残酷な描写あり
7.万華鏡の星の巡りに-1
『あなたが知りたいのは、『藤咲メイシアの正体』ですか――?』
「え……?」
〈蝿〉は今、なんと言ったのか?
奴の低い声は、確かに聞こえたはずだった。その証拠に、ルイフォンの背筋は凍えている。
なのに、反芻しようとしても激しい耳鳴りに打ち消され、言語化できない。
ルイフォンは身動きがとれないまま、恐怖に見舞われた猫のように逆毛を立てていた。本能が危機を感じ取り、けれど、魂を抜き取られたかのように〈蝿〉を凝視している。
「おや、違うのですか? 私はてっきり、あなたは『藤咲メイシアの正体』を知りたくて、危険を犯してまで、この館に――私のもとに来たものと思っていたのですが」
「メイシアの……正体……」
「ええ。あの娘は、仕立て屋に化けた〈蛇〉に唆されて、鷹刀の屋敷に行きました。分かっているとは思いますが、〈蛇〉とは、あなた方も面識のある『〈天使〉のホンシュア』のことです」
「あ、ああ」
口の感覚も麻痺してしまったかのようで、ルイフォンは、ただ機械的に相槌を打つ。
「お気づきですか? あの娘は、あなたと出逢う直前に、〈天使〉と会っているのです」
にやりと。
〈蝿〉が、薄ら嗤いを浮かべた。
「あの娘に、ホンシュアが何をしたのか。――知りたいのでしょう?」
「……!」
〈蝿〉の言葉は、穏やかに問いかけているようでいて、ルイフォンが目をそらしていた疑問の小箱の蓋を、無理やりこじ開けようとしていた。
血の気が引いていく。
頭の中で、〈蝿〉の冷たい嗤いが反響する。
嘲笑が、あちらこちらに広がっていき、体中を埋め尽くす……。
「馬鹿野郎! 耳を貸すな!」
突如、リュイセンに肩を掴まれた。抜き身のままだったはずの双刀は、いつの間にか鞘に収めており、彼はルイフォンをぐいと引き寄せる。
足に力の入っていなかったルイフォンは、ふらりと倒れそうになった。しかし、それを見越していたリュイセンの手が、さっとすくい上げ、崩れ落ちかけた弟分を力強く支える。
「あいにくだがな。俺たちは、お前の御託を聞きに来たわけじゃない」
リュイセンが、ぎろりと〈蝿〉を睨みつけた。
親子と見紛うほどに酷似した美貌が、正面から向き合う。それはまるで時間のずれを堺に挟んだ、実像と鏡像だった。左右が逆さまであるのと同様に、心のあり方もまた正反対のところに位置している。
リュイセンは牙をむき、きっぱりと言い放つ。
「俺たちは、お前を捕まえに来た。それは、お前が鷹刀にとって害悪だからだ。いずれ、情報は吐いてもらうが、それは今じゃない。今、俺たちが欲しいのは、お前の身柄だけだ!」
「ほう。私が鷹刀の害悪ですか」
〈蝿〉が口の端を上げ、挑発するように緩やかに腕を組む。その厚顔な仕草に、リュイセンが眦を吊り上げると、今度は満足げな笑みを浮かべた。
「鷹刀の害悪は、私ではなくて、『鷹刀セレイエ』ですよ」
「……っ!」
唐突に出された『セレイエ』の名に、ルイフォンの心臓が跳ねた。普段は細く、すがめるような猫の目が、かっと見開かれる。
「斑目や、貴族や、警察隊を巻き込み、鷹刀の屋敷を襲わせたのは、鷹刀セレイエです」
〈蝿〉の声が低く響き、部屋の空気を緩やかに、しかし大きく振動させる。
ルイフォンの異父姉、セレイエ。
生まれながらの〈天使〉。
〈天使〉である自分について知りたいと、自ら〈七つの大罪〉に飛び込んでいったまま、消息不明の彼女。
「……一連の事件を計画したのは……『デヴァイン・シンフォニア計画』を作ったのは、やはりセレイエなのか?」
薄々、感づいていたことを――心の底では確信していたことを、ルイフォンは呟く。
〈蝿〉は、掛かったな、と言わんばかりの表情を隠しもせずに、リュイセンからルイフォンへと視線を移した。
「おそらくそうでしょうね。私は、鷹刀セレイエ本人には会ったことはないので、確認したわけではありませんが」
「!?」
「私は、『鷹刀セレイエの〈影〉』である、『〈天使〉のホンシュア』しか知りません。――私は、ホンシュアによって作られた。……いえ、『目覚めさせられた』のですから」
「どういう……こと、だ……」
問い返してはいけない。これは悪魔の囁き。ルイフォンを翻弄するための、明らかな誘いだ。――冷静に、そう考える自分を感じながらも、ルイフォンは深みにはまっていく心を止められなかった。
「どうして驚いているのですか? 鷹刀イーレオやエルファンから、聞いているのではないですか? 『鷹刀ヘイシャオ』は、もう十数年も前に死んでいる、と」
「あ、ああ」
「なのに、まるで『鷹刀ヘイシャオ』が生き返ったかのような人物――つまり『私』が現れたなら、『私』は何者かによって作られた存在である。これは自明の理です」
「ああ、そうだな……」
とっくに聞いていた、知っていた話だ。だが、まさか〈蝿〉本人の口から告げられるとは思ってもみなかった。ルイフォンは困惑を隠しきれずに、言葉を詰まらせる。
「私は、鷹刀セレイエの『デヴァイン・シンフォニア計画』のために、作られた存在です。しかも、セレイエの〈影〉であるホンシュアは、私の協力を得るために、私に嘘を教えました」
「嘘?」
「ええ。『オリジナルの鷹刀ヘイシャオは、鷹刀イーレオによって殺された』という嘘です。私は自分自身の復讐のために、鷹刀イーレオを狙ったのです」
〈蝿〉は、『義は我にあり』とでも言わんばかりに胸を張り、ルイフォンとリュイセンを睥睨する。
「別に信じなくても構いませんよ。どうせ、あなた方にしてみれば詭弁にしか聞こえないでしょうから。ただ私は、私が『鷹刀セレイエこそが、鷹刀の害悪』と言った理由を説明したまでです」
信じるか、信じないか。
おそらく〈蝿〉にとっては、たいした問題ではないのだろう。ルイフォンたちに揺さぶりをかけ、主導権を握ることさえできれば。
そして厄介なことに、ルイフォンには、虚言だと跳ねのけることができなかった。彼の直感が〈蝿〉の弁は真実だと告げる。そう考えたほうが、すべてが綺麗に繋がっていくのだと。
〈蝿〉が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。ルイフォンは押し黙ったまま、身動きが取れなくなる……。
そのとき、リュイセンがルイフォンの肩を押しのけた。
「いい加減、黙れ」
前に出た兄貴分は、すらりと双刀を抜き払う。
「話は、鷹刀の屋敷に行ってからだと言ったはずだ」
「それは、あなたの勝手な言い分です」
〈蝿〉が凍てつくような拒絶の眼光を放った。リュイセンは、父エルファンが激怒したときと瓜二つの容貌に、思わず萎縮する。
「あなたは、私のことを『鷹刀の害悪』だと言いました。『だから』捕まえるのだと。けれども私は、嘘に踊らされた憐れな道化に過ぎません。まったく、不愉快。不本意だと申し上げているのです」
自らを駒扱いしながらも〈蝿〉の傲岸は崩れることなく、むしろ、より一層、不遜さを増しながら抗弁を垂れる。
「何も知らないあなた方に、特別に教えて差し上げましょう」
〈蝿〉は顎をしゃくり、小馬鹿にしたように目を細めた。
「鷹刀セレイエの〈影〉――〈天使〉のホンシュアは、『デヴァイン・シンフォニア計画』の水先案内人でした。けれど、予定外の熱暴走を起こしてしまい、途中で役目を放棄せざるを得なくなりました」
そこで〈蝿〉は言葉を切り、視線をリュイセンより半歩、後ろにいるルイフォンへと向けた。そして、捕食相手を見つけた獣のように、嬉しげに口角を上げる。
「避けられぬ死を目前にしたホンシュアは、私にある重大な事実を打ち明け、あとを託したのですよ。『藤咲メイシア』に関する――ね」
「!」
絡みつくような響きに、ルイフォンの全身を怖気が貫く。
「藤咲メイシアが鷹刀を訪れたところから、『デヴァイン・シンフォニア計画』の歯車は勢いよく回りだします」
〈蝿〉の言葉の牙が、ゆっくりとルイフォンへと迫る。
「彼女が屋敷にいることで、鷹刀イーレオは誘拐の罪に問われます。けれどホンシュアは、イーレオなら警察隊くらい軽くあしらうと信じていました」
淡々と、緩やかに。
低い声が、じわじわとルイフォンを追い立てていく。
「何故なら鷹刀セレイエの目的は『鷹刀イーレオの捕獲』ではありませんでしたから。彼女の真の狙いは、『藤咲メイシアを、鷹刀の屋敷に送り込むこと』だったのですから」
「……っ、……そんなことは、気づいていたさ」
うそぶくように、ルイフォンは答える。
――そうだ。気づいていた。
メイシアの実家、藤咲家を襲った不幸は、貴族のメイシアが凶賊のルイフォンと巡り逢うために仕組まれた罠。
あの事件さえなければ、ふたりは互いを知ることすらない運命だった。
「おや、ご存知でしたか」
意外だとでもいうように、〈蝿〉が肩をすくめる。
「では、〈天使〉のホンシュアと接触のあったあの娘は、あなたと出逢うよりも前に『鷹刀セレイエの駒』にされていたことは理解できているわけですね?」
「……」
「ならば疑問に思わなかったのですか? あの娘は、本当に自分の意思であなたに恋心を抱いたのか?」
「――!」
ルイフォンの心に、氷の楔が穿たれた。
「あんな上流階級の娘が、凶賊のあなたを相手にするなんて、普通に考えればあり得ないでしょう?」
畳み掛けるような言葉が、ルイフォンを襲う。
そして、悪魔は囁く。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』の鍵となるために、〈天使〉のホンシュアに操られた『藤咲メイシア』は、色仕掛けであなたを籠絡したのですよ」
メイシアは『目印』だというペンダントを持たされていた。
しかも、彼女自身は『お守り』だと思い込まされていた。
彼女は〈天使〉による脳内介入を受けている。
それは、紛れもない事実――。
「実に見事な策でした」
凍りついた心臓が千々に砕け、崩れ散る……!
「嘘だ――!!」
激しい目眩がした。ルイフォンは頭を抱え込み、両手で耳をふさぐ。
その刹那――。
ふわりと。
白衣の長い裾が、宙に浮かび上がった。
それは〈蝿〉が前へと踏み込むために、足をかがめた反動だった。
そして、ほんのわずか。鏡に映った白衣が舞い上がるのと同じ程度に遅れて、床を蹴る靴音が鳴り響く。
――と、思った次の瞬間、ルイフォンの目の前に〈蝿〉の顔があった。
「!? ――っ!」
完全に無防備な状態での、鳩尾への容赦ない拳の一撃。
呼吸が止まる。目がくらみ、視界を失う。ルイフォンは声にならない叫びを上げて、無様に床に転がされる。
「ルイフォン!?」
すぐ隣にいたリュイセンが叫ぶ。
リュイセンにとって、至近距離での、まさかの出来ごとだった。いくら不意打ちだったとはいえ、神速を誇るはずの彼が庇うこともできずに、弟分が一瞬にして倒された。
その衝撃に、〈蝿〉の第二撃目への警戒が遅れた。それよりも、ルイフォンに駆け寄ろうとしてしまった。
リュイセンが、はっと気づいたときには、〈蝿〉は白衣の胸ポケットから万年筆を取り出していた。それを、力いっぱい、リュイセンの左腕に刺す。
「っ!?」
攻撃自体は、たいした殺傷力を持たない。
だが、わずかに腕がしびれた。
それが、命運を分けた。
「!」
間髪を容れず、リュイセンの左手の甲を〈蝿〉が蹴り上げる。その拍子に、あろうことか、リュイセンは双刀の片方を取り落とした――!
「タオロン!」
床に落ちた刀を〈蝿〉が蹴り飛ばす。双刀の片割れは、相方への未練を残すかのような長い銀光を伸ばしながら、タオロンのもとへと流れていった。
「タオロン、その刀でエルファンの小倅を捕獲しなさい。無理なら殺しても構いません。鷹刀の子猫さえいれば、藤咲メイシアを呼び寄せることが可能ですから」
〈蝿〉は指示を出しつつ、ふわりと後方へと下がる。ルイフォンが、うめき声を上げながら起き上がろうとしているのに気づいたのだ。
リュイセンが武装している以上、ルイフォンだって武器を隠し持っているはず。〈蝿〉は正しくそう読んだ。
「〈蝿〉、卑怯だぞ!」
倒れているルイフォンを守るように位置を取りながら、リュイセンが叫ぶ。
「何を言っているのですか? あなた方と私の間には、初めから『殺し合い』しかありません」
「……っ!」
リュイセンが息を呑んだ。床で上体を起こしたルイフォンもまた、びくりと肩を震わせる。
「理由はどうであれ、私は鷹刀に刃を向けました。鷹刀イーレオは凶賊の総帥として、私を許すわけにはいかないでしょう」
〈蝿〉の口元が、ふっとほころぶ。それは悪意の欠片もない、純粋な笑みだった。
「彼は優しい方です。仮にも義理の息子と呼んだ私――いいえ、『ヘイシャオ』の記憶を持つ私を、殺めたくなどないでしょう」
おそらく、その通りだろう。だから、ルイフォンやリュイセンにしてみれば、生ぬるいとしかいいようのない態度を、イーレオは取り続けたのだ。
「けれど、……お義父さん……は、心でどう感じていたとしても、情には流されません。私を捕らえ、情報を得たあと、殺すでしょう。それが、凶賊であり、総帥であり、鷹刀イーレオという男です」
「〈蝿〉……」
ルイフォンは痛む鳩尾を押さえながら、もと一族の男の毅然とした姿を見上げる。とうに決別した相手を遠くに思うその顔は、壮麗な穏やかさで満たされていた。
〈蝿〉の後ろでは、タオロンが震える手で双刀の片割れを握っていた。今までの話の流れは、タオロンに武器を与えるためのものだったのだと、今更ながらルイフォンは悟る。
「『話し合い』などありません。『殺し合い』しかないのです。――故に私は、全力であなた方を殺します」
甘やかに、愛しげに。
魅惑の低音が、静かに響いた。
「え……?」
〈蝿〉は今、なんと言ったのか?
奴の低い声は、確かに聞こえたはずだった。その証拠に、ルイフォンの背筋は凍えている。
なのに、反芻しようとしても激しい耳鳴りに打ち消され、言語化できない。
ルイフォンは身動きがとれないまま、恐怖に見舞われた猫のように逆毛を立てていた。本能が危機を感じ取り、けれど、魂を抜き取られたかのように〈蝿〉を凝視している。
「おや、違うのですか? 私はてっきり、あなたは『藤咲メイシアの正体』を知りたくて、危険を犯してまで、この館に――私のもとに来たものと思っていたのですが」
「メイシアの……正体……」
「ええ。あの娘は、仕立て屋に化けた〈蛇〉に唆されて、鷹刀の屋敷に行きました。分かっているとは思いますが、〈蛇〉とは、あなた方も面識のある『〈天使〉のホンシュア』のことです」
「あ、ああ」
口の感覚も麻痺してしまったかのようで、ルイフォンは、ただ機械的に相槌を打つ。
「お気づきですか? あの娘は、あなたと出逢う直前に、〈天使〉と会っているのです」
にやりと。
〈蝿〉が、薄ら嗤いを浮かべた。
「あの娘に、ホンシュアが何をしたのか。――知りたいのでしょう?」
「……!」
〈蝿〉の言葉は、穏やかに問いかけているようでいて、ルイフォンが目をそらしていた疑問の小箱の蓋を、無理やりこじ開けようとしていた。
血の気が引いていく。
頭の中で、〈蝿〉の冷たい嗤いが反響する。
嘲笑が、あちらこちらに広がっていき、体中を埋め尽くす……。
「馬鹿野郎! 耳を貸すな!」
突如、リュイセンに肩を掴まれた。抜き身のままだったはずの双刀は、いつの間にか鞘に収めており、彼はルイフォンをぐいと引き寄せる。
足に力の入っていなかったルイフォンは、ふらりと倒れそうになった。しかし、それを見越していたリュイセンの手が、さっとすくい上げ、崩れ落ちかけた弟分を力強く支える。
「あいにくだがな。俺たちは、お前の御託を聞きに来たわけじゃない」
リュイセンが、ぎろりと〈蝿〉を睨みつけた。
親子と見紛うほどに酷似した美貌が、正面から向き合う。それはまるで時間のずれを堺に挟んだ、実像と鏡像だった。左右が逆さまであるのと同様に、心のあり方もまた正反対のところに位置している。
リュイセンは牙をむき、きっぱりと言い放つ。
「俺たちは、お前を捕まえに来た。それは、お前が鷹刀にとって害悪だからだ。いずれ、情報は吐いてもらうが、それは今じゃない。今、俺たちが欲しいのは、お前の身柄だけだ!」
「ほう。私が鷹刀の害悪ですか」
〈蝿〉が口の端を上げ、挑発するように緩やかに腕を組む。その厚顔な仕草に、リュイセンが眦を吊り上げると、今度は満足げな笑みを浮かべた。
「鷹刀の害悪は、私ではなくて、『鷹刀セレイエ』ですよ」
「……っ!」
唐突に出された『セレイエ』の名に、ルイフォンの心臓が跳ねた。普段は細く、すがめるような猫の目が、かっと見開かれる。
「斑目や、貴族や、警察隊を巻き込み、鷹刀の屋敷を襲わせたのは、鷹刀セレイエです」
〈蝿〉の声が低く響き、部屋の空気を緩やかに、しかし大きく振動させる。
ルイフォンの異父姉、セレイエ。
生まれながらの〈天使〉。
〈天使〉である自分について知りたいと、自ら〈七つの大罪〉に飛び込んでいったまま、消息不明の彼女。
「……一連の事件を計画したのは……『デヴァイン・シンフォニア計画』を作ったのは、やはりセレイエなのか?」
薄々、感づいていたことを――心の底では確信していたことを、ルイフォンは呟く。
〈蝿〉は、掛かったな、と言わんばかりの表情を隠しもせずに、リュイセンからルイフォンへと視線を移した。
「おそらくそうでしょうね。私は、鷹刀セレイエ本人には会ったことはないので、確認したわけではありませんが」
「!?」
「私は、『鷹刀セレイエの〈影〉』である、『〈天使〉のホンシュア』しか知りません。――私は、ホンシュアによって作られた。……いえ、『目覚めさせられた』のですから」
「どういう……こと、だ……」
問い返してはいけない。これは悪魔の囁き。ルイフォンを翻弄するための、明らかな誘いだ。――冷静に、そう考える自分を感じながらも、ルイフォンは深みにはまっていく心を止められなかった。
「どうして驚いているのですか? 鷹刀イーレオやエルファンから、聞いているのではないですか? 『鷹刀ヘイシャオ』は、もう十数年も前に死んでいる、と」
「あ、ああ」
「なのに、まるで『鷹刀ヘイシャオ』が生き返ったかのような人物――つまり『私』が現れたなら、『私』は何者かによって作られた存在である。これは自明の理です」
「ああ、そうだな……」
とっくに聞いていた、知っていた話だ。だが、まさか〈蝿〉本人の口から告げられるとは思ってもみなかった。ルイフォンは困惑を隠しきれずに、言葉を詰まらせる。
「私は、鷹刀セレイエの『デヴァイン・シンフォニア計画』のために、作られた存在です。しかも、セレイエの〈影〉であるホンシュアは、私の協力を得るために、私に嘘を教えました」
「嘘?」
「ええ。『オリジナルの鷹刀ヘイシャオは、鷹刀イーレオによって殺された』という嘘です。私は自分自身の復讐のために、鷹刀イーレオを狙ったのです」
〈蝿〉は、『義は我にあり』とでも言わんばかりに胸を張り、ルイフォンとリュイセンを睥睨する。
「別に信じなくても構いませんよ。どうせ、あなた方にしてみれば詭弁にしか聞こえないでしょうから。ただ私は、私が『鷹刀セレイエこそが、鷹刀の害悪』と言った理由を説明したまでです」
信じるか、信じないか。
おそらく〈蝿〉にとっては、たいした問題ではないのだろう。ルイフォンたちに揺さぶりをかけ、主導権を握ることさえできれば。
そして厄介なことに、ルイフォンには、虚言だと跳ねのけることができなかった。彼の直感が〈蝿〉の弁は真実だと告げる。そう考えたほうが、すべてが綺麗に繋がっていくのだと。
〈蝿〉が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。ルイフォンは押し黙ったまま、身動きが取れなくなる……。
そのとき、リュイセンがルイフォンの肩を押しのけた。
「いい加減、黙れ」
前に出た兄貴分は、すらりと双刀を抜き払う。
「話は、鷹刀の屋敷に行ってからだと言ったはずだ」
「それは、あなたの勝手な言い分です」
〈蝿〉が凍てつくような拒絶の眼光を放った。リュイセンは、父エルファンが激怒したときと瓜二つの容貌に、思わず萎縮する。
「あなたは、私のことを『鷹刀の害悪』だと言いました。『だから』捕まえるのだと。けれども私は、嘘に踊らされた憐れな道化に過ぎません。まったく、不愉快。不本意だと申し上げているのです」
自らを駒扱いしながらも〈蝿〉の傲岸は崩れることなく、むしろ、より一層、不遜さを増しながら抗弁を垂れる。
「何も知らないあなた方に、特別に教えて差し上げましょう」
〈蝿〉は顎をしゃくり、小馬鹿にしたように目を細めた。
「鷹刀セレイエの〈影〉――〈天使〉のホンシュアは、『デヴァイン・シンフォニア計画』の水先案内人でした。けれど、予定外の熱暴走を起こしてしまい、途中で役目を放棄せざるを得なくなりました」
そこで〈蝿〉は言葉を切り、視線をリュイセンより半歩、後ろにいるルイフォンへと向けた。そして、捕食相手を見つけた獣のように、嬉しげに口角を上げる。
「避けられぬ死を目前にしたホンシュアは、私にある重大な事実を打ち明け、あとを託したのですよ。『藤咲メイシア』に関する――ね」
「!」
絡みつくような響きに、ルイフォンの全身を怖気が貫く。
「藤咲メイシアが鷹刀を訪れたところから、『デヴァイン・シンフォニア計画』の歯車は勢いよく回りだします」
〈蝿〉の言葉の牙が、ゆっくりとルイフォンへと迫る。
「彼女が屋敷にいることで、鷹刀イーレオは誘拐の罪に問われます。けれどホンシュアは、イーレオなら警察隊くらい軽くあしらうと信じていました」
淡々と、緩やかに。
低い声が、じわじわとルイフォンを追い立てていく。
「何故なら鷹刀セレイエの目的は『鷹刀イーレオの捕獲』ではありませんでしたから。彼女の真の狙いは、『藤咲メイシアを、鷹刀の屋敷に送り込むこと』だったのですから」
「……っ、……そんなことは、気づいていたさ」
うそぶくように、ルイフォンは答える。
――そうだ。気づいていた。
メイシアの実家、藤咲家を襲った不幸は、貴族のメイシアが凶賊のルイフォンと巡り逢うために仕組まれた罠。
あの事件さえなければ、ふたりは互いを知ることすらない運命だった。
「おや、ご存知でしたか」
意外だとでもいうように、〈蝿〉が肩をすくめる。
「では、〈天使〉のホンシュアと接触のあったあの娘は、あなたと出逢うよりも前に『鷹刀セレイエの駒』にされていたことは理解できているわけですね?」
「……」
「ならば疑問に思わなかったのですか? あの娘は、本当に自分の意思であなたに恋心を抱いたのか?」
「――!」
ルイフォンの心に、氷の楔が穿たれた。
「あんな上流階級の娘が、凶賊のあなたを相手にするなんて、普通に考えればあり得ないでしょう?」
畳み掛けるような言葉が、ルイフォンを襲う。
そして、悪魔は囁く。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』の鍵となるために、〈天使〉のホンシュアに操られた『藤咲メイシア』は、色仕掛けであなたを籠絡したのですよ」
メイシアは『目印』だというペンダントを持たされていた。
しかも、彼女自身は『お守り』だと思い込まされていた。
彼女は〈天使〉による脳内介入を受けている。
それは、紛れもない事実――。
「実に見事な策でした」
凍りついた心臓が千々に砕け、崩れ散る……!
「嘘だ――!!」
激しい目眩がした。ルイフォンは頭を抱え込み、両手で耳をふさぐ。
その刹那――。
ふわりと。
白衣の長い裾が、宙に浮かび上がった。
それは〈蝿〉が前へと踏み込むために、足をかがめた反動だった。
そして、ほんのわずか。鏡に映った白衣が舞い上がるのと同じ程度に遅れて、床を蹴る靴音が鳴り響く。
――と、思った次の瞬間、ルイフォンの目の前に〈蝿〉の顔があった。
「!? ――っ!」
完全に無防備な状態での、鳩尾への容赦ない拳の一撃。
呼吸が止まる。目がくらみ、視界を失う。ルイフォンは声にならない叫びを上げて、無様に床に転がされる。
「ルイフォン!?」
すぐ隣にいたリュイセンが叫ぶ。
リュイセンにとって、至近距離での、まさかの出来ごとだった。いくら不意打ちだったとはいえ、神速を誇るはずの彼が庇うこともできずに、弟分が一瞬にして倒された。
その衝撃に、〈蝿〉の第二撃目への警戒が遅れた。それよりも、ルイフォンに駆け寄ろうとしてしまった。
リュイセンが、はっと気づいたときには、〈蝿〉は白衣の胸ポケットから万年筆を取り出していた。それを、力いっぱい、リュイセンの左腕に刺す。
「っ!?」
攻撃自体は、たいした殺傷力を持たない。
だが、わずかに腕がしびれた。
それが、命運を分けた。
「!」
間髪を容れず、リュイセンの左手の甲を〈蝿〉が蹴り上げる。その拍子に、あろうことか、リュイセンは双刀の片方を取り落とした――!
「タオロン!」
床に落ちた刀を〈蝿〉が蹴り飛ばす。双刀の片割れは、相方への未練を残すかのような長い銀光を伸ばしながら、タオロンのもとへと流れていった。
「タオロン、その刀でエルファンの小倅を捕獲しなさい。無理なら殺しても構いません。鷹刀の子猫さえいれば、藤咲メイシアを呼び寄せることが可能ですから」
〈蝿〉は指示を出しつつ、ふわりと後方へと下がる。ルイフォンが、うめき声を上げながら起き上がろうとしているのに気づいたのだ。
リュイセンが武装している以上、ルイフォンだって武器を隠し持っているはず。〈蝿〉は正しくそう読んだ。
「〈蝿〉、卑怯だぞ!」
倒れているルイフォンを守るように位置を取りながら、リュイセンが叫ぶ。
「何を言っているのですか? あなた方と私の間には、初めから『殺し合い』しかありません」
「……っ!」
リュイセンが息を呑んだ。床で上体を起こしたルイフォンもまた、びくりと肩を震わせる。
「理由はどうであれ、私は鷹刀に刃を向けました。鷹刀イーレオは凶賊の総帥として、私を許すわけにはいかないでしょう」
〈蝿〉の口元が、ふっとほころぶ。それは悪意の欠片もない、純粋な笑みだった。
「彼は優しい方です。仮にも義理の息子と呼んだ私――いいえ、『ヘイシャオ』の記憶を持つ私を、殺めたくなどないでしょう」
おそらく、その通りだろう。だから、ルイフォンやリュイセンにしてみれば、生ぬるいとしかいいようのない態度を、イーレオは取り続けたのだ。
「けれど、……お義父さん……は、心でどう感じていたとしても、情には流されません。私を捕らえ、情報を得たあと、殺すでしょう。それが、凶賊であり、総帥であり、鷹刀イーレオという男です」
「〈蝿〉……」
ルイフォンは痛む鳩尾を押さえながら、もと一族の男の毅然とした姿を見上げる。とうに決別した相手を遠くに思うその顔は、壮麗な穏やかさで満たされていた。
〈蝿〉の後ろでは、タオロンが震える手で双刀の片割れを握っていた。今までの話の流れは、タオロンに武器を与えるためのものだったのだと、今更ながらルイフォンは悟る。
「『話し合い』などありません。『殺し合い』しかないのです。――故に私は、全力であなた方を殺します」
甘やかに、愛しげに。
魅惑の低音が、静かに響いた。