残酷な描写あり
7.黄昏どきの来訪者-1
リュイセンが部屋を出ていったあと、メイシアは寒さに凍える小鳥のように、窓際でうずくまっていた。
膝に顔を埋めた姿勢でしゃくりあげれば、長い黒髪が床の埃を払っていく。この塔で目覚めた直後には、換気のために窓を開けようとした彼女だが、今は封じられていた空間特有の汚れなど、何も気にならなくなっていた。
どのくらい、そうしていただろうか。
透き通った輝きを放っていた陽光が、ほんのりと闇を秘めた橙色に染まってきた。窓から望む草原もまた、瑞々しい緑色から茫とした黄金色へと塗り重ねられていく。
黄昏どきだ。
そこにないはずのものが紛れ込んでも分からない、そんな狭間の時刻――。
「……ルイフォン」
落ち込んでいても何も始まらない。彼に逢いたいのなら行動するのだ。
メイシアは、のろのろと立ち上がる。
気づけば、室内もだいぶ暗くなっていた。
まずは電灯のスイッチを探すことから始めよう。しばらくここで暮らすのなら、部屋の設備を確認しておくことは必要だ。
そんなふうに些細な目標を決めて、気持ちを無理やり奮い立たせていく。
スイッチは、扉のすぐ横にあった。ぱちりと押すと、ぱぁっと部屋が明るむ。少しだけ、心が和らいだ。
そう思ったときだった。
部屋の外に何かの気配を感じた。扉に耳を付けると、階段を駆け上がってくるような足音と、ぜえぜえという荒い息遣いが響いてくる。
誰かが、この塔を登ってきている――?
メイシアは、はっと思い出した。
部屋の鍵を閉めるようにと、〈蝿〉に忠告されていた。――私兵たちが悪事を働くかもしれないから、と。
彼女の顔は一瞬にして蒼白になり、がたがたと震える手で鍵を掛けた。それから部屋を見渡し、テーブルや椅子をバリケードとして運んでくるべきかと考え、首を振る。メイシアが運べる程度の重さでは役に立たないだろう。
そうこうしているうちに、気配はすぐそこまでやってきた。息は多少、乱れているが、足音は随分と軽快で――。
がちゃり、と。ドアノブがひねられた。
メイシアは反射的に目をつぶる。鍵が掛かっているのは分かったはずだ。だから諦めて帰ってほしいと、天に祈る。
しかし、鍵に気づいた相手は、今度は扉を叩き始めた。恐怖に駆られたメイシアは、無意味と分かりつつも耳をふさぐ。
そのときだった。
「ああぁ……!」
扉の向こうから聞こえたのは、細く、高い声。
予想していたような、野太い男の声ではない。無邪気で可愛らしい、小さな女の子の悲壮な叫びだ。
「――!?」
メイシアは扉に張り付き、外の人物の様子を探る。
「鍵……、掛かっている……。ファンルゥ、メイシアに会わないといけないのに……」
涙声のあとには、ぐすんと鼻をすする音が続いた。
ファンルゥ――!?
心臓が跳ねる。メイシアは、その名前を知っていた。人質として〈蝿〉の監視下にある、斑目タオロンの娘だ。
年齢は四、五歳くらい。行動力抜群で、よく部屋から抜け出しているらしい。
以前の〈蝿〉捕獲作戦のときも脱走していて、ルイフォンたちに保護された。しかし、それは単なる好奇心からではなく、重い病気だと勘違いしたハオリュウに、お見舞いの絵を贈るためだった。とても優しい子なのだ。
「ぁ……」
メイシアの口から、小さな息が漏れた。ファンルゥが訪ねてきた理由に気づいたのだ。
彼女は、誰かから囚われのメイシアの話を聞き、慰めたい一心で、いてもたってもいられずに駆けつけてくれたのだ。
自分の境遇にばかりに頭が行ってしまって、同じ庭園内にファンルゥやタオロンがいることをすっかり忘れていた。心優しいファンルゥが、さらわれてきたメイシアを見逃すはずがないのだ。
心が、ほわりと温かくなる。
しかし、どうやってこの塔に入ってきたのだろう? 入り口には見張りがいるはずだ。
メイシアが首をかしげていると、ファンルゥの声が再び聞こえてきた。
「窓……、窓は……? どうやって行けばいいんだろう……?」
心底、困ったような呟き――。
迷う必要はなかった。メイシアは素早く内鍵を外し、扉を開ける。
薄暗い通路に、部屋の光が差し込んだ。
その明るさに引かれるように、小さな頭が上を向く。涙をたたえた大きな目が、電灯の光を反射して、きらきらと輝いた。
「……ほんとに、お姫様だぁ……」
可愛らしい口をぽかんと開けて、ファンルゥはメイシアを凝視した。
開口一番の台詞にメイシアは戸惑う。しかし、ともかく、ファンルゥを部屋に入れたほうがよいだろう。見張りは塔の外に立っているはずだが、階段を伝って声が響くかもしれない。
メイシアが手招きしようとしたとき、はっと我に返ったファンルゥが叫んだ。
「リュイセンは、悪くないの! ファンルゥとパパが、ごめんなさいなの!」
「え!?」
「だから、ファンルゥ、メイシアを助けるの!」
甲高い声が、通路に反響する。
メイシアは、慌ててファンルゥの手を引き、彼女を部屋に入れて、扉と鍵を閉めた。
部屋に入った瞬間、ファンルゥは「うわぁ……」と声を漏らしたあと、しばし絶句した。
展望室を半分に区切ったこの部屋は、彼女の想像を超えていたらしい。広い空間と、一面の硝子張りの窓に目を奪われている。
「ファンルゥちゃん、来てくれてありがとう。そこに座ってね」
メイシアは柔らかにそう言って、食事に使ったテーブルを指した。
内心では、いきなり現れたファンルゥに動揺していた。けれど、メイシアがそれを表に出してしまったら、もともと興奮状態にあったファンルゥは、更に落ち着きを失ってしまう。だから、努めて自然な感じに振舞った。
ファンルゥは、弾かれたようにメイシアを見上げると、素直に「うん」と頷いた。
メイシアのことは、父親のタオロンから聞いているのだろう。初対面であるが、以前からの顔見知りのように、人懐っこい表情を見せてくれる。今までの生活の中で、小さな女の子とは縁がなかったメイシアとしては、こそばゆいような嬉しさがあった。
あちこちに跳ねた癖っ毛を揺らしながら、ファンルゥは元気よく駆けていき、ちょこんと椅子に腰掛けた。足は床に届かないため、宙でぶらぶらとさせていたが、メイシアが向かいに座ると、ぴたりと動きを止める。
「メイシア……」
ファンルゥは、くりっとした丸い目を見開き、まっすぐにメイシアを見つめた。
それから、すぅっと大きく息を吸い込み、一気に吐き出す。
「ごめんなさい!」
勢いよく頭を下げ、テーブルに、ごちんと額をぶつけた。
「ファンルゥちゃん!?」
「――いっ……、痛くないもん……っ。ファンルゥ、平気だもん!」
涙目になりながらも、ファンルゥは、ぶんぶんと首を横に振る。強がりを言う彼女にメイシアは駆け寄り、赤くなってしまった額を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「ファンルゥは大丈夫! でも、メイシアが大丈夫じゃないの! メイシア、泣いていた! ファンルゥ、知っている! お部屋の窓から見ていた!」
「えっ!?」
メイシアは狼狽し、さぁっと顔を赤らめた。
まさか見られていたなんて、思ってもいなかった。
無意識に身を引きかけたメイシアの袖を、ファンルゥは、ぐいと掴む。
「ファンルゥ、すぐにメイシアのところに行きたかった。でも、見つからないように暗くなるまで待っていたの!」
「心配してくれたの……? ありがとう」
優しさが、じわりと胸に染み込む。誰かのために、一生懸命。本当に、聞いていた通りの子だった。
ファンルゥは、子供らしく拙いながらも、懸命に、ここまでの『冒険』について説明してくれた。
それによると、彼女はまず、館にある自分の部屋を窓から脱出して、外に出た。
私兵たちに見つからないように、気をつけながら草原を走り抜け、この展望塔に到着。塔の見張りは入り口側にしかいないので、身を隠しながら裏側に回る。そして、明かり取りの小窓まで石の壁をよじ登り、階段から入ってきたのだという。
とても小さな女の子とは思えないほどの行動力だった。
「でも、どうして『ごめんなさい』なの?」
問いかけたメイシアに、ファンルゥは、父親譲りの太い眉をぎゅっと内側に寄せた。使命感に燃えているようでもであり、泣き出したいのをこらえているようでもある。
「メイシアをさらってきたのはリュイセンだけど、リュイセンが〈蝿〉のおじさんの手下になっちゃったのは、『パパがリュイセンを捕まえたから』だもん……」
初めは力いっぱいだった声が、だんだんと尻つぼみになっていく。
考えてもいなかった理由に、メイシアは戸惑った。
タオロンと、メイシアの拉致の間に、関連はあるだろうか? ――否、ないだろう。少なくとも、ファンルゥが責任を感じる問題ではない。
「ううん、違う。ファンルゥちゃんが謝ることなんか何もない」
しかし、ファンルゥは聞いていなかった。彼女はぶんぶんと頭を振り、心の膿を吐き出すように叫んだ。
「ファンルゥとパパは、〈蝿〉のおじさんが大嫌い! ……でも、斑目のお家の追手から守ってもらっているから、命令に逆らえないの……」
叫びの後半で声に勢いがなくなっても、ファンルゥの口元は皺が寄るほどにきつく結ばれており、強い反発の意思が表れている。
ファンルゥは椅子からぴょこんと飛び降り、険しい顔でメイシアに迫った。
「メイシアも、知っているんだよね!?」
「え!?」
「ルイフォンとリュイセンが、パパに会いにきてくれたこと!」
「あ……、うん」
失敗してしまった〈蝿〉捕獲作戦のときのことだろう。
「ルイフォンたちは、パパに『〈蝿〉の手下なんかやめて、一緒に行こう』って誘いに来てくれたんだよね? ――でも、パパは断っちゃったんだよね……?」
食い入るようなファンルゥの眼差しに、メイシアは困惑したが、すぐに気づいた。
タオロンは、子供のファンルゥには詳しいことを伝えていないのだ。だから、ファンルゥは知りたいのだ。
――タオロンが口を濁すのは当然だ。
あのとき彼は、心情的にはルイフォンたちの味方だった。けれど、他でもないファンルゥを人質に取られているがために、身動きが取れなくなってしまったのだ。
メイシアは、ちらりとファンルゥの左手首を見やる。そこには、きらきらと輝く綺麗な腕輪がはめられていた。〈蝿〉がファンルゥに渡した、人質の証だった。
「タオロンさんは、『〈蝿〉にはお世話になっているから、ルイフォンたちとは一緒に行けない』って言ったの」
メイシアも、嘘をついた。
ファンルゥが、タオロンの枷になっているだなんて言えるわけがなかった。
「うん。やっぱり。ファンルゥの思っていた通り! ファンルゥ、パパだけじゃなくて、リュイセンにも聞きに行ったから、気づいていたもん!」
「リュイセンにも会ったの!?」
口ぶりからして、リュイセンとの面会は、間違いなく〈蝿〉の許可を得たものではなく、お得意の脱走に依るものだ。この塔に来たこともそうであるが、ファンルゥの無鉄砲さにメイシアは青ざめる。
「うん。ファンルゥが会いにいったら、リュイセンはむーっとして、ぎろりだった。――でも、すっごく悲しそうだった……」
そのときのことを思い出したのか、ファンルゥの顔が陰る。
「けどね、ファンルゥ、パパやリュイセンのお顔を見て分かったよ! ――〈蝿〉のおじさんは、パパを連れて行こうとしたルイフォンとリュイセンに、ぷんぷんなの。だから、『ふたりを捕まえて手下にしてやる』って言ったの」
「えっと……、そう、かしら……?」
メイシアがなんと答えるべきか迷っていると、ファンルゥは「そうなの!」と重ねて言う。
「だから、パパに命令して、リュイセンを捕まえて、手下にしたの」
それから身振り手振りが加わり、ファンルゥの講釈に熱が入る。
「〈蝿〉のおじさんは、逃げたルイフォンには、もっとぷんぷんで、『逆らったことを後悔させてやるぞ』で、いっひっひーなの」
「……」
「『ルイフォンの一番、嫌なことをしてやる』って、わっはっはー。――だから、手下にしたリュイセンに命令して、ルイフォンの恋人のメイシアをさらわせたの」
だんだんと〈蝿〉がおとぎ話の悪い魔王のようになってきた。それでも、現実の状況に則しており、かつ、とりあえず辻褄の合った物語になっている。その発想力が凄い。
「ファンルゥの見張りのおじさんたちが『リュイセンがお姫様をさらってきて、〈蝿〉が塔の上に閉じ込めた』って噂していたから、すぐにピンときたよ!」
自慢するように胸を張り、それからファンルゥは、はっと表情を変えた。
メイシアが囚われていることは、ちっとも良いことではないと気づいたのだ。得意げだった顔が、急速にしぼんでいき、「ごめんなさい」と沈んだ声で呟く。
「えっと、つまりね。ファンルゥとパパが、〈蝿〉のおじさんの『お世話』になっているから、メイシアがさらわれちゃった、ってことなの。――だから、ファンルゥとパパが、ごめんなさいなの」
合っているでしょ? と、くりっとした目が訴えていた。
「ううん、やっぱり違う。ファンルゥちゃんは、とってもいい子なんだから、謝る必要はないの」
メイシアは、ゆっくりと頭を振る。すると、ファンルゥは、まるで張り合うかのように、ぶんぶんと激しく首を左右に振った。
「ファンルゥちゃん?」
「メイシアはルイフォンのところに帰りたい、って泣いている! だから、ファンルゥは、メイシアを逃してあげなきゃいけないの!」
「え……。私を、逃がす……?」
唐突な言葉に、メイシアは瞳を瞬かせた。
「うん! ファンルゥ、初めに言った! メイシアを助ける、って!」
ファンルゥは、父親そっくりの太い眉に意志の力を載せ、毅然と言い放つ。
「だから、暗くなるまで、メイシアに会いに行くのを我慢したの。――ほら!」
彼女は、ぱたぱたと可愛らしい足音を立てながら窓際に向かって駆けていき、闇に染められつつある外の世界を示す。
メイシアもあとを追えば、眼前に深い色合いの草の海が広がっていた。
「もうちょっとしたら、もっと暗くなるの。そしたら、お星様しか見えなくなるよ!」
言われて見渡せば、庭園内は極端に電灯が少なかった。王の療養施設として作られたためか、無粋な明かりは排除して、星空を楽しめるようにとの配慮かもしれない。
「ファンルゥが入ってきたところから出られるよ。パパみたいに大きい人だと駄目だけど、メイシアなら大丈夫! メイシア、お外に逃げられるよ!」
ファンルゥは、にっこりと誇らしげに笑った。
「…………」
メイシアは……。
ほんの一瞬――ごくわずかな時間、心が浮き立った。
けれど、それだけの刹那で、ファンルゥの計画の欠点に気づいてしまった。
「ファンルゥちゃん、ごめんね。ファンルゥちゃんが通ってきた小窓から塔の外には出られるけれど、この庭園の周りには近衛隊が――凄い見張りがいるの」
ファンルゥにとって、『外』とは建物の外なのだ。ずっと閉じ込められていたファンルゥは、この広い草原の向こうにも見張りがいることを知らないのだ。
メイシアの胸が、ずきりと痛む。
物心ついたころから、父親のタオロンを縛る道具として利用されてきた彼女は、おそらく箱庭の世界しか見たことがない……。
「凄い見張り……? メイシア、逃げられないの……?」
愕然とした顔でファンルゥが尋ねる。
メイシアが力なくうなずくと、ファンルゥの目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。彼女はしゃくりあげながら、それを乱暴に腕で拭う。
「う……っ」
嗚咽を漏らし、ファンルゥはメイシアに体当りするように抱きついてきた。
「……ごめんなさい。ファンルゥのせいで、ごめんなさい!」
ファンルゥは、ふわふわの毛玉のような頭を揺らし、小さな体をすり寄せる。
「ううん。ファンルゥちゃんはちっとも悪くない。私のために、いっぱい考えてくれてありがとう」
メイシアもまた、ファンルゥをぎゅっと強く抱きしめた。
「うっ……、うう……、メイシア――!」
小さな肩を震わせ、ファンルゥの頬を幾筋もの涙が流れていく。
誰かのために、無我夢中で突っ込んでいく――黄昏どきの来訪者の涙は、とてもとても優しい色をしていた。
膝に顔を埋めた姿勢でしゃくりあげれば、長い黒髪が床の埃を払っていく。この塔で目覚めた直後には、換気のために窓を開けようとした彼女だが、今は封じられていた空間特有の汚れなど、何も気にならなくなっていた。
どのくらい、そうしていただろうか。
透き通った輝きを放っていた陽光が、ほんのりと闇を秘めた橙色に染まってきた。窓から望む草原もまた、瑞々しい緑色から茫とした黄金色へと塗り重ねられていく。
黄昏どきだ。
そこにないはずのものが紛れ込んでも分からない、そんな狭間の時刻――。
「……ルイフォン」
落ち込んでいても何も始まらない。彼に逢いたいのなら行動するのだ。
メイシアは、のろのろと立ち上がる。
気づけば、室内もだいぶ暗くなっていた。
まずは電灯のスイッチを探すことから始めよう。しばらくここで暮らすのなら、部屋の設備を確認しておくことは必要だ。
そんなふうに些細な目標を決めて、気持ちを無理やり奮い立たせていく。
スイッチは、扉のすぐ横にあった。ぱちりと押すと、ぱぁっと部屋が明るむ。少しだけ、心が和らいだ。
そう思ったときだった。
部屋の外に何かの気配を感じた。扉に耳を付けると、階段を駆け上がってくるような足音と、ぜえぜえという荒い息遣いが響いてくる。
誰かが、この塔を登ってきている――?
メイシアは、はっと思い出した。
部屋の鍵を閉めるようにと、〈蝿〉に忠告されていた。――私兵たちが悪事を働くかもしれないから、と。
彼女の顔は一瞬にして蒼白になり、がたがたと震える手で鍵を掛けた。それから部屋を見渡し、テーブルや椅子をバリケードとして運んでくるべきかと考え、首を振る。メイシアが運べる程度の重さでは役に立たないだろう。
そうこうしているうちに、気配はすぐそこまでやってきた。息は多少、乱れているが、足音は随分と軽快で――。
がちゃり、と。ドアノブがひねられた。
メイシアは反射的に目をつぶる。鍵が掛かっているのは分かったはずだ。だから諦めて帰ってほしいと、天に祈る。
しかし、鍵に気づいた相手は、今度は扉を叩き始めた。恐怖に駆られたメイシアは、無意味と分かりつつも耳をふさぐ。
そのときだった。
「ああぁ……!」
扉の向こうから聞こえたのは、細く、高い声。
予想していたような、野太い男の声ではない。無邪気で可愛らしい、小さな女の子の悲壮な叫びだ。
「――!?」
メイシアは扉に張り付き、外の人物の様子を探る。
「鍵……、掛かっている……。ファンルゥ、メイシアに会わないといけないのに……」
涙声のあとには、ぐすんと鼻をすする音が続いた。
ファンルゥ――!?
心臓が跳ねる。メイシアは、その名前を知っていた。人質として〈蝿〉の監視下にある、斑目タオロンの娘だ。
年齢は四、五歳くらい。行動力抜群で、よく部屋から抜け出しているらしい。
以前の〈蝿〉捕獲作戦のときも脱走していて、ルイフォンたちに保護された。しかし、それは単なる好奇心からではなく、重い病気だと勘違いしたハオリュウに、お見舞いの絵を贈るためだった。とても優しい子なのだ。
「ぁ……」
メイシアの口から、小さな息が漏れた。ファンルゥが訪ねてきた理由に気づいたのだ。
彼女は、誰かから囚われのメイシアの話を聞き、慰めたい一心で、いてもたってもいられずに駆けつけてくれたのだ。
自分の境遇にばかりに頭が行ってしまって、同じ庭園内にファンルゥやタオロンがいることをすっかり忘れていた。心優しいファンルゥが、さらわれてきたメイシアを見逃すはずがないのだ。
心が、ほわりと温かくなる。
しかし、どうやってこの塔に入ってきたのだろう? 入り口には見張りがいるはずだ。
メイシアが首をかしげていると、ファンルゥの声が再び聞こえてきた。
「窓……、窓は……? どうやって行けばいいんだろう……?」
心底、困ったような呟き――。
迷う必要はなかった。メイシアは素早く内鍵を外し、扉を開ける。
薄暗い通路に、部屋の光が差し込んだ。
その明るさに引かれるように、小さな頭が上を向く。涙をたたえた大きな目が、電灯の光を反射して、きらきらと輝いた。
「……ほんとに、お姫様だぁ……」
可愛らしい口をぽかんと開けて、ファンルゥはメイシアを凝視した。
開口一番の台詞にメイシアは戸惑う。しかし、ともかく、ファンルゥを部屋に入れたほうがよいだろう。見張りは塔の外に立っているはずだが、階段を伝って声が響くかもしれない。
メイシアが手招きしようとしたとき、はっと我に返ったファンルゥが叫んだ。
「リュイセンは、悪くないの! ファンルゥとパパが、ごめんなさいなの!」
「え!?」
「だから、ファンルゥ、メイシアを助けるの!」
甲高い声が、通路に反響する。
メイシアは、慌ててファンルゥの手を引き、彼女を部屋に入れて、扉と鍵を閉めた。
部屋に入った瞬間、ファンルゥは「うわぁ……」と声を漏らしたあと、しばし絶句した。
展望室を半分に区切ったこの部屋は、彼女の想像を超えていたらしい。広い空間と、一面の硝子張りの窓に目を奪われている。
「ファンルゥちゃん、来てくれてありがとう。そこに座ってね」
メイシアは柔らかにそう言って、食事に使ったテーブルを指した。
内心では、いきなり現れたファンルゥに動揺していた。けれど、メイシアがそれを表に出してしまったら、もともと興奮状態にあったファンルゥは、更に落ち着きを失ってしまう。だから、努めて自然な感じに振舞った。
ファンルゥは、弾かれたようにメイシアを見上げると、素直に「うん」と頷いた。
メイシアのことは、父親のタオロンから聞いているのだろう。初対面であるが、以前からの顔見知りのように、人懐っこい表情を見せてくれる。今までの生活の中で、小さな女の子とは縁がなかったメイシアとしては、こそばゆいような嬉しさがあった。
あちこちに跳ねた癖っ毛を揺らしながら、ファンルゥは元気よく駆けていき、ちょこんと椅子に腰掛けた。足は床に届かないため、宙でぶらぶらとさせていたが、メイシアが向かいに座ると、ぴたりと動きを止める。
「メイシア……」
ファンルゥは、くりっとした丸い目を見開き、まっすぐにメイシアを見つめた。
それから、すぅっと大きく息を吸い込み、一気に吐き出す。
「ごめんなさい!」
勢いよく頭を下げ、テーブルに、ごちんと額をぶつけた。
「ファンルゥちゃん!?」
「――いっ……、痛くないもん……っ。ファンルゥ、平気だもん!」
涙目になりながらも、ファンルゥは、ぶんぶんと首を横に振る。強がりを言う彼女にメイシアは駆け寄り、赤くなってしまった額を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「ファンルゥは大丈夫! でも、メイシアが大丈夫じゃないの! メイシア、泣いていた! ファンルゥ、知っている! お部屋の窓から見ていた!」
「えっ!?」
メイシアは狼狽し、さぁっと顔を赤らめた。
まさか見られていたなんて、思ってもいなかった。
無意識に身を引きかけたメイシアの袖を、ファンルゥは、ぐいと掴む。
「ファンルゥ、すぐにメイシアのところに行きたかった。でも、見つからないように暗くなるまで待っていたの!」
「心配してくれたの……? ありがとう」
優しさが、じわりと胸に染み込む。誰かのために、一生懸命。本当に、聞いていた通りの子だった。
ファンルゥは、子供らしく拙いながらも、懸命に、ここまでの『冒険』について説明してくれた。
それによると、彼女はまず、館にある自分の部屋を窓から脱出して、外に出た。
私兵たちに見つからないように、気をつけながら草原を走り抜け、この展望塔に到着。塔の見張りは入り口側にしかいないので、身を隠しながら裏側に回る。そして、明かり取りの小窓まで石の壁をよじ登り、階段から入ってきたのだという。
とても小さな女の子とは思えないほどの行動力だった。
「でも、どうして『ごめんなさい』なの?」
問いかけたメイシアに、ファンルゥは、父親譲りの太い眉をぎゅっと内側に寄せた。使命感に燃えているようでもであり、泣き出したいのをこらえているようでもある。
「メイシアをさらってきたのはリュイセンだけど、リュイセンが〈蝿〉のおじさんの手下になっちゃったのは、『パパがリュイセンを捕まえたから』だもん……」
初めは力いっぱいだった声が、だんだんと尻つぼみになっていく。
考えてもいなかった理由に、メイシアは戸惑った。
タオロンと、メイシアの拉致の間に、関連はあるだろうか? ――否、ないだろう。少なくとも、ファンルゥが責任を感じる問題ではない。
「ううん、違う。ファンルゥちゃんが謝ることなんか何もない」
しかし、ファンルゥは聞いていなかった。彼女はぶんぶんと頭を振り、心の膿を吐き出すように叫んだ。
「ファンルゥとパパは、〈蝿〉のおじさんが大嫌い! ……でも、斑目のお家の追手から守ってもらっているから、命令に逆らえないの……」
叫びの後半で声に勢いがなくなっても、ファンルゥの口元は皺が寄るほどにきつく結ばれており、強い反発の意思が表れている。
ファンルゥは椅子からぴょこんと飛び降り、険しい顔でメイシアに迫った。
「メイシアも、知っているんだよね!?」
「え!?」
「ルイフォンとリュイセンが、パパに会いにきてくれたこと!」
「あ……、うん」
失敗してしまった〈蝿〉捕獲作戦のときのことだろう。
「ルイフォンたちは、パパに『〈蝿〉の手下なんかやめて、一緒に行こう』って誘いに来てくれたんだよね? ――でも、パパは断っちゃったんだよね……?」
食い入るようなファンルゥの眼差しに、メイシアは困惑したが、すぐに気づいた。
タオロンは、子供のファンルゥには詳しいことを伝えていないのだ。だから、ファンルゥは知りたいのだ。
――タオロンが口を濁すのは当然だ。
あのとき彼は、心情的にはルイフォンたちの味方だった。けれど、他でもないファンルゥを人質に取られているがために、身動きが取れなくなってしまったのだ。
メイシアは、ちらりとファンルゥの左手首を見やる。そこには、きらきらと輝く綺麗な腕輪がはめられていた。〈蝿〉がファンルゥに渡した、人質の証だった。
「タオロンさんは、『〈蝿〉にはお世話になっているから、ルイフォンたちとは一緒に行けない』って言ったの」
メイシアも、嘘をついた。
ファンルゥが、タオロンの枷になっているだなんて言えるわけがなかった。
「うん。やっぱり。ファンルゥの思っていた通り! ファンルゥ、パパだけじゃなくて、リュイセンにも聞きに行ったから、気づいていたもん!」
「リュイセンにも会ったの!?」
口ぶりからして、リュイセンとの面会は、間違いなく〈蝿〉の許可を得たものではなく、お得意の脱走に依るものだ。この塔に来たこともそうであるが、ファンルゥの無鉄砲さにメイシアは青ざめる。
「うん。ファンルゥが会いにいったら、リュイセンはむーっとして、ぎろりだった。――でも、すっごく悲しそうだった……」
そのときのことを思い出したのか、ファンルゥの顔が陰る。
「けどね、ファンルゥ、パパやリュイセンのお顔を見て分かったよ! ――〈蝿〉のおじさんは、パパを連れて行こうとしたルイフォンとリュイセンに、ぷんぷんなの。だから、『ふたりを捕まえて手下にしてやる』って言ったの」
「えっと……、そう、かしら……?」
メイシアがなんと答えるべきか迷っていると、ファンルゥは「そうなの!」と重ねて言う。
「だから、パパに命令して、リュイセンを捕まえて、手下にしたの」
それから身振り手振りが加わり、ファンルゥの講釈に熱が入る。
「〈蝿〉のおじさんは、逃げたルイフォンには、もっとぷんぷんで、『逆らったことを後悔させてやるぞ』で、いっひっひーなの」
「……」
「『ルイフォンの一番、嫌なことをしてやる』って、わっはっはー。――だから、手下にしたリュイセンに命令して、ルイフォンの恋人のメイシアをさらわせたの」
だんだんと〈蝿〉がおとぎ話の悪い魔王のようになってきた。それでも、現実の状況に則しており、かつ、とりあえず辻褄の合った物語になっている。その発想力が凄い。
「ファンルゥの見張りのおじさんたちが『リュイセンがお姫様をさらってきて、〈蝿〉が塔の上に閉じ込めた』って噂していたから、すぐにピンときたよ!」
自慢するように胸を張り、それからファンルゥは、はっと表情を変えた。
メイシアが囚われていることは、ちっとも良いことではないと気づいたのだ。得意げだった顔が、急速にしぼんでいき、「ごめんなさい」と沈んだ声で呟く。
「えっと、つまりね。ファンルゥとパパが、〈蝿〉のおじさんの『お世話』になっているから、メイシアがさらわれちゃった、ってことなの。――だから、ファンルゥとパパが、ごめんなさいなの」
合っているでしょ? と、くりっとした目が訴えていた。
「ううん、やっぱり違う。ファンルゥちゃんは、とってもいい子なんだから、謝る必要はないの」
メイシアは、ゆっくりと頭を振る。すると、ファンルゥは、まるで張り合うかのように、ぶんぶんと激しく首を左右に振った。
「ファンルゥちゃん?」
「メイシアはルイフォンのところに帰りたい、って泣いている! だから、ファンルゥは、メイシアを逃してあげなきゃいけないの!」
「え……。私を、逃がす……?」
唐突な言葉に、メイシアは瞳を瞬かせた。
「うん! ファンルゥ、初めに言った! メイシアを助ける、って!」
ファンルゥは、父親そっくりの太い眉に意志の力を載せ、毅然と言い放つ。
「だから、暗くなるまで、メイシアに会いに行くのを我慢したの。――ほら!」
彼女は、ぱたぱたと可愛らしい足音を立てながら窓際に向かって駆けていき、闇に染められつつある外の世界を示す。
メイシアもあとを追えば、眼前に深い色合いの草の海が広がっていた。
「もうちょっとしたら、もっと暗くなるの。そしたら、お星様しか見えなくなるよ!」
言われて見渡せば、庭園内は極端に電灯が少なかった。王の療養施設として作られたためか、無粋な明かりは排除して、星空を楽しめるようにとの配慮かもしれない。
「ファンルゥが入ってきたところから出られるよ。パパみたいに大きい人だと駄目だけど、メイシアなら大丈夫! メイシア、お外に逃げられるよ!」
ファンルゥは、にっこりと誇らしげに笑った。
「…………」
メイシアは……。
ほんの一瞬――ごくわずかな時間、心が浮き立った。
けれど、それだけの刹那で、ファンルゥの計画の欠点に気づいてしまった。
「ファンルゥちゃん、ごめんね。ファンルゥちゃんが通ってきた小窓から塔の外には出られるけれど、この庭園の周りには近衛隊が――凄い見張りがいるの」
ファンルゥにとって、『外』とは建物の外なのだ。ずっと閉じ込められていたファンルゥは、この広い草原の向こうにも見張りがいることを知らないのだ。
メイシアの胸が、ずきりと痛む。
物心ついたころから、父親のタオロンを縛る道具として利用されてきた彼女は、おそらく箱庭の世界しか見たことがない……。
「凄い見張り……? メイシア、逃げられないの……?」
愕然とした顔でファンルゥが尋ねる。
メイシアが力なくうなずくと、ファンルゥの目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。彼女はしゃくりあげながら、それを乱暴に腕で拭う。
「う……っ」
嗚咽を漏らし、ファンルゥはメイシアに体当りするように抱きついてきた。
「……ごめんなさい。ファンルゥのせいで、ごめんなさい!」
ファンルゥは、ふわふわの毛玉のような頭を揺らし、小さな体をすり寄せる。
「ううん。ファンルゥちゃんはちっとも悪くない。私のために、いっぱい考えてくれてありがとう」
メイシアもまた、ファンルゥをぎゅっと強く抱きしめた。
「うっ……、うう……、メイシア――!」
小さな肩を震わせ、ファンルゥの頬を幾筋もの涙が流れていく。
誰かのために、無我夢中で突っ込んでいく――黄昏どきの来訪者の涙は、とてもとても優しい色をしていた。