残酷な描写あり
7.黄昏どきの来訪者-2
ファンルゥが全体重を預けてきても、華奢なメイシアの両腕で簡単に受け止められた。そんなに小さなファンルゥが、メイシアを助けようと懸命に飛び込んできてくれた……。
メイシアの服に顔を埋めたファンルゥが、不規則にしゃくりあげる。抱きついてくる掌を温かいと感じるのは、子供の体温が高いからだけではないだろう。
――ファンルゥを外の世界に連れて行ってあげたい。
心の奥から、強い思いが湧き上がってくる。
もしも、〈蝿〉捕獲作戦が成功していれば、ファンルゥは今ごろ、鷹刀一族の親戚である草薙レイウェンの家で暮らしているはずだった。彼の妻のシャンリーが、是非にと望んでくれていた。
タオロンとファンルゥの父娘の境遇を知ったシャンリーは、こう言った。
『坊やの娘だって、いつまでも親に守られているだけじゃ駄目だろう?』
『私が鍛えてやる。あの坊やの娘なら素質があるだろう。自分で身を守れるようになれば、坊やも、その子も、自由になれる』
小さな子供に対するにしては、少し厳しい言葉かもしれない。けれど、ファンルゥの将来を真に思いやった、シャンリーらしい深い優しさだった。
メイシアは、ファンルゥの頭に手を載せて、指先にじゃれてくる癖っ毛をくしゃりと撫でた。ルイフォンが『大丈夫だ。安心しろ』と言ってくれるときのことを思い出しながら、凛と告げる。
「皆でここを出ましょう」
包み込むような柔らかな声で、しかし、誓うように。
決して無謀な話ではない。ここにはリュイセンがいる。
彼は、〈蝿〉の気まぐれで、メイシアの世話係となった。おそらく、食事のたびに会えるだろう。先ほどは、けんもほろろだったが、まだまだ機会はある。
リュイセンが脅されている内容を聞き出して、解決する。彼の場合、どう考えてもタオロンのように人質がいるわけではない。ならば、〈蝿〉のお得意の妄言に踊らされているだけだろう。それを暴けば、リュイセンは解放されるのだ。
「ルイフォンが来てくれるの!?」
「え?」
弾んだ声に驚けば、ファンルゥが期待の眼差しでこちらを見ていた。
「〈蝿〉のおじさんは『恋人は預かった。悔しければ、取り返しに来い』で、はっはっはー、なんだね! だから、もうすぐルイフォンが来るんだ!」
高い塔にさらわれたお姫様のメイシアを、恋人のルイフォンが助けにくる――おとぎ話さながらの名場面を思い描いたのだろう。ファンルゥは目を輝かせながら喜色を上げた。
「えっと……、ルイフォンは……」
メイシアは、反射的に真面目に考えてしまった。
小さなファンルゥが相手なのだ。彼女の安心のために、『そうなの!』と即答してもよかっただろう。しかし、メイシアは真正直な性格だった。故に、ルイフォンの現状を正確に答えようと思考を巡らせた。
――ルイフォンも、動き出しているはずだ。大怪我を負ったと聞いているが、彼がじっとしているわけがない。
けれど、具体的なことは分からない。
さらわれたとき、メイシアは携帯端末を厨房に置いてきてしまった。いや、持っていたとしても、この庭園に着いたときに〈蝿〉に取り上げられてしまっただろう。
ルイフォンと連絡が取れれば……。
そんな思いが、メイシアの心をよぎる。
リュイセンが何に囚われているのか、ルイフォンに相談できる。弟分の彼なら、何か気づくかもしれない。
あるいは庭園の中と外で連携すれば、リュイセンを味方にできないままでも、〈蝿〉を捕らえられるかもしれない。〈蝿〉さえ捕らえてしまえば、メイシアやリュイセンは勿論、ファンルゥとタオロンも解放される。
メイシアは理性でそう思い、同時に、胸の奥からあふれてきた、切ない感情で苦しくなる。
――ルイフォンの声を聞きたい……!
自分は無事だと、ルイフォンに伝えたい。それから、ルイフォンの傷の具合いを知りたい。
ルイフォンと連絡を取る――その方法は……。
メイシアの頭に、『ある考え』が、ふっと浮かんだ。ファンルゥを抱きしめる手が、じわりと汗ばむ。
……駄目。
彼女は心の中で否定した。
ファンルゥを危険に晒すことはできない……。
「……ルイフォンって、弱いの?」
「えっ?」
ふと気づけば、ファンルゥが首をかしげていた。『助けに来てくれるの?』に対する答えがいつまでも返ってこないからだと、メイシアはひと呼吸、遅れてから気づいた。
「パパは凄く強いの。大きな刀も、軽くふんふんって、できるの」
でも、ルイフォンは細身で、そんなことはできそうもない。だから弱くて、助けに来られないのではないか。――そういうことらしい。
確かに、剛の者のタオロンと比べれば、ルイフォンの武力は弱いだろう。
けれど――。
「ルイフォンは、頭がいいの」
メイシアは、そう答えた。なんとなく負け惜しみのようだが、本当のことだ。
それに対して、ファンルゥが言う。
「パパはね、強くて、凄くて、格好いいの!」
息荒く、胸を張る。可愛らしい顔は誇らしげで、父への愛情で満ちていた。
ファンルゥにつられるように、メイシアもまた、ルイフォンへの想いを口に載せる。
「ルイフォンも、格好いいの。――優しくて、おおらかで、頼もしいの……」
「うー! パパだって、優しいもん! ファンルゥ、パパ大好き!」
少し、すねたようにファンルゥが叫んだ。大好きなパパが一番だと言いたかったらしい。そして、どうやら、それをメイシアにも認めてほしかったようだ。
無邪気な可愛らしさに、メイシアは、くすりとした。――それは、この庭園に囚われてから初めての微笑みだった。
「うん。ファンルゥちゃんのパパは素敵ね。でも、『大好き』はファンルゥちゃんに任せる。私は、ルイフォンが一番、大好きだから」
「あぁぁ、そっかぁ……。ううぅ! そうだよねぇ。メイシア、ルイフォンの恋人だもん」
ファンルゥは納得し、「うーん」とうなりながら太い眉を寄せる。
「パパにはママがいるから……。じゃあ、ファンルゥはリュイセンにする!」
「……えっ!?」
「リュイセン、初めて会ったときは、こーんな顔で怖かったけど、本当は優しいんだって、ファンルゥ、知っているもん」
何やら、おかしな方向に話が転がってしまったようだ……。
窓の外は、夜の帳が下り始めていた。薄い闇をまとった天空に、一番星が輝く。
ファンルゥのおかげで、メイシアの心はすっかり落ち着きを取り戻した。彼女は黒曜石の瞳を細め、穏やかな面持ちでファンルゥを見やる。
ファンルゥが来てくれて本当に嬉しかった。もっといてほしいけれど、あまり引き止めていては脱走がばれてしまうかもしれない。早く帰したほうがよいだろう。
「――……」
メイシアは、ファンルゥに気づかれないように拳を握りしめ、奥歯を噛んだ。そして、先ほど浮かんだ考えを、捨てきれないでいる自分を叱りつける。
――それは、駄目だ。
メイシアは、ファンルゥの手首に視線を落とした。そこには模造石で飾られた、綺麗な腕輪がはめられている。人質の証だ。
部屋から出ようとすると、音が鳴る。ファンルゥには、そう説明されている。
だが、本当は違う。
〈蝿〉の脳波によって毒針が飛び出すという、恐ろしい仕掛けが施された代物だ。また、勝手に外そうとしても同様。
この腕輪のために、タオロンは〈蝿〉の言いなりになっている……。
メイシアは深い息を吐き、それと共に未練を捨てようと試みる。
ルイフォンは、〈蝿〉捕獲作戦の失敗は自分の調査が足りなかったせいだと、酷く後悔していた。その理由のひとつが、ファンルゥの腕輪だった。
遠隔操作で毒針が出ると聞いた瞬間、リュイセンが〈蝿〉の両腕の腱を切ろうとしたらしい。手が使えなければ、リモコンのボタンを押せないだろうと考えたそうだ。しかし、脳波がスイッチになっているのだと、嘲るように〈蝿〉に告げられたという。
腕輪の存在に、あらかじめ気づくべきだったと、ルイフォンは悔いていた。
曰く。脳波についてはよく分からない。けれど、遠隔操作をするなら、どこかに受信機や中継機といった類のものがあったに違いない。不審な機器を見落としたのは、自分の落ち度だ――と。
「……!?」
そのとき、メイシアは違和感を覚えた。
ルイフォンの話では、遠隔操作の有効範囲は『館内』だったはずだ。〈蝿〉本人から聞いたというのだから間違いない。
だが、現在ファンルゥは、館の『外』にある展望塔にいる。
――彼女は今、毒針の呪縛から逃れているのだろうか……?
そんな馬鹿な、とメイシアは自分の疑問を打ち消した。
これで無効だなんて、〈蝿〉のやることにしてはお粗末すぎる。これでは、ちっとも腕輪は人質を繋ぎ止める枷にならない……。
「メイシア?」
どうしたの、と。くりっとした丸い瞳が尋ねていた。メイシアの視線が腕輪にあるのは気づいているようで、ファンルゥは、ちらりと自分の手首を見たあと、どことなく得意げな顔をした。
そういえば、ルイフォンが言っていた。〈蝿〉に渡されたことや、音が鳴ることは嫌だけれども、腕輪自体はファンルゥのお気に入りらしい。だから、おとなしく身に着けているのだろう、と。
「その腕輪、素敵だなって、見とれていたの」
ファンルゥは腕輪を褒めてほしいのだ。そう理解したメイシアは期待に応える。
実際、メイシアの目から見ても、とても良いセンスだと思った。模造石であるので、貴族の宴席では使えないが、繁華街の店先に並べてあれば、大人の女性でも思わず手に取ってみたくなるような品だ。
「うん、綺麗でしょ! ……でも、これ、ビービーなの。それがなければ、いいんだけどなぁ」
そう言いながら、ファンルゥは――。
腕輪を外した。
「――!」
メイシアは、『ファンルゥちゃん!』と、名前を叫んだはずだった。けれど、戦慄のあまり声にならなかった。
この腕輪は、『勝手に外そうとしたら、毒針が飛び出す』のだ……。
愕然とするメイシアに、可愛らしい声が掛かる。
「メイシアに、ちょっとだけ貸してあげる!」
ファンルゥが腕輪を差し出し、にこにことしていた。
「え……?」
何も起きていなかった。
女の子同士でおしゃれの話題を楽しむ、小さな淑女がいるだけだった。
「メイシア、お姫様だから似合うと思うの!」
ファンルゥに押し切られるようにして腕輪を受け取り、メイシアはその内側をそっと確認する。
表面はつるんとしており、針穴のようなものはなかった。どう見ても、ただの腕輪だった。
恐る恐る手首にはめると、ファンルゥが歓声を上げる。きらきらとした輝きが、メイシアの白磁の肌によく映えて、楚々とした気品を際立たせた。
しばらくファンルゥの賛辞を受けたあと、メイシアは尋ねる。
「ファンルゥちゃん、タオロンさんは腕輪を外してはいけない、って言わなかった……?」
「言っていた! でも、かゆくなったときに、時々、こっそり外していた!」
見れば、ファンルゥの手首は少し赤くかぶれていた。毎日の手洗いで濡れたあとや、自身の汗などをそのままにして、ずっと身につけていれば当然であろう。そして、子供のファンルゥが、かゆみを我慢できるわけがないのだ。
――つまり、毒針は『嘘』だ。
〈蝿〉は、もっともらしい嘘でタオロンを騙しただけだ。
「――!」
メイシアの耳に、先ほどのファンルゥの言葉が蘇る。
『ファンルゥとパパは、〈蝿〉のおじさんが大嫌い! ……でも、斑目のお家の追手から守ってもらっているから、命令に逆らえないの……』
タオロンが〈蝿〉の配下となったのは、斑目一族からファンルゥを守るためだ。〈蝿〉に強要されてのことではない。
かつて、ファンルゥの母親と共に一族から逃げたとき、タオロンは不在中に最愛の彼女を殺された。その後悔から、気に食わない相手と思いながらも〈蝿〉を頼ったのだ。
他に行き場のないタオロンは、ファンルゥを庭園内に匿ってもらうだけで、〈蝿〉に恩義を感じる。〈蝿〉は、タオロンが裏切ったり、勝手に出ていったりすることを心配する必要はない。
〈蝿〉にとってのファンルゥの腕輪は、気の進まない仕事を命じるときの強制力くらいの意味しかなかったのだ。実際、タオロンは、嫌々ながらもメイシアをさらいに来た。
娘の命は〈蝿〉の掌中にある。
タオロンが、そう信じて従順であればよい。
毒針は、嘘でよいのだ。もし本物だったとしても、どうせ〈蝿〉には使えない。
何故なら、ファンルゥを殺せば、その瞬間にタオロンは牙をむく。そのとき、武の達人のタオロンに、医者の〈蝿〉は敵うべくもないのだから……。
「……」
だんだん読めてきた〈蝿〉の真意に、メイシアは、ごくりと唾を呑む。
だから――。
ルイフォンたちが『草薙家』という受け入れ先まで用意して、『俺たちのところに来い』と手を差し伸べてきたのは、〈蝿〉にとって想定外。――否、恐怖だっただろう。
そのため、〈蝿〉は、とっさに虚言を吐いたのだ。
『脳波がスイッチになっています』
『誰にも、リモコンを奪うことはできません』
『文字通り、娘を瞬殺できるのですよ』
こうでも言わなければ、タオロンは裏切った。
タオロンが寝返れば、〈蝿〉に勝ち目はない。
敗北は、死を意味する――。
リモコンの有効範囲がお粗末だったのは、慌てて適当に口走ったからだ。
つまり……。
タオロンとファンルゥは、自由だ――。
「お願い、ファンルゥちゃん! 力を貸して!」
「どうしたの、メイシア?」
突然、叫んだメイシアに、ファンルゥは目を丸くする。
「タオロンさんに、手紙を届けてほしいの」
そう言いながら、メイシアは書き物用の机に小走りに向かう。
期待通り、引き出しの中には、赤茶けた便箋と万年筆が残されていた。幸運にも、インクは固まっていない。
何やら新しい『どきどき』と『わくわく』が始まったらしいと察知したファンルゥは、メイシアに負けず劣らず、目を輝かせながら飛んできた。
「ファンルゥ、郵便屋さんだね!」
楽しげな返事に、メイシアは、はっと顔色を変えた。
――自分のことばかり考えていた。
腕輪の仕掛けは嘘だと分かったが、それだけでファンルゥの安全が保証されたわけではないのだ。彼女が人質として軟禁されていることは変わらないし、脱走が見つかれば害されるだろう。
単に、重くのしかかっていた『毒針』という枷が外れただけだ。
それだけで、タオロンやファンルゥを頼ってもよいのだろうか。彼らには、密かにこの庭園から逃げるように勧めたほうがよいのではないだろうか……? 草薙家なら受け入れてくれるはずだ。
「メイシア?」
「ファンルゥちゃん、ごめんね。危険なことなの……」
タオロンとのやり取りは一度だけではすまない。連絡係となるファンルゥは、そのたびに危険に晒される。
急に口ごもったメイシアに、ファンルゥは意思の強そうな太い眉にぐっと力を入れた。
「ファンルゥは、『危険は、しょーち!』で、メイシアを助けに来たの!」
唇を尖らせるようにして、言い放つ。
「パパも、メイシアのことを心配していた。――何も言わなかったけど、たぶん、リュイセンも」
ファンルゥは、元気な癖っ毛を踊らせ、メイシアに迫る。そして、得意げな顔で告げた。
「メイシア、さっき言っていた! 『皆でここを出ましょう』って。パパへのお手紙は、その作戦の『密書』でしょ!? ファンルゥ、分かっちゃったもん!」
「…………」
ためらうメイシアに、ファンルゥが畳み掛ける。
「ファンルゥ、メイシアに意地悪する〈蝿〉のおじさんなんか、大嫌い! 斑目のお家が追っかけてきても、〈蝿〉のおじさんの『お世話』なんて、もう要らない!」
「ファンルゥちゃん……」
「『皆で』出ていく! メイシアも、ファンルゥも、パパも、リュイセンも……! 皆、一緒!」
ファンルゥの笑顔が、メイシアの背中を押す。
くりっとした瞳が、燦然とした輝きを放つ。それは模造石などとは比べようもないほどに強く眩しい、本物の煌めきだった。
「ね! メイシア!」
早く早くと急かすように、机の周りでふわふわの頭がぴょこぴょこ跳ねる。
「ファンルゥちゃん、ありがとう……」
メイシアは、頼もしい協力者に心からの感謝を述べた。
そして、挑むように便箋に向かった。
メイシアの服に顔を埋めたファンルゥが、不規則にしゃくりあげる。抱きついてくる掌を温かいと感じるのは、子供の体温が高いからだけではないだろう。
――ファンルゥを外の世界に連れて行ってあげたい。
心の奥から、強い思いが湧き上がってくる。
もしも、〈蝿〉捕獲作戦が成功していれば、ファンルゥは今ごろ、鷹刀一族の親戚である草薙レイウェンの家で暮らしているはずだった。彼の妻のシャンリーが、是非にと望んでくれていた。
タオロンとファンルゥの父娘の境遇を知ったシャンリーは、こう言った。
『坊やの娘だって、いつまでも親に守られているだけじゃ駄目だろう?』
『私が鍛えてやる。あの坊やの娘なら素質があるだろう。自分で身を守れるようになれば、坊やも、その子も、自由になれる』
小さな子供に対するにしては、少し厳しい言葉かもしれない。けれど、ファンルゥの将来を真に思いやった、シャンリーらしい深い優しさだった。
メイシアは、ファンルゥの頭に手を載せて、指先にじゃれてくる癖っ毛をくしゃりと撫でた。ルイフォンが『大丈夫だ。安心しろ』と言ってくれるときのことを思い出しながら、凛と告げる。
「皆でここを出ましょう」
包み込むような柔らかな声で、しかし、誓うように。
決して無謀な話ではない。ここにはリュイセンがいる。
彼は、〈蝿〉の気まぐれで、メイシアの世話係となった。おそらく、食事のたびに会えるだろう。先ほどは、けんもほろろだったが、まだまだ機会はある。
リュイセンが脅されている内容を聞き出して、解決する。彼の場合、どう考えてもタオロンのように人質がいるわけではない。ならば、〈蝿〉のお得意の妄言に踊らされているだけだろう。それを暴けば、リュイセンは解放されるのだ。
「ルイフォンが来てくれるの!?」
「え?」
弾んだ声に驚けば、ファンルゥが期待の眼差しでこちらを見ていた。
「〈蝿〉のおじさんは『恋人は預かった。悔しければ、取り返しに来い』で、はっはっはー、なんだね! だから、もうすぐルイフォンが来るんだ!」
高い塔にさらわれたお姫様のメイシアを、恋人のルイフォンが助けにくる――おとぎ話さながらの名場面を思い描いたのだろう。ファンルゥは目を輝かせながら喜色を上げた。
「えっと……、ルイフォンは……」
メイシアは、反射的に真面目に考えてしまった。
小さなファンルゥが相手なのだ。彼女の安心のために、『そうなの!』と即答してもよかっただろう。しかし、メイシアは真正直な性格だった。故に、ルイフォンの現状を正確に答えようと思考を巡らせた。
――ルイフォンも、動き出しているはずだ。大怪我を負ったと聞いているが、彼がじっとしているわけがない。
けれど、具体的なことは分からない。
さらわれたとき、メイシアは携帯端末を厨房に置いてきてしまった。いや、持っていたとしても、この庭園に着いたときに〈蝿〉に取り上げられてしまっただろう。
ルイフォンと連絡が取れれば……。
そんな思いが、メイシアの心をよぎる。
リュイセンが何に囚われているのか、ルイフォンに相談できる。弟分の彼なら、何か気づくかもしれない。
あるいは庭園の中と外で連携すれば、リュイセンを味方にできないままでも、〈蝿〉を捕らえられるかもしれない。〈蝿〉さえ捕らえてしまえば、メイシアやリュイセンは勿論、ファンルゥとタオロンも解放される。
メイシアは理性でそう思い、同時に、胸の奥からあふれてきた、切ない感情で苦しくなる。
――ルイフォンの声を聞きたい……!
自分は無事だと、ルイフォンに伝えたい。それから、ルイフォンの傷の具合いを知りたい。
ルイフォンと連絡を取る――その方法は……。
メイシアの頭に、『ある考え』が、ふっと浮かんだ。ファンルゥを抱きしめる手が、じわりと汗ばむ。
……駄目。
彼女は心の中で否定した。
ファンルゥを危険に晒すことはできない……。
「……ルイフォンって、弱いの?」
「えっ?」
ふと気づけば、ファンルゥが首をかしげていた。『助けに来てくれるの?』に対する答えがいつまでも返ってこないからだと、メイシアはひと呼吸、遅れてから気づいた。
「パパは凄く強いの。大きな刀も、軽くふんふんって、できるの」
でも、ルイフォンは細身で、そんなことはできそうもない。だから弱くて、助けに来られないのではないか。――そういうことらしい。
確かに、剛の者のタオロンと比べれば、ルイフォンの武力は弱いだろう。
けれど――。
「ルイフォンは、頭がいいの」
メイシアは、そう答えた。なんとなく負け惜しみのようだが、本当のことだ。
それに対して、ファンルゥが言う。
「パパはね、強くて、凄くて、格好いいの!」
息荒く、胸を張る。可愛らしい顔は誇らしげで、父への愛情で満ちていた。
ファンルゥにつられるように、メイシアもまた、ルイフォンへの想いを口に載せる。
「ルイフォンも、格好いいの。――優しくて、おおらかで、頼もしいの……」
「うー! パパだって、優しいもん! ファンルゥ、パパ大好き!」
少し、すねたようにファンルゥが叫んだ。大好きなパパが一番だと言いたかったらしい。そして、どうやら、それをメイシアにも認めてほしかったようだ。
無邪気な可愛らしさに、メイシアは、くすりとした。――それは、この庭園に囚われてから初めての微笑みだった。
「うん。ファンルゥちゃんのパパは素敵ね。でも、『大好き』はファンルゥちゃんに任せる。私は、ルイフォンが一番、大好きだから」
「あぁぁ、そっかぁ……。ううぅ! そうだよねぇ。メイシア、ルイフォンの恋人だもん」
ファンルゥは納得し、「うーん」とうなりながら太い眉を寄せる。
「パパにはママがいるから……。じゃあ、ファンルゥはリュイセンにする!」
「……えっ!?」
「リュイセン、初めて会ったときは、こーんな顔で怖かったけど、本当は優しいんだって、ファンルゥ、知っているもん」
何やら、おかしな方向に話が転がってしまったようだ……。
窓の外は、夜の帳が下り始めていた。薄い闇をまとった天空に、一番星が輝く。
ファンルゥのおかげで、メイシアの心はすっかり落ち着きを取り戻した。彼女は黒曜石の瞳を細め、穏やかな面持ちでファンルゥを見やる。
ファンルゥが来てくれて本当に嬉しかった。もっといてほしいけれど、あまり引き止めていては脱走がばれてしまうかもしれない。早く帰したほうがよいだろう。
「――……」
メイシアは、ファンルゥに気づかれないように拳を握りしめ、奥歯を噛んだ。そして、先ほど浮かんだ考えを、捨てきれないでいる自分を叱りつける。
――それは、駄目だ。
メイシアは、ファンルゥの手首に視線を落とした。そこには模造石で飾られた、綺麗な腕輪がはめられている。人質の証だ。
部屋から出ようとすると、音が鳴る。ファンルゥには、そう説明されている。
だが、本当は違う。
〈蝿〉の脳波によって毒針が飛び出すという、恐ろしい仕掛けが施された代物だ。また、勝手に外そうとしても同様。
この腕輪のために、タオロンは〈蝿〉の言いなりになっている……。
メイシアは深い息を吐き、それと共に未練を捨てようと試みる。
ルイフォンは、〈蝿〉捕獲作戦の失敗は自分の調査が足りなかったせいだと、酷く後悔していた。その理由のひとつが、ファンルゥの腕輪だった。
遠隔操作で毒針が出ると聞いた瞬間、リュイセンが〈蝿〉の両腕の腱を切ろうとしたらしい。手が使えなければ、リモコンのボタンを押せないだろうと考えたそうだ。しかし、脳波がスイッチになっているのだと、嘲るように〈蝿〉に告げられたという。
腕輪の存在に、あらかじめ気づくべきだったと、ルイフォンは悔いていた。
曰く。脳波についてはよく分からない。けれど、遠隔操作をするなら、どこかに受信機や中継機といった類のものがあったに違いない。不審な機器を見落としたのは、自分の落ち度だ――と。
「……!?」
そのとき、メイシアは違和感を覚えた。
ルイフォンの話では、遠隔操作の有効範囲は『館内』だったはずだ。〈蝿〉本人から聞いたというのだから間違いない。
だが、現在ファンルゥは、館の『外』にある展望塔にいる。
――彼女は今、毒針の呪縛から逃れているのだろうか……?
そんな馬鹿な、とメイシアは自分の疑問を打ち消した。
これで無効だなんて、〈蝿〉のやることにしてはお粗末すぎる。これでは、ちっとも腕輪は人質を繋ぎ止める枷にならない……。
「メイシア?」
どうしたの、と。くりっとした丸い瞳が尋ねていた。メイシアの視線が腕輪にあるのは気づいているようで、ファンルゥは、ちらりと自分の手首を見たあと、どことなく得意げな顔をした。
そういえば、ルイフォンが言っていた。〈蝿〉に渡されたことや、音が鳴ることは嫌だけれども、腕輪自体はファンルゥのお気に入りらしい。だから、おとなしく身に着けているのだろう、と。
「その腕輪、素敵だなって、見とれていたの」
ファンルゥは腕輪を褒めてほしいのだ。そう理解したメイシアは期待に応える。
実際、メイシアの目から見ても、とても良いセンスだと思った。模造石であるので、貴族の宴席では使えないが、繁華街の店先に並べてあれば、大人の女性でも思わず手に取ってみたくなるような品だ。
「うん、綺麗でしょ! ……でも、これ、ビービーなの。それがなければ、いいんだけどなぁ」
そう言いながら、ファンルゥは――。
腕輪を外した。
「――!」
メイシアは、『ファンルゥちゃん!』と、名前を叫んだはずだった。けれど、戦慄のあまり声にならなかった。
この腕輪は、『勝手に外そうとしたら、毒針が飛び出す』のだ……。
愕然とするメイシアに、可愛らしい声が掛かる。
「メイシアに、ちょっとだけ貸してあげる!」
ファンルゥが腕輪を差し出し、にこにことしていた。
「え……?」
何も起きていなかった。
女の子同士でおしゃれの話題を楽しむ、小さな淑女がいるだけだった。
「メイシア、お姫様だから似合うと思うの!」
ファンルゥに押し切られるようにして腕輪を受け取り、メイシアはその内側をそっと確認する。
表面はつるんとしており、針穴のようなものはなかった。どう見ても、ただの腕輪だった。
恐る恐る手首にはめると、ファンルゥが歓声を上げる。きらきらとした輝きが、メイシアの白磁の肌によく映えて、楚々とした気品を際立たせた。
しばらくファンルゥの賛辞を受けたあと、メイシアは尋ねる。
「ファンルゥちゃん、タオロンさんは腕輪を外してはいけない、って言わなかった……?」
「言っていた! でも、かゆくなったときに、時々、こっそり外していた!」
見れば、ファンルゥの手首は少し赤くかぶれていた。毎日の手洗いで濡れたあとや、自身の汗などをそのままにして、ずっと身につけていれば当然であろう。そして、子供のファンルゥが、かゆみを我慢できるわけがないのだ。
――つまり、毒針は『嘘』だ。
〈蝿〉は、もっともらしい嘘でタオロンを騙しただけだ。
「――!」
メイシアの耳に、先ほどのファンルゥの言葉が蘇る。
『ファンルゥとパパは、〈蝿〉のおじさんが大嫌い! ……でも、斑目のお家の追手から守ってもらっているから、命令に逆らえないの……』
タオロンが〈蝿〉の配下となったのは、斑目一族からファンルゥを守るためだ。〈蝿〉に強要されてのことではない。
かつて、ファンルゥの母親と共に一族から逃げたとき、タオロンは不在中に最愛の彼女を殺された。その後悔から、気に食わない相手と思いながらも〈蝿〉を頼ったのだ。
他に行き場のないタオロンは、ファンルゥを庭園内に匿ってもらうだけで、〈蝿〉に恩義を感じる。〈蝿〉は、タオロンが裏切ったり、勝手に出ていったりすることを心配する必要はない。
〈蝿〉にとってのファンルゥの腕輪は、気の進まない仕事を命じるときの強制力くらいの意味しかなかったのだ。実際、タオロンは、嫌々ながらもメイシアをさらいに来た。
娘の命は〈蝿〉の掌中にある。
タオロンが、そう信じて従順であればよい。
毒針は、嘘でよいのだ。もし本物だったとしても、どうせ〈蝿〉には使えない。
何故なら、ファンルゥを殺せば、その瞬間にタオロンは牙をむく。そのとき、武の達人のタオロンに、医者の〈蝿〉は敵うべくもないのだから……。
「……」
だんだん読めてきた〈蝿〉の真意に、メイシアは、ごくりと唾を呑む。
だから――。
ルイフォンたちが『草薙家』という受け入れ先まで用意して、『俺たちのところに来い』と手を差し伸べてきたのは、〈蝿〉にとって想定外。――否、恐怖だっただろう。
そのため、〈蝿〉は、とっさに虚言を吐いたのだ。
『脳波がスイッチになっています』
『誰にも、リモコンを奪うことはできません』
『文字通り、娘を瞬殺できるのですよ』
こうでも言わなければ、タオロンは裏切った。
タオロンが寝返れば、〈蝿〉に勝ち目はない。
敗北は、死を意味する――。
リモコンの有効範囲がお粗末だったのは、慌てて適当に口走ったからだ。
つまり……。
タオロンとファンルゥは、自由だ――。
「お願い、ファンルゥちゃん! 力を貸して!」
「どうしたの、メイシア?」
突然、叫んだメイシアに、ファンルゥは目を丸くする。
「タオロンさんに、手紙を届けてほしいの」
そう言いながら、メイシアは書き物用の机に小走りに向かう。
期待通り、引き出しの中には、赤茶けた便箋と万年筆が残されていた。幸運にも、インクは固まっていない。
何やら新しい『どきどき』と『わくわく』が始まったらしいと察知したファンルゥは、メイシアに負けず劣らず、目を輝かせながら飛んできた。
「ファンルゥ、郵便屋さんだね!」
楽しげな返事に、メイシアは、はっと顔色を変えた。
――自分のことばかり考えていた。
腕輪の仕掛けは嘘だと分かったが、それだけでファンルゥの安全が保証されたわけではないのだ。彼女が人質として軟禁されていることは変わらないし、脱走が見つかれば害されるだろう。
単に、重くのしかかっていた『毒針』という枷が外れただけだ。
それだけで、タオロンやファンルゥを頼ってもよいのだろうか。彼らには、密かにこの庭園から逃げるように勧めたほうがよいのではないだろうか……? 草薙家なら受け入れてくれるはずだ。
「メイシア?」
「ファンルゥちゃん、ごめんね。危険なことなの……」
タオロンとのやり取りは一度だけではすまない。連絡係となるファンルゥは、そのたびに危険に晒される。
急に口ごもったメイシアに、ファンルゥは意思の強そうな太い眉にぐっと力を入れた。
「ファンルゥは、『危険は、しょーち!』で、メイシアを助けに来たの!」
唇を尖らせるようにして、言い放つ。
「パパも、メイシアのことを心配していた。――何も言わなかったけど、たぶん、リュイセンも」
ファンルゥは、元気な癖っ毛を踊らせ、メイシアに迫る。そして、得意げな顔で告げた。
「メイシア、さっき言っていた! 『皆でここを出ましょう』って。パパへのお手紙は、その作戦の『密書』でしょ!? ファンルゥ、分かっちゃったもん!」
「…………」
ためらうメイシアに、ファンルゥが畳み掛ける。
「ファンルゥ、メイシアに意地悪する〈蝿〉のおじさんなんか、大嫌い! 斑目のお家が追っかけてきても、〈蝿〉のおじさんの『お世話』なんて、もう要らない!」
「ファンルゥちゃん……」
「『皆で』出ていく! メイシアも、ファンルゥも、パパも、リュイセンも……! 皆、一緒!」
ファンルゥの笑顔が、メイシアの背中を押す。
くりっとした瞳が、燦然とした輝きを放つ。それは模造石などとは比べようもないほどに強く眩しい、本物の煌めきだった。
「ね! メイシア!」
早く早くと急かすように、机の周りでふわふわの頭がぴょこぴょこ跳ねる。
「ファンルゥちゃん、ありがとう……」
メイシアは、頼もしい協力者に心からの感謝を述べた。
そして、挑むように便箋に向かった。