分かった。
だが、エルファンは知る由もない。不安に駆り立てられた彼は、ルイフォンの頬を思い切り叩く。
「起きろ。キリファは何処にいる?」
叩かれたルイフォンの頬は、うっすらと腫れ上がっていた。しかし、エルファンは構わない。
彼は、意識のないルイフォンの体を激しく揺さぶる。それは、床に叩きつけんばかりの勢いで、狂人めいた行為だった。
「いつまで寝ているつもりだ? とっとと起きて、キリファを襲った奴のことを言え!」
地の底から噴き出すような、湧き立つ炎の怒り。なのに、限りなく冷たく、凍れる声が木霊した――。
「エルファンが、そんな……?」
ルイフォンの口から出た声はかすれ、別人のようだった。
〔いつまでも目覚めぬあなたに、エルファンは業を煮やし、ついに刀まで抜こうとしました〕
光が陰る。〈ケル〉の心を映すように。
〔血痕が残っていて、キリファの姿が見当たらないとなれば、彼女は襲われ、連れ去られたと考えるのが自然です。――エルファンもそう考えていました。毒づき、罵りの言葉を吐きながら……キリファの身を案じていました〕
「……!」
ルイフォンの心臓が、大きな音を立てた。
不可解に思えた〈ケル〉の行動が、その理由が分かった。
つまり――。
〔エルファンは、キリファが既にこの世の者ではない可能性を、微塵にも考えていませんでした。――だから……、だからっ、私はっ……!〕
〈ケル〉の悲痛な声が響く。
くらりと目眩がしそうなほどに、たわむように光が揺らぐ。
〔私は――エルファンに、真実の映像を見せました。……彼の希望を打ち砕くために――!〕
ひと筋の光がきらりと輝き、長い尾を引きながら流星のように流れ落ちる。
〔だって、そうしなければ、エルファンは永遠に……、地の果てまでも……、キリファを探しに行こうとするから……!〕
血を吐くような〈ケル〉の慟哭。
滂沱の涙の如き光が、部屋を巡る。あとから、あとから、とめどなく光が流れ続ける。
「〈ケル〉!」
ルイフォンは叫んだ。
「自分を責めるな!」
〔私は、エルファンにとって、何よりも残酷なことをしたのです……!〕
「でも、エルファンのためだ」
〔いいえ! そもそも、私が余計なことをしたのが間違いでした!〕
強く叩きつけるような〈ケル〉の声。
〔私は、キリファが望んでいた通りに、彼女と王との会見を静かに見届け、誰にも知らせずにこの部屋を灼いていればよかったのです。そうすればエルファンに、キリファの最期を見せる必要はありませんでした……!〕
〈ケル〉の後悔が、痛いほど伝わってくる。
けれど、〈ケル〉のどこが悪かったというのだろう。〈ケル〉は母の、エルファンのためを思い、心を砕いただけだ。
「……っ」
噛み締めた唇が切れ、口の中に鉄の味が広がる。
隣から、メイシアの嗚咽が聞こえてきた。邪魔をしないよう、ずっとこらえていたらしい。口元をハンカチで抑えている。瞳を見れば、案の定、真っ赤だった。
メイシアの泣き顔を見て、ルイフォンはすっと冷静になった。
彼女の肩を抱き寄せ、くしゃりと髪を撫でる。彼女は縮こまって「ごめんなさい」と涙混じりの声を漏らした。いったい何に謝っているのやら、相変わらずの彼女に、彼の心が温かくなる。
この涙は、彼女の優しさだ。
そして〈ケル〉の『涙』も、優しさからできている。
「〈ケル〉」
ルイフォンは、呼びかけた。ずっと気になっていたことを、今こそ問おうと思った。
「お前は、エルファンを呼んだんだよな?」
〔はい、そうですが……?〕
「何故、親父じゃなくて、エルファンだったんだ?」
はっと〈ケル〉が息を呑んだのが分かった。それで充分だった。――その答えが欲しかった。
〔あ、あのっ、そのっ……、イーレオではなかったのは……〕
しどろもどろの〈ケル〉に、ルイフォンはくすりとする。
意地悪のようなことをして〈ケル〉を困らせても可哀想だ。彼は、自分のほうから言葉を重ねた。
「お前は知っていたんだろ? たとえ、すれ違っていたとしても、今でも母さんとエルファンは互いに想い合っている、ってこと」
〔……!〕
「お前は本当に、エルファンには嘘を信じ込ませるべきだったと思うか? それより、真実を伝えられてよかったと思えないか?」
〔ルイフォン……〕
「俺なら、真実を知りたい」
きっぱりと言い切り、ルイフォンは挑戦的に笑う。
「エルファンは、俺と似ているはずだ。だから、俺と同意見だと思う。――俺たちに、優しい嘘は必要ない」
〔――ああ……〕
周り中の光が、きらきらと輝いた。それは涙のようでありながら、〈ケル〉の微笑みのようでもあった。
四年もの間ずっと、〈ケル〉はこの封じられた小部屋の中で、孤独な涙を流し続けていたに違いない。
悔いて、悔いて、悔いて……。
友情と感情の板挟みになった運命を呪い、巻き戻すことのできない時の流れを恨み、そして、何もできなかった自分を責め続けた。
「〈ケル〉。俺は、お前が起こしてくれてよかったと思っている。母さんの最期に立ち会わせてくれて感謝している。礼を言うよ。――ありがとう」
ルイフォンがそう言った瞬間、〈ケル〉は戸惑うように、しかし、きっぱりと〔いいえ〕と言った。
予想外の反応に彼は戸惑い、瞳を瞬かせる。
〔私に感謝する必要はありません。あなたがキリファの最期を覚えているのは、あなた自身の強い意志によるものです〕
「俺自身の意志?」
ルイフォンは訝しげに眉を寄せた。
〔確かに私は、あなたを呼びました。けれどあなたは、この部屋に来た途端に、キリファの『忘れなさい』という命令を受けたのです。あなたはそこで寝てしまい、キリファの最期を見ることもなく、『朝までぐっすり眠っていた』という記憶しか残らないはずでした〕
「え……?」
自然と足が一歩、後ずさった。
「でも、俺は覚えているし、母さんの最期も見た……!」
覚えている。忘れるはずがない。ぎらりと煌めく白刃が、母の首を……。
悲惨な記憶だ。
残酷な記憶だ。
けれど、敬愛する母の最期の姿なのだ。どんなに辛くとも、刻み込んでおくべき記憶だ。
〔ええ。だから、『あなたの強い意志』で覚えているのです〕
「どういうことだよ?」
苛立ちにとがる声を努めて抑え、ルイフォンは問う。
〔まず、キリファの脳内介入を受けて、あなたが眠ってしまったと思ったのは、私やキリファの勘違いでした。あなたは命令に対抗しようとしたために、あの場に崩れ落ちただけで、意識はありました。――あなたは確かに、キリファの最期を見届けたのです〕
「じゃあ、俺は母さんの命令とやらを跳ねのけたから、最期の記憶を覚えている、ってことか?」
そう考えれば納得できる。
しかし〈ケル〉は即答しなかった。しばし考え込むように光が揺れ、やがて〔推測ですが……〕と前置きをする。
〔それは、半分正しくて、半分違うと思います。――あなたは、王や私のことは忘れました。当然、抱いたであろう復讐心すらも忘れました〕
「……っ!」
腹立たしいことに、その通りだった。
憮然とするルイフォンに、〈ケル〉がそっと尋ねる。
〔王が去ったあとの、あなたの行動を、あなた自身は覚えていますか?〕
「え? いや、全然」
〔そうですか……。あなたは、床を這うようにして、体を引きずりながら動き出しました〕
眠ってしまったとばかり思っていたルイフォンの肩が、ぴくりと動いた。
よく見れば、彼の両目は、かっと見開かれていた。
いつからそうだったのか、〈ケル〉には分からない。けれど、彼の表情から、彼がずっと意識を保っていたことを悟った。
何も映していないような、虚ろな瞳からは次から次へと涙があふれていた。けれど、それを拭うための両手は動かず、代わりに固く歯を食いしばっている。
――ルイフォンは、声を殺して泣いていた。
どのくらい、そうしていただろうか。
ふと、彼は動き出した。
まだ体の自由が効かないのか、立ち上がろうとして、よろける。だから彼は体を引きずり、床を這うようにして歩み始めた。
〈ケル〉には、彼が何をしようとしているのか、分からなかった。
「……、……」
ルイフォンは何かを呟き、右手を遠くに伸ばす。
きらりと。彼の指の間で、金色の光が散った。
彼は小さな光を大切そうに握りしめ、そこで今度こそ意識を失った――。
〔あなたが〈天使〉の脳内介入にあらがい、記憶を残すことができたのは、おそらくキリファの鈴が存在したからです〕
「鈴!?」
ルイフォンは叫ぶと同時に、自分の後ろ髪を乱暴に胸元に手繰り寄せた。
一本に編まれた髪の先は青い飾り紐で留められ、その中央で金色の鈴が光る。彼が常に身につけているお守りのようなものであり、かつては母のチョーカーとして彼女の首元を飾っていた鈴だった。
「……そうか」
シャオリエの娼館で目覚めたとき、ルイフォンは自分の拳が固く握られていることに気づいた。こわばる指を一本一本、開いてみれば、鈴が現れた。
それを見た瞬間、彼は母の革のチョーカーが斬れたことを思い出した。鈴は、電灯の光を金色に反射させながら、放物線を描いて飛んだのだ。
「鈴が……、母さんの首にあるはずの鈴が、俺の手にあるということが――母さんは首を落とされ、俺が現場で拾ったという証拠になった……」
〔はい。その証拠によって、キリファが書き込んだ『ぐっすり眠っていた』という記憶に矛盾が生じたため、『忘れなさい』という命令が破棄されたのだと考えられます〕
「……なるほどな」
〔家が強盗に襲われたという記憶も、辻褄を合わせるために、あなた自身が作り上げたものです。キリファは関与していません〕
「鈴のおかげ、か……」
ルイフォンは、自分の毛先で光る金色の鈴を、指先でそっと撫でる。
『それ、首輪じゃん』
幼いルイフォンは、からかい混じりにそう言った。すると母は、胸を張った。
『そうよ。あたしは鷹刀の飼い猫なのよ』
とてもとても自慢げに――幸せそうに笑っていた。
彼女は、肌身離さずチョーカーを身につけていた。それは、『鷹刀の飼い猫』という言葉の裏に隠した、贈り主への想いを示していた。
「……まったく。……母さんも、あと、ちょっと待ってりゃよかったのに……」
それでも母は、自分のやりたいようにやっただろうか。ルイフォンにしたのと同じく、エルファンにも〈天使〉の羽を見せただろうか。
たぶん、そうしただろう。
何故なら、彼女は我儘で自分勝手だからだ。一国の王すらも利用した謎の企みの成功を疑わず、自信過剰の笑みを見せたはずだ。
「……」
わけの分からない感情が胸に押し寄せ、苦しくなる。
ルイフォンは無意識に手を伸ばし、隣にいるメイシアを強引に抱き寄せた。驚いた彼女は小さく声を漏らすが、彼の胸に収まると、華奢な手をそっと背に回してくれた。
「メイシア」
名を呼びながら、彼女の長い髪に顔をうずめる。
「母さんは、物凄くとんでもない奴で、救いようもないくらい身勝手な奴だった」
返答に困ったよう息遣いが、彼の耳朶をくすぐる。
「母さんが何を考え、何をしようとしていたのか……。俺は、暴いてやる!」
思いを声に出すと、心臓が締め付けられるように痛んだ。
いくら真相にたどり着いたとしても、過去には戻らない。それが分かっているから、切なく空虚だ。
ルイフォンが重い息を吐き出したとき、ふわりと、メイシアの手が彼の髪に触れた。細い指先が、すっと猫毛を滑る。
「うん。私も知りたい。ルイフォンと一緒に」
透き通るような声が、心に響いた。純粋に知りたいから、だから真実を求めようと、彼の背中を押している。
温かい。
胸の中が、ゆっくりと満たされていく。
「ああ。……ありがとな」
彼は顔を上げ、彼女の額に自分の額をこつんと合わせた。
そして、彼は天井を仰ぎ、姿なき〈ケル〉に告げる。
「〈ケル〉、いろいろ、ありがとう」
〔いえ、だから私は、そんな……〕
慌てる〈ケル〉を遮り、ルイフォンは朗らかに言う。
「これからも、よろしく。――母さんの親友」
〔……!〕
その途端、煌めくように光が弾け、柔らかな優しい風となって流れていった。