残酷な描写あり
4.囚われの姫君-1
夕食の用意ができたと、ルイフォンを迎えに行くところだった。
リュイセンが無事に戻ってきたお祝いだと、料理長が盛大に腕をふるったご馳走の数々は本当に美味しそうで、メイシアは晩餐がとても楽しみだった。
不安は山ほどある。けれど、皆がいれば大丈夫。――そう思いながら、ルイフォンの部屋のある階まで登ってきた。
すると、長い廊下の先に、すらりとした人影が見えた。
「リュイセン?」
疑問の形で呼んだのは、自信がなかったからだ。
初夏とはいえ、夜。しかも、空は雨雲に覆われていて暗かった。ぼんやりと電灯に照らされた顔は、確かにリュイセンのものに見えるのだが、彼が持っているはずの輝きは消え失せており、存在感が薄い。まるで幽鬼だ。
彼は、ゆっくりとメイシアに近づいてきた。
窓の外で、紫の雷光が閃く。
黄金比の美貌が、妖しく浮かび上がる。
「え?」
そう呟いたときには、首筋に手刀を落とされていた。メイシアの体は崩れ落ち、彼に抱きとめられる。
腕に、ちくりとした痛みを感じた。
そして、彼女は完全に意識を失った。
人の気配を感じ、メイシアは身をよじらせた。
「やっと、目が覚めましたか」
閉じた瞼の向こう側から、低く美麗な声が彼女を迎えた。
鷹刀一族の屋敷でよく聞く声質だが、彼女の知っている、どの声とも雰囲気が違う。響きの中に、神経質な音が混ざっている。
まどろみから、覚醒へと。
彼女は五感を取り戻す。
「――!」
目の前に、次期総帥エルファンとそっくりな顔があった。
――〈蝿〉だ。
メイシアは即座に理解した。
――ここは、〈蝿〉の研究室だ。
見た目は、白く清潔でありながら、黒い陰謀と禁忌にまみれた密室。
異母弟ハオリュウは、摂政カイウォルと共にこの部屋を訪れ、次代の王『ライシェン』を見た。そして、王家に〈神の御子〉が生まれぬ場合には、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉が過去の王のクローンを作るのだと知らされた……。
白衣姿の〈蝿〉が、ベッドの上のメイシアを舐めるように見つめていた。彼女は怖気を感じ、思わず自分の体を掻き抱く。
「!?」
その瞬間、メイシアは、自分の手首に硬い感触が食い込むのを感じ、青ざめた。
両手が枷で繋がれていた。
右手と左手が鎖で結ばれ、手と手を離すことができない。
今までに経験したことのない事態に、彼女の恐怖が一気に膨れ上がった。歯の根が合わない口は悲鳴すらも上げられず、ただ脅えきった瞳を、この仕打ちをしたであろう〈蝿〉に向ける。
「安心してください。別に私は、あなたに危害を加えるつもりはありませんよ」
〈蝿〉は微笑みさえ浮かべ、優しげな低音を落とした。
「その枷は、単に、あなたの置かれた立場を分かりやすく伝えるための措置です。あなたが囚われていることに納得したら、すぐに外して差し上げますよ」
囚われている――。
その言葉が、メイシアの心臓を握り潰す。
自分は、敵地であるこの研究室で、独りきり。皆はいない。――ルイフォンがいない。
自分は、どうなるのか分からない。きっと、皆が心配している。――ルイフォンが心配している……。
「……」
ルイフォン、と、心の中で叫ぶと、涙が浮かんできた。
そんなメイシアの様子を〈蝿〉が、ふっと嗤う。彼女は、羞恥と屈辱で、慌てて指先で目元を拭った。枷で繋がれた、もう片方の手が引きずられ、嫌でも『置かれた立場』を認識させられる。
両手の間で、鎖がじゃらりと鳴った。
ざらついた重い音と、硬く冷たい感触。それが、彼女に突きつけられた現実だ。
恐ろしくて、不安で、惨めで、苦しい。けれど同時に、腹の底から怒りが湧いてきた。
――屈しない。
必ず、ルイフォンが助けに来てくれる。だから、それまで独りで耐え抜く。
メイシアの中で、覚悟が生まれた。
まずは、ベッドに転がされている状況から、脱するのだ。
「ああ、いきなり起き上がらないほうがいいですよ。まだ、麻酔の余韻が残っているでしょうからね」
〈蝿〉が口の端を上げた。そのときには動き出していた彼女は、身をもって彼の言葉の正しさを知る羽目になる。頭を上げようとしただけで、くらりと目眩がした。
「なかなか目を覚まさないので心配しました。もう、翌日の昼ですよ。途中であなたが暴れたら厄介かと思って、リュイセンに薬を使わせたのですが、やりすぎだったかと後悔し始めたところでした」
「!」
リュイセン――!
決定的な言葉が、メイシアの心を刺した。
何かの間違いであって欲しいと、願っていた。
しかし、やはり――。
「リュイセンが……私を、あなたのもとに連れてきたんですね」
メイシアの声はかすれていた。けれど、凛と澄んだ黒曜石の瞳は、まっすぐに〈蝿〉を捕らえている。
取り乱すことなく問うたメイシアに、〈蝿〉はわずかに目を見開いた。それから、顔をほころばせ「ええ、そうですよ」と答える。
「飲み込みが早くて助かります」
「……リュイセンに、何をしたんですか!」
彼が、ルイフォンやメイシアを裏切るとは思えない。
メイシアの拉致は、もはや、どうしようもない事実であるのだが、本意ではなかったはずだ。きっと何か事情がある。
睨みつけてくる彼女を、〈蝿〉が低く嗤った。
「リュイセンは、彼の意思で、私に協力してくれたんですよ」
「嘘です!」
鎖を掛けられ、憐れに横たわり、長い黒絹の髪は乱れ放題……。
今のメイシアは、力なき者の象徴のような姿であった。それにも関わらず、高く澄んだ声は、勢いよく〈蝿〉の言葉を跳ね返した。青ざめていたはずの白磁の肌は紅潮し、怒気をまとう。
「随分と、はっきりおっしゃいますね」
半ば呆れたような、感心したような調子で〈蝿〉が微笑んだ。歯向かったメイシアに腹を立てる様子もないのは、優位に立つ者の余裕だろう。
「ですが、事実なのですよ。……ああ、では、こうしましょう。あとで、リュイセンに会わせて差し上げます。直接、本人に訊くとよいでしょう」
我ながら名案だとばかりに、美麗な顔が柔らかに緩んだ。
魅惑の微笑の中に、狡猾さが見え隠れする。少しでも気を抜くと、醜く歪んだ事態に呑み込まれてしまいそうだ。
メイシアは必死に自分を奮い立たせる。
今の言葉は、現状を把握するための、重要なヒントだ。
『あとで』と言った以上、メイシアがこの場で殺されることはないだろう。おそらく、どこかに監禁されるのだ。
彼女を囚えた目的を果たすまでは、身の安全は保証されるとみてよさそうだ。長期戦になるだろうが、その分、〈蝿〉を出し抜く機会はあるはずだ。
そして、〈蝿〉のほうから、リュイセンに会わせてくれると言い出した。
これは重大な情報だ。
もしも、リュイセンが薬などで自我を奪われているのであれば、〈蝿〉は彼を隠すだろう。つまり、リュイセンの意識は、はっきりとしており、しかし卑劣な手段によって〈蝿〉に逆らうことができないのだ。
しかも、メイシアとリュイセンが力を合わせたところで、現状を覆すことはできない。少なくとも、〈蝿〉はそう考えている。そうでなければ、ふたりを近づけない。
この自信の根拠は、なんであろう?
そもそも、どうしてリュイセンは、〈蝿〉に従う羽目になった……?
「何か、問題でも?」
メイシアの思考を遮るように、薄ら笑いの声が割り込んだ。裏を読もうとしても無駄ですよ、と言っているように聞こえた。
確かに、今ここで考えても答えは出まい。〈蝿〉の言いなりも癪だが、リュイセンに会えば、もう少し何かが分かるだろう。
「いえ。あなたのおっしゃる通り、リュイセンに訊くことにします」
「ええ、それがよいでしょう。……では、そろそろ、私の話を始めてもよろしいですか?」
刹那、メイシアの背筋に緊張が走った。
〈蝿〉が彼女を囚えた理由――その話だと、直感的に悟る。
「すみません。体勢を変えさせてください」
メイシアは大きく息を吐き、体の芯に力を入れた。
いつまでも、こんな情けない格好では心が弱くなってしまう。せめて、きちんと体を起こすのだ。
彼女は、枷で繋がれた不自由な両手を支えにしながら、ゆっくりと上体を持ち上げた。ベッドから足を下ろし、膝を揃えてきちんと座る。背筋を伸ばし、椅子に腰掛けた〈蝿〉と目線を合わせるべく顔を上向かせると、彼女の気迫を後押しするかのように黒絹の髪がさらさらと背中を流れた。
「私は、鷹刀セレイエを見つけ出したいのです」
閉ざされた地下に、秘密を打ち明けるかのような〈蝿〉の低い声が響いた。
「セレイエさん……ですか」
「ええ。彼女は、自分の〈影〉であるホンシュアに命じて、私を作り、騙し、『駒』として利用しました」
〈蝿〉から、昏い憎悪が放たれた。
それは、ここにはいないセレイエに向けられたものであったが、余波を浴びたメイシアは身を震わせる。
「鷹刀セレイエは、『デヴァイン・シンフォニア計画』を企てておきながら、自分自身では手を下さず、すべて〈影〉に任せていました。そして、〈影〉が死んでなお、いまだ隠れ続けている。――その彼女を表に引きずり出したいのですよ」
そこまで言って、〈蝿〉はじっとメイシアを見つめた。口元はわずかにほころび、不気味な笑みが浮かんでいる。
獲物を狙う捕食者の、ぞくりとする視線だった。吸い付いてくるような瞳は、まるで舌舐めずりをしているかのよう。
メイシアは奥歯を噛み締め、ひるみそうになる心をぐっと抑える。
ふたりの間で、無音が広がった。
実際には、研究室内にある機械類が鈍く振動していたのだが、それはもはや音として認識されない。
握りしめた手が、しっとりと汗ばむ。
――〈蝿〉はセレイエに復讐したい、ということだろうか……?
メイシアもまた、〈蝿〉の顔を凝視した。
鷹刀一族そのものの、美麗な顔貌。生え際に混じる白い毛が、神経質な印象を与える。武の家系の直系でありながら医学を極めた彼は、知的であり、冷徹にも見え、そのくせ所作はどこか柔らかい……。
不意に、〈蝿〉が吐息を漏らした。
「この程度では、なんの反応もありませんか」
「え……?」
メイシアは瞳を瞬かせた。
「あなたの中の『鷹刀セレイエ』に語りかけたつもりだったのですが、どうやら届かなかったようです」
「私の中の、セレイエさん……? どういうこと……ですか?」
メイシアの心臓が警鐘を鳴らし始めた。
問い返しながらも彼女の中に予感が芽生え、恐怖が体を凍らせていく。
「おや、賢しいあなたが、私の言葉の意味を理解できないとは意外ですね」
〈蝿〉は小馬鹿にしたように肩をすくめた。
「リュイセンが言ったはずですよ。あなたは『鷹刀セレイエの〈影〉』だと」
「……っ!」
メイシアは鋭く息を呑む。悲鳴のような音が喉からこぼれた。
「鷹刀の面々に漏らしてしまったと、リュイセンから報告を受けているのですが……聞いていませんか?」
「私……、私は……私、です……! 〈影〉なんかじゃ……!」
途切れ途切れの反論は弱々しく、語尾は擦り切れ、消えていく……。
リュイセンが戻ってきたあとの、会議のとき。
ルイフォンに問い詰められたリュイセンは、苦しげに告げた。
『メイシアは、『セレイエの〈影〉』だそうだ……』
『なんだよ、それ? あり得ねぇだろ!』
ルイフォンは笑い飛ばしてくれた。
『俺だって、〈蝿〉にそう言った! そしたら、『今はメイシア本人だけど、いずれメイシアでなくなる』と……』
リュイセンは噛み付くように言い返した。
『〈蝿〉に『契約』が発動した。『王族の血を濃く引いた、あの娘なら』――そう言いかけたところで苦しみ始めた』
「ああ……、ああぁ……!」
メイシアの脳裏に、あのときのやり取りが蘇る。
思わず耳をふさごうとして、鎖にじゃらりと邪魔された。離すことのできない両手では、両耳をふさげない。
そもそも、記憶に残る声は、耳をふさいだところで消えはしない……。
『私は何者でもなく、ただの『メイシア』で――ルイフォンのそばに居る者なの』
『怖いと思う。何が起きているのかすら分からないのが、凄く不安……。でも、ルイフォンが居る。だから、大丈夫』
ルイフォンと、ふたりきりになったとき、メイシアはそう言った。
『ルイフォンがいるから、大丈夫』
けれど、今ここに、彼はいない。
愛しくて、切なくて、苦しい。
自分が、自分以外になったら、この気持ちを忘れてしまうのだろうか……?
……嫌だ。許せない。
――この魂を奪われてなるものか……!
「〈蝿〉!」
黒曜石の瞳を真っ赤に充血させ、メイシアは叫んだ。
「私は、私です! 何故、私を『セレイエさんの〈影〉』などと言うのですか!」
黒絹の髪を振り乱し、牙をむいたメイシアに、しかし〈蝿〉は苦笑した。
「迂闊なことを言えば、私は『契約』に抵触してしまうのですよ。……それも、リュイセンから聞いているでしょう?」
「答える気がないのなら、別に構いません。私は〈影〉になるつもりなどありませんから、この話は終わりにしましょう!」
すると〈蝿〉は、何が可笑しいのか喉の奥で静かに嗤った。すっと立ち上がり、メイシアの両手を繋ぐ鎖を掴む。そして、それをぐいと引き上げた。
「あなたは、自分が囚われの身だということをお忘れではないですか?」
「!?」
次の瞬間、彼女の体はふわりと宙を舞った。
〈蝿〉は、たいして力を加えたようには見えなかった。しかし、彼女は軽々と投げ飛ばされ、冷たい床に打ち付けられる。
「…………っ!」
全身に痛みが広がった。枷に繋がれた手では受け身を取ることもできず――そもそも、彼女の身体能力では、たとえ両手が自由だったとしても、されるがままに転がされるしかなかっただろう。
「あなたの中の『鷹刀セレイエ』が目覚めてくださらないと、私が困るのですよ。その記憶が、雲隠れした鷹刀セレイエの居場所を知る、唯一の手掛かりなのですから」
高い位置から見下ろし、〈蝿〉は冷酷な声で告げる。
「鷹刀セレイエ本人だって、きっと困っていることでしょう。『デヴァイン・シンフォニア計画』の水先案内人として、あらゆる雑事をこなしていたホンシュアが死んだ今、代わりの〈影〉が必要なはずです」
メイシアは悟る。
自分の置かれた立場を忘れ、感情のままに叫んだのは、確かに失態だった。囚われの身だからこそ、冷静になる必要があった。
ここは敵地で、メイシアは今、戦っているのだ。
非力な彼女は、賢く立ち回らなければならない。
そのために、敵である〈蝿〉を知る。どんな些細なことでもいい、〈蝿〉を理解する。だから、今は彼との会話を繋げるのだ……。
威圧的な〈蝿〉に、メイシアは震えながら、それでも毅然と上を向いた。
彼女は、よろよろと立ち上がり、ベッドに座る。〈蝿〉は、その様子を興味深げに見るだけで、止めることはなかった。
そして、時間が少し前に巻き戻ったかのように、ふたりは再び向き合った――。
リュイセンが無事に戻ってきたお祝いだと、料理長が盛大に腕をふるったご馳走の数々は本当に美味しそうで、メイシアは晩餐がとても楽しみだった。
不安は山ほどある。けれど、皆がいれば大丈夫。――そう思いながら、ルイフォンの部屋のある階まで登ってきた。
すると、長い廊下の先に、すらりとした人影が見えた。
「リュイセン?」
疑問の形で呼んだのは、自信がなかったからだ。
初夏とはいえ、夜。しかも、空は雨雲に覆われていて暗かった。ぼんやりと電灯に照らされた顔は、確かにリュイセンのものに見えるのだが、彼が持っているはずの輝きは消え失せており、存在感が薄い。まるで幽鬼だ。
彼は、ゆっくりとメイシアに近づいてきた。
窓の外で、紫の雷光が閃く。
黄金比の美貌が、妖しく浮かび上がる。
「え?」
そう呟いたときには、首筋に手刀を落とされていた。メイシアの体は崩れ落ち、彼に抱きとめられる。
腕に、ちくりとした痛みを感じた。
そして、彼女は完全に意識を失った。
人の気配を感じ、メイシアは身をよじらせた。
「やっと、目が覚めましたか」
閉じた瞼の向こう側から、低く美麗な声が彼女を迎えた。
鷹刀一族の屋敷でよく聞く声質だが、彼女の知っている、どの声とも雰囲気が違う。響きの中に、神経質な音が混ざっている。
まどろみから、覚醒へと。
彼女は五感を取り戻す。
「――!」
目の前に、次期総帥エルファンとそっくりな顔があった。
――〈蝿〉だ。
メイシアは即座に理解した。
――ここは、〈蝿〉の研究室だ。
見た目は、白く清潔でありながら、黒い陰謀と禁忌にまみれた密室。
異母弟ハオリュウは、摂政カイウォルと共にこの部屋を訪れ、次代の王『ライシェン』を見た。そして、王家に〈神の御子〉が生まれぬ場合には、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉が過去の王のクローンを作るのだと知らされた……。
白衣姿の〈蝿〉が、ベッドの上のメイシアを舐めるように見つめていた。彼女は怖気を感じ、思わず自分の体を掻き抱く。
「!?」
その瞬間、メイシアは、自分の手首に硬い感触が食い込むのを感じ、青ざめた。
両手が枷で繋がれていた。
右手と左手が鎖で結ばれ、手と手を離すことができない。
今までに経験したことのない事態に、彼女の恐怖が一気に膨れ上がった。歯の根が合わない口は悲鳴すらも上げられず、ただ脅えきった瞳を、この仕打ちをしたであろう〈蝿〉に向ける。
「安心してください。別に私は、あなたに危害を加えるつもりはありませんよ」
〈蝿〉は微笑みさえ浮かべ、優しげな低音を落とした。
「その枷は、単に、あなたの置かれた立場を分かりやすく伝えるための措置です。あなたが囚われていることに納得したら、すぐに外して差し上げますよ」
囚われている――。
その言葉が、メイシアの心臓を握り潰す。
自分は、敵地であるこの研究室で、独りきり。皆はいない。――ルイフォンがいない。
自分は、どうなるのか分からない。きっと、皆が心配している。――ルイフォンが心配している……。
「……」
ルイフォン、と、心の中で叫ぶと、涙が浮かんできた。
そんなメイシアの様子を〈蝿〉が、ふっと嗤う。彼女は、羞恥と屈辱で、慌てて指先で目元を拭った。枷で繋がれた、もう片方の手が引きずられ、嫌でも『置かれた立場』を認識させられる。
両手の間で、鎖がじゃらりと鳴った。
ざらついた重い音と、硬く冷たい感触。それが、彼女に突きつけられた現実だ。
恐ろしくて、不安で、惨めで、苦しい。けれど同時に、腹の底から怒りが湧いてきた。
――屈しない。
必ず、ルイフォンが助けに来てくれる。だから、それまで独りで耐え抜く。
メイシアの中で、覚悟が生まれた。
まずは、ベッドに転がされている状況から、脱するのだ。
「ああ、いきなり起き上がらないほうがいいですよ。まだ、麻酔の余韻が残っているでしょうからね」
〈蝿〉が口の端を上げた。そのときには動き出していた彼女は、身をもって彼の言葉の正しさを知る羽目になる。頭を上げようとしただけで、くらりと目眩がした。
「なかなか目を覚まさないので心配しました。もう、翌日の昼ですよ。途中であなたが暴れたら厄介かと思って、リュイセンに薬を使わせたのですが、やりすぎだったかと後悔し始めたところでした」
「!」
リュイセン――!
決定的な言葉が、メイシアの心を刺した。
何かの間違いであって欲しいと、願っていた。
しかし、やはり――。
「リュイセンが……私を、あなたのもとに連れてきたんですね」
メイシアの声はかすれていた。けれど、凛と澄んだ黒曜石の瞳は、まっすぐに〈蝿〉を捕らえている。
取り乱すことなく問うたメイシアに、〈蝿〉はわずかに目を見開いた。それから、顔をほころばせ「ええ、そうですよ」と答える。
「飲み込みが早くて助かります」
「……リュイセンに、何をしたんですか!」
彼が、ルイフォンやメイシアを裏切るとは思えない。
メイシアの拉致は、もはや、どうしようもない事実であるのだが、本意ではなかったはずだ。きっと何か事情がある。
睨みつけてくる彼女を、〈蝿〉が低く嗤った。
「リュイセンは、彼の意思で、私に協力してくれたんですよ」
「嘘です!」
鎖を掛けられ、憐れに横たわり、長い黒絹の髪は乱れ放題……。
今のメイシアは、力なき者の象徴のような姿であった。それにも関わらず、高く澄んだ声は、勢いよく〈蝿〉の言葉を跳ね返した。青ざめていたはずの白磁の肌は紅潮し、怒気をまとう。
「随分と、はっきりおっしゃいますね」
半ば呆れたような、感心したような調子で〈蝿〉が微笑んだ。歯向かったメイシアに腹を立てる様子もないのは、優位に立つ者の余裕だろう。
「ですが、事実なのですよ。……ああ、では、こうしましょう。あとで、リュイセンに会わせて差し上げます。直接、本人に訊くとよいでしょう」
我ながら名案だとばかりに、美麗な顔が柔らかに緩んだ。
魅惑の微笑の中に、狡猾さが見え隠れする。少しでも気を抜くと、醜く歪んだ事態に呑み込まれてしまいそうだ。
メイシアは必死に自分を奮い立たせる。
今の言葉は、現状を把握するための、重要なヒントだ。
『あとで』と言った以上、メイシアがこの場で殺されることはないだろう。おそらく、どこかに監禁されるのだ。
彼女を囚えた目的を果たすまでは、身の安全は保証されるとみてよさそうだ。長期戦になるだろうが、その分、〈蝿〉を出し抜く機会はあるはずだ。
そして、〈蝿〉のほうから、リュイセンに会わせてくれると言い出した。
これは重大な情報だ。
もしも、リュイセンが薬などで自我を奪われているのであれば、〈蝿〉は彼を隠すだろう。つまり、リュイセンの意識は、はっきりとしており、しかし卑劣な手段によって〈蝿〉に逆らうことができないのだ。
しかも、メイシアとリュイセンが力を合わせたところで、現状を覆すことはできない。少なくとも、〈蝿〉はそう考えている。そうでなければ、ふたりを近づけない。
この自信の根拠は、なんであろう?
そもそも、どうしてリュイセンは、〈蝿〉に従う羽目になった……?
「何か、問題でも?」
メイシアの思考を遮るように、薄ら笑いの声が割り込んだ。裏を読もうとしても無駄ですよ、と言っているように聞こえた。
確かに、今ここで考えても答えは出まい。〈蝿〉の言いなりも癪だが、リュイセンに会えば、もう少し何かが分かるだろう。
「いえ。あなたのおっしゃる通り、リュイセンに訊くことにします」
「ええ、それがよいでしょう。……では、そろそろ、私の話を始めてもよろしいですか?」
刹那、メイシアの背筋に緊張が走った。
〈蝿〉が彼女を囚えた理由――その話だと、直感的に悟る。
「すみません。体勢を変えさせてください」
メイシアは大きく息を吐き、体の芯に力を入れた。
いつまでも、こんな情けない格好では心が弱くなってしまう。せめて、きちんと体を起こすのだ。
彼女は、枷で繋がれた不自由な両手を支えにしながら、ゆっくりと上体を持ち上げた。ベッドから足を下ろし、膝を揃えてきちんと座る。背筋を伸ばし、椅子に腰掛けた〈蝿〉と目線を合わせるべく顔を上向かせると、彼女の気迫を後押しするかのように黒絹の髪がさらさらと背中を流れた。
「私は、鷹刀セレイエを見つけ出したいのです」
閉ざされた地下に、秘密を打ち明けるかのような〈蝿〉の低い声が響いた。
「セレイエさん……ですか」
「ええ。彼女は、自分の〈影〉であるホンシュアに命じて、私を作り、騙し、『駒』として利用しました」
〈蝿〉から、昏い憎悪が放たれた。
それは、ここにはいないセレイエに向けられたものであったが、余波を浴びたメイシアは身を震わせる。
「鷹刀セレイエは、『デヴァイン・シンフォニア計画』を企てておきながら、自分自身では手を下さず、すべて〈影〉に任せていました。そして、〈影〉が死んでなお、いまだ隠れ続けている。――その彼女を表に引きずり出したいのですよ」
そこまで言って、〈蝿〉はじっとメイシアを見つめた。口元はわずかにほころび、不気味な笑みが浮かんでいる。
獲物を狙う捕食者の、ぞくりとする視線だった。吸い付いてくるような瞳は、まるで舌舐めずりをしているかのよう。
メイシアは奥歯を噛み締め、ひるみそうになる心をぐっと抑える。
ふたりの間で、無音が広がった。
実際には、研究室内にある機械類が鈍く振動していたのだが、それはもはや音として認識されない。
握りしめた手が、しっとりと汗ばむ。
――〈蝿〉はセレイエに復讐したい、ということだろうか……?
メイシアもまた、〈蝿〉の顔を凝視した。
鷹刀一族そのものの、美麗な顔貌。生え際に混じる白い毛が、神経質な印象を与える。武の家系の直系でありながら医学を極めた彼は、知的であり、冷徹にも見え、そのくせ所作はどこか柔らかい……。
不意に、〈蝿〉が吐息を漏らした。
「この程度では、なんの反応もありませんか」
「え……?」
メイシアは瞳を瞬かせた。
「あなたの中の『鷹刀セレイエ』に語りかけたつもりだったのですが、どうやら届かなかったようです」
「私の中の、セレイエさん……? どういうこと……ですか?」
メイシアの心臓が警鐘を鳴らし始めた。
問い返しながらも彼女の中に予感が芽生え、恐怖が体を凍らせていく。
「おや、賢しいあなたが、私の言葉の意味を理解できないとは意外ですね」
〈蝿〉は小馬鹿にしたように肩をすくめた。
「リュイセンが言ったはずですよ。あなたは『鷹刀セレイエの〈影〉』だと」
「……っ!」
メイシアは鋭く息を呑む。悲鳴のような音が喉からこぼれた。
「鷹刀の面々に漏らしてしまったと、リュイセンから報告を受けているのですが……聞いていませんか?」
「私……、私は……私、です……! 〈影〉なんかじゃ……!」
途切れ途切れの反論は弱々しく、語尾は擦り切れ、消えていく……。
リュイセンが戻ってきたあとの、会議のとき。
ルイフォンに問い詰められたリュイセンは、苦しげに告げた。
『メイシアは、『セレイエの〈影〉』だそうだ……』
『なんだよ、それ? あり得ねぇだろ!』
ルイフォンは笑い飛ばしてくれた。
『俺だって、〈蝿〉にそう言った! そしたら、『今はメイシア本人だけど、いずれメイシアでなくなる』と……』
リュイセンは噛み付くように言い返した。
『〈蝿〉に『契約』が発動した。『王族の血を濃く引いた、あの娘なら』――そう言いかけたところで苦しみ始めた』
「ああ……、ああぁ……!」
メイシアの脳裏に、あのときのやり取りが蘇る。
思わず耳をふさごうとして、鎖にじゃらりと邪魔された。離すことのできない両手では、両耳をふさげない。
そもそも、記憶に残る声は、耳をふさいだところで消えはしない……。
『私は何者でもなく、ただの『メイシア』で――ルイフォンのそばに居る者なの』
『怖いと思う。何が起きているのかすら分からないのが、凄く不安……。でも、ルイフォンが居る。だから、大丈夫』
ルイフォンと、ふたりきりになったとき、メイシアはそう言った。
『ルイフォンがいるから、大丈夫』
けれど、今ここに、彼はいない。
愛しくて、切なくて、苦しい。
自分が、自分以外になったら、この気持ちを忘れてしまうのだろうか……?
……嫌だ。許せない。
――この魂を奪われてなるものか……!
「〈蝿〉!」
黒曜石の瞳を真っ赤に充血させ、メイシアは叫んだ。
「私は、私です! 何故、私を『セレイエさんの〈影〉』などと言うのですか!」
黒絹の髪を振り乱し、牙をむいたメイシアに、しかし〈蝿〉は苦笑した。
「迂闊なことを言えば、私は『契約』に抵触してしまうのですよ。……それも、リュイセンから聞いているでしょう?」
「答える気がないのなら、別に構いません。私は〈影〉になるつもりなどありませんから、この話は終わりにしましょう!」
すると〈蝿〉は、何が可笑しいのか喉の奥で静かに嗤った。すっと立ち上がり、メイシアの両手を繋ぐ鎖を掴む。そして、それをぐいと引き上げた。
「あなたは、自分が囚われの身だということをお忘れではないですか?」
「!?」
次の瞬間、彼女の体はふわりと宙を舞った。
〈蝿〉は、たいして力を加えたようには見えなかった。しかし、彼女は軽々と投げ飛ばされ、冷たい床に打ち付けられる。
「…………っ!」
全身に痛みが広がった。枷に繋がれた手では受け身を取ることもできず――そもそも、彼女の身体能力では、たとえ両手が自由だったとしても、されるがままに転がされるしかなかっただろう。
「あなたの中の『鷹刀セレイエ』が目覚めてくださらないと、私が困るのですよ。その記憶が、雲隠れした鷹刀セレイエの居場所を知る、唯一の手掛かりなのですから」
高い位置から見下ろし、〈蝿〉は冷酷な声で告げる。
「鷹刀セレイエ本人だって、きっと困っていることでしょう。『デヴァイン・シンフォニア計画』の水先案内人として、あらゆる雑事をこなしていたホンシュアが死んだ今、代わりの〈影〉が必要なはずです」
メイシアは悟る。
自分の置かれた立場を忘れ、感情のままに叫んだのは、確かに失態だった。囚われの身だからこそ、冷静になる必要があった。
ここは敵地で、メイシアは今、戦っているのだ。
非力な彼女は、賢く立ち回らなければならない。
そのために、敵である〈蝿〉を知る。どんな些細なことでもいい、〈蝿〉を理解する。だから、今は彼との会話を繋げるのだ……。
威圧的な〈蝿〉に、メイシアは震えながら、それでも毅然と上を向いた。
彼女は、よろよろと立ち上がり、ベッドに座る。〈蝿〉は、その様子を興味深げに見るだけで、止めることはなかった。
そして、時間が少し前に巻き戻ったかのように、ふたりは再び向き合った――。