残酷な描写あり
4.囚われの姫君-2
「取り乱したりして、失礼いたしました」
メイシアは、〈蝿〉に頭を下げた。
黒絹の髪の先が、自分の膝をさらりと撫でる。体を動かすと、投げ飛ばされたときに打った背中が悲鳴を上げたが、その痛みは矜持でもって表には出さなかった。
「おやおや、急に従順になりましたね」
揶揄するような〈蝿〉の言葉を、彼女はじっと聞き流す。彼を怒らせるのは得策ではない。たった今、文字通りに『痛いほど』理解した。
そんな彼女の屈辱など、お見通しなのだろう。〈蝿〉が愉悦の笑みを浮かべる。
「心を入れ替えたあなたに、敬意を表して良いことを教えて差し上げましょう」
〈蝿〉の言うことなど碌なことではない。
身構えると、自然と肩に力が入る。その様子に、〈蝿〉がまた嬉しそうに目を細めた。
「『契約』に抵触するため、詳しい理屈は説明できませんが、リュイセンに教えたことの半分は嘘ですよ」
「え……?」
「あなたは『鷹刀セレイエの〈影〉』であり、『今はあなた本人だけど、いずれあなたでなくなる』という話――本当は、少し違うのです」
「!?」
メイシアは不審と不安、それから、ほんの少しの期待で体を震わせた。無意識に自分の体を抱きしめれば、手枷の鎖が油断は禁物だとばかりに、じゃらりと音を立てる。
「あなたにとっては朗報ですよ」
優しげにすら見える眼差しで、彼女を囚えている〈悪魔〉は告げる。
「あなたは、あなたのまま、別人になることはありません。あなたは、ただ『鷹刀セレイエ』の記憶『も』、持っているだけ――……っ!」
突然、〈蝿〉は、白衣の胸をぐしゃりと握りしめた。ぱりっとした布地を皺だらけにして、彼は苦痛に顔を歪める。
「〈蝿〉!?」
「な、に……!? ……この……程度で……、駄目、なのか……! 糞……っ」
「大丈夫ですか!?」
メイシアは血相を変えた。たとえ彼が敵であっても、いきなり目の前で苦しみ出したら、さすがに落ち着いてなどいられない。思わず、ベッドから飛び降りる。
「だから……『契約』……言った……しょう……!」
脂汗を浮かべながら、憤怒の顔で〈蝿〉は言い放った。駆け寄ろうとしたメイシアをぎろりと睨みつけ、追い返すように鋭く手を払う。
「しばらく……、収まり……す」
〈蝿〉の荒い呼吸が、空間を占めた。
辛そうに肩を上下させる〈蝿〉を瞳に映し、メイシアは茫然と、倒れ込むようにしてベッドに戻る。
「『契約』……、王族の『秘密』に抵触したから……」
今、起きたことを確認するかのように、彼女は、ぽつりと言葉を落とした。
「私は、私のままでありながら、セレイエさんの記憶も持つことができる。それは、私が王族の血を引いているから……?」
〈蝿〉は憎々しげに眉を寄せたものの、ふいと目をそらした。聞こえなかったふりをしたのだ。
当然だろう。迂闊に肯定などしようものなら、死が訪れる。
しかし、その彼の態度が、彼女の言葉の正しさを示していた。
それは、すなわち。
メイシアの魂は、奪われることはない――。
「あぁ……」
心の底から、安堵が広がる。
歓喜がこみ上げてきた。こんな状況にも関わらず、薄紅の唇に微笑みが浮かぶ。
ルイフォン、と心の中で呼びかけた。
必ず、あなたのもとに帰るから……。
「安心しましたか?」
憮然とした声が、彼女を現実に引き戻した。
〈蝿〉を見やれば、彼は乱れた髪を整え、白衣の襟元を正していた。具合いが良くなったのか、声にはまだ、かすれたところがあるものの、言葉はしっかりとしている。
「あなたが、あなたの中の『鷹刀セレイエ』をあれほど激しく拒絶してしまっては、『彼女』が目覚めるのは難しいかと思いましてね。あなたを落ち着けて差し上げようとしたのですよ。……無茶をしました」
「……」
随分と恩着せがましい物言いだった。〈蝿〉が無茶をしたのは自分の利益のためであり、メイシアを喜ばせるためではない。
だから、当然のことながら、〈蝿〉に対して感謝の気持ちなど、微塵にも抱く気にならない。
ただ――。
いまだ〈蝿〉の額に張り付いている、白髪混じりの前髪を見つめながら、メイシアは思う。
彼は決して、狂人などではなく、『セレイエを見つける』という目的のためになら、手段を問わないほどに必死なだけだ。
だからこそ、手強い。
そして、リュイセンも……。
〈蝿〉が、リュイセンに『今はメイシア本人だけど、いずれメイシアでなくなる』と嘘をついたのは、『契約』への抵触を避けると同時に、彼の裏切りを後押しするためだ。
リュイセンが裏切らなくても、やがてメイシアは消えてしまう。そう説明されれば、リュイセンも決断しやすくなる。
何故、リュイセンが〈蝿〉の言いなりになってしまったのかは、まったくの謎だけれど、彼もまた、『何か』に必死なのは確かだ……。
「計画では、時が来れば、あなたの中の『鷹刀セレイエ』は自然に目覚めるはずだったそうですよ」
『契約』の警告が収まったからか、前より少し軽い口調で、〈蝿〉が世間話のように告げる。
メイシアは、問わずにはいられなかった。
「……あなたがセレイエさんを探しているのは、彼女に復讐するため、ですか?」
〈蝿〉がメイシアの中の『セレイエ』を目覚めさせようと躍起になっているのは、行方不明のセレイエの居場所を訊くためだ。
では、セレイエに会ったなら――?
メイシアの黒曜石の瞳が陰りを帯びる。
「〈蝿〉……、あなたは『デヴァイン・シンフォニア計画』のために、セレイエさんに作られたと聞きました。『駒』にされるために生を享けたなら、セレイエさんに対するあなたの恨みは、もっともなことだと思います」
けど――と、続けようとしたところで、〈蝿〉が口を挟んだ。
「ほう? いったい何を言い出すかと思えば……」
彼は、わざとらしく驚いたように眉を上げ、鼻で笑う。
「同情を装った、ご機嫌取りですか」
「い、いえ!」
メイシアは、反射的に否定した。
しかし、否定してから気づく。
囚われの身の彼女にとって、〈蝿〉の機嫌を取ることは必要なことだ。彼に寄り添うような姿勢を見せることで、彼の口を滑らかにし、少しでも役に立ちそうな情報を引き出す。
良いことではない。けれど、やるべきことだ。これは、彼女の戦いなのだから。
メイシアは、手枷の鎖を鳴らし、胸に手を当てた。
それは、高鳴る鼓動を鎮めるためでもあり、同時に、自分の行為は、決して卑屈な腰巾着のそれではないと、胸を張るためでもあった。
「私……、あなたのお姉様に――ユイラン様にお会いしました」
「姉さん……!?」
〈蝿〉はあからさまに顔色を変えた。
メイシアは、やはり、と内心で思う。
目的のためには手段を選ばないような〈蝿〉であるが、彼の心にも弱い部分がある。
――『鷹刀一族への思い』だ。
もはや関係の修復は不可能と諦めながらも、彼は今でも一族を大切に思っている。それは、これまでのやり取りから明らかで、だからメイシアは、卑劣と思いながらも『偽りの『和解』で彼を騙す』という策まで考えた。
ユイランの名前を出したのは、生前のヘイシャオにとって身近であろう人物で、かつ現在、正面から敵対しているイーレオやエルファンを避けた結果だ。
「ユイラン様は、『弟の死は、事実上の自殺だった。だから、彼が自分の意思で生き返ることはあり得ない。〈蝿〉は、弟の最期の思いを無視して、第三者に利用されてしまった悲しい存在だ』と、やるせなさそうで……。だから、あなたがセレイエさんを恨む気持ちは当然のものだと、私は――」
「はっ!」
突然、〈蝿〉が不快感もあらわに吐き捨てた。言葉の途中で遮られ、メイシアはびくりと肩を上げる。
「それはつまり、私は『不本意に『生』を享けたから』、鷹刀セレイエを恨んでいる。――そういうことですか!?」
その通りだ。
意に反しての蘇りを強いられた上に、『駒』にされたのだ。さぞや恨み骨髄だろうと、メイシアは話を持っていくつもりだった。
しかし、〈蝿〉の放つ殺気が、彼女から声を奪う。触れてはいけない話題だったのだろうか。彼の態度の理由がまるで分からない。
「あなたも――姉さんも、『私』は自殺したと言うのですね!」
〈蝿〉の剣幕に、メイシアはたじろいだ。
「ええ、分かっていますとも! それが真実なのでしょう! 死の間際のホンシュアも、同じことを言っていましたから!」
彼は、悪鬼の形相で吠えた。
わなわなと曲げられた指で、白髪混じりの自分の頭を掻きむしる。まるで、その中にある記憶をほじくり返し、暴こうとでもするかのように。
「けれど、『私』は知りません……! 『私』は、『鷹刀ヘイシャオ』が死んだことすら知りません!」
「え……? ……あっ!」
メイシアは一瞬、混乱し、しかし聡明な彼女は、すぐに〈蝿〉の悲痛な叫びの意味を察する。息を呑んだ彼女に、畳み掛けるようにして吐き出された彼の次の台詞が、彼女の推測の正しさを証明した。
「当然でしょう! 『私』が持つ記憶は、『ヘイシャオが生きている間』に保存されたもの。『私』が、彼の死を知るはずがありません!」
「……っ」
叩きつけられた鋭い声に、メイシアは肩を縮こませる。
「私は――いえ、オリジナルの『鷹刀ヘイシャオ』は、ミンウェイと約束を交わしました。『生を享けた以上、生をまっとうする』――これは、『私』にとって絶対の誓約です」
昏い美貌に、矜持に似た何かが浮かぶ。
「鷹刀ヘイシャオが、自殺などするはずがないのです。彼が自ら『死』を望むなど、あり得ない!」
「きゃっ」
だんっ、と強く足を踏み鳴らした〈蝿〉に、メイシアは思わず悲鳴を上げた。
激しい憤りの表情を見せながら、しかし、彼の心は明らかに追い詰められていた。それは、彼が鷹刀ヘイシャオ本人ではなく、作られた『もの』であるが故の苦しみであり、憐れであり、不幸だった。
「ええ、私も馬鹿ではありません。分かっていますよ。――私の持つ記憶が保存された時点から、オリジナルの鷹刀ヘイシャオが死ぬまでの間に、『彼が心変わりするような事件があった』ということでしょう」
ぞっとするほどに深く、怨嗟に満ちた笑みで、〈蝿〉は自嘲する。
「しかし、たとえ何があったとしても、『死』はミンウェイへの裏切り行為です。私はヘイシャオを許しません」
『ミンウェイ』と口にしたときだけ、〈蝿〉の声色が変わる。
切なげで愛しげで、辛そうでもあるのに、そのときだけ険が和らぐ……。
彼の言う『ミンウェイ』は、メイシアのよく知るミンウェイではなく、彼女の母であり、〈蝿〉の妻であった女を指すことは一目瞭然だった。
「小娘。あなたは、私が鷹刀セレイエを探す理由を訊きましたね。――お答えしましょう。『私が、生き残るため』ですよ」
「……!?」
唐突な発言だった。
メイシアは理解が追いつかず、黒曜石の瞳をただただ大きく見開く。そんな彼女に、〈蝿〉が口の端を上げた。
「まず初めに確認ですが、鷹刀の子猫や、あなたの異母弟がこの館で見聞きしたことは、あなたにも伝わっていると考えて問題ありませんね?」
「――はい」
恐る恐る、答えた。
何か、とんでもない話が始まる予感がして、メイシアの体は、否が応でも緊張で固まっていく。
「ならば、私が〈神の御子〉を――『ライシェン』を作ったことはご存知でしょう?」
「はい……」
「『ライシェン』は、王家のトップシークレットです。摂政カイウォルは、完成した『ライシェン』を受け取ったあかつきには、秘密を知る私を殺そうとするでしょう」
メイシアは、そのまま頷こうとして、はたと疑問に思った。戸惑いの呼吸に、気配にさとい〈蝿〉が、ぎろりと目玉を動かす。
この状況で何も言わないのは得策ではないだろう。彼女は遠慮がちに「すみません」と断り、慎重に言葉を選びながら、おずおずと尋ねる。
「王家に〈神の御子〉が必要になったとき、〈悪魔〉たちが〈神の御子〉を作ることは、慣例となっているはずです。なのに、役目を果たした〈悪魔〉が殺されるなんて、おかしいと思います」
彼女の弁に、〈蝿〉は面倒臭そうに鼻を鳴らした。
「『ライシェン』には、特別な事情があるのですよ」
気になる答えだった。
しかし、〈蝿〉は、それ以上のことを言うつもりはないらしく、「さておき」と続ける。これでは、メイシアは押し黙るしかない。
「そして、鷹刀セレイエもまた、摂政に命を狙われています。摂政にとって、彼女は私以上に目障りな人間なのですよ。彼女がすべてを〈影〉に任せて雲隠れしているのも、おそらく摂政から身を守るためでしょう」
メイシアは瞳を瞬かせた。
セレイエもまた、〈蝿〉と同じく、王族にとって大事な〈悪魔〉であるはずだ。なのに、この扱いはどういうことだろう。
首をかしげたメイシアの耳に、驚くべき〈蝿〉の発言が流れてくる。
「ですから、私は、摂政に対抗するために、鷹刀セレイエと手を組みたいのです」
「……!?」
思わず、目を見開いた。
〈蝿〉は、セレイエを恨んでいるのではなかったか……?
その疑問は、そのまま顔に出ていたのだろう。彼は忌々しげに口元を歪め、神経質な眉間に皺を寄せた。
「あなたの言いたいことは分かります。私は、自分を『駒』にしたセレイエを憎んでいるはずだ、手を組むなど、あり得ない。――そうでしょう?」
声高な〈蝿〉に圧倒され、メイシアの喉が張り付いた。故に、彼女はただ、ゆっくりと首肯する。
「……憎んでいますよ。こうしている今だって、はらわたが煮えくり返っています。――しかし、『生きて』と言った、ミンウェイとの最後の約束を守るためには、そうするしかないのです」
〈蝿〉にとって、死んだ妻の言葉は何よりも重いらしい。
彼女と交わした約束は、絶対の誓約。
純粋すぎる思いが、痛々しいほどの哀愁を漂わせる。
けれど同時に、そんな彼を冷ややかな目で見つめる自分がいることに、メイシアは気づいた。
彼の言葉を、ほんの少し離れて聞いてみれば、それはただの生への執着だ。
この男は、他人の犠牲をいとわない。メイシアの父は、彼に殺されたも同然だ。そんな人間の語る生など、耳を傾ける価値はない。――そう思う。
「鷹刀セレイエへの復讐は、私の身の安全が保証されてからです。場合によっては、表に引きずり出した彼女を摂政に売って、保身を図ってもよいわけです。交渉次第ですよ」
そう言って〈蝿〉は、ねとつく視線をメイシアに向ける。
「何しろ私の手元には、鷹刀セレイエが最大の頼みにしている『最強の〈天使〉の器』がありますからね。彼女は私を無下にはできないはずです」
「!?」
捕食者の目だった。
本能的に身の危険を感じ、メイシアの背筋が凍る。
『最強の〈天使〉の器』――あの会議のときに、リュイセンが、メイシアに対して口にした言葉だ。そして、イーレオが『契約』に苦しみ、エルファンがこう叫んだのだ――。
「――王族の血を引く者が〈天使〉になれば、強い力を持つ……」
知らず、声に出した彼女に、〈蝿〉が驚きの表情を見せる。
「どうしてそれを?」
失言だったのか――?
焦るメイシアに〈蝿〉が無言の圧力を掛ける。故に、彼女は選択の余地もなく答えた。
「……エルファン様が、ルイフォンのお母様から――〈天使〉だったキリファさんから聞いたそうです」
「なるほど。『契約』に触れかねない話でしたから、あなたがご存知で助かりました」
〈蝿〉は、ほっとしたように息を吐いた。
「そうです。あなたこそ、『最強の〈天使〉の器』です。……ひとつ付け加えるならば、あなたが最強といえる理由は、王族の血を引くことに加えて、あなたの中に『鷹刀セレイエ』の記憶があるからですよ」
「え?」
「〈天使〉の力の使い方を熟知した『鷹刀セレイエ』の知識があるからこそ、最強たり得るのです。ただ王族の血を引いているだけでは、力は強くとも、制御しきれずに熱暴走を起こすだろうと、ホンシュアが言っていました」
メイシアは、無意識に自分の体を抱きしめた。
血の気の引いた白蝋のような顔で、じっと〈蝿〉の言葉を噛みしめる。室温は変わっていないはずなのに、寒くてたまらない。
「あなたは切り札です。あなたの身柄が、私を優位に立たせてくれる。――あなたは、『デヴァイン・シンフォニア計画』を生き抜くための、最大の鍵なのです」
「『デヴァイン・シンフォニア計画』……」
結局は、これなのだ。
がたがたと、体が震える。
その動きに合わせ、手首から伸びた鎖が、囚われの音色を響かせる。
「……『デヴァイン・シンフォニア計画』とは、いったい、なんなのですか?」
仕組まれた運命からの解放を祈るように、メイシアの口から細い声が漏れた。
「私も全貌を把握しているわけではありません。それより、あなたの中の『鷹刀セレイエ』が目覚めれば、あなたは自然にすべてを知ることができるはずなのですが……」
〈蝿〉は、ほんの少し思案の顔を見せ、そして続けた。
「わざわざ説明するのは面倒臭いと思っておりましたが、まぁ、よいでしょう。あなたの中の『鷹刀セレイエ』への刺激になるかもしれませんし、あなたが驚く顔を見るのも面白い余興でしょう」
閉ざされた地下の研究室に、魅惑の薄笑いが広がる。
白衣の〈悪魔〉は、まるで呪文を描くかのように、虚空に向かって指を滑らせた。
「『デヴァイン・シンフォニア』は、『di;vine+sin;fonia』と綴るのだそうですよ」
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『蔓』。
つまり、『ふたつの蔓』。
――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は語呂合わせ。
これらの意味を繋ぎ合わせて、『命に対する冒涜』。
「鷹刀セレイエは、自分の『願い』が冒涜であると理解していながら、それでもなお、望まずにはいられなかったんですよ」
「セレイエさんの『願い』……?」
メイシアが問うと、〈蝿〉の喉の奥から低い嗤いが返ってきた。
「彼女は私と同類です。――死んだ人間を諦めきれず、それが『命に対する冒涜』と知りながらも、蘇らせようと希う……」
「セレイエさんは、どなたか大切な方を亡くした。……そういうことですか?」
顔色を変えたメイシアに、〈蝿〉は大仰なほどに深々と頷いた。
「ええ。鷹刀セレイエは子供を亡くしました。……殺されたんですよ」
「!?」
メイシアは息を呑んだ。
ルイフォンが言っていた。――異父姉のセレイエは貴族と駆け落ちをしたと。
そして、子供が生まれていたのだ。
「どうして……、殺されるなんて……」
メイシアのその言葉を待っていたのだろう。〈蝿〉がにやりと嗤う。
「生まれた子供が、『白金の髪、青灰色の瞳の男子』――すなわち、〈神の御子〉の男子だったからですよ」
「――!」
それがもし本当ならば、その子供は現女王を退け、王位に就く資格を持つ。
しかし、王族にしてみれば、どこの馬の骨とも知れぬ女が産んだ子供を王と認めるだろうか。
――否だ。
だから、殺されたのだ。
「もう、お分かりでしょう? 〈神の御子〉の『ライシェン』。――彼は、鷹刀セレイエの子供のクローンです」
「……!」
悲鳴が、漏れそうになった。
声を押さえようと口元に手を当てると、それに連なる手枷の鎖が、代わりの音を高く響かせる。
〈悪魔〉は蕩けるような微笑を浮かべ、甘やかさすら漂う優しい低音で、そっと囁いた。
「鷹刀セレイエは、殺された息子を『次代の王』として誕生させようとしているのですよ」
それが――。
『デヴァイン・シンフォニア計画』。
メイシアは、〈蝿〉に頭を下げた。
黒絹の髪の先が、自分の膝をさらりと撫でる。体を動かすと、投げ飛ばされたときに打った背中が悲鳴を上げたが、その痛みは矜持でもって表には出さなかった。
「おやおや、急に従順になりましたね」
揶揄するような〈蝿〉の言葉を、彼女はじっと聞き流す。彼を怒らせるのは得策ではない。たった今、文字通りに『痛いほど』理解した。
そんな彼女の屈辱など、お見通しなのだろう。〈蝿〉が愉悦の笑みを浮かべる。
「心を入れ替えたあなたに、敬意を表して良いことを教えて差し上げましょう」
〈蝿〉の言うことなど碌なことではない。
身構えると、自然と肩に力が入る。その様子に、〈蝿〉がまた嬉しそうに目を細めた。
「『契約』に抵触するため、詳しい理屈は説明できませんが、リュイセンに教えたことの半分は嘘ですよ」
「え……?」
「あなたは『鷹刀セレイエの〈影〉』であり、『今はあなた本人だけど、いずれあなたでなくなる』という話――本当は、少し違うのです」
「!?」
メイシアは不審と不安、それから、ほんの少しの期待で体を震わせた。無意識に自分の体を抱きしめれば、手枷の鎖が油断は禁物だとばかりに、じゃらりと音を立てる。
「あなたにとっては朗報ですよ」
優しげにすら見える眼差しで、彼女を囚えている〈悪魔〉は告げる。
「あなたは、あなたのまま、別人になることはありません。あなたは、ただ『鷹刀セレイエ』の記憶『も』、持っているだけ――……っ!」
突然、〈蝿〉は、白衣の胸をぐしゃりと握りしめた。ぱりっとした布地を皺だらけにして、彼は苦痛に顔を歪める。
「〈蝿〉!?」
「な、に……!? ……この……程度で……、駄目、なのか……! 糞……っ」
「大丈夫ですか!?」
メイシアは血相を変えた。たとえ彼が敵であっても、いきなり目の前で苦しみ出したら、さすがに落ち着いてなどいられない。思わず、ベッドから飛び降りる。
「だから……『契約』……言った……しょう……!」
脂汗を浮かべながら、憤怒の顔で〈蝿〉は言い放った。駆け寄ろうとしたメイシアをぎろりと睨みつけ、追い返すように鋭く手を払う。
「しばらく……、収まり……す」
〈蝿〉の荒い呼吸が、空間を占めた。
辛そうに肩を上下させる〈蝿〉を瞳に映し、メイシアは茫然と、倒れ込むようにしてベッドに戻る。
「『契約』……、王族の『秘密』に抵触したから……」
今、起きたことを確認するかのように、彼女は、ぽつりと言葉を落とした。
「私は、私のままでありながら、セレイエさんの記憶も持つことができる。それは、私が王族の血を引いているから……?」
〈蝿〉は憎々しげに眉を寄せたものの、ふいと目をそらした。聞こえなかったふりをしたのだ。
当然だろう。迂闊に肯定などしようものなら、死が訪れる。
しかし、その彼の態度が、彼女の言葉の正しさを示していた。
それは、すなわち。
メイシアの魂は、奪われることはない――。
「あぁ……」
心の底から、安堵が広がる。
歓喜がこみ上げてきた。こんな状況にも関わらず、薄紅の唇に微笑みが浮かぶ。
ルイフォン、と心の中で呼びかけた。
必ず、あなたのもとに帰るから……。
「安心しましたか?」
憮然とした声が、彼女を現実に引き戻した。
〈蝿〉を見やれば、彼は乱れた髪を整え、白衣の襟元を正していた。具合いが良くなったのか、声にはまだ、かすれたところがあるものの、言葉はしっかりとしている。
「あなたが、あなたの中の『鷹刀セレイエ』をあれほど激しく拒絶してしまっては、『彼女』が目覚めるのは難しいかと思いましてね。あなたを落ち着けて差し上げようとしたのですよ。……無茶をしました」
「……」
随分と恩着せがましい物言いだった。〈蝿〉が無茶をしたのは自分の利益のためであり、メイシアを喜ばせるためではない。
だから、当然のことながら、〈蝿〉に対して感謝の気持ちなど、微塵にも抱く気にならない。
ただ――。
いまだ〈蝿〉の額に張り付いている、白髪混じりの前髪を見つめながら、メイシアは思う。
彼は決して、狂人などではなく、『セレイエを見つける』という目的のためになら、手段を問わないほどに必死なだけだ。
だからこそ、手強い。
そして、リュイセンも……。
〈蝿〉が、リュイセンに『今はメイシア本人だけど、いずれメイシアでなくなる』と嘘をついたのは、『契約』への抵触を避けると同時に、彼の裏切りを後押しするためだ。
リュイセンが裏切らなくても、やがてメイシアは消えてしまう。そう説明されれば、リュイセンも決断しやすくなる。
何故、リュイセンが〈蝿〉の言いなりになってしまったのかは、まったくの謎だけれど、彼もまた、『何か』に必死なのは確かだ……。
「計画では、時が来れば、あなたの中の『鷹刀セレイエ』は自然に目覚めるはずだったそうですよ」
『契約』の警告が収まったからか、前より少し軽い口調で、〈蝿〉が世間話のように告げる。
メイシアは、問わずにはいられなかった。
「……あなたがセレイエさんを探しているのは、彼女に復讐するため、ですか?」
〈蝿〉がメイシアの中の『セレイエ』を目覚めさせようと躍起になっているのは、行方不明のセレイエの居場所を訊くためだ。
では、セレイエに会ったなら――?
メイシアの黒曜石の瞳が陰りを帯びる。
「〈蝿〉……、あなたは『デヴァイン・シンフォニア計画』のために、セレイエさんに作られたと聞きました。『駒』にされるために生を享けたなら、セレイエさんに対するあなたの恨みは、もっともなことだと思います」
けど――と、続けようとしたところで、〈蝿〉が口を挟んだ。
「ほう? いったい何を言い出すかと思えば……」
彼は、わざとらしく驚いたように眉を上げ、鼻で笑う。
「同情を装った、ご機嫌取りですか」
「い、いえ!」
メイシアは、反射的に否定した。
しかし、否定してから気づく。
囚われの身の彼女にとって、〈蝿〉の機嫌を取ることは必要なことだ。彼に寄り添うような姿勢を見せることで、彼の口を滑らかにし、少しでも役に立ちそうな情報を引き出す。
良いことではない。けれど、やるべきことだ。これは、彼女の戦いなのだから。
メイシアは、手枷の鎖を鳴らし、胸に手を当てた。
それは、高鳴る鼓動を鎮めるためでもあり、同時に、自分の行為は、決して卑屈な腰巾着のそれではないと、胸を張るためでもあった。
「私……、あなたのお姉様に――ユイラン様にお会いしました」
「姉さん……!?」
〈蝿〉はあからさまに顔色を変えた。
メイシアは、やはり、と内心で思う。
目的のためには手段を選ばないような〈蝿〉であるが、彼の心にも弱い部分がある。
――『鷹刀一族への思い』だ。
もはや関係の修復は不可能と諦めながらも、彼は今でも一族を大切に思っている。それは、これまでのやり取りから明らかで、だからメイシアは、卑劣と思いながらも『偽りの『和解』で彼を騙す』という策まで考えた。
ユイランの名前を出したのは、生前のヘイシャオにとって身近であろう人物で、かつ現在、正面から敵対しているイーレオやエルファンを避けた結果だ。
「ユイラン様は、『弟の死は、事実上の自殺だった。だから、彼が自分の意思で生き返ることはあり得ない。〈蝿〉は、弟の最期の思いを無視して、第三者に利用されてしまった悲しい存在だ』と、やるせなさそうで……。だから、あなたがセレイエさんを恨む気持ちは当然のものだと、私は――」
「はっ!」
突然、〈蝿〉が不快感もあらわに吐き捨てた。言葉の途中で遮られ、メイシアはびくりと肩を上げる。
「それはつまり、私は『不本意に『生』を享けたから』、鷹刀セレイエを恨んでいる。――そういうことですか!?」
その通りだ。
意に反しての蘇りを強いられた上に、『駒』にされたのだ。さぞや恨み骨髄だろうと、メイシアは話を持っていくつもりだった。
しかし、〈蝿〉の放つ殺気が、彼女から声を奪う。触れてはいけない話題だったのだろうか。彼の態度の理由がまるで分からない。
「あなたも――姉さんも、『私』は自殺したと言うのですね!」
〈蝿〉の剣幕に、メイシアはたじろいだ。
「ええ、分かっていますとも! それが真実なのでしょう! 死の間際のホンシュアも、同じことを言っていましたから!」
彼は、悪鬼の形相で吠えた。
わなわなと曲げられた指で、白髪混じりの自分の頭を掻きむしる。まるで、その中にある記憶をほじくり返し、暴こうとでもするかのように。
「けれど、『私』は知りません……! 『私』は、『鷹刀ヘイシャオ』が死んだことすら知りません!」
「え……? ……あっ!」
メイシアは一瞬、混乱し、しかし聡明な彼女は、すぐに〈蝿〉の悲痛な叫びの意味を察する。息を呑んだ彼女に、畳み掛けるようにして吐き出された彼の次の台詞が、彼女の推測の正しさを証明した。
「当然でしょう! 『私』が持つ記憶は、『ヘイシャオが生きている間』に保存されたもの。『私』が、彼の死を知るはずがありません!」
「……っ」
叩きつけられた鋭い声に、メイシアは肩を縮こませる。
「私は――いえ、オリジナルの『鷹刀ヘイシャオ』は、ミンウェイと約束を交わしました。『生を享けた以上、生をまっとうする』――これは、『私』にとって絶対の誓約です」
昏い美貌に、矜持に似た何かが浮かぶ。
「鷹刀ヘイシャオが、自殺などするはずがないのです。彼が自ら『死』を望むなど、あり得ない!」
「きゃっ」
だんっ、と強く足を踏み鳴らした〈蝿〉に、メイシアは思わず悲鳴を上げた。
激しい憤りの表情を見せながら、しかし、彼の心は明らかに追い詰められていた。それは、彼が鷹刀ヘイシャオ本人ではなく、作られた『もの』であるが故の苦しみであり、憐れであり、不幸だった。
「ええ、私も馬鹿ではありません。分かっていますよ。――私の持つ記憶が保存された時点から、オリジナルの鷹刀ヘイシャオが死ぬまでの間に、『彼が心変わりするような事件があった』ということでしょう」
ぞっとするほどに深く、怨嗟に満ちた笑みで、〈蝿〉は自嘲する。
「しかし、たとえ何があったとしても、『死』はミンウェイへの裏切り行為です。私はヘイシャオを許しません」
『ミンウェイ』と口にしたときだけ、〈蝿〉の声色が変わる。
切なげで愛しげで、辛そうでもあるのに、そのときだけ険が和らぐ……。
彼の言う『ミンウェイ』は、メイシアのよく知るミンウェイではなく、彼女の母であり、〈蝿〉の妻であった女を指すことは一目瞭然だった。
「小娘。あなたは、私が鷹刀セレイエを探す理由を訊きましたね。――お答えしましょう。『私が、生き残るため』ですよ」
「……!?」
唐突な発言だった。
メイシアは理解が追いつかず、黒曜石の瞳をただただ大きく見開く。そんな彼女に、〈蝿〉が口の端を上げた。
「まず初めに確認ですが、鷹刀の子猫や、あなたの異母弟がこの館で見聞きしたことは、あなたにも伝わっていると考えて問題ありませんね?」
「――はい」
恐る恐る、答えた。
何か、とんでもない話が始まる予感がして、メイシアの体は、否が応でも緊張で固まっていく。
「ならば、私が〈神の御子〉を――『ライシェン』を作ったことはご存知でしょう?」
「はい……」
「『ライシェン』は、王家のトップシークレットです。摂政カイウォルは、完成した『ライシェン』を受け取ったあかつきには、秘密を知る私を殺そうとするでしょう」
メイシアは、そのまま頷こうとして、はたと疑問に思った。戸惑いの呼吸に、気配にさとい〈蝿〉が、ぎろりと目玉を動かす。
この状況で何も言わないのは得策ではないだろう。彼女は遠慮がちに「すみません」と断り、慎重に言葉を選びながら、おずおずと尋ねる。
「王家に〈神の御子〉が必要になったとき、〈悪魔〉たちが〈神の御子〉を作ることは、慣例となっているはずです。なのに、役目を果たした〈悪魔〉が殺されるなんて、おかしいと思います」
彼女の弁に、〈蝿〉は面倒臭そうに鼻を鳴らした。
「『ライシェン』には、特別な事情があるのですよ」
気になる答えだった。
しかし、〈蝿〉は、それ以上のことを言うつもりはないらしく、「さておき」と続ける。これでは、メイシアは押し黙るしかない。
「そして、鷹刀セレイエもまた、摂政に命を狙われています。摂政にとって、彼女は私以上に目障りな人間なのですよ。彼女がすべてを〈影〉に任せて雲隠れしているのも、おそらく摂政から身を守るためでしょう」
メイシアは瞳を瞬かせた。
セレイエもまた、〈蝿〉と同じく、王族にとって大事な〈悪魔〉であるはずだ。なのに、この扱いはどういうことだろう。
首をかしげたメイシアの耳に、驚くべき〈蝿〉の発言が流れてくる。
「ですから、私は、摂政に対抗するために、鷹刀セレイエと手を組みたいのです」
「……!?」
思わず、目を見開いた。
〈蝿〉は、セレイエを恨んでいるのではなかったか……?
その疑問は、そのまま顔に出ていたのだろう。彼は忌々しげに口元を歪め、神経質な眉間に皺を寄せた。
「あなたの言いたいことは分かります。私は、自分を『駒』にしたセレイエを憎んでいるはずだ、手を組むなど、あり得ない。――そうでしょう?」
声高な〈蝿〉に圧倒され、メイシアの喉が張り付いた。故に、彼女はただ、ゆっくりと首肯する。
「……憎んでいますよ。こうしている今だって、はらわたが煮えくり返っています。――しかし、『生きて』と言った、ミンウェイとの最後の約束を守るためには、そうするしかないのです」
〈蝿〉にとって、死んだ妻の言葉は何よりも重いらしい。
彼女と交わした約束は、絶対の誓約。
純粋すぎる思いが、痛々しいほどの哀愁を漂わせる。
けれど同時に、そんな彼を冷ややかな目で見つめる自分がいることに、メイシアは気づいた。
彼の言葉を、ほんの少し離れて聞いてみれば、それはただの生への執着だ。
この男は、他人の犠牲をいとわない。メイシアの父は、彼に殺されたも同然だ。そんな人間の語る生など、耳を傾ける価値はない。――そう思う。
「鷹刀セレイエへの復讐は、私の身の安全が保証されてからです。場合によっては、表に引きずり出した彼女を摂政に売って、保身を図ってもよいわけです。交渉次第ですよ」
そう言って〈蝿〉は、ねとつく視線をメイシアに向ける。
「何しろ私の手元には、鷹刀セレイエが最大の頼みにしている『最強の〈天使〉の器』がありますからね。彼女は私を無下にはできないはずです」
「!?」
捕食者の目だった。
本能的に身の危険を感じ、メイシアの背筋が凍る。
『最強の〈天使〉の器』――あの会議のときに、リュイセンが、メイシアに対して口にした言葉だ。そして、イーレオが『契約』に苦しみ、エルファンがこう叫んだのだ――。
「――王族の血を引く者が〈天使〉になれば、強い力を持つ……」
知らず、声に出した彼女に、〈蝿〉が驚きの表情を見せる。
「どうしてそれを?」
失言だったのか――?
焦るメイシアに〈蝿〉が無言の圧力を掛ける。故に、彼女は選択の余地もなく答えた。
「……エルファン様が、ルイフォンのお母様から――〈天使〉だったキリファさんから聞いたそうです」
「なるほど。『契約』に触れかねない話でしたから、あなたがご存知で助かりました」
〈蝿〉は、ほっとしたように息を吐いた。
「そうです。あなたこそ、『最強の〈天使〉の器』です。……ひとつ付け加えるならば、あなたが最強といえる理由は、王族の血を引くことに加えて、あなたの中に『鷹刀セレイエ』の記憶があるからですよ」
「え?」
「〈天使〉の力の使い方を熟知した『鷹刀セレイエ』の知識があるからこそ、最強たり得るのです。ただ王族の血を引いているだけでは、力は強くとも、制御しきれずに熱暴走を起こすだろうと、ホンシュアが言っていました」
メイシアは、無意識に自分の体を抱きしめた。
血の気の引いた白蝋のような顔で、じっと〈蝿〉の言葉を噛みしめる。室温は変わっていないはずなのに、寒くてたまらない。
「あなたは切り札です。あなたの身柄が、私を優位に立たせてくれる。――あなたは、『デヴァイン・シンフォニア計画』を生き抜くための、最大の鍵なのです」
「『デヴァイン・シンフォニア計画』……」
結局は、これなのだ。
がたがたと、体が震える。
その動きに合わせ、手首から伸びた鎖が、囚われの音色を響かせる。
「……『デヴァイン・シンフォニア計画』とは、いったい、なんなのですか?」
仕組まれた運命からの解放を祈るように、メイシアの口から細い声が漏れた。
「私も全貌を把握しているわけではありません。それより、あなたの中の『鷹刀セレイエ』が目覚めれば、あなたは自然にすべてを知ることができるはずなのですが……」
〈蝿〉は、ほんの少し思案の顔を見せ、そして続けた。
「わざわざ説明するのは面倒臭いと思っておりましたが、まぁ、よいでしょう。あなたの中の『鷹刀セレイエ』への刺激になるかもしれませんし、あなたが驚く顔を見るのも面白い余興でしょう」
閉ざされた地下の研究室に、魅惑の薄笑いが広がる。
白衣の〈悪魔〉は、まるで呪文を描くかのように、虚空に向かって指を滑らせた。
「『デヴァイン・シンフォニア』は、『di;vine+sin;fonia』と綴るのだそうですよ」
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『蔓』。
つまり、『ふたつの蔓』。
――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は語呂合わせ。
これらの意味を繋ぎ合わせて、『命に対する冒涜』。
「鷹刀セレイエは、自分の『願い』が冒涜であると理解していながら、それでもなお、望まずにはいられなかったんですよ」
「セレイエさんの『願い』……?」
メイシアが問うと、〈蝿〉の喉の奥から低い嗤いが返ってきた。
「彼女は私と同類です。――死んだ人間を諦めきれず、それが『命に対する冒涜』と知りながらも、蘇らせようと希う……」
「セレイエさんは、どなたか大切な方を亡くした。……そういうことですか?」
顔色を変えたメイシアに、〈蝿〉は大仰なほどに深々と頷いた。
「ええ。鷹刀セレイエは子供を亡くしました。……殺されたんですよ」
「!?」
メイシアは息を呑んだ。
ルイフォンが言っていた。――異父姉のセレイエは貴族と駆け落ちをしたと。
そして、子供が生まれていたのだ。
「どうして……、殺されるなんて……」
メイシアのその言葉を待っていたのだろう。〈蝿〉がにやりと嗤う。
「生まれた子供が、『白金の髪、青灰色の瞳の男子』――すなわち、〈神の御子〉の男子だったからですよ」
「――!」
それがもし本当ならば、その子供は現女王を退け、王位に就く資格を持つ。
しかし、王族にしてみれば、どこの馬の骨とも知れぬ女が産んだ子供を王と認めるだろうか。
――否だ。
だから、殺されたのだ。
「もう、お分かりでしょう? 〈神の御子〉の『ライシェン』。――彼は、鷹刀セレイエの子供のクローンです」
「……!」
悲鳴が、漏れそうになった。
声を押さえようと口元に手を当てると、それに連なる手枷の鎖が、代わりの音を高く響かせる。
〈悪魔〉は蕩けるような微笑を浮かべ、甘やかさすら漂う優しい低音で、そっと囁いた。
「鷹刀セレイエは、殺された息子を『次代の王』として誕生させようとしているのですよ」
それが――。
『デヴァイン・シンフォニア計画』。