残酷な描写あり
2.残像の軌跡-1
草薙家に着いたルイフォンは、レイウェンの妻シャンリーによって、奥の小部屋に通された。
置かれた調度から察するに、接待用の部屋であるらしい。とはいえ、大人数が入れる表彰状だらけの応接室とは違い、もっと私的で落ち着いた雰囲気が漂っている。
ただ、ルイフォンが目を瞬かせたのは、テーブルの上で湯気を上げているスープのためだった。肉と野菜が豪快に放り込まれており、お世辞にも上品とは言えなかったが、美味そうな匂いが鼻腔をくすぐる。
「緋扇シュアンの奴が『なんか食わせてやれ』と、わざわざ連絡を寄越してきたんでな」
「え……、シュアンが」
「ああ。だが、あいにく、ユイラン様はお忙しくて。……私が残り物を適当にぶち込んだだけのものだが、味は保証する。食っていけ」
シャンリーがほんの少し気まずげなのは、手先の器用な義母ユイランであれば、もっと上等なものを振る舞えたのに、ということだろう。
「ありがとう。――いただきます」
ルイフォンは襟を正して礼を言い、ひと匙、口にする。
美味い。
夏に差し掛かったこの時期であるにも関わらず、温かさが身にしみた。
「……ご苦労だったな」
シャンリーが向かいに座り、静かに微笑んだ。……柔らかなのに、苦しげな笑みだった。
「疲れただろう?」
「……」
ルイフォンのスプーンが止まる。
作戦に失敗し、リュイセンの生死が不明であることは、シャンリーも知っている。
リュイセンは、長いこと、母親のユイランとうまくいっていなかった。父親のエルファンに至っては、そもそも子供の相手などできる性格ではない。だからリュイセンは、兄のレイウェンと義姉のシャンリーに育てられたようなものだ。
つまり彼女にとって、リュイセンは実の弟以上の存在……。
「すみません……」
思わず、言葉がこぼれた。
ルイフォンが頭を下げた次の瞬間。
「っ!?」
額に鋭い痛みが走った。シャンリーの指先が、ルイフォンの眉間を弾いたのだ。
「馬鹿たれ! なんて辛気臭い顔をしていやがる」
彼女こそ、今にも泣き出しそうな顔をしていたくせに、それを棚上げしての、この仕打ち。その上、ただの脅しだと思いたいが、それとなく腰の直刀の存在を誇示している。
……つい一瞬前までの彼女は、幻だったのか?
「いいか? そんな顔をしていいのは、ここにいる間だけだ。鷹刀からの迎えが来たら、お前はしゃんとするんだぞ」
「……」
赤くなったルイフォンの額に、シャンリーは、更に人差し指をぐりぐりと押しつけた。文句を言うほどではないが、地味に痛い。
「何故、シュアンの奴が『なんか食わせてやれ』と言ったのか。お前、分かっているか?」
「え……っと……?」
「勿論、腹が減っているはずだ、との気遣いはあるだろう。だが、それよりも、お前に『心を休める時間』を与えてやるためだ」
「…………」
呆けたように目を見張るルイフォンの額を、シャンリーは再び強く弾く。
「痛ぇ!」
「これから、お前は大変だぞ。失敗の落とし前をどうつけるのか。――もうじき、鷹刀からの迎えが来る。それまでに、よく考えておくんだな!」
まるで悪役のような捨て台詞を残し、シャンリーは唐突に身を翻して部屋を出ていった。
ぱたん、と音を立てた扉のこちら側には、ルイフォンと、まだ湯気を立てている彼女の作ったスープだけが残された。
スープをすくい、口に含む。
「美味ぇや……」
大雑把な見た目に反して、複雑で深い味わいのスープだった。
そういえば、シャンリーにちゃんと『美味い』と伝えていなかったことに気づく。
たったひとことだが、大切なことだ。メイシアにそう言うと、彼女は照れたように頬を染め、『ありがとう』と極上の笑顔を返してくれるのだ。
「……っ」
メイシアを思い描いた瞬間、ルイフォンは息を詰まらせた。
あのとき――。
王妃の部屋で〈蝿〉と対峙したときに、奴に突きつけられた言葉が頭の中に蘇る。
『『デヴァイン・シンフォニア計画』の鍵となるために、〈天使〉のホンシュアに操られた『藤咲メイシア』は、色仕掛けであなたを籠絡したのですよ』
心臓が、氷の楔を穿たれたかのように鋭く痛み、凍りついていく。
「メイシア……!」
頭蓋が割れるように痛んだ。ルイフォンは頭を抱え込み、テーブルに肘を付く。
……いっさいの不安を口にせず、ただ、ほんの少しだけ甘えるように彼に体を預け、『信じているから』という言葉で送り出してくれたメイシア。
あれから、まだ、半日しか経っていない。まったく、一寸先は闇だ。ルイフォンの口から乾いた笑いが漏れる。
「あいつは、俺の何を信じているんだ……?」
少しだけ上目遣いに彼を見上げた瞳。不安に揺れているのが明らかなのに、気づかれていないとでも思っているのか、無理に笑おうとして引きつった口元。
脅えを隠した澄んだ声で、彼女は彼に囁く。
『信じているから』
「…………っ!」
息遣いすら、はっきりと思い出せる、彼女の言葉。
温かさと愛おしさに、魂が震え上がる。
『信じている』
そのひとことに、どれだけの想いが込められていたのだろう。
「あいつの想いを裏切ったら、駄目だろ……俺」
たとえ、まやかしの恋心に踊らされているのだとしても、あのとき彼女が口にした言葉は、彼女にとっては真実だ。
彼女は心から彼を案じ、彼の帰りを待っている。
「あいつは、こんな、ぼろぼろの俺なんて、見たくねぇはずだ……」
これから鷹刀一族の屋敷に戻る。そのとき、こんな自分に逢わせるわけにはいかない。
彼女の恋は幻でも、彼の愛は本物だ。
だから、出迎えてくれる彼女を――最愛の彼女を、悲しませたくないと思う。
彼女の心は〈天使〉に惑わされただけかもしれないと、あとで、きちんと告げる。けれど、まずは信じて送り出してくれた彼女に、応えたい……!
――冷静になるのだ。
『リュイセンさんが『死んだかもしれない』ということは、彼の死を確認したわけではありませんね?』
『ならば、助かっているかもしれません!』
ふと。
ハオリュウの声が耳に響いた。
車の座席下から現れた彼を迎えてくれたのは、そんな言葉だった。
あのときは、心がついていかなくて振り切ってしまったが、改めて思い返せば、極めて正確な意見だ。決して、希望的観測などではない。
「……」
リュイセンの死は、確定したわけではない。
ただ、最後に見た光景が絶望的だった、というだけだ。
「どう転んでも対処できるように構えているのが『俺』だろ……」
なのに、リュイセンを失う恐怖に両目をふさがれ、一歩も動けなくなった。的確な状況分析が取り柄のルイフォンとしては、あるまじき醜態だ。
勿論、楽観視はしない。けれど、悲観的になる理由もない。
『どんなことをしてでも、リュイセンさんを取り戻してみせます!』
ハオリュウの言葉が、今ごろになって、すとんと胸に届く。
そうだ。リュイセンの死をこの目で確認するまでは、手段を選ばず打って出る。――それが、ルイフォンの為すべきことだ。
「……すまん、ハオリュウ」
彼には申し訳ないことをした。先ほどの態度は八つ当たりだった。あとで、きちんと詫びを入れよう。
ルイフォンは、頭を押さえていた手で、癖のある前髪を掻き上げる。――挑戦的な猫の目に、光を取り戻しながら。
諦めるのはまだ早い。
彼はスープを啜り、添えられたパンを齧る。シャンリーと、それからシュアンの心遣いが、胃袋から全身へとしみ渡った。
同時刻。
菖蒲の館にて――。
「いいですか。この館に隠れている曲者を、一刻も早く見つけ出すのです」
〈蝿〉は私兵たちを呼び集め、声高に叫んだ。
「見た目は、ひ弱な子供ですが、侮ってはいけません。遠距離から毒刃を仕掛けてきます。確認できたのは彼だけですが、他にも潜んでいる可能性があります」
命を下し、私兵たちが四方に散る背中を見届けると、〈蝿〉は眉間に皺を寄せたまま、盛大に溜め息をついた。
取り逃がしたのが一騎当千のリュイセンではなく、チンピラに毛が生えた程度のルイフォンだったのは幸運だった。隠れているのが子猫なら、追い詰めれば捕獲できるだろう。
だが、油断は禁物。彼は頭が切れる。
もしやと思って確認すれば、監視カメラが乗っ取られていた。対処の仕方が分からなかったので即座に電源を落としたが、カメラがルイフォンの手に落ちていたのなら、館の構造は把握されていると思って間違いない。
かつて国王が使っていたほどの広さの館に、子猫が一匹。いったい、どこに隠れたのやら……。
〈蝿〉は、白髪混じりの頭髪を苛々と乱暴に掻きむしった。
置かれた調度から察するに、接待用の部屋であるらしい。とはいえ、大人数が入れる表彰状だらけの応接室とは違い、もっと私的で落ち着いた雰囲気が漂っている。
ただ、ルイフォンが目を瞬かせたのは、テーブルの上で湯気を上げているスープのためだった。肉と野菜が豪快に放り込まれており、お世辞にも上品とは言えなかったが、美味そうな匂いが鼻腔をくすぐる。
「緋扇シュアンの奴が『なんか食わせてやれ』と、わざわざ連絡を寄越してきたんでな」
「え……、シュアンが」
「ああ。だが、あいにく、ユイラン様はお忙しくて。……私が残り物を適当にぶち込んだだけのものだが、味は保証する。食っていけ」
シャンリーがほんの少し気まずげなのは、手先の器用な義母ユイランであれば、もっと上等なものを振る舞えたのに、ということだろう。
「ありがとう。――いただきます」
ルイフォンは襟を正して礼を言い、ひと匙、口にする。
美味い。
夏に差し掛かったこの時期であるにも関わらず、温かさが身にしみた。
「……ご苦労だったな」
シャンリーが向かいに座り、静かに微笑んだ。……柔らかなのに、苦しげな笑みだった。
「疲れただろう?」
「……」
ルイフォンのスプーンが止まる。
作戦に失敗し、リュイセンの生死が不明であることは、シャンリーも知っている。
リュイセンは、長いこと、母親のユイランとうまくいっていなかった。父親のエルファンに至っては、そもそも子供の相手などできる性格ではない。だからリュイセンは、兄のレイウェンと義姉のシャンリーに育てられたようなものだ。
つまり彼女にとって、リュイセンは実の弟以上の存在……。
「すみません……」
思わず、言葉がこぼれた。
ルイフォンが頭を下げた次の瞬間。
「っ!?」
額に鋭い痛みが走った。シャンリーの指先が、ルイフォンの眉間を弾いたのだ。
「馬鹿たれ! なんて辛気臭い顔をしていやがる」
彼女こそ、今にも泣き出しそうな顔をしていたくせに、それを棚上げしての、この仕打ち。その上、ただの脅しだと思いたいが、それとなく腰の直刀の存在を誇示している。
……つい一瞬前までの彼女は、幻だったのか?
「いいか? そんな顔をしていいのは、ここにいる間だけだ。鷹刀からの迎えが来たら、お前はしゃんとするんだぞ」
「……」
赤くなったルイフォンの額に、シャンリーは、更に人差し指をぐりぐりと押しつけた。文句を言うほどではないが、地味に痛い。
「何故、シュアンの奴が『なんか食わせてやれ』と言ったのか。お前、分かっているか?」
「え……っと……?」
「勿論、腹が減っているはずだ、との気遣いはあるだろう。だが、それよりも、お前に『心を休める時間』を与えてやるためだ」
「…………」
呆けたように目を見張るルイフォンの額を、シャンリーは再び強く弾く。
「痛ぇ!」
「これから、お前は大変だぞ。失敗の落とし前をどうつけるのか。――もうじき、鷹刀からの迎えが来る。それまでに、よく考えておくんだな!」
まるで悪役のような捨て台詞を残し、シャンリーは唐突に身を翻して部屋を出ていった。
ぱたん、と音を立てた扉のこちら側には、ルイフォンと、まだ湯気を立てている彼女の作ったスープだけが残された。
スープをすくい、口に含む。
「美味ぇや……」
大雑把な見た目に反して、複雑で深い味わいのスープだった。
そういえば、シャンリーにちゃんと『美味い』と伝えていなかったことに気づく。
たったひとことだが、大切なことだ。メイシアにそう言うと、彼女は照れたように頬を染め、『ありがとう』と極上の笑顔を返してくれるのだ。
「……っ」
メイシアを思い描いた瞬間、ルイフォンは息を詰まらせた。
あのとき――。
王妃の部屋で〈蝿〉と対峙したときに、奴に突きつけられた言葉が頭の中に蘇る。
『『デヴァイン・シンフォニア計画』の鍵となるために、〈天使〉のホンシュアに操られた『藤咲メイシア』は、色仕掛けであなたを籠絡したのですよ』
心臓が、氷の楔を穿たれたかのように鋭く痛み、凍りついていく。
「メイシア……!」
頭蓋が割れるように痛んだ。ルイフォンは頭を抱え込み、テーブルに肘を付く。
……いっさいの不安を口にせず、ただ、ほんの少しだけ甘えるように彼に体を預け、『信じているから』という言葉で送り出してくれたメイシア。
あれから、まだ、半日しか経っていない。まったく、一寸先は闇だ。ルイフォンの口から乾いた笑いが漏れる。
「あいつは、俺の何を信じているんだ……?」
少しだけ上目遣いに彼を見上げた瞳。不安に揺れているのが明らかなのに、気づかれていないとでも思っているのか、無理に笑おうとして引きつった口元。
脅えを隠した澄んだ声で、彼女は彼に囁く。
『信じているから』
「…………っ!」
息遣いすら、はっきりと思い出せる、彼女の言葉。
温かさと愛おしさに、魂が震え上がる。
『信じている』
そのひとことに、どれだけの想いが込められていたのだろう。
「あいつの想いを裏切ったら、駄目だろ……俺」
たとえ、まやかしの恋心に踊らされているのだとしても、あのとき彼女が口にした言葉は、彼女にとっては真実だ。
彼女は心から彼を案じ、彼の帰りを待っている。
「あいつは、こんな、ぼろぼろの俺なんて、見たくねぇはずだ……」
これから鷹刀一族の屋敷に戻る。そのとき、こんな自分に逢わせるわけにはいかない。
彼女の恋は幻でも、彼の愛は本物だ。
だから、出迎えてくれる彼女を――最愛の彼女を、悲しませたくないと思う。
彼女の心は〈天使〉に惑わされただけかもしれないと、あとで、きちんと告げる。けれど、まずは信じて送り出してくれた彼女に、応えたい……!
――冷静になるのだ。
『リュイセンさんが『死んだかもしれない』ということは、彼の死を確認したわけではありませんね?』
『ならば、助かっているかもしれません!』
ふと。
ハオリュウの声が耳に響いた。
車の座席下から現れた彼を迎えてくれたのは、そんな言葉だった。
あのときは、心がついていかなくて振り切ってしまったが、改めて思い返せば、極めて正確な意見だ。決して、希望的観測などではない。
「……」
リュイセンの死は、確定したわけではない。
ただ、最後に見た光景が絶望的だった、というだけだ。
「どう転んでも対処できるように構えているのが『俺』だろ……」
なのに、リュイセンを失う恐怖に両目をふさがれ、一歩も動けなくなった。的確な状況分析が取り柄のルイフォンとしては、あるまじき醜態だ。
勿論、楽観視はしない。けれど、悲観的になる理由もない。
『どんなことをしてでも、リュイセンさんを取り戻してみせます!』
ハオリュウの言葉が、今ごろになって、すとんと胸に届く。
そうだ。リュイセンの死をこの目で確認するまでは、手段を選ばず打って出る。――それが、ルイフォンの為すべきことだ。
「……すまん、ハオリュウ」
彼には申し訳ないことをした。先ほどの態度は八つ当たりだった。あとで、きちんと詫びを入れよう。
ルイフォンは、頭を押さえていた手で、癖のある前髪を掻き上げる。――挑戦的な猫の目に、光を取り戻しながら。
諦めるのはまだ早い。
彼はスープを啜り、添えられたパンを齧る。シャンリーと、それからシュアンの心遣いが、胃袋から全身へとしみ渡った。
同時刻。
菖蒲の館にて――。
「いいですか。この館に隠れている曲者を、一刻も早く見つけ出すのです」
〈蝿〉は私兵たちを呼び集め、声高に叫んだ。
「見た目は、ひ弱な子供ですが、侮ってはいけません。遠距離から毒刃を仕掛けてきます。確認できたのは彼だけですが、他にも潜んでいる可能性があります」
命を下し、私兵たちが四方に散る背中を見届けると、〈蝿〉は眉間に皺を寄せたまま、盛大に溜め息をついた。
取り逃がしたのが一騎当千のリュイセンではなく、チンピラに毛が生えた程度のルイフォンだったのは幸運だった。隠れているのが子猫なら、追い詰めれば捕獲できるだろう。
だが、油断は禁物。彼は頭が切れる。
もしやと思って確認すれば、監視カメラが乗っ取られていた。対処の仕方が分からなかったので即座に電源を落としたが、カメラがルイフォンの手に落ちていたのなら、館の構造は把握されていると思って間違いない。
かつて国王が使っていたほどの広さの館に、子猫が一匹。いったい、どこに隠れたのやら……。
〈蝿〉は、白髪混じりの頭髪を苛々と乱暴に掻きむしった。