残酷な描写あり
8.姫君からの使者-1
庭園の夜が更けてきた。
〈蝿〉は時計を確認すると、のろのろと椅子から立ち上がった。
いろいろとあった一日だったが、ひとまず、藤咲メイシアは用意しておいた展望室でおとなしくしているらしい。彼女の夕食を下げてきたリュイセンから、そう報告を受けた。
そろそろ寝る時間だと、彼は地下の研究室から、自室と定めた王の居室へと移動する。
本心で言えば、硝子ケースの中の『ミンウェイ』と、片時も離れたくはない。しかし、いまだ完全には慣れぬ、この老いを迎え始めた体をしっかりと休ませるためには、上質な睡眠が必要だった。
廊下の窓から外を見やれば、外灯のない草の地上は深い闇に沈み、紺碧の天空と、そこに撒き散らされた星々の輝きに主役の座を譲っている。
庭園の主であった王に捧げるための、静かな夜だ。
けれど、この星空は、ミンウェイにこそふさわしいと、〈蝿〉は思う。
何故なら、彼女が喜んだ、あの海辺の夜を彷彿させる。今は彼女の墓のある、あの丘からの風景だ。暗い草原を渡る風の音は、まるで潮騒……。
『ミンウェイ』にも、見せてやろうか。
ふと、そんな考えが浮かんだが、〈蝿〉は首を振った。――『ミンウェイ』は、ただの容れ物だ。煌めく笑顔を期待してはいけない。
そして『自分』もまた、彼女の隣に置かれていた容れ物のはずだった。なのに『中身』を入れられてしまったら。
――独りで生きるしかないではないか……。
〈蝿〉は奥歯を噛み締め、歩を速める。
やがて、天空神フェイレンの彫刻が施された、豪奢な王の部屋の扉が見えてきた。
そこに、待ち構えていたかのようにたたずむ、斑目タオロンの姿があった。
「休暇ですか?」
常から愛想のない男であったが、今宵のタオロンは、いつもにも増しての仏頂面であった。
太い眉がぐっと内側に寄るのを隠しもしない。それでいて、健康的な浅黒い肌の大男のそこかしこから、脅えのようなものが感じられる。内に不満を抱えつつも、〈蝿〉に対する服従心に支配されている。それが手に取るように分かり、実に滑稽だった。
「休暇を取って、どうするのですか?」
タオロンが、自分から現れるのは珍しい。これはひとつ、腰を据えて話を聞いてやらねばならぬと、立ち話ではなく部屋に入れた。その判断は正しかったようで、向き合って座った瞬間に飛び出した言葉は、随分と想定外のものであった。
「ファンルゥを外に――遊びに連れて行ってやりたい。あいつはもう、二ヶ月以上も、あの部屋に閉じ込められたままだ」
口調も目線も、明らかに〈蝿〉を責め立てていた。だが、本人としては、平静さを保っているつもりであるところが、なんとも可笑しかった。
「御冗談を。今、あなた方、父娘を外に出したら、藤咲メイシアを取り戻そうとしている、鷹刀ルイフォンに加担するでしょう?」
〈蝿〉としては、至極、当然のことを言ったまでだった。しかし、タオロンは唇をわななかせ、テーブルに拳を叩きつけた。
「ふざけるな!」
鈍い音が響く。厚みのある、贅沢な一枚板でなければ、天板が真っ二つに割れていたことだろう。
「何故、そんなに怒ってらっしゃるのですか?」
どうにもこの若造は、猪突猛進が過ぎる。だからこそ、扱いやすいといえるのだが。
そんなことを思いながら、〈蝿〉は口の端を上げた。タオロンの心の内を探るため、神経を逆撫でするよう、わざと高圧的に。
「俺は……、俺は……! お前の命令で……鷹刀リュイセンを捕らえた!」
「ええ、そうでしたね」
「お前の捕虜になったせいで、リュイセンの奴は、頭がおかしくなっちまった。大事な弟分の女を、藤咲メイシアをさらってきた。――やばい薬を使ったんだろ……?」
タオロンは、憎悪とも恐怖ともつかぬ顔で〈蝿〉を睨みつけ、声を震わせる。娘が人質になっているくせに、随分と軽々しく反抗的な態度を取るものだと思うが、それがこの男の性分だ。仕方なかろう。
〈蝿〉は薬を使ったわけではない。ただ『交渉』しただけだ。だが、いちいち訂正する必要はないので、薄い嗤いを返した。タオロンが、どう解釈しようと〈蝿〉に興味はない。
「それが、あなたに、なんの関係があるのですか?」
「なっ……!」
変わらずの涼しい顔の〈蝿〉に、タオロンは激昂する。
「あいつらは、敵のはずの俺に手を差し伸べてくれた! ファンルゥの将来まで、考えてくれていた……! なのに俺は、あいつらの好意を一番、酷いやり方で踏みにじっちまったんだよ!」
タオロンは、血の気が失せるほどに強く握りしめた拳をテーブルに落とす。
「俺のしたことは許されることじゃねぇ! ルイフォンにしてみりゃ、俺は、兄貴分を薬漬けにして、女を奪った憎い敵でしかねぇんだよ! ――それが、『鷹刀ルイフォンに加担』だと? ふざけるな! どの面下げて、あいつに会えるっていうんだよ!」
腹の奥に澱んでいた思いを吐き出すように、タオロンが吠える。斑目一族の総帥の血筋に生まれながら、彼の魂はどこまでも義理堅く、高潔だった。
ぎりりと歯を食いしばるようにして、タオロンは怨恨の視線を〈蝿〉に送る。しかし、微動だにしない相手に、やがて力なく肩を落とした。
「――仕方ねぇよ……。俺は先に、お前の手を取っちまったんだからよぉ……」
全身を震わせ、血の涙を流す。
「運がなかっただけだ、諦めるしかねぇ……。今までも、そうしてきたし、これからも、そうするだけだ。いつものことだ。……俺の娘に生まれてきちまったばっかりに、ファンルゥは……。……糞っ!」
タオロンは、再びテーブルに拳を打ち付けると、大きな体を丸めた。
「……せっかく、ファンルゥが表の世界に行けるチャンスだったのによぉ……。――畜生……!」
ぶつぶつと悲嘆に暮れる様は、惨めな敗残者そのものだ。これだから、この男はいつまで経っても『非捕食者』なのだと〈蝿〉は思わずにはいられない。
――ともかく、タオロンの思考は読み解けた。
要するに、自分の娘に罪悪感を抱いているのだ。
日頃から息苦しい生活を強いている上に、娘の知らないところで、おそらく彼女にとって最高の好機をふいにした。せめてもの償いとして、『外に遊びに連れて行ってやりたい』というわけだろう。
心情は分かったが、それを叶えてやるほど〈蝿〉は甘くない。タオロンにその気がなくとも、鷹刀ルイフォンの側にしてみれば、喉から手が出るほど内通者を欲しがっているはずだ。外に出すのは危険だ。
「話は終わりですか? 私はそろそろ眠りたいのですが」
タオロンの弁は、ただの愚痴だ。
〈蝿〉は知的な会話を好むのだ。愚痴なら聞いてやる価値はない。ましてや、睡眠時間を割いてやる義理もない。
すると、タオロンは慌てたように「待て!」と食い下がった。
「俺がリュイセンを捕まえたから、お前は、前々からの望み通りに、藤咲メイシアを手に入れられたんだ。だったら、俺の手柄だ! 少しくらいは、俺に褒美があってもいいだろう!? お前ばかりが、いい思いをするのはおかしいじゃねぇか!」
「……ふむ」
一理ある。
従順なこの男が、珍しく自分から何かを言い出したのは、そんなところにも不満があったからなのかと、〈蝿〉は妙に納得した。
〈蝿〉としては、藤咲メイシアから思うように情報を得られず、決して喜ばしい状態ではないのだが、だからといってタオロンに当たり散らしたりはしない。〈蝿〉は、理知的な思考の持ち主なのだから。
「褒美ですか。しかし、あなたは金品を欲しがるような方ではありませんしね」
だからこそ休暇なのかと理解したが、それは却下だ。
だがタオロンは、分かっているじゃねぇか、といわんばかりに大きく頷き、何を勘違いしたのか、心なしか嬉しそうな顔になった。
「ああ、俺は、ものは要らねぇ。俺の望みは、ファンルゥを喜ばせることだ」
「ならば、あなたの娘に、何か贈り物をしましょう。何がいいでしょうかね?」
刹那、弾かれたようにタオロンが身を乗り出し、唾を飛ばした。
「お前が贈るんじゃねぇ!」
タオロンの野太い声に、容赦なく鼓膜を打ち付けられ、〈蝿〉は渋面を作る。しかし、タオロンは構わず続けた。
「ファンルゥは、お前から貰っても嬉しくなんかねぇんだよ!」
鼻息荒く、タオロンが言い放つ。
が、次の瞬間、彼は、ぱっと閃いたように顔を明るませた。
「お前はどうせ、俺とファンルゥがふたりで出かけるのは駄目だと言うんだろう? なら、俺に外出許可をくれ。あいつに何か買ってきてやる。いつも、おとなしくしている、ご褒美だ。ペンダントとか、ブローチとか、あいつに似合う、綺麗なやつを探してきてやる」
「……」
嬉しそうに声を弾ませるタオロンに、〈蝿〉は絶句した。
そして、次第に笑いがこみ上げてくる。
タオロンの口から、ペンダントだのブローチだのといった、きらきらとした言葉が出てきたのは、間違いなく、娘に渡した腕輪に対抗してのことだ。
あの子供は、送り主の〈蝿〉を毛嫌いしているくせに、腕輪そのものは殊のほか気に入っている。それをタオロンが面白くないと思っていることは、自明の理である。
「いいでしょう」
無骨な大男が、どんな顔をして娘への贈り物を選ぶのかを想像すると、そのくらいは許してやってもよいと思えてきた。
タオロンは従順な駒であるからよいのだ。不満を溜め込ませるのは得策ではない。ガス抜きは必要だ。
「いつも通り、あなたに見張りをつけますが、よいですね?」
「ああ、構わねぇ」
「それでは、明後日の午後でどうでしょう」
「上出来だ」
こうして交渉は成立し、希望していた休暇を得られなかったにも関わらず、タオロンは上機嫌で部屋を出ていったのであった。
翌日。
メイシアが展望塔で迎える、初めての夜明け――。
朝陽を美しいと感じた。
昨晩はよく眠れなかったものの、明るい光を浴びると不思議と力がみなぎってきた。不安な囚われの身であるが、くよくよしていたら何も始まらない。前を向こう。――そう思えてくる。
何より、ファンルゥという力強い味方ができた。彼女に預けた手紙がどうなったかは、まだ分からない。だから、メイシアは今、自分にできることから進めていく……。
「ルイフォン……、私、頑張るから……」
愛しい名前に誓いを立てる。
気になるのは、リュイセンのことだ。彼について、一晩、落ち着いて考えた。
そして、ふっと気づいた。
リュイセンが大切な一族を、ルイフォンを裏切る理由なんて、ひとつしかない。
――ミンウェイのためだ。
遥か遠く離れた場所にいるルイフォンたちと同じように、メイシアもまた、リュイセンが〈蝿〉に従う原因は、ミンウェイにあるのではないかという考えに至った。
そして、彼女がルイフォンたちと違うのは、すぐそこに当人たち――リュイセンと〈蝿〉がいることだった。
昨日のリュイセンの様子だと、彼は固く口を閉ざしたまま、何も語ってくれないだろう。
だから、〈蝿〉に探りを入れる。
メイシアは気持ちを引き締め、心の中で密やかなる反撃の狼煙を上げた。
朝食が済むと、メイシアは世話係となったリュイセンに連れられ、〈蝿〉の研究室を訪れた。これから毎日、午前中を『ライシェン』と過ごすようにと、〈蝿〉が定めたためである。
午後は、展望塔で休んでいいらしい。〈蝿〉が『自分の研究室に他人がいるのは落ち着かない』と言って、『ライシェン』との対面の時間は半日でよいと決めたからだ。
リュイセンは終始無言のまま、扉のところで彼女と別れた。うなだれた大きな背中は、怪我をしているわけでもないのに痛々しく見えた。
それから数時間。
メイシアはただ黙って、まどろみに身を委ねる『ライシェン』を見つめ続ける……。
そろそろ昼どきというあたりで〈蝿〉が話しかけてきた。
「『ライシェン』を見ても、何も感じませんか?」
〈蝿〉の眉間には、神経質な皺が寄っていた。メイシアは彼を不用意に刺激しないよう、神妙な顔で胸に手を当てる。
「切なくて、心がざわつきます。そして、苦しくて逃げたいのに、ずっとそばに居たい――そう思います」
勿論、口から出任せだ。実際には、何も感じていない。
だが〈蝿〉は、それなりの手応えがあったと思ったらしい。満足げに微笑んだ。
「そうですか。では、今日はこのくらいにしましょう」
機嫌よく言った彼に、メイシアはすかさず切り出す。
「昨日、あなたがおっしゃった通りに、リュイセンに直接、何故あなたに従うのかを尋ねました」
「ほう。――それで?」
『ライシェン』とは関係ない話をするな、と怒鳴られるのではないかと、内心びくびくしていたのだが、意外なことに〈蝿〉は興味深げに口角を上げた。
リュイセンは決して口を割らないという自信があるのだろう。そして、そのことに絶望するメイシアを期待しているらしい。
彼女は、ごくりと唾を呑み込んだ。
ここで明らかな嘘を言ってはならない。ごく自然に――多くの事実の中に、ほんのひと筆の『鎌かけ』を混ぜた絵を描くのだ。
「リュイセンは、私と目を合わせることすらしてくれませんでした。何を話しかけても、ぼそぼそと『すまない』と言うだけで……」
「ほほう」
〈蝿〉の顔をが愉悦に歪む。
「――でも。『〈蝿〉に従うなんて、ミンウェイさんを裏切る行為だと思わなかったんですか!?』と、……少し、責めるように言ってしまったとき、『違う! 俺はミンウェイのために……』と言い掛けて、慌てて口を押さえたんです」
その瞬間、〈蝿〉は顔をしかめた。それから、半ば呆れたように溜め息を漏らす。
望ましくないことだが、リュイセンなら、そのくらいの失言はしかねない。――そう思っているのが読み取れた。
「リュイセンは、彼の意思であなたに従っているわけではなく、ミンウェイさんのために裏切り行為を働いたんですね」
「そうですよ」
〈蝿〉は肩をすくめ――『肯定した』。
――推測が当たった……!
メイシアの心臓が激しく高鳴る。
このまま、もう少し詳しく何かを聞き出せないか――〈蝿〉に従うことがミンウェイのためになるとは、どういうことなのか……と、彼女は必死に頭を巡らせる。
「随分と嬉しそうですね」
「えっ!? あっ……」
揶揄するような〈蝿〉の声に、メイシアは焦った。
「素直に喜んで構いませんよ? あなたにとっては嬉しいことでしょうから。よかったですね。リュイセンが、心から私に心服しているわけではなくて。すべては〈ベラドンナ〉のため――ああ、あなたには、ミンウェイ、と呼んだほうが分かりやすいでしょうか?」
どことなく小馬鹿にした口調で、呼び名まで訂正し、〈蝿〉は口の端を弓なりに上げた。そして、彼は低く喉を鳴らす。
「別に隠すほどのことでもありませんから、教えて差し上げますよ。――どうして、リュイセンが私に従っているのかを」
「――!?」
唐突な〈蝿〉の弁に、メイシアは黒曜石の瞳を瞬かせた。そんな彼女をねぶるように、彼は告げる。
「リュイセンと私が、〈ベラドンナ〉の『秘密』を共有する同志となったからですよ」
「ミンウェイさんの『秘密』を……共有……?」
答えを与えられたはずなのに、メイシアの頭はかえって混乱した。その顔は〈蝿〉の期待通りだったらしい。彼は上機嫌で嗤いかける。
「私には『鷹刀ヘイシャオ』の記憶があります。〈ベラドンナ〉を育てた人物の記憶です。――つまり、〈ベラドンナ〉本人以上に、彼女のことを知っているのですよ」
「……え?」
「彼女の知らない――彼女が『知りたくもない』ようなことをも――ね」
「あなたは、いったい何を……?」
メイシアの問いに、しかし、当然のことながら〈蝿〉は答えたりなどしなかった。その代わりに、『悪魔』の言葉を朗々と響かせる。
「〈ベラドンナ〉を愛するリュイセンは、あの『秘密』を知る私には、決して逆らえないのですよ」
そして、地下研究室は〈蝿〉の哄笑で満たされた――。
〈蝿〉は時計を確認すると、のろのろと椅子から立ち上がった。
いろいろとあった一日だったが、ひとまず、藤咲メイシアは用意しておいた展望室でおとなしくしているらしい。彼女の夕食を下げてきたリュイセンから、そう報告を受けた。
そろそろ寝る時間だと、彼は地下の研究室から、自室と定めた王の居室へと移動する。
本心で言えば、硝子ケースの中の『ミンウェイ』と、片時も離れたくはない。しかし、いまだ完全には慣れぬ、この老いを迎え始めた体をしっかりと休ませるためには、上質な睡眠が必要だった。
廊下の窓から外を見やれば、外灯のない草の地上は深い闇に沈み、紺碧の天空と、そこに撒き散らされた星々の輝きに主役の座を譲っている。
庭園の主であった王に捧げるための、静かな夜だ。
けれど、この星空は、ミンウェイにこそふさわしいと、〈蝿〉は思う。
何故なら、彼女が喜んだ、あの海辺の夜を彷彿させる。今は彼女の墓のある、あの丘からの風景だ。暗い草原を渡る風の音は、まるで潮騒……。
『ミンウェイ』にも、見せてやろうか。
ふと、そんな考えが浮かんだが、〈蝿〉は首を振った。――『ミンウェイ』は、ただの容れ物だ。煌めく笑顔を期待してはいけない。
そして『自分』もまた、彼女の隣に置かれていた容れ物のはずだった。なのに『中身』を入れられてしまったら。
――独りで生きるしかないではないか……。
〈蝿〉は奥歯を噛み締め、歩を速める。
やがて、天空神フェイレンの彫刻が施された、豪奢な王の部屋の扉が見えてきた。
そこに、待ち構えていたかのようにたたずむ、斑目タオロンの姿があった。
「休暇ですか?」
常から愛想のない男であったが、今宵のタオロンは、いつもにも増しての仏頂面であった。
太い眉がぐっと内側に寄るのを隠しもしない。それでいて、健康的な浅黒い肌の大男のそこかしこから、脅えのようなものが感じられる。内に不満を抱えつつも、〈蝿〉に対する服従心に支配されている。それが手に取るように分かり、実に滑稽だった。
「休暇を取って、どうするのですか?」
タオロンが、自分から現れるのは珍しい。これはひとつ、腰を据えて話を聞いてやらねばならぬと、立ち話ではなく部屋に入れた。その判断は正しかったようで、向き合って座った瞬間に飛び出した言葉は、随分と想定外のものであった。
「ファンルゥを外に――遊びに連れて行ってやりたい。あいつはもう、二ヶ月以上も、あの部屋に閉じ込められたままだ」
口調も目線も、明らかに〈蝿〉を責め立てていた。だが、本人としては、平静さを保っているつもりであるところが、なんとも可笑しかった。
「御冗談を。今、あなた方、父娘を外に出したら、藤咲メイシアを取り戻そうとしている、鷹刀ルイフォンに加担するでしょう?」
〈蝿〉としては、至極、当然のことを言ったまでだった。しかし、タオロンは唇をわななかせ、テーブルに拳を叩きつけた。
「ふざけるな!」
鈍い音が響く。厚みのある、贅沢な一枚板でなければ、天板が真っ二つに割れていたことだろう。
「何故、そんなに怒ってらっしゃるのですか?」
どうにもこの若造は、猪突猛進が過ぎる。だからこそ、扱いやすいといえるのだが。
そんなことを思いながら、〈蝿〉は口の端を上げた。タオロンの心の内を探るため、神経を逆撫でするよう、わざと高圧的に。
「俺は……、俺は……! お前の命令で……鷹刀リュイセンを捕らえた!」
「ええ、そうでしたね」
「お前の捕虜になったせいで、リュイセンの奴は、頭がおかしくなっちまった。大事な弟分の女を、藤咲メイシアをさらってきた。――やばい薬を使ったんだろ……?」
タオロンは、憎悪とも恐怖ともつかぬ顔で〈蝿〉を睨みつけ、声を震わせる。娘が人質になっているくせに、随分と軽々しく反抗的な態度を取るものだと思うが、それがこの男の性分だ。仕方なかろう。
〈蝿〉は薬を使ったわけではない。ただ『交渉』しただけだ。だが、いちいち訂正する必要はないので、薄い嗤いを返した。タオロンが、どう解釈しようと〈蝿〉に興味はない。
「それが、あなたに、なんの関係があるのですか?」
「なっ……!」
変わらずの涼しい顔の〈蝿〉に、タオロンは激昂する。
「あいつらは、敵のはずの俺に手を差し伸べてくれた! ファンルゥの将来まで、考えてくれていた……! なのに俺は、あいつらの好意を一番、酷いやり方で踏みにじっちまったんだよ!」
タオロンは、血の気が失せるほどに強く握りしめた拳をテーブルに落とす。
「俺のしたことは許されることじゃねぇ! ルイフォンにしてみりゃ、俺は、兄貴分を薬漬けにして、女を奪った憎い敵でしかねぇんだよ! ――それが、『鷹刀ルイフォンに加担』だと? ふざけるな! どの面下げて、あいつに会えるっていうんだよ!」
腹の奥に澱んでいた思いを吐き出すように、タオロンが吠える。斑目一族の総帥の血筋に生まれながら、彼の魂はどこまでも義理堅く、高潔だった。
ぎりりと歯を食いしばるようにして、タオロンは怨恨の視線を〈蝿〉に送る。しかし、微動だにしない相手に、やがて力なく肩を落とした。
「――仕方ねぇよ……。俺は先に、お前の手を取っちまったんだからよぉ……」
全身を震わせ、血の涙を流す。
「運がなかっただけだ、諦めるしかねぇ……。今までも、そうしてきたし、これからも、そうするだけだ。いつものことだ。……俺の娘に生まれてきちまったばっかりに、ファンルゥは……。……糞っ!」
タオロンは、再びテーブルに拳を打ち付けると、大きな体を丸めた。
「……せっかく、ファンルゥが表の世界に行けるチャンスだったのによぉ……。――畜生……!」
ぶつぶつと悲嘆に暮れる様は、惨めな敗残者そのものだ。これだから、この男はいつまで経っても『非捕食者』なのだと〈蝿〉は思わずにはいられない。
――ともかく、タオロンの思考は読み解けた。
要するに、自分の娘に罪悪感を抱いているのだ。
日頃から息苦しい生活を強いている上に、娘の知らないところで、おそらく彼女にとって最高の好機をふいにした。せめてもの償いとして、『外に遊びに連れて行ってやりたい』というわけだろう。
心情は分かったが、それを叶えてやるほど〈蝿〉は甘くない。タオロンにその気がなくとも、鷹刀ルイフォンの側にしてみれば、喉から手が出るほど内通者を欲しがっているはずだ。外に出すのは危険だ。
「話は終わりですか? 私はそろそろ眠りたいのですが」
タオロンの弁は、ただの愚痴だ。
〈蝿〉は知的な会話を好むのだ。愚痴なら聞いてやる価値はない。ましてや、睡眠時間を割いてやる義理もない。
すると、タオロンは慌てたように「待て!」と食い下がった。
「俺がリュイセンを捕まえたから、お前は、前々からの望み通りに、藤咲メイシアを手に入れられたんだ。だったら、俺の手柄だ! 少しくらいは、俺に褒美があってもいいだろう!? お前ばかりが、いい思いをするのはおかしいじゃねぇか!」
「……ふむ」
一理ある。
従順なこの男が、珍しく自分から何かを言い出したのは、そんなところにも不満があったからなのかと、〈蝿〉は妙に納得した。
〈蝿〉としては、藤咲メイシアから思うように情報を得られず、決して喜ばしい状態ではないのだが、だからといってタオロンに当たり散らしたりはしない。〈蝿〉は、理知的な思考の持ち主なのだから。
「褒美ですか。しかし、あなたは金品を欲しがるような方ではありませんしね」
だからこそ休暇なのかと理解したが、それは却下だ。
だがタオロンは、分かっているじゃねぇか、といわんばかりに大きく頷き、何を勘違いしたのか、心なしか嬉しそうな顔になった。
「ああ、俺は、ものは要らねぇ。俺の望みは、ファンルゥを喜ばせることだ」
「ならば、あなたの娘に、何か贈り物をしましょう。何がいいでしょうかね?」
刹那、弾かれたようにタオロンが身を乗り出し、唾を飛ばした。
「お前が贈るんじゃねぇ!」
タオロンの野太い声に、容赦なく鼓膜を打ち付けられ、〈蝿〉は渋面を作る。しかし、タオロンは構わず続けた。
「ファンルゥは、お前から貰っても嬉しくなんかねぇんだよ!」
鼻息荒く、タオロンが言い放つ。
が、次の瞬間、彼は、ぱっと閃いたように顔を明るませた。
「お前はどうせ、俺とファンルゥがふたりで出かけるのは駄目だと言うんだろう? なら、俺に外出許可をくれ。あいつに何か買ってきてやる。いつも、おとなしくしている、ご褒美だ。ペンダントとか、ブローチとか、あいつに似合う、綺麗なやつを探してきてやる」
「……」
嬉しそうに声を弾ませるタオロンに、〈蝿〉は絶句した。
そして、次第に笑いがこみ上げてくる。
タオロンの口から、ペンダントだのブローチだのといった、きらきらとした言葉が出てきたのは、間違いなく、娘に渡した腕輪に対抗してのことだ。
あの子供は、送り主の〈蝿〉を毛嫌いしているくせに、腕輪そのものは殊のほか気に入っている。それをタオロンが面白くないと思っていることは、自明の理である。
「いいでしょう」
無骨な大男が、どんな顔をして娘への贈り物を選ぶのかを想像すると、そのくらいは許してやってもよいと思えてきた。
タオロンは従順な駒であるからよいのだ。不満を溜め込ませるのは得策ではない。ガス抜きは必要だ。
「いつも通り、あなたに見張りをつけますが、よいですね?」
「ああ、構わねぇ」
「それでは、明後日の午後でどうでしょう」
「上出来だ」
こうして交渉は成立し、希望していた休暇を得られなかったにも関わらず、タオロンは上機嫌で部屋を出ていったのであった。
翌日。
メイシアが展望塔で迎える、初めての夜明け――。
朝陽を美しいと感じた。
昨晩はよく眠れなかったものの、明るい光を浴びると不思議と力がみなぎってきた。不安な囚われの身であるが、くよくよしていたら何も始まらない。前を向こう。――そう思えてくる。
何より、ファンルゥという力強い味方ができた。彼女に預けた手紙がどうなったかは、まだ分からない。だから、メイシアは今、自分にできることから進めていく……。
「ルイフォン……、私、頑張るから……」
愛しい名前に誓いを立てる。
気になるのは、リュイセンのことだ。彼について、一晩、落ち着いて考えた。
そして、ふっと気づいた。
リュイセンが大切な一族を、ルイフォンを裏切る理由なんて、ひとつしかない。
――ミンウェイのためだ。
遥か遠く離れた場所にいるルイフォンたちと同じように、メイシアもまた、リュイセンが〈蝿〉に従う原因は、ミンウェイにあるのではないかという考えに至った。
そして、彼女がルイフォンたちと違うのは、すぐそこに当人たち――リュイセンと〈蝿〉がいることだった。
昨日のリュイセンの様子だと、彼は固く口を閉ざしたまま、何も語ってくれないだろう。
だから、〈蝿〉に探りを入れる。
メイシアは気持ちを引き締め、心の中で密やかなる反撃の狼煙を上げた。
朝食が済むと、メイシアは世話係となったリュイセンに連れられ、〈蝿〉の研究室を訪れた。これから毎日、午前中を『ライシェン』と過ごすようにと、〈蝿〉が定めたためである。
午後は、展望塔で休んでいいらしい。〈蝿〉が『自分の研究室に他人がいるのは落ち着かない』と言って、『ライシェン』との対面の時間は半日でよいと決めたからだ。
リュイセンは終始無言のまま、扉のところで彼女と別れた。うなだれた大きな背中は、怪我をしているわけでもないのに痛々しく見えた。
それから数時間。
メイシアはただ黙って、まどろみに身を委ねる『ライシェン』を見つめ続ける……。
そろそろ昼どきというあたりで〈蝿〉が話しかけてきた。
「『ライシェン』を見ても、何も感じませんか?」
〈蝿〉の眉間には、神経質な皺が寄っていた。メイシアは彼を不用意に刺激しないよう、神妙な顔で胸に手を当てる。
「切なくて、心がざわつきます。そして、苦しくて逃げたいのに、ずっとそばに居たい――そう思います」
勿論、口から出任せだ。実際には、何も感じていない。
だが〈蝿〉は、それなりの手応えがあったと思ったらしい。満足げに微笑んだ。
「そうですか。では、今日はこのくらいにしましょう」
機嫌よく言った彼に、メイシアはすかさず切り出す。
「昨日、あなたがおっしゃった通りに、リュイセンに直接、何故あなたに従うのかを尋ねました」
「ほう。――それで?」
『ライシェン』とは関係ない話をするな、と怒鳴られるのではないかと、内心びくびくしていたのだが、意外なことに〈蝿〉は興味深げに口角を上げた。
リュイセンは決して口を割らないという自信があるのだろう。そして、そのことに絶望するメイシアを期待しているらしい。
彼女は、ごくりと唾を呑み込んだ。
ここで明らかな嘘を言ってはならない。ごく自然に――多くの事実の中に、ほんのひと筆の『鎌かけ』を混ぜた絵を描くのだ。
「リュイセンは、私と目を合わせることすらしてくれませんでした。何を話しかけても、ぼそぼそと『すまない』と言うだけで……」
「ほほう」
〈蝿〉の顔をが愉悦に歪む。
「――でも。『〈蝿〉に従うなんて、ミンウェイさんを裏切る行為だと思わなかったんですか!?』と、……少し、責めるように言ってしまったとき、『違う! 俺はミンウェイのために……』と言い掛けて、慌てて口を押さえたんです」
その瞬間、〈蝿〉は顔をしかめた。それから、半ば呆れたように溜め息を漏らす。
望ましくないことだが、リュイセンなら、そのくらいの失言はしかねない。――そう思っているのが読み取れた。
「リュイセンは、彼の意思であなたに従っているわけではなく、ミンウェイさんのために裏切り行為を働いたんですね」
「そうですよ」
〈蝿〉は肩をすくめ――『肯定した』。
――推測が当たった……!
メイシアの心臓が激しく高鳴る。
このまま、もう少し詳しく何かを聞き出せないか――〈蝿〉に従うことがミンウェイのためになるとは、どういうことなのか……と、彼女は必死に頭を巡らせる。
「随分と嬉しそうですね」
「えっ!? あっ……」
揶揄するような〈蝿〉の声に、メイシアは焦った。
「素直に喜んで構いませんよ? あなたにとっては嬉しいことでしょうから。よかったですね。リュイセンが、心から私に心服しているわけではなくて。すべては〈ベラドンナ〉のため――ああ、あなたには、ミンウェイ、と呼んだほうが分かりやすいでしょうか?」
どことなく小馬鹿にした口調で、呼び名まで訂正し、〈蝿〉は口の端を弓なりに上げた。そして、彼は低く喉を鳴らす。
「別に隠すほどのことでもありませんから、教えて差し上げますよ。――どうして、リュイセンが私に従っているのかを」
「――!?」
唐突な〈蝿〉の弁に、メイシアは黒曜石の瞳を瞬かせた。そんな彼女をねぶるように、彼は告げる。
「リュイセンと私が、〈ベラドンナ〉の『秘密』を共有する同志となったからですよ」
「ミンウェイさんの『秘密』を……共有……?」
答えを与えられたはずなのに、メイシアの頭はかえって混乱した。その顔は〈蝿〉の期待通りだったらしい。彼は上機嫌で嗤いかける。
「私には『鷹刀ヘイシャオ』の記憶があります。〈ベラドンナ〉を育てた人物の記憶です。――つまり、〈ベラドンナ〉本人以上に、彼女のことを知っているのですよ」
「……え?」
「彼女の知らない――彼女が『知りたくもない』ようなことをも――ね」
「あなたは、いったい何を……?」
メイシアの問いに、しかし、当然のことながら〈蝿〉は答えたりなどしなかった。その代わりに、『悪魔』の言葉を朗々と響かせる。
「〈ベラドンナ〉を愛するリュイセンは、あの『秘密』を知る私には、決して逆らえないのですよ」
そして、地下研究室は〈蝿〉の哄笑で満たされた――。