残酷な描写あり
5.昏迷のさざめき-1
遮光カーテンの隙間から、初夏の朝陽が細く忍び込む。音もなく差し込む陽射しに、しかし、リュイセンの瞼は、すっと見開かれた。
武の達人である彼は、光と熱の気配を敏感に肌で感じとったのであろう。あるいは、そもそも朝が早い彼にとっては、単に起きる時間だった、というだけかもしれないが。
彼はベッドで半身を起こし、自分の体を確認した。〈蝿〉の地下研究室で目覚めて以来、それが習慣となっていた。
「……」
全身に散らばる、無数の切り傷。
そして、タオロンに斬られた背と、〈蝿〉に裂かれた胸から腹への、大きな太刀傷。内臓にまで達したであろう、それらの傷は、綺麗にふさがっていた。
三日前までは、起き上がることすらままならなかった。それが今は、時々ひきつるような痛みがあるものの、日常生活に支障はない。試しに昨日、室内でできる鍛錬をひと通りこなしてみたが、まったく問題はなかった。
あり得ない。
治りが早すぎる。
この傷を受けてから、まだ一週間。しかも、後遺症が残ったとしても、おかしくないほどの大怪我だった。
「これが〈七つの大罪〉の技術だというのか……」
武を頼みとする彼にとって、きちんと体が動くことは何よりもありがたいことのはずだ。なのに、現状が恐ろしい。
リュイセンは、溜め息をついた。
あのとき――。
〈蝿〉の最後の一撃は、即死をまぬがれる程度には避けられた。体術に持ち込み、奴の動きを封じるために必死だったのだ。――ルイフォンが無事に逃げられるように、と。
だが、そこまでが限界だった。自分の意識が薄れていくのを感じた。気を失えば、とどめを刺される。
死を覚悟した。
だから、〈蝿〉の研究室で目を開けたとき、生きていることが信じられなかった……。
リュイセンは再び溜め息をつき、一週間前のことを思い返した。
気づいたら、真っ白な天井が広がっていた。どうやらベッドに寝かされているらしい。
ここはどこだ? という、至極もっともな疑問が浮かぶ。
その直後、リュイセンは恐怖を覚えた。
見知らぬところにいる、ということは、すなわち何者かによって勝手に体を運ばれた、という意味だ。それは、無防備な状態を他人に晒したという事実に他ならない。
息を潜め、辺りを探ろうとすると、全身が悲鳴を上げた。どことはいわず、どこもが痛んだ。鉛のように重い体は、顔の向きをわずかに変えるだけで精いっぱいだった。
だが、それでも目の中に飛び込んできたものに息を呑む。
〈蝿〉が、うたた寝をしていた。
リュイセンのベッドから少し離れた位置で、身を投げ出すようにして椅子の背にもたれている。こくりと首が傾けられ、乱れた髪がひと房、はらりと額に落ちた。その中に混じった白いものが、呼吸で上下する体に合わせて、きらりと光を放つ。
目元にくまの見える青白い顔からは、疲労感が漂っていた。陰りのある美貌は、同じ年頃であるリュイセンの父、エルファンと瓜二つ。
寝顔からは、邪悪なものを感じられなかった。そのことが、リュイセンを苛立たせた。
リュイセンは、視線を〈蝿〉から外した。自由の効かぬ体だが、唯一、目玉だけは自在に動かせた。そして彼は、自分のいる場所が〈蝿〉の地下研究室だと理解した。
『ライシェン』がいたのだ。
培養液で満たされた硝子ケースの揺り籠で、ゆらりと、たゆたう白金の髪の赤子――〈蝿〉が作った次代の王。
リュイセンの背を、ぞくりと悪寒が走る。本能的な拒絶だ。
いずれ、こんなものを王と崇める日が来るのだろうか。だとしたら、この国は狂っている。
目を背けるようにして、今度は、無理やりに頭を反対側に向けると――。
「っ!」
大型の硝子ケースを目にして、リュイセンは鋭く息を呑む。
長い髪を身にまとった、裸体の女性――。
目は閉じているものの、ふっくらとした頬と、ほころんだ口元からは微笑みが感じられる。まろみを帯びた体つきは決して若くはないが、触れれば、滑らかな柔らかさに包まれるであろうことは想像に難くない。
ミンウェイに酷似した、けれど、ミンウェイよりずっと年上の『彼女』が、夢見るように眠っていた。
『彼女』がいたのは、〈蝿〉と対峙した王妃の部屋だ。リュイセンと同じく、『彼女』もまた、この研究室に運ばれたのだろう。
「ミンウェイの母親――か……?」
絶世の美女は、リュイセンの疑問に答えることなく、ただ昏々と眠る。その姿は、神々しいまでに美しい……。
「目が覚めましたか」
聞き慣れた鷹刀一族特有の魅惑の低音に、リュイセンの心臓が、どきりと跳ねた。背後から、ぎぃと椅子のきしむ音がして人の気配がこちらに近づく。
血みどろになった白衣は着替えたのだろう。真新しい純白に包まれた〈蝿〉は、如何にも医者らしく見えた。
〈蝿〉は、何を断ることもなく、横たわるリュイセンの体のあちこちに触れた。憎々しいほどに丁寧で、忌々しいほどに手際のよい診察だった。
「どうやら問題ないようですね。三日もすれば動けるようになりますよ」
患者を前にした、医師そのものの言い草が腹立たしい。
「何故、俺の治療をする? ……そもそも、なんで俺を助けた? ――いや、どうして俺を殺さなかった!?」
リュイセンの声は、徐々に昂っていった。自分でも押さえられないほどの憤りが、心の中で渦を巻いていた。
「せっかちですね」
鼻で笑われ、かちんと来る。
反射的に牙をむいたリュイセンに、〈蝿〉は押し止めるような身振りをした。
「まぁ、あなたの気持ちも分かります。私も無駄なやり取りはしたくないので、順を追って説明して差し上げましょう」
そう言って〈蝿〉は、ベッドのそばにあった椅子に腰掛けた。
「まず、あなたが意識を失ってから、丸一日経っています」
「一日……」
「ええ。それで済んだのは、さすが鷹刀の血族ということでしょうか。それに私も、鷹刀の者を診るのには慣れていますし、何より私の血を輸血することができたのは、あなたにとって幸運でしたね」
「――!」
リュイセンは吐き気を覚えた。こんな奴の血が自分の体を流れているとは、おぞましいにもほどがある。
そんな彼の反応は、たいそう〈蝿〉のお気に召したのだろう。くっく、という低い嗤いが響いた。
「私もかなりの失血をしていましたから、本当は控えるべきだったんですがね」
「だから、何故だ!? どうして、そこまでして俺を……。まさか、俺の体に何か!?」
リュイセンは、ぎろりと〈蝿〉を睨みつける。だが、その瞳には脅えの色が混じっていた。
突如、〈蝿〉の嗤いが哄笑に変わる。
「タオロンも、私の部下となったときに、人体改造をするのかと訊いてきましたよ」
「……っ」
「あなた方のような、肉体が頼みの武闘派馬鹿にとって、私はよほど怖い存在のようですね」
「こ、こいつ……」
どす黒く顔を染めるリュイセンに、〈蝿〉は顎先に手をあてて、くすりとする。
「何もしていませんよ」
「!?」
「確かに、できることは、いろいろあります。けれど、あなた方が考えるような、私にとって都合のよい肉体改造など不可能なのですよ。無理を掛ければ、体が悲鳴を上げるだけ。薬物で支配したところで、すぐに使い物にならなくなる。……医術は、万能ではないのですよ」
ほんのわずかに、〈蝿〉の視線がそれた。リュイセンは訝しげに眉を寄せたが、すぐに彼の背後を見ているのだと気づく。そこには『彼女』の硝子ケースがある……。
「あなたには利用価値がある。だから、生かした。それだけです」
『彼女』を見つめていた〈蝿〉が、何を思っていたのかは分からない。だが、リュイセンに視線を戻すと、顔色を変えることなく淡々とそう告げた。
「ならば俺は……人質――ということか……?」
そう言葉を漏らし、リュイセンは、はっとした。
「ルイフォン!? ルイフォンはどうなった!?」
彼が人質として役に立つ、ということは、弟分は無事に逃げ延びたのだろうか。
「そんなに力まないでください。せっかく縫合した傷が開いたら、どうするんですか」
「話をそらすな! ルイフォンは今、どこにいる!?」
「さて?」
リュイセンが慌てる様を愉しむように、〈蝿〉は、にやりと口角を上げる。
「教えろ!」
力いっぱい叫ぶと、腹の傷が、ずきりと痛んだ。思わず顔をしかめれば、それ見たことかと言わんばかりに、〈蝿〉がわざとらしい溜め息をつく。
「まったく……、少しは怪我人らしくしたらどうですか。――安心なさい。あなたの大事な子猫は逃げて、どこかに隠れたままですよ」
「本当か!?」
「すぐに分かる嘘をついても仕方がないでしょう?」
「そうか……」
リュイセンは、ほっと胸を撫で下ろした。
しかし、では、ルイフォンはどこにいるのであろう?
残念なことに、あの弟分は気配を消すのが下手である。丸一日、隠れおおせるとは思えない。それに、腹が減るはずだ。何しろ、携帯食料で食事を摂ろうとした矢先に〈蝿〉とかち合ったのだ。補給の確保なしに籠城するのは、愚の骨頂だ。
そこまで考えて、リュイセンは、ルイフォンは既にこの庭園から脱出しているのだと思い当たった。あのタイミングなら、ハオリュウの車はまだ帰っていなかった、と。
ルイフォンに『逃げろ』と叫んだとき、そのあとに取るべき行動を、リュイセンは明確に思い描いていたわけではなかった。ただ、ここにいてはふたりとも捕まるだけだと、野生の獣の勘が告げ、体が動いた。
けれど、賢い弟分はきちんと先を考え、再戦のために、あえて屈辱の敗走を選んだのだ。
リュイセンの口元が緩んだ。
ルイフォンを誇りに思う。そして、無事に逃がすことのできた自分に満足をする。
囚われの身となったのは、勿論、大きな失態だ。だが、このままで終わらせるつもりはない。
外にいるルイフォンは、再び〈蝿〉に挑むために必ず戻ってくる。ならば、そのときの助けになるよう、内側にいるリュイセンは、少しでも情報を集めておくべきだろう。あまり得意な分野ではないが、やるべきことはやる。それは、きっと弟分の役に立つ。
リュイセンはそう考え、「おい」と〈蝿〉に声を掛けた。
「訊きたいことがある」
彼は、ベッドの傍らに座る〈蝿〉に対し、顎をしゃくるようにして自分の背後を示した。そちらには大型の硝子ケースがあり、中では絶世の美女が眠っている。
「その硝子ケースの中の女性は、ミンウェイの母親なのか?」
初めて『彼女』を見たときから、ずっと疑問に思っていた。
年齢や容姿からすると、母親というのが一番、妥当な解だ。それに〈蝿〉も、『彼女』に対して特別な感情を抱いているように見受けられた。だからこそ、ルイフォンは『彼女』を〈蝿〉の弱点と考えた策を立てたし、実際、功を奏した。
『彼女』は、〈蝿〉にとって重要な意味を持つ。だから、これは訊いておくべきことだ――。
「ミンウェイの母親……?」
〈蝿〉は一瞬、呆けたように口を開けた。だが、すぐに得心がいったように表情を戻す。
「あなたの言うミンウェイは、〈ベラドンナ〉のことですね」
そう言われて、リュイセンは思い出した。ミンウェイの母親の名前もまた、『ミンウェイ』だということを。
〈ベラドンナ〉というのは、毒使いの暗殺者としてのミンウェイの通り名だ。〈蝿〉は今、それを使って呼び分けたのだ。
「そうだったな。お前は父親のくせに、生まれた娘に名前をつけなかったんだったな!」
リュイセンの言葉が殺気をまとう。
死んだ妻の名前を、そのまま娘につけた。そして、娘を妻の代わりにした……。
「なるほど。あなたは、私が〈ベラドンナ〉の母親を、この硝子ケースに入れて生き存えさせていると思ったわけですね」
「ああ」
「違いますよ。彼女は死にました。二十歳にもならず、痩せこけて、ぼろぼろになって死にました。遺体は埋葬し、きちんと墓も建てました。――彼女は、最期まで『生きたい』と願っていたのに、不甲斐ない私は……叶えてやることができなかった……!」
最後のほうは、血を吐くような嘆きだった。
〈蝿〉の言うことは信用ならない。だが、勘だけは鋭いリュイセンは、その想いが嘘ではないと見抜けてしまう――。
「……情に訴えても、俺には通じねぇぞ」
毒づくように呟いた。
「そんなことはしませんよ。ただ、その硝子ケースの中の『ミンウェイ』が、『作られたもの』であるという事実を説明しているだけです」
「『作られたもの』……?」
「ええ。その個体には、ほんの少しの擦り傷も、日焼けも、しみも何ひとつありません。作られてから一度も、そのケースから外に出されたことのない証拠です」
そして〈蝿〉は、わずかに唇を噛む。
「ましてやミンウェイ本人であれば、あの無残な点滴の痕が腕に残っているはずです。それが、まるでない……」
「じゃあ、『彼女』は何者なんだ?」
問いかけながら、リュイセンは焦りを感じていた。
彼の頭の中では、『彼女』はミンウェイの母親で確定していたのだ。〈蝿〉に尋ねたのは、ただの確認にすぎなかった。
けれど、どうやら違うらしい。
知らぬうちに、虎の尾を踏んでしまったのではないか。そんな不安がよぎる。
「この『ミンウェイ』が何者なのか。それは私のほうが知りたいくらいですよ」
「どういうことだ? 『彼女』がミンウェイの母親でないのなら――『作られたもの』だというのなら、お前が作ったんじゃないのか?」
「『私』ではありませんよ。――この『ミンウェイ』は、オリジナルの鷹刀ヘイシャオの研究室に残されていたものです。おそらく、生前の彼が作ったのでしょう」
「なるほどな」
相槌を打ちながらも、リュイセンは、ほんの少しの違和感を覚えた。
何か、おかしな気がする。何かが、引っかかる……。
「――っ」
リュイセンは、気づいた。
「何故、『おそらく』という言い方をする? 『彼女』を作ったのが、お前でないとしても、お前には『鷹刀ヘイシャオ』の記憶がある。ならば、『彼女』のことを知っているはずだろう?」
噛み付くようなリュイセンに、〈蝿〉は眉根を寄せた。
「あなたの疑問はもっともですが、責め立てられるいわれはありませんよ」
やれやれ、と言わんばかりに〈蝿〉は大仰に肩をすくめ、「いいですか?」と聞き分けのない子供をなだめるような口調になる。
「私の持つ記憶が採取されたのは、どうやら鷹刀ヘイシャオが、この『ミンウェイ』を作るよりも『前』のことのようです。ですから、その『あと』で、彼が何を考えて『ミンウェイ』を作ったのかは、文字通り『記憶にない』のですよ」
「そういうことか……」
リュイセンは納得の声を漏らした。
だが、話はそこで終わらなかった。〈蝿〉が、まるで引き寄せられるかのように『彼女』の硝子ケースを見つめ、「そして」と続けたのだ。
「この大型ケースのサイズから推測すると、この中に入っていたのは『ひとり』ではない……」
その低音は、郷愁にも哀愁にも似ていて、リュイセンはどきりとする。
「……? 何が言いたい?」
〈蝿〉は、ゆっくりとリュイセンに視線を移し、静かに告げた。
「この『私』が入っていた。そうとしか考えられません」
「――!?」
「この『私』の肉体は、『デヴァイン・シンフォニア計画』のために作られたものではないそうです。『私』を作った〈蛇〉が――ホンシュアが言っていました。新たな肉体を作るつもりだったが技術不足でうまくいかず、古い研究室で運良く見つけた『私』に飛びついた、と」
そういえば、とリュイセンは思い出す。
いつだったか、ルイフォンと話しているときに、〈蝿〉の肉体と記憶の年齢に差があることに気づいた。
『最大の性能を出すためには、記憶の年齢と肉体の年齢を合わせるべきだ』
それなのに、どうしてずれがあるのかと、ルイフォンが頭を抱えていた。その答えはつまり、保管されていた肉体を『仕方なく』使ったため、ということらしい。
ルイフォンの疑問をひとつ、解くことができた。これは素直に嬉しい。
そんなリュイセンの小さな喜びを〈蝿〉は当然、知ることはなく、ただじっと大型の硝子ケースを――『彼女』を見つめていた。
「『私』の肉体は、この『ミンウェイ』と『対』になるように、オリジナルの鷹刀ヘイシャオが作ったんですよ。……きっと」
ぽつりと落とされた言葉は、切なさで満たされていた。
「この『肉体』に『記憶』を入れたホンシュアは、『私』がどこに収められていたかは言いませんでしたけどね。――おそらく、意図的に黙っていたのでしょう」
〈蝿〉の表情に変化はないが、その内側では感情の波濤が逆巻いている。勘のよいリュイセンにはそれが見えた。
「オリジナルの私が、なんのために『自分とミンウェイ』を作ったのか。それも凍結保存せずに、時の流れと共に歳を取り、いずれは朽ち果てていくと分かっている肉体にしたのか。……『私』は、何も知らないのですよ」
『だから、君が何者なのか、私は知りたいのだ』
無言の想いが、密やかに響く……。
リュイセンは、目の前が深い霧で覆われていくような、おぼつかなさを覚えた。どこか、とんでもないところに連れて行かれそうな、そんな気がして、背筋を冷たいものが走った。
武の達人である彼は、光と熱の気配を敏感に肌で感じとったのであろう。あるいは、そもそも朝が早い彼にとっては、単に起きる時間だった、というだけかもしれないが。
彼はベッドで半身を起こし、自分の体を確認した。〈蝿〉の地下研究室で目覚めて以来、それが習慣となっていた。
「……」
全身に散らばる、無数の切り傷。
そして、タオロンに斬られた背と、〈蝿〉に裂かれた胸から腹への、大きな太刀傷。内臓にまで達したであろう、それらの傷は、綺麗にふさがっていた。
三日前までは、起き上がることすらままならなかった。それが今は、時々ひきつるような痛みがあるものの、日常生活に支障はない。試しに昨日、室内でできる鍛錬をひと通りこなしてみたが、まったく問題はなかった。
あり得ない。
治りが早すぎる。
この傷を受けてから、まだ一週間。しかも、後遺症が残ったとしても、おかしくないほどの大怪我だった。
「これが〈七つの大罪〉の技術だというのか……」
武を頼みとする彼にとって、きちんと体が動くことは何よりもありがたいことのはずだ。なのに、現状が恐ろしい。
リュイセンは、溜め息をついた。
あのとき――。
〈蝿〉の最後の一撃は、即死をまぬがれる程度には避けられた。体術に持ち込み、奴の動きを封じるために必死だったのだ。――ルイフォンが無事に逃げられるように、と。
だが、そこまでが限界だった。自分の意識が薄れていくのを感じた。気を失えば、とどめを刺される。
死を覚悟した。
だから、〈蝿〉の研究室で目を開けたとき、生きていることが信じられなかった……。
リュイセンは再び溜め息をつき、一週間前のことを思い返した。
気づいたら、真っ白な天井が広がっていた。どうやらベッドに寝かされているらしい。
ここはどこだ? という、至極もっともな疑問が浮かぶ。
その直後、リュイセンは恐怖を覚えた。
見知らぬところにいる、ということは、すなわち何者かによって勝手に体を運ばれた、という意味だ。それは、無防備な状態を他人に晒したという事実に他ならない。
息を潜め、辺りを探ろうとすると、全身が悲鳴を上げた。どことはいわず、どこもが痛んだ。鉛のように重い体は、顔の向きをわずかに変えるだけで精いっぱいだった。
だが、それでも目の中に飛び込んできたものに息を呑む。
〈蝿〉が、うたた寝をしていた。
リュイセンのベッドから少し離れた位置で、身を投げ出すようにして椅子の背にもたれている。こくりと首が傾けられ、乱れた髪がひと房、はらりと額に落ちた。その中に混じった白いものが、呼吸で上下する体に合わせて、きらりと光を放つ。
目元にくまの見える青白い顔からは、疲労感が漂っていた。陰りのある美貌は、同じ年頃であるリュイセンの父、エルファンと瓜二つ。
寝顔からは、邪悪なものを感じられなかった。そのことが、リュイセンを苛立たせた。
リュイセンは、視線を〈蝿〉から外した。自由の効かぬ体だが、唯一、目玉だけは自在に動かせた。そして彼は、自分のいる場所が〈蝿〉の地下研究室だと理解した。
『ライシェン』がいたのだ。
培養液で満たされた硝子ケースの揺り籠で、ゆらりと、たゆたう白金の髪の赤子――〈蝿〉が作った次代の王。
リュイセンの背を、ぞくりと悪寒が走る。本能的な拒絶だ。
いずれ、こんなものを王と崇める日が来るのだろうか。だとしたら、この国は狂っている。
目を背けるようにして、今度は、無理やりに頭を反対側に向けると――。
「っ!」
大型の硝子ケースを目にして、リュイセンは鋭く息を呑む。
長い髪を身にまとった、裸体の女性――。
目は閉じているものの、ふっくらとした頬と、ほころんだ口元からは微笑みが感じられる。まろみを帯びた体つきは決して若くはないが、触れれば、滑らかな柔らかさに包まれるであろうことは想像に難くない。
ミンウェイに酷似した、けれど、ミンウェイよりずっと年上の『彼女』が、夢見るように眠っていた。
『彼女』がいたのは、〈蝿〉と対峙した王妃の部屋だ。リュイセンと同じく、『彼女』もまた、この研究室に運ばれたのだろう。
「ミンウェイの母親――か……?」
絶世の美女は、リュイセンの疑問に答えることなく、ただ昏々と眠る。その姿は、神々しいまでに美しい……。
「目が覚めましたか」
聞き慣れた鷹刀一族特有の魅惑の低音に、リュイセンの心臓が、どきりと跳ねた。背後から、ぎぃと椅子のきしむ音がして人の気配がこちらに近づく。
血みどろになった白衣は着替えたのだろう。真新しい純白に包まれた〈蝿〉は、如何にも医者らしく見えた。
〈蝿〉は、何を断ることもなく、横たわるリュイセンの体のあちこちに触れた。憎々しいほどに丁寧で、忌々しいほどに手際のよい診察だった。
「どうやら問題ないようですね。三日もすれば動けるようになりますよ」
患者を前にした、医師そのものの言い草が腹立たしい。
「何故、俺の治療をする? ……そもそも、なんで俺を助けた? ――いや、どうして俺を殺さなかった!?」
リュイセンの声は、徐々に昂っていった。自分でも押さえられないほどの憤りが、心の中で渦を巻いていた。
「せっかちですね」
鼻で笑われ、かちんと来る。
反射的に牙をむいたリュイセンに、〈蝿〉は押し止めるような身振りをした。
「まぁ、あなたの気持ちも分かります。私も無駄なやり取りはしたくないので、順を追って説明して差し上げましょう」
そう言って〈蝿〉は、ベッドのそばにあった椅子に腰掛けた。
「まず、あなたが意識を失ってから、丸一日経っています」
「一日……」
「ええ。それで済んだのは、さすが鷹刀の血族ということでしょうか。それに私も、鷹刀の者を診るのには慣れていますし、何より私の血を輸血することができたのは、あなたにとって幸運でしたね」
「――!」
リュイセンは吐き気を覚えた。こんな奴の血が自分の体を流れているとは、おぞましいにもほどがある。
そんな彼の反応は、たいそう〈蝿〉のお気に召したのだろう。くっく、という低い嗤いが響いた。
「私もかなりの失血をしていましたから、本当は控えるべきだったんですがね」
「だから、何故だ!? どうして、そこまでして俺を……。まさか、俺の体に何か!?」
リュイセンは、ぎろりと〈蝿〉を睨みつける。だが、その瞳には脅えの色が混じっていた。
突如、〈蝿〉の嗤いが哄笑に変わる。
「タオロンも、私の部下となったときに、人体改造をするのかと訊いてきましたよ」
「……っ」
「あなた方のような、肉体が頼みの武闘派馬鹿にとって、私はよほど怖い存在のようですね」
「こ、こいつ……」
どす黒く顔を染めるリュイセンに、〈蝿〉は顎先に手をあてて、くすりとする。
「何もしていませんよ」
「!?」
「確かに、できることは、いろいろあります。けれど、あなた方が考えるような、私にとって都合のよい肉体改造など不可能なのですよ。無理を掛ければ、体が悲鳴を上げるだけ。薬物で支配したところで、すぐに使い物にならなくなる。……医術は、万能ではないのですよ」
ほんのわずかに、〈蝿〉の視線がそれた。リュイセンは訝しげに眉を寄せたが、すぐに彼の背後を見ているのだと気づく。そこには『彼女』の硝子ケースがある……。
「あなたには利用価値がある。だから、生かした。それだけです」
『彼女』を見つめていた〈蝿〉が、何を思っていたのかは分からない。だが、リュイセンに視線を戻すと、顔色を変えることなく淡々とそう告げた。
「ならば俺は……人質――ということか……?」
そう言葉を漏らし、リュイセンは、はっとした。
「ルイフォン!? ルイフォンはどうなった!?」
彼が人質として役に立つ、ということは、弟分は無事に逃げ延びたのだろうか。
「そんなに力まないでください。せっかく縫合した傷が開いたら、どうするんですか」
「話をそらすな! ルイフォンは今、どこにいる!?」
「さて?」
リュイセンが慌てる様を愉しむように、〈蝿〉は、にやりと口角を上げる。
「教えろ!」
力いっぱい叫ぶと、腹の傷が、ずきりと痛んだ。思わず顔をしかめれば、それ見たことかと言わんばかりに、〈蝿〉がわざとらしい溜め息をつく。
「まったく……、少しは怪我人らしくしたらどうですか。――安心なさい。あなたの大事な子猫は逃げて、どこかに隠れたままですよ」
「本当か!?」
「すぐに分かる嘘をついても仕方がないでしょう?」
「そうか……」
リュイセンは、ほっと胸を撫で下ろした。
しかし、では、ルイフォンはどこにいるのであろう?
残念なことに、あの弟分は気配を消すのが下手である。丸一日、隠れおおせるとは思えない。それに、腹が減るはずだ。何しろ、携帯食料で食事を摂ろうとした矢先に〈蝿〉とかち合ったのだ。補給の確保なしに籠城するのは、愚の骨頂だ。
そこまで考えて、リュイセンは、ルイフォンは既にこの庭園から脱出しているのだと思い当たった。あのタイミングなら、ハオリュウの車はまだ帰っていなかった、と。
ルイフォンに『逃げろ』と叫んだとき、そのあとに取るべき行動を、リュイセンは明確に思い描いていたわけではなかった。ただ、ここにいてはふたりとも捕まるだけだと、野生の獣の勘が告げ、体が動いた。
けれど、賢い弟分はきちんと先を考え、再戦のために、あえて屈辱の敗走を選んだのだ。
リュイセンの口元が緩んだ。
ルイフォンを誇りに思う。そして、無事に逃がすことのできた自分に満足をする。
囚われの身となったのは、勿論、大きな失態だ。だが、このままで終わらせるつもりはない。
外にいるルイフォンは、再び〈蝿〉に挑むために必ず戻ってくる。ならば、そのときの助けになるよう、内側にいるリュイセンは、少しでも情報を集めておくべきだろう。あまり得意な分野ではないが、やるべきことはやる。それは、きっと弟分の役に立つ。
リュイセンはそう考え、「おい」と〈蝿〉に声を掛けた。
「訊きたいことがある」
彼は、ベッドの傍らに座る〈蝿〉に対し、顎をしゃくるようにして自分の背後を示した。そちらには大型の硝子ケースがあり、中では絶世の美女が眠っている。
「その硝子ケースの中の女性は、ミンウェイの母親なのか?」
初めて『彼女』を見たときから、ずっと疑問に思っていた。
年齢や容姿からすると、母親というのが一番、妥当な解だ。それに〈蝿〉も、『彼女』に対して特別な感情を抱いているように見受けられた。だからこそ、ルイフォンは『彼女』を〈蝿〉の弱点と考えた策を立てたし、実際、功を奏した。
『彼女』は、〈蝿〉にとって重要な意味を持つ。だから、これは訊いておくべきことだ――。
「ミンウェイの母親……?」
〈蝿〉は一瞬、呆けたように口を開けた。だが、すぐに得心がいったように表情を戻す。
「あなたの言うミンウェイは、〈ベラドンナ〉のことですね」
そう言われて、リュイセンは思い出した。ミンウェイの母親の名前もまた、『ミンウェイ』だということを。
〈ベラドンナ〉というのは、毒使いの暗殺者としてのミンウェイの通り名だ。〈蝿〉は今、それを使って呼び分けたのだ。
「そうだったな。お前は父親のくせに、生まれた娘に名前をつけなかったんだったな!」
リュイセンの言葉が殺気をまとう。
死んだ妻の名前を、そのまま娘につけた。そして、娘を妻の代わりにした……。
「なるほど。あなたは、私が〈ベラドンナ〉の母親を、この硝子ケースに入れて生き存えさせていると思ったわけですね」
「ああ」
「違いますよ。彼女は死にました。二十歳にもならず、痩せこけて、ぼろぼろになって死にました。遺体は埋葬し、きちんと墓も建てました。――彼女は、最期まで『生きたい』と願っていたのに、不甲斐ない私は……叶えてやることができなかった……!」
最後のほうは、血を吐くような嘆きだった。
〈蝿〉の言うことは信用ならない。だが、勘だけは鋭いリュイセンは、その想いが嘘ではないと見抜けてしまう――。
「……情に訴えても、俺には通じねぇぞ」
毒づくように呟いた。
「そんなことはしませんよ。ただ、その硝子ケースの中の『ミンウェイ』が、『作られたもの』であるという事実を説明しているだけです」
「『作られたもの』……?」
「ええ。その個体には、ほんの少しの擦り傷も、日焼けも、しみも何ひとつありません。作られてから一度も、そのケースから外に出されたことのない証拠です」
そして〈蝿〉は、わずかに唇を噛む。
「ましてやミンウェイ本人であれば、あの無残な点滴の痕が腕に残っているはずです。それが、まるでない……」
「じゃあ、『彼女』は何者なんだ?」
問いかけながら、リュイセンは焦りを感じていた。
彼の頭の中では、『彼女』はミンウェイの母親で確定していたのだ。〈蝿〉に尋ねたのは、ただの確認にすぎなかった。
けれど、どうやら違うらしい。
知らぬうちに、虎の尾を踏んでしまったのではないか。そんな不安がよぎる。
「この『ミンウェイ』が何者なのか。それは私のほうが知りたいくらいですよ」
「どういうことだ? 『彼女』がミンウェイの母親でないのなら――『作られたもの』だというのなら、お前が作ったんじゃないのか?」
「『私』ではありませんよ。――この『ミンウェイ』は、オリジナルの鷹刀ヘイシャオの研究室に残されていたものです。おそらく、生前の彼が作ったのでしょう」
「なるほどな」
相槌を打ちながらも、リュイセンは、ほんの少しの違和感を覚えた。
何か、おかしな気がする。何かが、引っかかる……。
「――っ」
リュイセンは、気づいた。
「何故、『おそらく』という言い方をする? 『彼女』を作ったのが、お前でないとしても、お前には『鷹刀ヘイシャオ』の記憶がある。ならば、『彼女』のことを知っているはずだろう?」
噛み付くようなリュイセンに、〈蝿〉は眉根を寄せた。
「あなたの疑問はもっともですが、責め立てられるいわれはありませんよ」
やれやれ、と言わんばかりに〈蝿〉は大仰に肩をすくめ、「いいですか?」と聞き分けのない子供をなだめるような口調になる。
「私の持つ記憶が採取されたのは、どうやら鷹刀ヘイシャオが、この『ミンウェイ』を作るよりも『前』のことのようです。ですから、その『あと』で、彼が何を考えて『ミンウェイ』を作ったのかは、文字通り『記憶にない』のですよ」
「そういうことか……」
リュイセンは納得の声を漏らした。
だが、話はそこで終わらなかった。〈蝿〉が、まるで引き寄せられるかのように『彼女』の硝子ケースを見つめ、「そして」と続けたのだ。
「この大型ケースのサイズから推測すると、この中に入っていたのは『ひとり』ではない……」
その低音は、郷愁にも哀愁にも似ていて、リュイセンはどきりとする。
「……? 何が言いたい?」
〈蝿〉は、ゆっくりとリュイセンに視線を移し、静かに告げた。
「この『私』が入っていた。そうとしか考えられません」
「――!?」
「この『私』の肉体は、『デヴァイン・シンフォニア計画』のために作られたものではないそうです。『私』を作った〈蛇〉が――ホンシュアが言っていました。新たな肉体を作るつもりだったが技術不足でうまくいかず、古い研究室で運良く見つけた『私』に飛びついた、と」
そういえば、とリュイセンは思い出す。
いつだったか、ルイフォンと話しているときに、〈蝿〉の肉体と記憶の年齢に差があることに気づいた。
『最大の性能を出すためには、記憶の年齢と肉体の年齢を合わせるべきだ』
それなのに、どうしてずれがあるのかと、ルイフォンが頭を抱えていた。その答えはつまり、保管されていた肉体を『仕方なく』使ったため、ということらしい。
ルイフォンの疑問をひとつ、解くことができた。これは素直に嬉しい。
そんなリュイセンの小さな喜びを〈蝿〉は当然、知ることはなく、ただじっと大型の硝子ケースを――『彼女』を見つめていた。
「『私』の肉体は、この『ミンウェイ』と『対』になるように、オリジナルの鷹刀ヘイシャオが作ったんですよ。……きっと」
ぽつりと落とされた言葉は、切なさで満たされていた。
「この『肉体』に『記憶』を入れたホンシュアは、『私』がどこに収められていたかは言いませんでしたけどね。――おそらく、意図的に黙っていたのでしょう」
〈蝿〉の表情に変化はないが、その内側では感情の波濤が逆巻いている。勘のよいリュイセンにはそれが見えた。
「オリジナルの私が、なんのために『自分とミンウェイ』を作ったのか。それも凍結保存せずに、時の流れと共に歳を取り、いずれは朽ち果てていくと分かっている肉体にしたのか。……『私』は、何も知らないのですよ」
『だから、君が何者なのか、私は知りたいのだ』
無言の想いが、密やかに響く……。
リュイセンは、目の前が深い霧で覆われていくような、おぼつかなさを覚えた。どこか、とんでもないところに連れて行かれそうな、そんな気がして、背筋を冷たいものが走った。