残酷な描写あり
5.創痍からの策動-1
初夏の風を頬に感じた。
爽やかな気配に撫でられ、ルイフォンは、自分の意識がふっと浮上していくのを感じた。
どうやら、また、うとうとしていたらしい。薄目を開けると、真上に、ふわりと揺れるカーテンが見える。窓際に置かれたベッドからの、いつもの風景だ。
ゆらりゆらりと、白いレース地が風に乗る。その穏やかな動きを見ていると、朦朧とした心地よさが襲ってきて、ルイフォンの瞼は再び重くなる。
まどろみに身を委ねたい。そんな誘惑が、彼を眠りの世界へと誘う……。
「――じゃねぇよ!」
ルイフォンは、鋭いテノールで自分に突っ込んだ。
のんびりと寝ている場合ではない。メイシアだ。メイシアがさらわれた。一刻も早く、取り戻すのだ。
猫の目をかっと見開き、彼は勢いよく毛布を跳ね上げる。
「――っ!」
飛び起きはしたものの、今度は腹を押さえてうずくまる羽目になった。
リュイセンに斬られた傷が痛む。全身が熱を持っているのを感じる。すぐに眠くなるのも、体が休息を必要としているためだ。――そんなことは分かっている。
枕元に置いていた携帯端末を手に取り、彼は唇を噛んだ。
メイシアがさらわれてから、二日後の日付けだった。〈ベロ〉との対面のあと、熱を出して寝込んだ。それからの記憶は、ほとんどない。
「糞……っ!」
癖の強い前髪をぐしゃぐしゃと掻き上げ、彼は布団に拳を打ち付ける。
〈ベロ〉が言うには、メイシアがセレイエに乗っ取られる心配はないという。しかし、〈蝿〉が彼女にどんな危害を加えるのかと思うと、気が狂いそうだった。
「メイシア……!」
落ち着くのだ。――ルイフォンは、自分に言い聞かせる。
焦ったところで、何も解決しない。それよりも考えるのだ。この窮地を脱するための方策を――!
そうしてしばらく、己の中の感情と理性とを戦わせているうちに、ルイフォンはふと、サイドテーブルの上の書き置きに気づいた。『診察をしたいから、目が覚めたら連絡して』との、ミンウェイからの伝言だった。
ルイフォンは溜め息をひとつ落とし、携帯端末に指を滑らせた。
「まだ熱があるわね。傷のほうは順調だけど、当分は安静よ」
白衣姿のミンウェイは、てきぱきと包帯を取り替えたあと、柳眉をひそめてそう言った。
『安静』の部分が、心なしか強調されていたのは、きっと気のせいではないだろう。彼女が口を酸っぱくして、おとなしくしているように言っていたのに、人目を忍んで〈ベロ〉のところに行ったことを咎めているのだ。
あれは、エルファンに無理やり連れて行かれただけだ。
ルイフォンは顔をしかめたが、口答えはしなかった。結果として、〈ベロ〉から有益な情報を得られたのだから、エルファンに対して文句はないし、ミンウェイの小言も甘んじて受け入れる。
もとより、ミンウェイが療養生活を言い渡すことは分かりきっていた。だから彼は、彼女が来るまでの間ずっと、身構えて待っていた。
「……ミンウェイが、医者として必要なことを言っているのは分かる。でも、俺はメイシアを助けに行かないといけない。だから、寝ているわけにはいかない」
声を荒らげるわけではなく、静かな声で告げた。
これは、ただの事実の羅列だ。
ルイフォンが為すべきことは、安静ではなく、行動を起こすことだという――。
端正で無機質な〈猫〉の顔で、彼はミンウェイと向き合った。
「ミンウェイには、迷惑をかけて悪いと思っている。心配してくれて、感謝もしている。ありがとう、そして、すまない。……あ、いや、……っと、……申し訳ございません」
慣れない言葉遣いに、尻がむずがゆくなる。
「ルイフォン……?」
ミンウェイにしてみれば、寝耳に水だろう。ぎこちなくも、かしこまった面持ちの彼を、彼女はまじまじと見つめ返す。
その視線をまっすぐに受け止め、ルイフォンは意を決して切り出した。
「ミンウェイ……、お願いがあるんだ」
「え……?」
「まだ、メイシアを助ける算段は立っていない。けど、すぐに考える。――そしたら、解熱剤でも鎮痛薬でも、なんでも使って、俺の体を動けるようにしてほしい。頼む」
ミンウェイの切れ長の瞳が、弾かれたように瞬いた。
しかし、ルイフォンは構わずに、畳み掛けるように言う。
「今後はミンウェイの目を盗んで、こそこそ動き回ったりしない。約束する。だから、お願いします。――俺は、一刻も早く、メイシアを取り戻したいんだ……!」
ルイフォンは頭を下げた。寝ている間も編まれたままだった髪が背中を転がり、毛先を飾る金の鈴が彼の脇からちょこんと顔を覗かせる。まるで、持ち主と一緒に頼み込むかのようだった。
「ちょっ、ちょっと待って……」
頭上に感じる、ミンウェイの戸惑いの息遣い。これから、『何を馬鹿なことを言っているのよ!?』と、ぴしゃりとくるのだと、ルイフォンは首をすくめる。
怒られるのは覚悟の上だ。
それでも、どうしても譲れない。
「無茶なことを……、勝手なことを言っているのは分かっている。でも、メイシアを取り戻すために――! ……頼む、ミンウェイ!」
メイシアのことを考えると、心が騒ぐ。暴走しそうになる気持ちを必死に抑え、ルイフォンは訴える。
きつく奥歯を噛み締め、じっとしていると、やがて音もなく草の香が近づいてきた。
ミンウェイの気配だ。――と思った、瞬間。
「痛ぇっ!」
うつむいた彼の眉間に、痛烈な一撃が見舞われた。ミンウェイの人差し指が、彼の額を弾いたのだ。
「お腹を圧迫して――こんな、体に負担がかかる格好をしちゃ駄目でしょ! 傷口に悪いわ」
彼女の指の威力に、ルイフォンは、のけ反るように強制的に上を向かされた。
額がひりひりする。
安静は嫌だと突っぱね、更に動けるようにしてくれだなんて、虫のいいことを言っているのは分かっている。しかし、いきなり手を出してくるのは酷くないだろうか。
鼻に皺を寄せてミンウェイを見やり……、ルイフォンは狼狽した。彼女の眼差しは柔らかで、優しく彼を包み込むかのようだった。
「いくら鎮痛剤を使っても、無茶なことばかりしていたら、途中で動けなくなっちゃうわよ」
綺麗に紅の引かれた唇をきゅっと上げ、彼女は、いたずらめいた笑みを浮かべる。
「だから、あなた自身も、ちゃんと治す努力をするのよ。その上でなら、私にできる限りの協力をするわ」
「……えっ!?」
「私のほうこそ、ルイフォンに言おうと思っていたの。……さすがに、もう少し回復してからのつもりだったけどね」
困惑するルイフォンの目の前で、ミンウェイの雰囲気が、にわかに変わっていく。
彼女は、診察の邪魔にならないよう、背中でまとめていた髪を解いた。波打つ黒髪が豪奢に広がり、爽やかな草の香が流れてくる。
「これを言ったら、医者としては失格。でも私は、鷹刀の人間だから……」
ミンウェイは、ぱっと白衣を脱ぎ捨てた。
中から現れたのは、彼女を象徴する、鮮やかな緋色の衣服。彼女が誇らしげな顔で胸を張ると、艶やかな華やぎが広がっていく。
「多少の無茶など、構わない。それより今は、動き出すべきとき――だわ」
「ミンウェイ……?」
予想外の彼女の言動に、ルイフォンは絶句する。あまりの驚きに、喜ぶよりも、ただただ彼女を凝視した。
「ルイフォン、現状は間違っているわ」
切れ長の瞳に挑むような光を載せ、ミンウェイは静かに告げる。
「メイシアは、あなたのそばに居るべきだし、リュイセンは、あなたを裏切るべきじゃない」
「――っ!」
刹那、ルイフォンの眦が吊り上がった。
浮き立ち始めていた心が一転して、深い地の底に落とされる。
「――リュイセン、あいつは……!」
押し殺した声を漏らし、ぐっと拳を握りしめた。自然と腹にも力が入り、激痛が走る。
痛みの表情は、とっさに隠した。――そのつもりだったが、当然の如くミンウェイには見抜かれており、絶世の美貌による無言の迫力よって、ルイフォンはベッドに沈められる。
横になった彼は、彼女にどう言ったらよいのか迷いながら、ぽつりと呟いた。
「……あいつは――リュイセンは、俺とは袂を分かったんだ」
苦しげなテノールが虚空に溶けた。
自分で発した言葉が、自分に重くのしかかった。
「ルイフォン、聞いて」
ミンウェイは、彼を追いかけるようにかがみ込み、ベッドの上の彼と目線を合わせる。
「緋扇さんが教えてくれたの。リュイセンは、私に関する『何か』を材料に、〈蝿〉に脅迫されているだけだろう、って」
「――!」
「リュイセンは、〈蝿〉に脅されているだけ。やむを得ず、メイシアをさらっただけ。――あなたを裏切ってなんかいないの」
ミンウェイの言葉を聞いた瞬間、ルイフォンの全身の血が湧いた。
「ふざけんな!」
片手を支えに体を起こし、ぐいと顎を上げた。そのまま、ミンウェイに喰らいつかんばかりに、牙をむく。
「リュイセンは、ミンウェイ絡みで〈蝿〉に脅された。――そんなことくらい、『俺も気づいていた』さ! だって、あいつが俺を裏切るなんて、それしかないだろ?」
「ルイフォン……、知っていた……?」
うろたえるミンウェイを、ルイフォンは一瞥した。彼女には黙っていようと思っていたのに、シュアンのせいで台無しだった。ハオリュウの代理で屋敷に来ることは聞いていたが、余計なことをしてくれたものだ。
「ああ。エルファンが、それとなく教えてくれた」
この二日間、夢うつつをさまよっているうちに、エルファンの真意に気づいた。
リュイセンは〈七つの大罪〉の怪しい技術で操られていたわけではない。意識は、はっきりしていたと、エルファンはまず初めに告げた。
その言葉の裏には『それにも関わらず、あの生真面目なリュイセンが彼らしくないことをしたのなら、それは彼が一番大切にしている、ミンウェイのためでしかあり得ない』――そういう意味が隠されていた。
リュイセンの苦渋の思いを理解したエルファンは、リュイセンの選択を認めたのだ。だから、ルイフォンに対して『袂を分かった』という聞こえのよい言葉で押し切った。
そして、ルイフォンの中でくすぶっていた『メイシアへの焦燥』と『リュイセンへの憤怒』という、ふたつの感情を昇華させ、『メイシアの救出』に向かって邁進すべく、ルイフォンを〈ベロ〉のもとへと連れて行ったのだ。
「けどな! リュイセンは、俺に相談すべきだった! メイシアや、ミンウェイには黙っていてもいい。でも、俺だけには言うべきだった! 違うか!?」
ミンウェイが、びくりと肩を上げるが、ルイフォンは構わず続ける。
「リュイセンが、どんなネタで脅されたのかは分からない。でも、俺に相談することを選ばずに、俺のメイシアを奪った! ならば、あいつは俺の敵だ!」
癖のある前髪の隙間から、鋭い猫の目が光る。逆毛を立て、今にも飛びかかりそうな形相で、ミンウェイを睨みつける。
ミンウェイは短く息を呑み、ひるんだように、わずかに身を引いた。
だが、それは一瞬のことだった。すぐに鮮やかな緋色を翻し、ルイフォンにずいと迫る。
「ルイフォン! あなたが、そうやってリュイセンを憎んでいるのも、間違っているわ! こんな事態、誰も望んでいないはずよ!」
「間違ってなんかねぇよ!」
「いいえ! 間違いよ!」
ルイフォンの反論を、ミンウェイが高い声をかぶせて打ち消す。泥沼の水掛け論になりつつあるのが分かっていても、どちらも引くことはできない。
「メイシアも、リュイセンも取り戻す。それから、お父様と――〈蝿〉と決着をつける。これが、私たちが今すべきことではないの?」
「そんな、おめでたい綺麗ごとなんか、あり得ねぇよ!」
ルイフォンがそう言い返したときだった。
不意に、がちゃりと。
ドアノブをひねる音が響いた。
「――!?」
常に鍵のかかっていない、ルイフォンの自室。いつでも、誰でも、拒むことのない部屋。――しかし、廊下まで聞こえているであろう口論のさなか、わざわざ乗り込んでくる物好きとは、いったい……。
ルイフォンは勿論、普段は気配に敏感なはずのミンウェイさえも、驚きの顔で音の発生源に注目する。彼らの視線の先で、その扉は、ためらいの欠片も感じぬ滑らかさで、すっと開いた。
最初にひょこりと覗いたのは、手入れを知らぬ、ぼさぼさ頭だった。
「おいおい。死にそうな怪我人だと聞いていたんだが、随分と元気そうじゃねぇか」
見るからに凶悪な三白眼が、にやりと歪む。その姿を見た瞬間、ミンウェイが叫んだ。
「緋扇さん!?」
「ミンウェイ、そいつのどこが重傷なんだ? あんた、藪医者なのか?」
へらへらと笑いながら、警察隊の緋扇シュアンが部屋に入ってきた。
ルイフォンは、むっと眉根を寄せた。
確かにシュアンなら、話の途中に断りもなく、それどころか、さも当然と平気で割り込むだろう。何故なら彼は、ミンウェイの加勢に来たのだろうから。
見た目に反して、シュアンが案外いい奴だということは知っている。
だが、はっきりいって、今は単なる邪魔者。
――否、迷惑な妨害者だ!
「よう、ルイフォン。ハオリュウの代わりに見舞いに来てやったのに、なかなか手厚い歓迎だな」
ルイフォンの渋面を楽しげに皮肉りながら、シュアンはテーブルから椅子を引きずり、ベッドサイドにやってきた。
ルイフォンとしては、すぐにも追い出したい。しかし、何かと世話になっていることもあり、とりあえず『帰れ』のひとことだけは、かろうじて呑み込んだ。
「まぁ、有り体に言えば、俺は立ち聞きしていたわけだけどさ」
「……」
堂々とした態度に、ルイフォンは、もはや何も言う気になれなかった。故に、片腕で起こしていた体を倒し、要望通りの怪我人らしさを演出する。――無言の『帰れ』だ。
だがそれは、シュアンを見くびる行為だったと、すぐに気づくことになる。
沈黙のルイフォンに、シュアンは調子に乗ったように続けた。
「ルイフォン。あんた、さっき、『リュイセンが、どんなネタで脅されたのかは分からない』って言っていたよな? それって、『〈猫〉』としてどうなのさ? 凄腕の情報屋だと聞いているんだけどよ。さすがの〈猫〉も分からねぇ、ってか?」
妙に甲高い、挑発的な声が耳朶を打った。
情報屋〈猫〉をなじられ、ルイフォンは反射的にベッドを飛び起きる。
「てめぇっ」
「メイシア嬢を奪われて、あんたが気が立っているのは分かるさ。だがそれで、視野が狭くなったら阿呆だぜ?」
反応を見せたルイフォンを、シュアンがせせら笑う。
こちらを見つめる眼光が、有無を言わせぬ凄みをまとった。口角を上げた悪相に、ルイフォンは不覚にも一瞬、たじろぐ。
「脅されたネタさえ暴いちまえば、リュイセンは味方に戻る。――そしたら奴は、『難攻不落の敵地に、先だって潜入成功している、頼もしい仲間』になるんだぜ?」
血色の悪い凶相が、からかうように、にたりと緩んだ。
軽口を叩いているようでいて、しかし、シュアンの抜け目のない三白眼は笑ってなどいなかった。
爽やかな気配に撫でられ、ルイフォンは、自分の意識がふっと浮上していくのを感じた。
どうやら、また、うとうとしていたらしい。薄目を開けると、真上に、ふわりと揺れるカーテンが見える。窓際に置かれたベッドからの、いつもの風景だ。
ゆらりゆらりと、白いレース地が風に乗る。その穏やかな動きを見ていると、朦朧とした心地よさが襲ってきて、ルイフォンの瞼は再び重くなる。
まどろみに身を委ねたい。そんな誘惑が、彼を眠りの世界へと誘う……。
「――じゃねぇよ!」
ルイフォンは、鋭いテノールで自分に突っ込んだ。
のんびりと寝ている場合ではない。メイシアだ。メイシアがさらわれた。一刻も早く、取り戻すのだ。
猫の目をかっと見開き、彼は勢いよく毛布を跳ね上げる。
「――っ!」
飛び起きはしたものの、今度は腹を押さえてうずくまる羽目になった。
リュイセンに斬られた傷が痛む。全身が熱を持っているのを感じる。すぐに眠くなるのも、体が休息を必要としているためだ。――そんなことは分かっている。
枕元に置いていた携帯端末を手に取り、彼は唇を噛んだ。
メイシアがさらわれてから、二日後の日付けだった。〈ベロ〉との対面のあと、熱を出して寝込んだ。それからの記憶は、ほとんどない。
「糞……っ!」
癖の強い前髪をぐしゃぐしゃと掻き上げ、彼は布団に拳を打ち付ける。
〈ベロ〉が言うには、メイシアがセレイエに乗っ取られる心配はないという。しかし、〈蝿〉が彼女にどんな危害を加えるのかと思うと、気が狂いそうだった。
「メイシア……!」
落ち着くのだ。――ルイフォンは、自分に言い聞かせる。
焦ったところで、何も解決しない。それよりも考えるのだ。この窮地を脱するための方策を――!
そうしてしばらく、己の中の感情と理性とを戦わせているうちに、ルイフォンはふと、サイドテーブルの上の書き置きに気づいた。『診察をしたいから、目が覚めたら連絡して』との、ミンウェイからの伝言だった。
ルイフォンは溜め息をひとつ落とし、携帯端末に指を滑らせた。
「まだ熱があるわね。傷のほうは順調だけど、当分は安静よ」
白衣姿のミンウェイは、てきぱきと包帯を取り替えたあと、柳眉をひそめてそう言った。
『安静』の部分が、心なしか強調されていたのは、きっと気のせいではないだろう。彼女が口を酸っぱくして、おとなしくしているように言っていたのに、人目を忍んで〈ベロ〉のところに行ったことを咎めているのだ。
あれは、エルファンに無理やり連れて行かれただけだ。
ルイフォンは顔をしかめたが、口答えはしなかった。結果として、〈ベロ〉から有益な情報を得られたのだから、エルファンに対して文句はないし、ミンウェイの小言も甘んじて受け入れる。
もとより、ミンウェイが療養生活を言い渡すことは分かりきっていた。だから彼は、彼女が来るまでの間ずっと、身構えて待っていた。
「……ミンウェイが、医者として必要なことを言っているのは分かる。でも、俺はメイシアを助けに行かないといけない。だから、寝ているわけにはいかない」
声を荒らげるわけではなく、静かな声で告げた。
これは、ただの事実の羅列だ。
ルイフォンが為すべきことは、安静ではなく、行動を起こすことだという――。
端正で無機質な〈猫〉の顔で、彼はミンウェイと向き合った。
「ミンウェイには、迷惑をかけて悪いと思っている。心配してくれて、感謝もしている。ありがとう、そして、すまない。……あ、いや、……っと、……申し訳ございません」
慣れない言葉遣いに、尻がむずがゆくなる。
「ルイフォン……?」
ミンウェイにしてみれば、寝耳に水だろう。ぎこちなくも、かしこまった面持ちの彼を、彼女はまじまじと見つめ返す。
その視線をまっすぐに受け止め、ルイフォンは意を決して切り出した。
「ミンウェイ……、お願いがあるんだ」
「え……?」
「まだ、メイシアを助ける算段は立っていない。けど、すぐに考える。――そしたら、解熱剤でも鎮痛薬でも、なんでも使って、俺の体を動けるようにしてほしい。頼む」
ミンウェイの切れ長の瞳が、弾かれたように瞬いた。
しかし、ルイフォンは構わずに、畳み掛けるように言う。
「今後はミンウェイの目を盗んで、こそこそ動き回ったりしない。約束する。だから、お願いします。――俺は、一刻も早く、メイシアを取り戻したいんだ……!」
ルイフォンは頭を下げた。寝ている間も編まれたままだった髪が背中を転がり、毛先を飾る金の鈴が彼の脇からちょこんと顔を覗かせる。まるで、持ち主と一緒に頼み込むかのようだった。
「ちょっ、ちょっと待って……」
頭上に感じる、ミンウェイの戸惑いの息遣い。これから、『何を馬鹿なことを言っているのよ!?』と、ぴしゃりとくるのだと、ルイフォンは首をすくめる。
怒られるのは覚悟の上だ。
それでも、どうしても譲れない。
「無茶なことを……、勝手なことを言っているのは分かっている。でも、メイシアを取り戻すために――! ……頼む、ミンウェイ!」
メイシアのことを考えると、心が騒ぐ。暴走しそうになる気持ちを必死に抑え、ルイフォンは訴える。
きつく奥歯を噛み締め、じっとしていると、やがて音もなく草の香が近づいてきた。
ミンウェイの気配だ。――と思った、瞬間。
「痛ぇっ!」
うつむいた彼の眉間に、痛烈な一撃が見舞われた。ミンウェイの人差し指が、彼の額を弾いたのだ。
「お腹を圧迫して――こんな、体に負担がかかる格好をしちゃ駄目でしょ! 傷口に悪いわ」
彼女の指の威力に、ルイフォンは、のけ反るように強制的に上を向かされた。
額がひりひりする。
安静は嫌だと突っぱね、更に動けるようにしてくれだなんて、虫のいいことを言っているのは分かっている。しかし、いきなり手を出してくるのは酷くないだろうか。
鼻に皺を寄せてミンウェイを見やり……、ルイフォンは狼狽した。彼女の眼差しは柔らかで、優しく彼を包み込むかのようだった。
「いくら鎮痛剤を使っても、無茶なことばかりしていたら、途中で動けなくなっちゃうわよ」
綺麗に紅の引かれた唇をきゅっと上げ、彼女は、いたずらめいた笑みを浮かべる。
「だから、あなた自身も、ちゃんと治す努力をするのよ。その上でなら、私にできる限りの協力をするわ」
「……えっ!?」
「私のほうこそ、ルイフォンに言おうと思っていたの。……さすがに、もう少し回復してからのつもりだったけどね」
困惑するルイフォンの目の前で、ミンウェイの雰囲気が、にわかに変わっていく。
彼女は、診察の邪魔にならないよう、背中でまとめていた髪を解いた。波打つ黒髪が豪奢に広がり、爽やかな草の香が流れてくる。
「これを言ったら、医者としては失格。でも私は、鷹刀の人間だから……」
ミンウェイは、ぱっと白衣を脱ぎ捨てた。
中から現れたのは、彼女を象徴する、鮮やかな緋色の衣服。彼女が誇らしげな顔で胸を張ると、艶やかな華やぎが広がっていく。
「多少の無茶など、構わない。それより今は、動き出すべきとき――だわ」
「ミンウェイ……?」
予想外の彼女の言動に、ルイフォンは絶句する。あまりの驚きに、喜ぶよりも、ただただ彼女を凝視した。
「ルイフォン、現状は間違っているわ」
切れ長の瞳に挑むような光を載せ、ミンウェイは静かに告げる。
「メイシアは、あなたのそばに居るべきだし、リュイセンは、あなたを裏切るべきじゃない」
「――っ!」
刹那、ルイフォンの眦が吊り上がった。
浮き立ち始めていた心が一転して、深い地の底に落とされる。
「――リュイセン、あいつは……!」
押し殺した声を漏らし、ぐっと拳を握りしめた。自然と腹にも力が入り、激痛が走る。
痛みの表情は、とっさに隠した。――そのつもりだったが、当然の如くミンウェイには見抜かれており、絶世の美貌による無言の迫力よって、ルイフォンはベッドに沈められる。
横になった彼は、彼女にどう言ったらよいのか迷いながら、ぽつりと呟いた。
「……あいつは――リュイセンは、俺とは袂を分かったんだ」
苦しげなテノールが虚空に溶けた。
自分で発した言葉が、自分に重くのしかかった。
「ルイフォン、聞いて」
ミンウェイは、彼を追いかけるようにかがみ込み、ベッドの上の彼と目線を合わせる。
「緋扇さんが教えてくれたの。リュイセンは、私に関する『何か』を材料に、〈蝿〉に脅迫されているだけだろう、って」
「――!」
「リュイセンは、〈蝿〉に脅されているだけ。やむを得ず、メイシアをさらっただけ。――あなたを裏切ってなんかいないの」
ミンウェイの言葉を聞いた瞬間、ルイフォンの全身の血が湧いた。
「ふざけんな!」
片手を支えに体を起こし、ぐいと顎を上げた。そのまま、ミンウェイに喰らいつかんばかりに、牙をむく。
「リュイセンは、ミンウェイ絡みで〈蝿〉に脅された。――そんなことくらい、『俺も気づいていた』さ! だって、あいつが俺を裏切るなんて、それしかないだろ?」
「ルイフォン……、知っていた……?」
うろたえるミンウェイを、ルイフォンは一瞥した。彼女には黙っていようと思っていたのに、シュアンのせいで台無しだった。ハオリュウの代理で屋敷に来ることは聞いていたが、余計なことをしてくれたものだ。
「ああ。エルファンが、それとなく教えてくれた」
この二日間、夢うつつをさまよっているうちに、エルファンの真意に気づいた。
リュイセンは〈七つの大罪〉の怪しい技術で操られていたわけではない。意識は、はっきりしていたと、エルファンはまず初めに告げた。
その言葉の裏には『それにも関わらず、あの生真面目なリュイセンが彼らしくないことをしたのなら、それは彼が一番大切にしている、ミンウェイのためでしかあり得ない』――そういう意味が隠されていた。
リュイセンの苦渋の思いを理解したエルファンは、リュイセンの選択を認めたのだ。だから、ルイフォンに対して『袂を分かった』という聞こえのよい言葉で押し切った。
そして、ルイフォンの中でくすぶっていた『メイシアへの焦燥』と『リュイセンへの憤怒』という、ふたつの感情を昇華させ、『メイシアの救出』に向かって邁進すべく、ルイフォンを〈ベロ〉のもとへと連れて行ったのだ。
「けどな! リュイセンは、俺に相談すべきだった! メイシアや、ミンウェイには黙っていてもいい。でも、俺だけには言うべきだった! 違うか!?」
ミンウェイが、びくりと肩を上げるが、ルイフォンは構わず続ける。
「リュイセンが、どんなネタで脅されたのかは分からない。でも、俺に相談することを選ばずに、俺のメイシアを奪った! ならば、あいつは俺の敵だ!」
癖のある前髪の隙間から、鋭い猫の目が光る。逆毛を立て、今にも飛びかかりそうな形相で、ミンウェイを睨みつける。
ミンウェイは短く息を呑み、ひるんだように、わずかに身を引いた。
だが、それは一瞬のことだった。すぐに鮮やかな緋色を翻し、ルイフォンにずいと迫る。
「ルイフォン! あなたが、そうやってリュイセンを憎んでいるのも、間違っているわ! こんな事態、誰も望んでいないはずよ!」
「間違ってなんかねぇよ!」
「いいえ! 間違いよ!」
ルイフォンの反論を、ミンウェイが高い声をかぶせて打ち消す。泥沼の水掛け論になりつつあるのが分かっていても、どちらも引くことはできない。
「メイシアも、リュイセンも取り戻す。それから、お父様と――〈蝿〉と決着をつける。これが、私たちが今すべきことではないの?」
「そんな、おめでたい綺麗ごとなんか、あり得ねぇよ!」
ルイフォンがそう言い返したときだった。
不意に、がちゃりと。
ドアノブをひねる音が響いた。
「――!?」
常に鍵のかかっていない、ルイフォンの自室。いつでも、誰でも、拒むことのない部屋。――しかし、廊下まで聞こえているであろう口論のさなか、わざわざ乗り込んでくる物好きとは、いったい……。
ルイフォンは勿論、普段は気配に敏感なはずのミンウェイさえも、驚きの顔で音の発生源に注目する。彼らの視線の先で、その扉は、ためらいの欠片も感じぬ滑らかさで、すっと開いた。
最初にひょこりと覗いたのは、手入れを知らぬ、ぼさぼさ頭だった。
「おいおい。死にそうな怪我人だと聞いていたんだが、随分と元気そうじゃねぇか」
見るからに凶悪な三白眼が、にやりと歪む。その姿を見た瞬間、ミンウェイが叫んだ。
「緋扇さん!?」
「ミンウェイ、そいつのどこが重傷なんだ? あんた、藪医者なのか?」
へらへらと笑いながら、警察隊の緋扇シュアンが部屋に入ってきた。
ルイフォンは、むっと眉根を寄せた。
確かにシュアンなら、話の途中に断りもなく、それどころか、さも当然と平気で割り込むだろう。何故なら彼は、ミンウェイの加勢に来たのだろうから。
見た目に反して、シュアンが案外いい奴だということは知っている。
だが、はっきりいって、今は単なる邪魔者。
――否、迷惑な妨害者だ!
「よう、ルイフォン。ハオリュウの代わりに見舞いに来てやったのに、なかなか手厚い歓迎だな」
ルイフォンの渋面を楽しげに皮肉りながら、シュアンはテーブルから椅子を引きずり、ベッドサイドにやってきた。
ルイフォンとしては、すぐにも追い出したい。しかし、何かと世話になっていることもあり、とりあえず『帰れ』のひとことだけは、かろうじて呑み込んだ。
「まぁ、有り体に言えば、俺は立ち聞きしていたわけだけどさ」
「……」
堂々とした態度に、ルイフォンは、もはや何も言う気になれなかった。故に、片腕で起こしていた体を倒し、要望通りの怪我人らしさを演出する。――無言の『帰れ』だ。
だがそれは、シュアンを見くびる行為だったと、すぐに気づくことになる。
沈黙のルイフォンに、シュアンは調子に乗ったように続けた。
「ルイフォン。あんた、さっき、『リュイセンが、どんなネタで脅されたのかは分からない』って言っていたよな? それって、『〈猫〉』としてどうなのさ? 凄腕の情報屋だと聞いているんだけどよ。さすがの〈猫〉も分からねぇ、ってか?」
妙に甲高い、挑発的な声が耳朶を打った。
情報屋〈猫〉をなじられ、ルイフォンは反射的にベッドを飛び起きる。
「てめぇっ」
「メイシア嬢を奪われて、あんたが気が立っているのは分かるさ。だがそれで、視野が狭くなったら阿呆だぜ?」
反応を見せたルイフォンを、シュアンがせせら笑う。
こちらを見つめる眼光が、有無を言わせぬ凄みをまとった。口角を上げた悪相に、ルイフォンは不覚にも一瞬、たじろぐ。
「脅されたネタさえ暴いちまえば、リュイセンは味方に戻る。――そしたら奴は、『難攻不落の敵地に、先だって潜入成功している、頼もしい仲間』になるんだぜ?」
血色の悪い凶相が、からかうように、にたりと緩んだ。
軽口を叩いているようでいて、しかし、シュアンの抜け目のない三白眼は笑ってなどいなかった。