残酷な描写あり
5.昏迷のさざめき-2
リュイセンは、ふん、と鼻を鳴らした。
それは強がりからだったかもしれないが、〈蝿〉の雰囲気に呑まれないためには、効果的な措置だった。
なるほど――と、彼は思う。
〈蝿〉が――この場合は、過去に生きていた叔父の『ヘイシャオ』と呼ぶのが正しいのかもしれないが――妻を溺愛していたのは疑うべくもないようだ。義父にあたるイーレオが、生ぬるい態度を取っていたのも納得できる。
――だが自分は、ほだされたりなどしない!
リュイセンは、冷ややかな目で〈蝿〉を見つめた。
奴は危険だ。
彼の持つ野生の獣の勘が告げる。
純粋な戦闘なら〈蝿〉に負けることはない。けれど奴は、『悪魔』の知恵を持っている。今だって、『順を追って説明する』と言いながら、自分の流れに持っていっているように思える……。
「リュイセン」
そっと、名を囁かれた。
『小倅』ではなく、きちんと名前で呼ばれたのは初めてのような気がして、リュイセンは警戒に身を固くする。
「『私』と『ミンウェイ』は、寄り添って眠っていたのですよ。そこに、ホンシュアが――鷹刀セレイエの〈影〉が、押し入ってきて、強引に『私』を目覚めさせた。……『私』と『ミンウェイ』を引き離したのです」
〈蝿〉は拳を握りしめ、身を乗り出した。
その動きが電灯の光を遮り、伸びた影が、まるで黒い翼のように広がる。
「しかも、鷹刀セレイエ本人は姿を現さず、〈影〉のホンシュアを使い、虚言で私を操った。私は、大恩ある義父に刃まで向けて、……愚かな道化そのものです。――この屈辱、この怒り……、あなたに理解できますか?」
一族が脈々と受け継いできた、絶世の美貌が憎悪に染まる。
壮絶な微笑に、リュイセンの体の芯を、ひやりと冷たいものが駆け抜けた。
「すべての元凶は、鷹刀セレイエと『デヴァイン・シンフォニア計画』なのですよ」
闇に沈んだ瞳が、妖しく揺らめく。
「私は、復讐を誓います」
深い怨恨は熟成され、いっそ、まろやかな優しさすら帯びて、地下の研究室に甘く響き渡る。
悪魔に魅入られたように、リュイセンは〈蝿〉から目を離せなくなった。怪我のため、もとより体の自由は効かぬが、呼吸すらも止まりそうになり、気持ちの悪い汗が吹き出す。
〈蝿〉の視線が、まっすぐにリュイセンを捕らえた。
「ですから、リュイセン。あなたに、私の復讐に協力してもらいたいのです」
「!?」
リュイセンは、一瞬、呆けた。
荒唐無稽な〈蝿〉の弁を、刹那に理解することは不可能だったのだ。
「誰が、そんなことするか!」
ひと呼吸、遅れて吐き出した拒絶は、不自然なほどに大声となった。まるで虚勢を張っているようで情けないと、自分に苛立つ。
「そうですね。あなたにしてみれば、私に協力するいわれはない――ですか」
「当たり前だ! だいたい、お前はミンウェイを辱め、苦しめた極悪人だ。誰が、そんな奴に協力するか!」
その瞬間、〈蝿〉が、にやりと嗤った。
「おかしなことを言いますね。それは、『鷹刀ヘイシャオ』のしたことでしょう? 『私』は、『あなたのミンウェイ』には、会ったこともないのですよ?」
「――!」
「あなたは、私の外見に惑わされていませんか? 私はいわば、『生まれたばかり』。――なのに、この肉体に勝手に入れられた『記憶』のために、『鷹刀ヘイシャオの罪』は『私の罪』になるのですか?」
〈蝿〉が、緩やかに詰め寄る。
「私は、『鷹刀ヘイシャオ』とは、違う人間ですよ?」
「……っ!」
〈蝿〉と、死んだ鷹刀ヘイシャオは、『別人』――。
それは、リュイセンが散々、イーレオに食って掛かって言い続けたことだ。『血族の情に流されるな』などと、かなり生意気な口まできいた。
けれど――。
戯言だ。
リュイセンの直感が告げる。
もっともらしく聞こえるが、丸め込まれてはならない……。
〈蝿〉が、むかつく薄ら笑いを浮かべる。その顔に、強烈な反論をかましてやりたいが、口が達者ではないリュイセンは、うまい言葉を思いつけずに歯噛みする。
「リュイセン。あなたの言い分からすると、もしも、あなたの肉体に『鷹刀ヘイシャオの記憶』を入れられたら、『あなた』も罪人になる――ということですよ。そのとき、あなたは『自分の罪』として受け入れられるのですか?」
〈蝿〉の言葉に、悪寒が走った。おぞましさに総毛立つ。
「……そんなことになったら、それはもう、俺じゃねぇ! 〈影〉なんかにされたら……」
リュイセンは叫び、そして、はっと気づく。
「そうだ! お前の〈影〉にされた奴ら……。あいつらは、『お前のせい』で死んだ。『鷹刀ヘイシャオ』は関係ない。『お前の罪』だ!」
あのチンピラ警察隊員、緋扇シュアンは、〈影〉にされた先輩をその手で殺した。随分と親しい間柄だったようなのに、断腸の思いで決意した。緋扇の野郎は、いけ好かないが、その件だけは痛ましく思う。
「メイシアの父親だってそうだ。貴族の権力争いが原因じゃねぇ。あんな不幸な死に方をする羽目になったのは『お前のせい』だ! 全部、お前が悪い!」
「随分と乱暴な理屈ですね。それに、彼らを殺したのは私ではありませんよ?」
〈蝿〉が失笑を漏らす。
「ああ、俺も自分で言っていて、理屈なんか通ってねぇと思ったよ。――だがな、ひとつだけ確かなことがある」
「ほう?」
「『お前が悪い』って、ことだ!」
リュイセンは武には恵まれた一方で、言葉のやり取りはからきしだ。けれど彼の鋭い感性は、一足飛びに本質を見抜く。
「お前が関わったことで、死んだ人間がいる。お前がした行動によって、悲しんだ人間がいる。――そんな非道を平気でやってのけたのは、『鷹刀ヘイシャオ』ではなくて『お前』自身だ。だから、『お前』が極悪人であることは間違いねぇんだよ!」
若き狼が牙をむき、咆哮を上げた。
自分が囚われの身であり、生殺与奪の権は相手にあるということは、リュイセンの頭に微塵にもなかった。否、たとえ理解していたとしても、彼は同じことを言っただろう。
たぎる炎の瞳で、彼は〈蝿〉を睨みつける。
「なるほど。嫌われたものですね」
〈蝿〉は、口元を軽く緩めたまま、くっくと喉を鳴らした。
「まぁ、あなたを説得するつもりはありませんでしたから、別によいですが。――ただ、ひとこと申し上げれば、あなたも私と大差ないのですよ?」
「なんだと!?」
「あなたと私が、初めて会ったときのことを覚えていますか?」
「初めて会ったとき……?」
確か、倭国から帰国した直後のことだ。
ミンウェイから『ルイフォンが殺される』と連絡を受け、空港から貧民街に急行した。そこに、ルイフォンとメイシアを襲う、〈蝿〉がいた。
「あなたはあのとき、藤咲メイシアを守ろうとする子猫に、こう言いました。『俺の個人的見解では、その貴族の女は即刻、見捨てるべきだと思っている』――と」
「……っ! あのときは、メイシアは全然、知らない奴だったから……」
「ええ、そうでしょう。凶賊のあなたにしてみれば、何故、貴族の娘を助けなければならないのか、疑問でしかなかったでしょう」
「……」
リュイセンは否定できなかった。それどころか、その後も、貴族を助けることはないと、イーレオに直談判したくらいだったのだ。
「あなたが先ほど口にした、私が関わったことで死んだ者たちとは、斑目の下っ端に、警察隊員、あの娘の父親である貴族……そんなところでしょう? いずれも鷹刀の敵です。勿論、だから死んでもよい、とまでは言いませんが、必要だったから利用した。その結果、死に至った。それだけのことです」
「ふざけるな!」
〈蝿〉の言葉は、あまりにも不快だった。
「俺を、お前なんかと一緒にするな! 少なくとも、俺は他人を利用したりしない!」
斬りつけるように叫ぶ。
愛刀を振るうが如く神速で、〈蝿〉の戯言を一刀両断にする。
〈蝿〉は――嗤っていた。
そのときになって初めて、リュイセンは、からかわれていたのだと気づいた。
「あなたが、蛇蝎の如く私を嫌うのは、仕方のないことですよね。何故なら、あなたは〈ベラドンナ〉に惚れ込んでいるのですから」
不意のひとことだった。
リュイセンは虚を衝かれ、完全に無防備な顔で動揺する。
「見ていれば分かりますよ。それに私だって、情報収集くらいします。以前、斑目の別荘で会ったとき、子猫が『あなたと〈ベラドンナ〉の結婚が決まった』と言っていました。その真偽を確かめさせたのですよ」
「……!」
それは、ルイフォンが〈蝿〉の隙を衝くためについた嘘だった。そして、調べたということは、奴だってミンウェイのことを気にしているということだ。
「正式に決まっているわけではないようですが、一族の中ではそう思われている。そんな状態でしょうか。もっとも、〈ベラドンナ〉のほうは、あなたを好いているのか……疑問ですけどね」
「……っ」
声を詰まらせたリュイセンに対し、実に愉快だ、と言わんばかりに〈蝿〉は目を細める。
「そんなあなたが、私に好意的になれるはずがありません。ですから私は、一方的に私の事情をお話しましょう」
〈蝿〉は、体を引いて自分の背後を示した。
そこには、白金の髪をなびかせながら眠る赤子――〈蝿〉が作った次代の王、『ライシェン』の硝子ケースがあった。今は固く閉じられた瞳が澄んだ青灰色をしているのは、ハオリュウに付けていた隠しカメラからの映像で確認済みだ。
「あなたは『ミンウェイ』ばかりを気にしていて、目の前にある、こちらの硝子ケースについては何も触れませんでしたね。この『ライシェン』は、どう見ても〈神の御子〉にしか見えない。如何にも、きな臭い匂いがするのに、あなたは言及しなかった」
リュイセンの顔を、〈蝿〉がじっと覗き込む。まるで視線に重さがあるかのように、見えない圧が掛かる。
「それはつまり、あなたにとって『ライシェン』は疑問を抱く対象ではなかったということです。――盗聴か何か、していましたね?」
「!」
「構いませんよ。むしろ、そのほうが説明が省けて楽です」
慌てて、取り繕うとしたリュイセンを、〈蝿〉が鼻で笑う。
「そう――『私』は、『ライシェン』を作るために目覚めさせられた。だから、『ライシェン』さえ出来てしまえば用済みなのですよ。機密保持のために、私は消されるでしょう」
淡々とした声が、かえって、深い怨嗟を帯びて聞こえた。
「けれど、そんな運命を受け入れられるわけがありません。何より、私はかつて、ミンウェイと約束を交わしたのです」
〈蝿〉の口元が少しだけ、揺れる。
「『生を享けた以上、生をまっとうする』。――私にとって、絶対の誓約です」
その顔は、静かに泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
「だからといって、『ライシェン』を作らなければ、それはそれで立場が悪くなる。それで私は、『ライシェン』を作り上げた上で、自分が生き残れるように『デヴァイン・シンフォニア計画』の最強の切り札を手に入れたいんですよ」
「切り札……?」
「言ったでしょう? 死の間際のホンシュアが、私にある重要な事実を打ち明けたと。あの話です」
「ああ……」
リュイセンは思い出し、不快げに眉を寄せる。
「『メイシアの正体』とか言って、ルイフォンに揺さぶりをかけまくっていたやつだな」
「揺さぶり? そうですね。多少は、私の想像も入っていたかもしれません。――ですが、真実は、あの子猫にとって、もっと残酷ですよ」
「ふん。お前の言うことなんか、信じねぇよ」
聞く耳持たぬと、リュイセンはベッドの上で向きを変えようとした。けれど、傷の痛む体は素直に動かず、結果、目を背けるにとどまる。
「ホンシュアも、私に託すのは不本意だったでしょうね」
リュイセンの態度に苦笑しながら、〈蝿〉は構わず話を続けた。
「けれど、仕方なかったのでしょう。彼女は『デヴァイン・シンフォニア計画』の水先案内人でした。それが、熱暴走による予定外の死を迎えるとなれば、計画続行のために自分の代理を立てる必要があったのです」
「はっ! それで、ホンシュアの代わりの水先案内人になったお前は、情報と引き換えに、俺に協力するよう、取り引きを持ちかけようとしている、ってわけか? あいにく俺は、〈悪魔〉と馴れ合うつもりはねぇよ!」
噛み付くリュイセンに、〈蝿〉はゆっくりと首を振った。
「私は、水先案内人ではありませんよ」
それは意外な言葉だった。もはや相手にすまいと決めたはずのリュイセンが、思わず「違うのか?」と口走る。
「ええ。ホンシュアが私に打ち明けたことは、『自分以外に、水先案内人になり得る者がいること』――すなわち、『自分以外にも、鷹刀セレイエの〈影〉がいる』ということですよ」
「は?」
リュイセンは、反射的に声を上げた。
ホンシュア以外にも、セレイエの〈影〉がいる。――是非ともルイフォンに報告したい、重要な情報だ。
そう思った瞬間、リュイセンは、自分が〈蝿〉の話に引き込まれていることに気づき、はっとする。
――これは虚言だ。相手にしたら破滅する、危険な罠だ。
「嘘をつくのはやめろ。俺は騙されないぞ。いい加減、黙れ、〈悪魔〉!」
言い捨てるリュイセンに、〈蝿〉の口角が上がった。
「『藤咲メイシア』ですよ」
低い声が、歌うようにメイシアの名を告げる。
それは聞こえた。聞こえたが、リュイセンには意味が通じない。
「何が、メイシアだと言うんだ?」
「分かりませんか?」
「だから、なんのことだ?」
「あの娘は、鷹刀の屋敷に向かう直前に、ホンシュアと接触しています。そのときに、『鷹刀セレイエ』の記憶を刻まれたんですよ。つまり――」
〈蝿〉は、ひと呼吸おき、ゆっくりと口を開く。
「藤咲メイシアは、『鷹刀セレイエの〈影〉』です」
「――!?」
リュイセンは目を見開いた。
耳朶を打った言葉が、じわりじわりと頭に広がっていく。
そんな、まさか。
あり得ないことだと、リュイセンの胸が騒ぎ立てる。
「でまかせも大概にしろ!」
ルイフォンとメイシアの、見ているほうが恥しくなるほどの仲睦まじさが、あれが偽りなどとは思えない。
眦を吊り上げたリュイセンに、〈蝿〉の言葉が更に続けられた。
「そして、彼女は、『最強の〈天使〉の器』。――つまり、切り札です」
美しい悪魔が、静かに微笑む。
頭が、割れるように痛んだ。
わけが分からない。
「メイシアが、セレイエの〈影〉? 〈天使〉の器……? 馬鹿なことを言うな。どう見たって、メイシアは、メイシアだろう?」
呟くように漏らせば、〈蝿〉が大仰に頷いた。
「ええ。今は、『藤咲メイシア』本人で間違いないでしょう。けれど、いずれ、あの娘は『藤咲メイシア』でなくなります」
「どういうことだ!?」
「私は〈天使〉に関しては専門外ですから、詳細は分かりません。ですが、ホンシュアによれば、王族の血を濃く引いたあの娘なら……」
その刹那――。
椅子に座っていた〈蝿〉の体が、ぐらりと前に倒れた。受け身を取ることすらできず、〈蝿〉は床に頭を打ち付ける。
「くっ……、はぁぁぁっ……」
額から流れ出る血には構わず、〈蝿〉は心臓を握りしめるようにして胸を抑えていた。苦悶の表情を浮かべ、必死に耐えるように荒い呼吸を繰り返す。
「どうしたんだ!?」
敵対する身であるとはいえ、ただならぬ様子にリュイセンも血相を変えた。
〈蝿〉は、美貌を苦痛に歪め、床を転がる。その様に、リュイセンはふと思い出した。
「〈悪魔〉を支配する『契約』……」
祖父イーレオが、〈七つの大罪〉の――王族の秘密に抵触する発言をしようとしたとき、同じように苦しんだ。『それ以上、言ったら、殺す』と、まるで警告を受けたかのように……。
「お前の、その状態は、『契約』のせいなのか?」
「ああ……、あなたは『契約』のことまで知っていたのですか」
自嘲するような口ぶりは、不様な姿を見せたとの気恥ずかしさだろうか。額の血と、汗とを拭いながら、〈蝿〉は答える。
「ええ、そうですよ。『契約』は脳に――記憶に刻まれる。だから、『鷹刀ヘイシャオ』が受けた支配の『契約』は、『私』にも引き継がれている……」
〈蝿〉の顔色は、紙のように白かった。それは本人も分かっているのだろう。苦しげな息を吐きながら「ここまでにしましょう」と言った。
「かなりの失血をした上に、あなたに輸血して……あなたの治療に付きっきりでしたから、限界です。続きは後日……あなたも、私も回復してから、改めて。……そのとき、〈ベラドンナ〉のことも、お話ししましょう」
「!?」
床の上で、〈蝿〉が薄く嗤った。
そして、声にもならないかすれた声で、唇の動きだけで言葉を紡ぐ――。
『『契約』に抵触までしたのですから、いくらあなたでも、はっきりと理解できたでしょう? ――私の言っていることが、真実であると……』
それは強がりからだったかもしれないが、〈蝿〉の雰囲気に呑まれないためには、効果的な措置だった。
なるほど――と、彼は思う。
〈蝿〉が――この場合は、過去に生きていた叔父の『ヘイシャオ』と呼ぶのが正しいのかもしれないが――妻を溺愛していたのは疑うべくもないようだ。義父にあたるイーレオが、生ぬるい態度を取っていたのも納得できる。
――だが自分は、ほだされたりなどしない!
リュイセンは、冷ややかな目で〈蝿〉を見つめた。
奴は危険だ。
彼の持つ野生の獣の勘が告げる。
純粋な戦闘なら〈蝿〉に負けることはない。けれど奴は、『悪魔』の知恵を持っている。今だって、『順を追って説明する』と言いながら、自分の流れに持っていっているように思える……。
「リュイセン」
そっと、名を囁かれた。
『小倅』ではなく、きちんと名前で呼ばれたのは初めてのような気がして、リュイセンは警戒に身を固くする。
「『私』と『ミンウェイ』は、寄り添って眠っていたのですよ。そこに、ホンシュアが――鷹刀セレイエの〈影〉が、押し入ってきて、強引に『私』を目覚めさせた。……『私』と『ミンウェイ』を引き離したのです」
〈蝿〉は拳を握りしめ、身を乗り出した。
その動きが電灯の光を遮り、伸びた影が、まるで黒い翼のように広がる。
「しかも、鷹刀セレイエ本人は姿を現さず、〈影〉のホンシュアを使い、虚言で私を操った。私は、大恩ある義父に刃まで向けて、……愚かな道化そのものです。――この屈辱、この怒り……、あなたに理解できますか?」
一族が脈々と受け継いできた、絶世の美貌が憎悪に染まる。
壮絶な微笑に、リュイセンの体の芯を、ひやりと冷たいものが駆け抜けた。
「すべての元凶は、鷹刀セレイエと『デヴァイン・シンフォニア計画』なのですよ」
闇に沈んだ瞳が、妖しく揺らめく。
「私は、復讐を誓います」
深い怨恨は熟成され、いっそ、まろやかな優しさすら帯びて、地下の研究室に甘く響き渡る。
悪魔に魅入られたように、リュイセンは〈蝿〉から目を離せなくなった。怪我のため、もとより体の自由は効かぬが、呼吸すらも止まりそうになり、気持ちの悪い汗が吹き出す。
〈蝿〉の視線が、まっすぐにリュイセンを捕らえた。
「ですから、リュイセン。あなたに、私の復讐に協力してもらいたいのです」
「!?」
リュイセンは、一瞬、呆けた。
荒唐無稽な〈蝿〉の弁を、刹那に理解することは不可能だったのだ。
「誰が、そんなことするか!」
ひと呼吸、遅れて吐き出した拒絶は、不自然なほどに大声となった。まるで虚勢を張っているようで情けないと、自分に苛立つ。
「そうですね。あなたにしてみれば、私に協力するいわれはない――ですか」
「当たり前だ! だいたい、お前はミンウェイを辱め、苦しめた極悪人だ。誰が、そんな奴に協力するか!」
その瞬間、〈蝿〉が、にやりと嗤った。
「おかしなことを言いますね。それは、『鷹刀ヘイシャオ』のしたことでしょう? 『私』は、『あなたのミンウェイ』には、会ったこともないのですよ?」
「――!」
「あなたは、私の外見に惑わされていませんか? 私はいわば、『生まれたばかり』。――なのに、この肉体に勝手に入れられた『記憶』のために、『鷹刀ヘイシャオの罪』は『私の罪』になるのですか?」
〈蝿〉が、緩やかに詰め寄る。
「私は、『鷹刀ヘイシャオ』とは、違う人間ですよ?」
「……っ!」
〈蝿〉と、死んだ鷹刀ヘイシャオは、『別人』――。
それは、リュイセンが散々、イーレオに食って掛かって言い続けたことだ。『血族の情に流されるな』などと、かなり生意気な口まできいた。
けれど――。
戯言だ。
リュイセンの直感が告げる。
もっともらしく聞こえるが、丸め込まれてはならない……。
〈蝿〉が、むかつく薄ら笑いを浮かべる。その顔に、強烈な反論をかましてやりたいが、口が達者ではないリュイセンは、うまい言葉を思いつけずに歯噛みする。
「リュイセン。あなたの言い分からすると、もしも、あなたの肉体に『鷹刀ヘイシャオの記憶』を入れられたら、『あなた』も罪人になる――ということですよ。そのとき、あなたは『自分の罪』として受け入れられるのですか?」
〈蝿〉の言葉に、悪寒が走った。おぞましさに総毛立つ。
「……そんなことになったら、それはもう、俺じゃねぇ! 〈影〉なんかにされたら……」
リュイセンは叫び、そして、はっと気づく。
「そうだ! お前の〈影〉にされた奴ら……。あいつらは、『お前のせい』で死んだ。『鷹刀ヘイシャオ』は関係ない。『お前の罪』だ!」
あのチンピラ警察隊員、緋扇シュアンは、〈影〉にされた先輩をその手で殺した。随分と親しい間柄だったようなのに、断腸の思いで決意した。緋扇の野郎は、いけ好かないが、その件だけは痛ましく思う。
「メイシアの父親だってそうだ。貴族の権力争いが原因じゃねぇ。あんな不幸な死に方をする羽目になったのは『お前のせい』だ! 全部、お前が悪い!」
「随分と乱暴な理屈ですね。それに、彼らを殺したのは私ではありませんよ?」
〈蝿〉が失笑を漏らす。
「ああ、俺も自分で言っていて、理屈なんか通ってねぇと思ったよ。――だがな、ひとつだけ確かなことがある」
「ほう?」
「『お前が悪い』って、ことだ!」
リュイセンは武には恵まれた一方で、言葉のやり取りはからきしだ。けれど彼の鋭い感性は、一足飛びに本質を見抜く。
「お前が関わったことで、死んだ人間がいる。お前がした行動によって、悲しんだ人間がいる。――そんな非道を平気でやってのけたのは、『鷹刀ヘイシャオ』ではなくて『お前』自身だ。だから、『お前』が極悪人であることは間違いねぇんだよ!」
若き狼が牙をむき、咆哮を上げた。
自分が囚われの身であり、生殺与奪の権は相手にあるということは、リュイセンの頭に微塵にもなかった。否、たとえ理解していたとしても、彼は同じことを言っただろう。
たぎる炎の瞳で、彼は〈蝿〉を睨みつける。
「なるほど。嫌われたものですね」
〈蝿〉は、口元を軽く緩めたまま、くっくと喉を鳴らした。
「まぁ、あなたを説得するつもりはありませんでしたから、別によいですが。――ただ、ひとこと申し上げれば、あなたも私と大差ないのですよ?」
「なんだと!?」
「あなたと私が、初めて会ったときのことを覚えていますか?」
「初めて会ったとき……?」
確か、倭国から帰国した直後のことだ。
ミンウェイから『ルイフォンが殺される』と連絡を受け、空港から貧民街に急行した。そこに、ルイフォンとメイシアを襲う、〈蝿〉がいた。
「あなたはあのとき、藤咲メイシアを守ろうとする子猫に、こう言いました。『俺の個人的見解では、その貴族の女は即刻、見捨てるべきだと思っている』――と」
「……っ! あのときは、メイシアは全然、知らない奴だったから……」
「ええ、そうでしょう。凶賊のあなたにしてみれば、何故、貴族の娘を助けなければならないのか、疑問でしかなかったでしょう」
「……」
リュイセンは否定できなかった。それどころか、その後も、貴族を助けることはないと、イーレオに直談判したくらいだったのだ。
「あなたが先ほど口にした、私が関わったことで死んだ者たちとは、斑目の下っ端に、警察隊員、あの娘の父親である貴族……そんなところでしょう? いずれも鷹刀の敵です。勿論、だから死んでもよい、とまでは言いませんが、必要だったから利用した。その結果、死に至った。それだけのことです」
「ふざけるな!」
〈蝿〉の言葉は、あまりにも不快だった。
「俺を、お前なんかと一緒にするな! 少なくとも、俺は他人を利用したりしない!」
斬りつけるように叫ぶ。
愛刀を振るうが如く神速で、〈蝿〉の戯言を一刀両断にする。
〈蝿〉は――嗤っていた。
そのときになって初めて、リュイセンは、からかわれていたのだと気づいた。
「あなたが、蛇蝎の如く私を嫌うのは、仕方のないことですよね。何故なら、あなたは〈ベラドンナ〉に惚れ込んでいるのですから」
不意のひとことだった。
リュイセンは虚を衝かれ、完全に無防備な顔で動揺する。
「見ていれば分かりますよ。それに私だって、情報収集くらいします。以前、斑目の別荘で会ったとき、子猫が『あなたと〈ベラドンナ〉の結婚が決まった』と言っていました。その真偽を確かめさせたのですよ」
「……!」
それは、ルイフォンが〈蝿〉の隙を衝くためについた嘘だった。そして、調べたということは、奴だってミンウェイのことを気にしているということだ。
「正式に決まっているわけではないようですが、一族の中ではそう思われている。そんな状態でしょうか。もっとも、〈ベラドンナ〉のほうは、あなたを好いているのか……疑問ですけどね」
「……っ」
声を詰まらせたリュイセンに対し、実に愉快だ、と言わんばかりに〈蝿〉は目を細める。
「そんなあなたが、私に好意的になれるはずがありません。ですから私は、一方的に私の事情をお話しましょう」
〈蝿〉は、体を引いて自分の背後を示した。
そこには、白金の髪をなびかせながら眠る赤子――〈蝿〉が作った次代の王、『ライシェン』の硝子ケースがあった。今は固く閉じられた瞳が澄んだ青灰色をしているのは、ハオリュウに付けていた隠しカメラからの映像で確認済みだ。
「あなたは『ミンウェイ』ばかりを気にしていて、目の前にある、こちらの硝子ケースについては何も触れませんでしたね。この『ライシェン』は、どう見ても〈神の御子〉にしか見えない。如何にも、きな臭い匂いがするのに、あなたは言及しなかった」
リュイセンの顔を、〈蝿〉がじっと覗き込む。まるで視線に重さがあるかのように、見えない圧が掛かる。
「それはつまり、あなたにとって『ライシェン』は疑問を抱く対象ではなかったということです。――盗聴か何か、していましたね?」
「!」
「構いませんよ。むしろ、そのほうが説明が省けて楽です」
慌てて、取り繕うとしたリュイセンを、〈蝿〉が鼻で笑う。
「そう――『私』は、『ライシェン』を作るために目覚めさせられた。だから、『ライシェン』さえ出来てしまえば用済みなのですよ。機密保持のために、私は消されるでしょう」
淡々とした声が、かえって、深い怨嗟を帯びて聞こえた。
「けれど、そんな運命を受け入れられるわけがありません。何より、私はかつて、ミンウェイと約束を交わしたのです」
〈蝿〉の口元が少しだけ、揺れる。
「『生を享けた以上、生をまっとうする』。――私にとって、絶対の誓約です」
その顔は、静かに泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
「だからといって、『ライシェン』を作らなければ、それはそれで立場が悪くなる。それで私は、『ライシェン』を作り上げた上で、自分が生き残れるように『デヴァイン・シンフォニア計画』の最強の切り札を手に入れたいんですよ」
「切り札……?」
「言ったでしょう? 死の間際のホンシュアが、私にある重要な事実を打ち明けたと。あの話です」
「ああ……」
リュイセンは思い出し、不快げに眉を寄せる。
「『メイシアの正体』とか言って、ルイフォンに揺さぶりをかけまくっていたやつだな」
「揺さぶり? そうですね。多少は、私の想像も入っていたかもしれません。――ですが、真実は、あの子猫にとって、もっと残酷ですよ」
「ふん。お前の言うことなんか、信じねぇよ」
聞く耳持たぬと、リュイセンはベッドの上で向きを変えようとした。けれど、傷の痛む体は素直に動かず、結果、目を背けるにとどまる。
「ホンシュアも、私に託すのは不本意だったでしょうね」
リュイセンの態度に苦笑しながら、〈蝿〉は構わず話を続けた。
「けれど、仕方なかったのでしょう。彼女は『デヴァイン・シンフォニア計画』の水先案内人でした。それが、熱暴走による予定外の死を迎えるとなれば、計画続行のために自分の代理を立てる必要があったのです」
「はっ! それで、ホンシュアの代わりの水先案内人になったお前は、情報と引き換えに、俺に協力するよう、取り引きを持ちかけようとしている、ってわけか? あいにく俺は、〈悪魔〉と馴れ合うつもりはねぇよ!」
噛み付くリュイセンに、〈蝿〉はゆっくりと首を振った。
「私は、水先案内人ではありませんよ」
それは意外な言葉だった。もはや相手にすまいと決めたはずのリュイセンが、思わず「違うのか?」と口走る。
「ええ。ホンシュアが私に打ち明けたことは、『自分以外に、水先案内人になり得る者がいること』――すなわち、『自分以外にも、鷹刀セレイエの〈影〉がいる』ということですよ」
「は?」
リュイセンは、反射的に声を上げた。
ホンシュア以外にも、セレイエの〈影〉がいる。――是非ともルイフォンに報告したい、重要な情報だ。
そう思った瞬間、リュイセンは、自分が〈蝿〉の話に引き込まれていることに気づき、はっとする。
――これは虚言だ。相手にしたら破滅する、危険な罠だ。
「嘘をつくのはやめろ。俺は騙されないぞ。いい加減、黙れ、〈悪魔〉!」
言い捨てるリュイセンに、〈蝿〉の口角が上がった。
「『藤咲メイシア』ですよ」
低い声が、歌うようにメイシアの名を告げる。
それは聞こえた。聞こえたが、リュイセンには意味が通じない。
「何が、メイシアだと言うんだ?」
「分かりませんか?」
「だから、なんのことだ?」
「あの娘は、鷹刀の屋敷に向かう直前に、ホンシュアと接触しています。そのときに、『鷹刀セレイエ』の記憶を刻まれたんですよ。つまり――」
〈蝿〉は、ひと呼吸おき、ゆっくりと口を開く。
「藤咲メイシアは、『鷹刀セレイエの〈影〉』です」
「――!?」
リュイセンは目を見開いた。
耳朶を打った言葉が、じわりじわりと頭に広がっていく。
そんな、まさか。
あり得ないことだと、リュイセンの胸が騒ぎ立てる。
「でまかせも大概にしろ!」
ルイフォンとメイシアの、見ているほうが恥しくなるほどの仲睦まじさが、あれが偽りなどとは思えない。
眦を吊り上げたリュイセンに、〈蝿〉の言葉が更に続けられた。
「そして、彼女は、『最強の〈天使〉の器』。――つまり、切り札です」
美しい悪魔が、静かに微笑む。
頭が、割れるように痛んだ。
わけが分からない。
「メイシアが、セレイエの〈影〉? 〈天使〉の器……? 馬鹿なことを言うな。どう見たって、メイシアは、メイシアだろう?」
呟くように漏らせば、〈蝿〉が大仰に頷いた。
「ええ。今は、『藤咲メイシア』本人で間違いないでしょう。けれど、いずれ、あの娘は『藤咲メイシア』でなくなります」
「どういうことだ!?」
「私は〈天使〉に関しては専門外ですから、詳細は分かりません。ですが、ホンシュアによれば、王族の血を濃く引いたあの娘なら……」
その刹那――。
椅子に座っていた〈蝿〉の体が、ぐらりと前に倒れた。受け身を取ることすらできず、〈蝿〉は床に頭を打ち付ける。
「くっ……、はぁぁぁっ……」
額から流れ出る血には構わず、〈蝿〉は心臓を握りしめるようにして胸を抑えていた。苦悶の表情を浮かべ、必死に耐えるように荒い呼吸を繰り返す。
「どうしたんだ!?」
敵対する身であるとはいえ、ただならぬ様子にリュイセンも血相を変えた。
〈蝿〉は、美貌を苦痛に歪め、床を転がる。その様に、リュイセンはふと思い出した。
「〈悪魔〉を支配する『契約』……」
祖父イーレオが、〈七つの大罪〉の――王族の秘密に抵触する発言をしようとしたとき、同じように苦しんだ。『それ以上、言ったら、殺す』と、まるで警告を受けたかのように……。
「お前の、その状態は、『契約』のせいなのか?」
「ああ……、あなたは『契約』のことまで知っていたのですか」
自嘲するような口ぶりは、不様な姿を見せたとの気恥ずかしさだろうか。額の血と、汗とを拭いながら、〈蝿〉は答える。
「ええ、そうですよ。『契約』は脳に――記憶に刻まれる。だから、『鷹刀ヘイシャオ』が受けた支配の『契約』は、『私』にも引き継がれている……」
〈蝿〉の顔色は、紙のように白かった。それは本人も分かっているのだろう。苦しげな息を吐きながら「ここまでにしましょう」と言った。
「かなりの失血をした上に、あなたに輸血して……あなたの治療に付きっきりでしたから、限界です。続きは後日……あなたも、私も回復してから、改めて。……そのとき、〈ベラドンナ〉のことも、お話ししましょう」
「!?」
床の上で、〈蝿〉が薄く嗤った。
そして、声にもならないかすれた声で、唇の動きだけで言葉を紡ぐ――。
『『契約』に抵触までしたのですから、いくらあなたでも、はっきりと理解できたでしょう? ――私の言っていることが、真実であると……』