残酷な描写あり
4.菖蒲の館に挑む方策-1
リュイセンが〈蝿〉に囚われた日から一週間――。
その間、鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオが出した指示は『待て』であった。
実は、あの日の翌朝には、〈蝿〉の私兵と思しき男たちが、屋敷の周りをうろついていた。ルイフォンの読み通り、彼が〈蝿〉の潜伏場所である庭園から脱出したのか否か、確認しに来たのだろう。
早速、捕まえて、リュイセンの容態を吐かせようと息巻くルイフォンに、イーレオは待ったを掛けた。
「何故、止めるんだよ、糞親父!?」
「まだ早い。お前こそ、あいつらに見つからないように、建物の中で頭を引っ込めていろ」
いつも通りに執務室で頬杖を付きながら、イーレオは涼やかにそう言った。
「早い、ってなんだよ? リュイセンが心配じゃねぇのか!?」
「ああ。俺は別に心配していない」
「はぁ?」
あまりに泰然と構える父の様子に、ルイフォンは批判を込めた尻上がりの声を出す。
「まぁ、落ち着け。リュイセンの怪我はかなり酷かったようだが、天才医師ヘイシャオの亡霊が全力で治療にあたっている。ならば、他の誰に預けるよりも確実だ」
「な……」
「この世で一番、高度な診療を無料で受けられるんだ。しばらく放っておくのが得策だろう? 万一、リュイセンが死ぬようなことがあれば、それなら、どこにいても助からない。何をしても無駄ということだ」
「なんだよ、それ……」
敵対している〈蝿〉に、絶対の信頼をおいているようで、どうにも奇妙な感じがする。
猫目をすがめたルイフォンの不満顔に、イーレオはふっと顔をほころばせた。
「お前が手に入れた録画記録があるから、安心できるのさ。〈蝿〉の奴が、血相を変えて助けているところを、はっきりと見たわけだからな」
「……っ」
「だったら、欲しい情報は、現在のリュイセンの容態じゃない。リュイセンが回復したあと、〈蝿〉がどう行動するつもりなのか、だ。奴が実際に動き出す前に、先回りして対処できるのが望ましい。――そんなわけで、奴の私兵どもは、しばらく泳がせておけ。お前の姿が確認できるまでは、奴らは何度でも来るだろうからな」
こんな調子で、ルイフォンは庭に出ることすら禁じられていた。
そして、今日になってやっと、イーレオから〈蝿〉の私兵捕縛の許可が降りた。もっとも、非戦闘員であるルイフォンは、相変わらず屋敷に身を潜めたままで、腕っぷしの強い精鋭の凶賊たちが遂行にあたったのだが。
捕らえられた〈蝿〉の私兵は三人。
冷酷との評判の高い次期総帥エルファンと、その部下たちが、すぐに聴取という名の尋問に入った。これが午前の出来ごとであり、午後にはその顛末の報告のため、執務室に集まることになっていた。
ルイフォンは、仕事部屋でリュイセン救出のための策をあれこれ練っていた。しかし、名案が浮かばずに頭を掻きむしっていると、もうすぐ時間だとメイシアが迎えに来た。
「ルイフォン、大丈夫?」
「……ああ」
眉を曇らせ、顔を覗き込んでくるメイシアに、彼は曖昧に答える。彼女にはいつも笑っていてもらいたいのだが、なかなかそうもいかない。
苦し紛れ、というわけでもないが、彼女の髪をなんとなく、くしゃりとする。すると彼女は目を細め、ふわりと花のように微笑んだ。
心臓が、どきりとする。
今更のはずなのに、愛しさがこみ上げてくる。それでいて、ほっとするのだ。
〈蝿〉の呪いの言葉を打ち破った、あの一件以来、また少し、メイシアに対する気持ちが変わった気がする。
背中を預けられる相手――そう思う。
執務室までの廊下の途中で、後ろから「よう」と声を掛けられた。どことなく癖のある感じは、声質にも特徴があるが、口調も独特なのだろう。
「あ、緋扇さん」
メイシアが、ぱっと振り返り、にこやかな笑顔を浮かべる。
この前の『貴族の介助者』として変装が、よほど性に合わなかったのだろうか。いつも以上に、見事なぼさぼさ頭の緋扇シュアンがそこにいた。
彼も午後の集まりに呼ばれている――というよりも、ハオリュウからの使いとしてシュアンが報告に来るのに合わせ、こちらも情報交換といこうかと、〈蝿〉の私兵を捕縛したのだ。
以前、ハオリュウと共に、彼が鷹刀一族の屋敷を訪れたときには、夜を狙って密かに行動した。だが、シュアンひとりなら、その必要はない。警察隊の制服さえ脱いでしまえば、昼間から凶賊の屋敷を出入りしても、まったく違和感のない立派な凶相をしているからだ。
中肉中背の体躯は、大柄の者が多い凶賊と比較すれば、確かに見劣りする。しかし、目つきの悪い三白眼がそれを補って余りある。むしろ本物の凶賊よりも、よほど凶賊らしい風体といえた。
「いつも異母弟のハオリュウが、お世話になっております」
メイシアが、シュアンに深々と頭を下げる。
「いや。俺があいつにつきまとっているだけですよ」
シュアンも会釈を返し、それから上体を戻せば、ぼさぼさ頭がふわふわと軽やかに跳ねた。
――ああ、今日は制帽がないから、あの頭を抑えるものがないのか。
ルイフォンは、ふと思い、それはなかなか失礼な感想だったと反省する。
シュアンは、何かと風当たりの強い立場にある義弟を支えてくれている恩人だ。いったい、どういう心づもりなのか、いまだによく理解できない上に、本業である警察隊の仕事はどうしているのかも気になるが、ともかく味方である。
兄貴分のリュイセンが恋敵として敵視しており、シュアン本人もミンウェイを特別視している感はあるものの、いまいち不透明。ルイフォンからすると、どんな態度を取るべきか……なんとも微妙な相手である。
「元気そうだな」
唐突に、シュアンの目玉がぎょろりと動き、ルイフォンを捕らえた。
三白眼の片方をにやりと歪めた顔は、一瞬、睨みつけられたのかと思ったが、そうではないらしい。笑ったのだ……おそらく。
そしてシュアンは、ルイフォンが何かを発するよりも前に、「先に行っているぞ」と片手を上げて彼を追い越した。何度も通った鷹刀一族の屋敷だ。勝手知ったるとばかりに、執務室までの道を迷うことはない。
ルイフォンは、はっとした。
「シュアン!」
叫んだところで、足を止めるような奴ではない。それでも構わず、ルイフォンは声を上げる。
「この前は助かった。感謝している。――ハオリュウにも伝えてくれ。『お前の言葉が俺を支えた』と」
シュアンは背中を向けたまま、上げた手をひらひらと揺らしながら去っていった。
「ルイフォン?」
隣では不思議そうにメイシアが見上げている。
「ああ……。あの館から脱出したときに、ハオリュウとシュアンには世話になったからな」
「あっ、そうだったのよね」
メイシアはすんなり納得したが、本当は少し意味合いが違う。
確かに、脱出の手段として勝手に車に乗せてもらったが、それだけではなくて、そのあとの彼らの言動に助けられたのだ。
そして今日も――。
本当は、ハオリュウの報告など、電話連絡で事足りる程度のものなのだろう。重大な内容なら、緊急で知らせに来るはずだ。
つまり、シュアンは、ルイフォンの様子を見に来たのだ。
「……参ったな」
自分の未熟さを見せつけられた気がする。
シュアンの後ろ姿に向かって呟くと、メイシアが「どうしたの?」と尋ねる。
「ああ、いや。俺も、しっかり周りを支えられるような人間にならねぇと、ただ自信過剰なだけの恥ずかしい野郎だなぁ、と思ってな」
「えっ!? あ、あのね……、私は、ルイフォンにいつも支えられている……から」
「あ……」
大真面目な顔で言ってくれるメイシアの可愛らしさに、不意を衝かれる。
ルイフォンは、彼らしくもなく照れたように顔を赤らめ、彼女の頭を優しく、くしゃりと撫でた。
執務室に入ると、事務的ではあるものの、心地の良い美声が聞こえてきた。
「はい、分かりました」
総帥の補佐を務めるミンウェイが、携帯端末に向かって話をしている。入ってきたルイフォンとメイシアに気づくと、彼女は身振りで奥へと促した。
波打つ黒髪が緩やかに広がり、柔らかな草の香がふわりと漂う。
だが、常ならば彼女が身にまとっているはずの華やかさが、まるで失われていた。美しく紅を載せられた唇などは、かえって彼女の顔色の悪さを引き立たせている。
この一週間、ミンウェイは、まともに食事を摂れていない。
心配した料理長が、少しでもと、消化の良さそうなものを勧めるのだが、ほんの数匙、口をつけるのが精いっぱいだという。彼女自身も医者らしく「食べないといけないのは分かっているんだけどね」と力なく笑うのだが、体が受け付けないらしい。
「それでは先に進めています」
ミンウェイは携帯端末に向かってそう告げ、通話を切った。
「なんと言っていた?」
ひとり掛けのソファーでくつろいでいたイーレオが、すかさず彼女に尋ねる。
ミンウェイは「ええ」と相槌を打ち、あとから来たルイフォンたちにも分かるように「エルファン伯父様からの連絡だったのだけど――」と前置きをした。
「捕らえた〈蝿〉の私兵から情報を聞き出すのに、もう少し時間が掛かるそうです。だから、先に会議を始めてほしいとのことでした」
エルファン以外の者たちは、既にそろっていた。
総帥イーレオに、ミンウェイ、護衛のチャオラウ。そして、ルイフォンとメイシアに、わざわざ足を運んでくれたシュアンだ。
いつもなら、頭を使うのは苦手だと、会議と聞けば不機嫌な顔をするくせに、いざ議論となると唾を飛ばして激しく意見するリュイセンが、ここにはいない。その事実に、ルイフォンは、ぐっと拳を握りしめる。
陰りのある空気を薙ぎ払うように、イーレオの低音が響いた。
「では、シュアンから頼む」
物々しい挨拶は省略である。水を向けられたシュアンが、おもむろに口を開く。
「俺の報告は、ハオリュウからの伝言だ」
彼は手帳を開くわけでなく、しかし、ハオリュウの言葉を諳んじているかのようで、よどみなく話し始めた。
『私に関することで、鷹刀の方々が一番、気になさっておられるのは、リュイセンさんが囚われたことにより、手引きした私にカイウォル摂政殿下からのお咎めがないか、という点だと思います。
これに対しては『ない』と、はっきりお答え申し上げます。
あの日以降、私が直接、殿下とお会いする機会はまだございませんが、殿下の側近の方から『藤咲家のご当主のことを、殿下がご不快に思われているご様子はない』とのお言葉をいただいております。ご安心ください。
〈蝿〉と殿下はあまり仲が良いようには見えませんでしたから、〈蝿〉は、リュイセンさんのことを殿下に報告していないと思われます』
「――と、いうことだ。とりあえず、ハオリュウのことは心配しなくていい」
シュアンがそう締めくくると、執務室の空気がほっと緩んだ。顕著なのはミンウェイで、あからさまな安堵の息を吐きつつ、胸元を押さえている。
「ちょっと、質問させてくれ」
ルイフォンが手を挙げる。イーレオは目線でシュアンに断りを入れてから、「言ってみろ」と許可を出した。
「なんで摂政の側近が、ハオリュウに摂政の様子を教えてくれるんだ?」
途中から気になっていたのだが、話の腰を折るのは礼儀知らずだと、我慢していたのだ。
「ああ、それな」
シュアンが、にやりと嬉しそうに三白眼を歪める。どうやら、誰かが突っ込んでくれることを期待していたらしい。
「ハオリュウの奴、あいつは本当に恐ろしい。素晴らしく、抜け目がない」
少々、演技掛かった調子で肩をすくめながら両手を返し、シュアンは口角を上げる。
「会食のあと、ハオリュウは、摂政とは館の中で別れたが、さっきの話に出てきた側近を含め、使用人たちは館の外まで見送りに来たのさ。そのときに『私のような若輩者が粗相をしたのでは……』だの、『車椅子の私は、皆様にさぞ御迷惑を……』なんぞと言いながら、チップを配りまくった」
「はぁ」
そうやって、つてを作ったのか。
納得しかけたルイフォンに、シュアンは更に続ける。
「普通の貴族だったら、気前のいいところを見せようとしただけだと思われるだろう。だが、ハオリュウは謙遜ではなく、事実として子供だ。あの歳の子供を『当主』と仰ぐなんて馬鹿らしい、としか言いようがないほどにな」
そこでシュアンは、実に愉快そうに目を細めた。
「そんな子供が、摂政の姿が見えなくなった途端に、それまでのかしこまった態度を一変させて『僕は、上手く振る舞えたでしょうか』と言わんばかりの気弱な顔を見せたんだ」
「……へ? ハオリュウが、気弱?」
ルイフォンの口から、思わず疑問がこぼれる。
「あいつの、ごく平凡で、どう見ても無害。むしろ頼りなげに見える善人面は、恐ろしい武器だ。あんな顔の子供に不安を吐露されれば、まともな人間なら力になりたくなるだろう。もともと、平民の使用人たちは、母親が平民のハオリュウを贔屓目に見ていたようだしな」
「ああ……」
そうだった。ハオリュウは庶民に人気がある。容姿も出自も親しみやすく、身近に感じられるからだろう。そして本人も、それを充分に自覚しているというわけだ。
「あの会食のあと、ハオリュウは摂政に礼状を書くと同時に、側近にも手紙を書いた。世話になった礼が主だが、その中に摂政の機嫌を心配する一文を混ぜただけで返事が来た、というカラクリさ」
「なるほど」
側近にしてみれば、主人の機嫌が良いか悪いかを伝えただけだ。別に機密を漏らしたわけではない。きっと、なんのためらいもなかっただろう。
そして、ハオリュウが使用人たちにチップを配りつつ愛想を振りまいたのは、リュイセンが捕まったと知るよりも前だ。
つまり、リュイセンの件とは関係なく、この先、否が応でも付き合い続けなければならない摂政への対抗手段として、相手の周りに自分の目や耳を作ることを、ハオリュウは企んでいたのだ。
「恐ろしいな、あいつ……」
無意識のうちに、ルイフォンも、シュアンと同じ言葉を口走っていた。
「……それから、ハオリュウからの申し出がある」
シュアンの声が一段、下がった。
気乗りしない。できれば言いたくない。そんなシュアンの心情が明らかで、ルイフォンは不審に眉を寄せる。
「リュイセン救出のために、鷹刀が再び、あの庭園に侵入する方法を模索しているなら、自分が摂政に掛け合うと、ハオリュウは言っている」
「え?」
「会食のときと同じように、車に隠れて侵入すればいい。ただ、今回は〈蝿〉が警戒しているはずだから、門でのチェックは厳しくなるだろう。その点が弱い案だが、試してみる価値は充分にあるはずだ――そう言付かった」
「……」
ルイフォンは押し黙った。申し出はありがたいが、確かに前回とは状況が違う。門で見つかれば、今度こそハオリュウも罪に問われるだろう。
しかし、現状では他に手段がないかもしれない。捕まえた〈蝿〉の私兵から、何か良い情報が得られれば、また別だが……。
「おい、シュアン」
唐突に、魅惑の低音が響いた。
今まで黙って状況を見守っていたイーレオが、肘掛けで頬杖を付いたまま、鋭い眼光を放っていた。
「ハオリュウは、どうやって摂政と掛け合うと言っていた?」
その質問がなされた瞬間、シュアンは一瞬だけ安堵の表情を見せ、それからにやりと嗤った。
「やはり、イーレオさんは気づかれましたか。ご想像の通りですよ。ハオリュウには口止めされているんですが、鷹刀側が察してしまったなら仕方ありませんねぇ」
両手を打ち合わせながら、シュアンの三白眼がイーレオを牽制する。
『おそらく正解だと思うが、たとえ『ご想像』と違っても、そういうことにしておいてくれ』――そう、訴えていた。
「ええ。ハオリュウは女王の婚約者の件を引き受け、それを口実に『もう一度、『ライシェン』を見てみたい』と言って、あの庭園の門を開かせるつもりですよ」
「だ、駄目だろ! そんなの!」
弾かれたように、ルイフォンはソファーから立ち上がった。
「そんな……、あいつを犠牲にするような、そんな真似、できるわけねぇだろ!」
握りしめた拳が震える。これは間違いなく、怒りの感情だ。
女王の婚約者の件については、政治的なことだから、ハオリュウ自身が判断すべきだと考えていた。だが、いざ返事を聞くと、『違う』と心が訴えた。
ハオリュウは、女王の夫の座など望んでいないはずだ。
ハオリュウを政略に巻き込もうとする摂政に腹が立つ。それを受け入れるハオリュウにも頭にくる。そして、ハオリュウにそんなことを言わてしまった自分こそが許せない……!
「ルイフォン……」
隣に座っていたメイシアが、小さく呟いた。彼を気遣いながらも、やんわりと咎める視線だった。
そうだ。ここで感情をむき出しにしても、何も解決しない。
ルイフォンは、自然な動作で周りに一礼する。そして彼が着席すると、代わるようにメイシアが口を開いた。
「私も、それは『駄目』だと思います。……けれど、ハオリュウの考え方も分かります」
彼女らしからぬ、険しい声だった。
「摂政殿下と正面から対抗できるだけの力がないのなら、婚約者の件は引き受けざるを得ない。ならば、できるだけ有効に活用しよう――あの子なら、そう考えます」
「ほう。さすが、ハオリュウの姉さんだ。あいつが言ったことを、そっくりそのまま言ってくれた」
シュアンが、感心したように息をつく。
「ハオリュウの奴は頭が切れるが、まだ子供だ。自分が暴走していることに気づいていない。――だから、あいつのためにも、リュイセン救出の妙案が浮かぶとありがたいんですがね?」
三白眼が、ぎょろりと一同を見渡す。軽い調子だが、ハオリュウを心配するシュアンの本心が透けて見えた。
――そのとき。
〈蝿〉の私兵の『聴取』を行っていたエルファンが、執務室に入ってきた。
その間、鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオが出した指示は『待て』であった。
実は、あの日の翌朝には、〈蝿〉の私兵と思しき男たちが、屋敷の周りをうろついていた。ルイフォンの読み通り、彼が〈蝿〉の潜伏場所である庭園から脱出したのか否か、確認しに来たのだろう。
早速、捕まえて、リュイセンの容態を吐かせようと息巻くルイフォンに、イーレオは待ったを掛けた。
「何故、止めるんだよ、糞親父!?」
「まだ早い。お前こそ、あいつらに見つからないように、建物の中で頭を引っ込めていろ」
いつも通りに執務室で頬杖を付きながら、イーレオは涼やかにそう言った。
「早い、ってなんだよ? リュイセンが心配じゃねぇのか!?」
「ああ。俺は別に心配していない」
「はぁ?」
あまりに泰然と構える父の様子に、ルイフォンは批判を込めた尻上がりの声を出す。
「まぁ、落ち着け。リュイセンの怪我はかなり酷かったようだが、天才医師ヘイシャオの亡霊が全力で治療にあたっている。ならば、他の誰に預けるよりも確実だ」
「な……」
「この世で一番、高度な診療を無料で受けられるんだ。しばらく放っておくのが得策だろう? 万一、リュイセンが死ぬようなことがあれば、それなら、どこにいても助からない。何をしても無駄ということだ」
「なんだよ、それ……」
敵対している〈蝿〉に、絶対の信頼をおいているようで、どうにも奇妙な感じがする。
猫目をすがめたルイフォンの不満顔に、イーレオはふっと顔をほころばせた。
「お前が手に入れた録画記録があるから、安心できるのさ。〈蝿〉の奴が、血相を変えて助けているところを、はっきりと見たわけだからな」
「……っ」
「だったら、欲しい情報は、現在のリュイセンの容態じゃない。リュイセンが回復したあと、〈蝿〉がどう行動するつもりなのか、だ。奴が実際に動き出す前に、先回りして対処できるのが望ましい。――そんなわけで、奴の私兵どもは、しばらく泳がせておけ。お前の姿が確認できるまでは、奴らは何度でも来るだろうからな」
こんな調子で、ルイフォンは庭に出ることすら禁じられていた。
そして、今日になってやっと、イーレオから〈蝿〉の私兵捕縛の許可が降りた。もっとも、非戦闘員であるルイフォンは、相変わらず屋敷に身を潜めたままで、腕っぷしの強い精鋭の凶賊たちが遂行にあたったのだが。
捕らえられた〈蝿〉の私兵は三人。
冷酷との評判の高い次期総帥エルファンと、その部下たちが、すぐに聴取という名の尋問に入った。これが午前の出来ごとであり、午後にはその顛末の報告のため、執務室に集まることになっていた。
ルイフォンは、仕事部屋でリュイセン救出のための策をあれこれ練っていた。しかし、名案が浮かばずに頭を掻きむしっていると、もうすぐ時間だとメイシアが迎えに来た。
「ルイフォン、大丈夫?」
「……ああ」
眉を曇らせ、顔を覗き込んでくるメイシアに、彼は曖昧に答える。彼女にはいつも笑っていてもらいたいのだが、なかなかそうもいかない。
苦し紛れ、というわけでもないが、彼女の髪をなんとなく、くしゃりとする。すると彼女は目を細め、ふわりと花のように微笑んだ。
心臓が、どきりとする。
今更のはずなのに、愛しさがこみ上げてくる。それでいて、ほっとするのだ。
〈蝿〉の呪いの言葉を打ち破った、あの一件以来、また少し、メイシアに対する気持ちが変わった気がする。
背中を預けられる相手――そう思う。
執務室までの廊下の途中で、後ろから「よう」と声を掛けられた。どことなく癖のある感じは、声質にも特徴があるが、口調も独特なのだろう。
「あ、緋扇さん」
メイシアが、ぱっと振り返り、にこやかな笑顔を浮かべる。
この前の『貴族の介助者』として変装が、よほど性に合わなかったのだろうか。いつも以上に、見事なぼさぼさ頭の緋扇シュアンがそこにいた。
彼も午後の集まりに呼ばれている――というよりも、ハオリュウからの使いとしてシュアンが報告に来るのに合わせ、こちらも情報交換といこうかと、〈蝿〉の私兵を捕縛したのだ。
以前、ハオリュウと共に、彼が鷹刀一族の屋敷を訪れたときには、夜を狙って密かに行動した。だが、シュアンひとりなら、その必要はない。警察隊の制服さえ脱いでしまえば、昼間から凶賊の屋敷を出入りしても、まったく違和感のない立派な凶相をしているからだ。
中肉中背の体躯は、大柄の者が多い凶賊と比較すれば、確かに見劣りする。しかし、目つきの悪い三白眼がそれを補って余りある。むしろ本物の凶賊よりも、よほど凶賊らしい風体といえた。
「いつも異母弟のハオリュウが、お世話になっております」
メイシアが、シュアンに深々と頭を下げる。
「いや。俺があいつにつきまとっているだけですよ」
シュアンも会釈を返し、それから上体を戻せば、ぼさぼさ頭がふわふわと軽やかに跳ねた。
――ああ、今日は制帽がないから、あの頭を抑えるものがないのか。
ルイフォンは、ふと思い、それはなかなか失礼な感想だったと反省する。
シュアンは、何かと風当たりの強い立場にある義弟を支えてくれている恩人だ。いったい、どういう心づもりなのか、いまだによく理解できない上に、本業である警察隊の仕事はどうしているのかも気になるが、ともかく味方である。
兄貴分のリュイセンが恋敵として敵視しており、シュアン本人もミンウェイを特別視している感はあるものの、いまいち不透明。ルイフォンからすると、どんな態度を取るべきか……なんとも微妙な相手である。
「元気そうだな」
唐突に、シュアンの目玉がぎょろりと動き、ルイフォンを捕らえた。
三白眼の片方をにやりと歪めた顔は、一瞬、睨みつけられたのかと思ったが、そうではないらしい。笑ったのだ……おそらく。
そしてシュアンは、ルイフォンが何かを発するよりも前に、「先に行っているぞ」と片手を上げて彼を追い越した。何度も通った鷹刀一族の屋敷だ。勝手知ったるとばかりに、執務室までの道を迷うことはない。
ルイフォンは、はっとした。
「シュアン!」
叫んだところで、足を止めるような奴ではない。それでも構わず、ルイフォンは声を上げる。
「この前は助かった。感謝している。――ハオリュウにも伝えてくれ。『お前の言葉が俺を支えた』と」
シュアンは背中を向けたまま、上げた手をひらひらと揺らしながら去っていった。
「ルイフォン?」
隣では不思議そうにメイシアが見上げている。
「ああ……。あの館から脱出したときに、ハオリュウとシュアンには世話になったからな」
「あっ、そうだったのよね」
メイシアはすんなり納得したが、本当は少し意味合いが違う。
確かに、脱出の手段として勝手に車に乗せてもらったが、それだけではなくて、そのあとの彼らの言動に助けられたのだ。
そして今日も――。
本当は、ハオリュウの報告など、電話連絡で事足りる程度のものなのだろう。重大な内容なら、緊急で知らせに来るはずだ。
つまり、シュアンは、ルイフォンの様子を見に来たのだ。
「……参ったな」
自分の未熟さを見せつけられた気がする。
シュアンの後ろ姿に向かって呟くと、メイシアが「どうしたの?」と尋ねる。
「ああ、いや。俺も、しっかり周りを支えられるような人間にならねぇと、ただ自信過剰なだけの恥ずかしい野郎だなぁ、と思ってな」
「えっ!? あ、あのね……、私は、ルイフォンにいつも支えられている……から」
「あ……」
大真面目な顔で言ってくれるメイシアの可愛らしさに、不意を衝かれる。
ルイフォンは、彼らしくもなく照れたように顔を赤らめ、彼女の頭を優しく、くしゃりと撫でた。
執務室に入ると、事務的ではあるものの、心地の良い美声が聞こえてきた。
「はい、分かりました」
総帥の補佐を務めるミンウェイが、携帯端末に向かって話をしている。入ってきたルイフォンとメイシアに気づくと、彼女は身振りで奥へと促した。
波打つ黒髪が緩やかに広がり、柔らかな草の香がふわりと漂う。
だが、常ならば彼女が身にまとっているはずの華やかさが、まるで失われていた。美しく紅を載せられた唇などは、かえって彼女の顔色の悪さを引き立たせている。
この一週間、ミンウェイは、まともに食事を摂れていない。
心配した料理長が、少しでもと、消化の良さそうなものを勧めるのだが、ほんの数匙、口をつけるのが精いっぱいだという。彼女自身も医者らしく「食べないといけないのは分かっているんだけどね」と力なく笑うのだが、体が受け付けないらしい。
「それでは先に進めています」
ミンウェイは携帯端末に向かってそう告げ、通話を切った。
「なんと言っていた?」
ひとり掛けのソファーでくつろいでいたイーレオが、すかさず彼女に尋ねる。
ミンウェイは「ええ」と相槌を打ち、あとから来たルイフォンたちにも分かるように「エルファン伯父様からの連絡だったのだけど――」と前置きをした。
「捕らえた〈蝿〉の私兵から情報を聞き出すのに、もう少し時間が掛かるそうです。だから、先に会議を始めてほしいとのことでした」
エルファン以外の者たちは、既にそろっていた。
総帥イーレオに、ミンウェイ、護衛のチャオラウ。そして、ルイフォンとメイシアに、わざわざ足を運んでくれたシュアンだ。
いつもなら、頭を使うのは苦手だと、会議と聞けば不機嫌な顔をするくせに、いざ議論となると唾を飛ばして激しく意見するリュイセンが、ここにはいない。その事実に、ルイフォンは、ぐっと拳を握りしめる。
陰りのある空気を薙ぎ払うように、イーレオの低音が響いた。
「では、シュアンから頼む」
物々しい挨拶は省略である。水を向けられたシュアンが、おもむろに口を開く。
「俺の報告は、ハオリュウからの伝言だ」
彼は手帳を開くわけでなく、しかし、ハオリュウの言葉を諳んじているかのようで、よどみなく話し始めた。
『私に関することで、鷹刀の方々が一番、気になさっておられるのは、リュイセンさんが囚われたことにより、手引きした私にカイウォル摂政殿下からのお咎めがないか、という点だと思います。
これに対しては『ない』と、はっきりお答え申し上げます。
あの日以降、私が直接、殿下とお会いする機会はまだございませんが、殿下の側近の方から『藤咲家のご当主のことを、殿下がご不快に思われているご様子はない』とのお言葉をいただいております。ご安心ください。
〈蝿〉と殿下はあまり仲が良いようには見えませんでしたから、〈蝿〉は、リュイセンさんのことを殿下に報告していないと思われます』
「――と、いうことだ。とりあえず、ハオリュウのことは心配しなくていい」
シュアンがそう締めくくると、執務室の空気がほっと緩んだ。顕著なのはミンウェイで、あからさまな安堵の息を吐きつつ、胸元を押さえている。
「ちょっと、質問させてくれ」
ルイフォンが手を挙げる。イーレオは目線でシュアンに断りを入れてから、「言ってみろ」と許可を出した。
「なんで摂政の側近が、ハオリュウに摂政の様子を教えてくれるんだ?」
途中から気になっていたのだが、話の腰を折るのは礼儀知らずだと、我慢していたのだ。
「ああ、それな」
シュアンが、にやりと嬉しそうに三白眼を歪める。どうやら、誰かが突っ込んでくれることを期待していたらしい。
「ハオリュウの奴、あいつは本当に恐ろしい。素晴らしく、抜け目がない」
少々、演技掛かった調子で肩をすくめながら両手を返し、シュアンは口角を上げる。
「会食のあと、ハオリュウは、摂政とは館の中で別れたが、さっきの話に出てきた側近を含め、使用人たちは館の外まで見送りに来たのさ。そのときに『私のような若輩者が粗相をしたのでは……』だの、『車椅子の私は、皆様にさぞ御迷惑を……』なんぞと言いながら、チップを配りまくった」
「はぁ」
そうやって、つてを作ったのか。
納得しかけたルイフォンに、シュアンは更に続ける。
「普通の貴族だったら、気前のいいところを見せようとしただけだと思われるだろう。だが、ハオリュウは謙遜ではなく、事実として子供だ。あの歳の子供を『当主』と仰ぐなんて馬鹿らしい、としか言いようがないほどにな」
そこでシュアンは、実に愉快そうに目を細めた。
「そんな子供が、摂政の姿が見えなくなった途端に、それまでのかしこまった態度を一変させて『僕は、上手く振る舞えたでしょうか』と言わんばかりの気弱な顔を見せたんだ」
「……へ? ハオリュウが、気弱?」
ルイフォンの口から、思わず疑問がこぼれる。
「あいつの、ごく平凡で、どう見ても無害。むしろ頼りなげに見える善人面は、恐ろしい武器だ。あんな顔の子供に不安を吐露されれば、まともな人間なら力になりたくなるだろう。もともと、平民の使用人たちは、母親が平民のハオリュウを贔屓目に見ていたようだしな」
「ああ……」
そうだった。ハオリュウは庶民に人気がある。容姿も出自も親しみやすく、身近に感じられるからだろう。そして本人も、それを充分に自覚しているというわけだ。
「あの会食のあと、ハオリュウは摂政に礼状を書くと同時に、側近にも手紙を書いた。世話になった礼が主だが、その中に摂政の機嫌を心配する一文を混ぜただけで返事が来た、というカラクリさ」
「なるほど」
側近にしてみれば、主人の機嫌が良いか悪いかを伝えただけだ。別に機密を漏らしたわけではない。きっと、なんのためらいもなかっただろう。
そして、ハオリュウが使用人たちにチップを配りつつ愛想を振りまいたのは、リュイセンが捕まったと知るよりも前だ。
つまり、リュイセンの件とは関係なく、この先、否が応でも付き合い続けなければならない摂政への対抗手段として、相手の周りに自分の目や耳を作ることを、ハオリュウは企んでいたのだ。
「恐ろしいな、あいつ……」
無意識のうちに、ルイフォンも、シュアンと同じ言葉を口走っていた。
「……それから、ハオリュウからの申し出がある」
シュアンの声が一段、下がった。
気乗りしない。できれば言いたくない。そんなシュアンの心情が明らかで、ルイフォンは不審に眉を寄せる。
「リュイセン救出のために、鷹刀が再び、あの庭園に侵入する方法を模索しているなら、自分が摂政に掛け合うと、ハオリュウは言っている」
「え?」
「会食のときと同じように、車に隠れて侵入すればいい。ただ、今回は〈蝿〉が警戒しているはずだから、門でのチェックは厳しくなるだろう。その点が弱い案だが、試してみる価値は充分にあるはずだ――そう言付かった」
「……」
ルイフォンは押し黙った。申し出はありがたいが、確かに前回とは状況が違う。門で見つかれば、今度こそハオリュウも罪に問われるだろう。
しかし、現状では他に手段がないかもしれない。捕まえた〈蝿〉の私兵から、何か良い情報が得られれば、また別だが……。
「おい、シュアン」
唐突に、魅惑の低音が響いた。
今まで黙って状況を見守っていたイーレオが、肘掛けで頬杖を付いたまま、鋭い眼光を放っていた。
「ハオリュウは、どうやって摂政と掛け合うと言っていた?」
その質問がなされた瞬間、シュアンは一瞬だけ安堵の表情を見せ、それからにやりと嗤った。
「やはり、イーレオさんは気づかれましたか。ご想像の通りですよ。ハオリュウには口止めされているんですが、鷹刀側が察してしまったなら仕方ありませんねぇ」
両手を打ち合わせながら、シュアンの三白眼がイーレオを牽制する。
『おそらく正解だと思うが、たとえ『ご想像』と違っても、そういうことにしておいてくれ』――そう、訴えていた。
「ええ。ハオリュウは女王の婚約者の件を引き受け、それを口実に『もう一度、『ライシェン』を見てみたい』と言って、あの庭園の門を開かせるつもりですよ」
「だ、駄目だろ! そんなの!」
弾かれたように、ルイフォンはソファーから立ち上がった。
「そんな……、あいつを犠牲にするような、そんな真似、できるわけねぇだろ!」
握りしめた拳が震える。これは間違いなく、怒りの感情だ。
女王の婚約者の件については、政治的なことだから、ハオリュウ自身が判断すべきだと考えていた。だが、いざ返事を聞くと、『違う』と心が訴えた。
ハオリュウは、女王の夫の座など望んでいないはずだ。
ハオリュウを政略に巻き込もうとする摂政に腹が立つ。それを受け入れるハオリュウにも頭にくる。そして、ハオリュウにそんなことを言わてしまった自分こそが許せない……!
「ルイフォン……」
隣に座っていたメイシアが、小さく呟いた。彼を気遣いながらも、やんわりと咎める視線だった。
そうだ。ここで感情をむき出しにしても、何も解決しない。
ルイフォンは、自然な動作で周りに一礼する。そして彼が着席すると、代わるようにメイシアが口を開いた。
「私も、それは『駄目』だと思います。……けれど、ハオリュウの考え方も分かります」
彼女らしからぬ、険しい声だった。
「摂政殿下と正面から対抗できるだけの力がないのなら、婚約者の件は引き受けざるを得ない。ならば、できるだけ有効に活用しよう――あの子なら、そう考えます」
「ほう。さすが、ハオリュウの姉さんだ。あいつが言ったことを、そっくりそのまま言ってくれた」
シュアンが、感心したように息をつく。
「ハオリュウの奴は頭が切れるが、まだ子供だ。自分が暴走していることに気づいていない。――だから、あいつのためにも、リュイセン救出の妙案が浮かぶとありがたいんですがね?」
三白眼が、ぎょろりと一同を見渡す。軽い調子だが、ハオリュウを心配するシュアンの本心が透けて見えた。
――そのとき。
〈蝿〉の私兵の『聴取』を行っていたエルファンが、執務室に入ってきた。