残酷な描写あり
6.蒼天を斬り裂く雷鳴-3
総帥イーレオが、〈悪魔〉を支配する『契約』で体調を崩し、次期総帥エルファンによって会議は強制的に終了、解散となった。
王族や〈天使〉の話が出てきて、メイシアが『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込まれた理由が掴めそうになってきた矢先の、あっけない幕切れだった。
ルイフォンとしては当然、消化不良気味だが、傍らのメイシアの様子を見ると、ちょうどよかったのかもしれないと思う。
彼女は、ルイフォンの服の端をぎゅっと握りしめたまま、身じろぎもしなかった。シャツ越しに体温を感じられるのに、青ざめた顔には温度がない。綺麗な薄紅色をしているはずの唇も、色を失っていた。
「メイシア、行こう」
彼女を促し、執務室をあとにする。
廊下に出ると、窓の外がやけに暗かった。黒い雲が空を覆い、今にも雨が降り出しそうである。昼までの青空が嘘のようだった。
嫌な天気だ。――曇天を見上げ、ルイフォンは思う。まるで、彼の心情を写し取ったかのようで、気が滅入る。
「ルイフォン、メイシア」
後ろから呼び止められた。ふたりに続いて、部屋を出てきたリュイセンである。彼は、きまり悪そうに肩をすぼめ、「すまん」と頭を下げた。
「なんで、お前が謝るんだよ?」
「いや……、……」
ほんの少し強めの口調で問えば、リュイセンは口ごもって押し黙る。
疑問の形で返しはしたが、兄貴分の気持ちは分かるのだ。生真面目な彼は、あの場に暗雲を持ち込んだ責任を感じているのだろう。
「そりゃ、お前が報告した『良くない知らせ』は、聞かされて楽しい話じゃなかった。けど、お前が悪いわけじゃねぇだろ。むしろ、重要な情報だった。感謝している」
「……っ」
リュイセンは戸惑うような様子を見せ、わずかに口を開きかけた。しかし、うまく言葉にならなかったのか、再び「すまん」と呟く。
そのとき、ルイフォンの隣から、メイシアがするりと躍り出た。
「リュイセン。今、料理長がご馳走を用意しているんです」
「!?」
唐突な彼女の発言に、リュイセンは勿論、ルイフォンもきょとんとする。
「リュイセンが、無事に帰ってきたお祝いです」
メイシアは、特別な秘密を打ち明けるような小声でそっと囁き、ふわりと笑った。
優しげで、ほんの少しだけいたずらっぽくて、思わず魅入られてしまいそうな可愛らしい笑顔である。先ほどまでの白蝋のような顔をした彼女とは、まったくの別人だった。
「いや、祝うようなことではないだろう……」
ぼそぼそと言うリュイセンに、メイシアは畳み掛けた。
「会議では、驚くような情報も入ってきましたが、今日はリュイセンが戻ってきた、とても嬉しい、良い日なんです」
柔らかでありながら異論を許さぬメイシアの迫力に、剛の者のリュイセンがたじろぐ。
「だから、そんな浮かない顔をしないでください。これからのことは、これから皆で考えればいいんですから」
「……ありがとう」
リュイセンの低音は、頼りなげにかすれていた。けれども彼は、不器用な笑みを無理やりたたえる。メイシアの弁に同意はできないが、気遣いには感謝している。そんな心の内が手に取るように分かった。
「晩を楽しみにしていてくださいね。私も、微力ながらお手伝いしてまいります」
メイシアがそう言って一歩下がると、ルイフォンもすかさず「そういうことだ」と乗じた。
「それじゃ、またあとでな」
さっとメイシアの肩を抱き、リュイセンの前を立ち去る。しつこく言っても押し問答になるだけだからだ。
それに……。
――俺以外の奴に、あんないい笑顔を向けるな。
見苦しい嫉妬だと分かっているが、それでも面白くないものは面白くないのであった。
その後、ルイフォンは、厨房にメイシアを送っていった。
先ほどまで顔色が悪かったのだから少し休んだらどうか、と勧めたのだが、申し訳なさそうに「ごめんなさい」と断られてしまった。彼女のことだ。料理長が大変というよりも、リュイセンの帰還を積極的に祝いたいという、優しい気持ちからの行動なのだろう。
「ルイフォン、さっきはありがとう」
もうすぐ厨房に着くというところで、不意にメイシアが言った。
「さっき?」
「会議のとき。私が王族の血を引いているから何かあるという話になったときに、そのっ……抱き寄せてくれて」
さぁっと耳まで赤く染めながら、顔を隠すようにうつむき、「心強かったし、何より嬉しかったの」と、彼女は告げる。
「あ……。いや、あれは俺の無意識だ。たぶん、王族がどうのとかで、お前を遠い存在にされるのが嫌で……お前は俺のところに居ろと……」
だんだん、情けないことを言っているような気がしてきて、尻つぼみになっていく。けれど、メイシアは下を向いたまま「ありがとう。嬉しい」と小さく呟いた。
「メイシア?」
泣いているのだろうか。そんな気配がする。
何故? と彼が首をかしげたとき、彼女の細い声が返ってきた。
「……ルイフォン。私は、もと貴族で、王族の血も引いている。それは事実だけれど、でも今は――」
思い切って、というふうに、メイシアは、ぱっと弾けるように顔を上げた。
長い黒絹の髪が、軽やかに舞う。潤んだ黒曜石の瞳が、薄暗い廊下のわずかな光をかき集め、きらきらと輝きを放つ。それは涙から成る煌めきであるのに、美しくも可愛らしい彼女の顔は、幸せそうに笑っていた。
「私は何者でもなく、ただの『メイシア』で――ルイフォンのそばに居る者なの」
「メイシア……」
「怖いと思う。何が起きているのかすら分からないのが、凄く不安……。でも、ルイフォンが居る。だから、大丈夫」
そう言いながらも、彼女の肩は小刻みに震えていた。
ルイフォンはメイシアの背に手を回し、自分の胸元に引き寄せようとした。しかし、それよりも早く、彼女のほうから飛び込んできた。
「私、ルイフォンが好き……」
心臓の上に、彼女の熱い吐息を感じた。
驚くと同時に、どうしようもないほどの幸せが襲ってくる。
現状が曇天なんて、とんでもない。彼女が居る――それだけで、彼の世界は、どこまでも蒼天が広がっていく。
「ご、ごめんなさい。いきなり……」
我に返って体を離そうとするメイシアを、ルイフォンはぐっと抱きしめた。
彼女の鼓動が、ひときわ強く高鳴る。触れ合った体から、その振動が直接、伝わってくる。
「俺も、メイシアが好きだよ」
彼女をしっかりと包み込み、黒髪をくしゃりと撫でた。それから彼が、ほんの少し腕の力を緩めると、彼女は自然に上を向く。
目と目が合う。
どちらからともなく再び寄り添い、ふたりは唇を合わせた。
メイシアを厨房に送り、自室に戻る途中で、ルイフォンはふと、リュイセンの様子を見てこようと思い立った。
執務室の前で別れたときの兄貴分は、だいぶ参っているようだった。会議では〈蝿〉についての詳しい話も聞けなかったし、部屋に寄って話をしてこよう、と。
……メイシアの笑顔は自分だけのものだと、醜い嫉妬を抱いたことは、先ほどの彼女とのやり取りによってすっかり忘れていた。
しかし――。
「!?」
リュイセンの部屋の扉が開かなかった。いつも通りに「ちょっと、いいか?」と言いながら取っ手をひねろうとしたら、回らなかったのだ。
――鍵が掛かっている。
「……」
気配に敏感なリュイセンのことだ。ルイフォンが部屋の前にいることには、気づいているだろう。それなのに出てこないということは――。
「ひとりきりになりたい、ってことか……」
兄貴分の沈鬱は、思っていたよりも深刻なようだった。
ルイフォンは諦めて、その場を離れる。肩を落として廊下を歩いていると、がたがたと音を立てて揺れる窓硝子が気になった。
見れば、風にあおられた雨粒が打ち付けられ、傷跡のような筋を残しながら、窓を流れている。
「雨が降ってきたのか……」
随分と大粒の雨だった。じきに本降りになるだろう。まもなく日が暮れることもあってか、空はすっかり真っ暗になっていた。
窓の外の景色に、目が吸い寄せられていた。
だから、なのか。
それとも、もともと相手に気配がなかったからなのか。
「ルイフォン」
艶めく低音に呼びかけられ、ルイフォンは飛び上がった。
「――!」
「そんなに驚くことはないだろう? まったく、お前は本当に武術はからきしだな」
「エルファン!?」
次期総帥にして、異母兄。そして、母キリファが、死ぬまで外すことのなかったチョーカーの贈り主――。
「ルイフォン。どうして、リュイセンに会うのをやめた?」
「え?」
間抜けに返してから、ルイフォンは気づく。
「……あとをつけていたのか」
「人聞きの悪い。お前が気づかなかっただけだ」
からかうわけでなく、ただの事実だ、とばかりに冷たく言い放つ。こんなところが、冷酷といわれる所以なのだろう。
「部屋に鍵が掛かっていたんだよ」
「ふむ」
「リュイセンは、ひとりになりたいみたいだ」
それにしても、珍しい人が声を掛けてきたものだな、とルイフォンは思い、すぐに気づく。
「リュイセンのことで、俺に話があるのか?」
「まぁ、そんなところだ。……お前の仕事部屋に行っていいか?」
ルイフォンの仕事部屋は、完全防音である。もともとは、機械音が外に漏れないように、との配慮からの構造なのだが、〈悪魔〉であることを隠していたイーレオを吊し上げた際には、密談の場として有効利用した。
――つまりエルファンは、人に聞かれたくないような話をしようとしている。
ルイフォンの体は興奮に包まれ、猫の目が鋭く光った。
「ああ、構わねぇよ」
そしてふたりは、速やかに場所を移動する。
冷気で満たされた仕事部屋で、ルイフォンはエルファンと向き合った。
「それで? なんの話だ?」
エルファンと秘密裏に話すのは初めてだ。そもそも、彼とふたりきりになること自体が、今まで、ほとんどなかったのではないだろうか。
ちょっとした沈黙が緊張を帯び、空調の送風音がやけに大きく聞こえる。
「用件は二点。ひとつは、お前が言った通り、リュイセンのことだ」
いきなりの核心に、ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。
「あいつは、まだ何かを隠している」
「え……」
「お前がリュイセンの部屋に向かったから、それを聞き出してくれるかと期待したのだが……」
しかし、ルイフォンは扉の前で引き返してしまった、ということらしい。
「『隠している』――か。なるほど。そう考えれば、確かに納得できるな」
ルイフォンは癖のある前髪を掻き上げた。
今のリュイセンは、彼らしくない。その違和感を、隠しごとからくる後ろめたさと解釈すれば、逆に、実にあの生真面目な兄貴分らしい態度といえた。
「そうだよな。親父がリュイセンの処罰を『〈蝿〉を討ち取れば文句はない』って決めたとき、いつものリュイセンなら嬉々として『お任せください』くらいは言ったはずだ。――でも、違った」
「ああ」
「そう言わなかったってことは、リュイセンは安請け合いできないだけの、具体的な情報を何か知っている。真面目なあいつは嘘をつくのが下手だから、大見栄を切ることができなかったんだ。――何故、隠すのかは分からないけどさ」
兄弟分なのに水臭い。その思いが表に出てしまったのか、言葉の最後には溜め息が混じっていた。
エルファンも、同意するように吐き捨てる。
「会議の場での報告も、父上に無理やり言わされただけだった」
「『メイシアの正体』のことか? それは、俺やメイシアに気遣ったんじゃねぇのか?」
「それなら、会議が始まる前にでも、父上のお耳だけには入れておくべきだった」
「あ……」
言われてみれば、そうである。リュイセンが、鷹刀一族という組織の一員である以上、それは『義務』だ。
「リュイセンは、できれば何も言わずに済ませたかったのだ。けれど、メイシアの件だけは、お前に感づかれてやむを得ず……ということだろう」
エルファンの眉間に深い皺が寄り、壮年ならではの渋い美貌が際立った。黒髪の中に混じった白い筋が、苦々しげに鈍く光る。
「ともかく、しばらくリュイセンの様子に注意してほしい。勿論、私も気に掛けておくが、お前が一番、リュイセンの身近な人間だろうからな」
「分かった」
そう快諾したものの、回すことのできなかった取っ手の感触が、ルイフォンの心に深く突き刺さった。
「ルイフォン?」
「あ、ああ」
知らずのうちに、自分の掌に視線を落としていた彼は、顔を上げ、そして息を呑む。
エルファンの双眸が、静かにルイフォンを捕らえていた。憂いを帯びた眼差しで、けれど、包み込むような慈愛の色を含みながら……。
氷と称される異母兄とは思えない表情だった。
「お前に話しておきたい用件の、もう一点は……メイシアのことだ」
「!」
「『王族の血を引く者が〈天使〉になれば、強い力を持つ。お前の母キリファからそう聞いた』――会議のとき、私はお前にそう言った」
ルイフォンは黙って頷いた。『ああ』と言おうとしたのだが、かすれて声にならなかったのだ。
「普通の〈天使〉ならば、ほんの数回、羽を使えば死ぬ。けれど、キリファの体は持ちこたえた。疑問に思った〈悪魔〉の〈蠍〉が、徹底的に調べた結果、彼女は王族の血を引いていることが分かったらしい」
「はぁ!?」
思わず、素っ頓狂な叫びが出た。さっきは声も出せなかったのが嘘のようだ。
「母さんが王族の血統!? そんなこと、あるわけねぇだろ! だって母さんは場末の娼館の生まれ……。――あっ!」
「そうだ。キリファの母親は娼婦で、父親は誰とも知らない客の男。ならば、その父親が王族を先祖に持つ貴族か、そういった貴族の落し胤であったとしても、おかしくないということだ」
「……!」
ルイフォンは絶句した。
母が『特別』な〈天使〉だということは知っていた。だから、〈蠍〉に厚遇され、学もつけてもらい、片腕として働いていたのだと。けれど、その原因が、まさか王族の血のためであったとは想像の域を超えている。
「羽との相性は、血統がものをいうらしい。キリファはそう言っていた。そして……」
エルファンが言いよどんだ。氷の瞳がわずかに揺れる。
「……娘のセレイエには、キリファの半分しか適性がないそうだ」
「セレイエ……」
ルイフォンの異父姉。
エルファンにとっては、キリファとの間に生まれた、実の娘。
おそらく――否、間違いなく、『デヴァイン・シンフォニア計画』を作った張本人。彼女の名前は、ただでさえ低い部屋の空気を凍てつくものに変えていく。
「一方、もと貴族のメイシアは、濃い王族の血を引いている。〈天使〉の適性は充分にあるだろう」
ルイフォンの体に、ぞくりと悪寒が走った。メイシアの背に〈天使〉の羽が生えているところを想像してしまったのだ。
強く弱く、明暗を繰り返す白金の光をまとった彼女は、禁忌に触れそうなほどに神秘的で。しかし、美しい顔は熱に浮かされ、苦しげに沈んでいる……。
刹那、ルイフォンは気づいた。
メイシアは『セレイエの〈影〉』。
そして、『最強の〈天使〉の器』。
その意味するところは――。
ルイフォンが、猫の目を大きく見開いてエルファンを見上げると、彼はゆっくりと頷いた。
「あくまでも、ひとつの推測だ」
感情の色が綺麗に消し去られた顔で、静かに告げる。
「セレイエは、メイシアを『最強の〈天使〉』にして、その体を乗っ取ろうとしている」
玲瓏とした声が、氷を砕いたかのように冷たく響き渡った。
「嘘だ……」
信じたくない。
けれど、ルイフォンの明晰な頭脳は知っている。
メイシアは、貴族という天上から、ルイフォンのいる地上へと、セレイエに導かれてやってきた。
だから彼女には、必ず、何かしらの役割がある。
――『デヴァイン・シンフォニア計画』の核としての……。
「ルイフォン」
エルファンが名を呼んだ。
深く切なく、そして慈愛に満ちた眼差しで。
「お前は決して、最愛の者を理不尽に奪われたりするなよ」
そう言って、彼はルイフォンの仕事部屋を出ていった。
どのくらい時間が経っただろうか。
ルイフォンは、何をするともなしに、仕事部屋でぼうっとしていた。考えなくてはいけないことが山ほどあるような気がするのに、頭が回らなかった。
漫然と時を過ごしていただけだ。なのに、腹が減ってきた。
「昼のときは、空腹で目を覚ましたんだっけ……?」
自分は、そんなに食い意地がはっていただろうか? ――などと思い、いやいや、昼食がサンドイッチだけの軽食だったから、すぐに腹が減ったのだ、と理性的な考察で自尊心を保つ。
今晩はリュイセンが帰ってきたお祝いで、ご馳走だ。メイシアも、料理長の手伝いを張り切っていた。とても楽しみだ。
ルイフォンは時計を確認した。いつもなら、そろそろ夕食だと、メイシアが呼びに来てくれる時間だった。
「呼ばれる前に行ったって、いいよな……?」
無性に、メイシアに逢いたかった。食堂から、彼の部屋までの経路は幾つもあるが、彼女が使う道は決まっている。だから、すれ違うことはない。
仕事部屋の扉を開けると、激しい雨音が聞こえた。やはり大雨になったようだ。
防音壁のために今まで気づかなかったが、もう随分と前からこの天気だったらしい。初夏だというのに廊下はすっかり冷え切っており、水を含んだ空気で満たされている。空調で室温を下げた仕事部屋よりも、廊下のほうが寒いくらいだった。
そして、彼の体が、完全に廊下に出たとき……。
――――!
ルイフォンは硬直した。
今、自分が目にしているものを理解できなかったのだ。
「リュイセン……?」
そこにいるのは、確かに兄貴分だ。……そのはずだ。
薄暗い電灯の光が背後からリュイセンを照らし、廊下にぼんやりとした大柄の影を落としていた。輝くばかりの黄金比の美貌は闇に沈み、幽鬼のように存在が薄い。けれども、硝子玉のような瞳だけは、いっぱいに見開かれ、ルイフォンを凝視していた。
そして、その両手に抱きかかえているのは……。
「メイシア?」
気を失っているのだろうか。彼女の腕は、まるで人形のように、だらりと垂れ下がっていた。両目は閉じられており、いつだって、ルイフォンに笑いかけてくれるはずの顔には生気がない。
「メイシア!? メイシア、どうした!?」
ルイフォンが駆け寄ろうとすると、リュイセンが飛び退った。
メイシアの頭が、がくりと後ろに反り返る。長い黒髪がさらさらと流れ落ち、無防備に晒された喉元が、暗がりの中でひときわ白く浮き立った。
「リュイセン!? どういうことだ!?」
何が起きているのか、まるで分からない。
動揺と、狼狽と、驚愕と、憤怒と……。さまざまな感情が渦を巻き、ひとつには定まらない。
ただ、鼓動だけが激しく高鳴り、全身の血が一気に噴き上がった。
リュイセンは両手で支えていたメイシアを、片手に――小脇に抱え直した。そして、空いた右手を腰元にやり……。
――刀を、抜き放った。
「――!?」
闇の中で、銀光が煌めく。
それに呼応するかのように、窓の外で雷光が閃いた。暗い天空を不吉な紫色に染め上げ、リュイセンの顔を照らし出す。
悪鬼の形相が浮かび上がった。
そして……。
神速の――無言の一刀。
血の匂いが広がった。
それが自分の腹から流れ出ていることを承知しながら、ルイフォンは前へと突き進む。
メイシアへと手を伸ばす。
最愛の者へと……。
しかし、無情なるリュイセンの刀の柄が、鳩尾に深く叩き込まれた。
「ぐっ……、メイシア――!」
地上に轟く雷鳴が、ルイフォンの叫びを掻き消す。
指先が、彼女に触れる……その直前で、ルイフォンの体は廊下に崩れ落ちた。
天から地へと、まばゆい雷が空を裂く。
リュイセンは、部屋から持ってきていたシーツでメイシアを包み隠し、その場を立ち去った。
雷雨の中、重要な極秘任務だと偽って、リュイセンは車庫を発った。
リュイセンは、総帥の後継者。
疑う者など誰もいなかった――。
~ 第六章 了 ~
王族や〈天使〉の話が出てきて、メイシアが『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込まれた理由が掴めそうになってきた矢先の、あっけない幕切れだった。
ルイフォンとしては当然、消化不良気味だが、傍らのメイシアの様子を見ると、ちょうどよかったのかもしれないと思う。
彼女は、ルイフォンの服の端をぎゅっと握りしめたまま、身じろぎもしなかった。シャツ越しに体温を感じられるのに、青ざめた顔には温度がない。綺麗な薄紅色をしているはずの唇も、色を失っていた。
「メイシア、行こう」
彼女を促し、執務室をあとにする。
廊下に出ると、窓の外がやけに暗かった。黒い雲が空を覆い、今にも雨が降り出しそうである。昼までの青空が嘘のようだった。
嫌な天気だ。――曇天を見上げ、ルイフォンは思う。まるで、彼の心情を写し取ったかのようで、気が滅入る。
「ルイフォン、メイシア」
後ろから呼び止められた。ふたりに続いて、部屋を出てきたリュイセンである。彼は、きまり悪そうに肩をすぼめ、「すまん」と頭を下げた。
「なんで、お前が謝るんだよ?」
「いや……、……」
ほんの少し強めの口調で問えば、リュイセンは口ごもって押し黙る。
疑問の形で返しはしたが、兄貴分の気持ちは分かるのだ。生真面目な彼は、あの場に暗雲を持ち込んだ責任を感じているのだろう。
「そりゃ、お前が報告した『良くない知らせ』は、聞かされて楽しい話じゃなかった。けど、お前が悪いわけじゃねぇだろ。むしろ、重要な情報だった。感謝している」
「……っ」
リュイセンは戸惑うような様子を見せ、わずかに口を開きかけた。しかし、うまく言葉にならなかったのか、再び「すまん」と呟く。
そのとき、ルイフォンの隣から、メイシアがするりと躍り出た。
「リュイセン。今、料理長がご馳走を用意しているんです」
「!?」
唐突な彼女の発言に、リュイセンは勿論、ルイフォンもきょとんとする。
「リュイセンが、無事に帰ってきたお祝いです」
メイシアは、特別な秘密を打ち明けるような小声でそっと囁き、ふわりと笑った。
優しげで、ほんの少しだけいたずらっぽくて、思わず魅入られてしまいそうな可愛らしい笑顔である。先ほどまでの白蝋のような顔をした彼女とは、まったくの別人だった。
「いや、祝うようなことではないだろう……」
ぼそぼそと言うリュイセンに、メイシアは畳み掛けた。
「会議では、驚くような情報も入ってきましたが、今日はリュイセンが戻ってきた、とても嬉しい、良い日なんです」
柔らかでありながら異論を許さぬメイシアの迫力に、剛の者のリュイセンがたじろぐ。
「だから、そんな浮かない顔をしないでください。これからのことは、これから皆で考えればいいんですから」
「……ありがとう」
リュイセンの低音は、頼りなげにかすれていた。けれども彼は、不器用な笑みを無理やりたたえる。メイシアの弁に同意はできないが、気遣いには感謝している。そんな心の内が手に取るように分かった。
「晩を楽しみにしていてくださいね。私も、微力ながらお手伝いしてまいります」
メイシアがそう言って一歩下がると、ルイフォンもすかさず「そういうことだ」と乗じた。
「それじゃ、またあとでな」
さっとメイシアの肩を抱き、リュイセンの前を立ち去る。しつこく言っても押し問答になるだけだからだ。
それに……。
――俺以外の奴に、あんないい笑顔を向けるな。
見苦しい嫉妬だと分かっているが、それでも面白くないものは面白くないのであった。
その後、ルイフォンは、厨房にメイシアを送っていった。
先ほどまで顔色が悪かったのだから少し休んだらどうか、と勧めたのだが、申し訳なさそうに「ごめんなさい」と断られてしまった。彼女のことだ。料理長が大変というよりも、リュイセンの帰還を積極的に祝いたいという、優しい気持ちからの行動なのだろう。
「ルイフォン、さっきはありがとう」
もうすぐ厨房に着くというところで、不意にメイシアが言った。
「さっき?」
「会議のとき。私が王族の血を引いているから何かあるという話になったときに、そのっ……抱き寄せてくれて」
さぁっと耳まで赤く染めながら、顔を隠すようにうつむき、「心強かったし、何より嬉しかったの」と、彼女は告げる。
「あ……。いや、あれは俺の無意識だ。たぶん、王族がどうのとかで、お前を遠い存在にされるのが嫌で……お前は俺のところに居ろと……」
だんだん、情けないことを言っているような気がしてきて、尻つぼみになっていく。けれど、メイシアは下を向いたまま「ありがとう。嬉しい」と小さく呟いた。
「メイシア?」
泣いているのだろうか。そんな気配がする。
何故? と彼が首をかしげたとき、彼女の細い声が返ってきた。
「……ルイフォン。私は、もと貴族で、王族の血も引いている。それは事実だけれど、でも今は――」
思い切って、というふうに、メイシアは、ぱっと弾けるように顔を上げた。
長い黒絹の髪が、軽やかに舞う。潤んだ黒曜石の瞳が、薄暗い廊下のわずかな光をかき集め、きらきらと輝きを放つ。それは涙から成る煌めきであるのに、美しくも可愛らしい彼女の顔は、幸せそうに笑っていた。
「私は何者でもなく、ただの『メイシア』で――ルイフォンのそばに居る者なの」
「メイシア……」
「怖いと思う。何が起きているのかすら分からないのが、凄く不安……。でも、ルイフォンが居る。だから、大丈夫」
そう言いながらも、彼女の肩は小刻みに震えていた。
ルイフォンはメイシアの背に手を回し、自分の胸元に引き寄せようとした。しかし、それよりも早く、彼女のほうから飛び込んできた。
「私、ルイフォンが好き……」
心臓の上に、彼女の熱い吐息を感じた。
驚くと同時に、どうしようもないほどの幸せが襲ってくる。
現状が曇天なんて、とんでもない。彼女が居る――それだけで、彼の世界は、どこまでも蒼天が広がっていく。
「ご、ごめんなさい。いきなり……」
我に返って体を離そうとするメイシアを、ルイフォンはぐっと抱きしめた。
彼女の鼓動が、ひときわ強く高鳴る。触れ合った体から、その振動が直接、伝わってくる。
「俺も、メイシアが好きだよ」
彼女をしっかりと包み込み、黒髪をくしゃりと撫でた。それから彼が、ほんの少し腕の力を緩めると、彼女は自然に上を向く。
目と目が合う。
どちらからともなく再び寄り添い、ふたりは唇を合わせた。
メイシアを厨房に送り、自室に戻る途中で、ルイフォンはふと、リュイセンの様子を見てこようと思い立った。
執務室の前で別れたときの兄貴分は、だいぶ参っているようだった。会議では〈蝿〉についての詳しい話も聞けなかったし、部屋に寄って話をしてこよう、と。
……メイシアの笑顔は自分だけのものだと、醜い嫉妬を抱いたことは、先ほどの彼女とのやり取りによってすっかり忘れていた。
しかし――。
「!?」
リュイセンの部屋の扉が開かなかった。いつも通りに「ちょっと、いいか?」と言いながら取っ手をひねろうとしたら、回らなかったのだ。
――鍵が掛かっている。
「……」
気配に敏感なリュイセンのことだ。ルイフォンが部屋の前にいることには、気づいているだろう。それなのに出てこないということは――。
「ひとりきりになりたい、ってことか……」
兄貴分の沈鬱は、思っていたよりも深刻なようだった。
ルイフォンは諦めて、その場を離れる。肩を落として廊下を歩いていると、がたがたと音を立てて揺れる窓硝子が気になった。
見れば、風にあおられた雨粒が打ち付けられ、傷跡のような筋を残しながら、窓を流れている。
「雨が降ってきたのか……」
随分と大粒の雨だった。じきに本降りになるだろう。まもなく日が暮れることもあってか、空はすっかり真っ暗になっていた。
窓の外の景色に、目が吸い寄せられていた。
だから、なのか。
それとも、もともと相手に気配がなかったからなのか。
「ルイフォン」
艶めく低音に呼びかけられ、ルイフォンは飛び上がった。
「――!」
「そんなに驚くことはないだろう? まったく、お前は本当に武術はからきしだな」
「エルファン!?」
次期総帥にして、異母兄。そして、母キリファが、死ぬまで外すことのなかったチョーカーの贈り主――。
「ルイフォン。どうして、リュイセンに会うのをやめた?」
「え?」
間抜けに返してから、ルイフォンは気づく。
「……あとをつけていたのか」
「人聞きの悪い。お前が気づかなかっただけだ」
からかうわけでなく、ただの事実だ、とばかりに冷たく言い放つ。こんなところが、冷酷といわれる所以なのだろう。
「部屋に鍵が掛かっていたんだよ」
「ふむ」
「リュイセンは、ひとりになりたいみたいだ」
それにしても、珍しい人が声を掛けてきたものだな、とルイフォンは思い、すぐに気づく。
「リュイセンのことで、俺に話があるのか?」
「まぁ、そんなところだ。……お前の仕事部屋に行っていいか?」
ルイフォンの仕事部屋は、完全防音である。もともとは、機械音が外に漏れないように、との配慮からの構造なのだが、〈悪魔〉であることを隠していたイーレオを吊し上げた際には、密談の場として有効利用した。
――つまりエルファンは、人に聞かれたくないような話をしようとしている。
ルイフォンの体は興奮に包まれ、猫の目が鋭く光った。
「ああ、構わねぇよ」
そしてふたりは、速やかに場所を移動する。
冷気で満たされた仕事部屋で、ルイフォンはエルファンと向き合った。
「それで? なんの話だ?」
エルファンと秘密裏に話すのは初めてだ。そもそも、彼とふたりきりになること自体が、今まで、ほとんどなかったのではないだろうか。
ちょっとした沈黙が緊張を帯び、空調の送風音がやけに大きく聞こえる。
「用件は二点。ひとつは、お前が言った通り、リュイセンのことだ」
いきなりの核心に、ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。
「あいつは、まだ何かを隠している」
「え……」
「お前がリュイセンの部屋に向かったから、それを聞き出してくれるかと期待したのだが……」
しかし、ルイフォンは扉の前で引き返してしまった、ということらしい。
「『隠している』――か。なるほど。そう考えれば、確かに納得できるな」
ルイフォンは癖のある前髪を掻き上げた。
今のリュイセンは、彼らしくない。その違和感を、隠しごとからくる後ろめたさと解釈すれば、逆に、実にあの生真面目な兄貴分らしい態度といえた。
「そうだよな。親父がリュイセンの処罰を『〈蝿〉を討ち取れば文句はない』って決めたとき、いつものリュイセンなら嬉々として『お任せください』くらいは言ったはずだ。――でも、違った」
「ああ」
「そう言わなかったってことは、リュイセンは安請け合いできないだけの、具体的な情報を何か知っている。真面目なあいつは嘘をつくのが下手だから、大見栄を切ることができなかったんだ。――何故、隠すのかは分からないけどさ」
兄弟分なのに水臭い。その思いが表に出てしまったのか、言葉の最後には溜め息が混じっていた。
エルファンも、同意するように吐き捨てる。
「会議の場での報告も、父上に無理やり言わされただけだった」
「『メイシアの正体』のことか? それは、俺やメイシアに気遣ったんじゃねぇのか?」
「それなら、会議が始まる前にでも、父上のお耳だけには入れておくべきだった」
「あ……」
言われてみれば、そうである。リュイセンが、鷹刀一族という組織の一員である以上、それは『義務』だ。
「リュイセンは、できれば何も言わずに済ませたかったのだ。けれど、メイシアの件だけは、お前に感づかれてやむを得ず……ということだろう」
エルファンの眉間に深い皺が寄り、壮年ならではの渋い美貌が際立った。黒髪の中に混じった白い筋が、苦々しげに鈍く光る。
「ともかく、しばらくリュイセンの様子に注意してほしい。勿論、私も気に掛けておくが、お前が一番、リュイセンの身近な人間だろうからな」
「分かった」
そう快諾したものの、回すことのできなかった取っ手の感触が、ルイフォンの心に深く突き刺さった。
「ルイフォン?」
「あ、ああ」
知らずのうちに、自分の掌に視線を落としていた彼は、顔を上げ、そして息を呑む。
エルファンの双眸が、静かにルイフォンを捕らえていた。憂いを帯びた眼差しで、けれど、包み込むような慈愛の色を含みながら……。
氷と称される異母兄とは思えない表情だった。
「お前に話しておきたい用件の、もう一点は……メイシアのことだ」
「!」
「『王族の血を引く者が〈天使〉になれば、強い力を持つ。お前の母キリファからそう聞いた』――会議のとき、私はお前にそう言った」
ルイフォンは黙って頷いた。『ああ』と言おうとしたのだが、かすれて声にならなかったのだ。
「普通の〈天使〉ならば、ほんの数回、羽を使えば死ぬ。けれど、キリファの体は持ちこたえた。疑問に思った〈悪魔〉の〈蠍〉が、徹底的に調べた結果、彼女は王族の血を引いていることが分かったらしい」
「はぁ!?」
思わず、素っ頓狂な叫びが出た。さっきは声も出せなかったのが嘘のようだ。
「母さんが王族の血統!? そんなこと、あるわけねぇだろ! だって母さんは場末の娼館の生まれ……。――あっ!」
「そうだ。キリファの母親は娼婦で、父親は誰とも知らない客の男。ならば、その父親が王族を先祖に持つ貴族か、そういった貴族の落し胤であったとしても、おかしくないということだ」
「……!」
ルイフォンは絶句した。
母が『特別』な〈天使〉だということは知っていた。だから、〈蠍〉に厚遇され、学もつけてもらい、片腕として働いていたのだと。けれど、その原因が、まさか王族の血のためであったとは想像の域を超えている。
「羽との相性は、血統がものをいうらしい。キリファはそう言っていた。そして……」
エルファンが言いよどんだ。氷の瞳がわずかに揺れる。
「……娘のセレイエには、キリファの半分しか適性がないそうだ」
「セレイエ……」
ルイフォンの異父姉。
エルファンにとっては、キリファとの間に生まれた、実の娘。
おそらく――否、間違いなく、『デヴァイン・シンフォニア計画』を作った張本人。彼女の名前は、ただでさえ低い部屋の空気を凍てつくものに変えていく。
「一方、もと貴族のメイシアは、濃い王族の血を引いている。〈天使〉の適性は充分にあるだろう」
ルイフォンの体に、ぞくりと悪寒が走った。メイシアの背に〈天使〉の羽が生えているところを想像してしまったのだ。
強く弱く、明暗を繰り返す白金の光をまとった彼女は、禁忌に触れそうなほどに神秘的で。しかし、美しい顔は熱に浮かされ、苦しげに沈んでいる……。
刹那、ルイフォンは気づいた。
メイシアは『セレイエの〈影〉』。
そして、『最強の〈天使〉の器』。
その意味するところは――。
ルイフォンが、猫の目を大きく見開いてエルファンを見上げると、彼はゆっくりと頷いた。
「あくまでも、ひとつの推測だ」
感情の色が綺麗に消し去られた顔で、静かに告げる。
「セレイエは、メイシアを『最強の〈天使〉』にして、その体を乗っ取ろうとしている」
玲瓏とした声が、氷を砕いたかのように冷たく響き渡った。
「嘘だ……」
信じたくない。
けれど、ルイフォンの明晰な頭脳は知っている。
メイシアは、貴族という天上から、ルイフォンのいる地上へと、セレイエに導かれてやってきた。
だから彼女には、必ず、何かしらの役割がある。
――『デヴァイン・シンフォニア計画』の核としての……。
「ルイフォン」
エルファンが名を呼んだ。
深く切なく、そして慈愛に満ちた眼差しで。
「お前は決して、最愛の者を理不尽に奪われたりするなよ」
そう言って、彼はルイフォンの仕事部屋を出ていった。
どのくらい時間が経っただろうか。
ルイフォンは、何をするともなしに、仕事部屋でぼうっとしていた。考えなくてはいけないことが山ほどあるような気がするのに、頭が回らなかった。
漫然と時を過ごしていただけだ。なのに、腹が減ってきた。
「昼のときは、空腹で目を覚ましたんだっけ……?」
自分は、そんなに食い意地がはっていただろうか? ――などと思い、いやいや、昼食がサンドイッチだけの軽食だったから、すぐに腹が減ったのだ、と理性的な考察で自尊心を保つ。
今晩はリュイセンが帰ってきたお祝いで、ご馳走だ。メイシアも、料理長の手伝いを張り切っていた。とても楽しみだ。
ルイフォンは時計を確認した。いつもなら、そろそろ夕食だと、メイシアが呼びに来てくれる時間だった。
「呼ばれる前に行ったって、いいよな……?」
無性に、メイシアに逢いたかった。食堂から、彼の部屋までの経路は幾つもあるが、彼女が使う道は決まっている。だから、すれ違うことはない。
仕事部屋の扉を開けると、激しい雨音が聞こえた。やはり大雨になったようだ。
防音壁のために今まで気づかなかったが、もう随分と前からこの天気だったらしい。初夏だというのに廊下はすっかり冷え切っており、水を含んだ空気で満たされている。空調で室温を下げた仕事部屋よりも、廊下のほうが寒いくらいだった。
そして、彼の体が、完全に廊下に出たとき……。
――――!
ルイフォンは硬直した。
今、自分が目にしているものを理解できなかったのだ。
「リュイセン……?」
そこにいるのは、確かに兄貴分だ。……そのはずだ。
薄暗い電灯の光が背後からリュイセンを照らし、廊下にぼんやりとした大柄の影を落としていた。輝くばかりの黄金比の美貌は闇に沈み、幽鬼のように存在が薄い。けれども、硝子玉のような瞳だけは、いっぱいに見開かれ、ルイフォンを凝視していた。
そして、その両手に抱きかかえているのは……。
「メイシア?」
気を失っているのだろうか。彼女の腕は、まるで人形のように、だらりと垂れ下がっていた。両目は閉じられており、いつだって、ルイフォンに笑いかけてくれるはずの顔には生気がない。
「メイシア!? メイシア、どうした!?」
ルイフォンが駆け寄ろうとすると、リュイセンが飛び退った。
メイシアの頭が、がくりと後ろに反り返る。長い黒髪がさらさらと流れ落ち、無防備に晒された喉元が、暗がりの中でひときわ白く浮き立った。
「リュイセン!? どういうことだ!?」
何が起きているのか、まるで分からない。
動揺と、狼狽と、驚愕と、憤怒と……。さまざまな感情が渦を巻き、ひとつには定まらない。
ただ、鼓動だけが激しく高鳴り、全身の血が一気に噴き上がった。
リュイセンは両手で支えていたメイシアを、片手に――小脇に抱え直した。そして、空いた右手を腰元にやり……。
――刀を、抜き放った。
「――!?」
闇の中で、銀光が煌めく。
それに呼応するかのように、窓の外で雷光が閃いた。暗い天空を不吉な紫色に染め上げ、リュイセンの顔を照らし出す。
悪鬼の形相が浮かび上がった。
そして……。
神速の――無言の一刀。
血の匂いが広がった。
それが自分の腹から流れ出ていることを承知しながら、ルイフォンは前へと突き進む。
メイシアへと手を伸ばす。
最愛の者へと……。
しかし、無情なるリュイセンの刀の柄が、鳩尾に深く叩き込まれた。
「ぐっ……、メイシア――!」
地上に轟く雷鳴が、ルイフォンの叫びを掻き消す。
指先が、彼女に触れる……その直前で、ルイフォンの体は廊下に崩れ落ちた。
天から地へと、まばゆい雷が空を裂く。
リュイセンは、部屋から持ってきていたシーツでメイシアを包み隠し、その場を立ち去った。
雷雨の中、重要な極秘任務だと偽って、リュイセンは車庫を発った。
リュイセンは、総帥の後継者。
疑う者など誰もいなかった――。
~ 第六章 了 ~