残酷な描写あり
5.幽明の狭間に落つる慟哭-2
〈蝿〉は、メイシアに椅子に座るよう、目線で促した。それから、彼自身も作業机から椅子を運んできて、彼女と向き合うようにして腰を下ろす。
「それで、いったいどこから、とうの昔に死んだミンウェイの記憶を掻き集めるというのですか?」
嘲るような口調だった。
けれど、いつものような高飛車な威圧感はない。
メイシアを論破して、あり得ない夢物語を騙った彼女に鉄槌を下してやろうと意気込んでいるような、そうでなければならないのだと強迫観念に駆り立てられているような、そんな心の揺らぎが垣間見えた。
『『亡くなった、あなたの奥様』を生き返らせることができます』
それは、どんなに胡散臭くとも、〈蝿〉にとっては甘美な誘惑以外、何ものでもないだろう。だから、深い猜疑の眼差しの中に、すがるような惑いが混ざる。
彼の反応は、まさにメイシアの思惑通り。
しかし、だからこそ罪悪感が彼女を襲う。
この場を乗り切るためだけに、〈蝿〉の心のもっとも弱く、純粋なところを衝くのだ。得体のしれない恐怖が胸を占め、声が詰まる。
「小娘。私は訊いているのですよ? それとも、やはり嘘だったということですか?」
〈蝿〉が先を急かすのは、彼の気持ちに余裕がないから。めったにないことだ。ひるんでいる場合ではない。
彼女は意を決し、掌を握りしめながら恐る恐る口を開いた。
「〈冥王〉……です」
「――!」
刹那、〈蝿〉の顔つきが明らかに変わった。突き刺すような視線で、メイシアの顔を凝視する。
彼女は早鐘を打つ心臓を押さえ、すかさず言を継いだ。
「〈蝿〉……、あなたも〈悪魔〉なら、創世神話の真実を知っているのでしょう?」
「創世神話の……真実」
繰り返された〈蝿〉の声は、あまりにも低くて感情の色が見えない。
恐ろしいほどに張り詰めた空気を肌で感じながら、メイシアは努めて平然を保ち、畳み掛ける。
「すべての人の記憶は〈冥王〉に集約されます。ならば、亡くなった奥様の記憶は、今も〈冥王〉の中に残っているはずです」
〈蝿〉の喉仏が、こくりと動いた。
「……あなたの中には、本当に『鷹刀セレイエ』がいるのですね」
その呟きは、メイシアとの受け答えからは少しずれていた。だから、おそらくは独白だったのだろう。
もしかしたら彼は、メイシアがセレイエの記憶を得たことすら半信半疑だったのかもしれない。そこに、一部の王族か、〈悪魔〉しか知り得ないことを口にしたことで、彼女の中のセレイエを――〈悪魔〉の〈蛇〉を確信したのだ。
〈蝿〉は、おもむろに腕を組み、椅子の背にもたれて思案を始めた。
肘に回された長い指先が、苛々と小刻みに白衣を叩く。眉間には深い皺が刻まれ、美麗な顔は不機嫌にしかめられていた。
ふたりの間に、重い沈黙が訪れる。
メイシアは、固唾を呑んで〈蝿〉の様子を見守る。
彼女が話した情報は、すべて真実だ。だが、彼がそれを信じ、乗ってくるか否か――。
別に取り引きが成立しなくてもいいのだ。ただ、ひとこと『少し、検討させてください』と言わせることができればいい。
そうなれば、メイシアは自白剤を投与されることなく展望室に戻される。昼食のあとのひとりきりの時間に、ルイフォンと連絡を取れる。タオロンに〈蝿〉の暗殺を依頼できる……。
メイシアの心臓が、激しく脈打った。
額にはうっすらと汗が浮かび、目眩がしそうになる。
今ここで、〈蝿〉をその気にさせなければならない。
……けれど、それがうまくいったところで、リュイセンを解放し、彼を味方に迎えて〈蝿〉を討つというルイフォンが目指した道は、もはや、たどることができないのだ。
口の中に、苦い味が広がる……。
「――なるほど」
不意に、〈蝿〉の声が響いた。忙しなく動いていた指先が、ぴたりと動きを止める。
彼が口角を上げ、次の瞬間、弾かれたような哄笑が沸き起こった。
「〈蝿〉!?」
メイシアは狼狽する。
「私としたことが、あなたに惑わされるところでした」
ひとしきり嗤ったあと、彼は落ち着き払った低音で告げた。
「……ど、どういうことですか……!」
メイシアの問いかけに、しかし〈蝿〉は直接的には答えずに、薄ら笑いを浮かべる。
「そうですね。確かに〈冥王〉ならば、ミンウェイの記憶が残されているでしょう。可能性を示してくださったあなたには感謝いたします」
〈蝿〉は大仰に頷いてみせてから、演技じみた仕草で肩をすくめる。
「しかし、膨大な記憶を保持する〈冥王〉の中から、ミンウェイの記憶だけを選んで取り出すのは、砂漠の中から一粒の砂を拾い上げるようなものです。現実的ではありませんね」
「ですが! 事実として、セレイエさんは〈冥王〉の中からライシェンの記憶を手に入れたんです!」
「ほぅ?」
揶揄するように〈蝿〉が相槌を打つ。
「本当です! 並の〈天使〉では到底、不可能ですが、王族の血を引くセレイエさんには可能でした。そして、それなら、より濃い王族の血を引く私が〈天使〉になれば……」
そう言いかけたところで、〈蝿〉は『掛かったな』とばかりに、にやりと目を細め、メイシアの言葉を遮った。
「ええ、そうですね。つまり、『鷹刀セレイエ』と『〈天使〉になった、あなた』――どちらでも、ミンウェイの記憶を手に入れることができる、というわけですね」
「え?」
「ならば私は、あなたからは鷹刀セレイエの居場所を聞き出すにとどめ、ミンウェイの記憶に関しては鷹刀セレイエと取り引きしますよ。彼女には、ライシェンの記憶を手に入れた実績があるそうですしね」
「――っ、そんな……」
メイシアの顔が凍りつく。
〈蝿〉は満足げに口の端を上げ、喉の奥で冷たく嗤った。
「お忘れですか? そもそも私は、自分の身の安全を確保するために、鷹刀セレイエを探しているのです。もしもミンウェイが生き返るのだとしても、私の命が狙われているような状況では、傍にいる彼女も危険に晒されます。それは望ましくありません」
彼は、できの悪い弟子を諭すかのように雄弁に語る。
「まずは鷹刀セレイエを見つけ出し、私の安全を保証させる。それから、ミンウェイを蘇らせる。この順番を間違えてはいけませんよ」
「……!」
〈蝿〉の言う通りだった。
〈悪魔〉としての知識のある彼は、〈冥王〉に記憶が残されているというメイシアの弁を真っ向から否定しているわけではない。
むしろ、信じている。
その証拠に、幽鬼のようだった頬には赤みが差し、冷酷な瞳の奥は、ぎらつく生気で満たされている。
だが、話は信じても、話に乗ってこなかった……。
メイシアの背中を冷たい汗が滑り落ちる。
「勿論、あなたにも役に立ってもらいますよ。あなたは鷹刀セレイエに対する大事な切り札なのですから」
ねとつくような目線で、〈蝿〉はメイシアを舐める。
「それよりも素朴な疑問なのですが、あなたは本当に〈天使〉になる覚悟ができていたのですか?」
「……え?」
「どうせ口先だけなのでしょう?」
見透かされていた。
メイシアは無意識に自分の体を掻き抱く。
「別に答えなくて構いませんよ。口でなら、どうとでも言えますからね。――それに、前にも言ったと思いますが、私はあなたを〈天使〉にする気はありません。そんな危険なこと、できるわけがないでしょう?」
「危険……?」
メイシアが目を瞬かせると、〈蝿〉はやれやれとばかりに、わざとらしい溜め息をつく。
「〈天使〉とは、人を操る化け物です。しかも、濃い王族の血と、鷹刀セレイエの知識を持つあなたなら、およそ熱暴走とは無縁の『最強の〈天使〉』になるのでしょう? 〈天使〉となったあなたの前には、私などひとたまりもありません」
そこで〈蝿〉は何を思ったのか、ふっと遠い目をした。
「現に、私の同僚だった〈蠍〉という〈悪魔〉は、研究対象だった実験体の〈天使〉に反抗され、殺されています。――そう、鷹刀セレイエとあの子猫の母親ですよ。その後、エルファンが彼女を鷹刀に連れて行き……、巡り巡って、今があるというわけです」
言葉の途中で、〈蝿〉の顔が寂寥を帯びた。言い終えてから、彼は余計なことを言ったと首を振り、「話を戻しましょう」と告げる。
「あなたの要求は、あの子猫のもとに帰りたい――ですね?」
メイシアは呆然としながらも、こくりと頷く。駆け引きなどとは関係なく、それは間違いなく真実だった。
「ならば、私に協力してください」
「……協力?」
「ええ。私の要求は、初めからずっと同じです。――私を鷹刀セレイエに会わせてください」
「……」
「鷹刀セレイエとの交渉の中で、私は勿論、あなたを切り札として使います。けれど心配しなくとも、最終的には、あなたの身柄は子猫のもとに引き渡されることになるはずですよ」
「……どうして、そう言い切れるのですか?」
か細い声で尋ねるメイシアを〈蝿〉は鼻で笑う。
「私は鷹刀セレイエ本人には会ったことはありませんが、〈影〉であったホンシュアのことならば知っています」
彼は、ほんの少し前に詰め寄り、言い含めるようにメイシアの顔を見やる。
「いろいろと謀略を巡らせながらも、結局のところ、ホンシュアは甘さが抜けきりませんでした。ならば、『同一人物』である鷹刀セレイエも、同じく甘い性格であるはず。異父弟と恋仲になったあなたを見捨てるわけがありません」
確かに、メイシアの中の『セレイエ』も、情の深い人間だ。
濃い王族の血を引く者たちの中から、異父弟ルイフォンと共に『ライシェン』を守ってくれそうな娘として選んだメイシアを、大切に思ってくれているのを感じる。
けれど……。
「……セレイエさんは……既に、亡くなっています……」
ぽつりと、メイシアは漏らした。
この情報を明かすのは、吉か、凶か――。
賭けになるが、〈蝿〉が、交渉の相手はあくまでもセレイエだと言い張り、メイシアに取り合ってくれないのなら、セレイエへの道を閉ざすしかない。
「な……!」
〈蝿〉は目を見開いた。
「何をふざけたことを……!」
わなわなと唇を震わせる〈蝿〉に、メイシアは静かに告げる。
「ライシェンの記憶を集めたことによって、セレイエさんは限界を超え、熱暴走を起こしました。――あなたがさっきおっしゃっていた通り、私なら熱暴走とは無縁だったでしょう。けれどセレイエさんの中の王族の血は、そこまで濃くなかったんです」
「……!」
「セレイエさんは分かっていました。死者の記憶を集めるなんて無茶をすれば、命を落とす、って。――だからこそ、『デヴァイン・シンフォニア計画』の水先案内人として、『〈影〉のホンシュア』が必要だったんです」
「――っ!? 摂政に命を狙われているから、鷹刀セレイエは〈影〉にすべてを任せて、姿を消しているのでは……」
そう言ってから、「そんなことは、どうでもいい」と呟き、〈蝿〉は頭を振った。そして、メイシアの話に破綻を見出そうと、白髪頭を掻きむしる。
しばらくの間、うなるような声を上げていた〈蝿〉だが、急に、はっと思いついたように「小娘」と口を開いた。
「鷹刀セレイエが命を懸けて手に入れたという、ライシェンの記憶はどこにあるのですか?」
にたり、と。
笑んだ口元が、余裕を取り戻す。
「王族の血を引いた鷹刀セレイエの容量なら、自分の記憶以外に、ライシェンの記憶も保持できるでしょう。しかし、鷹刀セレイエの代わりとなった、水先案内人のホンシュアの肉体は一般人です。鷹刀セレイエとライシェン――ふたり分の記憶を持つことはできません。鷹刀セレイエが死ねば、ライシェンの記憶は失われることになります」
ほら、ほころびを見つけたと、〈蝿〉の顔が愉悦に歪む。
彼は、意気揚々として続ける。
「せっかく、ライシェンの記憶を手に入れても、肉体ができる前に失われてしまったら意味がありません。だいたい死んでしまったら、鷹刀セレイエは蘇ったライシェンと再会できないのですよ? ……本当は、どこかで生きているのでしょう?」
セレイエが死んだことにしたほうが、〈蝿〉と取り引きをしたいメイシアにとって都合がよい。だから、嘘をついているのだろうと、〈蝿〉は言っているのだ。
しかし、メイシアはゆっくりと頭を振った。
そして、自分の中にある、セレイエの切ない思いを噛み締め、吐き出すように告げる。
「セレイエさんは、亡くした息子に再び会いたいから生き返らせたいのではありません。理不尽に奪われた小さな命に、本来、与えられるはずだった幸せを届けたい。正しい未来を取り戻したい、そう願っているんです」
セレイエの望みは、妻との幸せな生活の続きを夢見た〈蝿〉とは異なる。
どちらがどう、ということはない。
どちらも、亡くした幸せを求めているだけだ……。
メイシアは、こみ上げてくる思いを飲み込み、〈蝿〉と対峙する。
情に流されてはいけない。
これは、〈蝿〉とメイシアの戦いなのだから――。
「あなたがおっしゃる通り、ホンシュアではライシェンの記憶を保持できません。だから、セレイエさんは亡くなる前に、別の人に預けたんです」
「ほう、別の人物に――ですか」
からかいを含んだ低音で語尾を跳ね上げ、〈蝿〉は尋ねる。
「確かに、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉なら、大手を振るって王宮に出入りできます。王族の血を引く者との接触も可能でしょう。――しかし、ライシェンが殺されたあとの鷹刀セレイエは、王宮のお尋ね者だったのではないですか? いったい誰に、ライシェンの記憶を預けるというのです?」
当然の質問に、メイシアの心臓が高鳴った。
胸の奥が熱くなる。
その名前は、とてもとても大切なもの――。
「ルイフォン」
「!」
〈蝿〉の眉がぴくりと上がった。
「セレイエさんは、ルイフォンに――彼女と同じく、わずかながらですが王族の血を引く異父弟に……、ライシェンの記憶を預けたんです。王宮とは無関係な異父弟のところなら安全だろう、と」
これこそが、ルイフォンが『デヴァイン・シンフォニア計画』に深く関わることになった理由。
ルイフォンは気づいていないけれど、彼の中に『ライシェン』が眠っている。
少女娼婦スーリンが目撃した、あのとき。セレイエは、異父弟にライシェンの記憶を預けたのだ。
「セレイエさんは、もういないんです。……ルイフォンに会ったあと、彼女は亡くなりました」
〈蝿〉の顔色が変わった。メイシアの弁を信じたのだ。
脅える自分を奮い立たせ、彼女は毅然と告げる。
「〈蝿〉、セレイエさんが亡くなっている以上、あなたは私と取り引きするしかありません」
彼は沈黙したまま、瞳だけをぎろりとメイシアに向けた。
メイシアは悲鳴をこらえ、懸命に訴える。
「おっしゃる通り、私は〈天使〉になるのは怖いですし、あなたも私が〈天使〉になることを望まない。ならば、どうしたら互いの利益になるのか、少し落ち着いて考えましょう」
答えは出なくていいのだ。
とにかく、この場を乗り切り、展望室に戻ることができれば……。
「小娘……」
地を轟かせるような〈蝿〉の声が研究室を揺らした。
「つまり、あなたは、鷹刀セレイエの行方を必死に求める私を、ずっと影で嘲笑っていた――ということですね!」
「――!?」
閃光の速さで、白衣の腕が、長い指先が伸ばされた。
身構える間もなく、メイシアは白い小首を〈蝿〉に絞め上げられた。
「それで、いったいどこから、とうの昔に死んだミンウェイの記憶を掻き集めるというのですか?」
嘲るような口調だった。
けれど、いつものような高飛車な威圧感はない。
メイシアを論破して、あり得ない夢物語を騙った彼女に鉄槌を下してやろうと意気込んでいるような、そうでなければならないのだと強迫観念に駆り立てられているような、そんな心の揺らぎが垣間見えた。
『『亡くなった、あなたの奥様』を生き返らせることができます』
それは、どんなに胡散臭くとも、〈蝿〉にとっては甘美な誘惑以外、何ものでもないだろう。だから、深い猜疑の眼差しの中に、すがるような惑いが混ざる。
彼の反応は、まさにメイシアの思惑通り。
しかし、だからこそ罪悪感が彼女を襲う。
この場を乗り切るためだけに、〈蝿〉の心のもっとも弱く、純粋なところを衝くのだ。得体のしれない恐怖が胸を占め、声が詰まる。
「小娘。私は訊いているのですよ? それとも、やはり嘘だったということですか?」
〈蝿〉が先を急かすのは、彼の気持ちに余裕がないから。めったにないことだ。ひるんでいる場合ではない。
彼女は意を決し、掌を握りしめながら恐る恐る口を開いた。
「〈冥王〉……です」
「――!」
刹那、〈蝿〉の顔つきが明らかに変わった。突き刺すような視線で、メイシアの顔を凝視する。
彼女は早鐘を打つ心臓を押さえ、すかさず言を継いだ。
「〈蝿〉……、あなたも〈悪魔〉なら、創世神話の真実を知っているのでしょう?」
「創世神話の……真実」
繰り返された〈蝿〉の声は、あまりにも低くて感情の色が見えない。
恐ろしいほどに張り詰めた空気を肌で感じながら、メイシアは努めて平然を保ち、畳み掛ける。
「すべての人の記憶は〈冥王〉に集約されます。ならば、亡くなった奥様の記憶は、今も〈冥王〉の中に残っているはずです」
〈蝿〉の喉仏が、こくりと動いた。
「……あなたの中には、本当に『鷹刀セレイエ』がいるのですね」
その呟きは、メイシアとの受け答えからは少しずれていた。だから、おそらくは独白だったのだろう。
もしかしたら彼は、メイシアがセレイエの記憶を得たことすら半信半疑だったのかもしれない。そこに、一部の王族か、〈悪魔〉しか知り得ないことを口にしたことで、彼女の中のセレイエを――〈悪魔〉の〈蛇〉を確信したのだ。
〈蝿〉は、おもむろに腕を組み、椅子の背にもたれて思案を始めた。
肘に回された長い指先が、苛々と小刻みに白衣を叩く。眉間には深い皺が刻まれ、美麗な顔は不機嫌にしかめられていた。
ふたりの間に、重い沈黙が訪れる。
メイシアは、固唾を呑んで〈蝿〉の様子を見守る。
彼女が話した情報は、すべて真実だ。だが、彼がそれを信じ、乗ってくるか否か――。
別に取り引きが成立しなくてもいいのだ。ただ、ひとこと『少し、検討させてください』と言わせることができればいい。
そうなれば、メイシアは自白剤を投与されることなく展望室に戻される。昼食のあとのひとりきりの時間に、ルイフォンと連絡を取れる。タオロンに〈蝿〉の暗殺を依頼できる……。
メイシアの心臓が、激しく脈打った。
額にはうっすらと汗が浮かび、目眩がしそうになる。
今ここで、〈蝿〉をその気にさせなければならない。
……けれど、それがうまくいったところで、リュイセンを解放し、彼を味方に迎えて〈蝿〉を討つというルイフォンが目指した道は、もはや、たどることができないのだ。
口の中に、苦い味が広がる……。
「――なるほど」
不意に、〈蝿〉の声が響いた。忙しなく動いていた指先が、ぴたりと動きを止める。
彼が口角を上げ、次の瞬間、弾かれたような哄笑が沸き起こった。
「〈蝿〉!?」
メイシアは狼狽する。
「私としたことが、あなたに惑わされるところでした」
ひとしきり嗤ったあと、彼は落ち着き払った低音で告げた。
「……ど、どういうことですか……!」
メイシアの問いかけに、しかし〈蝿〉は直接的には答えずに、薄ら笑いを浮かべる。
「そうですね。確かに〈冥王〉ならば、ミンウェイの記憶が残されているでしょう。可能性を示してくださったあなたには感謝いたします」
〈蝿〉は大仰に頷いてみせてから、演技じみた仕草で肩をすくめる。
「しかし、膨大な記憶を保持する〈冥王〉の中から、ミンウェイの記憶だけを選んで取り出すのは、砂漠の中から一粒の砂を拾い上げるようなものです。現実的ではありませんね」
「ですが! 事実として、セレイエさんは〈冥王〉の中からライシェンの記憶を手に入れたんです!」
「ほぅ?」
揶揄するように〈蝿〉が相槌を打つ。
「本当です! 並の〈天使〉では到底、不可能ですが、王族の血を引くセレイエさんには可能でした。そして、それなら、より濃い王族の血を引く私が〈天使〉になれば……」
そう言いかけたところで、〈蝿〉は『掛かったな』とばかりに、にやりと目を細め、メイシアの言葉を遮った。
「ええ、そうですね。つまり、『鷹刀セレイエ』と『〈天使〉になった、あなた』――どちらでも、ミンウェイの記憶を手に入れることができる、というわけですね」
「え?」
「ならば私は、あなたからは鷹刀セレイエの居場所を聞き出すにとどめ、ミンウェイの記憶に関しては鷹刀セレイエと取り引きしますよ。彼女には、ライシェンの記憶を手に入れた実績があるそうですしね」
「――っ、そんな……」
メイシアの顔が凍りつく。
〈蝿〉は満足げに口の端を上げ、喉の奥で冷たく嗤った。
「お忘れですか? そもそも私は、自分の身の安全を確保するために、鷹刀セレイエを探しているのです。もしもミンウェイが生き返るのだとしても、私の命が狙われているような状況では、傍にいる彼女も危険に晒されます。それは望ましくありません」
彼は、できの悪い弟子を諭すかのように雄弁に語る。
「まずは鷹刀セレイエを見つけ出し、私の安全を保証させる。それから、ミンウェイを蘇らせる。この順番を間違えてはいけませんよ」
「……!」
〈蝿〉の言う通りだった。
〈悪魔〉としての知識のある彼は、〈冥王〉に記憶が残されているというメイシアの弁を真っ向から否定しているわけではない。
むしろ、信じている。
その証拠に、幽鬼のようだった頬には赤みが差し、冷酷な瞳の奥は、ぎらつく生気で満たされている。
だが、話は信じても、話に乗ってこなかった……。
メイシアの背中を冷たい汗が滑り落ちる。
「勿論、あなたにも役に立ってもらいますよ。あなたは鷹刀セレイエに対する大事な切り札なのですから」
ねとつくような目線で、〈蝿〉はメイシアを舐める。
「それよりも素朴な疑問なのですが、あなたは本当に〈天使〉になる覚悟ができていたのですか?」
「……え?」
「どうせ口先だけなのでしょう?」
見透かされていた。
メイシアは無意識に自分の体を掻き抱く。
「別に答えなくて構いませんよ。口でなら、どうとでも言えますからね。――それに、前にも言ったと思いますが、私はあなたを〈天使〉にする気はありません。そんな危険なこと、できるわけがないでしょう?」
「危険……?」
メイシアが目を瞬かせると、〈蝿〉はやれやれとばかりに、わざとらしい溜め息をつく。
「〈天使〉とは、人を操る化け物です。しかも、濃い王族の血と、鷹刀セレイエの知識を持つあなたなら、およそ熱暴走とは無縁の『最強の〈天使〉』になるのでしょう? 〈天使〉となったあなたの前には、私などひとたまりもありません」
そこで〈蝿〉は何を思ったのか、ふっと遠い目をした。
「現に、私の同僚だった〈蠍〉という〈悪魔〉は、研究対象だった実験体の〈天使〉に反抗され、殺されています。――そう、鷹刀セレイエとあの子猫の母親ですよ。その後、エルファンが彼女を鷹刀に連れて行き……、巡り巡って、今があるというわけです」
言葉の途中で、〈蝿〉の顔が寂寥を帯びた。言い終えてから、彼は余計なことを言ったと首を振り、「話を戻しましょう」と告げる。
「あなたの要求は、あの子猫のもとに帰りたい――ですね?」
メイシアは呆然としながらも、こくりと頷く。駆け引きなどとは関係なく、それは間違いなく真実だった。
「ならば、私に協力してください」
「……協力?」
「ええ。私の要求は、初めからずっと同じです。――私を鷹刀セレイエに会わせてください」
「……」
「鷹刀セレイエとの交渉の中で、私は勿論、あなたを切り札として使います。けれど心配しなくとも、最終的には、あなたの身柄は子猫のもとに引き渡されることになるはずですよ」
「……どうして、そう言い切れるのですか?」
か細い声で尋ねるメイシアを〈蝿〉は鼻で笑う。
「私は鷹刀セレイエ本人には会ったことはありませんが、〈影〉であったホンシュアのことならば知っています」
彼は、ほんの少し前に詰め寄り、言い含めるようにメイシアの顔を見やる。
「いろいろと謀略を巡らせながらも、結局のところ、ホンシュアは甘さが抜けきりませんでした。ならば、『同一人物』である鷹刀セレイエも、同じく甘い性格であるはず。異父弟と恋仲になったあなたを見捨てるわけがありません」
確かに、メイシアの中の『セレイエ』も、情の深い人間だ。
濃い王族の血を引く者たちの中から、異父弟ルイフォンと共に『ライシェン』を守ってくれそうな娘として選んだメイシアを、大切に思ってくれているのを感じる。
けれど……。
「……セレイエさんは……既に、亡くなっています……」
ぽつりと、メイシアは漏らした。
この情報を明かすのは、吉か、凶か――。
賭けになるが、〈蝿〉が、交渉の相手はあくまでもセレイエだと言い張り、メイシアに取り合ってくれないのなら、セレイエへの道を閉ざすしかない。
「な……!」
〈蝿〉は目を見開いた。
「何をふざけたことを……!」
わなわなと唇を震わせる〈蝿〉に、メイシアは静かに告げる。
「ライシェンの記憶を集めたことによって、セレイエさんは限界を超え、熱暴走を起こしました。――あなたがさっきおっしゃっていた通り、私なら熱暴走とは無縁だったでしょう。けれどセレイエさんの中の王族の血は、そこまで濃くなかったんです」
「……!」
「セレイエさんは分かっていました。死者の記憶を集めるなんて無茶をすれば、命を落とす、って。――だからこそ、『デヴァイン・シンフォニア計画』の水先案内人として、『〈影〉のホンシュア』が必要だったんです」
「――っ!? 摂政に命を狙われているから、鷹刀セレイエは〈影〉にすべてを任せて、姿を消しているのでは……」
そう言ってから、「そんなことは、どうでもいい」と呟き、〈蝿〉は頭を振った。そして、メイシアの話に破綻を見出そうと、白髪頭を掻きむしる。
しばらくの間、うなるような声を上げていた〈蝿〉だが、急に、はっと思いついたように「小娘」と口を開いた。
「鷹刀セレイエが命を懸けて手に入れたという、ライシェンの記憶はどこにあるのですか?」
にたり、と。
笑んだ口元が、余裕を取り戻す。
「王族の血を引いた鷹刀セレイエの容量なら、自分の記憶以外に、ライシェンの記憶も保持できるでしょう。しかし、鷹刀セレイエの代わりとなった、水先案内人のホンシュアの肉体は一般人です。鷹刀セレイエとライシェン――ふたり分の記憶を持つことはできません。鷹刀セレイエが死ねば、ライシェンの記憶は失われることになります」
ほら、ほころびを見つけたと、〈蝿〉の顔が愉悦に歪む。
彼は、意気揚々として続ける。
「せっかく、ライシェンの記憶を手に入れても、肉体ができる前に失われてしまったら意味がありません。だいたい死んでしまったら、鷹刀セレイエは蘇ったライシェンと再会できないのですよ? ……本当は、どこかで生きているのでしょう?」
セレイエが死んだことにしたほうが、〈蝿〉と取り引きをしたいメイシアにとって都合がよい。だから、嘘をついているのだろうと、〈蝿〉は言っているのだ。
しかし、メイシアはゆっくりと頭を振った。
そして、自分の中にある、セレイエの切ない思いを噛み締め、吐き出すように告げる。
「セレイエさんは、亡くした息子に再び会いたいから生き返らせたいのではありません。理不尽に奪われた小さな命に、本来、与えられるはずだった幸せを届けたい。正しい未来を取り戻したい、そう願っているんです」
セレイエの望みは、妻との幸せな生活の続きを夢見た〈蝿〉とは異なる。
どちらがどう、ということはない。
どちらも、亡くした幸せを求めているだけだ……。
メイシアは、こみ上げてくる思いを飲み込み、〈蝿〉と対峙する。
情に流されてはいけない。
これは、〈蝿〉とメイシアの戦いなのだから――。
「あなたがおっしゃる通り、ホンシュアではライシェンの記憶を保持できません。だから、セレイエさんは亡くなる前に、別の人に預けたんです」
「ほう、別の人物に――ですか」
からかいを含んだ低音で語尾を跳ね上げ、〈蝿〉は尋ねる。
「確かに、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉なら、大手を振るって王宮に出入りできます。王族の血を引く者との接触も可能でしょう。――しかし、ライシェンが殺されたあとの鷹刀セレイエは、王宮のお尋ね者だったのではないですか? いったい誰に、ライシェンの記憶を預けるというのです?」
当然の質問に、メイシアの心臓が高鳴った。
胸の奥が熱くなる。
その名前は、とてもとても大切なもの――。
「ルイフォン」
「!」
〈蝿〉の眉がぴくりと上がった。
「セレイエさんは、ルイフォンに――彼女と同じく、わずかながらですが王族の血を引く異父弟に……、ライシェンの記憶を預けたんです。王宮とは無関係な異父弟のところなら安全だろう、と」
これこそが、ルイフォンが『デヴァイン・シンフォニア計画』に深く関わることになった理由。
ルイフォンは気づいていないけれど、彼の中に『ライシェン』が眠っている。
少女娼婦スーリンが目撃した、あのとき。セレイエは、異父弟にライシェンの記憶を預けたのだ。
「セレイエさんは、もういないんです。……ルイフォンに会ったあと、彼女は亡くなりました」
〈蝿〉の顔色が変わった。メイシアの弁を信じたのだ。
脅える自分を奮い立たせ、彼女は毅然と告げる。
「〈蝿〉、セレイエさんが亡くなっている以上、あなたは私と取り引きするしかありません」
彼は沈黙したまま、瞳だけをぎろりとメイシアに向けた。
メイシアは悲鳴をこらえ、懸命に訴える。
「おっしゃる通り、私は〈天使〉になるのは怖いですし、あなたも私が〈天使〉になることを望まない。ならば、どうしたら互いの利益になるのか、少し落ち着いて考えましょう」
答えは出なくていいのだ。
とにかく、この場を乗り切り、展望室に戻ることができれば……。
「小娘……」
地を轟かせるような〈蝿〉の声が研究室を揺らした。
「つまり、あなたは、鷹刀セレイエの行方を必死に求める私を、ずっと影で嘲笑っていた――ということですね!」
「――!?」
閃光の速さで、白衣の腕が、長い指先が伸ばされた。
身構える間もなく、メイシアは白い小首を〈蝿〉に絞め上げられた。