残酷な描写あり
4.若き狼の咆哮-1
照明の落とされた夜の食堂は、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
一面、硝子張りの南側からは、清冽な月明かりが差し込み、純白のテーブルクロスを青白く浮かび上がらせる。そして、それを取り囲む椅子の背は、長い長い影を床に落としていた。
鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオは、足音もなくテーブルの脇を通り過ぎた。夜闇に溶けるような黒髪をなびかせ、橙色の明かりの灯る奥の厨房へと向かう。
今の時間なら、まだ料理長が明日の仕込みをしているはずだった。
「これはこれは、イーレオ様。如何なさいました?」
戸口で声を掛ければ、思った通りに返事があった。
立派な太鼓腹を揺らし、前掛けで手を拭きながら料理長が現れる。肉に埋もれそうな小さな目を丸くして、意外な人物の登場を歓迎していた。
「何かご入用ですか? お申し付けくだされば、お持ちいたしましたのに」
「いや、それには及ばない。忙しいお前の手を煩わせたら、明日の料理に支障が出るからな」
イーレオの軽い冗談に、しかし料理長は、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「イーレオ様。気の利いたことをおっしゃったおつもりでしょうが、あいにく、それしきのことで私の料理の味が変わったりはしませんよ」
ともすれば憤慨とも取れる台詞だが、料理長の福相から発せられると、ただの事実にしか聞こえない。実際、そうであろう。
「すまん。失言だった」
イーレオは、面目なさげに髪を掻き上げた。凶賊の総帥であれど、あっさり非を詫びるところが、なんともこの男らしい。
料理長は敬愛する総帥に頬を緩め、「それで、どんなご用件で?」と、このどうでもいい話題を打ち切った。
「酒を一本、見繕ってくれ」
イーレオがそう言うと、料理長はぽんと手を打つ。
「リュイセン様とお飲みになるんですね」
「いや、違うが?」
どうしてそんなことを言うのかと、イーレオは首をかしげた。
「おや、違いましたか。それなら、エルファン様とですか。ですが、エルファン様なら、先ほどご所望でしたので、メイドに部屋まで運ばせましたよ」
何故、エルファンとだと分かったのだろう? イーレオは、ぽかんと口を開ける。
その間にも、料理長は「ああ、つまみの追加はあったほうがいいですね」と、そそくさと厨房に戻って用意を始めた。
「おい、料理長。お前は人の心が読めるのか?」
「そんなこと、あるわけないじゃないですか」
肉付きのよい腹を揺らしながら、料理長が全身で笑う。
「お夕食のときの皆様のご様子ですよ」
「あ、ああ……」
なるほど、と納得しつつ、いやいや食事中に会議の話はしなかったはずだぞ、とイーレオは思い返した――。
その日の夕方、いつもの中枢たる面々が執務室に集まった。キリファが作った人工知能〈ケル〉の件で、ルイフォンとメイシアから報告があったのだ。
彼らは、キリファの死の真相を知るために〈ケル〉を訪ねていた。しかし、結果は芳しくなかった。〈ケル〉はキリファに義理立てして、その件に関しては口を閉ざしたらしい。
「人に作られた『もの』のくせに」と、リュイセンが毒づいたが、あれは『人』なのだとイーレオは知っている。この屋敷にいる〈ベロ〉が、彼を育ててくれたあの女であるように、〈ケル〉もまた『誰か』なのだ。
メイシア誘拐の冤罪事件のとき、警察隊が執務室に押し入るまでは、人工知能の〈ベロ〉は完全に傍観者に徹していた。だから、キリファにそう教えられていたことをすっかり忘れていた。というよりも、半信半疑だった、のほうが正しいかもしれない。
ともあれ、目的は空振りに終わったが、ルイフォンの顔が妙に晴れ晴れとしていたので、〈ケル〉との接触は無駄足ではなかった。
――と、話が締めくくられるところだった。
「祖父上! 何を悠長なことをおっしゃっているのですか!」
リュイセンが眦を吊り上げた。
「我々は一刻も早く、敵の正体を見極め、排除しなければなりません。さもなくば、また〈蝿〉の襲撃を受けることになります!」
固く握った拳が、どん、とローテーブルに打ちつけられる。
「我々の敵とは、すなわち、現在の〈七つの大罪〉です」
リュイセンは『現在の』に、力を込めて言い放った。
先日のイーレオの弁によれば、王族の私設研究機関としての〈七つの大罪〉は瓦解したという。組織の支配者であった先王が急死し、次代に引き継がれなかったためである。
それにも関わらず、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉を名乗る者が現れた。それはつまり、何者かが〈七つの大罪〉を手中に収めたということである。――そういう話だった。
次から次へと突きつけられた新しい話に、リュイセンの頭は破裂しそうだった。しかし、苦労してなんとか理解した。
彼は決して鋭くはない。けれど大局的には、目標を見誤ることはない。
確かな証拠がない以上、もっともらしく語られた話も、推測の域を出ないことは承知していた。その上で、彼は全部、信じることにした。
だからこそ、祖父の生ぬるい態度を許すことはできなかったのだ。
「現在の〈七つの大罪〉の支配者、つまり『黒幕』は誰か。そいつは何故、鷹刀を狙うのか。これを調べることが、我々が今、為すべきことです!」
肩までの髪をさらりと揺らし、リュイセンはぐっと顎を上げる。
目線の先はイーレオ。ひとり掛けの肘掛けソファーで、優雅に足を組んでいる祖父の姿を睨みつける。
「先王の急死によって、〈七つの大罪〉が何者かに乗っ取られたというのなら、俺は、先王を殺害した人間が『黒幕』であると考えます。つまり、先王の甥ヤンイェンです」
殺害が露見して幽閉されたものの、〈七つの大罪〉を支配することに成功し、女王の婚約者として返り咲いた男。権力を欲する野心家。リュイセンの目に、ヤンイェンはそう映った。
「けど、もと貴族のメイシアの証言によると、ヤンイェンは初めから婚約者に内定していました。となると、冤罪の可能性もあります。あるいは先王との間に、なんらかのトラブルがあったのか……」
イーレオは小さく、ほう、と息をついた。
感情のままに訴えているのかと思ったら、どうやら少し違うらしい。なかなか、考えるようになってきた。そう思い、口の端が緩やかに上がる。
「誰が、なんのために、先王を殺したのか。――『黒幕』の正体を知るためには、当時の先王を取り巻く、人間関係を洗う必要があります」
リュイセンはそこで一度、ためらった。
言い方を間違えれば、無用な論争になるのは目に見えていた。そして口達者ではない彼が、誤解される可能性は大いにある。
しかし無駄に言葉を飾っても、混乱するだけだ。だから彼は、結局、思ったままのことを口にした。
「ルイフォンの母親は、まさにこの時期の先王に殺されています。彼女が何かを知っていた可能性は、極めて高い。だから俺は、〈ケル〉からの情報に期待を寄せていました」
リュイセンは、隣に座るルイフォンをちらりと見やる。今の発言は、ルイフォンの手ぶらの帰還を責めているようにも聞こえたはずだ。
ルイフォンは腕を組んだまま、じっとしていた。いつもの好奇心旺盛な猫の目は鳴りをひそめ、無表情な〈猫〉の顔である。むしろ、反対側の隣にいるメイシアのほうが、気遣わしげに視線をさまよわせていて落ち着かない。
「すまんな」
リュイセンが気まずい思いをするよりも先に、涼し気なテノールが応えた。
意に介するふうもない、穏やかな響きに、リュイセンは戸惑う。少し前までのルイフォンなら、声色にもっと苛立ちが含まれていたはずだ。
「大手を振って出掛けたくせに、収穫なしだ」
ルイフォンは癖のある前髪を掻き上げ、肩をすくめて晴れやかに笑う。
「リュイセンの言い分はもっともだ。俺個人としては、母さんの過去も垣間見れたし、知らなかったとはいえ、さんざん世話になっていた〈ケル〉にも挨拶ができて、まずまずだった。――だが、鷹刀に対しての利益はゼロだ。悪いな」
「違う、ルイフォン!」
リュイセンは、とっさに叫んだ。
「俺は、お前を責めるつもりは、まったくない。むしろ、逆だ」
そう言って、リュイセンはこの場にいる者たちを見渡す。――主にイーレオを。
「おかしいと思いませんか? 俺は――鷹刀は、どうしてルイフォンからの情報に期待するのです?」
「どういう意味だよ?」
即座にそう返したのは、リュイセンの視線の先にいるイーレオではなく、ルイフォンだった。それまでの和やかさを返上し、すがめた猫目に険が混じる。
リュイセンは、自分の話術の不甲斐なさに溜め息をつきながら、ひとまずルイフォンを無視してイーレオに畳み掛けた。
「ルイフォンは、〈猫〉です」
「はぁ?」
「『鷹刀の対等な協力者』であって、一族ではありません」
「それがどうした?」
いちいち口を挟むルイフォンに、リュイセンのこめかみの血管が、ぴくりと浮き立った。
これは八つ当たりのような感情だ。苛立っても仕方のないものだ。だが、ずっと感じている焦燥感が――〈猫〉として独り立ちした、ルイフォンに対する劣等感が――リュイセンを刺激した。
彼は肩を怒らせ、ぐいっと体ごとルイフォンに向き直る。
「どうしたも、こうしたもないだろ!?」
「は?」
ルイフォンとて、細身ではあっても決して小柄なわけではない。だが、長身を誇る鷹刀一族の直系のリュイセンに迫られれば、自然と腰が引ける。
「どうしたんだよ、お前……?」
「〈猫〉にばかり調べさせて、鷹刀は何もしてない! ……期待していたお前の情報源が空振ったなら、今度は鷹刀の番のはずだ。なのに、お前の報告が終わって『はい、解散』じゃ、ちっとも『対等』じゃねぇ! 俺たちだって……、……俺だって動くべきだ!」
リュイセンの剣幕に面食らいながらも、ルイフォンが言い返す。
「そんなこと言ったって、諜報活動は俺の担当だし?」
「違う……!」
叫んでからリュイセンは、強く首を振り「ああ、いや。お前は必要なんだ」と、うまく言葉を操れないもどかしさに舌打ちをする。
「今回だって、〈猫〉は収穫なしじゃない。お前の母親は、哀れな被害者などではないことがはっきりした。彼女の足跡を追っていけば、いずれ先王に関わる重要な情報にたどり着くはずだ」
「そうだな」
ルイフォンは、リュイセンの態度に納得したわけではなかった。だが、言っていることは実にもっともだったので、首肯して「ともかく『手紙』の解析を急がないとな」などと呟く。
そんなルイフォンを見て、リュイセンはぐっと拳を握りしめた。〈猫〉には、やるべきことが幾らもあるのだ。そして、着実に前へと進んでいる。
だから、自分も――と、彼は思う。
リュイセンは、すぅっと大きく息を吸い込んだ。それから、ゆっくりと吐き出し、祖父を――総帥イーレオを見据える。
ぐっと胸を張り、「総帥」と鋭く呼びかけた。
「現在の〈七つの大罪〉の実態を知るために、我々ができるアプローチは、ふたつあると思います」
若々しく張りのある低音が、執務室に鳴り響く。
リュイセンは策を練るのは得意ではない。それでも、彼なりにずっと考えていたのだ。
「聞こう」
楽しげにも聞こえる、魅惑の音色が受けて立つ。リュイセンと同じ声質だが、より深く、まろみがあった。
リュイセンは、ごくりと唾を呑み、「至極、単純なことです」と口火を切った。
「組織の『頂点』から調べるか、『末端』から調べるか、のふたつです」
彼は右手でひらりと、ルイフォンとメイシアを示す。
「ルイフォンたちは――〈猫〉は、『頂点』から探っています。先王と彼の母親は何かしらの因縁があるはずですし、もと貴族のメイシアは貴重な情報源です」
そこでリュイセンは身を乗り出した。さらさらとした黒髪が肩をかすめ、イーレオに詰め寄る。
「ならば鷹刀は、『末端』から切り崩していくべきです」
「具体的には?」
「〈蝿〉を捕らえます。そして多少、荒っぽいことをしてでも、〈七つの大罪〉の現状を奴に吐かせます」
「……」
イーレオの無言の視線が、鋭く突き刺さった。ひるみそうになる心を叱りつけ、リュイセンは語気を強める。
「俺は今までに二度、奴に会っています。奴の口ぶりからすると、奴は〈七つの大罪〉に不満を抱えているようでした。身の危険を感じれば、簡単に組織を裏切り、口を割るでしょう」
ひとことひとことを丁寧に、焦ることなく言い切り、リュイセンはじっとイーレオを見つめた。
イーレオは答えるべく、口を開こうとして……それよりも早く、ローテーブルを叩く、とんっ、という小さな音に遮られる。
発生源は、エルファンだった。
「机上の空論だ。姿を消した奴を、どうやって捕まえるつもりだ?」
「父上……」
次期総帥の声が、氷の刃のようにリュイセンを斬りつける。嘲笑に頭が揺れれば、黒髪の中にまばらに混じった、白い髪までもが冷たく光った。
「リュイセン。お前は、前にも同じことを言っている。愚か者めが」
「……っ」
その通りだった。
以前、〈蝿〉のことは保留、要するに放置という方針を出されたとき、リュイセンはイーレオに強く反発した。だが彼の弁は感情論と切り捨てられ、それに対し、彼は何も言い返すことができなかった。
リュイセンは腹にくすぶる思いを抑え、唇を噛む。
そのとき、ふわりと草の香が広がった。ミンウェイの手がすっと挙がり、「よろしいでしょうか」と艷やかな声が掛かる。
「私が、囮になります」
「ミンウェイ!?」
リュイセンは驚き、彼女の美麗な顔を凝視した。
「父は私に固執しています。おそらく、隠れて私のことを監視しているでしょう。そこで私が、不用心に見える単独行動をとれば……」
「駄目だ! ミンウェイを危険に晒すわけにはいかない!」
予想外の発言にリュイセンが慌てて叫ぶと、ミンウェイは「心配ありがとう」と柔らかに笑む。その目は鏡のように凪いでいて、冷静であるのは明らかなのに、何処か危うく感じられた。
「でも……、私は……」
「違う!」
そう口走ってから、彼は思う。何故、自分は先ほどから『違う』を連発しているのだろう。――どうして皆、分からないのだろう。
リュイセンから、ゆらりと陽炎が立つような怒気が広がった。
「祖父上、ずっと疑問に思っていたことがあります!」
どんっ、とローテーブルに手をつき、彼は立ち上がる。
「何故、『鷹刀』が動かない! どうして、一族の者に〈蝿〉の名を隠そうとするのです!」
祖父は、『古い連中を不安がらせたくない』と言った。
だから一族の者たちには、今までの一連の事件は、ルイフォンが斑目一族を経済的に壊滅状態に追い込んだことで、すべて解決したと説明されている。
あとは残党狩りとして、『斑目の食客だった男』の行方を追わせているという状態だ。そいつが〈七つの大罪〉の〈悪魔〉であることを知っている者はごくわずかであり、更に〈蝿〉と名乗っていたことを知る者は果たしているのか、いないのか。
古い者を大切にしたいという、イーレオの気持ちは尊重すべきだと思う。だが、一族がすっかり安心しきっている現状は、間違っている……!
「何故、本気になって〈蝿〉を探さないのですか! 〈蝿〉は、鷹刀にとっての直接的な脅威です。奴のしたことを考えれば、一族を総動員して、草の根を分けてでも探し出すべき相手です。――どうして、そうなさらないのですか!」
一族の総帥を相手に、リュイセンは喰らいつくような眼光を向けた。
「トンツァイをはじめとする、腕利きの情報屋に手を回し、あのいけ好かない警察隊員、緋扇シュアンの人脈まで頼っているのも知っています。……けれど、あくまでも外部の人間が中心です」
ずっと不思議だった。
古い人間なら、〈蝿〉本人を知っている。捜索には有利だ。それは、不安がらせたくない、などという甘い感情よりも、優先順位が高いはずだ。
リュイセンは、大きく息を吸い込んだ。ぐっと腹に力を込め、意を決したように告げる。
「祖父上は、あの〈蝿〉を『血族』だと思ってらっしゃるのです! 一族には秘密裏に捕らえ、見せしめの類はせずに処断したいと考えてらっしゃる!」
母のユイランが、『弟のヘイシャオ』と『〈蝿〉』は『別人』だと言い切ったのを聞いて、気がついた。
イーレオは、母とは逆の見解なのだ。
ユイランにしろ、イーレオにしろ、ヘイシャオ本人が死んでいるのは承知している。その上で、現在の〈七つの大罪〉によって生き返らされた〈蝿〉を、『別人』として見るか、『血族』として見るか――。
「いい加減、はっきりさせましょう! 俺たちの前に現れた、あの『〈蝿〉』という男は、我々にとって『何者』なのか――!」
風もないのに、リュイセンの黒髪が、ぞわりと逆立つ。その姿は、目の前に立ちふさがる、すべてのものを噛み砕き、排斥しようと牙をむく若き狼だった。
一面、硝子張りの南側からは、清冽な月明かりが差し込み、純白のテーブルクロスを青白く浮かび上がらせる。そして、それを取り囲む椅子の背は、長い長い影を床に落としていた。
鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオは、足音もなくテーブルの脇を通り過ぎた。夜闇に溶けるような黒髪をなびかせ、橙色の明かりの灯る奥の厨房へと向かう。
今の時間なら、まだ料理長が明日の仕込みをしているはずだった。
「これはこれは、イーレオ様。如何なさいました?」
戸口で声を掛ければ、思った通りに返事があった。
立派な太鼓腹を揺らし、前掛けで手を拭きながら料理長が現れる。肉に埋もれそうな小さな目を丸くして、意外な人物の登場を歓迎していた。
「何かご入用ですか? お申し付けくだされば、お持ちいたしましたのに」
「いや、それには及ばない。忙しいお前の手を煩わせたら、明日の料理に支障が出るからな」
イーレオの軽い冗談に、しかし料理長は、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「イーレオ様。気の利いたことをおっしゃったおつもりでしょうが、あいにく、それしきのことで私の料理の味が変わったりはしませんよ」
ともすれば憤慨とも取れる台詞だが、料理長の福相から発せられると、ただの事実にしか聞こえない。実際、そうであろう。
「すまん。失言だった」
イーレオは、面目なさげに髪を掻き上げた。凶賊の総帥であれど、あっさり非を詫びるところが、なんともこの男らしい。
料理長は敬愛する総帥に頬を緩め、「それで、どんなご用件で?」と、このどうでもいい話題を打ち切った。
「酒を一本、見繕ってくれ」
イーレオがそう言うと、料理長はぽんと手を打つ。
「リュイセン様とお飲みになるんですね」
「いや、違うが?」
どうしてそんなことを言うのかと、イーレオは首をかしげた。
「おや、違いましたか。それなら、エルファン様とですか。ですが、エルファン様なら、先ほどご所望でしたので、メイドに部屋まで運ばせましたよ」
何故、エルファンとだと分かったのだろう? イーレオは、ぽかんと口を開ける。
その間にも、料理長は「ああ、つまみの追加はあったほうがいいですね」と、そそくさと厨房に戻って用意を始めた。
「おい、料理長。お前は人の心が読めるのか?」
「そんなこと、あるわけないじゃないですか」
肉付きのよい腹を揺らしながら、料理長が全身で笑う。
「お夕食のときの皆様のご様子ですよ」
「あ、ああ……」
なるほど、と納得しつつ、いやいや食事中に会議の話はしなかったはずだぞ、とイーレオは思い返した――。
その日の夕方、いつもの中枢たる面々が執務室に集まった。キリファが作った人工知能〈ケル〉の件で、ルイフォンとメイシアから報告があったのだ。
彼らは、キリファの死の真相を知るために〈ケル〉を訪ねていた。しかし、結果は芳しくなかった。〈ケル〉はキリファに義理立てして、その件に関しては口を閉ざしたらしい。
「人に作られた『もの』のくせに」と、リュイセンが毒づいたが、あれは『人』なのだとイーレオは知っている。この屋敷にいる〈ベロ〉が、彼を育ててくれたあの女であるように、〈ケル〉もまた『誰か』なのだ。
メイシア誘拐の冤罪事件のとき、警察隊が執務室に押し入るまでは、人工知能の〈ベロ〉は完全に傍観者に徹していた。だから、キリファにそう教えられていたことをすっかり忘れていた。というよりも、半信半疑だった、のほうが正しいかもしれない。
ともあれ、目的は空振りに終わったが、ルイフォンの顔が妙に晴れ晴れとしていたので、〈ケル〉との接触は無駄足ではなかった。
――と、話が締めくくられるところだった。
「祖父上! 何を悠長なことをおっしゃっているのですか!」
リュイセンが眦を吊り上げた。
「我々は一刻も早く、敵の正体を見極め、排除しなければなりません。さもなくば、また〈蝿〉の襲撃を受けることになります!」
固く握った拳が、どん、とローテーブルに打ちつけられる。
「我々の敵とは、すなわち、現在の〈七つの大罪〉です」
リュイセンは『現在の』に、力を込めて言い放った。
先日のイーレオの弁によれば、王族の私設研究機関としての〈七つの大罪〉は瓦解したという。組織の支配者であった先王が急死し、次代に引き継がれなかったためである。
それにも関わらず、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉を名乗る者が現れた。それはつまり、何者かが〈七つの大罪〉を手中に収めたということである。――そういう話だった。
次から次へと突きつけられた新しい話に、リュイセンの頭は破裂しそうだった。しかし、苦労してなんとか理解した。
彼は決して鋭くはない。けれど大局的には、目標を見誤ることはない。
確かな証拠がない以上、もっともらしく語られた話も、推測の域を出ないことは承知していた。その上で、彼は全部、信じることにした。
だからこそ、祖父の生ぬるい態度を許すことはできなかったのだ。
「現在の〈七つの大罪〉の支配者、つまり『黒幕』は誰か。そいつは何故、鷹刀を狙うのか。これを調べることが、我々が今、為すべきことです!」
肩までの髪をさらりと揺らし、リュイセンはぐっと顎を上げる。
目線の先はイーレオ。ひとり掛けの肘掛けソファーで、優雅に足を組んでいる祖父の姿を睨みつける。
「先王の急死によって、〈七つの大罪〉が何者かに乗っ取られたというのなら、俺は、先王を殺害した人間が『黒幕』であると考えます。つまり、先王の甥ヤンイェンです」
殺害が露見して幽閉されたものの、〈七つの大罪〉を支配することに成功し、女王の婚約者として返り咲いた男。権力を欲する野心家。リュイセンの目に、ヤンイェンはそう映った。
「けど、もと貴族のメイシアの証言によると、ヤンイェンは初めから婚約者に内定していました。となると、冤罪の可能性もあります。あるいは先王との間に、なんらかのトラブルがあったのか……」
イーレオは小さく、ほう、と息をついた。
感情のままに訴えているのかと思ったら、どうやら少し違うらしい。なかなか、考えるようになってきた。そう思い、口の端が緩やかに上がる。
「誰が、なんのために、先王を殺したのか。――『黒幕』の正体を知るためには、当時の先王を取り巻く、人間関係を洗う必要があります」
リュイセンはそこで一度、ためらった。
言い方を間違えれば、無用な論争になるのは目に見えていた。そして口達者ではない彼が、誤解される可能性は大いにある。
しかし無駄に言葉を飾っても、混乱するだけだ。だから彼は、結局、思ったままのことを口にした。
「ルイフォンの母親は、まさにこの時期の先王に殺されています。彼女が何かを知っていた可能性は、極めて高い。だから俺は、〈ケル〉からの情報に期待を寄せていました」
リュイセンは、隣に座るルイフォンをちらりと見やる。今の発言は、ルイフォンの手ぶらの帰還を責めているようにも聞こえたはずだ。
ルイフォンは腕を組んだまま、じっとしていた。いつもの好奇心旺盛な猫の目は鳴りをひそめ、無表情な〈猫〉の顔である。むしろ、反対側の隣にいるメイシアのほうが、気遣わしげに視線をさまよわせていて落ち着かない。
「すまんな」
リュイセンが気まずい思いをするよりも先に、涼し気なテノールが応えた。
意に介するふうもない、穏やかな響きに、リュイセンは戸惑う。少し前までのルイフォンなら、声色にもっと苛立ちが含まれていたはずだ。
「大手を振って出掛けたくせに、収穫なしだ」
ルイフォンは癖のある前髪を掻き上げ、肩をすくめて晴れやかに笑う。
「リュイセンの言い分はもっともだ。俺個人としては、母さんの過去も垣間見れたし、知らなかったとはいえ、さんざん世話になっていた〈ケル〉にも挨拶ができて、まずまずだった。――だが、鷹刀に対しての利益はゼロだ。悪いな」
「違う、ルイフォン!」
リュイセンは、とっさに叫んだ。
「俺は、お前を責めるつもりは、まったくない。むしろ、逆だ」
そう言って、リュイセンはこの場にいる者たちを見渡す。――主にイーレオを。
「おかしいと思いませんか? 俺は――鷹刀は、どうしてルイフォンからの情報に期待するのです?」
「どういう意味だよ?」
即座にそう返したのは、リュイセンの視線の先にいるイーレオではなく、ルイフォンだった。それまでの和やかさを返上し、すがめた猫目に険が混じる。
リュイセンは、自分の話術の不甲斐なさに溜め息をつきながら、ひとまずルイフォンを無視してイーレオに畳み掛けた。
「ルイフォンは、〈猫〉です」
「はぁ?」
「『鷹刀の対等な協力者』であって、一族ではありません」
「それがどうした?」
いちいち口を挟むルイフォンに、リュイセンのこめかみの血管が、ぴくりと浮き立った。
これは八つ当たりのような感情だ。苛立っても仕方のないものだ。だが、ずっと感じている焦燥感が――〈猫〉として独り立ちした、ルイフォンに対する劣等感が――リュイセンを刺激した。
彼は肩を怒らせ、ぐいっと体ごとルイフォンに向き直る。
「どうしたも、こうしたもないだろ!?」
「は?」
ルイフォンとて、細身ではあっても決して小柄なわけではない。だが、長身を誇る鷹刀一族の直系のリュイセンに迫られれば、自然と腰が引ける。
「どうしたんだよ、お前……?」
「〈猫〉にばかり調べさせて、鷹刀は何もしてない! ……期待していたお前の情報源が空振ったなら、今度は鷹刀の番のはずだ。なのに、お前の報告が終わって『はい、解散』じゃ、ちっとも『対等』じゃねぇ! 俺たちだって……、……俺だって動くべきだ!」
リュイセンの剣幕に面食らいながらも、ルイフォンが言い返す。
「そんなこと言ったって、諜報活動は俺の担当だし?」
「違う……!」
叫んでからリュイセンは、強く首を振り「ああ、いや。お前は必要なんだ」と、うまく言葉を操れないもどかしさに舌打ちをする。
「今回だって、〈猫〉は収穫なしじゃない。お前の母親は、哀れな被害者などではないことがはっきりした。彼女の足跡を追っていけば、いずれ先王に関わる重要な情報にたどり着くはずだ」
「そうだな」
ルイフォンは、リュイセンの態度に納得したわけではなかった。だが、言っていることは実にもっともだったので、首肯して「ともかく『手紙』の解析を急がないとな」などと呟く。
そんなルイフォンを見て、リュイセンはぐっと拳を握りしめた。〈猫〉には、やるべきことが幾らもあるのだ。そして、着実に前へと進んでいる。
だから、自分も――と、彼は思う。
リュイセンは、すぅっと大きく息を吸い込んだ。それから、ゆっくりと吐き出し、祖父を――総帥イーレオを見据える。
ぐっと胸を張り、「総帥」と鋭く呼びかけた。
「現在の〈七つの大罪〉の実態を知るために、我々ができるアプローチは、ふたつあると思います」
若々しく張りのある低音が、執務室に鳴り響く。
リュイセンは策を練るのは得意ではない。それでも、彼なりにずっと考えていたのだ。
「聞こう」
楽しげにも聞こえる、魅惑の音色が受けて立つ。リュイセンと同じ声質だが、より深く、まろみがあった。
リュイセンは、ごくりと唾を呑み、「至極、単純なことです」と口火を切った。
「組織の『頂点』から調べるか、『末端』から調べるか、のふたつです」
彼は右手でひらりと、ルイフォンとメイシアを示す。
「ルイフォンたちは――〈猫〉は、『頂点』から探っています。先王と彼の母親は何かしらの因縁があるはずですし、もと貴族のメイシアは貴重な情報源です」
そこでリュイセンは身を乗り出した。さらさらとした黒髪が肩をかすめ、イーレオに詰め寄る。
「ならば鷹刀は、『末端』から切り崩していくべきです」
「具体的には?」
「〈蝿〉を捕らえます。そして多少、荒っぽいことをしてでも、〈七つの大罪〉の現状を奴に吐かせます」
「……」
イーレオの無言の視線が、鋭く突き刺さった。ひるみそうになる心を叱りつけ、リュイセンは語気を強める。
「俺は今までに二度、奴に会っています。奴の口ぶりからすると、奴は〈七つの大罪〉に不満を抱えているようでした。身の危険を感じれば、簡単に組織を裏切り、口を割るでしょう」
ひとことひとことを丁寧に、焦ることなく言い切り、リュイセンはじっとイーレオを見つめた。
イーレオは答えるべく、口を開こうとして……それよりも早く、ローテーブルを叩く、とんっ、という小さな音に遮られる。
発生源は、エルファンだった。
「机上の空論だ。姿を消した奴を、どうやって捕まえるつもりだ?」
「父上……」
次期総帥の声が、氷の刃のようにリュイセンを斬りつける。嘲笑に頭が揺れれば、黒髪の中にまばらに混じった、白い髪までもが冷たく光った。
「リュイセン。お前は、前にも同じことを言っている。愚か者めが」
「……っ」
その通りだった。
以前、〈蝿〉のことは保留、要するに放置という方針を出されたとき、リュイセンはイーレオに強く反発した。だが彼の弁は感情論と切り捨てられ、それに対し、彼は何も言い返すことができなかった。
リュイセンは腹にくすぶる思いを抑え、唇を噛む。
そのとき、ふわりと草の香が広がった。ミンウェイの手がすっと挙がり、「よろしいでしょうか」と艷やかな声が掛かる。
「私が、囮になります」
「ミンウェイ!?」
リュイセンは驚き、彼女の美麗な顔を凝視した。
「父は私に固執しています。おそらく、隠れて私のことを監視しているでしょう。そこで私が、不用心に見える単独行動をとれば……」
「駄目だ! ミンウェイを危険に晒すわけにはいかない!」
予想外の発言にリュイセンが慌てて叫ぶと、ミンウェイは「心配ありがとう」と柔らかに笑む。その目は鏡のように凪いでいて、冷静であるのは明らかなのに、何処か危うく感じられた。
「でも……、私は……」
「違う!」
そう口走ってから、彼は思う。何故、自分は先ほどから『違う』を連発しているのだろう。――どうして皆、分からないのだろう。
リュイセンから、ゆらりと陽炎が立つような怒気が広がった。
「祖父上、ずっと疑問に思っていたことがあります!」
どんっ、とローテーブルに手をつき、彼は立ち上がる。
「何故、『鷹刀』が動かない! どうして、一族の者に〈蝿〉の名を隠そうとするのです!」
祖父は、『古い連中を不安がらせたくない』と言った。
だから一族の者たちには、今までの一連の事件は、ルイフォンが斑目一族を経済的に壊滅状態に追い込んだことで、すべて解決したと説明されている。
あとは残党狩りとして、『斑目の食客だった男』の行方を追わせているという状態だ。そいつが〈七つの大罪〉の〈悪魔〉であることを知っている者はごくわずかであり、更に〈蝿〉と名乗っていたことを知る者は果たしているのか、いないのか。
古い者を大切にしたいという、イーレオの気持ちは尊重すべきだと思う。だが、一族がすっかり安心しきっている現状は、間違っている……!
「何故、本気になって〈蝿〉を探さないのですか! 〈蝿〉は、鷹刀にとっての直接的な脅威です。奴のしたことを考えれば、一族を総動員して、草の根を分けてでも探し出すべき相手です。――どうして、そうなさらないのですか!」
一族の総帥を相手に、リュイセンは喰らいつくような眼光を向けた。
「トンツァイをはじめとする、腕利きの情報屋に手を回し、あのいけ好かない警察隊員、緋扇シュアンの人脈まで頼っているのも知っています。……けれど、あくまでも外部の人間が中心です」
ずっと不思議だった。
古い人間なら、〈蝿〉本人を知っている。捜索には有利だ。それは、不安がらせたくない、などという甘い感情よりも、優先順位が高いはずだ。
リュイセンは、大きく息を吸い込んだ。ぐっと腹に力を込め、意を決したように告げる。
「祖父上は、あの〈蝿〉を『血族』だと思ってらっしゃるのです! 一族には秘密裏に捕らえ、見せしめの類はせずに処断したいと考えてらっしゃる!」
母のユイランが、『弟のヘイシャオ』と『〈蝿〉』は『別人』だと言い切ったのを聞いて、気がついた。
イーレオは、母とは逆の見解なのだ。
ユイランにしろ、イーレオにしろ、ヘイシャオ本人が死んでいるのは承知している。その上で、現在の〈七つの大罪〉によって生き返らされた〈蝿〉を、『別人』として見るか、『血族』として見るか――。
「いい加減、はっきりさせましょう! 俺たちの前に現れた、あの『〈蝿〉』という男は、我々にとって『何者』なのか――!」
風もないのに、リュイセンの黒髪が、ぞわりと逆立つ。その姿は、目の前に立ちふさがる、すべてのものを噛み砕き、排斥しようと牙をむく若き狼だった。