残酷な描写あり
6.塔の上の姫君-2
「……『ライシェン』を見た瞬間、胸が苦しくなりました」
メイシアは、ぽつりと漏らすように答えた。
「懐かしくて、愛しくて、切なくて……。私が『ライシェン』を見たのは、初めてであるはずなのに、私は彼を知っていました。――セレイエさんの記憶だと思います」
「ほう……。それから?」
〈蝿〉が肘を付き、ずいと身を乗り出した。捕食者の瞳が爛々と輝く。
メイシアは、思わず小さな悲鳴を上げそうになった。けれど、掌を固く握りしめることで、かろうじてこらえる。
「生まれて間もないライシェンを、腕に抱いたことを思い出しました。驚くほど小さくて、柔らかくて……。誰かから話を聞くのとは違う、自分の体験としての感触が蘇りました」
「なるほど。あなた自身の経験のように、記憶が処理されるわけですか」
〈蝿〉の目つきが、研究者のそれになった。
しかし、今の彼にとって、メイシアは研究の対象ではない。情報源であり、生き残るための切り札だ。
平時であれば、彼女の脳に電極を刺し、情報伝達の仕組みでも解明しようとしたことだろう。けれども現在、彼に必要なのは、知的好奇心を満たすことではなく、セレイエの居場所を知ることだった。
「では、教えて下さい。鷹刀セレイエ本人は今、どうしていますか? 彼女は『ライシェン』に会いたいはずです。どのようにして、彼女は現れるつもりですか?」
「それは……」
メイシアは、ごくりと唾を呑み込んだ。テーブルの下の拳が、うっすらと汗ばむ。
「……私の中に蘇るのは、ライシェンとの思い出ばかりなんです。――セレイエさんが幸せだったころの記憶だけ……なんです」
「……!?」
〈蝿〉の眉が跳ね上がった。メイシアが言わんとしていることに気づいたのだ。
顔色を変えた彼を恐れるように、けれど、言うしかないと覚悟を決めたかのように、彼女は細い声を震わせる。
「ライシェンの命が狙われている、という記憶に触れそうになると、怖い、悲しいといった気持ちがあふれてきます。そして、それ以降のことは思い出したくない、と……」
「つまり、あなたの中の『鷹刀セレイエ』は、楽しい思い出に浸りきっている、というわけですか!」
苛立ちのままに、〈蝿〉はテーブルに拳を打ち付けた。メイシアは、びくりと肩を上げ、身を縮こませる。
「……すみません」
萎縮したようにうつむく。――嘘をついていることがばれないよう、顔を隠すために……。
今までの人生において、およそ人を騙したことなどない彼女の、一世一代の演技だった。
〈蝿〉には、どんな些細な情報だって渡す気はない。けれど、それをそのまま言ったら、〈蝿〉の機嫌を損ねるだけだろう。
だから、できるだけ多くの真実を混ぜた嘘を伝える。
そして、時間を稼ぐのだ。
メイシアに『ライシェン』を見せれば、すべて上手くいくと思っていた〈蝿〉は、これから次の手を考えなければならなくなった。そこに掛かる『時間』が、メイシアの勝機に繋がる。
現在のメイシアの目的は、この庭園からリュイセンと共に逃げることだ。そのための情報を集め、策を練る時間が欲しかった。
「あなたの中で、『鷹刀セレイエ』が目覚めていることは確かなわけですね」
〈蝿〉が、低い声を落とした。冷静さを取り戻したように、緩やかに口角を上げる。
不穏な気配に、判断を誤ったかとメイシアの心臓が跳ねた。しかし、話の流れから、もはや肯定以外の返答は許されない。
「――はい」
「分かりました。あなたに自白剤を投与しましょう」
「!」
「そもそも、初めからそのつもりでした。――あなたが『鷹刀セレイエ』の記憶を得たところで、素直に話してくれるとは思っていませんでしたからね」
絶世の美貌が『悪魔』の残忍さをまとう。
メイシアが情報を隠そうとすることなど、〈蝿〉にはお見通しだった。
背中を冷や汗が流れた。顔から一気に血の気が引き、歯の根が合わなくなる。
「どうしました?」
涼しげな声で、〈蝿〉は尋ねる。
「……怖い……です」
メイシアは、状況と矛盾しない返答を必死に紡ぎ出した。言ったあとも、疑念を抱かれない台詞だったろうかと、不安に鼓動を早める。
「あなたは大事な切り札ですから、廃人にしたりなどしませんよ」
白衣の〈悪魔〉は、脅える患者を諭すように、優しげな笑みを浮かべる。医者として、研究者として、薬物の副作用はないと、そう言いたいのだろう。勿論、本心からメイシアを案じているわけではない。ただの演出だ。
しかし、彼が口にした『廃人』のひとことは、メイシアにとっさの詭弁をひらめかせた。
「ル、ルイフォンが言っていました……!」
彼女は、叫ぶように切り出す。
「〈天使〉の脳内介入は、一歩、間違えれば廃人になるような繊細なものだそうです。ですから、私に刻まれた『セレイエさん』の記憶を、薬を使って無理に引き出すことは危険です」
がたがたと震えながら、メイシアは必死に訴えた。けれど、〈蝿〉は一笑に付す。
「まったく論理的ではありませんね。適当な理由をつけて、自白剤を忌避しようとしているようにしか聞こえません」
「……」
事実、その通りなのだから、そう言われても仕方ない。
「――ですが、よく考えれば、あなた自身が認識できていないような記憶を、薬で強制的に引きずり出そうとすることは、『危険』というよりも『見当違い』かもしれませんね。『知らない』ことは、自白のしようもありませんから」
〈蝿〉は緩く腕を組み、「それでは、こうしましょう」と、優位にある者の顔でメイシアを睥睨する。
「これから毎日、あなたには『ライシェン』と対面してもらい、あなたの中の『鷹刀セレイエ』に揺さぶりをかけ続けます。そうですね、一週間くらいでいいでしょうか。そのあとで、自白剤を投与してみましょう」
「!?」
一週間の猶予――!?
メイシアの詭弁は失敗したのに、〈蝿〉のほうから時間を与えてくれるとは!?
……信じられないほどの幸運だった。
「分かりました」
メイシアの口元が、自然にほころぶ。
思わず表情を緩めてしまってから、不審な態度ではなかったかとメイシアは焦るが、彼女の一喜一憂は自分の言葉に翻弄されているからこそと、〈蝿〉は捉えているようだった。満足げな様子で彼女を見つめている。どうやら、大丈夫そうだ。
かなり危ういやり取りではあったが、こうしてメイシアは、ひとまずの時間を手に入れた。
話が、ひと段落したからだろう。「食事を用意させます」と言って、〈蝿〉は携帯端末に向かって指示を出した。
ずっと眠っていたとはいえ、メイシアは鷹刀一族の屋敷からさらわれて以来、丸一日、何も口にしていない。敵からの施しとはいえ、ありがたかった。
ほどなくして、エレベーターの気配を感じ、扉がノックされた。
部屋に入ってきた人物を見て、メイシアは目を見開く。
「リュイセン……」
輝くような黄金比の美貌はすっかり陰りを帯び、すらりとした長身は、弟分のルイフォンもかくやというほどに猫背になっている。
彼は、メイシアと目を合わせることができず、押してきたワゴンの手元にずっと視線を落としていた。
「彼に会わせて差し上げると、約束をしたでしょう?」
うつむいたままのリュイセンを一瞥し、〈蝿〉がくすりと嗤う。
「あなたの身の回りの世話はリュイセンに任せます。見知らぬ男に部屋をうろつかれるよりも安心でしょう」
まるで善行を自慢するかのように〈蝿〉は言った。そして彼は、自分は研究室に戻らなければならないと、部屋を出ていった。
あとには、メイシアとリュイセンのふたりきりが残された……。
リュイセンの押すワゴンが、車輪の音をからからと響かせて近づいてくる。場違いなほどに軽快な音は、メイシアの鼓動と歩調を合わせるように高鳴り、彼女の座るテーブルの横で止まった。
「リュイセン……、……っ」
何を言えばいいのか、分からなかった。けれど、彼の姿を正面から見た瞬間、メイシアの瞳から涙がこぼれた。
……安堵したのだ。
彼女をさらったのは間違いなく彼なのに、見知った顔が近くにあることが、とてつもなく心強かった。
「メイシア……。……すまん」
暗く沈んだ声が、光のあふれる展望室に掻き消される。
「リュイセン、あのっ……!」
「まずは、食べてくれ。ずっと何も食べていないはずだ。……体に悪い」
話しかけようとしたメイシアから逃げるように、リュイセンはぎこちない手つきで、ワゴンからテーブルへと皿を移す。
「リュイセン……」
用意された食事は、ライ麦の入ったパンと、香辛料で軽く調味した肉のソテー。野菜もきちんと添えられていて、思っていたよりもずっと豪華であった。どうやら〈蝿〉は、専任の料理人も雇っているらしい。レトルト食品を温めただけのものが出てきても美味しくいただこうと、身構えていたメイシアは拍子抜けした。
ルイフォンと生活していくうちに、貴族の世界では口にすることもなかったようなものも食べるようになった彼女ではあるが、基本的には屋敷の料理長の絶品料理をいただいている。……目の前の食事に、ほっとしたのも事実だった。
「いただきます」
リュイセンの様子を窺いながら、メイシアはナイフとフォークを手に取った。
食器の奏でる音だけが、ふたりの間を埋める。
ふたりとも無言だった。メイシアは、何度か口を開こうとしたのだが、リュイセンの視線がそれを許さなかった。
息苦しい空気が部屋を占める。
料理長の手伝いをするようになってから、メイシアは食べ物に対する感謝の気持ちがいっそう深くなっている。このままでは料理に失礼だ。きちんといただこうと、彼女は食事に専念することにした。
……やがて、綺麗に食べ終わり、メイシアはナプキンで口元を押さえた。
「ご馳走様でした」
一礼し、改めてリュイセンと向き合う。
「リュイセン、一緒にこの庭園を逃げましょう」
黒曜石の瞳が、じっと彼を捕らえた。凛とした強さに、無言で食器を下げようとしていたリュイセンの肩がびくりと揺れ、思わずメイシアを振り返る。
「あなたは、好きで〈蝿〉に従っているわけではないでしょう?」
「……っ」
リュイセンは押し黙り、目線をそらした。
思わしくない反応は承知していた。何故なら、リュイセンとふたりきりにしても、メイシアが逃げることにならないと踏んでいるからこそ、〈蝿〉は安心して研究室に戻っていったのだから。
「リュイセン、私がセレイエさんの〈影〉だという話。あれは正確ではなかったんです」
「――え?」
リュイセンの頬が、ぴくりと動いた。初めて、彼の表情が変化した。
「王族の血を引く私は特別で、私の中には、私自身と『セレイエさん』が同時に存在できるんです。だから、〈蝿〉が言った『いずれ私は、私でなくなる』というのは嘘だったんです」
「……!」
「リュイセンは、私が〈影〉となって消えてしまうと思ったからこそ、私をさらうことに納得したんじゃありませんか?」
メイシアの問いに、リュイセンの喉仏が、こくりと下がるのが分かった。口に出しては何も言わないが、それは正直すぎる彼の不器用な首肯だった。
「〈蝿〉は、リュイセンの背中を後押しするために、嘘を言ったんです」
畳み掛けられた言葉に、リュイセンは鋭く息を呑んだ。
彼の視界は、後悔と憎悪で黒く塗りつぶされた。目の前が見えなくなった彼は、片付けようとしていた皿を思わず取り落とす。
高い音が響いた。
粉々になった陶器の破片が飛び散り、床の上に広がる。
「――!」
崩れ落ちるようにリュイセンがしゃがみこんだのは、割れた皿を拾うためか。
それとも、今まで彼を支えてきた、拠りどころとなる免罪符を失ったためか……。
「――つっ……」
リュイセンの指先に赤い筋が走った。まともに手元を見ずに、破片を掴んだからだ。
「リュイセン、待って! 箒を持ってきます!」
この部屋に入るとき、階段の脇にロッカーのようなものが見えた。おそらく、掃除用具入れだ。
メイシアは、ぱっと席を立ち、小走りに取りに行く……。
思った通りに箒を手に入れて戻ると、リュイセンが大きめの破片を黙々と拾っていた。
「あとは私がやります」
メイド見習いとして修行を積み、ひと通りのことはできるようになったのだ。腕の見せどころだろう。
「――いや。自分のしたことは、自分で決着をつける。――当然だ」
「えっ!?」
先ほどまでの肩を落としたリュイセンとは、別人のように艶めいた低い声だった。
顔を上げた彼の瞳は、触れれば斬れるような抜き身の刀の様相をしていた。血の気の失せた美貌は透けるように白かったが、それが強い意志を得た黒目をより印象的に際立たせている。
「リュイセン……?」
彼の中で、何かが変わったのだ。
彼は、やるべきことをやる男。常に前を、未来を向いて歩いていく――。
「……それは、お皿のことではなく、今の状況のことですよね。ならば、ひとりではなく、私と一緒に……」
そう言いかけたメイシアの声を、リュイセンが遮った。
「すまん、メイシア。それはできない。俺は――……」
言い掛けて、途中で奥歯を噛みしめるようにして、彼は口をつぐむ。
「〈蝿〉に、脅されているんですね」
「……」
「教えて下さい。リュイセンは何故、〈蝿〉に従っているんですか? いったい、何があったんですか!?」
「……答えられない。――けど、お前のことは必ず、ルイフォンのもとに帰す。必ず、絶対だ」
噛みしめるように告げられた言葉は、メイシアに誓いを立てるようでいて、自分に言い聞かせるようでもあった。
メイシアは、ごくりと唾を呑み、喰らいつくようにリュイセンに迫る。
「私は〈蝿〉から一週間の猶予を得ました。その間に、あなたが〈蝿〉に従う原因を取り除きます――!」
「……無理だ」
はっきりと言い切ったリュイセンを無視し、メイシアは続ける。
「純粋な武力の勝負なら、あなたは〈蝿〉を遥かに上回ると、ルイフォンから聞いています。――つまり、あなたが〈蝿〉から解放されれば、『〈蝿〉を捕らえる』という私たちの本来の目的は簡単に達成できます」
――そうだ。
ただ逃げることばかり考えていたが、反撃に出ることもできるのだ。
メイシアの頬が紅潮し、黒曜石の瞳が煌めく。
「捕らえた〈蝿〉を車に乗せて、鷹刀に戻りましょう。――〈蝿〉の部下となっているあなたなら、門を守る近衛隊の方々に呼び止められることなく、この庭園を出られるはずです」
やはり、リュイセンは希望だと、メイシアは思う。
リュイセンは今、苦しんでいる。けれど、この窮地さえ乗り越えれば、すべて解決するのだ。
「――だから、教えてください」
凛とした眼差しが訴える。
「リュイセンは、いったい何に縛られているのですか……?」
「……すまん」
リュイセンは、皿の破片を拾い終えていた。ごみとなったそれをワゴンに載せ、踵を返す。
「メイシア。俺は、お前の敵なんだ。……仇なんだ」
「リュイセン!」
「お前を連れ去ろうとしたとき、ルイフォンに見つかった。俺は、退路を断つつもりで……、ルイフォンを斬ってきた」
「――!?」
まさかの告白だった。
メイシアは口元に手を当て、血相を変える。
心臓が激しく脈打った。目眩がして、周りの景色が歪んでいく……。
「命に別条はない。……けど、決して軽い怪我じゃない。峰打ちだけで充分だったのに……。――すまん。お前の大事な奴を……」
弱々しくこぼされた言葉に、メイシアは反射的に叫んだ。
「ルイフォンは、リュイセンの大切な弟分です!」
これだけでは、何を言いたいのか、リュイセンに伝わらないだろう。
ルイフォンは、メイシアの大事な人であると同時に、リュイセンにとっても、かけがいのない相棒だ。――そう言いたかったのだ。
リュイセンの口ぶりは、まるで彼とルイフォンの間には、関係を示す言葉が何もないのだと言っているかのようで……。胸が苦しくて声が出ない。
たとえ傷つけたのが彼自身だとしても、深手を負ったルイフォンのことを、リュイセンは心から案じている。
ルイフォンとリュイセンは、長い間ふたりで築きあげてきた、太い絆で繋がっている。
だからこそ、リュイセンは、裏切りを決意したからには、絆もろともルイフォンに刀を振るい、断ち斬らずにはいられなかったのだろう。
どうして、こんなことになったのか。
……自分がさらわれたこと以上に、心が痛い。
「俺は、お前にも、……あいつにも、もう顔向けできないんだ……」
ワゴンの音が、からからと遠ざかっていく。
「待ってください!」
メイシアが椅子から立ち上がった瞬間、リュイセンがくるりと振り返った。
肩で綺麗に切り揃えられた髪が、空を薙ぐ。
地底の闇を秘めた双眸が、メイシアを映す。
その顔は……拒絶――だった。
「――けど、何があっても、お前をルイフォンのもとに帰す。――それは、絶対だ」
そして、リュイセンは扉の向こうに消えた。
メイシアはただ、見送ることしかできなかった。
重い体を引きずるようにして、メイシアは窓際に立った。少しでも、ルイフォンのいる場所に近づきたかった。
怪我の具合いは、どんなだろうか。
彼はきっと、ミンウェイの制止も聞かずに、動き回ろうとしているに違いない。
……メイシアを取り戻すために。
「ルイフォン……」
彼に逢いたい。そして、つきっきりで看病をするのだ。
彼はきっと、嬉しそうに猫の目を細め、『ありがとう』と彼女を抱きしめてくれるだろう……。
「――……っ」
メイシアの頬をひと筋の涙が流れた。
光あふれる展望室からの風景は、遥か遠く、どこまでも冴え渡っていた。
けれど、メイシアの周りだけは深い霧に覆われている。
どこに向かって手を伸ばせばいいのか分からず、彼女は祈るように両手を組み合わせた……。
メイシアは、ぽつりと漏らすように答えた。
「懐かしくて、愛しくて、切なくて……。私が『ライシェン』を見たのは、初めてであるはずなのに、私は彼を知っていました。――セレイエさんの記憶だと思います」
「ほう……。それから?」
〈蝿〉が肘を付き、ずいと身を乗り出した。捕食者の瞳が爛々と輝く。
メイシアは、思わず小さな悲鳴を上げそうになった。けれど、掌を固く握りしめることで、かろうじてこらえる。
「生まれて間もないライシェンを、腕に抱いたことを思い出しました。驚くほど小さくて、柔らかくて……。誰かから話を聞くのとは違う、自分の体験としての感触が蘇りました」
「なるほど。あなた自身の経験のように、記憶が処理されるわけですか」
〈蝿〉の目つきが、研究者のそれになった。
しかし、今の彼にとって、メイシアは研究の対象ではない。情報源であり、生き残るための切り札だ。
平時であれば、彼女の脳に電極を刺し、情報伝達の仕組みでも解明しようとしたことだろう。けれども現在、彼に必要なのは、知的好奇心を満たすことではなく、セレイエの居場所を知ることだった。
「では、教えて下さい。鷹刀セレイエ本人は今、どうしていますか? 彼女は『ライシェン』に会いたいはずです。どのようにして、彼女は現れるつもりですか?」
「それは……」
メイシアは、ごくりと唾を呑み込んだ。テーブルの下の拳が、うっすらと汗ばむ。
「……私の中に蘇るのは、ライシェンとの思い出ばかりなんです。――セレイエさんが幸せだったころの記憶だけ……なんです」
「……!?」
〈蝿〉の眉が跳ね上がった。メイシアが言わんとしていることに気づいたのだ。
顔色を変えた彼を恐れるように、けれど、言うしかないと覚悟を決めたかのように、彼女は細い声を震わせる。
「ライシェンの命が狙われている、という記憶に触れそうになると、怖い、悲しいといった気持ちがあふれてきます。そして、それ以降のことは思い出したくない、と……」
「つまり、あなたの中の『鷹刀セレイエ』は、楽しい思い出に浸りきっている、というわけですか!」
苛立ちのままに、〈蝿〉はテーブルに拳を打ち付けた。メイシアは、びくりと肩を上げ、身を縮こませる。
「……すみません」
萎縮したようにうつむく。――嘘をついていることがばれないよう、顔を隠すために……。
今までの人生において、およそ人を騙したことなどない彼女の、一世一代の演技だった。
〈蝿〉には、どんな些細な情報だって渡す気はない。けれど、それをそのまま言ったら、〈蝿〉の機嫌を損ねるだけだろう。
だから、できるだけ多くの真実を混ぜた嘘を伝える。
そして、時間を稼ぐのだ。
メイシアに『ライシェン』を見せれば、すべて上手くいくと思っていた〈蝿〉は、これから次の手を考えなければならなくなった。そこに掛かる『時間』が、メイシアの勝機に繋がる。
現在のメイシアの目的は、この庭園からリュイセンと共に逃げることだ。そのための情報を集め、策を練る時間が欲しかった。
「あなたの中で、『鷹刀セレイエ』が目覚めていることは確かなわけですね」
〈蝿〉が、低い声を落とした。冷静さを取り戻したように、緩やかに口角を上げる。
不穏な気配に、判断を誤ったかとメイシアの心臓が跳ねた。しかし、話の流れから、もはや肯定以外の返答は許されない。
「――はい」
「分かりました。あなたに自白剤を投与しましょう」
「!」
「そもそも、初めからそのつもりでした。――あなたが『鷹刀セレイエ』の記憶を得たところで、素直に話してくれるとは思っていませんでしたからね」
絶世の美貌が『悪魔』の残忍さをまとう。
メイシアが情報を隠そうとすることなど、〈蝿〉にはお見通しだった。
背中を冷や汗が流れた。顔から一気に血の気が引き、歯の根が合わなくなる。
「どうしました?」
涼しげな声で、〈蝿〉は尋ねる。
「……怖い……です」
メイシアは、状況と矛盾しない返答を必死に紡ぎ出した。言ったあとも、疑念を抱かれない台詞だったろうかと、不安に鼓動を早める。
「あなたは大事な切り札ですから、廃人にしたりなどしませんよ」
白衣の〈悪魔〉は、脅える患者を諭すように、優しげな笑みを浮かべる。医者として、研究者として、薬物の副作用はないと、そう言いたいのだろう。勿論、本心からメイシアを案じているわけではない。ただの演出だ。
しかし、彼が口にした『廃人』のひとことは、メイシアにとっさの詭弁をひらめかせた。
「ル、ルイフォンが言っていました……!」
彼女は、叫ぶように切り出す。
「〈天使〉の脳内介入は、一歩、間違えれば廃人になるような繊細なものだそうです。ですから、私に刻まれた『セレイエさん』の記憶を、薬を使って無理に引き出すことは危険です」
がたがたと震えながら、メイシアは必死に訴えた。けれど、〈蝿〉は一笑に付す。
「まったく論理的ではありませんね。適当な理由をつけて、自白剤を忌避しようとしているようにしか聞こえません」
「……」
事実、その通りなのだから、そう言われても仕方ない。
「――ですが、よく考えれば、あなた自身が認識できていないような記憶を、薬で強制的に引きずり出そうとすることは、『危険』というよりも『見当違い』かもしれませんね。『知らない』ことは、自白のしようもありませんから」
〈蝿〉は緩く腕を組み、「それでは、こうしましょう」と、優位にある者の顔でメイシアを睥睨する。
「これから毎日、あなたには『ライシェン』と対面してもらい、あなたの中の『鷹刀セレイエ』に揺さぶりをかけ続けます。そうですね、一週間くらいでいいでしょうか。そのあとで、自白剤を投与してみましょう」
「!?」
一週間の猶予――!?
メイシアの詭弁は失敗したのに、〈蝿〉のほうから時間を与えてくれるとは!?
……信じられないほどの幸運だった。
「分かりました」
メイシアの口元が、自然にほころぶ。
思わず表情を緩めてしまってから、不審な態度ではなかったかとメイシアは焦るが、彼女の一喜一憂は自分の言葉に翻弄されているからこそと、〈蝿〉は捉えているようだった。満足げな様子で彼女を見つめている。どうやら、大丈夫そうだ。
かなり危ういやり取りではあったが、こうしてメイシアは、ひとまずの時間を手に入れた。
話が、ひと段落したからだろう。「食事を用意させます」と言って、〈蝿〉は携帯端末に向かって指示を出した。
ずっと眠っていたとはいえ、メイシアは鷹刀一族の屋敷からさらわれて以来、丸一日、何も口にしていない。敵からの施しとはいえ、ありがたかった。
ほどなくして、エレベーターの気配を感じ、扉がノックされた。
部屋に入ってきた人物を見て、メイシアは目を見開く。
「リュイセン……」
輝くような黄金比の美貌はすっかり陰りを帯び、すらりとした長身は、弟分のルイフォンもかくやというほどに猫背になっている。
彼は、メイシアと目を合わせることができず、押してきたワゴンの手元にずっと視線を落としていた。
「彼に会わせて差し上げると、約束をしたでしょう?」
うつむいたままのリュイセンを一瞥し、〈蝿〉がくすりと嗤う。
「あなたの身の回りの世話はリュイセンに任せます。見知らぬ男に部屋をうろつかれるよりも安心でしょう」
まるで善行を自慢するかのように〈蝿〉は言った。そして彼は、自分は研究室に戻らなければならないと、部屋を出ていった。
あとには、メイシアとリュイセンのふたりきりが残された……。
リュイセンの押すワゴンが、車輪の音をからからと響かせて近づいてくる。場違いなほどに軽快な音は、メイシアの鼓動と歩調を合わせるように高鳴り、彼女の座るテーブルの横で止まった。
「リュイセン……、……っ」
何を言えばいいのか、分からなかった。けれど、彼の姿を正面から見た瞬間、メイシアの瞳から涙がこぼれた。
……安堵したのだ。
彼女をさらったのは間違いなく彼なのに、見知った顔が近くにあることが、とてつもなく心強かった。
「メイシア……。……すまん」
暗く沈んだ声が、光のあふれる展望室に掻き消される。
「リュイセン、あのっ……!」
「まずは、食べてくれ。ずっと何も食べていないはずだ。……体に悪い」
話しかけようとしたメイシアから逃げるように、リュイセンはぎこちない手つきで、ワゴンからテーブルへと皿を移す。
「リュイセン……」
用意された食事は、ライ麦の入ったパンと、香辛料で軽く調味した肉のソテー。野菜もきちんと添えられていて、思っていたよりもずっと豪華であった。どうやら〈蝿〉は、専任の料理人も雇っているらしい。レトルト食品を温めただけのものが出てきても美味しくいただこうと、身構えていたメイシアは拍子抜けした。
ルイフォンと生活していくうちに、貴族の世界では口にすることもなかったようなものも食べるようになった彼女ではあるが、基本的には屋敷の料理長の絶品料理をいただいている。……目の前の食事に、ほっとしたのも事実だった。
「いただきます」
リュイセンの様子を窺いながら、メイシアはナイフとフォークを手に取った。
食器の奏でる音だけが、ふたりの間を埋める。
ふたりとも無言だった。メイシアは、何度か口を開こうとしたのだが、リュイセンの視線がそれを許さなかった。
息苦しい空気が部屋を占める。
料理長の手伝いをするようになってから、メイシアは食べ物に対する感謝の気持ちがいっそう深くなっている。このままでは料理に失礼だ。きちんといただこうと、彼女は食事に専念することにした。
……やがて、綺麗に食べ終わり、メイシアはナプキンで口元を押さえた。
「ご馳走様でした」
一礼し、改めてリュイセンと向き合う。
「リュイセン、一緒にこの庭園を逃げましょう」
黒曜石の瞳が、じっと彼を捕らえた。凛とした強さに、無言で食器を下げようとしていたリュイセンの肩がびくりと揺れ、思わずメイシアを振り返る。
「あなたは、好きで〈蝿〉に従っているわけではないでしょう?」
「……っ」
リュイセンは押し黙り、目線をそらした。
思わしくない反応は承知していた。何故なら、リュイセンとふたりきりにしても、メイシアが逃げることにならないと踏んでいるからこそ、〈蝿〉は安心して研究室に戻っていったのだから。
「リュイセン、私がセレイエさんの〈影〉だという話。あれは正確ではなかったんです」
「――え?」
リュイセンの頬が、ぴくりと動いた。初めて、彼の表情が変化した。
「王族の血を引く私は特別で、私の中には、私自身と『セレイエさん』が同時に存在できるんです。だから、〈蝿〉が言った『いずれ私は、私でなくなる』というのは嘘だったんです」
「……!」
「リュイセンは、私が〈影〉となって消えてしまうと思ったからこそ、私をさらうことに納得したんじゃありませんか?」
メイシアの問いに、リュイセンの喉仏が、こくりと下がるのが分かった。口に出しては何も言わないが、それは正直すぎる彼の不器用な首肯だった。
「〈蝿〉は、リュイセンの背中を後押しするために、嘘を言ったんです」
畳み掛けられた言葉に、リュイセンは鋭く息を呑んだ。
彼の視界は、後悔と憎悪で黒く塗りつぶされた。目の前が見えなくなった彼は、片付けようとしていた皿を思わず取り落とす。
高い音が響いた。
粉々になった陶器の破片が飛び散り、床の上に広がる。
「――!」
崩れ落ちるようにリュイセンがしゃがみこんだのは、割れた皿を拾うためか。
それとも、今まで彼を支えてきた、拠りどころとなる免罪符を失ったためか……。
「――つっ……」
リュイセンの指先に赤い筋が走った。まともに手元を見ずに、破片を掴んだからだ。
「リュイセン、待って! 箒を持ってきます!」
この部屋に入るとき、階段の脇にロッカーのようなものが見えた。おそらく、掃除用具入れだ。
メイシアは、ぱっと席を立ち、小走りに取りに行く……。
思った通りに箒を手に入れて戻ると、リュイセンが大きめの破片を黙々と拾っていた。
「あとは私がやります」
メイド見習いとして修行を積み、ひと通りのことはできるようになったのだ。腕の見せどころだろう。
「――いや。自分のしたことは、自分で決着をつける。――当然だ」
「えっ!?」
先ほどまでの肩を落としたリュイセンとは、別人のように艶めいた低い声だった。
顔を上げた彼の瞳は、触れれば斬れるような抜き身の刀の様相をしていた。血の気の失せた美貌は透けるように白かったが、それが強い意志を得た黒目をより印象的に際立たせている。
「リュイセン……?」
彼の中で、何かが変わったのだ。
彼は、やるべきことをやる男。常に前を、未来を向いて歩いていく――。
「……それは、お皿のことではなく、今の状況のことですよね。ならば、ひとりではなく、私と一緒に……」
そう言いかけたメイシアの声を、リュイセンが遮った。
「すまん、メイシア。それはできない。俺は――……」
言い掛けて、途中で奥歯を噛みしめるようにして、彼は口をつぐむ。
「〈蝿〉に、脅されているんですね」
「……」
「教えて下さい。リュイセンは何故、〈蝿〉に従っているんですか? いったい、何があったんですか!?」
「……答えられない。――けど、お前のことは必ず、ルイフォンのもとに帰す。必ず、絶対だ」
噛みしめるように告げられた言葉は、メイシアに誓いを立てるようでいて、自分に言い聞かせるようでもあった。
メイシアは、ごくりと唾を呑み、喰らいつくようにリュイセンに迫る。
「私は〈蝿〉から一週間の猶予を得ました。その間に、あなたが〈蝿〉に従う原因を取り除きます――!」
「……無理だ」
はっきりと言い切ったリュイセンを無視し、メイシアは続ける。
「純粋な武力の勝負なら、あなたは〈蝿〉を遥かに上回ると、ルイフォンから聞いています。――つまり、あなたが〈蝿〉から解放されれば、『〈蝿〉を捕らえる』という私たちの本来の目的は簡単に達成できます」
――そうだ。
ただ逃げることばかり考えていたが、反撃に出ることもできるのだ。
メイシアの頬が紅潮し、黒曜石の瞳が煌めく。
「捕らえた〈蝿〉を車に乗せて、鷹刀に戻りましょう。――〈蝿〉の部下となっているあなたなら、門を守る近衛隊の方々に呼び止められることなく、この庭園を出られるはずです」
やはり、リュイセンは希望だと、メイシアは思う。
リュイセンは今、苦しんでいる。けれど、この窮地さえ乗り越えれば、すべて解決するのだ。
「――だから、教えてください」
凛とした眼差しが訴える。
「リュイセンは、いったい何に縛られているのですか……?」
「……すまん」
リュイセンは、皿の破片を拾い終えていた。ごみとなったそれをワゴンに載せ、踵を返す。
「メイシア。俺は、お前の敵なんだ。……仇なんだ」
「リュイセン!」
「お前を連れ去ろうとしたとき、ルイフォンに見つかった。俺は、退路を断つつもりで……、ルイフォンを斬ってきた」
「――!?」
まさかの告白だった。
メイシアは口元に手を当て、血相を変える。
心臓が激しく脈打った。目眩がして、周りの景色が歪んでいく……。
「命に別条はない。……けど、決して軽い怪我じゃない。峰打ちだけで充分だったのに……。――すまん。お前の大事な奴を……」
弱々しくこぼされた言葉に、メイシアは反射的に叫んだ。
「ルイフォンは、リュイセンの大切な弟分です!」
これだけでは、何を言いたいのか、リュイセンに伝わらないだろう。
ルイフォンは、メイシアの大事な人であると同時に、リュイセンにとっても、かけがいのない相棒だ。――そう言いたかったのだ。
リュイセンの口ぶりは、まるで彼とルイフォンの間には、関係を示す言葉が何もないのだと言っているかのようで……。胸が苦しくて声が出ない。
たとえ傷つけたのが彼自身だとしても、深手を負ったルイフォンのことを、リュイセンは心から案じている。
ルイフォンとリュイセンは、長い間ふたりで築きあげてきた、太い絆で繋がっている。
だからこそ、リュイセンは、裏切りを決意したからには、絆もろともルイフォンに刀を振るい、断ち斬らずにはいられなかったのだろう。
どうして、こんなことになったのか。
……自分がさらわれたこと以上に、心が痛い。
「俺は、お前にも、……あいつにも、もう顔向けできないんだ……」
ワゴンの音が、からからと遠ざかっていく。
「待ってください!」
メイシアが椅子から立ち上がった瞬間、リュイセンがくるりと振り返った。
肩で綺麗に切り揃えられた髪が、空を薙ぐ。
地底の闇を秘めた双眸が、メイシアを映す。
その顔は……拒絶――だった。
「――けど、何があっても、お前をルイフォンのもとに帰す。――それは、絶対だ」
そして、リュイセンは扉の向こうに消えた。
メイシアはただ、見送ることしかできなかった。
重い体を引きずるようにして、メイシアは窓際に立った。少しでも、ルイフォンのいる場所に近づきたかった。
怪我の具合いは、どんなだろうか。
彼はきっと、ミンウェイの制止も聞かずに、動き回ろうとしているに違いない。
……メイシアを取り戻すために。
「ルイフォン……」
彼に逢いたい。そして、つきっきりで看病をするのだ。
彼はきっと、嬉しそうに猫の目を細め、『ありがとう』と彼女を抱きしめてくれるだろう……。
「――……っ」
メイシアの頬をひと筋の涙が流れた。
光あふれる展望室からの風景は、遥か遠く、どこまでも冴え渡っていた。
けれど、メイシアの周りだけは深い霧に覆われている。
どこに向かって手を伸ばせばいいのか分からず、彼女は祈るように両手を組み合わせた……。