残酷な描写あり
6.障壁に穿たれた穴-4
『ミンウェイ! ヘイシャオの報告書を手に入れた。――一緒に見る……で、いいよな?』
――そう言って回転椅子を半回転させ、後ろを向いたルイフォンが目にしたのは、ぎこちない動きで唾を嚥下した、ミンウェイの白い喉だった。
ルイフォンの仕事部屋と同じく窓のないこの部屋は、自然光は入ってこないものの、電灯によって充分な明るさが確保されている。だから、彼女の頬が青白く見えるのは、決して彼の気のせいではないだろう。
そしてまた、ルイフォン自身も同じ顔色をしていた。――彼のすぐ前にある、モニタ画面の反射のせいではなく。
彼らの間を占めるのは、空調からの送風音と、機械類の低いうなり。
ミンウェイの唇が動いたが、声にはならない。
それでも彼女はゆっくりと、しかし間違いなく頷いた。その証拠に、柔らかな草の香りが漂う。
ルイフォンは、モニタの近くに椅子を寄せるよう彼女を促し、緊張に震える指先でヘイシャオの報告書のファイルを開いた。
――――…………。
「ルイフォン、この部屋か?」
扉の開く音と共に、廊下からの自然の風と、エルファンの低い声が流れ込んできた。
「やはり、ここだったか」
探していた背中を認めたエルファンが、独り言つように呟く。彼は、そのまま歩を進めようとして……、途中で足を止めた。
ルイフォンの後ろ姿に、崩れ落ちそうな危うさを感じたのだ。丸い猫背はいつものことだが、あの過剰なまでに自信に満ちた覇気が消えていた。
「ルイフォン……?」
エルファンの呼びかけに、ルイフォンは回転椅子をきしませ、ゆっくりと振り返った。
そして、母親譲りの癖の強い前髪の隙間から、これまた母親そっくりの猫の目でエルファンを見上げる。
「――エルファン。……地下は、もういいのか?」
ルイフォンの硬質な声には、感情が載っていなかった。その表情は、無機質な〈猫〉の顔つきとは微妙に異なり、言うなれば、放心したような顔だった。
エルファンは、とりあえず「ああ」と応じたものの、胸中で困惑が渦を巻く。
しかし彼は、まずはルイフォンが気になっているであろう、地下の様子を報告することにした。てっきり後ろから追いかけてくるものと思っていたふたりが、上階で侵入作業をすると連絡を寄越してきて、ばつの悪さと同時に、彼らの気遣いを感じていたのだ。
「ルイフォン、地下には巨大なコンピュータがあり、奥の小部屋には光の珠があった。珠は〈ベロ〉様のような強い光は発せず、眠るように静かに、ほのかな光を灯していた」
「そうか。……ありがとう」
素っ気ないまでに簡潔なエルファンの物言いに、かえって彼の深い想いを感じ、ルイフォンは口元をほころばせた。それを契機に、彼の顔にいつもの鮮やかな表情が戻ってくる。
「ま、俺が『手紙』の解析を終えていないんだから、そうなるよな。……けど、〈スー〉はここにいる。母さんが――な」
「……ああ」
氷が溶けたような温んだ面差しで、エルファンが頷く。
ルイフォンは、そんなエルファンに微笑を向け、それから、心を落ち着けるようにすぅっと息を吐きだした。
彼のまとう雰囲気が〈猫〉のものへと変わっていく――。
「俺のほうの報告をする」
近くの椅子に座るようエルファンに目線を送り、ルイフォンはモニタと向き合うべく、回転椅子を回す。背中で一本に編まれた髪が、それまでの空気を掻き消すかのように薙ぎ払われ、毛先を留めた飾り紐の中央で金の鈴が煌めいた。
そして彼は、報告書のファイルで埋め尽くされた、モニタ画面をエルファンに示す。
「こちらは〈七つの大罪〉のデータベースへの侵入に成功した」
「――!?」
はっきりと告げられた声に、エルファンが彼らしくもなく驚きもあらわに瞳を瞬かせた。
ルイフォンと――それから、先ほどから身じろぎひとつしないミンウェイの様子から、良くない知らせが来ると思っていたのだろう。
ならば何故、ふたりの様子が浮かないのか。
無表情なはずのエルファンの顔に、ありありと疑問が描かれる。
それはルイフォンの予想通りの反応で、だから彼は間髪を容れず、「結論から言う」と鋭く続けた。
「俺が求めていたような証拠は、存在しない」
「――存在しない……?」
訝しげに眉を上げながら、エルファンが言葉を繰り返す。
「ああ。ヘイシャオが、妻のために『病の因子を排除した、健康なクローン体』を完成させたのは真実だ。その報告書は見つかった。――けど、『育てている娘が、妻のクローン体であること』を示すものは、どこにもない。ヘイシャオが書面に残さなかったんだ」
そのとき、ルイフォンの隣でミンウェイがしゃくりあげた。
彼女は耐えるように口元を押さえ、肩を震わせる。けれど、話を続けようとしたルイフォンを制し、「私に言わせて」と潤んだ瞳で訴えた。
ルイフォンは黙って頷き、場を譲るように体を引くと、ミンウェイの細くかすれた声が言を継いだ。
「お父様は、私を研究対象にしたくなかったんです」
伏せられた切れ長の瞳の端から、透明な光がすっと流れた。
「普通の娘として……、私を育てようとしてくれたんです」
そこまで言うと彼女は草の香を漂わせながらうつむき、堪えきれずに嗚咽を漏らし始めた。
ヘイシャオの『死者の蘇生』の研究は、彼の妻の死をもって終了となった。――少なくとも、ヘイシャオ本人はそのつもりであったし、報告書の提出によって義務も果たしたはずだった。
けれど〈七つの大罪〉は、この技術は有用だと判断し、続けるようにと命じた。
何故なら、ヘイシャオの研究とは、言い換えれば、こういうことだからだ。
『不治の病を抱えた人間に、健康な新しい肉体を提供できる』
移植用の臓器から不老不死まで、利用価値は無限にある。この技術が、魅力的でないわけがない。
〈七つの大罪〉は、妻での成功をもとに、他の病の人間にも適応できるよう更に研鑽を積むようにと、ヘイシャオに申し渡した。
そしてまた、彼が育てている『病の因子を排除した、健康なクローン体』について、成長しても本当になんの不具合も起きないのか、経過を観察し、報告するようにとも命じた。
「ヘイシャオは、〈七つの大罪〉に対し、『クローン体など育てていない』と返事をしたんだ」
泣き崩れたミンウェイに代わり、ルイフォンが続ける。
「勿論、嘘のはずだ。何しろ〈七つの大罪〉は、報告書と共に、ヘイシャオの記憶も提出させているんだから事実を知っている。けれど、ヘイシャオは『言いがかりです。どうしてもと言うのなら、私の記憶にそう書いてあったという証拠を、私に示してごらんなさい』と啖呵を切った」
提出された記憶が、どんな形状をしているのかは分からない。だが、少なくとも〈天使〉ではない、ただの人間であるヘイシャオに『示す』ことは不可能なのだろう。
真実を知っている〈七つの大罪〉に対して、たいした言い草だが、これは有効だったらしい。――というよりも、〈七つの大罪〉は、天才的な頭脳を持つヘイシャオの機嫌を損ねることは、不利益だと判断したのだろう。
「結論としては、〈七つの大罪〉が折れて、その件はうやむやになった。だから……」
ルイフォンの言葉に、エルファンが得心したと深々と頷く。
「だから、『育てている娘が、妻のクローン体であること』を証明するものは存在しない。――そう言い切れる、というわけだな」
「そういうことだ」
ルイフォンは、ちらりとミンウェイを見やり、奥歯を噛みしめた。
彼は、ミンウェイが『母親』のクローンであるという『憶測』を『事実』にする証拠を求め、ここまで来た。
けれど、証拠は存在しない。
ヘイシャオが、頑として残さなかった。〈七つの大罪〉に逆ってまでも……。
だから、リュイセンに証拠を示し、彼を解放するという、ルイフォンの目的を達成することはできない。
――けれど。
この結末は、決して悪くはないはずだ。
『ヘイシャオは、『娘』のミンウェイを〈七つの大罪〉の好奇の目から守った』という事実の証明なのだから……。
「お父様は、初めは、私を本当の娘として大切に育ててくれていたんです……!」
嗚咽の中から、ミンウェイが、か細くも強い声を張り上げた。
「私が『〈七つの大罪〉に加わって、お父様のお手伝いをしたい』と言ったときに猛反対したのも、私がクローンであることに感づいたりしないようにと……、私の心を守って……」
「そうだな。そうでなければ、あいつは蝶の鍔飾りのついた刀を封印したりしなかっただろう」
エルファンの低音が、彼女の言葉を受け止める。広く優しく、『父親』そっくりの声で。
「……でも、私が成長するにつれ、お父様は、お母様とそっくりな姿をしながらも中身の違う私に、戸惑い、耐えられなくなってしまったんです」
誰に言うともなく、ミンウェイが告げる。
彼女の『父親』の気持ちを代弁するかのように。
それは彼女の勝手な想像に過ぎないのだが、きっと正しいだろう。――そう信じたいと、ルイフォンは思う。
「私がクローンだと知っているお父様は、中身までお母様そっくりになってほしいと願ってしまったんです。『お前はミンウェイなのに』『ミンウェイのくせに』――よく、そうおっしゃっていました。……その言葉の意味、今ならよく分かります」
ヘイシャオと〈七つの大罪〉の関係は、結局、険悪なままだった。
データベースの記録からすると、どちらかというと、ヘイシャオのほうが〈七つの大罪〉を避けるような状態であったらしい。そもそも、妻のために〈悪魔〉となった彼には、妻を亡くしたら、〈七つの大罪〉に留まる理由がないのだ。
ほとんど研究を行わず、名ばかりの〈悪魔〉となった彼は、〈七つの大罪〉からたいした資金を得られなくなり、暗殺者として生計を立てた。
暗殺の対象が主に貴族だったのは、依頼主の多くが同じく貴族で金払いが良かったのと、〈七つの大罪〉が王に属する私設研究機関であることから、王族に連なる貴族で憂さ晴らしをしたかったためと思われる。
大切な『娘』に、自分の仕事を手伝わせたヘイシャオの心理は不明だ。
ひょっとしたら、妻にはできなかったことをさせることによって、妻と『娘』は違う人間だと認識したかったのかもしれない……。
「ルイフォン……! ありがとう……」
涙に濡れたミンウェイが、彼に頭を下げる。波打つ長い髪が揺れ、彼女の『母親』にはなかったであろう草の香がふわりと漂う。
「ごめん……、こんな顔で。……でも、先に進まなきゃ」
彼女は目元をハンカチで押さえ、鮮やかな紅の唇を上げて……笑う。――無理やりにでも力強く、華やかに。
「ねぇ、ルイフォン。結局、リュイセンに示せるような証拠って……、やっぱり、『ない』ってことなの? ……――本当に?」
「…………っ」
射抜くような切れ長の瞳に見つめられ、ルイフォンは声を奪われた。
『証拠は存在しない』
先ほどから何度も、そう言ってきた。
なのに彼は、答えることができなかった。
「あなたが求めていたような、証拠になる書類がなければ、それは『ない』なの?」
畳み掛けるようにミンウェイが尋ね、ぐいと詰め寄る。
ルイフォンは気圧され、思わず回転椅子ごと後ろに下がる。
「そんなの、可笑しいわ。お父様と〈七つの大罪〉のやり取りの記録を見れば、一目瞭然。どう考えたって、私はお母様のクローンでしょ? 病気なんてまったくない、完全に健康な――ね」
そして彼女は、自分の体を愛しげに掻き抱く。
「だから私は、心身ともに、こんなに丈夫でいられるの。嫌なことや辛いことがあっても、めげずに逞しく、しぶとく立ち直れる」
「ミンウェイ……」
「普通の人とは違う形だったかもしれないけれど、この命は、お父様とお母様からいただいた大切なものよ。恥じることも、気に病むこともないでしょ?」
艶やかな微笑みで、彼女は告げる。
「『私は、自分を誇りに思っている』――リュイセンに、そう伝えるのでは駄目なの?」
「……?」
「リュイセンは、私が傷つくのを恐れて〈蝿〉に従ったんでしょう? ならば、『私は大丈夫』って、彼に電話で言えばいいだけじゃない!」
「――!」
虚を衝かれた。
彼女の言う通りだった。
証拠にこだわっていた自分が、愚かしく思えてくる。
ルイフォンは、大きく見開いた猫の目を隠すように、癖のある前髪をがりがりと掻いた。そんな彼に見せつけるように、ミンウェイが胸を張り、鮮やかに咲き誇る。
「ね? そうでしょ!」
それは、まるで緋色に輝く、大輪の華。
彼は破顔して「ああ」と答えるしかない。
「なんか、俺……、空回りしていたな……」
清々しい気分で、溜め息混じりの苦笑を漏らす。
すると突然、ミンウェイが眦を吊り上げた。「何を言っているの!」と叫びながら、あっという間に彼の懐に入り、彼の鼻先を人差し指で押しつぶす。
「ふはぁっ!?」
「ルイフォンがここまで情報を引き出してくれたから、私が自分を誇れるようになったんじゃない! あなたのおかげよ。あなたがいなきゃ、こんなふうには思えなかったわ」
椅子から立ち上がり、片手を腰に当ててルイフォンを見下ろすその姿は、気高い女神のようであり――。
「……いつものミンウェイだ」
少し乱暴で、お節介で、お人好しの――大切な家族。
強気な切れ長の瞳を有する、優しげな美貌。ふわりと波打つ黒髪は、柔らかな草の香で、あらゆるものを穏やかに包み込む。
不意に、ルイフォンの胸の中から笑いがこみ上げてきた。
「な、何よ? 何が可笑しいのよ?」
急に大声で笑い出したルイフォンに、ミンウェイは一瞬ひるみ、それから噛み付いてくる。
けれど、彼は笑い続けた。
純粋に嬉しかったのだ。
今まで張り詰めていたものが、ふっと解け、心が軽くなった気がした。
「帰ろうぜ」
存分に笑ったあと、ルイフォンは憮然としているミンウェイに明るく言う。
「車の中で親父に報告を入れて、屋敷に戻ったらすぐに作戦会議だ。――リュイセンと話をつけるための、な」
唐突に頭を切り替えたルイフォンに、ミンウェイは勿論、今まで黙って見守っていたエルファンも唖然とし、やがて口元をほころばせた。
ヘイシャオの研究報告書を引き出した端末に終了処理を施すべく、ルイフォンは回転椅子を滑らせる。ミンウェイに圧され、モニタの正面から随分と離れてしまっていたのだ。
熟練のピアニストを思わせる手付きでキーボードを鳴らしながら、彼は言う。
「この会議には、メイシアにもリモートで参加してもらう。リュイセンを解放する役目は勿論、ミンウェイだけど、まずはメイシアに、リュイセンを電話口まで連れてきてもらわなきゃ始まらない。それに、やはりこういうときは、『皆で』だろ?」
彼が方針を述べている間にも、ミンウェイは素早く自分の携帯端末を取り出し、屋敷へと連絡を入れていた。
漏れ聞こえる声は、詳細はあとで報告するが、ともかく今から屋敷に戻ると。それから、三人分の昼食を用意しておいてほしいと伝えるあたり、抜け目がない。とはいえ、行きの車で朝食をとったルイフォンはともかく、あとのふたりはさぞかし空腹だったのだろう。
「エルファン」
モニタ上を流れていく終了メッセージを瞳に映しながら、ルイフォンは背後で同じものを見ているエルファンに声を掛ける。門外漢の彼には、このメッセージの意味は分からないであろうが、ルイフォンが帰り支度をしていることは理解しているはずだった。
「〈スー〉のプログラムの解析が後回しですまない。――母さんに……」
逢いたかったよな……?
そう言ったものか否か。迷っている間に、エルファンが先に口を開いた。
「〈ベロ〉様は、〈スー〉のことは後回しでよいと言っていただろう? ――それに、〈スー〉はキリファではない。〈ベロ〉様がパイシュエ様ではないのと同じだ」
先ほどは、〈スー〉をキリファだと認めたはずのエルファンが顔をしかめる。
「……ああ。そうだったな」
〈七つの大罪〉の技術は禁忌であり、人の世とは関わってはいけない。
少なくとも母はそう思っていたし、ルイフォンもそう思う。そして、エルファンもまた……。
だから、死んだ人間は生き返らない。
「――まぁ、でも。なるべく早く、解析を済ませるよ」
軽く言ったつもりのテノールは、無意識のうちに沈んでいた。
そのためだろうか。
エルファンが、彼らしくない穏やかな低音をそっと落とした。
「私は、〈スー〉に逢ったら訊いてみたいことがある。……頼んだぞ」
そして――。
屋敷に戻る途中の車の中で、ルイフォンの携帯端末の呼び出し音が鳴った。
表示された相手の名に、ルイフォンの心が浮き立つ。
「メイシアだ!」
〈蠍〉の研究所跡での大発見と、今後の方針について伝えようと思いながら、彼はうきうきと電話に出る。その直後、メイシアの悲壮な声が彼の鼓膜を打った。
『ルイフォン。緊急事態なの……!』
「!?」
『〈蝿〉が一週間を待たずに、私に自白剤を打つと言い出して、それで……』
「な、なんだと……! メイシア、大丈夫か!?」
『うん。あのね……』
震える声で告げられた〈蝿〉の研究室での出来ごとに、ルイフォンは拳を握りしめ、唇を噛んだ。口の中に鉄の味が広がる。
安心しきっていた自分に反吐が出そうだった。
メイシアはずっと、敵地にいたというのに……。
話を聞き終えたとき、ルイフォンの腹の底は〈蝿〉への怒りで煮えくり返っていた。しかし彼はぐっとこらえ、優しいテノールで告げる。
「メイシア、怖かっただろ? よく頑張ったな」
この声は、彼女の耳へと直接、届く。
だから、この口から出すのは〈蝿〉への罵倒ではなく、彼女への想いであるべきだ。
本当は、ひとりで耐え抜いた彼女を抱きしめたい。けれど、今はそれができないから、せめて言葉でだけでも、彼女を包み込みたい――。
刹那、電話口の向こうで、メイシアが堪えきれなくなったように泣き出した。
「メイシア!? どうした? 不安か? ――当たり前だよな、ごめんな」
『あ、ううん。ごめんなさい……! 違うの、大丈夫。――そうじゃなくて。ルイフォンが私の欲しい言葉をくれるから……、嬉しくて』
「え……?」
『泣いている場合じゃないのに……』
そんな呟きと共に、彼女が顔を拭う気配がした。
そして、そのあとに続いた声は、凛とした戦乙女のものだった。
『ルイフォン。状況が変わった場合には、すぐにタオロンさんに〈蝿〉の暗殺を依頼することになっていたと思う』
「あ、ああ」
確かにそう決めていたが、これからリュイセンと話をつけるための会議を――と、彼が続けるよりも前に、思い詰めたような彼女の声が畳み掛けた。
『それ、待ってほしいの! まず先に、リュイセンにすべてを打ち明けたい。――彼を諦めたくないの!』
「――!」
誰も彼もが、リュイセンを求めていた。
彼に帰ってきてほしいと。
ルイフォンは青空の笑顔を浮かべ、メイシアに告げる。
「大丈夫だ。心配は要らない。リュイセンのこと、そう言ってくれてありがとな」
『え?』
「リュイセンは戻ってくる。――絶対に」
そしてルイフォンは、〈蠍〉の研究所跡での出来ごとをメイシアに語り始めた――。
――そう言って回転椅子を半回転させ、後ろを向いたルイフォンが目にしたのは、ぎこちない動きで唾を嚥下した、ミンウェイの白い喉だった。
ルイフォンの仕事部屋と同じく窓のないこの部屋は、自然光は入ってこないものの、電灯によって充分な明るさが確保されている。だから、彼女の頬が青白く見えるのは、決して彼の気のせいではないだろう。
そしてまた、ルイフォン自身も同じ顔色をしていた。――彼のすぐ前にある、モニタ画面の反射のせいではなく。
彼らの間を占めるのは、空調からの送風音と、機械類の低いうなり。
ミンウェイの唇が動いたが、声にはならない。
それでも彼女はゆっくりと、しかし間違いなく頷いた。その証拠に、柔らかな草の香りが漂う。
ルイフォンは、モニタの近くに椅子を寄せるよう彼女を促し、緊張に震える指先でヘイシャオの報告書のファイルを開いた。
――――…………。
「ルイフォン、この部屋か?」
扉の開く音と共に、廊下からの自然の風と、エルファンの低い声が流れ込んできた。
「やはり、ここだったか」
探していた背中を認めたエルファンが、独り言つように呟く。彼は、そのまま歩を進めようとして……、途中で足を止めた。
ルイフォンの後ろ姿に、崩れ落ちそうな危うさを感じたのだ。丸い猫背はいつものことだが、あの過剰なまでに自信に満ちた覇気が消えていた。
「ルイフォン……?」
エルファンの呼びかけに、ルイフォンは回転椅子をきしませ、ゆっくりと振り返った。
そして、母親譲りの癖の強い前髪の隙間から、これまた母親そっくりの猫の目でエルファンを見上げる。
「――エルファン。……地下は、もういいのか?」
ルイフォンの硬質な声には、感情が載っていなかった。その表情は、無機質な〈猫〉の顔つきとは微妙に異なり、言うなれば、放心したような顔だった。
エルファンは、とりあえず「ああ」と応じたものの、胸中で困惑が渦を巻く。
しかし彼は、まずはルイフォンが気になっているであろう、地下の様子を報告することにした。てっきり後ろから追いかけてくるものと思っていたふたりが、上階で侵入作業をすると連絡を寄越してきて、ばつの悪さと同時に、彼らの気遣いを感じていたのだ。
「ルイフォン、地下には巨大なコンピュータがあり、奥の小部屋には光の珠があった。珠は〈ベロ〉様のような強い光は発せず、眠るように静かに、ほのかな光を灯していた」
「そうか。……ありがとう」
素っ気ないまでに簡潔なエルファンの物言いに、かえって彼の深い想いを感じ、ルイフォンは口元をほころばせた。それを契機に、彼の顔にいつもの鮮やかな表情が戻ってくる。
「ま、俺が『手紙』の解析を終えていないんだから、そうなるよな。……けど、〈スー〉はここにいる。母さんが――な」
「……ああ」
氷が溶けたような温んだ面差しで、エルファンが頷く。
ルイフォンは、そんなエルファンに微笑を向け、それから、心を落ち着けるようにすぅっと息を吐きだした。
彼のまとう雰囲気が〈猫〉のものへと変わっていく――。
「俺のほうの報告をする」
近くの椅子に座るようエルファンに目線を送り、ルイフォンはモニタと向き合うべく、回転椅子を回す。背中で一本に編まれた髪が、それまでの空気を掻き消すかのように薙ぎ払われ、毛先を留めた飾り紐の中央で金の鈴が煌めいた。
そして彼は、報告書のファイルで埋め尽くされた、モニタ画面をエルファンに示す。
「こちらは〈七つの大罪〉のデータベースへの侵入に成功した」
「――!?」
はっきりと告げられた声に、エルファンが彼らしくもなく驚きもあらわに瞳を瞬かせた。
ルイフォンと――それから、先ほどから身じろぎひとつしないミンウェイの様子から、良くない知らせが来ると思っていたのだろう。
ならば何故、ふたりの様子が浮かないのか。
無表情なはずのエルファンの顔に、ありありと疑問が描かれる。
それはルイフォンの予想通りの反応で、だから彼は間髪を容れず、「結論から言う」と鋭く続けた。
「俺が求めていたような証拠は、存在しない」
「――存在しない……?」
訝しげに眉を上げながら、エルファンが言葉を繰り返す。
「ああ。ヘイシャオが、妻のために『病の因子を排除した、健康なクローン体』を完成させたのは真実だ。その報告書は見つかった。――けど、『育てている娘が、妻のクローン体であること』を示すものは、どこにもない。ヘイシャオが書面に残さなかったんだ」
そのとき、ルイフォンの隣でミンウェイがしゃくりあげた。
彼女は耐えるように口元を押さえ、肩を震わせる。けれど、話を続けようとしたルイフォンを制し、「私に言わせて」と潤んだ瞳で訴えた。
ルイフォンは黙って頷き、場を譲るように体を引くと、ミンウェイの細くかすれた声が言を継いだ。
「お父様は、私を研究対象にしたくなかったんです」
伏せられた切れ長の瞳の端から、透明な光がすっと流れた。
「普通の娘として……、私を育てようとしてくれたんです」
そこまで言うと彼女は草の香を漂わせながらうつむき、堪えきれずに嗚咽を漏らし始めた。
ヘイシャオの『死者の蘇生』の研究は、彼の妻の死をもって終了となった。――少なくとも、ヘイシャオ本人はそのつもりであったし、報告書の提出によって義務も果たしたはずだった。
けれど〈七つの大罪〉は、この技術は有用だと判断し、続けるようにと命じた。
何故なら、ヘイシャオの研究とは、言い換えれば、こういうことだからだ。
『不治の病を抱えた人間に、健康な新しい肉体を提供できる』
移植用の臓器から不老不死まで、利用価値は無限にある。この技術が、魅力的でないわけがない。
〈七つの大罪〉は、妻での成功をもとに、他の病の人間にも適応できるよう更に研鑽を積むようにと、ヘイシャオに申し渡した。
そしてまた、彼が育てている『病の因子を排除した、健康なクローン体』について、成長しても本当になんの不具合も起きないのか、経過を観察し、報告するようにとも命じた。
「ヘイシャオは、〈七つの大罪〉に対し、『クローン体など育てていない』と返事をしたんだ」
泣き崩れたミンウェイに代わり、ルイフォンが続ける。
「勿論、嘘のはずだ。何しろ〈七つの大罪〉は、報告書と共に、ヘイシャオの記憶も提出させているんだから事実を知っている。けれど、ヘイシャオは『言いがかりです。どうしてもと言うのなら、私の記憶にそう書いてあったという証拠を、私に示してごらんなさい』と啖呵を切った」
提出された記憶が、どんな形状をしているのかは分からない。だが、少なくとも〈天使〉ではない、ただの人間であるヘイシャオに『示す』ことは不可能なのだろう。
真実を知っている〈七つの大罪〉に対して、たいした言い草だが、これは有効だったらしい。――というよりも、〈七つの大罪〉は、天才的な頭脳を持つヘイシャオの機嫌を損ねることは、不利益だと判断したのだろう。
「結論としては、〈七つの大罪〉が折れて、その件はうやむやになった。だから……」
ルイフォンの言葉に、エルファンが得心したと深々と頷く。
「だから、『育てている娘が、妻のクローン体であること』を証明するものは存在しない。――そう言い切れる、というわけだな」
「そういうことだ」
ルイフォンは、ちらりとミンウェイを見やり、奥歯を噛みしめた。
彼は、ミンウェイが『母親』のクローンであるという『憶測』を『事実』にする証拠を求め、ここまで来た。
けれど、証拠は存在しない。
ヘイシャオが、頑として残さなかった。〈七つの大罪〉に逆ってまでも……。
だから、リュイセンに証拠を示し、彼を解放するという、ルイフォンの目的を達成することはできない。
――けれど。
この結末は、決して悪くはないはずだ。
『ヘイシャオは、『娘』のミンウェイを〈七つの大罪〉の好奇の目から守った』という事実の証明なのだから……。
「お父様は、初めは、私を本当の娘として大切に育ててくれていたんです……!」
嗚咽の中から、ミンウェイが、か細くも強い声を張り上げた。
「私が『〈七つの大罪〉に加わって、お父様のお手伝いをしたい』と言ったときに猛反対したのも、私がクローンであることに感づいたりしないようにと……、私の心を守って……」
「そうだな。そうでなければ、あいつは蝶の鍔飾りのついた刀を封印したりしなかっただろう」
エルファンの低音が、彼女の言葉を受け止める。広く優しく、『父親』そっくりの声で。
「……でも、私が成長するにつれ、お父様は、お母様とそっくりな姿をしながらも中身の違う私に、戸惑い、耐えられなくなってしまったんです」
誰に言うともなく、ミンウェイが告げる。
彼女の『父親』の気持ちを代弁するかのように。
それは彼女の勝手な想像に過ぎないのだが、きっと正しいだろう。――そう信じたいと、ルイフォンは思う。
「私がクローンだと知っているお父様は、中身までお母様そっくりになってほしいと願ってしまったんです。『お前はミンウェイなのに』『ミンウェイのくせに』――よく、そうおっしゃっていました。……その言葉の意味、今ならよく分かります」
ヘイシャオと〈七つの大罪〉の関係は、結局、険悪なままだった。
データベースの記録からすると、どちらかというと、ヘイシャオのほうが〈七つの大罪〉を避けるような状態であったらしい。そもそも、妻のために〈悪魔〉となった彼には、妻を亡くしたら、〈七つの大罪〉に留まる理由がないのだ。
ほとんど研究を行わず、名ばかりの〈悪魔〉となった彼は、〈七つの大罪〉からたいした資金を得られなくなり、暗殺者として生計を立てた。
暗殺の対象が主に貴族だったのは、依頼主の多くが同じく貴族で金払いが良かったのと、〈七つの大罪〉が王に属する私設研究機関であることから、王族に連なる貴族で憂さ晴らしをしたかったためと思われる。
大切な『娘』に、自分の仕事を手伝わせたヘイシャオの心理は不明だ。
ひょっとしたら、妻にはできなかったことをさせることによって、妻と『娘』は違う人間だと認識したかったのかもしれない……。
「ルイフォン……! ありがとう……」
涙に濡れたミンウェイが、彼に頭を下げる。波打つ長い髪が揺れ、彼女の『母親』にはなかったであろう草の香がふわりと漂う。
「ごめん……、こんな顔で。……でも、先に進まなきゃ」
彼女は目元をハンカチで押さえ、鮮やかな紅の唇を上げて……笑う。――無理やりにでも力強く、華やかに。
「ねぇ、ルイフォン。結局、リュイセンに示せるような証拠って……、やっぱり、『ない』ってことなの? ……――本当に?」
「…………っ」
射抜くような切れ長の瞳に見つめられ、ルイフォンは声を奪われた。
『証拠は存在しない』
先ほどから何度も、そう言ってきた。
なのに彼は、答えることができなかった。
「あなたが求めていたような、証拠になる書類がなければ、それは『ない』なの?」
畳み掛けるようにミンウェイが尋ね、ぐいと詰め寄る。
ルイフォンは気圧され、思わず回転椅子ごと後ろに下がる。
「そんなの、可笑しいわ。お父様と〈七つの大罪〉のやり取りの記録を見れば、一目瞭然。どう考えたって、私はお母様のクローンでしょ? 病気なんてまったくない、完全に健康な――ね」
そして彼女は、自分の体を愛しげに掻き抱く。
「だから私は、心身ともに、こんなに丈夫でいられるの。嫌なことや辛いことがあっても、めげずに逞しく、しぶとく立ち直れる」
「ミンウェイ……」
「普通の人とは違う形だったかもしれないけれど、この命は、お父様とお母様からいただいた大切なものよ。恥じることも、気に病むこともないでしょ?」
艶やかな微笑みで、彼女は告げる。
「『私は、自分を誇りに思っている』――リュイセンに、そう伝えるのでは駄目なの?」
「……?」
「リュイセンは、私が傷つくのを恐れて〈蝿〉に従ったんでしょう? ならば、『私は大丈夫』って、彼に電話で言えばいいだけじゃない!」
「――!」
虚を衝かれた。
彼女の言う通りだった。
証拠にこだわっていた自分が、愚かしく思えてくる。
ルイフォンは、大きく見開いた猫の目を隠すように、癖のある前髪をがりがりと掻いた。そんな彼に見せつけるように、ミンウェイが胸を張り、鮮やかに咲き誇る。
「ね? そうでしょ!」
それは、まるで緋色に輝く、大輪の華。
彼は破顔して「ああ」と答えるしかない。
「なんか、俺……、空回りしていたな……」
清々しい気分で、溜め息混じりの苦笑を漏らす。
すると突然、ミンウェイが眦を吊り上げた。「何を言っているの!」と叫びながら、あっという間に彼の懐に入り、彼の鼻先を人差し指で押しつぶす。
「ふはぁっ!?」
「ルイフォンがここまで情報を引き出してくれたから、私が自分を誇れるようになったんじゃない! あなたのおかげよ。あなたがいなきゃ、こんなふうには思えなかったわ」
椅子から立ち上がり、片手を腰に当ててルイフォンを見下ろすその姿は、気高い女神のようであり――。
「……いつものミンウェイだ」
少し乱暴で、お節介で、お人好しの――大切な家族。
強気な切れ長の瞳を有する、優しげな美貌。ふわりと波打つ黒髪は、柔らかな草の香で、あらゆるものを穏やかに包み込む。
不意に、ルイフォンの胸の中から笑いがこみ上げてきた。
「な、何よ? 何が可笑しいのよ?」
急に大声で笑い出したルイフォンに、ミンウェイは一瞬ひるみ、それから噛み付いてくる。
けれど、彼は笑い続けた。
純粋に嬉しかったのだ。
今まで張り詰めていたものが、ふっと解け、心が軽くなった気がした。
「帰ろうぜ」
存分に笑ったあと、ルイフォンは憮然としているミンウェイに明るく言う。
「車の中で親父に報告を入れて、屋敷に戻ったらすぐに作戦会議だ。――リュイセンと話をつけるための、な」
唐突に頭を切り替えたルイフォンに、ミンウェイは勿論、今まで黙って見守っていたエルファンも唖然とし、やがて口元をほころばせた。
ヘイシャオの研究報告書を引き出した端末に終了処理を施すべく、ルイフォンは回転椅子を滑らせる。ミンウェイに圧され、モニタの正面から随分と離れてしまっていたのだ。
熟練のピアニストを思わせる手付きでキーボードを鳴らしながら、彼は言う。
「この会議には、メイシアにもリモートで参加してもらう。リュイセンを解放する役目は勿論、ミンウェイだけど、まずはメイシアに、リュイセンを電話口まで連れてきてもらわなきゃ始まらない。それに、やはりこういうときは、『皆で』だろ?」
彼が方針を述べている間にも、ミンウェイは素早く自分の携帯端末を取り出し、屋敷へと連絡を入れていた。
漏れ聞こえる声は、詳細はあとで報告するが、ともかく今から屋敷に戻ると。それから、三人分の昼食を用意しておいてほしいと伝えるあたり、抜け目がない。とはいえ、行きの車で朝食をとったルイフォンはともかく、あとのふたりはさぞかし空腹だったのだろう。
「エルファン」
モニタ上を流れていく終了メッセージを瞳に映しながら、ルイフォンは背後で同じものを見ているエルファンに声を掛ける。門外漢の彼には、このメッセージの意味は分からないであろうが、ルイフォンが帰り支度をしていることは理解しているはずだった。
「〈スー〉のプログラムの解析が後回しですまない。――母さんに……」
逢いたかったよな……?
そう言ったものか否か。迷っている間に、エルファンが先に口を開いた。
「〈ベロ〉様は、〈スー〉のことは後回しでよいと言っていただろう? ――それに、〈スー〉はキリファではない。〈ベロ〉様がパイシュエ様ではないのと同じだ」
先ほどは、〈スー〉をキリファだと認めたはずのエルファンが顔をしかめる。
「……ああ。そうだったな」
〈七つの大罪〉の技術は禁忌であり、人の世とは関わってはいけない。
少なくとも母はそう思っていたし、ルイフォンもそう思う。そして、エルファンもまた……。
だから、死んだ人間は生き返らない。
「――まぁ、でも。なるべく早く、解析を済ませるよ」
軽く言ったつもりのテノールは、無意識のうちに沈んでいた。
そのためだろうか。
エルファンが、彼らしくない穏やかな低音をそっと落とした。
「私は、〈スー〉に逢ったら訊いてみたいことがある。……頼んだぞ」
そして――。
屋敷に戻る途中の車の中で、ルイフォンの携帯端末の呼び出し音が鳴った。
表示された相手の名に、ルイフォンの心が浮き立つ。
「メイシアだ!」
〈蠍〉の研究所跡での大発見と、今後の方針について伝えようと思いながら、彼はうきうきと電話に出る。その直後、メイシアの悲壮な声が彼の鼓膜を打った。
『ルイフォン。緊急事態なの……!』
「!?」
『〈蝿〉が一週間を待たずに、私に自白剤を打つと言い出して、それで……』
「な、なんだと……! メイシア、大丈夫か!?」
『うん。あのね……』
震える声で告げられた〈蝿〉の研究室での出来ごとに、ルイフォンは拳を握りしめ、唇を噛んだ。口の中に鉄の味が広がる。
安心しきっていた自分に反吐が出そうだった。
メイシアはずっと、敵地にいたというのに……。
話を聞き終えたとき、ルイフォンの腹の底は〈蝿〉への怒りで煮えくり返っていた。しかし彼はぐっとこらえ、優しいテノールで告げる。
「メイシア、怖かっただろ? よく頑張ったな」
この声は、彼女の耳へと直接、届く。
だから、この口から出すのは〈蝿〉への罵倒ではなく、彼女への想いであるべきだ。
本当は、ひとりで耐え抜いた彼女を抱きしめたい。けれど、今はそれができないから、せめて言葉でだけでも、彼女を包み込みたい――。
刹那、電話口の向こうで、メイシアが堪えきれなくなったように泣き出した。
「メイシア!? どうした? 不安か? ――当たり前だよな、ごめんな」
『あ、ううん。ごめんなさい……! 違うの、大丈夫。――そうじゃなくて。ルイフォンが私の欲しい言葉をくれるから……、嬉しくて』
「え……?」
『泣いている場合じゃないのに……』
そんな呟きと共に、彼女が顔を拭う気配がした。
そして、そのあとに続いた声は、凛とした戦乙女のものだった。
『ルイフォン。状況が変わった場合には、すぐにタオロンさんに〈蝿〉の暗殺を依頼することになっていたと思う』
「あ、ああ」
確かにそう決めていたが、これからリュイセンと話をつけるための会議を――と、彼が続けるよりも前に、思い詰めたような彼女の声が畳み掛けた。
『それ、待ってほしいの! まず先に、リュイセンにすべてを打ち明けたい。――彼を諦めたくないの!』
「――!」
誰も彼もが、リュイセンを求めていた。
彼に帰ってきてほしいと。
ルイフォンは青空の笑顔を浮かべ、メイシアに告げる。
「大丈夫だ。心配は要らない。リュイセンのこと、そう言ってくれてありがとな」
『え?』
「リュイセンは戻ってくる。――絶対に」
そしてルイフォンは、〈蠍〉の研究所跡での出来ごとをメイシアに語り始めた――。