残酷な描写あり
6.蒼天を斬り裂く雷鳴-2
結局、朝食も摂らずに、午前中ずっと熟睡していたルイフォンであったが、さすがに昼過ぎには目を覚ました。腹が減ったためである。
ベッドから体を起こすと、テーブルにサンドイッチが載っているのが見えた。
寝ている彼のために、メイシアが用意してくれたものらしい。流麗な文字のメモが添えられており、声を掛けても起きなかった彼に対して、疲れているのではないかと気遣う言葉と、午後から会議があるので、そのときにまた来るという連絡が書かれていた。
ルイフォンは、サンドイッチをつまみながら時計を見る。会議の時間まで、余裕があるとはいい難いが、慌てるほどではないだろう。
「結構、寝たな」
メイシアは疲労を心配してくれたようだが、おそらくただの寝不足だ。
本当なら、今日はメイシアと共に、〈蝿〉のところに乗り込む予定だった。緊張で眠れなかったわけではないが、眠りが浅かったのは事実だ。そこにリュイセンが戻ってきて、安心して気が抜けたのだ。
「さて……」
状況は一変した。
偽りの『和解』で〈蝿〉を騙す、という作戦は延期、または中止にすると、寝る前にイーレオと話してある。おそらく、廃案にするしかないだろう。
『和解』などという、あり得ないような申し出は、リュイセンが囚われている状態であって初めて、真実味が出る。なんとしてでも、リュイセンを解放してほしいという、こちらの切実な思いがあればこそ、〈蝿〉を騙せるのだ。
事情が変わった今、成功率は格段に落ちる。となれば、メイシアを危険に晒すこの策を実行に移すわけにはいかない。
では、どうするか。
ルイフォンは、保温ポットに入っていた紅茶を飲みながら思案する。猫舌の彼のために、ほどよく中身が冷まされていることには、残念ながら気づかないのであった。
会議の時間となり、執務室にいつもの顔ぶれがそろった。その中にリュイセンの黄金比の美貌があるのを見て、ルイフォンは心が落ち着くのを感じる。兄貴分のいない一週間は、やはり堪えたようだ。
「皆、集まったな」
イーレオの魅惑の低音が響いた。
「言うまでもないだろうが、この通り、リュイセンが戻ってきた」
水を向けられたリュイセンは、恐縮したように立ち上がり、「ご心配おかけしました」と深く頭を下げた。けれど、堅苦しいのは彼だけで、皆は思い思いの安堵の表情を浮かべる。
――否。
イーレオだけが、微妙な具合いに口角を上げた。
「リュイセンは大手を振って作戦に臨んだにも関わらず、失敗に終わった。その罰は、与えねばならない」
心地の良い美声。しかし、その内容は誰の予想をも裏切っていた。皆の吐息が、困惑に揺れる。
「如何な処罰も覚悟の上です」
硬い顔でリュイセンが答えた。そこに鋭く「待てよ、親父」と、ルイフォンが割り込む。
「今回の失敗は『リュイセンと俺の、ふたり』が招いた結果だと、前に言っていたよな? それで、俺のことを不問に付したなら、リュイセンも同じでいいはずだろ?」
「それは違うな」
イーレオは、にやりと瞳を光らせた。
「お前は『〈猫〉』であり、鷹刀の人間ではないから、俺には処罰できないと言ったはずだ。だが、リュイセンは鷹刀の者だ。俺は総帥として罰せねばならない」
「――!」
確かに筋は通っている。だが、納得はできない。
なおも反論を続けようとするルイフォンに、イーレオがぴしゃりと言い放つ。
「部外者は口出ししないでもらおう」
そう言われてしまえば押し黙るしかない。ルイフォンが「分かった」と引き下がると、イーレオは涼やかに処罰を告げた。
「追放だ」
「……っ」
リュイセンが唾を呑んだ。しかし、すぐに再び深く頭を下げる。
「謹んでお受け……」
「――と、言いたいところだが、チャンスをやろう」
単細胞があっさり掛かりおったな、と言わんばかりの尊大な仕草で、イーレオはソファーに背を預けた。顎をしゃくり、心なしか楽しげに続ける。
「〈蝿〉を討ち取ってこい。それを果たせば文句はない」
「!?」
その場に立ち尽くしたまま、リュイセンは目を見開いた。そんな彼に、イーレオはにやりと笑う。
「いいか、リュイセン。今回の失敗によって、絶好の機会をフイにした、お前の罪は大きい。だが、お前が無事に戻った以上、こちらの被害はないともいえる。だから大目に見て、このくらいが妥当だろう」
イーレオが弓なりに瞳を細めると、緊迫した空気が緩む。そして、ルイフォンは理解した。
もとより、兄貴分は〈蝿〉との再戦を望んでいるはずだ。ならば、この『処罰』は結局のところ『不問に付す』と同義だ。イーレオは総帥の立場上、形だけは罰した――ということだ。
――面倒臭ぇ……。
ルイフォンは心底そう思ったが、『部外者』なので顔にも口にも出さずに、神妙な傍観者に徹し……ようとして、はたと気づく。
「おい、待てよ。〈蝿〉を討ち取っちまったら、情報を聞き出せねぇだろ! ――『対等な協力者』〈猫〉として意見させてもらう。それは困る!」
「ああ、俺もそう思ったんだが、処罰なら『捕らえろ』よりも『討ち取れ』のほうが格好いいかと……」
すっとぼけたことを言うイーレオに、ルイフォンが突っ込む。
「格好の問題じゃねぇだろ!」
「では仕方ない。リュイセン。〈蝿〉を捕らえて情報を聞き出し、〈猫〉を黙らせろ」
あんまりなイーレオの物言いに、ルイフォンは再度、噛み付こうとして……ぐっとこらえた。イーレオは、ルイフォンをからかっているだけだ。おそらく、場を和ませるために。
これは貸しだぞ、と眇めた目で見やれば、イーレオは、わずかに口元を緩めた。どうやら、伝わったらしい。さすが、総帥。――というわけではなく、単に似た者同士の以心伝心だろう。
イーレオは、ぱん、と手を打ち鳴らした。
「処罰の件は、これまでだ。――現状を確認するぞ」
ひとり掛けのソファーを占拠する彼は、優雅に足を組む。今までとは打って変わった王者の眼差しで一同を睥睨すると、艷やかな黒髪が付き従うようにさらりと流れた。
「〈猫〉」
人を惹きつけてやまない、魅惑の声がルイフォンを呼ぶ。
「リュイセンは〈蝿〉によって『わざと』解放されたのだという、お前の推測。皆に説明してくれ」
「!」
リュイセンが驚愕に震えた。血の気が失せ、もとから良くなかった顔色が更に白くなる。
当然だろう。兄貴分は、タオロンが助けてくれたものと信じていたはずだ。
ルイフォンは座ったまま一礼をすると、瞳を鋭く光らせる。猫のように、くるくると変わる豊かな表情が抜け落ち、硬質な〈猫〉の顔が現れた。
「これは、今朝、リュイセンと話したあとで、俺が気づいたことだ。親父には、既に報告してあって、この推測は正しいだろうと同意を得ている」
冴え冴えとしたテノールを響かせ、ルイフォンは話し始めた。
「……――勿論、これは、あくまでも推測だ。確証はない。けれど、辻褄は合うと思う」
ルイフォンは、そう締めくくり、イーレオに視線を投げる。イーレオは大仰に頷くと、皆の顔を見ながら、あとを引き継いだ。
「〈猫〉の推測に、ほころびを見つけた者はいるか?」
手を挙げる者は、誰もなかった。
それを確認すると、イーレオは「――では、リュイセン」と、地底を揺るがすような低音を轟かせる。
「お前は〈蝿〉に、何を吹き込まれた?」
感情の読めない、凍てつく響きに、リュイセンの肩が、ぴくりと上がった。
「帰ってきたときから、お前は明らかにおかしかった」
「……」
「それは分かっていたが、生死をさまようような大怪我を経て、一週間ぶりに戻ってきたのだ。いきなり問い詰めるのは、あまりにも恩情に薄かろう。だから、待ってやった」
だが、そろそろ、お前のほうから話すべきだろう? ――有無を言わせぬイーレオの瞳が、冷たくリュイセンを捕らえる。
「……っ」
「リュイセン、なんで隠すんだよ?」
ルイフォンには、兄貴分が口を閉ざす理由が分からない。
「お前が〈蝿〉から、『良くない知らせ』を聞いたことは分かっている。……それは、メイシアに関することなんだろ?」
リュイセンの眉が動いた。
「隠しても無駄だぜ? 顔に出ている」
刀を手にすれば、気配は勿論、感情だって無にできる兄貴分だが、普段の生活では隙だらけだ。だからルイフォンは、高圧的に打って出る。多少のブラフを含みつつ、余裕の顔でリュイセンに迫る。
「〈蝿〉がお前に教えたのは、俺に向かって、奴が散々、口にしていた『メイシアの正体』――だろ?」
「――!」
「当たりだな」
吐き出した声には溜め息が混じっていた。
ルイフォンは隣に座るメイシアの肩を引き寄せ、黒絹の髪をくしゃりと撫でた。会議に赴く前に、あらかじめ彼女には『良くない知らせ』のことも含めて推測を話しておいた。だが、ショックであることに変わりないだろう。
「リュイセンは、俺やメイシアを気遣ったんだろうけどさ……」
必要以上に強硬な姿勢は逆効果と、ルイフォンは少し言葉を和らげる。彼にしても、別に兄貴分を責め立てたいわけではないのだ。
「さっきも説明した通り、リュイセンが解放されたこと自体が〈蝿〉の策略で、『メイシアの正体』ってやつも、俺たちを混乱させるための虚偽である可能性が高い」
「……」
「だから俺は、奴の言葉を信じるために、奴の言う『メイシアの正体』を知りたいわけじゃない。奴が、その虚偽を口にした、その裏にある意図を読み解いて、奴の目的を探りたいんだ」
好戦的な猫の目が、リュイセンに向けられる。けれど、その視線で睨みつけているのは兄貴分ではなくて、兄貴分を使って何かを企んでいる〈蝿〉だ。
リュイセンは……耐えきれなくなったかのようにルイフォンから目をそらし、ぎりりと奥歯を噛んだ。そして、拳を握りしめ、ゆっくりと口を開く。
「メイシアは、『セレイエの〈影〉』だそうだ……」
「……はぁっ!?」
ルイフォンは間抜けな声を上げた。
次に来るのは衝撃か、はたまた驚愕か。――虚偽に違いないと思ってはいても、それなりに信憑性の高そうな話が来るはずだと予想していた。それが……。
「なんだよ、それ? あり得ねぇだろ!」
馬鹿馬鹿しすぎて、開いた口がふさがらない。リュイセンも、どうしてこんな大嘘を信じたのやら、理解に苦しむ。
しかし兄貴分は、噛み付くように言い返してきた。
「俺だって、〈蝿〉にそう言った! そしたら、『今はメイシア本人だけど、いずれメイシアでなくなる』と……」
「え……?」
不意打ちのような、言葉。
どういう意味だと、リュイセンに詰め寄ろうとして、ルイフォンは気づく。
「なるほど。そんな、もっともらしい言い方をされたから、リュイセンは信じたわけか」
「違う!」
リュイセンは、強く否定する。黄金比の美貌を歪め、しかし、はっきりと告げる。
「〈蝿〉に〈悪魔〉の『契約』が発動した。『王族の血を濃く引いた、あの娘なら』――そう言いかけたところで苦しみ始めた」
「王族の血……?」
「ああ。メイシアは『最強の〈天使〉の器』だから切り札になる。そんなことも言っていた」
「なっ……! なんだよ、それ!?」
耳鳴りがした。胸が騒ぐ。理由も分からずに、全身が総毛立つ。
そして無意識にメイシアを抱き寄せた。白蝋のような顔をした彼女は、されるがままに彼の胸に収まる。
王族の血を引く、貴族の娘メイシアと、凶賊の息子のルイフォン。
天と地とが手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いは、『デヴァイン・シンフォニア計画』によって仕組まれたものだ――。
「メイシアが王族の血を引いているから……? だから、メイシアは『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込まれたっていうのか!? 王族が何か特別だというのかよ!?」
――メイシアを奪われてなるものか!
ルイフォンの本能がそう思い、彼女を強く抱きしめる。彼女もまた、彼の腕の中で必死に彼にしがみつく。
そのとき――。
「ルイフォン!」
鋭い低音が、咎めるように彼の耳を打った。
その声を、誰が発したのか。同じ声質を持つ者が多数いる中で、ルイフォンは、にわかには判別がつかない。
反射的に顔を上げ、目に映ったのが――。
「父上! 考えてはいけません!」
胸を押さえ、体をくの字に折り曲げたイーレオ。そして、駆け寄るエルファン。
エルファンがこちらを振り返り、普段の彼からは想像できないほどに慌てた様子で叫ぶ。
「ルイフォン! お前の言葉は王族の『秘密』を訊いたのと同じことだ!」
「エルファン……」
厳しい、けれども、もっともな叱責だった。
〈蝿〉にとって『契約』に抵触する話ならば、当然、〈悪魔〉の〈獅子〉であったイーレオにも『契約』は発動する。
殺気すら含んだ険しい声で、エルファンが告げる。
「〈天使〉についてならば、私が知っている。王族の血を引く者が〈天使〉になれば、強い力を持つのは本当だ」
「え……?」
「お前の母、キリファがそう言っていた。――もう、いいだろう。これ以上、この件に触れるのは危険だ」
――結局。
『考えなければ大丈夫だ』と、脂汗を流しながら笑うイーレオを無視して、エルファンが強引に会議の終了を宣言したのだった。
ベッドから体を起こすと、テーブルにサンドイッチが載っているのが見えた。
寝ている彼のために、メイシアが用意してくれたものらしい。流麗な文字のメモが添えられており、声を掛けても起きなかった彼に対して、疲れているのではないかと気遣う言葉と、午後から会議があるので、そのときにまた来るという連絡が書かれていた。
ルイフォンは、サンドイッチをつまみながら時計を見る。会議の時間まで、余裕があるとはいい難いが、慌てるほどではないだろう。
「結構、寝たな」
メイシアは疲労を心配してくれたようだが、おそらくただの寝不足だ。
本当なら、今日はメイシアと共に、〈蝿〉のところに乗り込む予定だった。緊張で眠れなかったわけではないが、眠りが浅かったのは事実だ。そこにリュイセンが戻ってきて、安心して気が抜けたのだ。
「さて……」
状況は一変した。
偽りの『和解』で〈蝿〉を騙す、という作戦は延期、または中止にすると、寝る前にイーレオと話してある。おそらく、廃案にするしかないだろう。
『和解』などという、あり得ないような申し出は、リュイセンが囚われている状態であって初めて、真実味が出る。なんとしてでも、リュイセンを解放してほしいという、こちらの切実な思いがあればこそ、〈蝿〉を騙せるのだ。
事情が変わった今、成功率は格段に落ちる。となれば、メイシアを危険に晒すこの策を実行に移すわけにはいかない。
では、どうするか。
ルイフォンは、保温ポットに入っていた紅茶を飲みながら思案する。猫舌の彼のために、ほどよく中身が冷まされていることには、残念ながら気づかないのであった。
会議の時間となり、執務室にいつもの顔ぶれがそろった。その中にリュイセンの黄金比の美貌があるのを見て、ルイフォンは心が落ち着くのを感じる。兄貴分のいない一週間は、やはり堪えたようだ。
「皆、集まったな」
イーレオの魅惑の低音が響いた。
「言うまでもないだろうが、この通り、リュイセンが戻ってきた」
水を向けられたリュイセンは、恐縮したように立ち上がり、「ご心配おかけしました」と深く頭を下げた。けれど、堅苦しいのは彼だけで、皆は思い思いの安堵の表情を浮かべる。
――否。
イーレオだけが、微妙な具合いに口角を上げた。
「リュイセンは大手を振って作戦に臨んだにも関わらず、失敗に終わった。その罰は、与えねばならない」
心地の良い美声。しかし、その内容は誰の予想をも裏切っていた。皆の吐息が、困惑に揺れる。
「如何な処罰も覚悟の上です」
硬い顔でリュイセンが答えた。そこに鋭く「待てよ、親父」と、ルイフォンが割り込む。
「今回の失敗は『リュイセンと俺の、ふたり』が招いた結果だと、前に言っていたよな? それで、俺のことを不問に付したなら、リュイセンも同じでいいはずだろ?」
「それは違うな」
イーレオは、にやりと瞳を光らせた。
「お前は『〈猫〉』であり、鷹刀の人間ではないから、俺には処罰できないと言ったはずだ。だが、リュイセンは鷹刀の者だ。俺は総帥として罰せねばならない」
「――!」
確かに筋は通っている。だが、納得はできない。
なおも反論を続けようとするルイフォンに、イーレオがぴしゃりと言い放つ。
「部外者は口出ししないでもらおう」
そう言われてしまえば押し黙るしかない。ルイフォンが「分かった」と引き下がると、イーレオは涼やかに処罰を告げた。
「追放だ」
「……っ」
リュイセンが唾を呑んだ。しかし、すぐに再び深く頭を下げる。
「謹んでお受け……」
「――と、言いたいところだが、チャンスをやろう」
単細胞があっさり掛かりおったな、と言わんばかりの尊大な仕草で、イーレオはソファーに背を預けた。顎をしゃくり、心なしか楽しげに続ける。
「〈蝿〉を討ち取ってこい。それを果たせば文句はない」
「!?」
その場に立ち尽くしたまま、リュイセンは目を見開いた。そんな彼に、イーレオはにやりと笑う。
「いいか、リュイセン。今回の失敗によって、絶好の機会をフイにした、お前の罪は大きい。だが、お前が無事に戻った以上、こちらの被害はないともいえる。だから大目に見て、このくらいが妥当だろう」
イーレオが弓なりに瞳を細めると、緊迫した空気が緩む。そして、ルイフォンは理解した。
もとより、兄貴分は〈蝿〉との再戦を望んでいるはずだ。ならば、この『処罰』は結局のところ『不問に付す』と同義だ。イーレオは総帥の立場上、形だけは罰した――ということだ。
――面倒臭ぇ……。
ルイフォンは心底そう思ったが、『部外者』なので顔にも口にも出さずに、神妙な傍観者に徹し……ようとして、はたと気づく。
「おい、待てよ。〈蝿〉を討ち取っちまったら、情報を聞き出せねぇだろ! ――『対等な協力者』〈猫〉として意見させてもらう。それは困る!」
「ああ、俺もそう思ったんだが、処罰なら『捕らえろ』よりも『討ち取れ』のほうが格好いいかと……」
すっとぼけたことを言うイーレオに、ルイフォンが突っ込む。
「格好の問題じゃねぇだろ!」
「では仕方ない。リュイセン。〈蝿〉を捕らえて情報を聞き出し、〈猫〉を黙らせろ」
あんまりなイーレオの物言いに、ルイフォンは再度、噛み付こうとして……ぐっとこらえた。イーレオは、ルイフォンをからかっているだけだ。おそらく、場を和ませるために。
これは貸しだぞ、と眇めた目で見やれば、イーレオは、わずかに口元を緩めた。どうやら、伝わったらしい。さすが、総帥。――というわけではなく、単に似た者同士の以心伝心だろう。
イーレオは、ぱん、と手を打ち鳴らした。
「処罰の件は、これまでだ。――現状を確認するぞ」
ひとり掛けのソファーを占拠する彼は、優雅に足を組む。今までとは打って変わった王者の眼差しで一同を睥睨すると、艷やかな黒髪が付き従うようにさらりと流れた。
「〈猫〉」
人を惹きつけてやまない、魅惑の声がルイフォンを呼ぶ。
「リュイセンは〈蝿〉によって『わざと』解放されたのだという、お前の推測。皆に説明してくれ」
「!」
リュイセンが驚愕に震えた。血の気が失せ、もとから良くなかった顔色が更に白くなる。
当然だろう。兄貴分は、タオロンが助けてくれたものと信じていたはずだ。
ルイフォンは座ったまま一礼をすると、瞳を鋭く光らせる。猫のように、くるくると変わる豊かな表情が抜け落ち、硬質な〈猫〉の顔が現れた。
「これは、今朝、リュイセンと話したあとで、俺が気づいたことだ。親父には、既に報告してあって、この推測は正しいだろうと同意を得ている」
冴え冴えとしたテノールを響かせ、ルイフォンは話し始めた。
「……――勿論、これは、あくまでも推測だ。確証はない。けれど、辻褄は合うと思う」
ルイフォンは、そう締めくくり、イーレオに視線を投げる。イーレオは大仰に頷くと、皆の顔を見ながら、あとを引き継いだ。
「〈猫〉の推測に、ほころびを見つけた者はいるか?」
手を挙げる者は、誰もなかった。
それを確認すると、イーレオは「――では、リュイセン」と、地底を揺るがすような低音を轟かせる。
「お前は〈蝿〉に、何を吹き込まれた?」
感情の読めない、凍てつく響きに、リュイセンの肩が、ぴくりと上がった。
「帰ってきたときから、お前は明らかにおかしかった」
「……」
「それは分かっていたが、生死をさまようような大怪我を経て、一週間ぶりに戻ってきたのだ。いきなり問い詰めるのは、あまりにも恩情に薄かろう。だから、待ってやった」
だが、そろそろ、お前のほうから話すべきだろう? ――有無を言わせぬイーレオの瞳が、冷たくリュイセンを捕らえる。
「……っ」
「リュイセン、なんで隠すんだよ?」
ルイフォンには、兄貴分が口を閉ざす理由が分からない。
「お前が〈蝿〉から、『良くない知らせ』を聞いたことは分かっている。……それは、メイシアに関することなんだろ?」
リュイセンの眉が動いた。
「隠しても無駄だぜ? 顔に出ている」
刀を手にすれば、気配は勿論、感情だって無にできる兄貴分だが、普段の生活では隙だらけだ。だからルイフォンは、高圧的に打って出る。多少のブラフを含みつつ、余裕の顔でリュイセンに迫る。
「〈蝿〉がお前に教えたのは、俺に向かって、奴が散々、口にしていた『メイシアの正体』――だろ?」
「――!」
「当たりだな」
吐き出した声には溜め息が混じっていた。
ルイフォンは隣に座るメイシアの肩を引き寄せ、黒絹の髪をくしゃりと撫でた。会議に赴く前に、あらかじめ彼女には『良くない知らせ』のことも含めて推測を話しておいた。だが、ショックであることに変わりないだろう。
「リュイセンは、俺やメイシアを気遣ったんだろうけどさ……」
必要以上に強硬な姿勢は逆効果と、ルイフォンは少し言葉を和らげる。彼にしても、別に兄貴分を責め立てたいわけではないのだ。
「さっきも説明した通り、リュイセンが解放されたこと自体が〈蝿〉の策略で、『メイシアの正体』ってやつも、俺たちを混乱させるための虚偽である可能性が高い」
「……」
「だから俺は、奴の言葉を信じるために、奴の言う『メイシアの正体』を知りたいわけじゃない。奴が、その虚偽を口にした、その裏にある意図を読み解いて、奴の目的を探りたいんだ」
好戦的な猫の目が、リュイセンに向けられる。けれど、その視線で睨みつけているのは兄貴分ではなくて、兄貴分を使って何かを企んでいる〈蝿〉だ。
リュイセンは……耐えきれなくなったかのようにルイフォンから目をそらし、ぎりりと奥歯を噛んだ。そして、拳を握りしめ、ゆっくりと口を開く。
「メイシアは、『セレイエの〈影〉』だそうだ……」
「……はぁっ!?」
ルイフォンは間抜けな声を上げた。
次に来るのは衝撃か、はたまた驚愕か。――虚偽に違いないと思ってはいても、それなりに信憑性の高そうな話が来るはずだと予想していた。それが……。
「なんだよ、それ? あり得ねぇだろ!」
馬鹿馬鹿しすぎて、開いた口がふさがらない。リュイセンも、どうしてこんな大嘘を信じたのやら、理解に苦しむ。
しかし兄貴分は、噛み付くように言い返してきた。
「俺だって、〈蝿〉にそう言った! そしたら、『今はメイシア本人だけど、いずれメイシアでなくなる』と……」
「え……?」
不意打ちのような、言葉。
どういう意味だと、リュイセンに詰め寄ろうとして、ルイフォンは気づく。
「なるほど。そんな、もっともらしい言い方をされたから、リュイセンは信じたわけか」
「違う!」
リュイセンは、強く否定する。黄金比の美貌を歪め、しかし、はっきりと告げる。
「〈蝿〉に〈悪魔〉の『契約』が発動した。『王族の血を濃く引いた、あの娘なら』――そう言いかけたところで苦しみ始めた」
「王族の血……?」
「ああ。メイシアは『最強の〈天使〉の器』だから切り札になる。そんなことも言っていた」
「なっ……! なんだよ、それ!?」
耳鳴りがした。胸が騒ぐ。理由も分からずに、全身が総毛立つ。
そして無意識にメイシアを抱き寄せた。白蝋のような顔をした彼女は、されるがままに彼の胸に収まる。
王族の血を引く、貴族の娘メイシアと、凶賊の息子のルイフォン。
天と地とが手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いは、『デヴァイン・シンフォニア計画』によって仕組まれたものだ――。
「メイシアが王族の血を引いているから……? だから、メイシアは『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込まれたっていうのか!? 王族が何か特別だというのかよ!?」
――メイシアを奪われてなるものか!
ルイフォンの本能がそう思い、彼女を強く抱きしめる。彼女もまた、彼の腕の中で必死に彼にしがみつく。
そのとき――。
「ルイフォン!」
鋭い低音が、咎めるように彼の耳を打った。
その声を、誰が発したのか。同じ声質を持つ者が多数いる中で、ルイフォンは、にわかには判別がつかない。
反射的に顔を上げ、目に映ったのが――。
「父上! 考えてはいけません!」
胸を押さえ、体をくの字に折り曲げたイーレオ。そして、駆け寄るエルファン。
エルファンがこちらを振り返り、普段の彼からは想像できないほどに慌てた様子で叫ぶ。
「ルイフォン! お前の言葉は王族の『秘密』を訊いたのと同じことだ!」
「エルファン……」
厳しい、けれども、もっともな叱責だった。
〈蝿〉にとって『契約』に抵触する話ならば、当然、〈悪魔〉の〈獅子〉であったイーレオにも『契約』は発動する。
殺気すら含んだ険しい声で、エルファンが告げる。
「〈天使〉についてならば、私が知っている。王族の血を引く者が〈天使〉になれば、強い力を持つのは本当だ」
「え……?」
「お前の母、キリファがそう言っていた。――もう、いいだろう。これ以上、この件に触れるのは危険だ」
――結局。
『考えなければ大丈夫だ』と、脂汗を流しながら笑うイーレオを無視して、エルファンが強引に会議の終了を宣言したのだった。