残酷な描写あり
4.菖蒲の館に挑む方策-3
『『鷹刀からの使者』を名乗った私とルイフォンが、イーレオ様の名代として『鷹刀の名誉にかけて、水に流すと誓う』と〈蝿〉に伝えます』
『私たちなら、この言葉で〈蝿〉を騙せます』
凛と澄んだ響きが、脳裏を駆け巡る。
「メイシア……」
ルイフォンは声を失い、ただただ彼女を見つめていた。
「皆様の名誉を傷つけるような、こんな方法を提案して申し訳ございません」
彼女が深く頭を下げると、黒絹の髪がさらさらと流れた。
「けれど、今回は、堂々と乗り込むしかないと思うのです。監視カメラが使えない以上、不意打ちはできず、〈蝿〉に見つかった瞬間に、リュイセンやタオロンさんのお嬢さんの命を盾に取られて降伏する羽目になるからです」
「……っ」
ルイフォンは、はっとした。彼としては当然のように、前回同様、密かに忍び込むつもりだったのだ。
誰からともなく、溜め息が漏れる。それを遮るように、メイシアが「緋扇さん」と呼びかけた。
「なんだ?」
名指しされたシュアンは、不審げに眉を寄せた。
「すみませんが、異母弟に伝えてください。摂政殿下には、こうお答えするように、と。――『婚約者の件は大変な名誉ですが、父の喪が明けるまでは晴れがましいお話はお待ちください。陛下に穢れが及んでしまいます』」
「別に構わんが……、だが、それじゃ……」
「ただの時間稼ぎにすぎないのは分かっています。けど、私はこれ以上、あの子の自由が奪われるのを良しとしません。解決手段は、近いうちに必ず考えます」
喰いいるようなメイシアの視線に、シュアンが凶相を歪める。決してそうは見えないが、笑ったらしい。
「『大切な姉さんが、泣きながら訴えていた』と言えば、いくら、あいつでも聞くかもしれんな」
シュアンが軽口で背中を押してくれたのだと気づき、メイシアは一瞬、驚いたように瞳を瞬かせた。だがすぐに、綺麗に微笑む。
「ええ、それで構いません。よろしくお願いいたします」
そんな彼女の横顔を、ルイフォンはじっと見つめていた。
さすが自分の惚れ込んだ女だと、誇りに思う。
だが同時に、彼は気づいてしまった。彼女の瞳の奥では、不安と脅えが揺れていた。
ルイフォンの手が自然に伸びる。
くしゃり。
黒絹の髪を愛しげに撫でた。
「あっ……、あの、ルイフォン……。そのっ……、ごめんなさい、勝手に……」
急に、か細い声になり、メイシアは、はっと目元を押さえる。ルイフォンに触れられたことで、張り詰めていた緊張の糸が切れたのだ。
彼は彼女を抱き寄せた。
皆のいる前でのことに、彼女は慌てて抵抗するが、彼は別に気にしない。強引に包み込めば、彼女の肩は小刻みに震えていた。
「ありがとな」
リュイセンのために。
ルイフォンとメイシアが共に在ることを認めてくれたハオリュウに、無茶をさせないために。
そして、ルイフォンとメイシアの『ふたり』のために。
彼女ひとりで行く、ではなくて『ふたり』で行くと言ってくれた――。
「危険だと思う。俺は反対だ。お前には、安全なところにいてほしい」
「……」
「でも、『〈猫〉と、そのパートナー』なら、ここは打って出るところなんだよな?」
メイシアの耳元で囁くと、彼女は涙の混じる声で、けれど、はっきりと「うん」と答えた。それを聞いてから、ルイフォンはイーレオを振り返った。
「俺は、メイシアの案を支持する」
しかしイーレオは、秀でた額に皺を寄せ、ゆっくりと首を横に振った。
「非常に参考になる意見だったが、残念ながら認められない」
「危険だからか?」
「そうだ。危険『すぎる』からだ。不確かな『〈蝿〉の心』ひとつに賭ける案だ。思った通りに奴が動かなければ、それで終わりだ。お前だって非戦闘員だが、メイシアは素人なんだぞ」
イーレオは渋面を作る。
そのとき、ルイフォンの腕の中で、メイシアが身じろぎした。そっと力を緩めると、強い意志を持った黒曜石の瞳が、無言で伝えてきた。
――自分たちは、鷹刀一族に守られる存在ではない。
ルイフォンは頷くと、メイシアと手を取り合って席を立った。ふたりは、ぴたりと寄り添い、イーレオと向き合う。
「親父。俺たちは、リュイセンを助けたい。そして、そのための策があるのなら、実行に移したい。メイシアのことは必ず守る。そんなの当然だ」
「気持ちは分かる。だが、そこまでだ」
イーレオの厳しい声は、ルイフォンとメイシアを思いやってのことだ。
それは分かっている。
だが、このままでは〈蝿〉に主導権を握られたまま、状況は悪化していくだけだ。ならば、多少の危険を犯してでも立ち向かうべきだ。
ルイフォンは意を決する。
狩るべき獲物を捉えた獣のように、その瞳を鋭く煌めかせた。
「『鷹刀の総帥』。俺たちは、鷹刀の『協力者』であって、『鷹刀』ではない。意見が合わないのなら、ここで決別することも可能だ。俺たちは鷹刀とは関係なく、リュイセンを助けに行く!」
「――!」
それは、よほど予想外の言葉だったのであろう。イーレオの瞳が大きく見開かれた。
対してルイフォンは、抜けるような青空の、覇気あふれる笑顔を広げる。
「勿論、できれば決別なんかしたくない。――俺たちは鷹刀が好きだから。だから、認めてほしい。俺たちを『協力者』として〈蝿〉のところに送り出してほしい」
そして、メイシアと共に、頭を垂れた。
「……っ」
イーレオが息を呑んだ。
それは、いつも泰然と構えている王者の、はっきりとした動揺だった。
「……ふたりとも顔を上げてくれ」
慈愛に満ちた、けれどわずかに寂寥を帯びた、魅惑の低音。
空を仰ぐように、イーレオは遠い虚空を見つめる。まるで祈りを捧げるかのように軽く目を閉じたのちに、彼は告げた。
「分かった。――いや、こちらから、〈猫〉にお願い申し上げる。どうか、この事態を解決に導いてくれ」
わっと、場が湧いた。
メイシアが脱力して、倒れそうになる。そんな彼女を、ルイフォンはソファーに戻りながら抱きとめた。
不意に「総帥」と、遠慮がちな美声と共に、ふわりと草の香が漂った。
「私に、やらせてほしいことがあります」
「なんだ? ミンウェイ」
「捕らえている〈蝿〉の私兵たちに、自白剤を使わせてください。彼らから正確な情報を得られれば、ルイフォンたちの安全が高まるはずです」
「!」
執務室に緊張が走った。皆の頭に等しく、彼女がこの前、自白剤を使ったときのことが蘇ったのだ。
巨漢のならず者と、シュアンの先輩だった警察隊員――。
〈蝿〉の〈影〉にされていた憐れな捕虜たちは、無残な死を迎えた。
ミンウェイは決して表には出さなかったが、その件が彼女の心を深く傷つけたことは間違いない。だから、それ以降、いつの間にか誰もが彼女を荒事から遠ざけるようになっていた。今回も、私兵たちにの『聴取』から、彼女は意図的に外されていた。
部屋の空気が凍りつく。
時が止まったかのような、息苦しい無音に侵されていく。
やがて皆の視線が、遠慮がちにイーレオへと集まっていく。
そのとき。
「ミンウェイに、頼めばいいじゃねぇか」
妙に甲高い、挑発的な声が響いた。
悲惨な結末を迎えた、あの捕虜の自白の際、ミンウェイと共に現場にいたシュアンだった。
「確かに、ミンウェイと自白剤の取り合わせには、碌なことがないかもしれねぇ。けどよ、本人がやるって言ってんだ。それを止める筋はねぇだろう?」
「緋扇さん……」
まさかの援軍にミンウェイが瞳を瞬かせる。
シュアンは鼻を鳴らし、イーレオに向かって、くっと顎を上げた。
「イーレオさんよぉ、ミンウェイは、あんたの大事な一族だ。だったら、少しは信頼してやったらどうなんだ? あんたが、いつまでも特別扱いをするから、ミンウェイは鷹刀に遠慮するんだ。――分かってんだろう?」
イーレオの頬が、ぴくりと動いた。
だが、先に口を開いたのは、次期総帥エルファンだった。
「緋扇」
怒気をはらんだ声が、短くシュアンの名だけを呼ぶ。
「おおっと。鷹刀内部のことに首を突っ込みすぎましたかね? それは、失礼」
おどけたように肩をすくめ、やり合うつもりはないと、シュアンは首を振る。
「けど、もしミンウェイが自白剤を使うというのなら、賛同した俺は、いつでも彼女に付き添いますよ? ――何か問題が起きたときには、俺が責任を持って相手を殺します。……この前のときのようにな」
軽い口調とは裏腹に、三白眼が昏い光を放つ。
シュアンは、敬愛する先輩を自らの手で射殺した。それを示し、いい加減な気持ちでけしかけているわけではないと牽制したのだ。
イーレオは、じっとシュアンを見つめ、それからゆっくりと視線を移す。ためらいがちに「ミンウェイ」と彼女の名を呼んだ。
「任せてもよいか?」
「はい。ありがとうございます」
ミンウェイの顔が緩やかに、ほころぶ。
リュイセンが囚えられてからというもの、彼女はずっと沈んでいた。だから、それは一週間ぶりの上向きの表情だった。
「ほう? では約束通り、俺が付き添おう」
すかさずシュアンが口を挟むと、ミンウェイは綺麗に紅の引かれた唇の端をすっと上げた。
「それには及びません。緋扇さんには、警察隊のお仕事があるのですから、お忙しいでしょう?」
血色は悪いままだが、表情が明るめば、雰囲気がまったく変わる。いつもの華やぎには、ほど遠いが、ミンウェイらしさがほのかに戻ってきた。
「相変わらず、つれないねぇ。――そのほうが、あんたらしいけどな」
シュアンは気を悪くしたふうでもなく、さらりと流す。そんな彼に、逆にミンウェイが少しだけ申し訳なさそうな顔になった。
「あの、緋扇さん」
「ん?」
「感謝しています。ありがとうございます」
「ああ、そりゃ、どうも」
「……」
そして、会議はお開きとなった。
ミンウェイによる〈蝿〉の私兵たちへの自白剤投与は、会議の直後に行われた。
現場には、もともと聴取担当だったエルファンに加え、結局、シュアンも立ち合った。『万一、死体が出たときには、警察隊員であるシュアンに処理を押し付ければいい』と、イーレオが推したためである。
結果が出たと、ルイフォンのところに連絡が来たのは晩のことである。
彼はそのとき、〈蝿〉のいる庭園に乗り込むための準備をしていた。明日にも出発できると、満足げにメイシアとひと息ついていたら、呼び出しが来たのだ。
ミンウェイの口からは、次のようなことが告げられた。
自白による情報は、三名の私兵で一致した。
まず、リュイセンは無事である。
それも驚くべき早さで回復し、現在では、ほぼ完治しているという。おそらく〈蝿〉が研究した技術が使われたのだろう。
ベッドから起き上がれないような状態のときは、監禁状態であった。しかし、動き回れるようになったあたりから、館の中での自由行動が許されるようになったという。
「何故だ?」
ルイフォンの問いかけに、ミンウェイは首を振る。私兵たちも理由を知らなかったらしい。
リュイセンに関して分かったのは、そのくらいだった。ただ、金で雇われただけの私兵にしては〈蝿〉に従順である理由は分かった。
彼らは〈蝿〉に薬物を投与されていたのだ。逆らえば、死に至る。実際、目の前で、ひとり死んだという。
「でも、彼らには、なんの中毒症状も見られませんでした。おそらく偽薬を打たれただけだと思います」
報告を聞いて、ルイフォンは吐き捨てる。
「また〈蝿〉の虚言か。死んだ奴は、タイミングよく毒を盛られていたんだろう」
「そう思うわ」
ミンウェイも、溜め息混じりに頷いた。
ともあれ、これ以上の情報は得られそうもないため、イーレオは私兵たちの解放を命じた。
〈蝿〉の言葉を信じて菖蒲の館に戻るもよし、こちらの見解を信じて自由の身になるもよし、と。
『私たちなら、この言葉で〈蝿〉を騙せます』
凛と澄んだ響きが、脳裏を駆け巡る。
「メイシア……」
ルイフォンは声を失い、ただただ彼女を見つめていた。
「皆様の名誉を傷つけるような、こんな方法を提案して申し訳ございません」
彼女が深く頭を下げると、黒絹の髪がさらさらと流れた。
「けれど、今回は、堂々と乗り込むしかないと思うのです。監視カメラが使えない以上、不意打ちはできず、〈蝿〉に見つかった瞬間に、リュイセンやタオロンさんのお嬢さんの命を盾に取られて降伏する羽目になるからです」
「……っ」
ルイフォンは、はっとした。彼としては当然のように、前回同様、密かに忍び込むつもりだったのだ。
誰からともなく、溜め息が漏れる。それを遮るように、メイシアが「緋扇さん」と呼びかけた。
「なんだ?」
名指しされたシュアンは、不審げに眉を寄せた。
「すみませんが、異母弟に伝えてください。摂政殿下には、こうお答えするように、と。――『婚約者の件は大変な名誉ですが、父の喪が明けるまでは晴れがましいお話はお待ちください。陛下に穢れが及んでしまいます』」
「別に構わんが……、だが、それじゃ……」
「ただの時間稼ぎにすぎないのは分かっています。けど、私はこれ以上、あの子の自由が奪われるのを良しとしません。解決手段は、近いうちに必ず考えます」
喰いいるようなメイシアの視線に、シュアンが凶相を歪める。決してそうは見えないが、笑ったらしい。
「『大切な姉さんが、泣きながら訴えていた』と言えば、いくら、あいつでも聞くかもしれんな」
シュアンが軽口で背中を押してくれたのだと気づき、メイシアは一瞬、驚いたように瞳を瞬かせた。だがすぐに、綺麗に微笑む。
「ええ、それで構いません。よろしくお願いいたします」
そんな彼女の横顔を、ルイフォンはじっと見つめていた。
さすが自分の惚れ込んだ女だと、誇りに思う。
だが同時に、彼は気づいてしまった。彼女の瞳の奥では、不安と脅えが揺れていた。
ルイフォンの手が自然に伸びる。
くしゃり。
黒絹の髪を愛しげに撫でた。
「あっ……、あの、ルイフォン……。そのっ……、ごめんなさい、勝手に……」
急に、か細い声になり、メイシアは、はっと目元を押さえる。ルイフォンに触れられたことで、張り詰めていた緊張の糸が切れたのだ。
彼は彼女を抱き寄せた。
皆のいる前でのことに、彼女は慌てて抵抗するが、彼は別に気にしない。強引に包み込めば、彼女の肩は小刻みに震えていた。
「ありがとな」
リュイセンのために。
ルイフォンとメイシアが共に在ることを認めてくれたハオリュウに、無茶をさせないために。
そして、ルイフォンとメイシアの『ふたり』のために。
彼女ひとりで行く、ではなくて『ふたり』で行くと言ってくれた――。
「危険だと思う。俺は反対だ。お前には、安全なところにいてほしい」
「……」
「でも、『〈猫〉と、そのパートナー』なら、ここは打って出るところなんだよな?」
メイシアの耳元で囁くと、彼女は涙の混じる声で、けれど、はっきりと「うん」と答えた。それを聞いてから、ルイフォンはイーレオを振り返った。
「俺は、メイシアの案を支持する」
しかしイーレオは、秀でた額に皺を寄せ、ゆっくりと首を横に振った。
「非常に参考になる意見だったが、残念ながら認められない」
「危険だからか?」
「そうだ。危険『すぎる』からだ。不確かな『〈蝿〉の心』ひとつに賭ける案だ。思った通りに奴が動かなければ、それで終わりだ。お前だって非戦闘員だが、メイシアは素人なんだぞ」
イーレオは渋面を作る。
そのとき、ルイフォンの腕の中で、メイシアが身じろぎした。そっと力を緩めると、強い意志を持った黒曜石の瞳が、無言で伝えてきた。
――自分たちは、鷹刀一族に守られる存在ではない。
ルイフォンは頷くと、メイシアと手を取り合って席を立った。ふたりは、ぴたりと寄り添い、イーレオと向き合う。
「親父。俺たちは、リュイセンを助けたい。そして、そのための策があるのなら、実行に移したい。メイシアのことは必ず守る。そんなの当然だ」
「気持ちは分かる。だが、そこまでだ」
イーレオの厳しい声は、ルイフォンとメイシアを思いやってのことだ。
それは分かっている。
だが、このままでは〈蝿〉に主導権を握られたまま、状況は悪化していくだけだ。ならば、多少の危険を犯してでも立ち向かうべきだ。
ルイフォンは意を決する。
狩るべき獲物を捉えた獣のように、その瞳を鋭く煌めかせた。
「『鷹刀の総帥』。俺たちは、鷹刀の『協力者』であって、『鷹刀』ではない。意見が合わないのなら、ここで決別することも可能だ。俺たちは鷹刀とは関係なく、リュイセンを助けに行く!」
「――!」
それは、よほど予想外の言葉だったのであろう。イーレオの瞳が大きく見開かれた。
対してルイフォンは、抜けるような青空の、覇気あふれる笑顔を広げる。
「勿論、できれば決別なんかしたくない。――俺たちは鷹刀が好きだから。だから、認めてほしい。俺たちを『協力者』として〈蝿〉のところに送り出してほしい」
そして、メイシアと共に、頭を垂れた。
「……っ」
イーレオが息を呑んだ。
それは、いつも泰然と構えている王者の、はっきりとした動揺だった。
「……ふたりとも顔を上げてくれ」
慈愛に満ちた、けれどわずかに寂寥を帯びた、魅惑の低音。
空を仰ぐように、イーレオは遠い虚空を見つめる。まるで祈りを捧げるかのように軽く目を閉じたのちに、彼は告げた。
「分かった。――いや、こちらから、〈猫〉にお願い申し上げる。どうか、この事態を解決に導いてくれ」
わっと、場が湧いた。
メイシアが脱力して、倒れそうになる。そんな彼女を、ルイフォンはソファーに戻りながら抱きとめた。
不意に「総帥」と、遠慮がちな美声と共に、ふわりと草の香が漂った。
「私に、やらせてほしいことがあります」
「なんだ? ミンウェイ」
「捕らえている〈蝿〉の私兵たちに、自白剤を使わせてください。彼らから正確な情報を得られれば、ルイフォンたちの安全が高まるはずです」
「!」
執務室に緊張が走った。皆の頭に等しく、彼女がこの前、自白剤を使ったときのことが蘇ったのだ。
巨漢のならず者と、シュアンの先輩だった警察隊員――。
〈蝿〉の〈影〉にされていた憐れな捕虜たちは、無残な死を迎えた。
ミンウェイは決して表には出さなかったが、その件が彼女の心を深く傷つけたことは間違いない。だから、それ以降、いつの間にか誰もが彼女を荒事から遠ざけるようになっていた。今回も、私兵たちにの『聴取』から、彼女は意図的に外されていた。
部屋の空気が凍りつく。
時が止まったかのような、息苦しい無音に侵されていく。
やがて皆の視線が、遠慮がちにイーレオへと集まっていく。
そのとき。
「ミンウェイに、頼めばいいじゃねぇか」
妙に甲高い、挑発的な声が響いた。
悲惨な結末を迎えた、あの捕虜の自白の際、ミンウェイと共に現場にいたシュアンだった。
「確かに、ミンウェイと自白剤の取り合わせには、碌なことがないかもしれねぇ。けどよ、本人がやるって言ってんだ。それを止める筋はねぇだろう?」
「緋扇さん……」
まさかの援軍にミンウェイが瞳を瞬かせる。
シュアンは鼻を鳴らし、イーレオに向かって、くっと顎を上げた。
「イーレオさんよぉ、ミンウェイは、あんたの大事な一族だ。だったら、少しは信頼してやったらどうなんだ? あんたが、いつまでも特別扱いをするから、ミンウェイは鷹刀に遠慮するんだ。――分かってんだろう?」
イーレオの頬が、ぴくりと動いた。
だが、先に口を開いたのは、次期総帥エルファンだった。
「緋扇」
怒気をはらんだ声が、短くシュアンの名だけを呼ぶ。
「おおっと。鷹刀内部のことに首を突っ込みすぎましたかね? それは、失礼」
おどけたように肩をすくめ、やり合うつもりはないと、シュアンは首を振る。
「けど、もしミンウェイが自白剤を使うというのなら、賛同した俺は、いつでも彼女に付き添いますよ? ――何か問題が起きたときには、俺が責任を持って相手を殺します。……この前のときのようにな」
軽い口調とは裏腹に、三白眼が昏い光を放つ。
シュアンは、敬愛する先輩を自らの手で射殺した。それを示し、いい加減な気持ちでけしかけているわけではないと牽制したのだ。
イーレオは、じっとシュアンを見つめ、それからゆっくりと視線を移す。ためらいがちに「ミンウェイ」と彼女の名を呼んだ。
「任せてもよいか?」
「はい。ありがとうございます」
ミンウェイの顔が緩やかに、ほころぶ。
リュイセンが囚えられてからというもの、彼女はずっと沈んでいた。だから、それは一週間ぶりの上向きの表情だった。
「ほう? では約束通り、俺が付き添おう」
すかさずシュアンが口を挟むと、ミンウェイは綺麗に紅の引かれた唇の端をすっと上げた。
「それには及びません。緋扇さんには、警察隊のお仕事があるのですから、お忙しいでしょう?」
血色は悪いままだが、表情が明るめば、雰囲気がまったく変わる。いつもの華やぎには、ほど遠いが、ミンウェイらしさがほのかに戻ってきた。
「相変わらず、つれないねぇ。――そのほうが、あんたらしいけどな」
シュアンは気を悪くしたふうでもなく、さらりと流す。そんな彼に、逆にミンウェイが少しだけ申し訳なさそうな顔になった。
「あの、緋扇さん」
「ん?」
「感謝しています。ありがとうございます」
「ああ、そりゃ、どうも」
「……」
そして、会議はお開きとなった。
ミンウェイによる〈蝿〉の私兵たちへの自白剤投与は、会議の直後に行われた。
現場には、もともと聴取担当だったエルファンに加え、結局、シュアンも立ち合った。『万一、死体が出たときには、警察隊員であるシュアンに処理を押し付ければいい』と、イーレオが推したためである。
結果が出たと、ルイフォンのところに連絡が来たのは晩のことである。
彼はそのとき、〈蝿〉のいる庭園に乗り込むための準備をしていた。明日にも出発できると、満足げにメイシアとひと息ついていたら、呼び出しが来たのだ。
ミンウェイの口からは、次のようなことが告げられた。
自白による情報は、三名の私兵で一致した。
まず、リュイセンは無事である。
それも驚くべき早さで回復し、現在では、ほぼ完治しているという。おそらく〈蝿〉が研究した技術が使われたのだろう。
ベッドから起き上がれないような状態のときは、監禁状態であった。しかし、動き回れるようになったあたりから、館の中での自由行動が許されるようになったという。
「何故だ?」
ルイフォンの問いかけに、ミンウェイは首を振る。私兵たちも理由を知らなかったらしい。
リュイセンに関して分かったのは、そのくらいだった。ただ、金で雇われただけの私兵にしては〈蝿〉に従順である理由は分かった。
彼らは〈蝿〉に薬物を投与されていたのだ。逆らえば、死に至る。実際、目の前で、ひとり死んだという。
「でも、彼らには、なんの中毒症状も見られませんでした。おそらく偽薬を打たれただけだと思います」
報告を聞いて、ルイフォンは吐き捨てる。
「また〈蝿〉の虚言か。死んだ奴は、タイミングよく毒を盛られていたんだろう」
「そう思うわ」
ミンウェイも、溜め息混じりに頷いた。
ともあれ、これ以上の情報は得られそうもないため、イーレオは私兵たちの解放を命じた。
〈蝿〉の言葉を信じて菖蒲の館に戻るもよし、こちらの見解を信じて自由の身になるもよし、と。