残酷な描写あり
3.猫の誓言-3
華奢な両腕が、後ろからルイフォンを包み込む。背中に感じる、ほのかな重み。メイシアの香りと乱れた息遣いに、彼の心臓はどきりと高鳴る。
「――嫌」
澄んだ声が、凛と響いた。
否定の言葉をあまり言わない彼女が、きっぱりと告げた。
少しくらいの反論なら、ルイフォンも覚悟していた。けれど、透き通った言霊は、有無を言わせぬほどに力強い。
「私……、ルイフォンと触れ合えないのは、嫌」
メイシアの唇が、わずかに首筋に触れた。火傷しそうな熱さが、彼女の懸命な気持ちを物語っている。
ルイフォンは狼狽した。
そんな言葉が彼女の口から発せられるなど、想像したこともなかった。頭の中が真っ白になる。
「何もかも……、ひとりで勝手に決めないで! 私……、私……!」
「メイシア……」
彼女の細い腕へと手が伸びそうになり、ルイフォンは、はっとする。彼はたった今、彼女には指一本、触れないと誓ったばかりだ。
ルイフォンは唇を噛みしめる。
そんな彼に、まるで揺さぶりをかけるかのように、しっとりと熱を持った体がもたれかかった。
「〈天使〉の力って、何? こうしてルイフォンに触れると、どきどきしたり、安心したりする私の心は、改竄して作ることができるようなものなの?」
「……」
返事のできないルイフォンに、メイシアが畳み掛ける。
「それに、『デヴァイン・シンフォニア計画』は、『私たちが出逢う』ように仕組まれたもの。――ならば、ルイフォンだって、セレイエさんに操られているかもしれないじゃない! 『世間知らずの貴族の娘が現れたら、好きになるように』って」
「……え!?」
彼女の言葉が聞こえてから彼が理解するまでに、数瞬の時間差があった。――そのくらい、想定外の発想だった。
「だって、私たちが『互いに』惹かれ合わなければ、『デヴァイン・シンフォニア計画』は成り立たないんでしょう?」
「……っ」
断言できる。彼の抱く、彼女への気持ちは幻などではないと。
初めはただ、綺麗な女だと思った。世間知らずで、無鉄砲で、桜の花びらのように儚く嫋やかなのに、大樹の幹のように芯が強い。その落差に興味を引かれた。からかい甲斐があって、可愛らしい反応に嗜虐心をくすぐられて、つい構った。それだけだった。
けれど、彼女と行動を共にするうちに、戦乙女の魂にどんどん魅了されていった。
彼女が欲しいと思った。
「俺はちゃんと、だんだんと、お前に惹かれていった。一目惚れなんかじゃない」
「私だって、出逢った瞬間にルイフォンを好きになったわけじゃないもの。ルイフォンの言葉を聞いて、魂に触れて、あなたとずっと一緒に居たいと思うようになったの……!」
「――!」
同じだ。
ふたりは同じように徐々に惹かれ、想い合うようになっている。
この状況をどう解釈すればよいのか。
戸惑う彼に、メイシアが「ルイフォン」と呼びかけた。
「セレイエさんは、『不確定要素が多すぎて、計算できない』と言ったの。だから、彼女が仕組んだのは『私たちが出逢う』ことだけ。そのあと私たちが、彼女の望み通りに共に在り続けるかどうかは『計算できない』――そういう意味だと思う」
それは、少女娼婦スーリンを通して聞いた話だ。正確な言い回しではないだろう。そんな言葉の綾を議論しても仕方ない……。
「メイシア、『デヴァイン・シンフォニア計画』は、セレイエが必死になって作り上げているものだ。成功のためになら、どんな手段を使ってもおかしくないだろ……」
うそぶくような声も、言葉尻に力がなかった。メイシアに押されている。普段とは逆だ。
旗色の悪い彼に対し、彼女は更に思いもよらぬことを言い出した。
「ええと、ね。たぶん、だけど……。セレイエさんは、私のことを知っていたと思う」
「なん……だって?」
「〈悪魔〉となったセレイエさんは王族と面識があったはずなの。だって、〈七つの大罪〉は、王の私設研究機関なのだから。それなら王宮に出入りしていてもおかしくないし、貴族だった私を見かけていても不思議じゃない。少なくとも、私の家族が、その……、平民に偏見を持っていないことは知っていたと思う」
『平民』のところで、彼女はためらった。彼に対して、身分を口にしたくないのだろう。
王族や貴族は、平民を下に見る。それが普通だ。けれど、メイシアの父コウレンは、周りの反対を押し切って、ハオリュウの母である平民の女性と再婚した。おそらく、上流階級の間では有名な話だろう。
「平民である上に、凶賊だった俺に引き合わせるなら、お高く止まった貴族の女じゃ無理がある。その点、お前なら問題ない。だから、セレイエはお前を選んだ――と?」
「そうだけど、それだけじゃなくて……! ……私とルイフォンなら、きっと惹かれ合うだろう、って……セレイエさんは、その……ちゃんと『私を見て』、選んでくれたんだと思うの……」
メイシアは、口ごもりながらも懸命に抗議する。後ろから抱きついているために確認できないが、真っ赤な顔で、すねた上目遣いをしていることだろう。
きつくは言わないけれど、彼女は意外に嫉妬深くて、独占欲が強い。彼の『特別』でありたいと強く願ってくれる。それはもう、信じられないくらいに深く、激しく。
だからこそ、今だけは、それが自信ではなくて不安に繋がる……。
何を言えばよいのか分からずにルイフォンが沈黙していると、メイシアはだんだん恥ずかしくなってきたらしい。取り繕うように「けど……」と呟いた。
「本当にどうして、私だったのかしら……?」
彼女の吐息が、首筋をくすぐる。
理性が揺らぐ。
彼女を引き剥がさなければいけないのに、名残惜しさに胸が苦しい。ずっと彼女に触れていたい。それが本心なのだと、否が応でも自分自身の心と体に暴かれる。
そんな彼の内側も知らず、彼女はそのまま思考にふける。
「身分が違えば、出逢いの演出は難しくなるはず。それにも関わらず、セレイエさんは……」
そのとき、メイシアは息を呑んだ。
「ルイフォン!」
「なっ!? どうした?」
「やっぱりセレイエさんは、私の気持ちを操ろうなんてしていない!」
メイシアは、長いスカートを勢いよくはためかせ、ルイフォンの背中からくるりと身を翻した。エプロンの白いフリルで今までの空気を払いのけ、彼女は彼の真横にぴたりと体を寄せる。
そして、ほんのり得意げな顔で、彼の瞳を捕らえた。
「もしもセレイエさんが私の心に介入するつもりだったら、ハオリュウの誘拐から始まる大事件なんて、計画する必要がなかったの」
「――?」
「『街で偶然、見かけたルイフォンに、私は一目惚れした』――そんな記憶を植えつけるだけで、私はルイフォンのもとに押しかけていったはず」
メイシアは声を弾ませ、白磁の肌を薔薇色に染める。
「凶賊の勢力争いや、貴族の権力争い、警察隊の腐敗……そんなものを巻き込むような、大規模な事件なんて要らないの」
「――っ!」
ルイフォンの口から、鋭い息が漏れた。
メイシアの思考は、非常に論理的。育ちの良さから他人を疑うことは苦手だけれど、状況の矛盾から虚構を見抜く。
もと一族で、娼館の女主人のシャオリエは、そう言っていた――。
「セレイエさんの〈影〉だったホンシュアは、『あなたが幸せになる道を選んで』というルイフォンへの遺言を、タオロンさんに託した。そんな人が偽りの愛を仕掛けるわけがない。――つまり」
真実を導き出す黒曜石の瞳が輝き、彼に告げる。
「セレイエさんは、私たちに自然に惹かれ合ってほしくて、あんな面倒な事件を起こしたの」
凛と冴え渡った、透き通る声。
強い口調で主張したことを恥じるように、ほんの少し、すくめた肩。
それでも、一歩も引かぬと、彼を見つめる瞳。
「メイシア……!」
気づけば、ルイフォンは椅子から立ち上がり、彼女を抱きしめていた。
柔らかな感触が胸を熱くする。気力がみなぎり、魂が奮い立つ。
華奢な体躯は、腕の中にすっぽりと収まる。こんなにもか弱く、儚げなのに、彼女は彼に無限の力を与えてくれる。
「お前の……言う通りだ……!」
彼女の髪に頭をうずめ、彼は呟く。泣きたいくらいに切なくて、けれど、安らぎに満ちている。
彼の心が、穏やかに解放されていく……。
ルイフォンは顔を上げ、メイシアと向き合った。
「……ごめんな」
「ルイフォン?」
「俺はずっと、自信がなかった」
「え?」
心底、驚いた様子で、メイシアが目を丸くした。素直な反応に、ルイフォンは微苦笑する。
「そりゃ、俺は自信過剰だよ。……けど、お前に関してだけは自信がなかった。だから、〈蝿〉の言葉に惑わされた」
腕の中で、戸惑うように彼女が身じろぎする。けれど彼は、より一層、強く彼女を抱きしめる。離すまいとの意思表示をするかのように。
「お前は、何もかもすべてを捨てて、俺のところに来てくれた。けど、果たして俺に、それだけの価値があるのか。――さすがの俺だって、『ある』と答える自信はないよ」
〈蝿〉は、そんな彼の心の隙を衝いた。
『あんな上流階級の娘が、凶賊のあなたを相手にするなんて、普通に考えればあり得ないでしょう?』
呪いの言葉で、悪魔は彼を縛った。
「でも、もう悩まない。こうしてお前が俺のそばに居てくれるという事実が、俺の価値の証明だ」
ルイフォンは、優しいテノールに不遜な発言を載せる。
そして、抜けるような青空の笑顔でメイシアを包んだ。
彼女は、彼の戦乙女。
彼が呪いに倒れれば、彼女が呪いを解いてくれる。
ならば、彼は彼女を守る。あらゆるものから、全力で彼女を守る。
彼女が安心して、彼のそばに居られるように。
彼女が彼のそばで、幸せに笑っていられるように――。
「…………っ」
現在と、そして未来の彼女は、必ず守る。
けれど過去は――。
『デヴァイン・シンフォニア計画』によって、彼女の家族は不幸に陥れられた……。
「メイシア、ごめんな」
ルイフォンは、ぽつりと漏らした。
続けて二度も『ごめん』と口にした彼に、彼女は小首をかしげる。
「セレイエが元凶なんだ……。俺の異父姉が……さ」
「でも、セレイエさんが仕組まなければ、私たちは出逢わなかったの。彼女のしたことは許すことはできないけど……けど、ルイフォンと出逢えたことだけはよかったと思う」
思った通りのことを口にする彼女に、彼は強気の猫の目を向ける。
「そうとは限らないだろ? 俺たちなら、セレイエが何もしなくても、きっとどこかで出逢ったはずだ。――俺は、そんな気がするよ」
「!」
メイシアの頬が赤く染まる。けれど、彼女はすぐに「うん」と極上の笑顔を返してくれた。
「愛している」
彼女に口づける。
彼女の愛を明確な言葉で聞きたくて、彼女が同じ言葉を返してくれるのを待ってから、それを発した唇に触れたこともあった。けれど、もう、そんな自信のなさの表れのような行動は必要ない。
「メイシア」
彼女を抱きしめたまま、ルイフォンは語りかける。
「これから俺は、リュイセンを助け出す」
「うん」
「〈蝿〉の野郎も捕まえて、奴との決着をつける。そしたら……」
小さく息を吸うと、背中で金の鈴が煌めいた。
鋭い猫の目で、彼は告げる。
「俺は、お前を連れて鷹刀を出る」
「え……?」
「鷹刀を出て、お前と一緒にセレイエを見つけ出す。あいつに洗いざらい『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを吐かせて、この、わけの分からない状態を終わらせる」
そして、『デヴァイン・シンフォニア計画』を終着に導く。
ルイフォンは、どこにいるとも知れぬセレイエを挑発するように、好戦的に嗤う。
「うん。私も、何が起きているのかを知りたい。だから、セレイエさんを探すべきだと思う。……けど、『鷹刀を出る』というのは、どういうこと?」
突然のことに戸惑っているのだろう。メイシアの声は不安に揺れていた。
そんな彼女に、彼は静かなテノールを響かせる。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』とセレイエにとって必要な駒は、俺とお前、それから『ライシェン』を作れる〈蝿〉。分かっている範囲ではそれだけだ。――つまり鷹刀は、『デヴァイン・シンフォニア計画』とは関係がない」
「え? あ……!」
一度だけ疑問に眉を寄せたが、聡明なメイシアは、次の瞬間には納得の声を上げた。
――そう。
セレイエは、鷹刀一族そのものには用はなく、ただ利用しただけなのだ。
ルイフォンとメイシアが、巡り逢うための場所として。
〈蝿〉を意のままに動かすための、偽りの復讐相手として。
「そう考えていくと、セレイエの狙いは『俺とお前』なんだ。あいつが俺たちに、何をさせたいのかは分からない。けど俺は、関係ないはずの鷹刀を巻き込みたくはない」
メイシアの喉が、こくりと動いた。硬い顔をする彼女に、少し心配をかけすぎたかと、ルイフォンは反省して語調を和らげる。
「俺は〈猫〉として独立した。自分に掛かる火の粉くらい、自分で払う。――それに俺は、鷹刀という場所が好きだ。だから、わけの分からない害悪から守りたい」
近くにいれば、父イーレオは、きっと血族の情で有形無形の援護をする。
けれど、ルイフォンは一族を抜けたのだ。いつまでも甘える気はない。
「別に、鷹刀と縁を切るわけじゃないよ。ただ、きちんと『対等』でありたいだけだ」
そう告げたルイフォンの背中に、メイシアは、ふわりと腕を回した。彼女の指先にじゃれつくように、金の鈴がちょこんと触れる。
「ルイフォンの気持ちは分かる。凄く、ルイフォンらしい。尊重したい」
そこで彼女は少し体を離し、遠慮がちな上目遣いで彼を見上げた。
「――でも、鷹刀の人たちは『水臭いことを言うな』と、引き止めると思うの。……特にリュイセンが」
「……まぁ、そうだな」
あの兄貴分なら、きっとそう言うだろう。
「皆がルイフォンを大切にしている気持ちは、忘れないでほしいの。私とルイフォンは『ふたりきり』じゃない。『皆に囲まれた、ふたり』だから」
透き通った声が、じわりと胸にしみる。
「……ああ」
たったひとりで、この先を歩んでいくつもりだった。
けれど――。
彼は、メイシアの黒絹の髪に指先を絡め、くしゃりと撫でる。
「ともかく、今はリュイセンを助けないとな。――先のことは、それからだ」
ルイフォンを逃がすために大怪我を負った兄貴分。傷はどんな具合いだろうか……。
菖蒲の館の方角を見やり、彼は唇を噛みしめる。
――まずは、リュイセンの救出だ。
研究室に運び込んだときには土気色だったリュイセンの肌が、ようやく赤みを帯びてきた。〈蝿〉は安堵に胸を撫で下ろす。
時計を見れば、既に真夜中も近かった。
もっとも、地下には昼も夜もない。しかし、時間の経過と疲労の具合いとの相関関係に、彼は納得した。
『ミンウェイ』も、無事に連れ帰ってきている。いつも通りの心安らぐ光景に、〈蝿〉はわずかに口元を緩め、体を投げ出すようにして椅子に身を預けた。
『藤咲ハオリュウを、『ライシェン』と対面させるために、この館に招く』
摂政がそう言い出したとき、嫌な予感がした。そんなことをすれば、あの子供当主の口から鷹刀一族へと、〈蝿〉の潜伏場所が伝わるのが明白だったからだ。
だが、所在を知られたところで、近衛隊の守る庭園ならば安全だと、高をくくった。摂政の要望を断るほうが、のちのち面倒だと思ったのだ。
「……っ」
〈蝿〉は舌打ちをする。
鷹刀一族が関わるのは、あくまでも会食の『あと』のはずだった。まさか、この機に乗じて、紛れ込んでくるとは思わなかった。今のところ、ルイフォンとリュイセンのふたりとしか接触していないが、他にもいるかもしれない。警戒は怠れない。
門を抜けられ、内部に入り込まれてしまえば、防衛の手段は限られている。金で雇った私兵など、たいして役に立たないだろう。そもそも、彼らの主な役割は情報収集。館に籠もった〈蝿〉の目となり、耳となるための者たちだ。頼みの綱は、タオロンのみだ。
リュイセンの身柄がこちらにある以上、ルイフォンは必ず現れる。だから、タオロンを研究室の扉の前に待機させた。
現在、私兵を総動員して館中をしらみつぶしに探させているが、いまだ、ルイフォンは見つかっていない……。
……そう――『現在』である。
摂政が帰るまでは、〈蝿〉は大掛かりなルイフォンの捜索を控えた。そのために、遅れを取った感が否めない。
『摂政に対して、どのような態度を取るべきか』
〈蝿〉が頭を抱えているのは、この点だった。
ルイフォンとリュイセンという賊の立ち入りを許したのは、明らかに摂政のミスだ。大掛かりな会食など開くから、人の出入りが繁雑になり、侵入者を見逃した。
すべては摂政のせいだ。
なのに、のうのうと飲み食いした挙げ句、帰り際に『摂政殿下をお見送りするように』などと、使いの者を寄越してきた。まったく厚顔無恥も甚だしい。
だから、取り込み中であると言い捨ててやった。実際、リュイセンだけでなく、〈蝿〉だって重傷だった。摂政が機嫌を損ねようが、知ったことではない。
だいたい〈蝿〉は、摂政の部下ではないのだ。〈蝿〉が『ライシェン』を提供する代わりに、摂政は資金と安全を保証する。対等な間柄だ。それにも関わらず、身が危険に晒された。これは立派に約束を違えている。
それを指摘して近衛隊という武力を差し出させ、〈蝿〉の護衛とルイフォンの捜索に充てる。そんな取り引きも考えてみたのだが……。
ぎりぎりという歯噛みが、〈蝿〉の口から漏れる。
侵入した賊が鷹刀一族ではなく、〈蝿〉のせいで大損害を受けたと恨んでいる斑目一族の者だったなら、〈蝿〉は迷わず摂政を責め立て、近衛隊を出動させた。
しかし、ルイフォンとリュイセンは、『鷹刀セレイエ』の弟だ。〈蝿〉も、摂政も、必死に行方を探している『鷹刀セレイエ』に、深く繋がる者たちだ。
『鷹刀セレイエ』への足掛かりを手に入れたと摂政に明かすのは、やはり愚策でしかないだろう。
〈蝿〉は大きな溜め息を落とし、そう結論づけた。
何故なら、『ライシェン』がほぼ完成した今、これからの摂政との駆け引きが重要だからだ。
一歩、間違えれば〈蝿〉は不要の者として始末される危険がある。自分だけが知っている情報は、ひとつでも多いほうがよい。いざというときの切り札になる……。
〈蝿〉にとっての不穏な夜は、こうして静かに更けていった。
「――嫌」
澄んだ声が、凛と響いた。
否定の言葉をあまり言わない彼女が、きっぱりと告げた。
少しくらいの反論なら、ルイフォンも覚悟していた。けれど、透き通った言霊は、有無を言わせぬほどに力強い。
「私……、ルイフォンと触れ合えないのは、嫌」
メイシアの唇が、わずかに首筋に触れた。火傷しそうな熱さが、彼女の懸命な気持ちを物語っている。
ルイフォンは狼狽した。
そんな言葉が彼女の口から発せられるなど、想像したこともなかった。頭の中が真っ白になる。
「何もかも……、ひとりで勝手に決めないで! 私……、私……!」
「メイシア……」
彼女の細い腕へと手が伸びそうになり、ルイフォンは、はっとする。彼はたった今、彼女には指一本、触れないと誓ったばかりだ。
ルイフォンは唇を噛みしめる。
そんな彼に、まるで揺さぶりをかけるかのように、しっとりと熱を持った体がもたれかかった。
「〈天使〉の力って、何? こうしてルイフォンに触れると、どきどきしたり、安心したりする私の心は、改竄して作ることができるようなものなの?」
「……」
返事のできないルイフォンに、メイシアが畳み掛ける。
「それに、『デヴァイン・シンフォニア計画』は、『私たちが出逢う』ように仕組まれたもの。――ならば、ルイフォンだって、セレイエさんに操られているかもしれないじゃない! 『世間知らずの貴族の娘が現れたら、好きになるように』って」
「……え!?」
彼女の言葉が聞こえてから彼が理解するまでに、数瞬の時間差があった。――そのくらい、想定外の発想だった。
「だって、私たちが『互いに』惹かれ合わなければ、『デヴァイン・シンフォニア計画』は成り立たないんでしょう?」
「……っ」
断言できる。彼の抱く、彼女への気持ちは幻などではないと。
初めはただ、綺麗な女だと思った。世間知らずで、無鉄砲で、桜の花びらのように儚く嫋やかなのに、大樹の幹のように芯が強い。その落差に興味を引かれた。からかい甲斐があって、可愛らしい反応に嗜虐心をくすぐられて、つい構った。それだけだった。
けれど、彼女と行動を共にするうちに、戦乙女の魂にどんどん魅了されていった。
彼女が欲しいと思った。
「俺はちゃんと、だんだんと、お前に惹かれていった。一目惚れなんかじゃない」
「私だって、出逢った瞬間にルイフォンを好きになったわけじゃないもの。ルイフォンの言葉を聞いて、魂に触れて、あなたとずっと一緒に居たいと思うようになったの……!」
「――!」
同じだ。
ふたりは同じように徐々に惹かれ、想い合うようになっている。
この状況をどう解釈すればよいのか。
戸惑う彼に、メイシアが「ルイフォン」と呼びかけた。
「セレイエさんは、『不確定要素が多すぎて、計算できない』と言ったの。だから、彼女が仕組んだのは『私たちが出逢う』ことだけ。そのあと私たちが、彼女の望み通りに共に在り続けるかどうかは『計算できない』――そういう意味だと思う」
それは、少女娼婦スーリンを通して聞いた話だ。正確な言い回しではないだろう。そんな言葉の綾を議論しても仕方ない……。
「メイシア、『デヴァイン・シンフォニア計画』は、セレイエが必死になって作り上げているものだ。成功のためになら、どんな手段を使ってもおかしくないだろ……」
うそぶくような声も、言葉尻に力がなかった。メイシアに押されている。普段とは逆だ。
旗色の悪い彼に対し、彼女は更に思いもよらぬことを言い出した。
「ええと、ね。たぶん、だけど……。セレイエさんは、私のことを知っていたと思う」
「なん……だって?」
「〈悪魔〉となったセレイエさんは王族と面識があったはずなの。だって、〈七つの大罪〉は、王の私設研究機関なのだから。それなら王宮に出入りしていてもおかしくないし、貴族だった私を見かけていても不思議じゃない。少なくとも、私の家族が、その……、平民に偏見を持っていないことは知っていたと思う」
『平民』のところで、彼女はためらった。彼に対して、身分を口にしたくないのだろう。
王族や貴族は、平民を下に見る。それが普通だ。けれど、メイシアの父コウレンは、周りの反対を押し切って、ハオリュウの母である平民の女性と再婚した。おそらく、上流階級の間では有名な話だろう。
「平民である上に、凶賊だった俺に引き合わせるなら、お高く止まった貴族の女じゃ無理がある。その点、お前なら問題ない。だから、セレイエはお前を選んだ――と?」
「そうだけど、それだけじゃなくて……! ……私とルイフォンなら、きっと惹かれ合うだろう、って……セレイエさんは、その……ちゃんと『私を見て』、選んでくれたんだと思うの……」
メイシアは、口ごもりながらも懸命に抗議する。後ろから抱きついているために確認できないが、真っ赤な顔で、すねた上目遣いをしていることだろう。
きつくは言わないけれど、彼女は意外に嫉妬深くて、独占欲が強い。彼の『特別』でありたいと強く願ってくれる。それはもう、信じられないくらいに深く、激しく。
だからこそ、今だけは、それが自信ではなくて不安に繋がる……。
何を言えばよいのか分からずにルイフォンが沈黙していると、メイシアはだんだん恥ずかしくなってきたらしい。取り繕うように「けど……」と呟いた。
「本当にどうして、私だったのかしら……?」
彼女の吐息が、首筋をくすぐる。
理性が揺らぐ。
彼女を引き剥がさなければいけないのに、名残惜しさに胸が苦しい。ずっと彼女に触れていたい。それが本心なのだと、否が応でも自分自身の心と体に暴かれる。
そんな彼の内側も知らず、彼女はそのまま思考にふける。
「身分が違えば、出逢いの演出は難しくなるはず。それにも関わらず、セレイエさんは……」
そのとき、メイシアは息を呑んだ。
「ルイフォン!」
「なっ!? どうした?」
「やっぱりセレイエさんは、私の気持ちを操ろうなんてしていない!」
メイシアは、長いスカートを勢いよくはためかせ、ルイフォンの背中からくるりと身を翻した。エプロンの白いフリルで今までの空気を払いのけ、彼女は彼の真横にぴたりと体を寄せる。
そして、ほんのり得意げな顔で、彼の瞳を捕らえた。
「もしもセレイエさんが私の心に介入するつもりだったら、ハオリュウの誘拐から始まる大事件なんて、計画する必要がなかったの」
「――?」
「『街で偶然、見かけたルイフォンに、私は一目惚れした』――そんな記憶を植えつけるだけで、私はルイフォンのもとに押しかけていったはず」
メイシアは声を弾ませ、白磁の肌を薔薇色に染める。
「凶賊の勢力争いや、貴族の権力争い、警察隊の腐敗……そんなものを巻き込むような、大規模な事件なんて要らないの」
「――っ!」
ルイフォンの口から、鋭い息が漏れた。
メイシアの思考は、非常に論理的。育ちの良さから他人を疑うことは苦手だけれど、状況の矛盾から虚構を見抜く。
もと一族で、娼館の女主人のシャオリエは、そう言っていた――。
「セレイエさんの〈影〉だったホンシュアは、『あなたが幸せになる道を選んで』というルイフォンへの遺言を、タオロンさんに託した。そんな人が偽りの愛を仕掛けるわけがない。――つまり」
真実を導き出す黒曜石の瞳が輝き、彼に告げる。
「セレイエさんは、私たちに自然に惹かれ合ってほしくて、あんな面倒な事件を起こしたの」
凛と冴え渡った、透き通る声。
強い口調で主張したことを恥じるように、ほんの少し、すくめた肩。
それでも、一歩も引かぬと、彼を見つめる瞳。
「メイシア……!」
気づけば、ルイフォンは椅子から立ち上がり、彼女を抱きしめていた。
柔らかな感触が胸を熱くする。気力がみなぎり、魂が奮い立つ。
華奢な体躯は、腕の中にすっぽりと収まる。こんなにもか弱く、儚げなのに、彼女は彼に無限の力を与えてくれる。
「お前の……言う通りだ……!」
彼女の髪に頭をうずめ、彼は呟く。泣きたいくらいに切なくて、けれど、安らぎに満ちている。
彼の心が、穏やかに解放されていく……。
ルイフォンは顔を上げ、メイシアと向き合った。
「……ごめんな」
「ルイフォン?」
「俺はずっと、自信がなかった」
「え?」
心底、驚いた様子で、メイシアが目を丸くした。素直な反応に、ルイフォンは微苦笑する。
「そりゃ、俺は自信過剰だよ。……けど、お前に関してだけは自信がなかった。だから、〈蝿〉の言葉に惑わされた」
腕の中で、戸惑うように彼女が身じろぎする。けれど彼は、より一層、強く彼女を抱きしめる。離すまいとの意思表示をするかのように。
「お前は、何もかもすべてを捨てて、俺のところに来てくれた。けど、果たして俺に、それだけの価値があるのか。――さすがの俺だって、『ある』と答える自信はないよ」
〈蝿〉は、そんな彼の心の隙を衝いた。
『あんな上流階級の娘が、凶賊のあなたを相手にするなんて、普通に考えればあり得ないでしょう?』
呪いの言葉で、悪魔は彼を縛った。
「でも、もう悩まない。こうしてお前が俺のそばに居てくれるという事実が、俺の価値の証明だ」
ルイフォンは、優しいテノールに不遜な発言を載せる。
そして、抜けるような青空の笑顔でメイシアを包んだ。
彼女は、彼の戦乙女。
彼が呪いに倒れれば、彼女が呪いを解いてくれる。
ならば、彼は彼女を守る。あらゆるものから、全力で彼女を守る。
彼女が安心して、彼のそばに居られるように。
彼女が彼のそばで、幸せに笑っていられるように――。
「…………っ」
現在と、そして未来の彼女は、必ず守る。
けれど過去は――。
『デヴァイン・シンフォニア計画』によって、彼女の家族は不幸に陥れられた……。
「メイシア、ごめんな」
ルイフォンは、ぽつりと漏らした。
続けて二度も『ごめん』と口にした彼に、彼女は小首をかしげる。
「セレイエが元凶なんだ……。俺の異父姉が……さ」
「でも、セレイエさんが仕組まなければ、私たちは出逢わなかったの。彼女のしたことは許すことはできないけど……けど、ルイフォンと出逢えたことだけはよかったと思う」
思った通りのことを口にする彼女に、彼は強気の猫の目を向ける。
「そうとは限らないだろ? 俺たちなら、セレイエが何もしなくても、きっとどこかで出逢ったはずだ。――俺は、そんな気がするよ」
「!」
メイシアの頬が赤く染まる。けれど、彼女はすぐに「うん」と極上の笑顔を返してくれた。
「愛している」
彼女に口づける。
彼女の愛を明確な言葉で聞きたくて、彼女が同じ言葉を返してくれるのを待ってから、それを発した唇に触れたこともあった。けれど、もう、そんな自信のなさの表れのような行動は必要ない。
「メイシア」
彼女を抱きしめたまま、ルイフォンは語りかける。
「これから俺は、リュイセンを助け出す」
「うん」
「〈蝿〉の野郎も捕まえて、奴との決着をつける。そしたら……」
小さく息を吸うと、背中で金の鈴が煌めいた。
鋭い猫の目で、彼は告げる。
「俺は、お前を連れて鷹刀を出る」
「え……?」
「鷹刀を出て、お前と一緒にセレイエを見つけ出す。あいつに洗いざらい『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを吐かせて、この、わけの分からない状態を終わらせる」
そして、『デヴァイン・シンフォニア計画』を終着に導く。
ルイフォンは、どこにいるとも知れぬセレイエを挑発するように、好戦的に嗤う。
「うん。私も、何が起きているのかを知りたい。だから、セレイエさんを探すべきだと思う。……けど、『鷹刀を出る』というのは、どういうこと?」
突然のことに戸惑っているのだろう。メイシアの声は不安に揺れていた。
そんな彼女に、彼は静かなテノールを響かせる。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』とセレイエにとって必要な駒は、俺とお前、それから『ライシェン』を作れる〈蝿〉。分かっている範囲ではそれだけだ。――つまり鷹刀は、『デヴァイン・シンフォニア計画』とは関係がない」
「え? あ……!」
一度だけ疑問に眉を寄せたが、聡明なメイシアは、次の瞬間には納得の声を上げた。
――そう。
セレイエは、鷹刀一族そのものには用はなく、ただ利用しただけなのだ。
ルイフォンとメイシアが、巡り逢うための場所として。
〈蝿〉を意のままに動かすための、偽りの復讐相手として。
「そう考えていくと、セレイエの狙いは『俺とお前』なんだ。あいつが俺たちに、何をさせたいのかは分からない。けど俺は、関係ないはずの鷹刀を巻き込みたくはない」
メイシアの喉が、こくりと動いた。硬い顔をする彼女に、少し心配をかけすぎたかと、ルイフォンは反省して語調を和らげる。
「俺は〈猫〉として独立した。自分に掛かる火の粉くらい、自分で払う。――それに俺は、鷹刀という場所が好きだ。だから、わけの分からない害悪から守りたい」
近くにいれば、父イーレオは、きっと血族の情で有形無形の援護をする。
けれど、ルイフォンは一族を抜けたのだ。いつまでも甘える気はない。
「別に、鷹刀と縁を切るわけじゃないよ。ただ、きちんと『対等』でありたいだけだ」
そう告げたルイフォンの背中に、メイシアは、ふわりと腕を回した。彼女の指先にじゃれつくように、金の鈴がちょこんと触れる。
「ルイフォンの気持ちは分かる。凄く、ルイフォンらしい。尊重したい」
そこで彼女は少し体を離し、遠慮がちな上目遣いで彼を見上げた。
「――でも、鷹刀の人たちは『水臭いことを言うな』と、引き止めると思うの。……特にリュイセンが」
「……まぁ、そうだな」
あの兄貴分なら、きっとそう言うだろう。
「皆がルイフォンを大切にしている気持ちは、忘れないでほしいの。私とルイフォンは『ふたりきり』じゃない。『皆に囲まれた、ふたり』だから」
透き通った声が、じわりと胸にしみる。
「……ああ」
たったひとりで、この先を歩んでいくつもりだった。
けれど――。
彼は、メイシアの黒絹の髪に指先を絡め、くしゃりと撫でる。
「ともかく、今はリュイセンを助けないとな。――先のことは、それからだ」
ルイフォンを逃がすために大怪我を負った兄貴分。傷はどんな具合いだろうか……。
菖蒲の館の方角を見やり、彼は唇を噛みしめる。
――まずは、リュイセンの救出だ。
研究室に運び込んだときには土気色だったリュイセンの肌が、ようやく赤みを帯びてきた。〈蝿〉は安堵に胸を撫で下ろす。
時計を見れば、既に真夜中も近かった。
もっとも、地下には昼も夜もない。しかし、時間の経過と疲労の具合いとの相関関係に、彼は納得した。
『ミンウェイ』も、無事に連れ帰ってきている。いつも通りの心安らぐ光景に、〈蝿〉はわずかに口元を緩め、体を投げ出すようにして椅子に身を預けた。
『藤咲ハオリュウを、『ライシェン』と対面させるために、この館に招く』
摂政がそう言い出したとき、嫌な予感がした。そんなことをすれば、あの子供当主の口から鷹刀一族へと、〈蝿〉の潜伏場所が伝わるのが明白だったからだ。
だが、所在を知られたところで、近衛隊の守る庭園ならば安全だと、高をくくった。摂政の要望を断るほうが、のちのち面倒だと思ったのだ。
「……っ」
〈蝿〉は舌打ちをする。
鷹刀一族が関わるのは、あくまでも会食の『あと』のはずだった。まさか、この機に乗じて、紛れ込んでくるとは思わなかった。今のところ、ルイフォンとリュイセンのふたりとしか接触していないが、他にもいるかもしれない。警戒は怠れない。
門を抜けられ、内部に入り込まれてしまえば、防衛の手段は限られている。金で雇った私兵など、たいして役に立たないだろう。そもそも、彼らの主な役割は情報収集。館に籠もった〈蝿〉の目となり、耳となるための者たちだ。頼みの綱は、タオロンのみだ。
リュイセンの身柄がこちらにある以上、ルイフォンは必ず現れる。だから、タオロンを研究室の扉の前に待機させた。
現在、私兵を総動員して館中をしらみつぶしに探させているが、いまだ、ルイフォンは見つかっていない……。
……そう――『現在』である。
摂政が帰るまでは、〈蝿〉は大掛かりなルイフォンの捜索を控えた。そのために、遅れを取った感が否めない。
『摂政に対して、どのような態度を取るべきか』
〈蝿〉が頭を抱えているのは、この点だった。
ルイフォンとリュイセンという賊の立ち入りを許したのは、明らかに摂政のミスだ。大掛かりな会食など開くから、人の出入りが繁雑になり、侵入者を見逃した。
すべては摂政のせいだ。
なのに、のうのうと飲み食いした挙げ句、帰り際に『摂政殿下をお見送りするように』などと、使いの者を寄越してきた。まったく厚顔無恥も甚だしい。
だから、取り込み中であると言い捨ててやった。実際、リュイセンだけでなく、〈蝿〉だって重傷だった。摂政が機嫌を損ねようが、知ったことではない。
だいたい〈蝿〉は、摂政の部下ではないのだ。〈蝿〉が『ライシェン』を提供する代わりに、摂政は資金と安全を保証する。対等な間柄だ。それにも関わらず、身が危険に晒された。これは立派に約束を違えている。
それを指摘して近衛隊という武力を差し出させ、〈蝿〉の護衛とルイフォンの捜索に充てる。そんな取り引きも考えてみたのだが……。
ぎりぎりという歯噛みが、〈蝿〉の口から漏れる。
侵入した賊が鷹刀一族ではなく、〈蝿〉のせいで大損害を受けたと恨んでいる斑目一族の者だったなら、〈蝿〉は迷わず摂政を責め立て、近衛隊を出動させた。
しかし、ルイフォンとリュイセンは、『鷹刀セレイエ』の弟だ。〈蝿〉も、摂政も、必死に行方を探している『鷹刀セレイエ』に、深く繋がる者たちだ。
『鷹刀セレイエ』への足掛かりを手に入れたと摂政に明かすのは、やはり愚策でしかないだろう。
〈蝿〉は大きな溜め息を落とし、そう結論づけた。
何故なら、『ライシェン』がほぼ完成した今、これからの摂政との駆け引きが重要だからだ。
一歩、間違えれば〈蝿〉は不要の者として始末される危険がある。自分だけが知っている情報は、ひとつでも多いほうがよい。いざというときの切り札になる……。
〈蝿〉にとっての不穏な夜は、こうして静かに更けていった。