残酷な描写あり
4.響き合いの光と影-2
携帯端末の情報からファンルゥの現在位置を割り出し、ルイフォンとリュイセンはすぐに空き部屋をあとにした。
幸い、彼女のいる場所は、厨房からも会食会場からも離れていた。ふたりが到着する前に誰かに見つかってしまう可能性は、まずないだろう。
そう思って安心していたのだが、現場に近づくに連れ、ルイフォンは焦ってきた。カメラの映像からは分からなかったのだが、そこは近くに人がいないどころか、何十年にも渡り、誰も立ち入ったことがないのではないかと疑いたくなるような廃墟だったのだ。
「うげ……、蜘蛛の巣が張ってやがる。この館は、本当に王族の持ち物なのかよ」
引っかかってしまった蜘蛛の糸を払いながら、リュイセンが毒づいた。
「菖蒲園や館の中心部分は、きちんと手入れをしていたようだけど、それ以上は管理する予算がなかったんだろうな」
ルイフォンの見解は、なかなか辛辣だが、おそらく真実だろう。
ともあれ、閉ざされた空間特有の、鼻につくような臭いを掻き分け、ふたりは階段を上がった。そうして、ファンルゥがいると思しき階まで登りきったとき、彼らは思わず足を止めた。
目の前に、もとは鮮やかであったであろう緋毛氈の敷かれた長い廊下が広がっていた。そして、その上を、帯状の光が優雅に揺れる……。
あたり一面に浮遊した埃の粒子によって、窓からの陽光が乱反射しているだけなのであるが、なんとも幻想的な光景だった。
「そこら中、埃まみれ、って証拠なんだけど……、妙に綺麗だな」
ルイフォンの素朴な感想に、リュイセンも頷く。彼らが動くたび、そこから生じる空気の流れが、ふわりと光を漂わせた。
しかし、見惚れているわけにはいかない。この奥にファンルゥが迷い込んでいる。
そして、明るいのは階段を上がりきったここだけで、先は雨戸が下ろされているために暗がりなのだ。
建てつけが悪くなってきたからなのか、時折、眩しい光の入る隙間の空いた雨戸があるが、光が強いほどに、影は濃くなる。深い闇に沈んだ廊下は、小さなファンルゥにとって危険な場所だろう。
埃の床には、頼りなげな足跡が点々と残っている。
ふたりは無言で歩き始めた。
光に慣れた目が、闇を受け入れるまでには、しばらく時間が掛かる。訓練を積んだリュイセンとは違い、ルイフォンは半ば感覚で進んでいた。
「見つけたぞ」
前を歩いていた兄貴分の気配が止まり、声が響く。
ルイフォンも目を凝らして見やれば、まっすぐな廊下の先に、隙間から差し込む光の筋。――そして、その後ろ。光に霞むように、ぽつんと黒い、小さな影がひとつ。
「……っ! ひぃぁ!」
ルイフォンもリュイセンも、特に気配を消したりはしなかったので、ファンルゥは近づいてくる足音に脅えていた。「見つけた」との声と、先導していたリュイセンの大柄な体は、遠目には〈蝿〉の私兵の荒くれ者に見えたのだろう。彼女は声にならない悲鳴を上げて一目散に逃げ出した。
「……っ」
リュイセンは思わず手を伸ばしかけ、途中で止めた。
本気になって追いかければ、あっという間に捕まるのは分かっている。しかし、それは正解ではないと、彼は思ったのだ。
苦虫を噛み潰したような顔で、リュイセンは「おい」と、ルイフォンを振り返る。
「お前が追いかけろ」
「お前、相変わらず、子供が苦手なんだなぁ」
「悪いかっ! ともかく、お前に任せる」
前を行く役を交代だ、とばかりにリュイセンが掲げた手を、「仕方ねぇな」とルイフォンは軽くはたいた。それから彼は、猫のようにしなやかに、走るというよりはステップを踏むように、ファンルゥを追いかける。
「おーい!」
このあたりに人がいないことは分かっている。だから、声を出しても大丈夫。――とはいえ、控えめに。しかし場違いに明るい声で、ルイフォンは手を振った。
「ファンルゥ! 俺だよ!」
「!」
名前を呼ばれたことに驚いたのだろう。ファンルゥが、くるりと身を翻した。
彼女からすれば、てっきり怖いおじさんが「こらっ!」と怒鳴ってくるのだと思っていたに違いない。くりくりとした丸い目を更に丸くして、「ああっ!」と叫ぶ。
「ルイフォンだ! リュイセンもいるっ!」
子供特有の、甲高い声が響いた。
見知った顔に安堵したファンルゥは、元気に髪を跳ねかせながら駆け寄ってきた。彼女がぶんぶんと大きく手を振ると、腕輪を飾る模造石が差し込んできた光をきらりと弾き返す。
彼女は叫んだ。
「ファンルゥ、あの子のところに行かなきゃいけないの!」
以前、ファンルゥがふたりと出会った場所が斑目一族の別荘で、そのとき彼らが見回りの凶賊のふりをしたからだろう。彼女は、彼らのことを父親の仕事仲間だと信じていた。そして彼らが、今日はお客さんの護衛としてこの館に来たのだと言うと、すんなり受け入れた。――それは真実ではないが、まったくの嘘でもない。
しかし……。
「あの子は、ひとりで寂しいの。ファンルゥが行ってあげなきゃいけないの!」
初めは要領を得なかったファンルゥの訴えも、根気強く聞いていくうちに理解できてきた。
彼女は、窓から車椅子のハオリュウを見つけて、医者である〈蝿〉の患者だと勘違いしたのだ。そして、励ましてあげたいと部屋を飛び出した。
それは彼女の優しさと、そして寂しさから生まれた思いだった。
「そうか……」
ルイフォンは、複雑な思いで頷いた。
「ファンルゥは、いい子だな」
彼女は、太い眉をぎゅっと寄せ、口元を硬く結んでいた。今にもこぼれ落ちそうな涙を必死にこらえているのだ。意思の強そうな顔つきは、父親のタオロンにそっくりである。
勝手に部屋を抜け出したのは、悪いことだと知っている。今から、部屋に連れ戻されるのだと分かっている。
でも、その前に、顔見知りのルイフォンたちなら、『あの子』のところに寄ってくれるのではないかと淡い期待を抱き、どうやらそれは無理そうだと察しているのだ。
賢い子だった。
「ルイフォン! ファンルゥが行ってあげないと、駄目なの!」
ぐっと上を向いた拍子に、ぽろりと涙がこぼれた。
ルイフォンの胸が、ちくりと痛む。
病弱な『あの子』は、ファンルゥの空想の中にしかいないのだから、会わせることは不可能だ。現実のハオリュウだって、摂政との会食の真っ最中である。
彼女の思いを無下にしたくはないが、どうしようもない。それよりも、すみやかに彼女を部屋に帰すためには、なんと言えばよいのか。画策している自分に嫌気が差す。
「ルイフォン?」
あれこれ思案していたために押し黙ってしまったルイフォンを、ファンルゥの大きな瞳が覗き込んでいた。睫毛の間には涙の欠片が残っていて、彼女が瞬きをすると弾け飛び、すっと闇に解けていく。
「あ、ごめん」
「……いいもん、……ファンルゥ、知ってるもん。パパも、時々、そうだもん。ファンルゥには言えないけど、『駄目』ってとき。……そういうときのパパ、辛そうなの」
うつむいた拍子に、一瞬だけファンルゥの顔に光が当たった。だが、それはルイフォンに涙の道筋を示しただけで、彼女は再び影に捕らわれる。
「ファンルゥ……」
「ファンルゥ、馬鹿じゃないもん。分かっているもん。……あの子のところに行くの、『駄目』なんだ、ね」
最後のひとことは、しゃくりあげる息と混じり、不鮮明になってしまっていたが、気持ちは充分に伝わってきた。
「ファンルゥ……、ごめんな」
そんな薄っぺらい謝罪にも、我慢することに慣れてしまったファンルゥは、大きく何度も首を振った。場違いに元気に揺れる、ぴょこぴょこ跳ねた癖っ毛が物悲しい。
だからだろう。ルイフォンの口をこんな言葉が衝いて出た。
「タオロンに伝えてほしい」
「パパに?」
「ああ。『俺たちは、ここに居る』って」
万が一を考えれば、〈蝿〉にふたりの潜入がばれてしまうようなことはすべきではない。タオロンにすら、隠しておくべきだろう。だが、どうしても、伝えたくなったのだ。
「ルイフォンたちが、ここでお仕事をしている、って言えばいいの?」
「ああ。それで、あいつには分かる。驚いて、喜んでくれると思うんだ。ファンルゥも、タオロンが喜ぶところを見たいだろ?」
タオロンが喜べば、その姿を見たファンルゥもまた、嬉しくなるに違いない。
ファンルゥを笑顔にしてやりたい。――そう思ったのだ。
初めはきょとんとしていたファンルゥだったが、やがて大事なことを頼まれたのだと感じてくれたらしい。つぶらな目を輝かせ、元気に頷いた。
「ファンルゥ、約束する。ちゃんと、パパに伝える!」
そうして、ファンルゥが部屋に戻ることを了承したとき、不意にリュイセンが無愛想に口を開いた。
「ファンルゥ。……絵を、預かってやる」
子供は苦手のリュイセンとは思えない台詞だった。
ルイフォンは、間抜けな形に口を開けたまま固まった。
彼らしくないというのは、リュイセン本人にも自覚があるらしい。黄金比の美貌を歪め、照れ隠しの仏頂面になっている。
「お前が部屋を出た目的は、病気の子に絵を贈るためだ。それは叶わなかったが、あの子の護衛の俺が、代わりに届けてやったら、半分くらいは達成できたことになるだろう?」
ファンルゥは癖っ毛を揺らしながら、首をかしげた。リュイセンの言葉が難しくて、理解できなかったのだ。
ルイフォンが苦笑しながら、「リュイセンが、あの子に絵を届けてくれる、ってよ」と言い換えると、ファンルゥは次第に顔をほころばせ、やがて満面の笑顔になった。
「リュイセン! ありがとう!」
彼女は、リュイセンの長い足に、ぴょんとしがみつくと、すりすりと頬をすり寄せた。
ファンルゥのことは、彼女の部屋の近くの非常階段まで送った。雨どいを伝って、窓から入るのだという。さすが、タオロンの娘である。
「お部屋の扉は、ビービーだから駄目なの」
そう言って、彼女は腕輪を見せてくれた。
貴金属としては価値のない、模造石で飾られたものであるが、なかなかセンスが良い。それをくれたのがタオロンではなく、〈蝿〉と聞いて、ルイフォンは納得した。彼女を部屋に閉じ込めるための代物というのは、気に食わなかったが……。
ファンルゥの後ろ姿が窓の中に消えたのを見届けると、ルイフォンとリュイセンは本来の目的地である倉庫に向かい始めた。
「なぁ……」
ふと、リュイセンが小声で話しかけてきた。
「俺たちは、〈蝿〉を捕らえると同時に、タオロンとファンルゥを解放しに来たんだよな? だったら、ファンルゥを部屋に戻さずに、保護しちまってもよかったんじゃないか? そしたら、タオロンも自由に動けるわけだし……」
「ああ。それは、俺もちらっと考えたんだけど……、無理だろうな、と思って」
癖のある前髪をくしゃりと掻き上げるルイフォンに、リュイセンの目線がどういうことだと尋ねる。
「無理というか、可哀想だろ。子供のファンルゥを、夜になるまで、おとなしく俺たちのそばで待たせる、ってのはさ。それに、彼女の脱走がばれれば騒ぎになる。できるだけ不測の事態は避けたいし……」
「それもそうか」
「囚われのお姫様は、最後に助け出されることになっているんだよ。それまで、窮屈だけれど、安全なところにいてもらおう」
そして、ルイフォンは猫の目を細めて微笑む。
救出されたお姫様を待っているのは、残念ながら王子様ではない。
けれど、幾つもの手が、光の世界から差し伸べられているのだ――。
ハオリュウが今回の作戦を提案したあと、ルイフォンとリュイセンは草薙家に呼ばれた。リュイセンの義姉シャンリーが「タオロンに関して話がある」と言ってきたのだ。
「あの坊やの枷になっているのは、娘だ」
シャンリーは言い切った。
彼女が『坊や』と呼んでいる相手は、タオロンである。シャンリーとタオロンは以前、刀を合わせたことがあり、この言い方が許されるほど、ふたりの実力に差があったわけだが、どちらかというと親しみを込めてのことのようだった。
「『枷』なんて言ったら、あいつは怒ると思うぞ」
「まぁまぁ、それは言葉の綾だよ」
ルイフォンの反論に、シャンリーはからからと笑い、続ける。
「かつて、坊やは斑目から抜けようとした。だが、彼が働きに出ている間に妻は殺され、娘は連れ戻された」
合っているか、と確認するような視線に、ルイフォンは黙って頷く。
「その後、彼は二度と逃げていない。娘を守ることと、生活の糧を得ることを両立できないからだ。――そうだったな?」
「ああ」
「では――現在。坊やと娘は〈蝿〉の庇護下に身を置くことで、斑目から守られている。だが、鷹刀が〈蝿〉を捕まえたら、ふたりはどうなる?」
女性にしては低い声を更に沈め、シャンリーは尋ねた。
鋭く厳しい指摘だった。
ルイフォンは息を呑み、うめくように呟く。
「このままじゃ、タオロンは心情的には俺たちの味方だったとしても、俺たちに協力すれば自分の首を絞めることになるのか……」
「そういうことだ」
シャンリーはそう答えると、そばにいた夫のレイウェンをちらりと見やった。
「ルイフォンさん。そこで、お話があるのですが、よろしいでしょうか」
魅惑の低音が、穏やかに響く。
「は、はい」
鷹刀一族特有の、見慣れた顔、聞き慣れた声にも関わらず、柔らかな物腰で話しかけられると、何故か緊張に背筋が伸びた。決してレイウェンが嫌いなわけではないが、どうにもやりにくい。
「斑目タオロン氏を確実に手に入れる方法です」
「何!?」
「タオロン氏に伝えてください。『住み込みで、草薙で働きませんか。勿論、お嬢さんと一緒に』――と」
「え?」
唐突な申し出に、ルイフォンの頭が追いつかない。
「シャンリーの推薦ですよ」
甘やかな声の隣で、シャンリーが深々と頷いた。
彼女は、タオロンの潔い見事な土下座っぷりに惚れ込んでいた。また、生真面目すぎる性格と、腕っぷしの強さを高く評価し、草薙家の経営する警備会社に引き抜きたいと考えたのだ。
「あの坊やは、悪人どもに顎で使われていい人材じゃない。是非とも草薙に欲しい。住み込みなら、坊やが仕事に行っている間は、私かユイラン様が娘の面倒をみられる」
「本当か!?」
「勿論だ」
気持ちのよい即答だった。
「あの坊やと娘を、日の当たるところに引っ張り出してやれ」
聞けば、ユイランとクーティエも了承済みとのことだった。
ユイランは、洋服の作り甲斐のありそうな元気な女の子の到着を、手ぐすね引いて待ちわびているという。おとなしい子よりも、激しく動いて、かぎざきを作ってくるような子のほうが、やる気が出るらしい。そんなお転婆娘の代表であるクーティエは、お姉さんとして世話を焼いてやるのだと、こちらもとても張り切っているそうだ。
「それにな。坊やの娘だって、いつまでも親に守られているだけじゃ駄目だろう?」
険しい声でシャンリーは言い、それから、にやりと嗤った。
「私が鍛えてやる。あの坊やの娘なら素質があるだろう。自分で身を守れるようになれば、坊やも、その子も、自由になれる」
まだ五歳にもならない子供に対して厳しい言葉ではあったが、ファンルゥの将来を思った優しさだった。
車に隠れて館に侵入する作戦を提案したハオリュウは、脱出方法を保証しない自分を無責任だと言った。タオロンの協力に賭けるしかないと、申し訳なさそうに眉を曇らせた。
しかし、これだけの好条件を提示すれば、タオロンに否やがあるはずもないのだ。
今回の作戦の目的は、〈蝿〉を捕らえることだけではない。
敵対関係にありながらも、ずっと、すれ違いながら協力してくれていたタオロンを、光の中へと救い出すものでもあった。
「待っていろよ、タオロン……!」
幸い、彼女のいる場所は、厨房からも会食会場からも離れていた。ふたりが到着する前に誰かに見つかってしまう可能性は、まずないだろう。
そう思って安心していたのだが、現場に近づくに連れ、ルイフォンは焦ってきた。カメラの映像からは分からなかったのだが、そこは近くに人がいないどころか、何十年にも渡り、誰も立ち入ったことがないのではないかと疑いたくなるような廃墟だったのだ。
「うげ……、蜘蛛の巣が張ってやがる。この館は、本当に王族の持ち物なのかよ」
引っかかってしまった蜘蛛の糸を払いながら、リュイセンが毒づいた。
「菖蒲園や館の中心部分は、きちんと手入れをしていたようだけど、それ以上は管理する予算がなかったんだろうな」
ルイフォンの見解は、なかなか辛辣だが、おそらく真実だろう。
ともあれ、閉ざされた空間特有の、鼻につくような臭いを掻き分け、ふたりは階段を上がった。そうして、ファンルゥがいると思しき階まで登りきったとき、彼らは思わず足を止めた。
目の前に、もとは鮮やかであったであろう緋毛氈の敷かれた長い廊下が広がっていた。そして、その上を、帯状の光が優雅に揺れる……。
あたり一面に浮遊した埃の粒子によって、窓からの陽光が乱反射しているだけなのであるが、なんとも幻想的な光景だった。
「そこら中、埃まみれ、って証拠なんだけど……、妙に綺麗だな」
ルイフォンの素朴な感想に、リュイセンも頷く。彼らが動くたび、そこから生じる空気の流れが、ふわりと光を漂わせた。
しかし、見惚れているわけにはいかない。この奥にファンルゥが迷い込んでいる。
そして、明るいのは階段を上がりきったここだけで、先は雨戸が下ろされているために暗がりなのだ。
建てつけが悪くなってきたからなのか、時折、眩しい光の入る隙間の空いた雨戸があるが、光が強いほどに、影は濃くなる。深い闇に沈んだ廊下は、小さなファンルゥにとって危険な場所だろう。
埃の床には、頼りなげな足跡が点々と残っている。
ふたりは無言で歩き始めた。
光に慣れた目が、闇を受け入れるまでには、しばらく時間が掛かる。訓練を積んだリュイセンとは違い、ルイフォンは半ば感覚で進んでいた。
「見つけたぞ」
前を歩いていた兄貴分の気配が止まり、声が響く。
ルイフォンも目を凝らして見やれば、まっすぐな廊下の先に、隙間から差し込む光の筋。――そして、その後ろ。光に霞むように、ぽつんと黒い、小さな影がひとつ。
「……っ! ひぃぁ!」
ルイフォンもリュイセンも、特に気配を消したりはしなかったので、ファンルゥは近づいてくる足音に脅えていた。「見つけた」との声と、先導していたリュイセンの大柄な体は、遠目には〈蝿〉の私兵の荒くれ者に見えたのだろう。彼女は声にならない悲鳴を上げて一目散に逃げ出した。
「……っ」
リュイセンは思わず手を伸ばしかけ、途中で止めた。
本気になって追いかければ、あっという間に捕まるのは分かっている。しかし、それは正解ではないと、彼は思ったのだ。
苦虫を噛み潰したような顔で、リュイセンは「おい」と、ルイフォンを振り返る。
「お前が追いかけろ」
「お前、相変わらず、子供が苦手なんだなぁ」
「悪いかっ! ともかく、お前に任せる」
前を行く役を交代だ、とばかりにリュイセンが掲げた手を、「仕方ねぇな」とルイフォンは軽くはたいた。それから彼は、猫のようにしなやかに、走るというよりはステップを踏むように、ファンルゥを追いかける。
「おーい!」
このあたりに人がいないことは分かっている。だから、声を出しても大丈夫。――とはいえ、控えめに。しかし場違いに明るい声で、ルイフォンは手を振った。
「ファンルゥ! 俺だよ!」
「!」
名前を呼ばれたことに驚いたのだろう。ファンルゥが、くるりと身を翻した。
彼女からすれば、てっきり怖いおじさんが「こらっ!」と怒鳴ってくるのだと思っていたに違いない。くりくりとした丸い目を更に丸くして、「ああっ!」と叫ぶ。
「ルイフォンだ! リュイセンもいるっ!」
子供特有の、甲高い声が響いた。
見知った顔に安堵したファンルゥは、元気に髪を跳ねかせながら駆け寄ってきた。彼女がぶんぶんと大きく手を振ると、腕輪を飾る模造石が差し込んできた光をきらりと弾き返す。
彼女は叫んだ。
「ファンルゥ、あの子のところに行かなきゃいけないの!」
以前、ファンルゥがふたりと出会った場所が斑目一族の別荘で、そのとき彼らが見回りの凶賊のふりをしたからだろう。彼女は、彼らのことを父親の仕事仲間だと信じていた。そして彼らが、今日はお客さんの護衛としてこの館に来たのだと言うと、すんなり受け入れた。――それは真実ではないが、まったくの嘘でもない。
しかし……。
「あの子は、ひとりで寂しいの。ファンルゥが行ってあげなきゃいけないの!」
初めは要領を得なかったファンルゥの訴えも、根気強く聞いていくうちに理解できてきた。
彼女は、窓から車椅子のハオリュウを見つけて、医者である〈蝿〉の患者だと勘違いしたのだ。そして、励ましてあげたいと部屋を飛び出した。
それは彼女の優しさと、そして寂しさから生まれた思いだった。
「そうか……」
ルイフォンは、複雑な思いで頷いた。
「ファンルゥは、いい子だな」
彼女は、太い眉をぎゅっと寄せ、口元を硬く結んでいた。今にもこぼれ落ちそうな涙を必死にこらえているのだ。意思の強そうな顔つきは、父親のタオロンにそっくりである。
勝手に部屋を抜け出したのは、悪いことだと知っている。今から、部屋に連れ戻されるのだと分かっている。
でも、その前に、顔見知りのルイフォンたちなら、『あの子』のところに寄ってくれるのではないかと淡い期待を抱き、どうやらそれは無理そうだと察しているのだ。
賢い子だった。
「ルイフォン! ファンルゥが行ってあげないと、駄目なの!」
ぐっと上を向いた拍子に、ぽろりと涙がこぼれた。
ルイフォンの胸が、ちくりと痛む。
病弱な『あの子』は、ファンルゥの空想の中にしかいないのだから、会わせることは不可能だ。現実のハオリュウだって、摂政との会食の真っ最中である。
彼女の思いを無下にしたくはないが、どうしようもない。それよりも、すみやかに彼女を部屋に帰すためには、なんと言えばよいのか。画策している自分に嫌気が差す。
「ルイフォン?」
あれこれ思案していたために押し黙ってしまったルイフォンを、ファンルゥの大きな瞳が覗き込んでいた。睫毛の間には涙の欠片が残っていて、彼女が瞬きをすると弾け飛び、すっと闇に解けていく。
「あ、ごめん」
「……いいもん、……ファンルゥ、知ってるもん。パパも、時々、そうだもん。ファンルゥには言えないけど、『駄目』ってとき。……そういうときのパパ、辛そうなの」
うつむいた拍子に、一瞬だけファンルゥの顔に光が当たった。だが、それはルイフォンに涙の道筋を示しただけで、彼女は再び影に捕らわれる。
「ファンルゥ……」
「ファンルゥ、馬鹿じゃないもん。分かっているもん。……あの子のところに行くの、『駄目』なんだ、ね」
最後のひとことは、しゃくりあげる息と混じり、不鮮明になってしまっていたが、気持ちは充分に伝わってきた。
「ファンルゥ……、ごめんな」
そんな薄っぺらい謝罪にも、我慢することに慣れてしまったファンルゥは、大きく何度も首を振った。場違いに元気に揺れる、ぴょこぴょこ跳ねた癖っ毛が物悲しい。
だからだろう。ルイフォンの口をこんな言葉が衝いて出た。
「タオロンに伝えてほしい」
「パパに?」
「ああ。『俺たちは、ここに居る』って」
万が一を考えれば、〈蝿〉にふたりの潜入がばれてしまうようなことはすべきではない。タオロンにすら、隠しておくべきだろう。だが、どうしても、伝えたくなったのだ。
「ルイフォンたちが、ここでお仕事をしている、って言えばいいの?」
「ああ。それで、あいつには分かる。驚いて、喜んでくれると思うんだ。ファンルゥも、タオロンが喜ぶところを見たいだろ?」
タオロンが喜べば、その姿を見たファンルゥもまた、嬉しくなるに違いない。
ファンルゥを笑顔にしてやりたい。――そう思ったのだ。
初めはきょとんとしていたファンルゥだったが、やがて大事なことを頼まれたのだと感じてくれたらしい。つぶらな目を輝かせ、元気に頷いた。
「ファンルゥ、約束する。ちゃんと、パパに伝える!」
そうして、ファンルゥが部屋に戻ることを了承したとき、不意にリュイセンが無愛想に口を開いた。
「ファンルゥ。……絵を、預かってやる」
子供は苦手のリュイセンとは思えない台詞だった。
ルイフォンは、間抜けな形に口を開けたまま固まった。
彼らしくないというのは、リュイセン本人にも自覚があるらしい。黄金比の美貌を歪め、照れ隠しの仏頂面になっている。
「お前が部屋を出た目的は、病気の子に絵を贈るためだ。それは叶わなかったが、あの子の護衛の俺が、代わりに届けてやったら、半分くらいは達成できたことになるだろう?」
ファンルゥは癖っ毛を揺らしながら、首をかしげた。リュイセンの言葉が難しくて、理解できなかったのだ。
ルイフォンが苦笑しながら、「リュイセンが、あの子に絵を届けてくれる、ってよ」と言い換えると、ファンルゥは次第に顔をほころばせ、やがて満面の笑顔になった。
「リュイセン! ありがとう!」
彼女は、リュイセンの長い足に、ぴょんとしがみつくと、すりすりと頬をすり寄せた。
ファンルゥのことは、彼女の部屋の近くの非常階段まで送った。雨どいを伝って、窓から入るのだという。さすが、タオロンの娘である。
「お部屋の扉は、ビービーだから駄目なの」
そう言って、彼女は腕輪を見せてくれた。
貴金属としては価値のない、模造石で飾られたものであるが、なかなかセンスが良い。それをくれたのがタオロンではなく、〈蝿〉と聞いて、ルイフォンは納得した。彼女を部屋に閉じ込めるための代物というのは、気に食わなかったが……。
ファンルゥの後ろ姿が窓の中に消えたのを見届けると、ルイフォンとリュイセンは本来の目的地である倉庫に向かい始めた。
「なぁ……」
ふと、リュイセンが小声で話しかけてきた。
「俺たちは、〈蝿〉を捕らえると同時に、タオロンとファンルゥを解放しに来たんだよな? だったら、ファンルゥを部屋に戻さずに、保護しちまってもよかったんじゃないか? そしたら、タオロンも自由に動けるわけだし……」
「ああ。それは、俺もちらっと考えたんだけど……、無理だろうな、と思って」
癖のある前髪をくしゃりと掻き上げるルイフォンに、リュイセンの目線がどういうことだと尋ねる。
「無理というか、可哀想だろ。子供のファンルゥを、夜になるまで、おとなしく俺たちのそばで待たせる、ってのはさ。それに、彼女の脱走がばれれば騒ぎになる。できるだけ不測の事態は避けたいし……」
「それもそうか」
「囚われのお姫様は、最後に助け出されることになっているんだよ。それまで、窮屈だけれど、安全なところにいてもらおう」
そして、ルイフォンは猫の目を細めて微笑む。
救出されたお姫様を待っているのは、残念ながら王子様ではない。
けれど、幾つもの手が、光の世界から差し伸べられているのだ――。
ハオリュウが今回の作戦を提案したあと、ルイフォンとリュイセンは草薙家に呼ばれた。リュイセンの義姉シャンリーが「タオロンに関して話がある」と言ってきたのだ。
「あの坊やの枷になっているのは、娘だ」
シャンリーは言い切った。
彼女が『坊や』と呼んでいる相手は、タオロンである。シャンリーとタオロンは以前、刀を合わせたことがあり、この言い方が許されるほど、ふたりの実力に差があったわけだが、どちらかというと親しみを込めてのことのようだった。
「『枷』なんて言ったら、あいつは怒ると思うぞ」
「まぁまぁ、それは言葉の綾だよ」
ルイフォンの反論に、シャンリーはからからと笑い、続ける。
「かつて、坊やは斑目から抜けようとした。だが、彼が働きに出ている間に妻は殺され、娘は連れ戻された」
合っているか、と確認するような視線に、ルイフォンは黙って頷く。
「その後、彼は二度と逃げていない。娘を守ることと、生活の糧を得ることを両立できないからだ。――そうだったな?」
「ああ」
「では――現在。坊やと娘は〈蝿〉の庇護下に身を置くことで、斑目から守られている。だが、鷹刀が〈蝿〉を捕まえたら、ふたりはどうなる?」
女性にしては低い声を更に沈め、シャンリーは尋ねた。
鋭く厳しい指摘だった。
ルイフォンは息を呑み、うめくように呟く。
「このままじゃ、タオロンは心情的には俺たちの味方だったとしても、俺たちに協力すれば自分の首を絞めることになるのか……」
「そういうことだ」
シャンリーはそう答えると、そばにいた夫のレイウェンをちらりと見やった。
「ルイフォンさん。そこで、お話があるのですが、よろしいでしょうか」
魅惑の低音が、穏やかに響く。
「は、はい」
鷹刀一族特有の、見慣れた顔、聞き慣れた声にも関わらず、柔らかな物腰で話しかけられると、何故か緊張に背筋が伸びた。決してレイウェンが嫌いなわけではないが、どうにもやりにくい。
「斑目タオロン氏を確実に手に入れる方法です」
「何!?」
「タオロン氏に伝えてください。『住み込みで、草薙で働きませんか。勿論、お嬢さんと一緒に』――と」
「え?」
唐突な申し出に、ルイフォンの頭が追いつかない。
「シャンリーの推薦ですよ」
甘やかな声の隣で、シャンリーが深々と頷いた。
彼女は、タオロンの潔い見事な土下座っぷりに惚れ込んでいた。また、生真面目すぎる性格と、腕っぷしの強さを高く評価し、草薙家の経営する警備会社に引き抜きたいと考えたのだ。
「あの坊やは、悪人どもに顎で使われていい人材じゃない。是非とも草薙に欲しい。住み込みなら、坊やが仕事に行っている間は、私かユイラン様が娘の面倒をみられる」
「本当か!?」
「勿論だ」
気持ちのよい即答だった。
「あの坊やと娘を、日の当たるところに引っ張り出してやれ」
聞けば、ユイランとクーティエも了承済みとのことだった。
ユイランは、洋服の作り甲斐のありそうな元気な女の子の到着を、手ぐすね引いて待ちわびているという。おとなしい子よりも、激しく動いて、かぎざきを作ってくるような子のほうが、やる気が出るらしい。そんなお転婆娘の代表であるクーティエは、お姉さんとして世話を焼いてやるのだと、こちらもとても張り切っているそうだ。
「それにな。坊やの娘だって、いつまでも親に守られているだけじゃ駄目だろう?」
険しい声でシャンリーは言い、それから、にやりと嗤った。
「私が鍛えてやる。あの坊やの娘なら素質があるだろう。自分で身を守れるようになれば、坊やも、その子も、自由になれる」
まだ五歳にもならない子供に対して厳しい言葉ではあったが、ファンルゥの将来を思った優しさだった。
車に隠れて館に侵入する作戦を提案したハオリュウは、脱出方法を保証しない自分を無責任だと言った。タオロンの協力に賭けるしかないと、申し訳なさそうに眉を曇らせた。
しかし、これだけの好条件を提示すれば、タオロンに否やがあるはずもないのだ。
今回の作戦の目的は、〈蝿〉を捕らえることだけではない。
敵対関係にありながらも、ずっと、すれ違いながら協力してくれていたタオロンを、光の中へと救い出すものでもあった。
「待っていろよ、タオロン……!」