残酷な描写あり
5.創痍からの策動-2
挑発的なシュアンの声が、ルイフォンの心を揺さぶる。
『脅されたネタさえ暴いちまえば、リュイセンは味方に戻る』
『そしたら奴は、『難攻不落の敵地に、先だって潜入成功している、頼もしい仲間』になるんだぜ?』
――リュイセンの裏切りは、ミンウェイのため。
夢うつつに気づいたとき、胸が苦しくなった。
如何にも、兄貴分らしいと思った。
ミンウェイに伝わらないよう、誰にも言わなかったのだ。
ミンウェイに悟られないよう、何も残さなかったのだ。
リュイセンも、ミンウェイは悪くない。ただ、〈蝿〉が狡猾だっただけだ。
けれど、ミンウェイが知れば、彼女は気に病む。――だから、リュイセンは黙した。
如何にも兄貴分らしいと、ルイフォンは納得した。
その一方で、どうして自分に相談してくれなかったのかと、怒りを感じた。そんなに自分は頼りないのかと、憤りを覚えた。
……違う。そうではない。分かっている。
弟分のルイフォン以上に、ミンウェイのことが大切だっただけだ。
だから、『袂を分かった』という言葉を受け入れた。
リュイセンは敵だと、決別したのだ――。
シュアンは、ふんと鼻息を漏らすと、ぼさぼさ頭を弾ませ、ルイフォンの顔を覗き込んだ。
「おい」
思いがけず近くから聞こえた声に、ルイフォンは、はっと我に返る。
すっかりシュアンに呑まれていた。――それだけ彼の弁は的を射ていたと、認めざるを得ない。
「ハオリュウからの伝言だ。『摂政殿下を通して、〈蝿〉に圧力を掛ける準備をしています。他に、僕にできることがあれば、なんでもおっしゃってください』だそうだ」
急に現実的な話になり、ルイフォンは戸惑いながらも頭を切り替える。
「ハオリュウが、そんなことを……」
異母姉メイシアを屋敷内でさらわれ、彼は鷹刀に激怒していると聞いた。随分と買っていたリュイセンが裏切ったのだから、当然だろう。
育ちの良さからくる上品な振舞いと、人畜無害そうな平凡な容姿からは想像しにくいが、ハオリュウはかなり気性が激しい。もし、貴族の当主という立場ではなく、足が不自由でもなかったなら、とっくに〈蝿〉の庭園に乗り込んでいたに違いない。
「駄目だ。――シュアン、ハオリュウを止めてくれ」
ルイフォンは、押し殺したような声を吐き出した。
「気持ちはありがたいが、あいつが摂政に掛け合うってことは、あいつが摂政の手駒になることを約束する、って意味だ。ハオリュウの手は借りられない。メイシアだって、望んでいないはずだ……」
「そうだな。俺も『やめておけ』と言っておいた。――ハオリュウに頼まれたから、伝えただけだ。だから、これは忘れろ」
シュアンは椅子の背もたれに片腕を掛けるようにして、ふんぞり返り、大きく足を組んだ。見るからに偉そうな態度は、実は普段のルイフォンと大差ないのだが、他人がやると妙にむかつく。
「そもそもハオリュウだって、お前は断るだろう、と言っていた」
つまらない茶番のやり取りだったと言わんばかりの調子で、シュアンは吐き捨てる。
だったら、このどっかりと座り込んだ、長居する気で満々の姿勢はなんだ?
ルイフォンが憮然とした顔でシュアンを見やると、彼は意味ありげな嗤いを漏らした。人を喰ったような仕草が気に障る。
「そういうわけで、ハオリュウからの伝言が、もうひとつある」
シュアンは、三白眼をすっと眇めた。血色の悪い凶相が凄みを増し、まるきりの悪人面となる。
「『僕の手を取れないなら、リュイセンさんと協力してください』――だそうだ」
「は……?」
ルイフォンは呆けた。思いもよらぬ言葉だった。
……理解できない。
「おい! なんで、そうなるんだよ!?」
思わず、毛布に拳を打ちつけた。怪我さえなければ、ベッドから飛び降りて、シュアンの襟首を掴み上げていただろう。
そばで聞いていたミンウェイもまた、口元に手を当てて絶句する。しかし彼女は、ルイフォンの猫の目が、すぅっと細くなっていくのに気づくと、その先の彼の昂りを予測して、こわごわと身をすくめた。
「おい、シュアン! ハオリュウは、リュイセンに怒り狂っているんじゃなかったのか!? どういうことだよ!?」
「ああ。荒れ狂っていて、手がつけられない状態だったさ。まぁ、あいつの場合、ものに八つ当たりするわけじゃないけどな。――禍々しい顔で嗤いながら、自分の権力の限りを尽くした鷹刀への報復措置を、ひたすら紙に書き連ねていた」
「……」
だが、そのハオリュウが、どうして態度を一変させたのか。
ルイフォンの目が、ベッドからぎろりと上を向き、シュアンに尋ねる。
「思い込みの激しい、元気な嬢ちゃんが描いたという、あの絵を渡したのさ」
「――絵? ……なんだ、それ? ……あ」
ルイフォンは、はたと思い出した。
〈蝿〉の館に潜入したとき、ルイフォンたちは、部屋を抜け出していたタオロンの娘、ファンルゥを保護した。彼女は、窓から見かけた車椅子のハオリュウを〈蝿〉の患者だと思い込み、自分の描いた絵を持って見舞いに行こうとしていたのだ。
万一、脱走がばれたら、ファンルゥは、ただではすまないだろう。だから、リュイセンが『絵は代わりに届けるから』と言って、彼女を部屋に返した。
そして、リュイセンは預かったままになっていたその絵を、メイシアを連れ去る前に、自室の机に残した。『身勝手なお願いだと思いますが、この絵をハオリュウに届けてください』という書き置きを添えて――。
「ハオリュウは初め、面食らっていたが、事情を話すと拍子抜けするくらいにあっさりと絵を受け取った。てっきり俺は、突っ返されるとばかり思っていたんだけどさ」
ルイフォンにとっても、意外だった。
そもそも、リュイセンに対して激怒しているハオリュウに、リュイセンの頼み通りにあの絵を届けるとは思ってもいなかった。シュアンに絵を託したであろうイーレオも大概だが、言われるままに渡したシュアンも存外、人がいい。
当惑顔のルイフォンに、シュアンはゆっくりと口を開く。
「ハオリュウは、溜め息混じりに、こう言った」
――まったく、リュイセンさんは律儀な人です。
他にいくらでも、書き残しておくべきことはあるでしょうに、なんでまた……。
これが、リュイセンさんのお人柄ということですか。
……いいでしょう、シュアン。矛を収めましょう。
あなたの言うように、リュイセンさんがミンウェイさんのために動いたという話はなんとも判断いたしかねますが、少なくとも姉様をさらったことは、彼の本意ではなかったと認めます。
それに、リュイセンさんを『敵』として扱うよりは、『味方になり得る相手』として捉えておいたほうが、この先の策の幅が広がるのは確かです。
期待はしません。けれど、リュイセンさんの存在を、まるきり除外もしません。
これで手打ちにします。
「……っ」
ルイフォンは、唇を噛んだ。
リュイセンは、何も残さなかったわけではなかった。
もっとも彼らしい、『誠実さ』を残していったのだ。
「それからハオリュウは、こんなふうに続けた」
シュアンは組んだ足を解き、ずいとルイフォンに身を寄せる。
――ただ、ルイフォンは、僕よりも、もっと複雑だと思いますよ。リュイセンさんと、より深い絆があるからこそ、彼を許すことはできないでしょう。
だから……、そうですね。
『僕の手を取れないなら、リュイセンさんと協力してください』
こう、伝えてください。
これでルイフォンは、逆らえなくなります。
僕としては、ここまでリュイセンさんのためにする義理はないのですが、姉様のためです。
彼女はきっと、初めからリュイセンさんを悪く思っていません。それどころか、〈蝿〉に従わざるを得ない状況に追い詰められたリュイセンさんに、心を痛めているはずです。おそらく、彼とふたりで、あの庭園から逃げ出す方法を考えているはずです。
……それが、僕の姉様です。
「……」
ぐっと息を吸い込み、ルイフォンは押し黙った。
メイシアが何を思い、どう行動しようとしているかなんて考えてもいなかった。ただ、彼女を助けることだけで頭がいっぱいだった。
けれど、彼女は違う――。
ハオリュウの言葉を聞いた今、ルイフォンにも、メイシアの心が、はっきりと見えた。
嫋やかでありながらも、芯の強いメイシア。
彼女はきっと、自分自身だけでなく、リュイセンのことも助けようと、必死に〈蝿〉と戦っている。
彼女を想い、彼女を感じ……、ルイフォンは、彼女の心に共鳴する……。
リュイセンに、どんな事情があるのかは分からない。けれど、彼は何も言わずに――否、何も言えずに、裏切るしかなかったのだ。
そんな事態に兄貴分が追い込まれたのなら、弟分たる自分が手を差し伸べてやるべきだ。それでこそ、弟分というものではなかろうか――。
シュアンは、しばらくルイフォンの顔を見つめていたが、ふっと三白眼を閉じて視線を外した。
そして、静かに口を開く。
「ハオリュウは、こんなことも言っていた」
胸を押さえるルイフォンの頭上から、シュアンの声が落ちる。
――もしリュイセンさんが、シュアンの言うように『ミンウェイさんのための薬』などを得るために〈蝿〉に従っていたのなら、その『報酬』を持ってミンウェイさんに接触してくる可能性があります。
そのときのリュイセンさんへの対応が、重要な鍵となるでしょう。心に留めおいてください。
もっとも、あくまでも仮定に仮定を重ねただけで、あまり確率が高いとは思いませんけどね。
ルイフォンは目を瞬かせた。
「『ミンウェイのための薬』? なんだ、それ?」
「それは、俺の推測だ。リュイセンが〈蝿〉の言いなりになっている理由として、『〈蝿〉が持っている薬を投与しなければ、ミンウェイは母親と同じ病で死ぬ』と脅されたんじゃないか、と言ったのさ。割といい線だと思うぜ?」
シュアンの返答に、ミンウェイが眉を寄せる。
「でも、緋扇さん。前にも言いましたが、私は、お母様と違って健康体だと、お父様に言われています」
「だから、リュイセンを脅すためのネタは嘘でもいいのさ。リュイセンが信じさえすれば、なんだっていい。――って、俺も前に言ったじゃねぇか」
ミンウェイの反論に、シュアンが顔をしかめる。よほど自信のある推察なのだろう。
ルイフォンは、はっと息を呑んだ。
「待て――」
鋭いテノールが、ふたりの会話を切り裂く。
「リュイセンに、嘘は通用しねぇぞ」
唐突な発言に、シュアンがきょとんとし、ミンウェイが顔色を変える。
ルイフォンは、ミンウェイに向かって深く頷いた。
「あいつは、恐ろしく勘がいい。どんなに理屈で固めても、それが嘘なら絶対に騙されない」
リュイセンは、腹の探り合いのような駆け引きは得意ではない。本人は、それを負い目に思っているようだが、ルイフォンに言わせれば、彼にそんなものは必要ないのだ。
何故ならリュイセンは、大局的に本質を見抜くことのできる、天性の勘を持っているからだ。
ルイフォンが苦労して理論で検証するところを、彼は一足飛びに追い越して、真理へとたどり着く。さすがに、細かな部分では惑わされることもあるが、これほどの重大事において、リュイセンが読み誤るはずがないのだ。
「あいつが信じたなら、それは真実だ。〈蝿〉は、抗いようもない事実をリュイセンに提示したんだ……」
自分で言っていて、ルイフォンはぞくりとした。
今まで、リュイセンに対して怒りを覚えていたから深く考えていなかったが、あの兄貴分を従わせるだけの事実など、そうそうあるものではない。
「おいおい、何をそんなに怖い顔をしてんだよ? ミンウェイの命に関わると言われれば、たとえ半信半疑だったとしても、リュイセンなら従うだろう?」
殺気すらも垣間見えそうなルイフォンに、シュアンが、やや困惑しながらも軽口を叩く。しかし、ルイフォンは首を振り、きっぱりと言い放った。
「いや、リュイセンは、そんな曖昧なことでは俺を裏切らない」
「……」
シュアンが呆れたように肩をすくめた。つい先ほどまで、『袂を分かった』などと抜かしていたくせに、たいした変わりようだ、と言いたいのだろう。
ルイフォンは唇を尖らせ、口早に言う。
「それに、お前の推測は、如何にも嘘臭いだろ。どう見ても、ミンウェイは健康だ。病気で死ぬとか言われても、俺だって信じねぇぞ」
きっぱり言い切った、そのとき。
不意に、リュイセンの兄、レイウェンの声が、ルイフォンの脳裏をよぎった。
『私は、ほら、鷹刀の直系だろう? 血を濃く煮詰めすぎた『鷹刀』だ』
『私は運良く健康に生まれたけれど、私の上には育たなかった兄弟が何人もいるし、私とシャンリーは、生まれたばかりの弟が、ほんの数時間で息を引き取ったのをこの目で見ている』
リュイセンを〈蝿〉の館に残して逃げた、あの屈辱の敗走の末に、レイウェンの家に立ち寄ったときのことだ。
濃い血族の死を目の当たりにしたことのないルイフォンは、レイウェンの言葉に強い衝撃を受けた。
鷹刀一族にとって、『健康であること』は、奇跡のような幸運であるのだ。
「…………!」
頭の隅で、情報が閃いた。
そこから、幾つもの情報の欠片が繋がっていき、ルイフォンは、ひとつの可能性に気づく。
心臓が、どきりと跳ねた。
ミンウェイに、病に冒されている様子はない。
すなわち。
ミンウェイが、『健康であること』こそが、〈蝿〉が提示した『抗いようもない事実』だ。
「――――!」
確証はない。
しかし…………。
――おそらく、そういうことだ……。
ルイフォンは、自分の血の気が引いていくのを感じた。
「どうしたの? 顔色が悪いわ」
ミンウェイに声を掛けられ、ルイフォンは動転する。これは、彼女に言うべきことではない。――絶対に。
窮地に陥りかけた彼を救ったのは、彼自身だった。なんと、実に都合よく、腹の虫がぐぐうと盛大に鳴ったのだ。
「ああ、そういえば、ずっと寝ていたから何も食べていなかったわね。きっと空腹による、軽い貧血よ。料理長に頼んで消化の良いものを用意してもらうわ」
彼女はくすりと笑い、「お開きにしましょう」と告げた。
「まずは、ルイフォンの回復が最優先だわ。――それと……」
そこで急にミンウェイの歯切れが悪くなり、彼女は申し訳なさそうにルイフォンを見つめる。
「あの……ね。実はルイフォンが寝ている間に、エルファン伯父様が〈蝿〉の私兵を捕らえたの。……言いそびれていてごめんなさい」
「え……?」
「けど、たいした情報は得られなくて、メイシアについては、展望塔に閉じ込められている、とだけ。しばらく監禁を続けるみたいで、彼女の身の回りに必要なものが運び込まれたそうよ」
「――!?」
メイシアに関することは、最重要事項だろ!
一番先に、言うべきことだろ!
そんな言葉が頭をよぎるが、ルイフォンは声を出せなかった。
とても無事とはいえない状況だが、それでも、メイシアがさらわれてから初めての、彼女の消息だった。
「メイシア……」
全身の力が抜けていく。
胸が苦しい。喉が熱くなる。
「それから、もうひとつ。――二日後に、食料を積んだ車があの庭園に来るそうなの。それをうまく利用できないか、ルイフォンと相談したいって、エルファン伯父様が……」
更なる情報が告げられた。
その重大さに、ルイフォンは一転して猫の目を光らせる。
「ちょっと待て、ミンウェイ! どうして、そんな重要なことを早く言わなかった!?」
噛みつくルイフォンに、ミンウェイがばつが悪そうに言い返す。
「あなたが、いきなり頭を下げてきて『動けるようにしてくれ』なんて言い出すから、タイミングを逃しちゃったのよ!」
携帯端末を使い、その場でルイフォンの食事の手配をすると、ミンウェイは、シュアンと共にルイフォンの部屋を出た。
「緋扇さん、ありがとうございました」
「はぁ? なんのことだ?」
シュアンの三白眼が、わざとらしいほどに明後日を向く。
「あなたのおかげで、ルイフォンが、メイシアだけでなく、リュイセンのことも取り戻そうという気になってくれました」
綺麗に紅の引かれた唇をほころばせ、ミンウェイは笑う。最後のほうは、だいぶ脱線した気もするが、それはご愛嬌だろう。
シュアンは「ふん」とだけ答えた。
「私……、お父様と――〈蝿〉と決着をつけます。何が決着になるのかは分かりませんが、とりあえず話をしたいと思っています」
「そうか。――あんた……」
彼は、何かを言い掛け、途中でやめた。
「緋扇さん?」
「いや、今日もあんたは美人だな、ってだけだ」
聞き返そうとしたミンウェイをはぐらかし、彼は口元を緩める。
「たまには本業に行ってくる」
そう言って、シュアンは、ぼさぼさ頭を揺らして身を翻した。
片手を振って去っていく後ろ姿に、ミンウェイは草の香を漂わせながら深々と頭を下げた。
『脅されたネタさえ暴いちまえば、リュイセンは味方に戻る』
『そしたら奴は、『難攻不落の敵地に、先だって潜入成功している、頼もしい仲間』になるんだぜ?』
――リュイセンの裏切りは、ミンウェイのため。
夢うつつに気づいたとき、胸が苦しくなった。
如何にも、兄貴分らしいと思った。
ミンウェイに伝わらないよう、誰にも言わなかったのだ。
ミンウェイに悟られないよう、何も残さなかったのだ。
リュイセンも、ミンウェイは悪くない。ただ、〈蝿〉が狡猾だっただけだ。
けれど、ミンウェイが知れば、彼女は気に病む。――だから、リュイセンは黙した。
如何にも兄貴分らしいと、ルイフォンは納得した。
その一方で、どうして自分に相談してくれなかったのかと、怒りを感じた。そんなに自分は頼りないのかと、憤りを覚えた。
……違う。そうではない。分かっている。
弟分のルイフォン以上に、ミンウェイのことが大切だっただけだ。
だから、『袂を分かった』という言葉を受け入れた。
リュイセンは敵だと、決別したのだ――。
シュアンは、ふんと鼻息を漏らすと、ぼさぼさ頭を弾ませ、ルイフォンの顔を覗き込んだ。
「おい」
思いがけず近くから聞こえた声に、ルイフォンは、はっと我に返る。
すっかりシュアンに呑まれていた。――それだけ彼の弁は的を射ていたと、認めざるを得ない。
「ハオリュウからの伝言だ。『摂政殿下を通して、〈蝿〉に圧力を掛ける準備をしています。他に、僕にできることがあれば、なんでもおっしゃってください』だそうだ」
急に現実的な話になり、ルイフォンは戸惑いながらも頭を切り替える。
「ハオリュウが、そんなことを……」
異母姉メイシアを屋敷内でさらわれ、彼は鷹刀に激怒していると聞いた。随分と買っていたリュイセンが裏切ったのだから、当然だろう。
育ちの良さからくる上品な振舞いと、人畜無害そうな平凡な容姿からは想像しにくいが、ハオリュウはかなり気性が激しい。もし、貴族の当主という立場ではなく、足が不自由でもなかったなら、とっくに〈蝿〉の庭園に乗り込んでいたに違いない。
「駄目だ。――シュアン、ハオリュウを止めてくれ」
ルイフォンは、押し殺したような声を吐き出した。
「気持ちはありがたいが、あいつが摂政に掛け合うってことは、あいつが摂政の手駒になることを約束する、って意味だ。ハオリュウの手は借りられない。メイシアだって、望んでいないはずだ……」
「そうだな。俺も『やめておけ』と言っておいた。――ハオリュウに頼まれたから、伝えただけだ。だから、これは忘れろ」
シュアンは椅子の背もたれに片腕を掛けるようにして、ふんぞり返り、大きく足を組んだ。見るからに偉そうな態度は、実は普段のルイフォンと大差ないのだが、他人がやると妙にむかつく。
「そもそもハオリュウだって、お前は断るだろう、と言っていた」
つまらない茶番のやり取りだったと言わんばかりの調子で、シュアンは吐き捨てる。
だったら、このどっかりと座り込んだ、長居する気で満々の姿勢はなんだ?
ルイフォンが憮然とした顔でシュアンを見やると、彼は意味ありげな嗤いを漏らした。人を喰ったような仕草が気に障る。
「そういうわけで、ハオリュウからの伝言が、もうひとつある」
シュアンは、三白眼をすっと眇めた。血色の悪い凶相が凄みを増し、まるきりの悪人面となる。
「『僕の手を取れないなら、リュイセンさんと協力してください』――だそうだ」
「は……?」
ルイフォンは呆けた。思いもよらぬ言葉だった。
……理解できない。
「おい! なんで、そうなるんだよ!?」
思わず、毛布に拳を打ちつけた。怪我さえなければ、ベッドから飛び降りて、シュアンの襟首を掴み上げていただろう。
そばで聞いていたミンウェイもまた、口元に手を当てて絶句する。しかし彼女は、ルイフォンの猫の目が、すぅっと細くなっていくのに気づくと、その先の彼の昂りを予測して、こわごわと身をすくめた。
「おい、シュアン! ハオリュウは、リュイセンに怒り狂っているんじゃなかったのか!? どういうことだよ!?」
「ああ。荒れ狂っていて、手がつけられない状態だったさ。まぁ、あいつの場合、ものに八つ当たりするわけじゃないけどな。――禍々しい顔で嗤いながら、自分の権力の限りを尽くした鷹刀への報復措置を、ひたすら紙に書き連ねていた」
「……」
だが、そのハオリュウが、どうして態度を一変させたのか。
ルイフォンの目が、ベッドからぎろりと上を向き、シュアンに尋ねる。
「思い込みの激しい、元気な嬢ちゃんが描いたという、あの絵を渡したのさ」
「――絵? ……なんだ、それ? ……あ」
ルイフォンは、はたと思い出した。
〈蝿〉の館に潜入したとき、ルイフォンたちは、部屋を抜け出していたタオロンの娘、ファンルゥを保護した。彼女は、窓から見かけた車椅子のハオリュウを〈蝿〉の患者だと思い込み、自分の描いた絵を持って見舞いに行こうとしていたのだ。
万一、脱走がばれたら、ファンルゥは、ただではすまないだろう。だから、リュイセンが『絵は代わりに届けるから』と言って、彼女を部屋に返した。
そして、リュイセンは預かったままになっていたその絵を、メイシアを連れ去る前に、自室の机に残した。『身勝手なお願いだと思いますが、この絵をハオリュウに届けてください』という書き置きを添えて――。
「ハオリュウは初め、面食らっていたが、事情を話すと拍子抜けするくらいにあっさりと絵を受け取った。てっきり俺は、突っ返されるとばかり思っていたんだけどさ」
ルイフォンにとっても、意外だった。
そもそも、リュイセンに対して激怒しているハオリュウに、リュイセンの頼み通りにあの絵を届けるとは思ってもいなかった。シュアンに絵を託したであろうイーレオも大概だが、言われるままに渡したシュアンも存外、人がいい。
当惑顔のルイフォンに、シュアンはゆっくりと口を開く。
「ハオリュウは、溜め息混じりに、こう言った」
――まったく、リュイセンさんは律儀な人です。
他にいくらでも、書き残しておくべきことはあるでしょうに、なんでまた……。
これが、リュイセンさんのお人柄ということですか。
……いいでしょう、シュアン。矛を収めましょう。
あなたの言うように、リュイセンさんがミンウェイさんのために動いたという話はなんとも判断いたしかねますが、少なくとも姉様をさらったことは、彼の本意ではなかったと認めます。
それに、リュイセンさんを『敵』として扱うよりは、『味方になり得る相手』として捉えておいたほうが、この先の策の幅が広がるのは確かです。
期待はしません。けれど、リュイセンさんの存在を、まるきり除外もしません。
これで手打ちにします。
「……っ」
ルイフォンは、唇を噛んだ。
リュイセンは、何も残さなかったわけではなかった。
もっとも彼らしい、『誠実さ』を残していったのだ。
「それからハオリュウは、こんなふうに続けた」
シュアンは組んだ足を解き、ずいとルイフォンに身を寄せる。
――ただ、ルイフォンは、僕よりも、もっと複雑だと思いますよ。リュイセンさんと、より深い絆があるからこそ、彼を許すことはできないでしょう。
だから……、そうですね。
『僕の手を取れないなら、リュイセンさんと協力してください』
こう、伝えてください。
これでルイフォンは、逆らえなくなります。
僕としては、ここまでリュイセンさんのためにする義理はないのですが、姉様のためです。
彼女はきっと、初めからリュイセンさんを悪く思っていません。それどころか、〈蝿〉に従わざるを得ない状況に追い詰められたリュイセンさんに、心を痛めているはずです。おそらく、彼とふたりで、あの庭園から逃げ出す方法を考えているはずです。
……それが、僕の姉様です。
「……」
ぐっと息を吸い込み、ルイフォンは押し黙った。
メイシアが何を思い、どう行動しようとしているかなんて考えてもいなかった。ただ、彼女を助けることだけで頭がいっぱいだった。
けれど、彼女は違う――。
ハオリュウの言葉を聞いた今、ルイフォンにも、メイシアの心が、はっきりと見えた。
嫋やかでありながらも、芯の強いメイシア。
彼女はきっと、自分自身だけでなく、リュイセンのことも助けようと、必死に〈蝿〉と戦っている。
彼女を想い、彼女を感じ……、ルイフォンは、彼女の心に共鳴する……。
リュイセンに、どんな事情があるのかは分からない。けれど、彼は何も言わずに――否、何も言えずに、裏切るしかなかったのだ。
そんな事態に兄貴分が追い込まれたのなら、弟分たる自分が手を差し伸べてやるべきだ。それでこそ、弟分というものではなかろうか――。
シュアンは、しばらくルイフォンの顔を見つめていたが、ふっと三白眼を閉じて視線を外した。
そして、静かに口を開く。
「ハオリュウは、こんなことも言っていた」
胸を押さえるルイフォンの頭上から、シュアンの声が落ちる。
――もしリュイセンさんが、シュアンの言うように『ミンウェイさんのための薬』などを得るために〈蝿〉に従っていたのなら、その『報酬』を持ってミンウェイさんに接触してくる可能性があります。
そのときのリュイセンさんへの対応が、重要な鍵となるでしょう。心に留めおいてください。
もっとも、あくまでも仮定に仮定を重ねただけで、あまり確率が高いとは思いませんけどね。
ルイフォンは目を瞬かせた。
「『ミンウェイのための薬』? なんだ、それ?」
「それは、俺の推測だ。リュイセンが〈蝿〉の言いなりになっている理由として、『〈蝿〉が持っている薬を投与しなければ、ミンウェイは母親と同じ病で死ぬ』と脅されたんじゃないか、と言ったのさ。割といい線だと思うぜ?」
シュアンの返答に、ミンウェイが眉を寄せる。
「でも、緋扇さん。前にも言いましたが、私は、お母様と違って健康体だと、お父様に言われています」
「だから、リュイセンを脅すためのネタは嘘でもいいのさ。リュイセンが信じさえすれば、なんだっていい。――って、俺も前に言ったじゃねぇか」
ミンウェイの反論に、シュアンが顔をしかめる。よほど自信のある推察なのだろう。
ルイフォンは、はっと息を呑んだ。
「待て――」
鋭いテノールが、ふたりの会話を切り裂く。
「リュイセンに、嘘は通用しねぇぞ」
唐突な発言に、シュアンがきょとんとし、ミンウェイが顔色を変える。
ルイフォンは、ミンウェイに向かって深く頷いた。
「あいつは、恐ろしく勘がいい。どんなに理屈で固めても、それが嘘なら絶対に騙されない」
リュイセンは、腹の探り合いのような駆け引きは得意ではない。本人は、それを負い目に思っているようだが、ルイフォンに言わせれば、彼にそんなものは必要ないのだ。
何故ならリュイセンは、大局的に本質を見抜くことのできる、天性の勘を持っているからだ。
ルイフォンが苦労して理論で検証するところを、彼は一足飛びに追い越して、真理へとたどり着く。さすがに、細かな部分では惑わされることもあるが、これほどの重大事において、リュイセンが読み誤るはずがないのだ。
「あいつが信じたなら、それは真実だ。〈蝿〉は、抗いようもない事実をリュイセンに提示したんだ……」
自分で言っていて、ルイフォンはぞくりとした。
今まで、リュイセンに対して怒りを覚えていたから深く考えていなかったが、あの兄貴分を従わせるだけの事実など、そうそうあるものではない。
「おいおい、何をそんなに怖い顔をしてんだよ? ミンウェイの命に関わると言われれば、たとえ半信半疑だったとしても、リュイセンなら従うだろう?」
殺気すらも垣間見えそうなルイフォンに、シュアンが、やや困惑しながらも軽口を叩く。しかし、ルイフォンは首を振り、きっぱりと言い放った。
「いや、リュイセンは、そんな曖昧なことでは俺を裏切らない」
「……」
シュアンが呆れたように肩をすくめた。つい先ほどまで、『袂を分かった』などと抜かしていたくせに、たいした変わりようだ、と言いたいのだろう。
ルイフォンは唇を尖らせ、口早に言う。
「それに、お前の推測は、如何にも嘘臭いだろ。どう見ても、ミンウェイは健康だ。病気で死ぬとか言われても、俺だって信じねぇぞ」
きっぱり言い切った、そのとき。
不意に、リュイセンの兄、レイウェンの声が、ルイフォンの脳裏をよぎった。
『私は、ほら、鷹刀の直系だろう? 血を濃く煮詰めすぎた『鷹刀』だ』
『私は運良く健康に生まれたけれど、私の上には育たなかった兄弟が何人もいるし、私とシャンリーは、生まれたばかりの弟が、ほんの数時間で息を引き取ったのをこの目で見ている』
リュイセンを〈蝿〉の館に残して逃げた、あの屈辱の敗走の末に、レイウェンの家に立ち寄ったときのことだ。
濃い血族の死を目の当たりにしたことのないルイフォンは、レイウェンの言葉に強い衝撃を受けた。
鷹刀一族にとって、『健康であること』は、奇跡のような幸運であるのだ。
「…………!」
頭の隅で、情報が閃いた。
そこから、幾つもの情報の欠片が繋がっていき、ルイフォンは、ひとつの可能性に気づく。
心臓が、どきりと跳ねた。
ミンウェイに、病に冒されている様子はない。
すなわち。
ミンウェイが、『健康であること』こそが、〈蝿〉が提示した『抗いようもない事実』だ。
「――――!」
確証はない。
しかし…………。
――おそらく、そういうことだ……。
ルイフォンは、自分の血の気が引いていくのを感じた。
「どうしたの? 顔色が悪いわ」
ミンウェイに声を掛けられ、ルイフォンは動転する。これは、彼女に言うべきことではない。――絶対に。
窮地に陥りかけた彼を救ったのは、彼自身だった。なんと、実に都合よく、腹の虫がぐぐうと盛大に鳴ったのだ。
「ああ、そういえば、ずっと寝ていたから何も食べていなかったわね。きっと空腹による、軽い貧血よ。料理長に頼んで消化の良いものを用意してもらうわ」
彼女はくすりと笑い、「お開きにしましょう」と告げた。
「まずは、ルイフォンの回復が最優先だわ。――それと……」
そこで急にミンウェイの歯切れが悪くなり、彼女は申し訳なさそうにルイフォンを見つめる。
「あの……ね。実はルイフォンが寝ている間に、エルファン伯父様が〈蝿〉の私兵を捕らえたの。……言いそびれていてごめんなさい」
「え……?」
「けど、たいした情報は得られなくて、メイシアについては、展望塔に閉じ込められている、とだけ。しばらく監禁を続けるみたいで、彼女の身の回りに必要なものが運び込まれたそうよ」
「――!?」
メイシアに関することは、最重要事項だろ!
一番先に、言うべきことだろ!
そんな言葉が頭をよぎるが、ルイフォンは声を出せなかった。
とても無事とはいえない状況だが、それでも、メイシアがさらわれてから初めての、彼女の消息だった。
「メイシア……」
全身の力が抜けていく。
胸が苦しい。喉が熱くなる。
「それから、もうひとつ。――二日後に、食料を積んだ車があの庭園に来るそうなの。それをうまく利用できないか、ルイフォンと相談したいって、エルファン伯父様が……」
更なる情報が告げられた。
その重大さに、ルイフォンは一転して猫の目を光らせる。
「ちょっと待て、ミンウェイ! どうして、そんな重要なことを早く言わなかった!?」
噛みつくルイフォンに、ミンウェイがばつが悪そうに言い返す。
「あなたが、いきなり頭を下げてきて『動けるようにしてくれ』なんて言い出すから、タイミングを逃しちゃったのよ!」
携帯端末を使い、その場でルイフォンの食事の手配をすると、ミンウェイは、シュアンと共にルイフォンの部屋を出た。
「緋扇さん、ありがとうございました」
「はぁ? なんのことだ?」
シュアンの三白眼が、わざとらしいほどに明後日を向く。
「あなたのおかげで、ルイフォンが、メイシアだけでなく、リュイセンのことも取り戻そうという気になってくれました」
綺麗に紅の引かれた唇をほころばせ、ミンウェイは笑う。最後のほうは、だいぶ脱線した気もするが、それはご愛嬌だろう。
シュアンは「ふん」とだけ答えた。
「私……、お父様と――〈蝿〉と決着をつけます。何が決着になるのかは分かりませんが、とりあえず話をしたいと思っています」
「そうか。――あんた……」
彼は、何かを言い掛け、途中でやめた。
「緋扇さん?」
「いや、今日もあんたは美人だな、ってだけだ」
聞き返そうとしたミンウェイをはぐらかし、彼は口元を緩める。
「たまには本業に行ってくる」
そう言って、シュアンは、ぼさぼさ頭を揺らして身を翻した。
片手を振って去っていく後ろ姿に、ミンウェイは草の香を漂わせながら深々と頭を下げた。