残酷な描写あり
8.重ね結びの光と影-1
リュイセンはメイシアの世話係として、彼女の部屋に夕食を運んでくる。
そのときこそ、待ちに待った兄貴分との接触の瞬間だ――。
ルイフォンは興奮に顔を上気させ、執務室のソファーで待機していた。心地の良い緊張が程よく体内を巡り、覇気で満たされていく。
奥の執務机では、一族の総帥たるイーレオの美貌が頬杖によって支えられており、その背後には護衛のチャオラウが控えていた。ルイフォンの向かいのソファーでは、次期総帥エルファンが、相変わらずの無表情で腕を組んでいる。
そして……。
ルイフォンの隣には、ミンウェイ。
メイシアから電話が来たら、まずはルイフォンが受ける。けれど、それから、すぐにミンウェイに替わることになるため、この配置となった。
とはいえ、話し手はミンウェイでも、会話の内容は皆で聞けるよう、電話の音声出力は外部スピーカーにしてある。画像付きの会議システムだと音質が落ちてしまい、複雑な話には不向きであるため、音声のみの状態だが、ミンウェイの顔を見せたほうが効果的だと判断した場合には、すぐに切り替えるつもりだ。
ミンウェイは、シュアンが忘れていった制帽を膝に載せ、身じろぎひとつせずにテーブルの上の電話を見つめていた。切れ長の瞳が伏せられているのは、視線が低い位置にあるからか、それとも彼女の気持ちの問題か。
ルイフォンは、ミンウェイに発破を掛けようとして……やめた。
彼女の内部では、いろいろな思いが巡っているはずだ。そっとしておくべきだろう。もし、彼女がリュイセンとの会話の途中で言葉を詰まらせたなら、ルイフォンが代わればよいだけだ。
兄貴分は、必ず取り戻す。
ルイフォンは、リュイセンのいる庭園へと、挑むように猫の目を光らせる。
そちらの方角にある窓は、まだ明るさを残した藍色をしていた。夏の陽射しが長いのと、メイシアの食事の時間がやや早めに設定されているためだ。
ほどなくして――。
待ち望んでいた呼び出し音が、執務室の空気を震わせた。
『ルイフォン』
彼の名を呼ぶ、メイシアの第一声。
その硬い声色だけで、不測の事態が起きたのだと、ルイフォンは理解できた。
「何があった?」
返した声は自分でも驚くほどに鋭く、慌てて彼は、弁解するように「教えてくれ」と、柔らかに付け加える。
『リュイセンが、反省房に入れられてしまったの』
メイシアの語尾は震えていた。
それは、非常事態に直面した彼女の不安の表れだと、ルイフォンは思った。だが本当は、良くない知らせをすぐに察してくれた彼への、軽い驚きと深い安堵に、彼女が涙ぐんでいたためであった。
彼の言葉に力を得た彼女は、即座に頭を切り替える。今すべきことは、正確な報告だと。
『リュイセンは、〈蝿〉に逆らって私を助けた罰で、昼食のあと拘束されてしまったらしいの。だから、私の夕食は別の人が持ってきて、リュイセンはこの部屋に来なかった――会えなかったの』
「!」
ルイフォンは愕然として、受話器を取り落しそうになった。
何故、この事態を予測できなかったのだろう。
メイシアのために動いたリュイセンは、〈蝿〉にとって、もはや部下ではなく、警戒すべき相手と変わったのだ。〈蝿〉が、メイシアからリュイセンを遠ざけることは、視野に入れておくべき懸案事項だったはずだ。
ぎりりと奥歯を鳴らし、拳を震わせる。自分の甘さに腹が立つ……。
そのとき。
『ルイフォン!』
凛とした呼びかけが、彼の耳朶を打った。
『何か予想外のことが起きた場合には、リュイセンとの接触を諦めて、タオロンさんに〈蝿〉暗殺を依頼する取り決めだったと思う。でも、今現在、私の身に危険が迫っているわけではないの。だから――!』
高く澄んだ響きに、ルイフォンは、はっとした。
メイシアの――彼の戦乙女の示す道が、目の前に広がって見えた。
その瞬間、彼は瞳を煌めかせ、迷わずに言い放つ。
「だから、まだ諦めない!」
『うん!』
重ねた思いに、彼女は嬉しそうに応える。
遥かな庭園にいながらも、彼女は彼と共にある――。
ルイフォンは、次に取るべき行動を即座に閃かせた。
「タオロンだ! タオロンに頼んで、リュイセンを反省房から助け出す。そして、メイシアの部屋まで連れてきてもらう」
『展望塔の扉の鍵も、私の部屋と同じで内鍵なの。だから、鍵が掛かっていても、私が開けられる! 見張りは……』
「見張りなんか、あのふたりの前には、いないも同然だ。――問題ないな!」
『うん!』
小気味よいやり取りを繰り広げ、ルイフォンは好戦的な笑みを浮かべた。
そして、ぐいと顔を上げ、執務机のイーレオを見やる。彼の背で、金の鈴が誇るように跳ねた。
「親父! それでいいよな!」
「今回の件はお前に一任してある。好きにやれ」
頬杖を崩すことなく返された、豪然とした響き。イーレオは眼鏡の奥の目を細め、すっと口角を上げる。
ルイフォンは一瞬だけ、頬に緊張を走らせ、しかし、すぐに感謝を込めて頭を下げた。そして、タオロンに連絡を取るべく、尻ポケットから携帯端末を取り出す。
現在、タオロンには、地下研究室に籠もっている〈蝿〉の見張りを頼んでいる。
三十分ほど前に『〈蝿〉の行動に異常なし』の報告を受けていたので、すっかり安心していたが、時間的にいって、タオロンが見張りにつくよりも前に、〈蝿〉はリュイセンを反省房に入れていたのだ。
同じ館内でのできごとなのに気づかなかったと、タオロンは気に病みそうだが、おそらく、リュイセンが囚われたことは意図的に隠された。
〈蝿〉は、タオロンは裏切れないと信じているが、同時に、心情的にはリュイセンの味方であることも承知している。ならば、面倒ごとの火種になりかねない情報は、用心のために遮断するだろう。
タオロンに責任はない。それどころか、後手に回ったルイフォンの落ち度だ。
現状を考察しながら、タオロンの連絡先を繰り出したとき、「ルイフォン」と低い声が響いた。
「?」
イーレオ……ではなかった。
同じ声質を持った、次期総帥エルファンの氷の眼差しが、こちらを向いていた。一族そのものの美貌には懸念が浮かんでおり、わずかに眉がひそめられている。
「リュイセンは、たとえ素手でも、私兵たちやヘイシャオの〈影〉よりも、よほど強い。あいつが、おとなしく反省房とやらに捕まっているのなら、自分の意思で入っているということだ」
威圧を含んだ口調は、ルイフォンに同意を求めており、彼は促されるままに「あ、ああ」と首肯する。
「ならば、斑目タオロンが『助けに来た』と言ったところで、素直についていくことはないだろう」
「そこは、タオロンに引きずってでも連れてきてもら……」
そこまで言いかけて、ルイフォンは気づく。
リュイセンとタオロンは、どちらも甲乙をつけがたい武人である。もしも、本当にタオロンがリュイセンを引きずる事態になった場合には、ふたりとも満身創痍の大騒ぎになっているはずだ。
ルイフォンが言葉を詰まらせていると、彼の隣で草の香が動いた。
「斑目タオロン氏に、伝言を頼んでください」
鮮やかな緋色の衣服の胸を張り、ミンウェイが毅然と告げる。
「『鷹刀ミンウェイという人物が、リュイセンと話をしたいと電話を待っている。だから、メイシアの部屋に行ってほしい。メイシアと鷹刀は、とっくに連携している』――私の名前を知らないはずのタオロン氏にこう言われれば、リュイセンはタオロン氏の言葉を信じ、来てくれます」
彼女は断言し、それから、はっと顔色を変えて「……と、思います」と付け加えた。
「ミンウェイ! 名案だ!」
自信なさげなミンウェイの雰囲気を吹き飛ばすように、ルイフォンは叫び、破顔する。
「それでいこう! いいよな!?」
彼は立ち上がり、ぐるりと皆を見渡す。一本に編まれた髪が、道を切り拓くように空を薙ぎ、その先で金の鈴が煌めく。
彼の言葉に、否やを言う者は誰もなかった。
タオロンは、地下研究室にいる〈蝿〉を見張っていた。
正確には、〈蝿〉が就寝時間よりも前に研究室から出てきたら、すぐにもルイフォンに連絡できるよう、地下への階段が見える位置で身を潜めていた。
不意に、彼の胸元で携帯端末が振動する。
発信元の相手は、ルイフォン。
電話ではなく、メッセージの着信通知だった。周りを警戒しての配慮だろう。
ちょうどそのとき、〈蝿〉の夕食を載せたワゴンが、こちらに向かってやってくるのが見えたので、タオロンは、メイシアもまた食事の時間を迎え、リュイセンとの接触がうまくいったという、朗報が来たのだと思った。
彼は、ほっと相好を崩した。
タオロンの夕食は、娘のファンルゥと共に摂ることになっている。〈蝿〉の見張りをリュイセンと交代し、自分は部屋に戻ってよいか訊いてみよう、そんなことを思いながらメッセージを開き、彼は息を呑んだ。
――リュイセンは反省房に入れられたため、メイシアの部屋に来なかった。
ルイフォンからのメッセージは、そんな文面から始まり、こと細かに状況が綴られていた。
「嘘、だろ……? 俺は、何も知らね……」
タオロンは愕然とし、慌てて携帯端末に指を走らせる。
外見の印象通りに、あまり機械類の操作が得意でない彼が、懸命に誤字混じりの謝罪文を打ち込むと、次の瞬間には、情報機器の専門家であるルイフォンから『タオロンの責任ではない』と速攻で返ってきた。
「本当に、すまん」
太い指がもどかしく、タオロンは思わず口に出して謝る。
勿論、その声はルイフォンには聞こえない。けれど、彼を仲間として信頼するメッセージが届けられた。
――頼む、協力してくれ。お前にかかっている。
続けて送られてきた指示に、ごくりと唾を呑み込み、タオロンは足早にファンルゥの部屋へと向かった。
夕食は、いつも通りにファンルゥと摂った。
〈蝿〉も、自分の食事を中断してまで、何かの行動を起こすことはないだろうから、少しでもファンルゥのそばにいて、安心させてあげてくれ。――ルイフォンが、メッセージでそう言ってくれたのだ。
だが、このあとまた、〈蝿〉の見張りに戻る。
そして夜が更け、夜番以外の私兵が室外への出歩き禁止の時間になったら、リュイセンを反省房から助け出し、メイシアのもとに連れて行ってほしい。そのあとは、もとの作戦通り、リュイセンを味方に戻し、塒に戻る〈蝿〉を待ち伏せて捕獲するから、援護を頼む。――これが、ルイフォンからの要請だった。
食事のあとのテーブルを拭き終え、タオロンは、そのままなんとなく椅子に座った。
否、なんとなくではない。
片付いたテーブルの上にスケッチブックを広げはじめた愛娘の顔を、よく見たかったのだ。
ファンルゥは黒いクレヨンで大きな丸を描き、その中にありったけの色を詰め込んでいた。
最近は『空に浮かぶ、紫の風船』ばかりを描いているようだが、食後に描く絵だけは、この庭園に来てからずっと変わらずに『これ』である。いつだったか、何を描いているのかと尋ねたタオロンに、彼女はこう答えた。
『今、食べたご飯』
丸は、皿であるらしい。
『ここのご飯は、斑目のお家のご飯よりも、ずっと美味しいね』
不満の多い窮屈な生活の中でも、食事だけは特別な楽しみのようだった。
ファンルゥの身を守り、そして、飢えさせない。――たったそれだけのことかもしれないが、タオロンにとっては何よりも大切なことだ。
「……」
彼は、刈り上げた短髪と額の間にきつく巻かれた赤いバンダナを、そっと解いた。だいぶ色あせてしまったそれは、彼の愛した女が、彼に巻いてくれたものだ。
『猪突猛進に走り出しそうになったら、バンダナを結び直しながら、もう一度だけ考えてみて』
『それでも、走るべきだと思ったら、走ったらいいわ』
彼女の言葉が、耳に蘇る。
それと同時に、先ほど、ルイフォンから送られてきたメッセージを反芻する。
――リュイセンを反省房から助け出せば、タオロンは『明確に、〈蝿〉を裏切った』ということになる。見張りの私兵たちを、その場で全員、身動きの取れない状態にできなければ、〈蝿〉に報告されるだろう。
そうなったとき、ファンルゥの身に危険が及ぶかもしれない。……すまない。
でも、どうか、お願いできないだろうか。
頼む。お前にしかできないんだ。
「……猪突猛進なんかじゃないさ」
両手で持ったバンダナを、タオロンは再び額に巻き直す。――いつもよりも、ぎゅっと、きつく。
「パパ?」
ご機嫌な様子で絵を描いていたファンルゥが、くりっとした丸い目を大きく見開いた。
彼女は握っていたクレヨンを放り出し、自分の椅子から、ぴょこんと飛び降りる。ぱたぱたとテーブルを回って、タオロンの胸へと飛び込んできた。
「ファンルゥ!?」
彼の膝によじ登り、甘えるように抱きついてきたファンルゥに、タオロンは困惑する。
「パパ。バンダナ、きゅっきゅっ、ね?」
「?」
愛娘の言葉の意味が分からずに、タオロンは太い眉を寄せる。
「ファンルゥ、知っているもん! パパのバンダナは、ママのおまじないでしょ! 『パパ、頑張って!』って、ママが言っているの!」
ファンルゥは、あちこちに元気に跳ねたくせっ毛をタオロンの頬に擦り寄せ、小さな手を伸ばして赤いバンダナの結び目に触れる。
「パパはね、これから、ちょっと大変になるとき、バンダナをきゅっきゅっ、って結び直すの。そうすると、力がもりもり出てきて、パパは無敵になるの」
「ファンルゥ……」
バンダナについて、『昔、ママから貰った』くらいは言ったことがあると思うが、特に詳しく説明した覚えはない。
だから、ファンルゥは『お話』を作ったのだ。
大好きなパパとママが、今も赤いバンダナで繋がっているという、素敵なお話を――。
「そうだよ、ファンルゥ」
タオロンは愛娘を抱きしめた。
太い腕で、優しく包み込みながら、本当は包まれているのは自分のほうだと思う。
小さくて軽くて柔らかくて……。こんなに、か弱い存在なのに、ファンルゥは幸せという名の温かさで彼を包んでくれる。
「パパが、正しいことを頑張れるようになる、魔法のバンダナだ」
『魔法』などという、およそ自分らしくない言葉に照れながら、それでもタオロンは朗らかに笑った。
だが、その笑みは、耳元で囁かれた、ファンルゥの次のひとことで凍りついた。
「パパ、リュイセンを助けに行くんでしょ?」
「――!?」
「ファンルゥ、見張りのおじさんたちのおしゃべりを聞いていたから、知っているもん。リュイセンはメイシアを守ろうとして、〈蝿〉のおじさんに逆らったの。それで、罰として閉じ込められちゃった、って」
タオロンの首に、ぎゅっとしがみつき、できるだけ小さな声でファンルゥが言う。内緒にするべき話だと、ちゃんと分かっているのだ。
「ねぇ、リュイセンを助けて、今晩、皆で逃げるんでしょ? もう、〈蝿〉のおじさんの言うことなんか、きくもんか! って」
「ファンルゥ……、お前……」
タオロンは、太い眉の下の目をいっぱいに見開く。
小さな子供だから、何も分かっていないと思っていた。
好奇心旺盛なだけの、おてんば娘だと思っていた。
「ファンルゥ……!」
無骨なタオロンは、こんなときにぴったりな、うまい言葉など知らない。だから、守り抜くという意思表示として、大切な娘を抱きしめる。
そして、彼女の耳元で、これからのことを説明する。
「ルイフォンから連絡があったんだ。お前の言う通り、リュイセンを助けてほしい、って。――でも、俺が助けたのが〈蝿〉にばれたら、この部屋の外にいる見張りが入ってきて、ファンルゥ……お前が殺されるかもしれない」
「……っ! ファ、ファンルゥは、上手に隠れている……ね!」
脅えた声を上げながらも、彼女なりの策を練る娘の頭を、タオロンは大きな手で包み込んだ。
「安心しろ。ルイフォンは、ちゃんとお前のことを考えていて、先に逃げるようにと言っている。――お前は、寝る時間になったら、電気を消したあと、ベッドじゃなくてメイシアの部屋に行くんだ。メイシアとふたりで待っていてくれ」
それが、ルイフォンからの指示だった。
本当はファンルゥが眠くなる前に移動させたいのだが、夕食の時間帯は、私兵たちが交代で食堂を利用するために、あちこちに人の目がある。それで、ファンルゥが寝る前ということになったのだ。
「分かった。赤いピエロさんが出てきたら、ファンルゥはメイシアのところに行く」
ファンルゥは、壁に掛けられた絡繰り時計を示す。
文字盤が読めなくても、時報で出てくる絡繰り仕掛けのピエロの色が、時間を教えてくれるのだ。これもまた〈蝿〉が用意した子供のための品のひとつで、ファンルゥのお気に入りである。タオロンとしては複雑な気持ちだが、役に立ってくれるのはありがたかった。
ファンルゥは、父親そっくりの太い眉に強い意思の力を載せ、満面の笑顔を浮かべる。
「パパ、行ってらっしゃい! 頑張って!」
「ああ、頑張ってくる」
タオロンも、笑いながら部屋を出た。
夜が更けてきた。
荒くれ者の私兵たちでも、得体の知れぬ〈蝿〉は怖いらしく、夜番以外は決められた時間になれば部屋に籠もる。
館内の気配が鎮まってきたのを感じたタオロンは、時計を確認し、バンダナの結び目に手を触れた。武器は武器庫で管理されているため、愛用の大刀は手元にはないが、〈蝿〉の雇った私兵ごとき、『魔法のバンダナ』さえあれば素手で充分だ。
ファンルゥは、もう部屋を出たことだろう。
彼もまた、行動を開始すべきときだ。
タオロンは『〈蝿〉の見張りから、リュイセンの救出に移る』と、ルイフォンにメッセージを送り、現場に向かいはじめた。
『反省房』とはいっても、館内に牢があるわけではない。
何故なら、この庭園は何代か前の王の療養施設であり、不始末をしでかした使用人は、即刻、処分を言い渡される。反省を促すための場所など必要ないのだ。
だから、〈蝿〉が『反省房』と呼んでいるのは、館の隅のほうにある、日当たりの悪い部屋のことだ。地下研究室からは距離があるため、タオロンは自然と急ぎ足になっていた。
墨を溶かし込んだかのような暗い廊下に、月明かりが差し込む。普段、使っていない区域であるため、電灯は点けられていないものの、夜目の効くタオロンには充分な明るさだ。
しかし、反省房に近づくにつれ、彼の心臓は妙に落ち着きを失っていった。
豪胆を誇りとする彼である。恐怖ではないと断言できる。けれど、それに近いような胸騒ぎがした。
極力、足音を立てぬよう、気配を殺して先へと進む。
やがて、この先の角を曲がれば、反省房まで一直線の廊下となる――そんな位置までたどり着いたとき……。
「!」
鼻を突く、馴染みの感覚。
血の臭いだ……。
タオロンは太い眉をひそめた。喉仏が、こくりと動く。
「いったい、何が起こっていやがる……?」
悪態をつくように呟き、彼は警戒に身を引き締める。
どこからともなく吹いてきた初夏の風が、彼の背中を撫でた。この季節らしい、生ぬるさを運ぶはずの風が、しかし彼には、ひやりと冷たく感じられた。
そして、そのころ――。
ファンルゥの部屋で、絡繰り仕掛けの赤いピエロが踊る。
『さあ、窓からこっそり抜け出して、メイシアのいる展望塔を目指そう』
軽快な音楽に乗って、ピエロはファンルゥを誘う。
――しかし、ファンルゥは、すっかり夢の中だった。
これから起こる『わくわく』に興奮しすぎた彼女は、赤いピエロを待てずに、疲れ切って眠ってしまったのである……。
そのときこそ、待ちに待った兄貴分との接触の瞬間だ――。
ルイフォンは興奮に顔を上気させ、執務室のソファーで待機していた。心地の良い緊張が程よく体内を巡り、覇気で満たされていく。
奥の執務机では、一族の総帥たるイーレオの美貌が頬杖によって支えられており、その背後には護衛のチャオラウが控えていた。ルイフォンの向かいのソファーでは、次期総帥エルファンが、相変わらずの無表情で腕を組んでいる。
そして……。
ルイフォンの隣には、ミンウェイ。
メイシアから電話が来たら、まずはルイフォンが受ける。けれど、それから、すぐにミンウェイに替わることになるため、この配置となった。
とはいえ、話し手はミンウェイでも、会話の内容は皆で聞けるよう、電話の音声出力は外部スピーカーにしてある。画像付きの会議システムだと音質が落ちてしまい、複雑な話には不向きであるため、音声のみの状態だが、ミンウェイの顔を見せたほうが効果的だと判断した場合には、すぐに切り替えるつもりだ。
ミンウェイは、シュアンが忘れていった制帽を膝に載せ、身じろぎひとつせずにテーブルの上の電話を見つめていた。切れ長の瞳が伏せられているのは、視線が低い位置にあるからか、それとも彼女の気持ちの問題か。
ルイフォンは、ミンウェイに発破を掛けようとして……やめた。
彼女の内部では、いろいろな思いが巡っているはずだ。そっとしておくべきだろう。もし、彼女がリュイセンとの会話の途中で言葉を詰まらせたなら、ルイフォンが代わればよいだけだ。
兄貴分は、必ず取り戻す。
ルイフォンは、リュイセンのいる庭園へと、挑むように猫の目を光らせる。
そちらの方角にある窓は、まだ明るさを残した藍色をしていた。夏の陽射しが長いのと、メイシアの食事の時間がやや早めに設定されているためだ。
ほどなくして――。
待ち望んでいた呼び出し音が、執務室の空気を震わせた。
『ルイフォン』
彼の名を呼ぶ、メイシアの第一声。
その硬い声色だけで、不測の事態が起きたのだと、ルイフォンは理解できた。
「何があった?」
返した声は自分でも驚くほどに鋭く、慌てて彼は、弁解するように「教えてくれ」と、柔らかに付け加える。
『リュイセンが、反省房に入れられてしまったの』
メイシアの語尾は震えていた。
それは、非常事態に直面した彼女の不安の表れだと、ルイフォンは思った。だが本当は、良くない知らせをすぐに察してくれた彼への、軽い驚きと深い安堵に、彼女が涙ぐんでいたためであった。
彼の言葉に力を得た彼女は、即座に頭を切り替える。今すべきことは、正確な報告だと。
『リュイセンは、〈蝿〉に逆らって私を助けた罰で、昼食のあと拘束されてしまったらしいの。だから、私の夕食は別の人が持ってきて、リュイセンはこの部屋に来なかった――会えなかったの』
「!」
ルイフォンは愕然として、受話器を取り落しそうになった。
何故、この事態を予測できなかったのだろう。
メイシアのために動いたリュイセンは、〈蝿〉にとって、もはや部下ではなく、警戒すべき相手と変わったのだ。〈蝿〉が、メイシアからリュイセンを遠ざけることは、視野に入れておくべき懸案事項だったはずだ。
ぎりりと奥歯を鳴らし、拳を震わせる。自分の甘さに腹が立つ……。
そのとき。
『ルイフォン!』
凛とした呼びかけが、彼の耳朶を打った。
『何か予想外のことが起きた場合には、リュイセンとの接触を諦めて、タオロンさんに〈蝿〉暗殺を依頼する取り決めだったと思う。でも、今現在、私の身に危険が迫っているわけではないの。だから――!』
高く澄んだ響きに、ルイフォンは、はっとした。
メイシアの――彼の戦乙女の示す道が、目の前に広がって見えた。
その瞬間、彼は瞳を煌めかせ、迷わずに言い放つ。
「だから、まだ諦めない!」
『うん!』
重ねた思いに、彼女は嬉しそうに応える。
遥かな庭園にいながらも、彼女は彼と共にある――。
ルイフォンは、次に取るべき行動を即座に閃かせた。
「タオロンだ! タオロンに頼んで、リュイセンを反省房から助け出す。そして、メイシアの部屋まで連れてきてもらう」
『展望塔の扉の鍵も、私の部屋と同じで内鍵なの。だから、鍵が掛かっていても、私が開けられる! 見張りは……』
「見張りなんか、あのふたりの前には、いないも同然だ。――問題ないな!」
『うん!』
小気味よいやり取りを繰り広げ、ルイフォンは好戦的な笑みを浮かべた。
そして、ぐいと顔を上げ、執務机のイーレオを見やる。彼の背で、金の鈴が誇るように跳ねた。
「親父! それでいいよな!」
「今回の件はお前に一任してある。好きにやれ」
頬杖を崩すことなく返された、豪然とした響き。イーレオは眼鏡の奥の目を細め、すっと口角を上げる。
ルイフォンは一瞬だけ、頬に緊張を走らせ、しかし、すぐに感謝を込めて頭を下げた。そして、タオロンに連絡を取るべく、尻ポケットから携帯端末を取り出す。
現在、タオロンには、地下研究室に籠もっている〈蝿〉の見張りを頼んでいる。
三十分ほど前に『〈蝿〉の行動に異常なし』の報告を受けていたので、すっかり安心していたが、時間的にいって、タオロンが見張りにつくよりも前に、〈蝿〉はリュイセンを反省房に入れていたのだ。
同じ館内でのできごとなのに気づかなかったと、タオロンは気に病みそうだが、おそらく、リュイセンが囚われたことは意図的に隠された。
〈蝿〉は、タオロンは裏切れないと信じているが、同時に、心情的にはリュイセンの味方であることも承知している。ならば、面倒ごとの火種になりかねない情報は、用心のために遮断するだろう。
タオロンに責任はない。それどころか、後手に回ったルイフォンの落ち度だ。
現状を考察しながら、タオロンの連絡先を繰り出したとき、「ルイフォン」と低い声が響いた。
「?」
イーレオ……ではなかった。
同じ声質を持った、次期総帥エルファンの氷の眼差しが、こちらを向いていた。一族そのものの美貌には懸念が浮かんでおり、わずかに眉がひそめられている。
「リュイセンは、たとえ素手でも、私兵たちやヘイシャオの〈影〉よりも、よほど強い。あいつが、おとなしく反省房とやらに捕まっているのなら、自分の意思で入っているということだ」
威圧を含んだ口調は、ルイフォンに同意を求めており、彼は促されるままに「あ、ああ」と首肯する。
「ならば、斑目タオロンが『助けに来た』と言ったところで、素直についていくことはないだろう」
「そこは、タオロンに引きずってでも連れてきてもら……」
そこまで言いかけて、ルイフォンは気づく。
リュイセンとタオロンは、どちらも甲乙をつけがたい武人である。もしも、本当にタオロンがリュイセンを引きずる事態になった場合には、ふたりとも満身創痍の大騒ぎになっているはずだ。
ルイフォンが言葉を詰まらせていると、彼の隣で草の香が動いた。
「斑目タオロン氏に、伝言を頼んでください」
鮮やかな緋色の衣服の胸を張り、ミンウェイが毅然と告げる。
「『鷹刀ミンウェイという人物が、リュイセンと話をしたいと電話を待っている。だから、メイシアの部屋に行ってほしい。メイシアと鷹刀は、とっくに連携している』――私の名前を知らないはずのタオロン氏にこう言われれば、リュイセンはタオロン氏の言葉を信じ、来てくれます」
彼女は断言し、それから、はっと顔色を変えて「……と、思います」と付け加えた。
「ミンウェイ! 名案だ!」
自信なさげなミンウェイの雰囲気を吹き飛ばすように、ルイフォンは叫び、破顔する。
「それでいこう! いいよな!?」
彼は立ち上がり、ぐるりと皆を見渡す。一本に編まれた髪が、道を切り拓くように空を薙ぎ、その先で金の鈴が煌めく。
彼の言葉に、否やを言う者は誰もなかった。
タオロンは、地下研究室にいる〈蝿〉を見張っていた。
正確には、〈蝿〉が就寝時間よりも前に研究室から出てきたら、すぐにもルイフォンに連絡できるよう、地下への階段が見える位置で身を潜めていた。
不意に、彼の胸元で携帯端末が振動する。
発信元の相手は、ルイフォン。
電話ではなく、メッセージの着信通知だった。周りを警戒しての配慮だろう。
ちょうどそのとき、〈蝿〉の夕食を載せたワゴンが、こちらに向かってやってくるのが見えたので、タオロンは、メイシアもまた食事の時間を迎え、リュイセンとの接触がうまくいったという、朗報が来たのだと思った。
彼は、ほっと相好を崩した。
タオロンの夕食は、娘のファンルゥと共に摂ることになっている。〈蝿〉の見張りをリュイセンと交代し、自分は部屋に戻ってよいか訊いてみよう、そんなことを思いながらメッセージを開き、彼は息を呑んだ。
――リュイセンは反省房に入れられたため、メイシアの部屋に来なかった。
ルイフォンからのメッセージは、そんな文面から始まり、こと細かに状況が綴られていた。
「嘘、だろ……? 俺は、何も知らね……」
タオロンは愕然とし、慌てて携帯端末に指を走らせる。
外見の印象通りに、あまり機械類の操作が得意でない彼が、懸命に誤字混じりの謝罪文を打ち込むと、次の瞬間には、情報機器の専門家であるルイフォンから『タオロンの責任ではない』と速攻で返ってきた。
「本当に、すまん」
太い指がもどかしく、タオロンは思わず口に出して謝る。
勿論、その声はルイフォンには聞こえない。けれど、彼を仲間として信頼するメッセージが届けられた。
――頼む、協力してくれ。お前にかかっている。
続けて送られてきた指示に、ごくりと唾を呑み込み、タオロンは足早にファンルゥの部屋へと向かった。
夕食は、いつも通りにファンルゥと摂った。
〈蝿〉も、自分の食事を中断してまで、何かの行動を起こすことはないだろうから、少しでもファンルゥのそばにいて、安心させてあげてくれ。――ルイフォンが、メッセージでそう言ってくれたのだ。
だが、このあとまた、〈蝿〉の見張りに戻る。
そして夜が更け、夜番以外の私兵が室外への出歩き禁止の時間になったら、リュイセンを反省房から助け出し、メイシアのもとに連れて行ってほしい。そのあとは、もとの作戦通り、リュイセンを味方に戻し、塒に戻る〈蝿〉を待ち伏せて捕獲するから、援護を頼む。――これが、ルイフォンからの要請だった。
食事のあとのテーブルを拭き終え、タオロンは、そのままなんとなく椅子に座った。
否、なんとなくではない。
片付いたテーブルの上にスケッチブックを広げはじめた愛娘の顔を、よく見たかったのだ。
ファンルゥは黒いクレヨンで大きな丸を描き、その中にありったけの色を詰め込んでいた。
最近は『空に浮かぶ、紫の風船』ばかりを描いているようだが、食後に描く絵だけは、この庭園に来てからずっと変わらずに『これ』である。いつだったか、何を描いているのかと尋ねたタオロンに、彼女はこう答えた。
『今、食べたご飯』
丸は、皿であるらしい。
『ここのご飯は、斑目のお家のご飯よりも、ずっと美味しいね』
不満の多い窮屈な生活の中でも、食事だけは特別な楽しみのようだった。
ファンルゥの身を守り、そして、飢えさせない。――たったそれだけのことかもしれないが、タオロンにとっては何よりも大切なことだ。
「……」
彼は、刈り上げた短髪と額の間にきつく巻かれた赤いバンダナを、そっと解いた。だいぶ色あせてしまったそれは、彼の愛した女が、彼に巻いてくれたものだ。
『猪突猛進に走り出しそうになったら、バンダナを結び直しながら、もう一度だけ考えてみて』
『それでも、走るべきだと思ったら、走ったらいいわ』
彼女の言葉が、耳に蘇る。
それと同時に、先ほど、ルイフォンから送られてきたメッセージを反芻する。
――リュイセンを反省房から助け出せば、タオロンは『明確に、〈蝿〉を裏切った』ということになる。見張りの私兵たちを、その場で全員、身動きの取れない状態にできなければ、〈蝿〉に報告されるだろう。
そうなったとき、ファンルゥの身に危険が及ぶかもしれない。……すまない。
でも、どうか、お願いできないだろうか。
頼む。お前にしかできないんだ。
「……猪突猛進なんかじゃないさ」
両手で持ったバンダナを、タオロンは再び額に巻き直す。――いつもよりも、ぎゅっと、きつく。
「パパ?」
ご機嫌な様子で絵を描いていたファンルゥが、くりっとした丸い目を大きく見開いた。
彼女は握っていたクレヨンを放り出し、自分の椅子から、ぴょこんと飛び降りる。ぱたぱたとテーブルを回って、タオロンの胸へと飛び込んできた。
「ファンルゥ!?」
彼の膝によじ登り、甘えるように抱きついてきたファンルゥに、タオロンは困惑する。
「パパ。バンダナ、きゅっきゅっ、ね?」
「?」
愛娘の言葉の意味が分からずに、タオロンは太い眉を寄せる。
「ファンルゥ、知っているもん! パパのバンダナは、ママのおまじないでしょ! 『パパ、頑張って!』って、ママが言っているの!」
ファンルゥは、あちこちに元気に跳ねたくせっ毛をタオロンの頬に擦り寄せ、小さな手を伸ばして赤いバンダナの結び目に触れる。
「パパはね、これから、ちょっと大変になるとき、バンダナをきゅっきゅっ、って結び直すの。そうすると、力がもりもり出てきて、パパは無敵になるの」
「ファンルゥ……」
バンダナについて、『昔、ママから貰った』くらいは言ったことがあると思うが、特に詳しく説明した覚えはない。
だから、ファンルゥは『お話』を作ったのだ。
大好きなパパとママが、今も赤いバンダナで繋がっているという、素敵なお話を――。
「そうだよ、ファンルゥ」
タオロンは愛娘を抱きしめた。
太い腕で、優しく包み込みながら、本当は包まれているのは自分のほうだと思う。
小さくて軽くて柔らかくて……。こんなに、か弱い存在なのに、ファンルゥは幸せという名の温かさで彼を包んでくれる。
「パパが、正しいことを頑張れるようになる、魔法のバンダナだ」
『魔法』などという、およそ自分らしくない言葉に照れながら、それでもタオロンは朗らかに笑った。
だが、その笑みは、耳元で囁かれた、ファンルゥの次のひとことで凍りついた。
「パパ、リュイセンを助けに行くんでしょ?」
「――!?」
「ファンルゥ、見張りのおじさんたちのおしゃべりを聞いていたから、知っているもん。リュイセンはメイシアを守ろうとして、〈蝿〉のおじさんに逆らったの。それで、罰として閉じ込められちゃった、って」
タオロンの首に、ぎゅっとしがみつき、できるだけ小さな声でファンルゥが言う。内緒にするべき話だと、ちゃんと分かっているのだ。
「ねぇ、リュイセンを助けて、今晩、皆で逃げるんでしょ? もう、〈蝿〉のおじさんの言うことなんか、きくもんか! って」
「ファンルゥ……、お前……」
タオロンは、太い眉の下の目をいっぱいに見開く。
小さな子供だから、何も分かっていないと思っていた。
好奇心旺盛なだけの、おてんば娘だと思っていた。
「ファンルゥ……!」
無骨なタオロンは、こんなときにぴったりな、うまい言葉など知らない。だから、守り抜くという意思表示として、大切な娘を抱きしめる。
そして、彼女の耳元で、これからのことを説明する。
「ルイフォンから連絡があったんだ。お前の言う通り、リュイセンを助けてほしい、って。――でも、俺が助けたのが〈蝿〉にばれたら、この部屋の外にいる見張りが入ってきて、ファンルゥ……お前が殺されるかもしれない」
「……っ! ファ、ファンルゥは、上手に隠れている……ね!」
脅えた声を上げながらも、彼女なりの策を練る娘の頭を、タオロンは大きな手で包み込んだ。
「安心しろ。ルイフォンは、ちゃんとお前のことを考えていて、先に逃げるようにと言っている。――お前は、寝る時間になったら、電気を消したあと、ベッドじゃなくてメイシアの部屋に行くんだ。メイシアとふたりで待っていてくれ」
それが、ルイフォンからの指示だった。
本当はファンルゥが眠くなる前に移動させたいのだが、夕食の時間帯は、私兵たちが交代で食堂を利用するために、あちこちに人の目がある。それで、ファンルゥが寝る前ということになったのだ。
「分かった。赤いピエロさんが出てきたら、ファンルゥはメイシアのところに行く」
ファンルゥは、壁に掛けられた絡繰り時計を示す。
文字盤が読めなくても、時報で出てくる絡繰り仕掛けのピエロの色が、時間を教えてくれるのだ。これもまた〈蝿〉が用意した子供のための品のひとつで、ファンルゥのお気に入りである。タオロンとしては複雑な気持ちだが、役に立ってくれるのはありがたかった。
ファンルゥは、父親そっくりの太い眉に強い意思の力を載せ、満面の笑顔を浮かべる。
「パパ、行ってらっしゃい! 頑張って!」
「ああ、頑張ってくる」
タオロンも、笑いながら部屋を出た。
夜が更けてきた。
荒くれ者の私兵たちでも、得体の知れぬ〈蝿〉は怖いらしく、夜番以外は決められた時間になれば部屋に籠もる。
館内の気配が鎮まってきたのを感じたタオロンは、時計を確認し、バンダナの結び目に手を触れた。武器は武器庫で管理されているため、愛用の大刀は手元にはないが、〈蝿〉の雇った私兵ごとき、『魔法のバンダナ』さえあれば素手で充分だ。
ファンルゥは、もう部屋を出たことだろう。
彼もまた、行動を開始すべきときだ。
タオロンは『〈蝿〉の見張りから、リュイセンの救出に移る』と、ルイフォンにメッセージを送り、現場に向かいはじめた。
『反省房』とはいっても、館内に牢があるわけではない。
何故なら、この庭園は何代か前の王の療養施設であり、不始末をしでかした使用人は、即刻、処分を言い渡される。反省を促すための場所など必要ないのだ。
だから、〈蝿〉が『反省房』と呼んでいるのは、館の隅のほうにある、日当たりの悪い部屋のことだ。地下研究室からは距離があるため、タオロンは自然と急ぎ足になっていた。
墨を溶かし込んだかのような暗い廊下に、月明かりが差し込む。普段、使っていない区域であるため、電灯は点けられていないものの、夜目の効くタオロンには充分な明るさだ。
しかし、反省房に近づくにつれ、彼の心臓は妙に落ち着きを失っていった。
豪胆を誇りとする彼である。恐怖ではないと断言できる。けれど、それに近いような胸騒ぎがした。
極力、足音を立てぬよう、気配を殺して先へと進む。
やがて、この先の角を曲がれば、反省房まで一直線の廊下となる――そんな位置までたどり着いたとき……。
「!」
鼻を突く、馴染みの感覚。
血の臭いだ……。
タオロンは太い眉をひそめた。喉仏が、こくりと動く。
「いったい、何が起こっていやがる……?」
悪態をつくように呟き、彼は警戒に身を引き締める。
どこからともなく吹いてきた初夏の風が、彼の背中を撫でた。この季節らしい、生ぬるさを運ぶはずの風が、しかし彼には、ひやりと冷たく感じられた。
そして、そのころ――。
ファンルゥの部屋で、絡繰り仕掛けの赤いピエロが踊る。
『さあ、窓からこっそり抜け出して、メイシアのいる展望塔を目指そう』
軽快な音楽に乗って、ピエロはファンルゥを誘う。
――しかし、ファンルゥは、すっかり夢の中だった。
これから起こる『わくわく』に興奮しすぎた彼女は、赤いピエロを待てずに、疲れ切って眠ってしまったのである……。