残酷な描写あり
4.響き合いの光と影-3
足音に気をつけなくとも、自然に音が吸い込まれる。そんな上質な絨毯の上を、ルイフォンとリュイセンは歩いていく。彼らが目指すのは、夜までの待機場所として目星をつけておいた、〈蝿〉の起居する部屋にほど近い倉庫だった。
「このへんは、やけに綺麗だな。ファンルゥが迷い込んでいたところとは雲泥の差だ」
リュイセンが声を潜めて呟いた。
彼の言う通り、階段の手すりは細部まで丁寧に磨かれ、壁紙は頻繁に張り替えられているのか、傷みどころか日に焼けたあとすらない。全体的な造りも、如何にも王族の別荘といった豪華絢爛な様相を呈しており、雰囲気そのものが違っている。
「〈蝿〉が使っているのは、もと王の私室だからな。館が無人の間も、このあたりは手入れがなされていたんだろう」
私兵たちには隅の使用人の部屋を使わせ、自分は王の部屋に構えるという〈蝿〉が決めた配置を知ったとき、〈蝿〉も偉ぶりたいのかと、ルイフォンは失笑した。しかし、いざ現場に来て、一部を除き埃まみれの実態を知ると、気持ちは分からないでもないなと苦笑が漏れた。
会食の最中を狙っての移動は正解だったようで、ふたりは拍子抜けするほどあっさりと目的の区画にたどり着いた。
倉庫は、すぐそこだ。
そして――。
ルイフォンとリュイセンは無言で視線を交わし合い、倉庫より手前にある部屋の、豪奢な扉を見やる。
ひと目でそれと分かる、優美な意匠。翼を広げた天空神フェイレンの彫刻。王の――現在は〈蝿〉の――居室だ。
神は地上のあらゆることを見通すという神話を引用したものらしく、天空から下界を見下ろす構図だった。着色されていない材であるのに、柔らかに彫り上げた髪の毛は白金に輝いて見え、涼やかな目元は青灰色を連想させる。
思わず口笛を吹きたくなるような、見事な細工だ。
だが、〈七つの大罪〉にクローンを作らせるまでして無理に存続させているという、王家の真実を知ったあとでは、ただの虚しい偶像に見えた。
「……」
神などというものは、所詮、神話の中にしか存在しないのだ。
黒髪黒目の民の中で、何かの偶然により特異な姿で生まれた者が、神を創り、代理人を騙った。王の起源は、そんなところに違いない。
その異質な姿を、崇拝の象徴としてしまったが故に、子孫たちが〈悪魔〉を頼る。
そう思うと、現在、この部屋の主が王ではなく、〈悪魔〉の〈蝿〉に取って代わられていることが、王の立場を暗示しているような気がした。
――いや……。
ルイフォンの猫の目が、すっと細まった。鋭い目元に、険が帯びる。
この推測は、だいたいは合っているであろう。
だが、完璧ではない。
『ライシェン』は、特別な王であるはずなのだ。
ルイフォンが、ぐっと拳に力を入れたとき、リュイセンに背中を叩かれた。
兄貴分の静かな眼差しが『行くぞ』と告げ、扉の前を通り過ぎる。ルイフォンは黙って、あとに続いた。
――今は無人の、この部屋に、夜になったら〈蝿〉が戻ってくる。
奴を捕らえ、何故、メイシアを狙ったのかを問いただす。
そして、『デヴァイン・シンフォニア計画』と『ライシェン』について、洗いざらい吐き出させる。
それから……。
ルイフォンの足が、再び止まった。そして、どこでもない場所を――虚空を見やる。
生まれながらの〈天使〉だったという、異父姉セレイエ。
おそらくは、『デヴァイン・シンフォニア計画』を企てた張本人。
〈蝿〉から、彼女のことを聞き出す。そこに、どんな真実が隠されているとしても……。
すべては今夜だ。
もぬけの殻の部屋を前に、斑目タオロンは呆然としていた。
娘のファンルゥがいない――!
浅黒い肌の色であるために、外からは分かりにくいが、今、彼の顔面は蒼白になっていた。
全身から冷や汗が吹き出す。額にきつく巻かれた赤いバンダナに、黒い染みが広がっていく。
机の上には、出しっぱなしの紫のクレヨン。最近、お気に入りの『空に浮かぶ、紫の風船』の絵を、また描いていたらしい。背景に使う水色のクレヨンは、すっかり小さくなってしまっている。
スケッチブックは閉じられているが、おそらく彼女は絵を描いてる途中だった。
「……っ!」
わずかに土の香りを含んだ南風を感じ、タオロンは息を呑んだ。
開けっ放しの窓の下に、椅子が置いてあった。
それがすべてを物語っていた。
「ファンルゥ……!」
ファンルゥの手首には、腕輪がつけられている。『部屋から出ようとしたら、凄い音が鳴ります』と、〈蝿〉が彼女に説明したものだ。
それを聞いたファンルゥは、タオロンにこんなことを尋ねた。
『パパ、ファンルゥがドアを通ると、ビービーなのね?』
彼女は、万引き犯が商品を持ち出そうとして、店のドアセンサーに引っかかったのを目撃したことがある。それを思い出したのだろう。
幼い娘がうまく理解できてよかったと、タオロンは半ば安堵しながら『そうだ』と答えた。
答えてしまっていた……。
迂闊だった。
あれは、音が鳴るのは『扉』だということの確認だったのだ。彼女は、『窓』から出るのなら大丈夫かもしれないと考えた。その答えを得るための質問だった。
「糞っ……」
冷や汗がまたひと筋、つうっとタオロンの額から流れていく。
違うのだ。あの腕輪は、『音が鳴る』などという可愛らしい代物ではないのだ。
ファンルゥ本人には内緒で、〈蝿〉はタオロンに、そっと告げた。
『あの腕輪の内側には、毒針が仕込まれています』――と。
〈蝿〉の持つリモコンで、いつでも針が飛び出す仕掛けだ。無理に外そうとしても同様のことが起こると言われたため、絶対に外さないよう、タオロンは口を酸っぱくしてファンルゥに言い聞かせていた。
早く、ファンルゥを見つけなければ――。
脱走したことが明らかになれば、自分の意に逆らったと〈蝿〉はリモコンを押すかもしれない。
しかも、今日は摂政が来ている。
国を左右するような人物だ。信じられないほどの超大物だ。
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉と摂政が、どのような関係にあるのかは知らない。だが、〈蝿〉の技術が権力者にとって魅力的であることは、タオロンの頭にだって理解できる。
万が一、ファンルゥが乱入して騒ぎを起こし、摂政の機嫌を損ねたりでもしたら……!
底知れぬ恐怖が背中を這い巡り、タオロンは冷や汗を振り払うように、ぶんぶんと頭を振った。
娘の痕跡を求め、大股になって窓へと寄る。その際、踏み台に使われた小さな椅子が、足元で邪魔をした。脇にどかそうと、彼は腰をかがめる。
そのときだった。
――どん!
「!?」
脇腹への衝撃。
続いて「ひぇぁ!?」という、可愛らしい悲鳴。
「ファンルゥ!?」
最愛の娘が窓から飛び込んできた。
彼女は、椅子の代わりに父親に着地……とは、うまくいかず、屈強な父に勢いよくぶつかった反動で弾き飛ばされ、きょとんとしていた。窓枠を掴んでの最後のジャンプのときに、力いっぱい壁を蹴ったのがよくなかったらしい。
「ファンルゥ!」
タオロンは駆け寄り、愛娘をきつく抱きしめた。
「無事で……よかった……」
大の男が――それも武に生きる、立派な体躯の男が、涙ぐみながら小さな娘を包み込んだ。
――大切な者を失うなど、もう二度とごめんだ……。
タオロンの逞しい腕が震えていた。
ファンルゥが苦しげに身じろぎするが、タオロンは大きな掌と、広い胸板で彼女を離さない。少し高めの子供の体温が愛しくてたまらなかったのだ。
「パパ……」
「ああ」
「えっと、んっと……」
「ああ」
「……ごめんなさい」
「ああ」
「…………」
「ああ」
ファンルゥが無事なら、もうそれでよいと、タオロンは思った。
勿論、脱走は駄目だと、あとで言い含めなければならない。けれど本当は、こんな軟禁生活を強いている自分がいけないのだ。
父親なのに情けない。不甲斐なさに、彼は奥歯を噛みしめる。
のびのびと、自由に。毎日を元気に笑って過ごせる暮らしをファンルゥに与えてやりたい……。
タオロンは切に望み――願い……祈る。
「パパ……?」
尋常ではない様子の父に、ファンルゥは戸惑っていた。
幼い彼女にも、自分が原因だと分かっていた。そして、父が辛そうなときは、黙っていないといけないと、ちゃんと知っていた。
けれど、今の彼女には、父が喜ぶ『とっておき』があった。
「パパ、パパ! あのね!」
窮屈な父の腕の中で、ファンルゥが、ぐっと顎を上げる。
「?」
タオロンは不思議に思った。いつもなら、こんなときは神妙な顔をする娘が、瞳を輝かせている。どうしたのだろうと、彼は彼女を抱きしめる腕を緩めた。
「あのね! ルイフォンとリュイセンが来ているの!」
「なっ……!?」
声をはずませる娘に、タオロンは耳を疑った。
少し前、確かに彼は、GPS発信機を持ち帰ることによって、この場所をルイフォンに教えた。だがそれは、近衛隊に守られた庭園への侵入など不可能だと、半ば諦めつつのことだった。
斑目一族から追われているタオロンは、〈蝿〉に庇護されている身である。だから、ルイフォンに協力することは、恩義ある〈蝿〉への裏切り行為であり、許されないことだ。
それでも――。
『お前の娘を助けてやる』
草薙シャンリーの甘美な響きに抗えるはずもなかった。彼らなら、なんとかできるのではないかと、無責任にも他人任せのわずかな希望にすがった。
「本当に……、来たのか……!」
タオロンは、思わず口から漏れそうになった嗚咽をこらえた。
娘の前で、泣くわけにはいかない。これ以上、みっともない父親は勘弁だ。
「うん! 『あの子』のところは駄目だけど、リュイセンが絵を届けてくれるって」
ファンルゥが元気に答える。『あの子』と言われてもタオロンにはさっぱりだが、感極まった今の彼には冷静に聞き返す余裕はない。
「ええとね、それでね。ルイフォンが、パパに伝えてって」
「ルイフォンが!? あいつが何を!?」
何か、協力すべきことがあるのだろうか。
タオロンは身を乗り出す。しかし、娘の口から出たのは、まったく予想外で、とても端的な言葉だった。
「『俺たちは、ここに居る』――って」
幼い子供の高い声に、あの猫目を光らせたテノールが重なる。
ファンルゥが『ふたりに会った』と告げたあとでは、内容的には意味はない。だが、タオロンの胸の中で熱い血潮がたぎり、全身を駆け巡った。
「……そうか……、そうか……!」
ルイフォンは、タオロンが監視されていることを知っている。身動きが取れないと分かっている。
だから、余計なことは省いた。その代わり、大切な事実だけをファンルゥに託した。
――『待っていろよ』と。
「パパ、嬉しい? ルイフォンたち、来て、嬉しい?」
「ああ……。ああ、嬉しいよ……」
「やったぁ!」
ルイフォンが言っていた通りに父が喜んでくれたと、ファンルゥは満面の笑顔になった。タオロンもまた、心を踊らせながら娘に尋ねる。
「ふたりとは、どこで会った?」
「ファンルゥ、迷子だったから分かんない。でも、階段まで送ってくれたの」
外を指しながら『階段』という娘に、彼は不審に思いながらも窓の外を覗く。そこから見えたのは、小さな手形の付いた雨どい。そして、非常階段――。
「!?」
きらりと、何かが金色に光ったような気がした。
タオロンにはそれが、ルイフォンの尻尾の先の鈴に思えた。
たぶん、錯覚だろう。侵入者である彼らが、いつまでも外から見える場所でじっとしているわけがない。
――だが、確かに、彼らは来てくれた。迷子のファンルゥを保護して、そこまで送ってくれたのだから。
タオロンは、すっと息を吐き、気を引き締めた。彼らと合流するまでは、自分は従順な〈蝿〉の部下でいなければならない。彼らの潜入を〈蝿〉に気取られてはならないのだ。
「ファンルゥ、そろそろ俺は行かないとな」
「ルイフォンたちに会いに行くの?」
「いや、〈蝿〉に呼ばれている」
今日は摂政が来るので、余計な揉めごとを避けるために、〈蝿〉の私兵たちは部屋に籠もるように命じられていた。だが、タオロンだけは〈蝿〉に用を言いつかっていた。
だからこそ〈蝿〉のところへ行く前に、こうしてこっそり、ファンルゥの部屋に寄ることができたのだ。
「パパ、お仕事? いってらっしゃい!」
ファンルゥがタオロンに向かって両手を広げると、大好きな父親はちゃんと心得ていて、彼女を高く高く、掲げてくれた。
しかも今日は、くるくると回るという、おまけつきだった。
ファンルゥは空を飛び、景色が巡る。
彼女が開け放された窓のほうを向いたとき、いつもとはまったく違う光景が見えた。
紫のお花畑の先に広がる、緑の野原。いつものファンルゥの視界では、無限に続いていたはずの草の海には、果てがあった。
ぐるりと庭園を取り囲む、高い壁。その一端に、立派な門。
そして続く、太い道路。
草原には果てがあっても、その先の世界は、どこまでも、どこまでも繋がっている……。
「ファンルゥ、行ってくるよ」
最後にぎゅっとファンルゥを抱きしめると、タオロンは部屋を出ていった。
ファンルゥは、久しぶりに見た父の笑顔に大満足だった。
「このへんは、やけに綺麗だな。ファンルゥが迷い込んでいたところとは雲泥の差だ」
リュイセンが声を潜めて呟いた。
彼の言う通り、階段の手すりは細部まで丁寧に磨かれ、壁紙は頻繁に張り替えられているのか、傷みどころか日に焼けたあとすらない。全体的な造りも、如何にも王族の別荘といった豪華絢爛な様相を呈しており、雰囲気そのものが違っている。
「〈蝿〉が使っているのは、もと王の私室だからな。館が無人の間も、このあたりは手入れがなされていたんだろう」
私兵たちには隅の使用人の部屋を使わせ、自分は王の部屋に構えるという〈蝿〉が決めた配置を知ったとき、〈蝿〉も偉ぶりたいのかと、ルイフォンは失笑した。しかし、いざ現場に来て、一部を除き埃まみれの実態を知ると、気持ちは分からないでもないなと苦笑が漏れた。
会食の最中を狙っての移動は正解だったようで、ふたりは拍子抜けするほどあっさりと目的の区画にたどり着いた。
倉庫は、すぐそこだ。
そして――。
ルイフォンとリュイセンは無言で視線を交わし合い、倉庫より手前にある部屋の、豪奢な扉を見やる。
ひと目でそれと分かる、優美な意匠。翼を広げた天空神フェイレンの彫刻。王の――現在は〈蝿〉の――居室だ。
神は地上のあらゆることを見通すという神話を引用したものらしく、天空から下界を見下ろす構図だった。着色されていない材であるのに、柔らかに彫り上げた髪の毛は白金に輝いて見え、涼やかな目元は青灰色を連想させる。
思わず口笛を吹きたくなるような、見事な細工だ。
だが、〈七つの大罪〉にクローンを作らせるまでして無理に存続させているという、王家の真実を知ったあとでは、ただの虚しい偶像に見えた。
「……」
神などというものは、所詮、神話の中にしか存在しないのだ。
黒髪黒目の民の中で、何かの偶然により特異な姿で生まれた者が、神を創り、代理人を騙った。王の起源は、そんなところに違いない。
その異質な姿を、崇拝の象徴としてしまったが故に、子孫たちが〈悪魔〉を頼る。
そう思うと、現在、この部屋の主が王ではなく、〈悪魔〉の〈蝿〉に取って代わられていることが、王の立場を暗示しているような気がした。
――いや……。
ルイフォンの猫の目が、すっと細まった。鋭い目元に、険が帯びる。
この推測は、だいたいは合っているであろう。
だが、完璧ではない。
『ライシェン』は、特別な王であるはずなのだ。
ルイフォンが、ぐっと拳に力を入れたとき、リュイセンに背中を叩かれた。
兄貴分の静かな眼差しが『行くぞ』と告げ、扉の前を通り過ぎる。ルイフォンは黙って、あとに続いた。
――今は無人の、この部屋に、夜になったら〈蝿〉が戻ってくる。
奴を捕らえ、何故、メイシアを狙ったのかを問いただす。
そして、『デヴァイン・シンフォニア計画』と『ライシェン』について、洗いざらい吐き出させる。
それから……。
ルイフォンの足が、再び止まった。そして、どこでもない場所を――虚空を見やる。
生まれながらの〈天使〉だったという、異父姉セレイエ。
おそらくは、『デヴァイン・シンフォニア計画』を企てた張本人。
〈蝿〉から、彼女のことを聞き出す。そこに、どんな真実が隠されているとしても……。
すべては今夜だ。
もぬけの殻の部屋を前に、斑目タオロンは呆然としていた。
娘のファンルゥがいない――!
浅黒い肌の色であるために、外からは分かりにくいが、今、彼の顔面は蒼白になっていた。
全身から冷や汗が吹き出す。額にきつく巻かれた赤いバンダナに、黒い染みが広がっていく。
机の上には、出しっぱなしの紫のクレヨン。最近、お気に入りの『空に浮かぶ、紫の風船』の絵を、また描いていたらしい。背景に使う水色のクレヨンは、すっかり小さくなってしまっている。
スケッチブックは閉じられているが、おそらく彼女は絵を描いてる途中だった。
「……っ!」
わずかに土の香りを含んだ南風を感じ、タオロンは息を呑んだ。
開けっ放しの窓の下に、椅子が置いてあった。
それがすべてを物語っていた。
「ファンルゥ……!」
ファンルゥの手首には、腕輪がつけられている。『部屋から出ようとしたら、凄い音が鳴ります』と、〈蝿〉が彼女に説明したものだ。
それを聞いたファンルゥは、タオロンにこんなことを尋ねた。
『パパ、ファンルゥがドアを通ると、ビービーなのね?』
彼女は、万引き犯が商品を持ち出そうとして、店のドアセンサーに引っかかったのを目撃したことがある。それを思い出したのだろう。
幼い娘がうまく理解できてよかったと、タオロンは半ば安堵しながら『そうだ』と答えた。
答えてしまっていた……。
迂闊だった。
あれは、音が鳴るのは『扉』だということの確認だったのだ。彼女は、『窓』から出るのなら大丈夫かもしれないと考えた。その答えを得るための質問だった。
「糞っ……」
冷や汗がまたひと筋、つうっとタオロンの額から流れていく。
違うのだ。あの腕輪は、『音が鳴る』などという可愛らしい代物ではないのだ。
ファンルゥ本人には内緒で、〈蝿〉はタオロンに、そっと告げた。
『あの腕輪の内側には、毒針が仕込まれています』――と。
〈蝿〉の持つリモコンで、いつでも針が飛び出す仕掛けだ。無理に外そうとしても同様のことが起こると言われたため、絶対に外さないよう、タオロンは口を酸っぱくしてファンルゥに言い聞かせていた。
早く、ファンルゥを見つけなければ――。
脱走したことが明らかになれば、自分の意に逆らったと〈蝿〉はリモコンを押すかもしれない。
しかも、今日は摂政が来ている。
国を左右するような人物だ。信じられないほどの超大物だ。
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉と摂政が、どのような関係にあるのかは知らない。だが、〈蝿〉の技術が権力者にとって魅力的であることは、タオロンの頭にだって理解できる。
万が一、ファンルゥが乱入して騒ぎを起こし、摂政の機嫌を損ねたりでもしたら……!
底知れぬ恐怖が背中を這い巡り、タオロンは冷や汗を振り払うように、ぶんぶんと頭を振った。
娘の痕跡を求め、大股になって窓へと寄る。その際、踏み台に使われた小さな椅子が、足元で邪魔をした。脇にどかそうと、彼は腰をかがめる。
そのときだった。
――どん!
「!?」
脇腹への衝撃。
続いて「ひぇぁ!?」という、可愛らしい悲鳴。
「ファンルゥ!?」
最愛の娘が窓から飛び込んできた。
彼女は、椅子の代わりに父親に着地……とは、うまくいかず、屈強な父に勢いよくぶつかった反動で弾き飛ばされ、きょとんとしていた。窓枠を掴んでの最後のジャンプのときに、力いっぱい壁を蹴ったのがよくなかったらしい。
「ファンルゥ!」
タオロンは駆け寄り、愛娘をきつく抱きしめた。
「無事で……よかった……」
大の男が――それも武に生きる、立派な体躯の男が、涙ぐみながら小さな娘を包み込んだ。
――大切な者を失うなど、もう二度とごめんだ……。
タオロンの逞しい腕が震えていた。
ファンルゥが苦しげに身じろぎするが、タオロンは大きな掌と、広い胸板で彼女を離さない。少し高めの子供の体温が愛しくてたまらなかったのだ。
「パパ……」
「ああ」
「えっと、んっと……」
「ああ」
「……ごめんなさい」
「ああ」
「…………」
「ああ」
ファンルゥが無事なら、もうそれでよいと、タオロンは思った。
勿論、脱走は駄目だと、あとで言い含めなければならない。けれど本当は、こんな軟禁生活を強いている自分がいけないのだ。
父親なのに情けない。不甲斐なさに、彼は奥歯を噛みしめる。
のびのびと、自由に。毎日を元気に笑って過ごせる暮らしをファンルゥに与えてやりたい……。
タオロンは切に望み――願い……祈る。
「パパ……?」
尋常ではない様子の父に、ファンルゥは戸惑っていた。
幼い彼女にも、自分が原因だと分かっていた。そして、父が辛そうなときは、黙っていないといけないと、ちゃんと知っていた。
けれど、今の彼女には、父が喜ぶ『とっておき』があった。
「パパ、パパ! あのね!」
窮屈な父の腕の中で、ファンルゥが、ぐっと顎を上げる。
「?」
タオロンは不思議に思った。いつもなら、こんなときは神妙な顔をする娘が、瞳を輝かせている。どうしたのだろうと、彼は彼女を抱きしめる腕を緩めた。
「あのね! ルイフォンとリュイセンが来ているの!」
「なっ……!?」
声をはずませる娘に、タオロンは耳を疑った。
少し前、確かに彼は、GPS発信機を持ち帰ることによって、この場所をルイフォンに教えた。だがそれは、近衛隊に守られた庭園への侵入など不可能だと、半ば諦めつつのことだった。
斑目一族から追われているタオロンは、〈蝿〉に庇護されている身である。だから、ルイフォンに協力することは、恩義ある〈蝿〉への裏切り行為であり、許されないことだ。
それでも――。
『お前の娘を助けてやる』
草薙シャンリーの甘美な響きに抗えるはずもなかった。彼らなら、なんとかできるのではないかと、無責任にも他人任せのわずかな希望にすがった。
「本当に……、来たのか……!」
タオロンは、思わず口から漏れそうになった嗚咽をこらえた。
娘の前で、泣くわけにはいかない。これ以上、みっともない父親は勘弁だ。
「うん! 『あの子』のところは駄目だけど、リュイセンが絵を届けてくれるって」
ファンルゥが元気に答える。『あの子』と言われてもタオロンにはさっぱりだが、感極まった今の彼には冷静に聞き返す余裕はない。
「ええとね、それでね。ルイフォンが、パパに伝えてって」
「ルイフォンが!? あいつが何を!?」
何か、協力すべきことがあるのだろうか。
タオロンは身を乗り出す。しかし、娘の口から出たのは、まったく予想外で、とても端的な言葉だった。
「『俺たちは、ここに居る』――って」
幼い子供の高い声に、あの猫目を光らせたテノールが重なる。
ファンルゥが『ふたりに会った』と告げたあとでは、内容的には意味はない。だが、タオロンの胸の中で熱い血潮がたぎり、全身を駆け巡った。
「……そうか……、そうか……!」
ルイフォンは、タオロンが監視されていることを知っている。身動きが取れないと分かっている。
だから、余計なことは省いた。その代わり、大切な事実だけをファンルゥに託した。
――『待っていろよ』と。
「パパ、嬉しい? ルイフォンたち、来て、嬉しい?」
「ああ……。ああ、嬉しいよ……」
「やったぁ!」
ルイフォンが言っていた通りに父が喜んでくれたと、ファンルゥは満面の笑顔になった。タオロンもまた、心を踊らせながら娘に尋ねる。
「ふたりとは、どこで会った?」
「ファンルゥ、迷子だったから分かんない。でも、階段まで送ってくれたの」
外を指しながら『階段』という娘に、彼は不審に思いながらも窓の外を覗く。そこから見えたのは、小さな手形の付いた雨どい。そして、非常階段――。
「!?」
きらりと、何かが金色に光ったような気がした。
タオロンにはそれが、ルイフォンの尻尾の先の鈴に思えた。
たぶん、錯覚だろう。侵入者である彼らが、いつまでも外から見える場所でじっとしているわけがない。
――だが、確かに、彼らは来てくれた。迷子のファンルゥを保護して、そこまで送ってくれたのだから。
タオロンは、すっと息を吐き、気を引き締めた。彼らと合流するまでは、自分は従順な〈蝿〉の部下でいなければならない。彼らの潜入を〈蝿〉に気取られてはならないのだ。
「ファンルゥ、そろそろ俺は行かないとな」
「ルイフォンたちに会いに行くの?」
「いや、〈蝿〉に呼ばれている」
今日は摂政が来るので、余計な揉めごとを避けるために、〈蝿〉の私兵たちは部屋に籠もるように命じられていた。だが、タオロンだけは〈蝿〉に用を言いつかっていた。
だからこそ〈蝿〉のところへ行く前に、こうしてこっそり、ファンルゥの部屋に寄ることができたのだ。
「パパ、お仕事? いってらっしゃい!」
ファンルゥがタオロンに向かって両手を広げると、大好きな父親はちゃんと心得ていて、彼女を高く高く、掲げてくれた。
しかも今日は、くるくると回るという、おまけつきだった。
ファンルゥは空を飛び、景色が巡る。
彼女が開け放された窓のほうを向いたとき、いつもとはまったく違う光景が見えた。
紫のお花畑の先に広がる、緑の野原。いつものファンルゥの視界では、無限に続いていたはずの草の海には、果てがあった。
ぐるりと庭園を取り囲む、高い壁。その一端に、立派な門。
そして続く、太い道路。
草原には果てがあっても、その先の世界は、どこまでも、どこまでも繋がっている……。
「ファンルゥ、行ってくるよ」
最後にぎゅっとファンルゥを抱きしめると、タオロンは部屋を出ていった。
ファンルゥは、久しぶりに見た父の笑顔に大満足だった。