残酷な描写あり
7.岐路で選り抜く道しるべ-2
発言許可を得たメイシアの目線が、落ち着きなく揺れた。
それは初め、彼女の遠慮がちな性格のためだと、ルイフォンは思った。だが、すぐに、それだけではないと気づく。
「メイシア、すまん。お前の画面には『俺たちの頭』が映っているんだよな?」
執務室のモニタ画面には、メイシアの顔が正面からの角度で映っている。しかし、彼女のほうは、天井カメラの映像だ。これでは話しにくかろう。
「ちょっと待ってな。モニタに付いているカメラに切り替える。俺と向き合う形にしよう」
ルイフォンが素早く腰を浮かすと、メイシアは「あっ」と声を漏らした。
「メイシア?」
『あ、あのね、ルイフォンの顔は見たいの。けど、今はミンウェイさんをお願いしても……いい?』
彼女は心底、申し訳なさそうに、大真面目に眉を曇らせた。彼に頭を下げようとしているために首をすくめており、しかし、目線はカメラに向けなければと思っているらしく、結果として、ねだるような上目遣いになっている。
言っていることも、仕草も可愛すぎた。
ルイフォンは一瞬、目を丸くして、それから、この会議の場にそぐわないくらいに破顔した。
「ああ、勿論だ」
浮かれた声で気楽に答え、「いいよな?」とミンウェイに声を掛け……はっとする。
いつもなら『相変わらず、仲がいいわね』と、冷やかしながらも、くすりと笑うミンウェイが、凍りついた表情をしていた。
当然だった。
メイシアは、これから〈蝿〉に関する発言をする。それを『ミンウェイに向かって』話したいと願い出たのだから……。
ルイフォンは気まずげに咳払いをひとつして、緩んだ顔をもとに戻す。それから、カメラを切り替え、ミンウェイの目の前へとモニタを移動させた。
執務室のミンウェイと、遥かな庭園に囚われたメイシアとが空間を超えて向き合った。
メイシアは一礼し、緊張の面持ちで口を開く。
『この庭園から鷹刀のお屋敷まで、〈蝿〉をおとなしく連行する方法を提案いたします』
モニタの正面にいるミンウェイが、硬い顔で相槌を打った。それを確認したかのようなタイミングで、メイシアが告げる。
『〈蝿〉に向かって、『ミンウェイさんに会えば、あなたが知りたがっていた情報を教えてもらえる』と言えば、彼は暴れたりはしないはずです』
「どういうこと? 私は何も知らないわ。……〈蝿〉を騙すの?」
困惑のためか、やや強い口調でミンウェイは尋ねた。言ってしまってから、彼女は「ごめんなさい」と、草の香を散らす。
『騙すのではありません。〈蝿〉が心から欲している情報を、ミンウェイさんは知っているんです』
「ええっ!? 何よ……? それ……」
ミンウェイは、動揺もあらわに声を上げた。
対してメイシアは、本人は平静を保っているつもりのようであったが、目線がわずかに下がる。その証拠に、黒絹の髪がさらりと胸元に流れた。
『〈蝿〉は『自分』が――オリジナルのヘイシャオさんが、自ら『死』を望んだ理由を知りたがっています』
「お父様が亡くなった理由……?」
『はい。彼は、亡くなった奥様と『生を享けた以上、生をまっとうする』と固く約束を交わしていたそうです。だから、どうして自分が『死』を求めたのか。〈蝿〉の言葉を借りれば、どうして妻への『裏切り行為』を働いたのか。知りたがっているんです』
メイシアは黒曜石の瞳を陰らせ、唇を噛む。
『〈蝿〉の持っている記憶は保存されていたものなので、〈蝿〉は亡くなる直前のヘイシャオさんのことを知りません。――けど、一緒に暮らしていたミンウェイさんなら、知っているんです……』
「し、知らないわ……!」
ミンウェイの声が裏返った。
絶世の美貌は悲壮に彩られ、血の気がすっと引いていく。
「そんなことを言われても、どうしてお父様が亡くなったのかなんて、私にはさっぱり分からないわ。だって、ある日突然、お父様は私を連れて、エルファン伯父様のところに行ったのよ……」
ミンウェイには、本当に心当たりがなかった。
彼女はずっと、『父親』の顔色を窺いながら暮らしてきた。けれど、彼のことは何ひとつ、分からなかったのだ。
どうしたら彼が怒らないのか、どうしたら彼が喜ぶのか。……どうしたら、彼女のことを見てくれるのか。
探りながら、悩みながら、生きてきた。
それが、『父親』が亡くなって十数年も経った今――この数日の間に、彼がずっと隠し続けていた『秘密』が、急に明らかになった。
『父親』は、妻のクローンである彼女を『娘』として育てようとして、心が受け入れきれずに病んでいったのだと……理解した。
でも、それはきっと、まだ彼という人間のごく一部。
謎だった彼の心に、指先をかすめた程度のこと。
だから――。
「知りたいのは私のほう……。私は、お父様のことを、まったく分かってなかったんだから。――お父様とは、一緒に暮らしていながらも、一緒に生きてはいなかったの……」
吐き出された言葉は、切ない思い。
「私は、お父様が何を考えて生きていたのか知りたい。……だから、……〈蝿〉に会ってみたいと思っ……」
心の奥底に封じたはずの願いが、自然に口からこぼれた。
声にしてしまってから、ミンウェイは慌てて口元を押さえる。顔色を変え、脅えたように視線をさまよわせると、隣にいたシュアンが凶相に似合わぬ笑みを浮かべた。
「遠慮することないだろ? メイシア嬢の策に乗ればいい」
「でも!」
ミンウェイは弾かれたように腰を浮かせ、喰らいつくようにシュアンの着崩した制服を掴んだ。
「私は『お父様が亡くなった理由』を知りません! メイシアの策は、私がそれを言えないと駄目なんです!」
どことなく、すがるような必死さで、ミンウェイはシュアンの服をぐいと引く。
結果、シュアンは絞め上げられたような格好になったのだが、彼は揶揄するように口の端を上げた。
「あんたの『父親』が死んだ理由なら、俺が知っている」
「え……?」
ミンウェイの手から力が抜けた。シュアンを絞める拘束が緩んだ。
だが、ミンウェイの指先はシュアンの上着に掛けられたまま――そんな彼女の手を無理に払うことなく、彼は三白眼の眼球だけをテーブルの上のモニタ画面に移した。故に、ガラの悪い面構えが、いつもにもまして悪相になる。
「あんたも知っているんだろう、メイシア嬢? ――リュイセンから聞いたな?」
『緋扇さん!? ……どうして?』
シュアンの視線と、メイシアの叫びにつられるように、執務室にいる皆がテーブルに注目すれば、不鮮明なモニタ画面の中でメイシアが愕然としていた。
「賢いメイシア嬢が、詰めの甘いまま、策を披露するはずがないだろう?」
『……』
「そのくせ、聡明なメイシア嬢らしくもなく、重要なところが後回しだったな」
『……っ』
「言いにくいんだろう? 『ミンウェイの自殺未遂が原因だ』とは」
『緋扇さん!』
悲鳴のようなメイシアの高い声が、音割れを起こした。
初耳だったルイフォンは驚愕に目を見開き、ミンウェイを見やる。彼女は蒼白な顔で拳を握りしめていた。――シュアンの制服の端を皺にしながら。
騒然とした場の空気に、しかし、シュアンは構わずに続ける。
「そんなことを言ったら、なんでも自分の責任にしたがるミンウェイが、気に病むからな。――逆なのによ」
シュアンは笑い飛ばすように、軽薄に言い放つ。
「メイシア嬢がさっき言った『生を享けた以上、生をまっとうする』という約束というやつで、はっきり分かった。――あの『父親』の心は、妻が死んだときに死んでいた。なのに、その言葉で、無理やり生かされていたのさ」
「どういうこと!?」
噛み付くように、ミンウェイが尋ねる。
「あの『父親』は、本当は妻のあとを追いたかった。だが、妻との約束がそれを阻む。俺には、同情する気はこれっぽっちもねぇが、まぁ、苦しかったんだろうよ。――それが、妻になるはずだった『娘』が『死』を望んだ。『父親』にしてみれば、それは『死の許しを得た』ように感じられたんだろう。……推測だけどな」
『私も、そう思います。……いえ、少しだけ違うでしょうか』
すかさずメイシアが口を挟むと、シュアンは気を悪くしたふうでもなく、ただ興味深げに悪人面をにたりと歪めた。
「ほう。では、メイシア嬢の見解は如何に?」
水を向けられたメイシアは、軽く会釈をして口を開く。
『必死に『生』を望んだ奥様とそっくりでありながら、『死』を求めたミンウェイさんを見て、ヘイシャオさんは、やっとふたりの区別ができるようになったんだと思います。だから、悪い夢から覚めたような気持ちで、奥様に逢いにいったのではないかと。そんな気がします』
そこまで言ってから、メイシアは考えるような素振りを示した。
『……やっぱり、緋扇さんがおっしゃったことと同じことなのかもしれません』
申し訳なさそうにシュアンに言い、メイシアは、ほのかな笑みを混じえた眼差しをミンウェイに向けた。
そして、はっきりと告げる。
『ヘイシャオさんは、ミンウェイさんに救われたんです』
遥かな庭園から回線を介し、澄んだ声が届けられた。穏やかなはずのその響きは、ミンウェイの心の奥を激しく揺らした。
「お父……様……!」
シュアンの制服を握りしめたままの拳が、ふるふると震える。
そんなミンウェイを刺激しないよう、シュアンは足元に落ちていた制帽を爪先を使って器用に拾い、彼女の頭に目深にかぶせた。潤んだ切れ長の瞳が、広いつばの下に隠れた。
しっとりと濡れたような沈黙が訪れる。
モニタの発する電子的な雑音だけが、妙に大きく聞こえる……。
やがて、メイシアが『ミンウェイさん』と、遠慮がちに呼びかけた。
『私にとって〈蝿〉は、父の仇です。リュイセンを苦しめ、私を囚えた憎い敵です。許すことはできません』
揺らぎのない黒曜石の瞳がきっぱり告げ、けれど、すぐに『でも――』と続ける。
『〈蝿〉は『デヴァイン・シンフォニア計画』のために作られた存在です。何も知らされずに、それどころか騙され、利用されただけの被害者でもあるんです』
メイシアは声を落とし、わずかに目を伏せた。
『セレイエさんの――ホンシュアの記憶を受け取ったせいなのかもしれませんが、私は〈蝿〉を憎むと同時に、憐れだとも感じています。彼は不幸だと思っています。……おかしいかもしれませんが、本当です』
嫋やかでありながらも芯の強い戦乙女が、慈悲と無慈悲を両手に携え、悲しげに微笑んだ。
『〈蝿〉に与えるべきものは『死』です。それを譲るつもりはありません。――けれど、彼に救いがほしいんです』
「メイシア……?」
シュアンの制帽の影から、ミンウェイが首をかしげる。
『ヘイシャオさんと〈蝿〉は、別人です。だから、ヘイシャオさんにとって救いだったことが、〈蝿〉にとっても救いになるかどうかは分かりません。けど、ヘイシャオさんの『死』の理由を知ることは、〈蝿〉にとって絶対に意味があるはずです。……だから、この策を採ってください』
メイシアの策を反対する者など、誰もいなかった。
「メイシアの安全が最優先よ! 不測の事態のときは、とっとと決着をつけるのよ!」と、ミンウェイが強く主張した以外は、満場一致で決定し、会議はお開きとなった。
ルイフォンの「解散」の声を聞くやいなや、シュアンが「あとは任せた」と足早に執務室を出ていく。なんでも、適当に誤魔化して職場を抜けてきたのだという。
メイシアの夕食のとき、すなわち、リュイセンとの接触のときには顔を出せないが、夜には首尾を聞きに来ると言い残していった。よほど慌てていたらしく、ミンウェイの頭に制帽を忘れたままだ。――免職になる日も近そうである。
ルイフォンも、そそくさと自室に戻り、メイシアとふたりきりの時間を過ごす。
勿論、電話での逢瀬だが、ひとりきりで頑張り抜いたメイシアを労い、あとひと息だと激励する。
「メイシア、今夜、決着をつける」
『うん。――ルイフォン。今まで、お疲れ様』
「メイシアこそ、ありがとう」
そして、緊張と興奮に彩られた時が流れ、メイシアの夕食の時間となった。
部屋の扉に、ぴたりと張りつき、メイシアは耳をそばだてていた。
――これでやっと、リュイセンと手を取り合うことができる。
祈るように組み合わされた両手が、小刻みに震えていた。
今までのリュイセンの言動を考えると、すんなり話を聞いてくれるとは思わない。けれど、頭から突っぱねるようなことはないだろう。だから、最後にはきっと、彼は味方になる……。
待ち望んでいたエレベーターの駆動音が聞こえてきた。滑らかな上昇の気配に続く、停止のチャイム。
「……っ!」
メイシアの心臓が跳ねる。食事のワゴンがエレベーターを降りるときの、ドアの溝を超える、がたんという音が響く。
メイシアは、扉に飛びつくようにして施錠を解いた。
そのときだった。
「ま、待て! 開けるな!」
野太い男の叫びが聞こえた。
リュイセンではない。知らない男の声だ。
「あんたの姿を見たら、俺は死ぬ!」
「え……」
「〈蝿〉がそう言った! あいつの言うとおりにしないと、俺は殺されるんだ!」
「……?」
何が起きた?
リュイセンは、どうした? 〈蝿〉は、いったい……?
メイシアの頭の中を疑問が渦巻き、駆け巡る。
「食事は、ここに置いていく。あんたは、俺がいなくなってから取るんだ。食べ終わったら、ワゴンを廊下に置いておけ!」
外にいる男は、そう言ってすぐに立ち去ろうとした。
「待ってください! リュイセンはどうしたんですか!」
男を引き留めようと、メイシアの体は無意識に動いた。ドアノブをひねり、扉を開こうと……。
「やめろ!」
男は絶叫し、体当たりで勢いよく扉を押さえた。
「きゃっ」
メイシアは危うく指を挟まれそうになったが、ぎりぎり難を逃れる。
「開けるな……、開けないでくれ……、俺はまだ死にたくない……」
よく聞けば、男の声はがたがたと震えていた。
そういえば、私兵たちは〈蝿〉の偽薬と虚言で、いいように操られているのだということをメイシアは思い出す。
「あんたの質問に答える! だから、出てこないでくれ、……頼む」
脅えきっている男には申し訳ないのだが、メイシアにとって好都合な展開だった。
ここで男から情報を得なければ、すべては水泡に帰すかもしれない。彼女は黒曜石の瞳を閃かせ、毅然と尋ねる。
「私の食事は、世話係のリュイセンが持ってきてくれることになっています。それが、どうしてリュイセンではなく、あなたなのですか?」
「リュイセンは、あんたの昼食を下げてきたあと、〈蝿〉に反省房に入れられた。そのとき、今後、あんたの食事は俺が代わりに持っていけと、〈蝿〉に命令された」
「反省房!?」
思ってもみなかった単語に、メイシアは困惑――否、愕然とする。
「あ、あんたが原因だろう!」
「え?」
「昼間の火事騒動。あれは、あんたが〈蝿〉の実験体にされるのを防ごうと、リュイセンが非常ベルを鳴らしたんだってな!」
それは、おおむね間違ってはいない。
実験体ではなく、激昂した〈蝿〉に殺されかけたところをリュイセンが助けてくれた、というのが正しいのであるが。
「反省房は、リュイセンが〈蝿〉に逆らった罰だ!」
「――!」
「そもそも、あんたは〈蝿〉の研究のために連れてこられたんだろう? それが、世話係になったリュイセンを誘惑し、自分の身を守らせようとした。――俺が、あんたを見たら殺されるってのも、リュイセンに続いて、俺まで惑わされたらたまらないからだと〈蝿〉は言っていたぞ!」
「…………」
男の弁は、ところどころ〈蝿〉による脚色が入っているようだが、だいたいのところは事実だろう。
要するに、リュイセンの身柄は〈蝿〉に拘束された。
それは、従順な駒であるはずの彼が、メイシアを助けようと〈蝿〉に逆らった罰。
同時に、〈蝿〉がメイシアに『続きは明日』と言った件を話すときに、再び彼に邪魔されないよう隔離した、という意味もあるのだろう。
メイシアの白磁の肌が赤みを失い、透き通るような青白さを帯びた。
急転直下の非常事態だった。
ここにきて、まさか、そんな……と、体が震え始める。
「もういいだろう!」
男が金切り声を上げた。早くこの場を去りたいという気持ちが、扉越しでも、びしばしと伝わってきた。
よほど〈蝿〉に脅されたらしい。――そう思ったとき、メイシアは、はっと気づく。
彼女が初めてこの展望室に囚われた日、私兵たちが悪さを働く可能性があると、〈蝿〉は彼女に警告し、鍵を閉めるようにと忠告した。
つまり、彼女にとって、私兵たちは危険な存在だ。
〈蝿〉は、そんな私兵のひとりである扉の向こうの男を執拗に脅し、メイシアと顔を合わせないように計らった。それは、明日の交渉相手である彼女を丁重に扱っている、という意思表示だ。
「〈蝿〉……」
彼もまた、必死なのだ。
「おい、聞いているのか! 俺はもう、行っていいだろう!」
扉の外で男が叫ぶ。
「は、はい! どうもありがとうございました」
メイシアも叫ぶようにして言葉を返し、携帯端末へと走る。
ともかく、ルイフォンに報告するのだ。
そして、この事態を打開すべく、新たなる方策を一刻も早く講じなければならない……。
それは初め、彼女の遠慮がちな性格のためだと、ルイフォンは思った。だが、すぐに、それだけではないと気づく。
「メイシア、すまん。お前の画面には『俺たちの頭』が映っているんだよな?」
執務室のモニタ画面には、メイシアの顔が正面からの角度で映っている。しかし、彼女のほうは、天井カメラの映像だ。これでは話しにくかろう。
「ちょっと待ってな。モニタに付いているカメラに切り替える。俺と向き合う形にしよう」
ルイフォンが素早く腰を浮かすと、メイシアは「あっ」と声を漏らした。
「メイシア?」
『あ、あのね、ルイフォンの顔は見たいの。けど、今はミンウェイさんをお願いしても……いい?』
彼女は心底、申し訳なさそうに、大真面目に眉を曇らせた。彼に頭を下げようとしているために首をすくめており、しかし、目線はカメラに向けなければと思っているらしく、結果として、ねだるような上目遣いになっている。
言っていることも、仕草も可愛すぎた。
ルイフォンは一瞬、目を丸くして、それから、この会議の場にそぐわないくらいに破顔した。
「ああ、勿論だ」
浮かれた声で気楽に答え、「いいよな?」とミンウェイに声を掛け……はっとする。
いつもなら『相変わらず、仲がいいわね』と、冷やかしながらも、くすりと笑うミンウェイが、凍りついた表情をしていた。
当然だった。
メイシアは、これから〈蝿〉に関する発言をする。それを『ミンウェイに向かって』話したいと願い出たのだから……。
ルイフォンは気まずげに咳払いをひとつして、緩んだ顔をもとに戻す。それから、カメラを切り替え、ミンウェイの目の前へとモニタを移動させた。
執務室のミンウェイと、遥かな庭園に囚われたメイシアとが空間を超えて向き合った。
メイシアは一礼し、緊張の面持ちで口を開く。
『この庭園から鷹刀のお屋敷まで、〈蝿〉をおとなしく連行する方法を提案いたします』
モニタの正面にいるミンウェイが、硬い顔で相槌を打った。それを確認したかのようなタイミングで、メイシアが告げる。
『〈蝿〉に向かって、『ミンウェイさんに会えば、あなたが知りたがっていた情報を教えてもらえる』と言えば、彼は暴れたりはしないはずです』
「どういうこと? 私は何も知らないわ。……〈蝿〉を騙すの?」
困惑のためか、やや強い口調でミンウェイは尋ねた。言ってしまってから、彼女は「ごめんなさい」と、草の香を散らす。
『騙すのではありません。〈蝿〉が心から欲している情報を、ミンウェイさんは知っているんです』
「ええっ!? 何よ……? それ……」
ミンウェイは、動揺もあらわに声を上げた。
対してメイシアは、本人は平静を保っているつもりのようであったが、目線がわずかに下がる。その証拠に、黒絹の髪がさらりと胸元に流れた。
『〈蝿〉は『自分』が――オリジナルのヘイシャオさんが、自ら『死』を望んだ理由を知りたがっています』
「お父様が亡くなった理由……?」
『はい。彼は、亡くなった奥様と『生を享けた以上、生をまっとうする』と固く約束を交わしていたそうです。だから、どうして自分が『死』を求めたのか。〈蝿〉の言葉を借りれば、どうして妻への『裏切り行為』を働いたのか。知りたがっているんです』
メイシアは黒曜石の瞳を陰らせ、唇を噛む。
『〈蝿〉の持っている記憶は保存されていたものなので、〈蝿〉は亡くなる直前のヘイシャオさんのことを知りません。――けど、一緒に暮らしていたミンウェイさんなら、知っているんです……』
「し、知らないわ……!」
ミンウェイの声が裏返った。
絶世の美貌は悲壮に彩られ、血の気がすっと引いていく。
「そんなことを言われても、どうしてお父様が亡くなったのかなんて、私にはさっぱり分からないわ。だって、ある日突然、お父様は私を連れて、エルファン伯父様のところに行ったのよ……」
ミンウェイには、本当に心当たりがなかった。
彼女はずっと、『父親』の顔色を窺いながら暮らしてきた。けれど、彼のことは何ひとつ、分からなかったのだ。
どうしたら彼が怒らないのか、どうしたら彼が喜ぶのか。……どうしたら、彼女のことを見てくれるのか。
探りながら、悩みながら、生きてきた。
それが、『父親』が亡くなって十数年も経った今――この数日の間に、彼がずっと隠し続けていた『秘密』が、急に明らかになった。
『父親』は、妻のクローンである彼女を『娘』として育てようとして、心が受け入れきれずに病んでいったのだと……理解した。
でも、それはきっと、まだ彼という人間のごく一部。
謎だった彼の心に、指先をかすめた程度のこと。
だから――。
「知りたいのは私のほう……。私は、お父様のことを、まったく分かってなかったんだから。――お父様とは、一緒に暮らしていながらも、一緒に生きてはいなかったの……」
吐き出された言葉は、切ない思い。
「私は、お父様が何を考えて生きていたのか知りたい。……だから、……〈蝿〉に会ってみたいと思っ……」
心の奥底に封じたはずの願いが、自然に口からこぼれた。
声にしてしまってから、ミンウェイは慌てて口元を押さえる。顔色を変え、脅えたように視線をさまよわせると、隣にいたシュアンが凶相に似合わぬ笑みを浮かべた。
「遠慮することないだろ? メイシア嬢の策に乗ればいい」
「でも!」
ミンウェイは弾かれたように腰を浮かせ、喰らいつくようにシュアンの着崩した制服を掴んだ。
「私は『お父様が亡くなった理由』を知りません! メイシアの策は、私がそれを言えないと駄目なんです!」
どことなく、すがるような必死さで、ミンウェイはシュアンの服をぐいと引く。
結果、シュアンは絞め上げられたような格好になったのだが、彼は揶揄するように口の端を上げた。
「あんたの『父親』が死んだ理由なら、俺が知っている」
「え……?」
ミンウェイの手から力が抜けた。シュアンを絞める拘束が緩んだ。
だが、ミンウェイの指先はシュアンの上着に掛けられたまま――そんな彼女の手を無理に払うことなく、彼は三白眼の眼球だけをテーブルの上のモニタ画面に移した。故に、ガラの悪い面構えが、いつもにもまして悪相になる。
「あんたも知っているんだろう、メイシア嬢? ――リュイセンから聞いたな?」
『緋扇さん!? ……どうして?』
シュアンの視線と、メイシアの叫びにつられるように、執務室にいる皆がテーブルに注目すれば、不鮮明なモニタ画面の中でメイシアが愕然としていた。
「賢いメイシア嬢が、詰めの甘いまま、策を披露するはずがないだろう?」
『……』
「そのくせ、聡明なメイシア嬢らしくもなく、重要なところが後回しだったな」
『……っ』
「言いにくいんだろう? 『ミンウェイの自殺未遂が原因だ』とは」
『緋扇さん!』
悲鳴のようなメイシアの高い声が、音割れを起こした。
初耳だったルイフォンは驚愕に目を見開き、ミンウェイを見やる。彼女は蒼白な顔で拳を握りしめていた。――シュアンの制服の端を皺にしながら。
騒然とした場の空気に、しかし、シュアンは構わずに続ける。
「そんなことを言ったら、なんでも自分の責任にしたがるミンウェイが、気に病むからな。――逆なのによ」
シュアンは笑い飛ばすように、軽薄に言い放つ。
「メイシア嬢がさっき言った『生を享けた以上、生をまっとうする』という約束というやつで、はっきり分かった。――あの『父親』の心は、妻が死んだときに死んでいた。なのに、その言葉で、無理やり生かされていたのさ」
「どういうこと!?」
噛み付くように、ミンウェイが尋ねる。
「あの『父親』は、本当は妻のあとを追いたかった。だが、妻との約束がそれを阻む。俺には、同情する気はこれっぽっちもねぇが、まぁ、苦しかったんだろうよ。――それが、妻になるはずだった『娘』が『死』を望んだ。『父親』にしてみれば、それは『死の許しを得た』ように感じられたんだろう。……推測だけどな」
『私も、そう思います。……いえ、少しだけ違うでしょうか』
すかさずメイシアが口を挟むと、シュアンは気を悪くしたふうでもなく、ただ興味深げに悪人面をにたりと歪めた。
「ほう。では、メイシア嬢の見解は如何に?」
水を向けられたメイシアは、軽く会釈をして口を開く。
『必死に『生』を望んだ奥様とそっくりでありながら、『死』を求めたミンウェイさんを見て、ヘイシャオさんは、やっとふたりの区別ができるようになったんだと思います。だから、悪い夢から覚めたような気持ちで、奥様に逢いにいったのではないかと。そんな気がします』
そこまで言ってから、メイシアは考えるような素振りを示した。
『……やっぱり、緋扇さんがおっしゃったことと同じことなのかもしれません』
申し訳なさそうにシュアンに言い、メイシアは、ほのかな笑みを混じえた眼差しをミンウェイに向けた。
そして、はっきりと告げる。
『ヘイシャオさんは、ミンウェイさんに救われたんです』
遥かな庭園から回線を介し、澄んだ声が届けられた。穏やかなはずのその響きは、ミンウェイの心の奥を激しく揺らした。
「お父……様……!」
シュアンの制服を握りしめたままの拳が、ふるふると震える。
そんなミンウェイを刺激しないよう、シュアンは足元に落ちていた制帽を爪先を使って器用に拾い、彼女の頭に目深にかぶせた。潤んだ切れ長の瞳が、広いつばの下に隠れた。
しっとりと濡れたような沈黙が訪れる。
モニタの発する電子的な雑音だけが、妙に大きく聞こえる……。
やがて、メイシアが『ミンウェイさん』と、遠慮がちに呼びかけた。
『私にとって〈蝿〉は、父の仇です。リュイセンを苦しめ、私を囚えた憎い敵です。許すことはできません』
揺らぎのない黒曜石の瞳がきっぱり告げ、けれど、すぐに『でも――』と続ける。
『〈蝿〉は『デヴァイン・シンフォニア計画』のために作られた存在です。何も知らされずに、それどころか騙され、利用されただけの被害者でもあるんです』
メイシアは声を落とし、わずかに目を伏せた。
『セレイエさんの――ホンシュアの記憶を受け取ったせいなのかもしれませんが、私は〈蝿〉を憎むと同時に、憐れだとも感じています。彼は不幸だと思っています。……おかしいかもしれませんが、本当です』
嫋やかでありながらも芯の強い戦乙女が、慈悲と無慈悲を両手に携え、悲しげに微笑んだ。
『〈蝿〉に与えるべきものは『死』です。それを譲るつもりはありません。――けれど、彼に救いがほしいんです』
「メイシア……?」
シュアンの制帽の影から、ミンウェイが首をかしげる。
『ヘイシャオさんと〈蝿〉は、別人です。だから、ヘイシャオさんにとって救いだったことが、〈蝿〉にとっても救いになるかどうかは分かりません。けど、ヘイシャオさんの『死』の理由を知ることは、〈蝿〉にとって絶対に意味があるはずです。……だから、この策を採ってください』
メイシアの策を反対する者など、誰もいなかった。
「メイシアの安全が最優先よ! 不測の事態のときは、とっとと決着をつけるのよ!」と、ミンウェイが強く主張した以外は、満場一致で決定し、会議はお開きとなった。
ルイフォンの「解散」の声を聞くやいなや、シュアンが「あとは任せた」と足早に執務室を出ていく。なんでも、適当に誤魔化して職場を抜けてきたのだという。
メイシアの夕食のとき、すなわち、リュイセンとの接触のときには顔を出せないが、夜には首尾を聞きに来ると言い残していった。よほど慌てていたらしく、ミンウェイの頭に制帽を忘れたままだ。――免職になる日も近そうである。
ルイフォンも、そそくさと自室に戻り、メイシアとふたりきりの時間を過ごす。
勿論、電話での逢瀬だが、ひとりきりで頑張り抜いたメイシアを労い、あとひと息だと激励する。
「メイシア、今夜、決着をつける」
『うん。――ルイフォン。今まで、お疲れ様』
「メイシアこそ、ありがとう」
そして、緊張と興奮に彩られた時が流れ、メイシアの夕食の時間となった。
部屋の扉に、ぴたりと張りつき、メイシアは耳をそばだてていた。
――これでやっと、リュイセンと手を取り合うことができる。
祈るように組み合わされた両手が、小刻みに震えていた。
今までのリュイセンの言動を考えると、すんなり話を聞いてくれるとは思わない。けれど、頭から突っぱねるようなことはないだろう。だから、最後にはきっと、彼は味方になる……。
待ち望んでいたエレベーターの駆動音が聞こえてきた。滑らかな上昇の気配に続く、停止のチャイム。
「……っ!」
メイシアの心臓が跳ねる。食事のワゴンがエレベーターを降りるときの、ドアの溝を超える、がたんという音が響く。
メイシアは、扉に飛びつくようにして施錠を解いた。
そのときだった。
「ま、待て! 開けるな!」
野太い男の叫びが聞こえた。
リュイセンではない。知らない男の声だ。
「あんたの姿を見たら、俺は死ぬ!」
「え……」
「〈蝿〉がそう言った! あいつの言うとおりにしないと、俺は殺されるんだ!」
「……?」
何が起きた?
リュイセンは、どうした? 〈蝿〉は、いったい……?
メイシアの頭の中を疑問が渦巻き、駆け巡る。
「食事は、ここに置いていく。あんたは、俺がいなくなってから取るんだ。食べ終わったら、ワゴンを廊下に置いておけ!」
外にいる男は、そう言ってすぐに立ち去ろうとした。
「待ってください! リュイセンはどうしたんですか!」
男を引き留めようと、メイシアの体は無意識に動いた。ドアノブをひねり、扉を開こうと……。
「やめろ!」
男は絶叫し、体当たりで勢いよく扉を押さえた。
「きゃっ」
メイシアは危うく指を挟まれそうになったが、ぎりぎり難を逃れる。
「開けるな……、開けないでくれ……、俺はまだ死にたくない……」
よく聞けば、男の声はがたがたと震えていた。
そういえば、私兵たちは〈蝿〉の偽薬と虚言で、いいように操られているのだということをメイシアは思い出す。
「あんたの質問に答える! だから、出てこないでくれ、……頼む」
脅えきっている男には申し訳ないのだが、メイシアにとって好都合な展開だった。
ここで男から情報を得なければ、すべては水泡に帰すかもしれない。彼女は黒曜石の瞳を閃かせ、毅然と尋ねる。
「私の食事は、世話係のリュイセンが持ってきてくれることになっています。それが、どうしてリュイセンではなく、あなたなのですか?」
「リュイセンは、あんたの昼食を下げてきたあと、〈蝿〉に反省房に入れられた。そのとき、今後、あんたの食事は俺が代わりに持っていけと、〈蝿〉に命令された」
「反省房!?」
思ってもみなかった単語に、メイシアは困惑――否、愕然とする。
「あ、あんたが原因だろう!」
「え?」
「昼間の火事騒動。あれは、あんたが〈蝿〉の実験体にされるのを防ごうと、リュイセンが非常ベルを鳴らしたんだってな!」
それは、おおむね間違ってはいない。
実験体ではなく、激昂した〈蝿〉に殺されかけたところをリュイセンが助けてくれた、というのが正しいのであるが。
「反省房は、リュイセンが〈蝿〉に逆らった罰だ!」
「――!」
「そもそも、あんたは〈蝿〉の研究のために連れてこられたんだろう? それが、世話係になったリュイセンを誘惑し、自分の身を守らせようとした。――俺が、あんたを見たら殺されるってのも、リュイセンに続いて、俺まで惑わされたらたまらないからだと〈蝿〉は言っていたぞ!」
「…………」
男の弁は、ところどころ〈蝿〉による脚色が入っているようだが、だいたいのところは事実だろう。
要するに、リュイセンの身柄は〈蝿〉に拘束された。
それは、従順な駒であるはずの彼が、メイシアを助けようと〈蝿〉に逆らった罰。
同時に、〈蝿〉がメイシアに『続きは明日』と言った件を話すときに、再び彼に邪魔されないよう隔離した、という意味もあるのだろう。
メイシアの白磁の肌が赤みを失い、透き通るような青白さを帯びた。
急転直下の非常事態だった。
ここにきて、まさか、そんな……と、体が震え始める。
「もういいだろう!」
男が金切り声を上げた。早くこの場を去りたいという気持ちが、扉越しでも、びしばしと伝わってきた。
よほど〈蝿〉に脅されたらしい。――そう思ったとき、メイシアは、はっと気づく。
彼女が初めてこの展望室に囚われた日、私兵たちが悪さを働く可能性があると、〈蝿〉は彼女に警告し、鍵を閉めるようにと忠告した。
つまり、彼女にとって、私兵たちは危険な存在だ。
〈蝿〉は、そんな私兵のひとりである扉の向こうの男を執拗に脅し、メイシアと顔を合わせないように計らった。それは、明日の交渉相手である彼女を丁重に扱っている、という意思表示だ。
「〈蝿〉……」
彼もまた、必死なのだ。
「おい、聞いているのか! 俺はもう、行っていいだろう!」
扉の外で男が叫ぶ。
「は、はい! どうもありがとうございました」
メイシアも叫ぶようにして言葉を返し、携帯端末へと走る。
ともかく、ルイフォンに報告するのだ。
そして、この事態を打開すべく、新たなる方策を一刻も早く講じなければならない……。