残酷な描写あり
2.幕引きへの萌芽-1
『メイシア、俺の策が通った。俺が――〈猫〉がリュイセンを解放し、リュイセンに〈蝿〉を討ち取らせる』
メイシアのもとに、待ちかねていた報告が来たのは、夜も更けてからのことだった。
ルイフォンとふたりで『リュイセンを解放する』と誓い合ったあと、ひとまず通話を切った。ルイフォンが、『対等な協力者』〈猫〉からの提案として、鷹刀一族に話を持っていくためである。
その間に、メイシアは異母弟ハオリュウに電話をした。昼間のうちに、鷹刀一族からメイシアの無事を知らせる連絡がいっていたため、ハオリュウが盛大に驚くことはなかったが、やはり電話口の声は震えていた。
異母弟は、ルイフォンの案を支持してくれた。
父の仇である〈蝿〉の処断を、全面的に鷹刀一族に委ねることになるが、それでよいと言ってくれた。ミンウェイが『母親』のクローンだという話は伏せたので、ハオリュウにしてみれば曖昧なところのある策であったろうに、ルイフォンを信用してくれたのだ。
しかし、ルイフォンの側は、そうもいかなかった。彼は『証拠を手にするまでは、ミンウェイの『秘密』を伏せておきたい』と言っていたが、『結局、明かした』――と、硬い声で告げた。
『早速、明日から行動を開始する!』
「うん……!」
ミンウェイの『秘密』を口にしてしまった苦さを振り払い、覇気に満ちたテノールを発するルイフォンに、メイシアの心も奮い立った。
『ただ、タイムリミットを言い渡されたんだ』
「タイムリミット?」
『ああ。〈蝿〉がお前に自白剤を使うと言った日の『前日までに』なんとかしろと言われた。間に合わなければ、タオロンに〈蝿〉暗殺を依頼する、ってな』
「自白剤……」
メイシアは怖気を覚え、無意識に自分の体を抱きしめる。
『自白剤によって、お前が本当はセレイエの記憶を持っているとばれたら、〈蝿〉が何をするか分からないから、って。俺も、そう思う。――だから、明日から三日で決着をつける』
「……」
三日。――たった三日。
それは、あまりにも短いのではないだろうか。
メイシアが眉を曇らせると、あたかも、その顔が見えているかのように、ルイフォンの柔らかな声が彼女を撫でた。
『俺を信じろ』
「!」
彼の言葉は、魔法の言葉だ。
耳にした瞬間に、メイシアの心配は霧散した。気づけば、彼女の口は自然に動いていた。
「うん、信じる。ルイフォンなら、できる」
『ありがとな』
猫の目が細まり、得意げに頬が緩んだのを感じる。目には見えないけれど、心で見える。
『万が一のときにはタオロンを頼れるのは心強いな。何があっても、数日中にお前を取り戻せる保証があるってのは嬉しい。――ミンウェイが『母親』のクローンだという証拠を手に入れても、リュイセンが『それ』をネタに脅された、ということもまた、俺の憶測でしかないんだからな……』
ほんの少しだけ、ルイフォンが弱音を吐く。自信過剰の彼が、気負いもなく素直に吐露するのはメイシアにだけ、ということに最近、気づいた。――おそらく、彼に自覚はないであろうことも。
「大丈夫。ルイフォンだから。リュイセンのことで間違えることはないの」
メイシアは、彼の髪をくしゃりと撫でる。癖の強い猫毛が、自己主張しながら指の間を流れていく。――勿論、錯覚だ。現実ではない。けれど、彼にはちゃんと伝わっているはずだ。
『……そうだな。ここで俺が弱気になったら、ミンウェイに申し訳が立たないよな』
「うん……。……あの、ミンウェイさん……その……、どう……している?」
初めにルイフォンからクローンだという話を聞いたときには、メイシアは耳を疑った。辻褄が合うと納得をしても、それでもまだ信じられない気持ちが残っている。
メイシアがこんな状態ならば、ミンウェイ本人は、さぞ受け入れがたい思いをしていることだろう……。
『たぶん、シュアンといると思う。シュアンの奴、さっさと帰ると言いながら、温室の前でうろついていたのを見回りに目撃されている』
「緋扇さん……?」
どういうことだろうか?
しかし、ルイフォンは、それ以上のことを言うつもりはないようだった。
兄貴分のリュイセンがいない間に、他の男がミンウェイに近づくのを快く思っていないのは確かだろう。ただ、シュアンには世話になっているから強く出られない。そんな雰囲気を感じた。
『明日、生前のヘイシャオの研究報告書を探しに、ミンウェイの昔の家に――ヘイシャオの研究室のあった家に行ってくる。ミンウェイが案内してくれるそうだ』
話をそらすように、あるいは話を進めるように、ルイフォンが告げる。
だからメイシアも、シュアンについてはもう訊かない。それよりも、積極的に動こうとするミンウェイに安堵した。そして、同時に尊敬する。
『ヘイシャオは、妻の病を研究するために〈七つの大罪〉から資金を受け取っていた。だから、成果の報告は義務だ。報告書は必ず存在する。……彼の研究室に残っているはずなんだ。妻の体をもとに健康な肉体を作り出し、その後、その子を育てた――と』
「うん……」
メイシアの声が沈んでしまったからだろう。ルイフォンが、軽口を叩くように言う。
『〈猫〉としては、報告書が電子的に保管されているとありがたいんだけどな。圧倒的に検索が楽になる』
彼らしい言葉に、彼女はくすりと笑う。それからヘイシャオの研究室を思い浮かべ、なんの気もなしに口を開いた。
「〈七つの大罪〉への報告書は、ヘイシャオさんの時代には電子データで提出することになっていたはずだから大丈夫。ただ、彼が生前、使っていたコンピュータが今も動くかどうかは分からない。古いし、埃まみれだったから――」
『――!?』
「けど、紙の書類ならあると思う。几帳面な彼は、報告書にまとめる前の記録ノートを大切にしていたみたいで、そういった資料が棚いっぱいに……」
そこまで言ったとき、メイシアは、はっと自分の口元を押さえた。
「――私、なんで、知って……?」
『メイシア?』
「今のは――セレイエさんの記憶……!」
声が震えた。
半音ずれたような、歪んだ彼女の声を聞いて、ルイフォンが血相を変えた。
『どうした!?』
メイシアの顔から血の気が引いていく。滑らかな白磁の肌が、青く黒ずんでいく。手足の感覚が鈍くなり、自分の体が自分でなくなっていくように思えてくる。
『メイシア! 大丈夫か!?』
ルイフォンが叫ぶ。彼女に駆け寄ろうと、腰を浮かせる彼の気配を感じる。けれど、それは文字通り遠くの場所での出来ごとで、その手が彼女に触れることは叶わない。
メイシアの脳裏に、ヘイシャオの研究室の風景が鮮明に浮かび上がった。
大きな硝子ケースの中で、一組の男女が眠っていた。『ヘイシャオ』と『ミンウェイ』――生前のヘイシャオが遺したものだ。
「セレイエさんの……ああ、違う、これはセレイエさんの〈影〉となったホンシュアの記憶。彼女は、ヘイシャオさんの研究室に行ったの。そこで現在の『〈蝿〉』を目覚めさせた……」
『おい! メイシア! どうしたんだよ!?』
メイシアは、記憶を受け取った。
だから、知っている。知らないはずのことを知っている。
『ライシェン』を見た瞬間、メイシアはセレイエに同調した。彼女の経験がメイシアの中に蘇り、感情すらも同化した。
けれど落ち着いてきたら、自分とセレイエの記憶をはっきりと区別できるようになった。〈蝿〉の指示による『ライシェン』との対面のときも、最初のときのように心を揺さぶられるようなことはない。
だから、安心していたのだが、どうやら彼女の記憶に触れようとすると、自分と彼女との境界が曖昧になるらしい。
普段は『そちら』を見ないようにしているだけで、メイシアが知ろうと思えば、いつだってセレイエの――ホンシュアの記憶を覗くことができる。メイシアの中には、確かに、自分のものではない記憶が存在するのだ。
ルイフォンの焦燥の息遣いが、荒く耳元に掛かる。彼女の顔が見えないことが、余計に不安を煽っているのだろう。
「ルイフォン、ごめんなさい。心配させて」
『説明してくれ。――お前の中で何が起きたんだ? セレイエの記憶が、お前に何かしたのか!?』
「……何かされた――とかじゃないの。でも……、私の中に、私の知らない記憶がある。……だから、私は行ったこともないヘイシャオさんの研究室の様子を知っているの。それで少し混乱して……」
『……っ! セレイエの奴! 俺のメイシアに……! 糞っ!』
拳をどこかに叩きつける音。
言葉にならない、ルイフォンのうめき……。
「心配しないで! 私に危険はないの」
憎悪と呼べそうなほどの彼の怒りに、メイシアは焦る。
「落ち着いて。私が知りたいと思わなければ、彼女の記憶は私の邪魔をしないから大丈夫」
『本当なのか……?』
いつも強気な猫の目が、不安げに彼女を見つめる。見えないけれど、その視線を感じる。
「安心して。変な感じはするけれど、記憶を受け取ったことで、私は多くの情報を手に入れたの。――望ましいことだと思う。だって、『情報を制する者が勝つ』でしょう?」
彼の口癖を、彼女は唇に載せる。
『それは……そうだけど……』
「いずれは、なんとかしないといけないかもしれない。でも、ともかく今は、この庭園を皆で出ることを考えないと」
『そうだ、な……』
ルイフォンの相槌を受けて、メイシアは記憶を探る。
彼に前へと進んでほしいから。
彼の役に立ちたいと思う。できる限りのことをしたいと望む。
だから、彼女は記憶を読み上げる。
無意識に。呼吸をするように、ごく自然に。
……それが、何を引き起こすかなど、微塵にも考えることなく。
「〈悪魔〉は年に一度、報告書と『記憶』を提出する義務があるの。報告書の内容は〈七つの大罪〉のデータベースに収められるから、もしヘイシャオさんの研究室が空振りだったら、そちらへの侵入を考えて。〈天使〉なら、『記憶』を書き込んだ〈冥王〉に接触もできるけ……、……! …………ぅ、…………っ」
刹那。
メイシアは、声にならない悲鳴を上げた。
心臓を鷲掴みにされるような感覚がして、息が止まる。
全身から脂汗が吹き出した。
そして、本能的に悟る。
――これ以上、言ってはいけない。
『メイシア!? メイシア、どうし……、……!』
ルイフォンが鋭く息を呑んだ。
気を失いそうな状況下でも、メイシアの手は携帯端末を固く握りしめたままだったので、その音がはっきりと聞こえた。
『お前、セレイエの記憶があるんだよな!?』
うん、と答えたつもりだった。しかし、それは吐息にすらならない。
『〈悪魔〉の『契約』だ! お前は、セレイエが〈蛇〉として交わした『契約』に縛られたんだ! 糞っ……! セレイエ! ふざけんな!』
ルイフォンが憤怒に吠える。猫の目が、ぎらりと光り、攻撃性を帯びる。
『メイシア、『〈冥王〉』は〈悪魔〉にとって禁句だ! 親父も、〈悪魔〉の記憶を受け継いだ〈ベロ〉も、『〈冥王〉』と口にしたら『契約』の警告を受けた』
「〈ベロ〉……?」
『あとで言おうと思っていたんだけど、俺は〈ベロ〉と会った。――それより、お前の体だ! とにかく、横になれ! 苦しいだろ!? 畜生……!』
いつになく取り乱すルイフォンに、メイシアは――。
……彼には申し訳ないのだけれど、嬉しかった。
幸せだと思ってしまった。
知らないうちに〈悪魔〉の〈蛇〉として『契約』に囚われてしまったことは不安であり、恐ろしいのに。……なのに、ルイフォンの声を聞いていると怖くない。
そうか。――と、彼女は気づいた。
「ルイフォン」
大切な名前を、心を込めて口に載せる。『契約』の警告は収まってきたようで、今度は素直に声が出た。
『メイシア、どうした? 具合いは!?』
「愛している」
彼が居るから、平気なのだ。
……。
…………。
………………。
ルイフォンは、しばらく固まっていた。
勿論、メイシアにその姿が見えるわけではないのだが、携帯端末は無反応でも通話時間の表示だけは加算されていくので間違いない。
「ルイフォン?」
様子を窺うように、そっと彼を呼ぶ。彼はまだ呆けているようで、心ここにあらずの『ああ』という返事が返ってきた。
「セレイエさんの記憶のこと、『デヴァイン・シンフォニア計画』のこと、いろいろ気になることはあるけれど、今はこの庭園を出ることを一番に考えましょう? ――だって、私……ルイフォンに逢いたい」
逢いたい。
彼に逢いたい。
『……ああ、そうだな。……俺も、早くメイシアに逢いたい。お前を抱きしめたい』
いつもの調子に戻ったルイフォンが、力強い声で告げる。
だからメイシアも、想いを伝える。
「うん、私も。ルイフォンに抱きしめてもらいたい」
顔の見えない電話だからだろうか。それとも、離れている時間が長いからだろうか。普段なら、とても言えない言葉がすっと出た。
それから互いに、離れ離れになってからの出来ごとを報告し合った。
そして――。
『『デヴァイン・シンフォニア計画』は、殺された子供を生き返らせるために、セレイエが組み上げたもの……か』
かすれたテノールが、メイシアの耳に響く。
『………………なるほどな』
そのひとことが返ってくるまでの間の長さに、彼の衝撃が現れていた。
「……うん」
『分かった。ありがとな。……お前、ひとりで辛かったな』
「…………うん。ルイフォン、ありがとう」
メイシアの心が、ふわりと温かくなる。
しかし。
彼女は、『すべて』をルイフォンに伝えることはできない。
メイシアの心に、〈蛇〉の交わした『契約』が、重くのしかかっていた――。
メイシアのもとに、待ちかねていた報告が来たのは、夜も更けてからのことだった。
ルイフォンとふたりで『リュイセンを解放する』と誓い合ったあと、ひとまず通話を切った。ルイフォンが、『対等な協力者』〈猫〉からの提案として、鷹刀一族に話を持っていくためである。
その間に、メイシアは異母弟ハオリュウに電話をした。昼間のうちに、鷹刀一族からメイシアの無事を知らせる連絡がいっていたため、ハオリュウが盛大に驚くことはなかったが、やはり電話口の声は震えていた。
異母弟は、ルイフォンの案を支持してくれた。
父の仇である〈蝿〉の処断を、全面的に鷹刀一族に委ねることになるが、それでよいと言ってくれた。ミンウェイが『母親』のクローンだという話は伏せたので、ハオリュウにしてみれば曖昧なところのある策であったろうに、ルイフォンを信用してくれたのだ。
しかし、ルイフォンの側は、そうもいかなかった。彼は『証拠を手にするまでは、ミンウェイの『秘密』を伏せておきたい』と言っていたが、『結局、明かした』――と、硬い声で告げた。
『早速、明日から行動を開始する!』
「うん……!」
ミンウェイの『秘密』を口にしてしまった苦さを振り払い、覇気に満ちたテノールを発するルイフォンに、メイシアの心も奮い立った。
『ただ、タイムリミットを言い渡されたんだ』
「タイムリミット?」
『ああ。〈蝿〉がお前に自白剤を使うと言った日の『前日までに』なんとかしろと言われた。間に合わなければ、タオロンに〈蝿〉暗殺を依頼する、ってな』
「自白剤……」
メイシアは怖気を覚え、無意識に自分の体を抱きしめる。
『自白剤によって、お前が本当はセレイエの記憶を持っているとばれたら、〈蝿〉が何をするか分からないから、って。俺も、そう思う。――だから、明日から三日で決着をつける』
「……」
三日。――たった三日。
それは、あまりにも短いのではないだろうか。
メイシアが眉を曇らせると、あたかも、その顔が見えているかのように、ルイフォンの柔らかな声が彼女を撫でた。
『俺を信じろ』
「!」
彼の言葉は、魔法の言葉だ。
耳にした瞬間に、メイシアの心配は霧散した。気づけば、彼女の口は自然に動いていた。
「うん、信じる。ルイフォンなら、できる」
『ありがとな』
猫の目が細まり、得意げに頬が緩んだのを感じる。目には見えないけれど、心で見える。
『万が一のときにはタオロンを頼れるのは心強いな。何があっても、数日中にお前を取り戻せる保証があるってのは嬉しい。――ミンウェイが『母親』のクローンだという証拠を手に入れても、リュイセンが『それ』をネタに脅された、ということもまた、俺の憶測でしかないんだからな……』
ほんの少しだけ、ルイフォンが弱音を吐く。自信過剰の彼が、気負いもなく素直に吐露するのはメイシアにだけ、ということに最近、気づいた。――おそらく、彼に自覚はないであろうことも。
「大丈夫。ルイフォンだから。リュイセンのことで間違えることはないの」
メイシアは、彼の髪をくしゃりと撫でる。癖の強い猫毛が、自己主張しながら指の間を流れていく。――勿論、錯覚だ。現実ではない。けれど、彼にはちゃんと伝わっているはずだ。
『……そうだな。ここで俺が弱気になったら、ミンウェイに申し訳が立たないよな』
「うん……。……あの、ミンウェイさん……その……、どう……している?」
初めにルイフォンからクローンだという話を聞いたときには、メイシアは耳を疑った。辻褄が合うと納得をしても、それでもまだ信じられない気持ちが残っている。
メイシアがこんな状態ならば、ミンウェイ本人は、さぞ受け入れがたい思いをしていることだろう……。
『たぶん、シュアンといると思う。シュアンの奴、さっさと帰ると言いながら、温室の前でうろついていたのを見回りに目撃されている』
「緋扇さん……?」
どういうことだろうか?
しかし、ルイフォンは、それ以上のことを言うつもりはないようだった。
兄貴分のリュイセンがいない間に、他の男がミンウェイに近づくのを快く思っていないのは確かだろう。ただ、シュアンには世話になっているから強く出られない。そんな雰囲気を感じた。
『明日、生前のヘイシャオの研究報告書を探しに、ミンウェイの昔の家に――ヘイシャオの研究室のあった家に行ってくる。ミンウェイが案内してくれるそうだ』
話をそらすように、あるいは話を進めるように、ルイフォンが告げる。
だからメイシアも、シュアンについてはもう訊かない。それよりも、積極的に動こうとするミンウェイに安堵した。そして、同時に尊敬する。
『ヘイシャオは、妻の病を研究するために〈七つの大罪〉から資金を受け取っていた。だから、成果の報告は義務だ。報告書は必ず存在する。……彼の研究室に残っているはずなんだ。妻の体をもとに健康な肉体を作り出し、その後、その子を育てた――と』
「うん……」
メイシアの声が沈んでしまったからだろう。ルイフォンが、軽口を叩くように言う。
『〈猫〉としては、報告書が電子的に保管されているとありがたいんだけどな。圧倒的に検索が楽になる』
彼らしい言葉に、彼女はくすりと笑う。それからヘイシャオの研究室を思い浮かべ、なんの気もなしに口を開いた。
「〈七つの大罪〉への報告書は、ヘイシャオさんの時代には電子データで提出することになっていたはずだから大丈夫。ただ、彼が生前、使っていたコンピュータが今も動くかどうかは分からない。古いし、埃まみれだったから――」
『――!?』
「けど、紙の書類ならあると思う。几帳面な彼は、報告書にまとめる前の記録ノートを大切にしていたみたいで、そういった資料が棚いっぱいに……」
そこまで言ったとき、メイシアは、はっと自分の口元を押さえた。
「――私、なんで、知って……?」
『メイシア?』
「今のは――セレイエさんの記憶……!」
声が震えた。
半音ずれたような、歪んだ彼女の声を聞いて、ルイフォンが血相を変えた。
『どうした!?』
メイシアの顔から血の気が引いていく。滑らかな白磁の肌が、青く黒ずんでいく。手足の感覚が鈍くなり、自分の体が自分でなくなっていくように思えてくる。
『メイシア! 大丈夫か!?』
ルイフォンが叫ぶ。彼女に駆け寄ろうと、腰を浮かせる彼の気配を感じる。けれど、それは文字通り遠くの場所での出来ごとで、その手が彼女に触れることは叶わない。
メイシアの脳裏に、ヘイシャオの研究室の風景が鮮明に浮かび上がった。
大きな硝子ケースの中で、一組の男女が眠っていた。『ヘイシャオ』と『ミンウェイ』――生前のヘイシャオが遺したものだ。
「セレイエさんの……ああ、違う、これはセレイエさんの〈影〉となったホンシュアの記憶。彼女は、ヘイシャオさんの研究室に行ったの。そこで現在の『〈蝿〉』を目覚めさせた……」
『おい! メイシア! どうしたんだよ!?』
メイシアは、記憶を受け取った。
だから、知っている。知らないはずのことを知っている。
『ライシェン』を見た瞬間、メイシアはセレイエに同調した。彼女の経験がメイシアの中に蘇り、感情すらも同化した。
けれど落ち着いてきたら、自分とセレイエの記憶をはっきりと区別できるようになった。〈蝿〉の指示による『ライシェン』との対面のときも、最初のときのように心を揺さぶられるようなことはない。
だから、安心していたのだが、どうやら彼女の記憶に触れようとすると、自分と彼女との境界が曖昧になるらしい。
普段は『そちら』を見ないようにしているだけで、メイシアが知ろうと思えば、いつだってセレイエの――ホンシュアの記憶を覗くことができる。メイシアの中には、確かに、自分のものではない記憶が存在するのだ。
ルイフォンの焦燥の息遣いが、荒く耳元に掛かる。彼女の顔が見えないことが、余計に不安を煽っているのだろう。
「ルイフォン、ごめんなさい。心配させて」
『説明してくれ。――お前の中で何が起きたんだ? セレイエの記憶が、お前に何かしたのか!?』
「……何かされた――とかじゃないの。でも……、私の中に、私の知らない記憶がある。……だから、私は行ったこともないヘイシャオさんの研究室の様子を知っているの。それで少し混乱して……」
『……っ! セレイエの奴! 俺のメイシアに……! 糞っ!』
拳をどこかに叩きつける音。
言葉にならない、ルイフォンのうめき……。
「心配しないで! 私に危険はないの」
憎悪と呼べそうなほどの彼の怒りに、メイシアは焦る。
「落ち着いて。私が知りたいと思わなければ、彼女の記憶は私の邪魔をしないから大丈夫」
『本当なのか……?』
いつも強気な猫の目が、不安げに彼女を見つめる。見えないけれど、その視線を感じる。
「安心して。変な感じはするけれど、記憶を受け取ったことで、私は多くの情報を手に入れたの。――望ましいことだと思う。だって、『情報を制する者が勝つ』でしょう?」
彼の口癖を、彼女は唇に載せる。
『それは……そうだけど……』
「いずれは、なんとかしないといけないかもしれない。でも、ともかく今は、この庭園を皆で出ることを考えないと」
『そうだ、な……』
ルイフォンの相槌を受けて、メイシアは記憶を探る。
彼に前へと進んでほしいから。
彼の役に立ちたいと思う。できる限りのことをしたいと望む。
だから、彼女は記憶を読み上げる。
無意識に。呼吸をするように、ごく自然に。
……それが、何を引き起こすかなど、微塵にも考えることなく。
「〈悪魔〉は年に一度、報告書と『記憶』を提出する義務があるの。報告書の内容は〈七つの大罪〉のデータベースに収められるから、もしヘイシャオさんの研究室が空振りだったら、そちらへの侵入を考えて。〈天使〉なら、『記憶』を書き込んだ〈冥王〉に接触もできるけ……、……! …………ぅ、…………っ」
刹那。
メイシアは、声にならない悲鳴を上げた。
心臓を鷲掴みにされるような感覚がして、息が止まる。
全身から脂汗が吹き出した。
そして、本能的に悟る。
――これ以上、言ってはいけない。
『メイシア!? メイシア、どうし……、……!』
ルイフォンが鋭く息を呑んだ。
気を失いそうな状況下でも、メイシアの手は携帯端末を固く握りしめたままだったので、その音がはっきりと聞こえた。
『お前、セレイエの記憶があるんだよな!?』
うん、と答えたつもりだった。しかし、それは吐息にすらならない。
『〈悪魔〉の『契約』だ! お前は、セレイエが〈蛇〉として交わした『契約』に縛られたんだ! 糞っ……! セレイエ! ふざけんな!』
ルイフォンが憤怒に吠える。猫の目が、ぎらりと光り、攻撃性を帯びる。
『メイシア、『〈冥王〉』は〈悪魔〉にとって禁句だ! 親父も、〈悪魔〉の記憶を受け継いだ〈ベロ〉も、『〈冥王〉』と口にしたら『契約』の警告を受けた』
「〈ベロ〉……?」
『あとで言おうと思っていたんだけど、俺は〈ベロ〉と会った。――それより、お前の体だ! とにかく、横になれ! 苦しいだろ!? 畜生……!』
いつになく取り乱すルイフォンに、メイシアは――。
……彼には申し訳ないのだけれど、嬉しかった。
幸せだと思ってしまった。
知らないうちに〈悪魔〉の〈蛇〉として『契約』に囚われてしまったことは不安であり、恐ろしいのに。……なのに、ルイフォンの声を聞いていると怖くない。
そうか。――と、彼女は気づいた。
「ルイフォン」
大切な名前を、心を込めて口に載せる。『契約』の警告は収まってきたようで、今度は素直に声が出た。
『メイシア、どうした? 具合いは!?』
「愛している」
彼が居るから、平気なのだ。
……。
…………。
………………。
ルイフォンは、しばらく固まっていた。
勿論、メイシアにその姿が見えるわけではないのだが、携帯端末は無反応でも通話時間の表示だけは加算されていくので間違いない。
「ルイフォン?」
様子を窺うように、そっと彼を呼ぶ。彼はまだ呆けているようで、心ここにあらずの『ああ』という返事が返ってきた。
「セレイエさんの記憶のこと、『デヴァイン・シンフォニア計画』のこと、いろいろ気になることはあるけれど、今はこの庭園を出ることを一番に考えましょう? ――だって、私……ルイフォンに逢いたい」
逢いたい。
彼に逢いたい。
『……ああ、そうだな。……俺も、早くメイシアに逢いたい。お前を抱きしめたい』
いつもの調子に戻ったルイフォンが、力強い声で告げる。
だからメイシアも、想いを伝える。
「うん、私も。ルイフォンに抱きしめてもらいたい」
顔の見えない電話だからだろうか。それとも、離れている時間が長いからだろうか。普段なら、とても言えない言葉がすっと出た。
それから互いに、離れ離れになってからの出来ごとを報告し合った。
そして――。
『『デヴァイン・シンフォニア計画』は、殺された子供を生き返らせるために、セレイエが組み上げたもの……か』
かすれたテノールが、メイシアの耳に響く。
『………………なるほどな』
そのひとことが返ってくるまでの間の長さに、彼の衝撃が現れていた。
「……うん」
『分かった。ありがとな。……お前、ひとりで辛かったな』
「…………うん。ルイフォン、ありがとう」
メイシアの心が、ふわりと温かくなる。
しかし。
彼女は、『すべて』をルイフォンに伝えることはできない。
メイシアの心に、〈蛇〉の交わした『契約』が、重くのしかかっていた――。