残酷な描写あり
2.幕引きへの萌芽-2
石造りの展望塔が、朝陽に包まれる。
初夏とはいえ、月の支配下にある間はひやりと冷たい外壁が、ゆっくりと熱を蓄えていく。
するすると滑らかな音を立てるようにして闇の緞帳が引き払われ、菖蒲の庭園は光に満ちた夜明けを迎えた。
「朝……」
展望塔の最上階、展望室にいる囚われのメイシアもまた、目を覚ます。
長い睫毛を瞬かせ、枕元にある愛用の携帯端末を瞳に映した。
昨日の出来ごとは夢ではなかったのだと実感し、彼女はほっと息を吐く。和らいだ顔は徐々にほころび、微笑みに変わった。
この端末は、小さなファンルゥの温かな手から受け取った。タオロンや情報屋のトンツァイ、娼館のシャオリエとスーリン……たくさんの人々の助けによって、メイシアのもとに届けられた。皆への感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。
まだ離れ離れだけれど、電波という見えない糸でルイフォンと繋がった。
そして、この庭園から抜け出すための道が決まった――。
メイシアはベッドから半身を起こし、ぐっと気を引き締める。
凛と輝く黒曜石の瞳で、遥かなルイフォンを見つめる。
それから彼女は携帯端末を手に取り、今日の日付けを確認した。
日時を示すものが手元にはそれしかないからであるが、ルイフォンみたいだな、と思う。カレンダーや時計があっても、携帯端末を頼みとするのが彼の習慣なのだ。
まるでルイフォンと一心同体。そう思ってから、乙女心あふれる発想に赤面しつつも、やはり嬉しく、なんとなく誇らしい。
「今日から、三日の間に……」
携帯端末に表示された日付けを見つめ、メイシアは呟く。
ルイフォンが、ミンウェイは『母親』のクローンであるという証拠を手に入れ、リュイセンを解放するために行動できる時間は、三日間。それが、タイムリミットだ。
彼は今日、生前のヘイシャオが使っていた研究室に、証拠を探しに行く。うまくすれば、三日も必要とせずに、そこですぐに決着がつくかもしれない。
自然に頬が緩んできて、メイシアは慌てて表情を引き締めた。
油断は禁物。明るい顔を見せれば、〈蝿〉が不審に思うことだろう。それはいけない。〈蝿〉には何も気取られてはならないのだ。
気持ちを切り替えるべく、彼女はベッドを出て、顔を洗いに行った。
朝食を終えると、メイシアは『ライシェン』との対面のため、リュイセンに連れられ、展望塔から館の地下研究室へと移動する。
それが、定められた日課となっていた。
世話係となったリュイセンは、日に何度か――主に食事のときに、メイシアのいる展望室を訪れた。彼は常にうつむき加減で、彼女から目をそらした。合わせる顔がない、ということなのだろう。
メイシアとしては、本当はリュイセンにいろいろと打ち明けたかった。
タオロンが味方になったことや、ルイフォンと連絡が取れるようになったこと。何より、この庭園を出るために、リュイセンには重要な役割を担ってほしいことを……。
しかし、現状では『敵』であるリュイセンには何も知らせないでおこう、とルイフォンと決めていた。すぐに『味方』に戻すから、それまでは――と。
何故なら、リュイセンは気配を消すのは得意であるのに、感情を隠すのは下手なのだ。彼の挙動から、〈蝿〉が疑念を抱く可能性がある。不測の事態は、いつどこで何が原因で起こるか分からない。慎重であるべきなのだ。
メイシアは、リュイセンのあとについて館に入り、闇に呑み込まれるような地下への階段を降りた。そして研究室の扉の前で、そっぽを向いたままの彼に声を掛ける。ほんの少しでいいから、こちらを向いてほしいと願いながら。
「リュイセン、ありがとう。また、あとで」
「……また、あとで」
独り言のような低い呟きが、かろうじてメイシアの耳に届いた。
リュイセンは、くるりと踵を返し、去っていく。大柄な彼の背中はどこか丸く、弱りきっているように見えた。
「お待ちしていましたよ」
薄暗い地下通路から一転し、明るく清潔な研究室に入れば、白衣の裾を翻し、〈蝿〉がメイシアを迎える。
メイシアは黙って奥に進んだ。衝立で仕切られた向こう側に『ライシェン』がいるのだ。
逆らうことは無駄とばかりの、従順な様子の彼女に〈蝿〉は薄笑いを浮かべる。
「『ライシェン』は、いつ『誕生』しても構わないくらいに成長しました。そろそろ凍結保存の時期です。――あなたから『鷹刀セレイエ』のことを聞けたら、処置を施そうと思っているのですよ」
『セレイエ』に揺さぶりをかけるなら、凍結された仮死状態よりも、時々、寝返りを打ちながら愛らしく眠っている姿のほうが効果的であろう。
だから、わざわざ待ってやっているのだ。早く、すべての『セレイエ』の記憶を手に入れろ。――暗にそう言っている。
言葉の端々から、高慢な態度が見え隠れしていた。
「……」
静かな黒曜石の瞳で、メイシアは〈蝿〉を見つめた。いつもなら、恐怖と憎悪を感じる〈蝿〉の顔が、今日は哀れな亡者に映った。
彼にはもう、未来はない。
他ならぬメイシアが、彼を屠るための死神を呼び寄せた。
〈蝿〉のしたことを思えば、それは決して間違いではない。そう言い切れるだけの怨嗟が、メイシアの中には確かにある。
それでも、見えない死神の鎌が彼の首筋に狙いを定めているのを感じると、彼女の胸は締め付けられるように痛んだ。
何故なら、彼女の中には、セレイエの記憶が――正確には『セレイエの記憶』と、セレイエの〈影〉となり、『デヴァイン・シンフォニア計画』の水先案内人として奔走していた『ホンシュアの記憶』がある。
『ホンシュアの記憶』に依れば、ホンシュアは、打ち捨てられたような古い研究室で、大型の硝子ケースを見つけた。
その中には、『ヘイシャオ』と『ミンウェイ』の二体の肉体が仲睦まじく眠っていた。ひと目見て、彼らは『対』であるのだとホンシュアは理解した。
それが分かっていても、ホンシュアは二体を――ふたりを引き離し、『ヘイシャオ』だけを目覚めさせた。『ライシェン』の目を見えるようにするためには、どうしても天才医師〈蝿〉の技術が必要だったから……。
〈蝿〉が『生き返った』のは、ホンシュアの――セレイエの身勝手な都合のためだ。
そうして『生』を享けた彼は、ホンシュアの嘘に翻弄されてイーレオの命を狙い、その過程でさまざまな人々の恨みを買い、その結果、メイシアの手引きする死神に『死』を与えられようとしている。
彼自身は、強く『生』を望んでいるのに。
『私は――いえ、オリジナルの『鷹刀ヘイシャオ』は、ミンウェイと約束を交わしました。『生を享けた以上、生をまっとうする』――これは、『私』にとって絶対の誓約です』
メイシアの脳裏に、矜持にあふれた〈蝿〉の昏い美貌が蘇る。
「……」
〈蝿〉は父の仇だ。
絶対に許すことはできない。
――けれど。
『尊厳は守ってやりたい』と言ったイーレオの気持ちが、今なら分かる気がする。
〈蝿〉もまた、『デヴァイン・シンフォニア計画』の犠牲者なのだから……。
「どうかしました?」
思考の海に沈んでいたメイシアを、〈蝿〉の声が呼び戻す。
「いえ、なんでもありません」
培養液に身を委ね、白金の髪を踊らせる美しい赤子に目を向けながら、メイシアはふと思う。
〈蝿〉がセレイエを探しているのは、セレイエを利用して自分が『生き残る』ためだ。なのに、オリジナルのヘイシャオは、自ら『生』を手放したという。
『鷹刀ヘイシャオが、自殺などするはずがないのです。彼が自ら『死』を望むなど、あり得ない!』
『ええ、私も馬鹿ではありません。分かっていますよ。――私の持つ記憶が保存された時点から、オリジナルの鷹刀ヘイシャオが死ぬまでの間に、彼が心変わりするような事件があった、ということでしょう』
耳の中で、〈蝿〉の叫びが木霊する。
『生』を望む〈蝿〉と、『死』を求めたオリジナルのヘイシャオ。
このふたりの違いは、持っている記憶の時差だ。
では、『生』から『死』へと心変わりするような事件とは、いったい――?
「…………」
〈蝿〉は憎き仇だ。
これ以上、彼について考える必要はない。
彼に『死』が与えられれば、すべては無となる。この疑問を解くことに意味はない。
メイシアはそう思い……、しかし、心の中に小さなしこりを感じていた。
そして。
一方、リュイセンは――。
メイシアを〈蝿〉の地下研究室に送り届けたのち、割り当てられた部屋へと足早に戻っていた。
別に、急ぐ理由があるわけではない。ただ、途中ですれ違う〈蝿〉の私兵たちの視線が、好奇と畏怖の入り混じった不快なものであるからだ。
リュイセンの顔立ちが〈蝿〉そっくりであるのだから当然といえよう。叔父と甥の関係であると言ったかどうかは忘れたが、〈蝿〉が彼を特別扱いをしていることは自明である。
最近では、メイシアの世話係となったことが、やっかみの対象であるらしい。
何故そんなことが? と、初めは疑問に思ったのだが、展望塔と地下研究室を往復する彼女を遠巻きに見る、私兵たちの卑猥な目を見て得心がいった。リュイセンはメイシアの世話係――実は、逃亡を防ぐための見張りも兼ねていると〈蝿〉に言われているのだが、どちらかというと護衛の意味合いのほうが大きいようだった。
部屋にたどり着き、リュイセンは乱暴に扉を閉める。
このあとは、昼前にメイシアを迎えに行くまで特にやることがない。
世話係としては、彼女がいない間に掃除でもしておくべきなのかもしれないが、女性の部屋に勝手に出入りをするのは非常識な気がした。そもそも、メイド見習いで鍛えた彼女は、彼よりも、よほど身の回りのことを器用にこなすのだ。その手際は、とても、もと貴族の箱入り娘とは思えない。
「……違うか」
努力して、できるようになったのだ。――ルイフォンのために。
部屋の隅にうずくまるようにして座り込んだリュイセンは、力なく顔を伏せる。肩で揃えられた髪が鋭利な刃物のように首筋をかすめると、いっそ、この首と引き替えに現状を打破できるならば、殺ってくれ……などと、彼らしくもないことを考えてしまう。
「畜生……!」
どうにかして、メイシアを無事にルイフォンのもとへ帰すのだ。
しかし、彼女が逃げたら、〈蝿〉はミンウェイの『秘密』をミンウェイに暴露するという。
つまりリュイセンは、自身が手引きすることもできなければ、外部からルイフォンが助けに来たとしても、それを阻止しなければならないのだ。
……故に。
リュイセンが採るべき道は決まっている。
――〈蝿〉を殺す。
〈蝿〉から情報を得ようとしているルイフォンには悪いが、仕方ない。
ミンウェイの『秘密』もろともに、〈蝿〉を葬り去るのだ。
そして同時に、リュイセンも姿を消す。
そうすれば、ミンウェイの『秘密』を知る者は誰もいなくなる。ミンウェイは何も知らぬままに、幸せに暮らすことができるだろう。
メイシアの脱出はタオロンに頼む。同じ館にいながら、互いに気まずくて顔を合わせていないが、彼になら任せられる。
〈蝿〉が死ねば、奴の脳波がスイッチだというファンルゥの腕輪の毒針は無効になる。
だから、メイシアを鷹刀一族の屋敷に送ったら、タオロンは父娘で草薙家に向かえばいい。予定とはだいぶ変わってしまったが、リュイセンの兄の一家は、きっと快く彼らを迎えてくれることだろう。
リュイセンは、昨晩、勝手に彼の部屋に入り込み、眠りこけていたファンルゥを思い出す。
どうやら彼女は、メイシアを元気づけようと展望塔に行っているらしい。思い切り叱りつけてしまったが、本当に優しい子だと思う。自由な生活を与えてやりたいと、切に願う。
そんなことをつらつらと考え、リュイセンは溜め息と共に肩を落とす。
彼が、〈蝿〉殺害に踏み切れない理由が、頭の中を駆け巡った。
『この手の話の定石だとは思いますが、もしも私が死ぬようなことがあれば、〈ベラドンナ〉のもとに彼女の『秘密』がもたらされるよう、仕掛けをしてあります』
『何をしたんだ?』
『私がそれを言うはずがないでしょう? 言う義理もありません』
リュイセンの野生の勘では、〈蝿〉の言葉がハッタリである確率は、半分。だが、残りの半分であった場合のために、身動きを取れない。
「――どうすればいいんだ、俺は……」
振り上げた拳が、力なく床を打つ。
ハッタリか、否か。――どちらなのか見極めようと、彼はミンウェイの『秘密』を告げられた日のことを思い返した……。
初夏とはいえ、月の支配下にある間はひやりと冷たい外壁が、ゆっくりと熱を蓄えていく。
するすると滑らかな音を立てるようにして闇の緞帳が引き払われ、菖蒲の庭園は光に満ちた夜明けを迎えた。
「朝……」
展望塔の最上階、展望室にいる囚われのメイシアもまた、目を覚ます。
長い睫毛を瞬かせ、枕元にある愛用の携帯端末を瞳に映した。
昨日の出来ごとは夢ではなかったのだと実感し、彼女はほっと息を吐く。和らいだ顔は徐々にほころび、微笑みに変わった。
この端末は、小さなファンルゥの温かな手から受け取った。タオロンや情報屋のトンツァイ、娼館のシャオリエとスーリン……たくさんの人々の助けによって、メイシアのもとに届けられた。皆への感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。
まだ離れ離れだけれど、電波という見えない糸でルイフォンと繋がった。
そして、この庭園から抜け出すための道が決まった――。
メイシアはベッドから半身を起こし、ぐっと気を引き締める。
凛と輝く黒曜石の瞳で、遥かなルイフォンを見つめる。
それから彼女は携帯端末を手に取り、今日の日付けを確認した。
日時を示すものが手元にはそれしかないからであるが、ルイフォンみたいだな、と思う。カレンダーや時計があっても、携帯端末を頼みとするのが彼の習慣なのだ。
まるでルイフォンと一心同体。そう思ってから、乙女心あふれる発想に赤面しつつも、やはり嬉しく、なんとなく誇らしい。
「今日から、三日の間に……」
携帯端末に表示された日付けを見つめ、メイシアは呟く。
ルイフォンが、ミンウェイは『母親』のクローンであるという証拠を手に入れ、リュイセンを解放するために行動できる時間は、三日間。それが、タイムリミットだ。
彼は今日、生前のヘイシャオが使っていた研究室に、証拠を探しに行く。うまくすれば、三日も必要とせずに、そこですぐに決着がつくかもしれない。
自然に頬が緩んできて、メイシアは慌てて表情を引き締めた。
油断は禁物。明るい顔を見せれば、〈蝿〉が不審に思うことだろう。それはいけない。〈蝿〉には何も気取られてはならないのだ。
気持ちを切り替えるべく、彼女はベッドを出て、顔を洗いに行った。
朝食を終えると、メイシアは『ライシェン』との対面のため、リュイセンに連れられ、展望塔から館の地下研究室へと移動する。
それが、定められた日課となっていた。
世話係となったリュイセンは、日に何度か――主に食事のときに、メイシアのいる展望室を訪れた。彼は常にうつむき加減で、彼女から目をそらした。合わせる顔がない、ということなのだろう。
メイシアとしては、本当はリュイセンにいろいろと打ち明けたかった。
タオロンが味方になったことや、ルイフォンと連絡が取れるようになったこと。何より、この庭園を出るために、リュイセンには重要な役割を担ってほしいことを……。
しかし、現状では『敵』であるリュイセンには何も知らせないでおこう、とルイフォンと決めていた。すぐに『味方』に戻すから、それまでは――と。
何故なら、リュイセンは気配を消すのは得意であるのに、感情を隠すのは下手なのだ。彼の挙動から、〈蝿〉が疑念を抱く可能性がある。不測の事態は、いつどこで何が原因で起こるか分からない。慎重であるべきなのだ。
メイシアは、リュイセンのあとについて館に入り、闇に呑み込まれるような地下への階段を降りた。そして研究室の扉の前で、そっぽを向いたままの彼に声を掛ける。ほんの少しでいいから、こちらを向いてほしいと願いながら。
「リュイセン、ありがとう。また、あとで」
「……また、あとで」
独り言のような低い呟きが、かろうじてメイシアの耳に届いた。
リュイセンは、くるりと踵を返し、去っていく。大柄な彼の背中はどこか丸く、弱りきっているように見えた。
「お待ちしていましたよ」
薄暗い地下通路から一転し、明るく清潔な研究室に入れば、白衣の裾を翻し、〈蝿〉がメイシアを迎える。
メイシアは黙って奥に進んだ。衝立で仕切られた向こう側に『ライシェン』がいるのだ。
逆らうことは無駄とばかりの、従順な様子の彼女に〈蝿〉は薄笑いを浮かべる。
「『ライシェン』は、いつ『誕生』しても構わないくらいに成長しました。そろそろ凍結保存の時期です。――あなたから『鷹刀セレイエ』のことを聞けたら、処置を施そうと思っているのですよ」
『セレイエ』に揺さぶりをかけるなら、凍結された仮死状態よりも、時々、寝返りを打ちながら愛らしく眠っている姿のほうが効果的であろう。
だから、わざわざ待ってやっているのだ。早く、すべての『セレイエ』の記憶を手に入れろ。――暗にそう言っている。
言葉の端々から、高慢な態度が見え隠れしていた。
「……」
静かな黒曜石の瞳で、メイシアは〈蝿〉を見つめた。いつもなら、恐怖と憎悪を感じる〈蝿〉の顔が、今日は哀れな亡者に映った。
彼にはもう、未来はない。
他ならぬメイシアが、彼を屠るための死神を呼び寄せた。
〈蝿〉のしたことを思えば、それは決して間違いではない。そう言い切れるだけの怨嗟が、メイシアの中には確かにある。
それでも、見えない死神の鎌が彼の首筋に狙いを定めているのを感じると、彼女の胸は締め付けられるように痛んだ。
何故なら、彼女の中には、セレイエの記憶が――正確には『セレイエの記憶』と、セレイエの〈影〉となり、『デヴァイン・シンフォニア計画』の水先案内人として奔走していた『ホンシュアの記憶』がある。
『ホンシュアの記憶』に依れば、ホンシュアは、打ち捨てられたような古い研究室で、大型の硝子ケースを見つけた。
その中には、『ヘイシャオ』と『ミンウェイ』の二体の肉体が仲睦まじく眠っていた。ひと目見て、彼らは『対』であるのだとホンシュアは理解した。
それが分かっていても、ホンシュアは二体を――ふたりを引き離し、『ヘイシャオ』だけを目覚めさせた。『ライシェン』の目を見えるようにするためには、どうしても天才医師〈蝿〉の技術が必要だったから……。
〈蝿〉が『生き返った』のは、ホンシュアの――セレイエの身勝手な都合のためだ。
そうして『生』を享けた彼は、ホンシュアの嘘に翻弄されてイーレオの命を狙い、その過程でさまざまな人々の恨みを買い、その結果、メイシアの手引きする死神に『死』を与えられようとしている。
彼自身は、強く『生』を望んでいるのに。
『私は――いえ、オリジナルの『鷹刀ヘイシャオ』は、ミンウェイと約束を交わしました。『生を享けた以上、生をまっとうする』――これは、『私』にとって絶対の誓約です』
メイシアの脳裏に、矜持にあふれた〈蝿〉の昏い美貌が蘇る。
「……」
〈蝿〉は父の仇だ。
絶対に許すことはできない。
――けれど。
『尊厳は守ってやりたい』と言ったイーレオの気持ちが、今なら分かる気がする。
〈蝿〉もまた、『デヴァイン・シンフォニア計画』の犠牲者なのだから……。
「どうかしました?」
思考の海に沈んでいたメイシアを、〈蝿〉の声が呼び戻す。
「いえ、なんでもありません」
培養液に身を委ね、白金の髪を踊らせる美しい赤子に目を向けながら、メイシアはふと思う。
〈蝿〉がセレイエを探しているのは、セレイエを利用して自分が『生き残る』ためだ。なのに、オリジナルのヘイシャオは、自ら『生』を手放したという。
『鷹刀ヘイシャオが、自殺などするはずがないのです。彼が自ら『死』を望むなど、あり得ない!』
『ええ、私も馬鹿ではありません。分かっていますよ。――私の持つ記憶が保存された時点から、オリジナルの鷹刀ヘイシャオが死ぬまでの間に、彼が心変わりするような事件があった、ということでしょう』
耳の中で、〈蝿〉の叫びが木霊する。
『生』を望む〈蝿〉と、『死』を求めたオリジナルのヘイシャオ。
このふたりの違いは、持っている記憶の時差だ。
では、『生』から『死』へと心変わりするような事件とは、いったい――?
「…………」
〈蝿〉は憎き仇だ。
これ以上、彼について考える必要はない。
彼に『死』が与えられれば、すべては無となる。この疑問を解くことに意味はない。
メイシアはそう思い……、しかし、心の中に小さなしこりを感じていた。
そして。
一方、リュイセンは――。
メイシアを〈蝿〉の地下研究室に送り届けたのち、割り当てられた部屋へと足早に戻っていた。
別に、急ぐ理由があるわけではない。ただ、途中ですれ違う〈蝿〉の私兵たちの視線が、好奇と畏怖の入り混じった不快なものであるからだ。
リュイセンの顔立ちが〈蝿〉そっくりであるのだから当然といえよう。叔父と甥の関係であると言ったかどうかは忘れたが、〈蝿〉が彼を特別扱いをしていることは自明である。
最近では、メイシアの世話係となったことが、やっかみの対象であるらしい。
何故そんなことが? と、初めは疑問に思ったのだが、展望塔と地下研究室を往復する彼女を遠巻きに見る、私兵たちの卑猥な目を見て得心がいった。リュイセンはメイシアの世話係――実は、逃亡を防ぐための見張りも兼ねていると〈蝿〉に言われているのだが、どちらかというと護衛の意味合いのほうが大きいようだった。
部屋にたどり着き、リュイセンは乱暴に扉を閉める。
このあとは、昼前にメイシアを迎えに行くまで特にやることがない。
世話係としては、彼女がいない間に掃除でもしておくべきなのかもしれないが、女性の部屋に勝手に出入りをするのは非常識な気がした。そもそも、メイド見習いで鍛えた彼女は、彼よりも、よほど身の回りのことを器用にこなすのだ。その手際は、とても、もと貴族の箱入り娘とは思えない。
「……違うか」
努力して、できるようになったのだ。――ルイフォンのために。
部屋の隅にうずくまるようにして座り込んだリュイセンは、力なく顔を伏せる。肩で揃えられた髪が鋭利な刃物のように首筋をかすめると、いっそ、この首と引き替えに現状を打破できるならば、殺ってくれ……などと、彼らしくもないことを考えてしまう。
「畜生……!」
どうにかして、メイシアを無事にルイフォンのもとへ帰すのだ。
しかし、彼女が逃げたら、〈蝿〉はミンウェイの『秘密』をミンウェイに暴露するという。
つまりリュイセンは、自身が手引きすることもできなければ、外部からルイフォンが助けに来たとしても、それを阻止しなければならないのだ。
……故に。
リュイセンが採るべき道は決まっている。
――〈蝿〉を殺す。
〈蝿〉から情報を得ようとしているルイフォンには悪いが、仕方ない。
ミンウェイの『秘密』もろともに、〈蝿〉を葬り去るのだ。
そして同時に、リュイセンも姿を消す。
そうすれば、ミンウェイの『秘密』を知る者は誰もいなくなる。ミンウェイは何も知らぬままに、幸せに暮らすことができるだろう。
メイシアの脱出はタオロンに頼む。同じ館にいながら、互いに気まずくて顔を合わせていないが、彼になら任せられる。
〈蝿〉が死ねば、奴の脳波がスイッチだというファンルゥの腕輪の毒針は無効になる。
だから、メイシアを鷹刀一族の屋敷に送ったら、タオロンは父娘で草薙家に向かえばいい。予定とはだいぶ変わってしまったが、リュイセンの兄の一家は、きっと快く彼らを迎えてくれることだろう。
リュイセンは、昨晩、勝手に彼の部屋に入り込み、眠りこけていたファンルゥを思い出す。
どうやら彼女は、メイシアを元気づけようと展望塔に行っているらしい。思い切り叱りつけてしまったが、本当に優しい子だと思う。自由な生活を与えてやりたいと、切に願う。
そんなことをつらつらと考え、リュイセンは溜め息と共に肩を落とす。
彼が、〈蝿〉殺害に踏み切れない理由が、頭の中を駆け巡った。
『この手の話の定石だとは思いますが、もしも私が死ぬようなことがあれば、〈ベラドンナ〉のもとに彼女の『秘密』がもたらされるよう、仕掛けをしてあります』
『何をしたんだ?』
『私がそれを言うはずがないでしょう? 言う義理もありません』
リュイセンの野生の勘では、〈蝿〉の言葉がハッタリである確率は、半分。だが、残りの半分であった場合のために、身動きを取れない。
「――どうすればいいんだ、俺は……」
振り上げた拳が、力なく床を打つ。
ハッタリか、否か。――どちらなのか見極めようと、彼はミンウェイの『秘密』を告げられた日のことを思い返した……。