残酷な描写あり
3.菖蒲の館で叶う抱擁-2
朝陽を背に、展望塔がそびえ立つ。
石造りの外壁を回り込んだ光が、固く抱きしめ合ったふたりを包み込み、ひとつの影を作り出す。
腕の中にメイシアがいる。
薄い夏地の服を通し、触れ合った箇所から、彼女の熱と、そして鼓動が伝わってくる。
黒絹の髪に顔を埋めれば、鼻先が、唇が、滑らかな感触に迎えられ、ルイフォンの内側へと艶やかな香りが吹き込まれる。
胸が、熱く満たされていく。
それが徐々に広がっていき、喉が、瞼が、灼けるように熱くなる。
メイシアの細い指先が、ルイフォンの背中を掻き抱く。彼の存在を確かめるかのように、彼の胸元に頬を寄せる。
……その華奢な肩が、小刻みに震えていた。
だからルイフォンは、彼女の長い黒髪に指を絡め、くしゃりと撫でる。
『大丈夫だ。安心しろ』
そんな意味合いを持つこの仕草は、いつの間にか、彼女に対してだけの特別になっていた。
刹那、メイシアが花の顔を上げた。
「……っ」
目尻からこぼれ落ちる、透明な輝き。
けれど、彼女は嗚咽をこらえ、彼に応えるように、無理やりにきゅっと口元を上げた。
再会は、極上の微笑みの中で――。
どちらからともなく唇を寄せ、重ね合わせる。
それは、自分の中にある想いを、口移しに相手と交わす儀式だから……。
爽やかな朝の風が、草原を渡っていく。
その流れに身を任せるように、ルイフォンは、ふわりとメイシアを抱き上げた。
その瞬間、ずきりと腹に衝撃が走り、彼は顔をしかめる。メイシアをさらっていくリュイセンに、斬りつけられた傷が痛んだのだ。
「ルイフォン!」
メイシアの顔が一瞬にして青ざめた。
「大丈夫だ」
彼は笑って答え、傷に負担の掛からない角度に彼女の体を抱え直す。
すると、白い手が伸びてきて、彼の頬に優しく触れた。黒曜石の瞳は愛しげに彼を見つめており、けれど、困ったように揺れている。
「私、ルイフォンに抱き上げてもらうの、大好き。凄く、どきどきして、なのに、とても安心するの。……でも、今は無理しないで」
「いや、もう治ったんだって」
メイシアを相手に誤魔化しは利かないだろうと思いつつ、そこは見栄である。案の定、間髪を容れずに「嘘」と返ってきた。
そして、彼女は美しくも可愛らしい顔の中に、凛とした輝きを魅せる。
「それにね、今はルイフォンと手を繋いで、一緒に歩きたいの。――そのほうが、私たちらしいと思うから」
こうして再び逢うことができたのは、ルイフォンだけの力でも、メイシアだけの力でもない。ふたりと、そして、ふたりが大切にして――ふたりを大切にしてくれた人たちの力だ。
「……ああ、そうだな」
ルイフォンは呟く。
「お前の言う通りだ!」
抜けるような青空の笑顔を浮かべ、メイシアを地面に下ろす。けれど、彼女と離れることはない。指と指とを絡め合わせ、固く手を繋ぐ。
そうして、ふたりを待っている人たちのいる車まで戻ると、温かな笑顔が迎えてくれた。
「メイシア! よかったわ!」
ミンウェイが涙ぐみながらも満面に喜色をたたえ、エルファンも愛想こそないが無事を喜ぶ。
そして、シュアンは……。
「姉さんを心配しているハオリュウに、写真付きでメッセージを送っておいたぞ」
気が利くだろう、と言わんばかりに口角を上げ、手にしていた携帯端末をふたりに向けた。
それには、朝陽を受けて抱き合うふたり――という、光の陰影が美しい、とても芸術的な写真が映っていた。
「俺は、野暮だと言ったんだが、ミンウェイのたっての願いでな」
言葉の上では弁解しているようであるが、まったく悪びれない調子のシュアンに、ミンウェイの「いい写真でしょう!?」という声が続く。
「ミンウェイさん!? 緋扇さんも!」
耳まで赤く染めたメイシアは、反射的にシュアンの端末を奪おうとして……、しかし、育ちの良さ故に強行できず、中途半端なところで手を止める結果となった。それに、今更、端末を取り上げたところで、その写真はとっくにハオリュウのもとに届いているのである。
「メイシア嬢、落ち着けよ。ハオリュウの奴は、もう、あんたが思っているような餓鬼じゃねぇんだよ。ちゃんと、この写真を喜んでくれているさ」
朗らかな調子で三白眼が細められると、目つきの悪さが隠蔽され、まるで善人のような笑みになった。
日頃のシュアンを知るルイフォンとしては、かえって胡散臭く見えてしまうのであるが、いち早くハオリュウを安心させようとしてくれた心遣いはありがたいし、照れくささはあるものの、粋な計らいだ。素直に感謝して、気持ちをこれからに向ける。
「行こうぜ!」
ルイフォンはメイシアの手を強く握りしめ、草原の向こうに見える館へと猫の目を煌めかせた。
「〈蝿〉との決着をつけに――!」
「うん」
打てば響くように返ってくる、メイシアの声。
それから彼女は、ちらりと展望塔を振り返り、ルイフォンもそれに倣う。
それは、メイシアを囚えていた塔に別れを告げるためではなく、まだそこにいるタオロンとファンルゥへの出発の挨拶だ。
ふたりが残ることは、あらかじめ電話で打ち合わせて決めていた。
夜中まで起きていたファンルゥが、メイシアのベッドで、ぐっすり夢の中であることがその理由の大半であるが、万が一を考えても、全員が〈蝿〉のところに行くべきではないとの判断だ。加えて、『鷹刀の身内の話には、俺は遠慮したほうがよいだろう』という、タオロンの気遣いもあった。
そして、一行は〈蝿〉の待つ館へと移動する。
事前の連絡通り、正面玄関の前でリュイセンが待っていた。見慣れた長身の影を見つけたルイフォンは、矢も盾もたまらずに声を張り上げる。
「リュイセン!」
久しぶりに――本当に久しぶりに見る兄貴分は、やたらと豪奢な服を着ていた。話に聞いていた、怪我のために着替えた、かつての王の服というものだろう。
繊細な刺繍の施された物々しすぎる衣装であるのだが、黄金比の美貌には憎いほどよく似合っている。こんなとき、鷹刀一族の美麗な外見の恩恵にあずからなかった身としては、少しだけ悔しい。
ルイフォンが内心で、そんなどうしようもない、ささやかな嫉妬を感じていることなど露知らず、リュイセンは弟分を見た瞬間にその場にひざまずこうとした。
「おおっと。もう謝るのはなしだからな」
察したルイフォンは、鋭いテノールで先手を打った。律儀な兄貴分のことだ。直接、詫びを入れないことには道理が通らぬとでも言うつもりなのだろう。
「だが……!」
反論しかけたリュイセンに、ルイフォンは畳み掛ける。
「お前も知っているだろ? 俺は細かいことは気にしねぇんだ。お前は、俺が認め、尊敬する、自慢の兄貴分だ。――それでいいだろ?」
「ルイフォン……」
リュイセンは絶句し、それから穏やかに破顔する。
「ああ、そうだな。お前は、俺の誇る弟分だ」
それからリュイセンは、ルイフォンの後ろに続く、メイシア、ミンウェイ、エルファン、シュアンへと視線を移し、硬い面持ちで「ご足労、痛み入ります」と頭を垂れた。
〈蝿〉が何を企んでルイフォンたちを招待したのか、リュイセンにも知らされていないという。『お前は、俺の配下となったはずだろう?』と高圧的に尋ねても、〈蝿〉は頑として答えなかったそうだ。――鷹刀一族の屋敷を発つ前に連絡を取ったとき、リュイセンは申し訳なさそうに詫びていた。
だから、この館への来訪に関して、彼が礼を言うのは適切ではないだろう。けれど、それくらいしか、出迎えの口上を思いつかなかったに違いない。
ミンウェイの姿を瞳に捉えた瞬間、リュイセンの顔が切なげに揺れた。ルイフォンが気づいたくらいであるから、当然、ミンウェイも気づいた。彼女の息遣いが緊張を帯びる。
リュイセンの裏切りの発端は、ミンウェイを『秘密』から守るため。けれど、彼女は自らの力で『秘密』を乗り越えた。……リュイセンとしては立つ瀬がない。
もう『過ぎたこと』なのだが、顔を合わせると、やはり気まずさは拭いきれないのだろう。耳には聞こえぬ不協和音が響いた。
再び頭を上げたリュイセンは、誰とも目を合わせないまま、「案内する」と、扉に向かって踵を返そうとした。
そのとき――。
ルイフォンの背後から、ふわりと草の香が飛び出し、リュイセンの手を掴んだ。緩やかに波打つ黒髪が、まるで大輪の花がほころんでいくかのように広がる。
「リュイセン! ありがとう!」
そう告げたミンウェイの唇もまた、華やかに咲きほころぶ。
「私、逃げていたわ。過去からも、……あなたからも」
「……っ」
「でも、これから変わっていくわ。……すぐは無理かもしれないけど、約束する」
虚勢の見え隠れする、強気の笑顔。
それでも彼女の絶世の美貌は、生き生きと輝いている。朝陽を透かした黒髪が黄金色を帯び、まるで曙光の冠を戴いた、暁の女神のよう。かつてリュイセンが月の女神だと思った、夜闇で泣いていた少女の面影を残しながらも、まるで別人の……。
「ミンウェイ……」
彼女の名を呟き、リュイセンは眩しげに目を細めた。その顔は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「そ、それより!」
深刻な空気を振り払うように、ミンウェイが叫ぶ。
「リュイセン、怪我は大丈夫なの!? 〈蝿〉が……、……っ」
彼女は、はっと顔色を変え、口元を指先で押さえた。それから首を振り、微笑みながら言い直す。
「――ううん、『お父様』が診てくださるって言っていたけど」
〈影〉である『彼』には、名前はない。『〈蝿〉』にせよ、『お父様』にせよ、オリジナルを指す言葉にすぎず、どちらも正しい『彼』の呼び方ではない。
だから、ほんの少し、借りる名称を変えただけ。
けれど、その意味が重いことをルイフォンは知っている。その場にいた誰もが分かっている。
「……あ、ああ」
一瞬、遅れて、リュイセンが相槌を打った。
「恐ろしいことに、すっかり元通りだ。――恩恵を受けておきながら言うのもなんだが、〈七つの大罪〉の技術は、封印すべきものなんだろうな……」
なんとも言えない苦々しさを浮かべてから、リュイセンは、改めて皆に向き直る。彼の口癖である『やるべきことをやるだけだ』と言うときの、強い意志に満ちた顔つきになって。
「ヘイシャオのもとに案内する」
ミンウェイの喉が、こくりと鳴った。
摂政が来たときと同じように、私兵たちには『来客のため、自室待機』が命じられているとのことで、館の中は森閑としていた。そんな中、一行は、ひたひたと歩き続け、やがて金箔で縁取られた白塗りの扉の前で、リュイセンが足を止めた。
どうやら、この部屋であるらしい。
ここにたどり着くまでの宮殿のような構造と内装に、ミンウェイは、すっかり腰が引けていた。場違いなところに来てしまった、という萎縮の思いのあまり、心が半ば麻痺してしまっている。
だから、先導するリュイセンの背中が部屋に吸い込まれ、物怖じしないルイフォンと、彼と手を繋ぎ合わせたメイシアがあとに続くのを無感情に眺めていた。
そして、ミンウェイも彼らを追いかけようとして、自分の足がすくんでいることに初めて気づく。
すると、「どうした?」と、この場の雰囲気に、およそ似つかわしくない、のんびりとした声が掛けられた。背後にいたシュアンである。
決して揶揄するような響きではないのに、からかわれていると感じてしまうのは、彼の『人徳』のせいだ。すぐ後ろを歩いていたのなら、急に立ち止まったミンウェイにぶつかってもおかしくないのに、初めから彼女の行動が分かっていたかのような余裕の態度が気に障る。
「……な、なんでもありません」
慌てて首を振るミンウェイに、シュアンは苦い顔を見せた。
「あんたには酷なことになっちまったな」
「え?」
〈蝿〉との対面は、ミンウェイが望んだことだ。それも、周り中に迷惑をかけて、やっと実現したものだ。それのどこが『酷』なのだろう?
きょとんとするミンウェイに、シュアンは一瞬、凍りつき、ぼさぼさ頭を掻きむしる。明後日の方向をさまよう三白眼は、失言だったと思っているらしい。
警察隊という職業柄か、はたまた彼個人の資質の故か、シュアンは人の心の奥底に眠る感情に鋭敏だ。今もまた、ミンウェイにひそむ『何か』を察したのだ。
「緋扇さん、どういう意味ですか!?」
こんなところで足踏みをしていたら、先に部屋に入ったリュイセンたちが困るに違いない。だから、早く教えてほしい。けれど、シュアンが素直に教えてくれるだろうか。
ミンウェイが柳眉を曇らせながら詰め寄ると、助け舟は意外なところから来た。
「緋扇、言ってやれ」
囁くような静けさでありながら、厳かに響く、威圧の低音。皆を見守るように、一番、後ろを歩いていたエルファンの瞳が、じっとシュアンを捕らえる。
「……」
シュアンは子供が不満を訴えるような仏頂面で、心底、嫌そうに顔をしかめた。しかし、初対面のときに力関係が決まってしまったのか、シュアンには、エルファンには敵わないと思っている節がある。そのためか、不承不承といった体で口を開く。
「〈蝿〉は本来、すぐにも殺されるはずだった。それが現在、あんたが『会いたい』と言ったがために、延命されている状態だ。――つまり、この対面が終われば、〈蝿〉には『死』が待っている」
「あっ……」
ミンウェイの顔から血の気が引いていく。がたがたと体が震え始め、手足の感覚が失せていく。
「つまり、他でもない、あんたが〈蝿〉に引導を渡すことになっちまった。――直接、手を下すのが別の奴だったとしても、あんたからしてみれば変わらないだろう」
最後――なのだ。
これでもう、父の記憶を持つ『彼』は消える。
目を背けていた事実だ。ミンウェイの心がひるみ、足がすくんだ原因だ。
「夜中の電話――〈蝿〉が、あんなふうにあんたと話すなんて、誰も想像してなかっただろう。悪くない会話だった。……少なくとも、俺は『良かった』と思った」
「……私も驚いたわ。昔は言えなかったことが、すらすらと言えたのよ」
「ああ、そうだ。あんたはあのとき、自分の思いを告げることができた。自分の意志をしっかり持って、な」
シュアンの声が、強く肯定する。彼は以前、ミンウェイが温室に籠もったときに『私は、自分の意志を持たない父の人形です』と言ったことを覚えているのだ。
「だからさ、あんたは本当はもう、満足しているのさ。〈蝿〉に直接、会わなくとも――むしろ、会わないままに、〈蝿〉は、何処かに行ってほしいと思っている。あんたと対面するまでは、〈蝿〉は殺されることがないんだからな。……心の奥底の願いだ」
「!」
ミンウェイは息を呑んだ。
『私……、〈蝿〉は、何処かに行ってしまえばいいと思っています! 二度と鷹刀に関わらないでほしい。そうすれば、鷹刀は〈蝿〉を殺さないですむ。――そんなふうに思ってしまっているんです……!』
あの温室で、シュアンに向かって叫んだ。――彼は、本当によく覚えている。
「でも……! そんなことは許され……」
「ミンウェイ、『許される』か、どうかの問題じゃないのさ。今のあんたは逃げない。この対面から逃げることはない。あんたは〈蝿〉と会う」
まるで暗示を掛けるかのように、シュアンの言葉が重ねられる。
「あんたには『逃げない』という固い意思があるからこそ、怖いだろうし、足だってすくむ。当たり前だ」
「緋扇さん……?」
「でも、思い出せ。あんたの望みは『穏やかな日常』だ。『誰ひとり傷つかない世界』を祈っている。その願いは……叶うはずなんだ」
「どういうことですか!?」
ミンウェイは噛み付くように、声を張り上げる。
「イーレオさんは、俺に『〈蝿〉への発砲許可を』と言いながら、『ヘイシャオは撃たれたりしない』と笑ったんだ。――それが答えだ」
「わけが分かりません!」
「俺だって詳しいことは知らねぇよ。……だから、見届けたいのさ」
はぐらかすようなシュアンに、ミンウェイは再び詰め寄る。しかし、彼はそれ以上、何も言わず、すがるようにエルファンの顔を覗き込んでも、二度目の手助けはなかった。
「ミンウェイ、メイシア嬢が言っていただろう? 〈蝿〉を救ってやりたい、と。――それができるのは、あんただけだ。……だから、行こうぜ?」
シュアンはそう言って、ミンウェイの前を通り過ぎ、彼女よりも先に部屋に入っていく。
「……」
体の震えは止まっていた。ミンウェイは意を決し、しっかりとした足取りでシュアンの背中を追いかける。
そして、彼女は星霜を超え、幽明を超えた『初対面の再会』を果たすのだ。
石造りの外壁を回り込んだ光が、固く抱きしめ合ったふたりを包み込み、ひとつの影を作り出す。
腕の中にメイシアがいる。
薄い夏地の服を通し、触れ合った箇所から、彼女の熱と、そして鼓動が伝わってくる。
黒絹の髪に顔を埋めれば、鼻先が、唇が、滑らかな感触に迎えられ、ルイフォンの内側へと艶やかな香りが吹き込まれる。
胸が、熱く満たされていく。
それが徐々に広がっていき、喉が、瞼が、灼けるように熱くなる。
メイシアの細い指先が、ルイフォンの背中を掻き抱く。彼の存在を確かめるかのように、彼の胸元に頬を寄せる。
……その華奢な肩が、小刻みに震えていた。
だからルイフォンは、彼女の長い黒髪に指を絡め、くしゃりと撫でる。
『大丈夫だ。安心しろ』
そんな意味合いを持つこの仕草は、いつの間にか、彼女に対してだけの特別になっていた。
刹那、メイシアが花の顔を上げた。
「……っ」
目尻からこぼれ落ちる、透明な輝き。
けれど、彼女は嗚咽をこらえ、彼に応えるように、無理やりにきゅっと口元を上げた。
再会は、極上の微笑みの中で――。
どちらからともなく唇を寄せ、重ね合わせる。
それは、自分の中にある想いを、口移しに相手と交わす儀式だから……。
爽やかな朝の風が、草原を渡っていく。
その流れに身を任せるように、ルイフォンは、ふわりとメイシアを抱き上げた。
その瞬間、ずきりと腹に衝撃が走り、彼は顔をしかめる。メイシアをさらっていくリュイセンに、斬りつけられた傷が痛んだのだ。
「ルイフォン!」
メイシアの顔が一瞬にして青ざめた。
「大丈夫だ」
彼は笑って答え、傷に負担の掛からない角度に彼女の体を抱え直す。
すると、白い手が伸びてきて、彼の頬に優しく触れた。黒曜石の瞳は愛しげに彼を見つめており、けれど、困ったように揺れている。
「私、ルイフォンに抱き上げてもらうの、大好き。凄く、どきどきして、なのに、とても安心するの。……でも、今は無理しないで」
「いや、もう治ったんだって」
メイシアを相手に誤魔化しは利かないだろうと思いつつ、そこは見栄である。案の定、間髪を容れずに「嘘」と返ってきた。
そして、彼女は美しくも可愛らしい顔の中に、凛とした輝きを魅せる。
「それにね、今はルイフォンと手を繋いで、一緒に歩きたいの。――そのほうが、私たちらしいと思うから」
こうして再び逢うことができたのは、ルイフォンだけの力でも、メイシアだけの力でもない。ふたりと、そして、ふたりが大切にして――ふたりを大切にしてくれた人たちの力だ。
「……ああ、そうだな」
ルイフォンは呟く。
「お前の言う通りだ!」
抜けるような青空の笑顔を浮かべ、メイシアを地面に下ろす。けれど、彼女と離れることはない。指と指とを絡め合わせ、固く手を繋ぐ。
そうして、ふたりを待っている人たちのいる車まで戻ると、温かな笑顔が迎えてくれた。
「メイシア! よかったわ!」
ミンウェイが涙ぐみながらも満面に喜色をたたえ、エルファンも愛想こそないが無事を喜ぶ。
そして、シュアンは……。
「姉さんを心配しているハオリュウに、写真付きでメッセージを送っておいたぞ」
気が利くだろう、と言わんばかりに口角を上げ、手にしていた携帯端末をふたりに向けた。
それには、朝陽を受けて抱き合うふたり――という、光の陰影が美しい、とても芸術的な写真が映っていた。
「俺は、野暮だと言ったんだが、ミンウェイのたっての願いでな」
言葉の上では弁解しているようであるが、まったく悪びれない調子のシュアンに、ミンウェイの「いい写真でしょう!?」という声が続く。
「ミンウェイさん!? 緋扇さんも!」
耳まで赤く染めたメイシアは、反射的にシュアンの端末を奪おうとして……、しかし、育ちの良さ故に強行できず、中途半端なところで手を止める結果となった。それに、今更、端末を取り上げたところで、その写真はとっくにハオリュウのもとに届いているのである。
「メイシア嬢、落ち着けよ。ハオリュウの奴は、もう、あんたが思っているような餓鬼じゃねぇんだよ。ちゃんと、この写真を喜んでくれているさ」
朗らかな調子で三白眼が細められると、目つきの悪さが隠蔽され、まるで善人のような笑みになった。
日頃のシュアンを知るルイフォンとしては、かえって胡散臭く見えてしまうのであるが、いち早くハオリュウを安心させようとしてくれた心遣いはありがたいし、照れくささはあるものの、粋な計らいだ。素直に感謝して、気持ちをこれからに向ける。
「行こうぜ!」
ルイフォンはメイシアの手を強く握りしめ、草原の向こうに見える館へと猫の目を煌めかせた。
「〈蝿〉との決着をつけに――!」
「うん」
打てば響くように返ってくる、メイシアの声。
それから彼女は、ちらりと展望塔を振り返り、ルイフォンもそれに倣う。
それは、メイシアを囚えていた塔に別れを告げるためではなく、まだそこにいるタオロンとファンルゥへの出発の挨拶だ。
ふたりが残ることは、あらかじめ電話で打ち合わせて決めていた。
夜中まで起きていたファンルゥが、メイシアのベッドで、ぐっすり夢の中であることがその理由の大半であるが、万が一を考えても、全員が〈蝿〉のところに行くべきではないとの判断だ。加えて、『鷹刀の身内の話には、俺は遠慮したほうがよいだろう』という、タオロンの気遣いもあった。
そして、一行は〈蝿〉の待つ館へと移動する。
事前の連絡通り、正面玄関の前でリュイセンが待っていた。見慣れた長身の影を見つけたルイフォンは、矢も盾もたまらずに声を張り上げる。
「リュイセン!」
久しぶりに――本当に久しぶりに見る兄貴分は、やたらと豪奢な服を着ていた。話に聞いていた、怪我のために着替えた、かつての王の服というものだろう。
繊細な刺繍の施された物々しすぎる衣装であるのだが、黄金比の美貌には憎いほどよく似合っている。こんなとき、鷹刀一族の美麗な外見の恩恵にあずからなかった身としては、少しだけ悔しい。
ルイフォンが内心で、そんなどうしようもない、ささやかな嫉妬を感じていることなど露知らず、リュイセンは弟分を見た瞬間にその場にひざまずこうとした。
「おおっと。もう謝るのはなしだからな」
察したルイフォンは、鋭いテノールで先手を打った。律儀な兄貴分のことだ。直接、詫びを入れないことには道理が通らぬとでも言うつもりなのだろう。
「だが……!」
反論しかけたリュイセンに、ルイフォンは畳み掛ける。
「お前も知っているだろ? 俺は細かいことは気にしねぇんだ。お前は、俺が認め、尊敬する、自慢の兄貴分だ。――それでいいだろ?」
「ルイフォン……」
リュイセンは絶句し、それから穏やかに破顔する。
「ああ、そうだな。お前は、俺の誇る弟分だ」
それからリュイセンは、ルイフォンの後ろに続く、メイシア、ミンウェイ、エルファン、シュアンへと視線を移し、硬い面持ちで「ご足労、痛み入ります」と頭を垂れた。
〈蝿〉が何を企んでルイフォンたちを招待したのか、リュイセンにも知らされていないという。『お前は、俺の配下となったはずだろう?』と高圧的に尋ねても、〈蝿〉は頑として答えなかったそうだ。――鷹刀一族の屋敷を発つ前に連絡を取ったとき、リュイセンは申し訳なさそうに詫びていた。
だから、この館への来訪に関して、彼が礼を言うのは適切ではないだろう。けれど、それくらいしか、出迎えの口上を思いつかなかったに違いない。
ミンウェイの姿を瞳に捉えた瞬間、リュイセンの顔が切なげに揺れた。ルイフォンが気づいたくらいであるから、当然、ミンウェイも気づいた。彼女の息遣いが緊張を帯びる。
リュイセンの裏切りの発端は、ミンウェイを『秘密』から守るため。けれど、彼女は自らの力で『秘密』を乗り越えた。……リュイセンとしては立つ瀬がない。
もう『過ぎたこと』なのだが、顔を合わせると、やはり気まずさは拭いきれないのだろう。耳には聞こえぬ不協和音が響いた。
再び頭を上げたリュイセンは、誰とも目を合わせないまま、「案内する」と、扉に向かって踵を返そうとした。
そのとき――。
ルイフォンの背後から、ふわりと草の香が飛び出し、リュイセンの手を掴んだ。緩やかに波打つ黒髪が、まるで大輪の花がほころんでいくかのように広がる。
「リュイセン! ありがとう!」
そう告げたミンウェイの唇もまた、華やかに咲きほころぶ。
「私、逃げていたわ。過去からも、……あなたからも」
「……っ」
「でも、これから変わっていくわ。……すぐは無理かもしれないけど、約束する」
虚勢の見え隠れする、強気の笑顔。
それでも彼女の絶世の美貌は、生き生きと輝いている。朝陽を透かした黒髪が黄金色を帯び、まるで曙光の冠を戴いた、暁の女神のよう。かつてリュイセンが月の女神だと思った、夜闇で泣いていた少女の面影を残しながらも、まるで別人の……。
「ミンウェイ……」
彼女の名を呟き、リュイセンは眩しげに目を細めた。その顔は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「そ、それより!」
深刻な空気を振り払うように、ミンウェイが叫ぶ。
「リュイセン、怪我は大丈夫なの!? 〈蝿〉が……、……っ」
彼女は、はっと顔色を変え、口元を指先で押さえた。それから首を振り、微笑みながら言い直す。
「――ううん、『お父様』が診てくださるって言っていたけど」
〈影〉である『彼』には、名前はない。『〈蝿〉』にせよ、『お父様』にせよ、オリジナルを指す言葉にすぎず、どちらも正しい『彼』の呼び方ではない。
だから、ほんの少し、借りる名称を変えただけ。
けれど、その意味が重いことをルイフォンは知っている。その場にいた誰もが分かっている。
「……あ、ああ」
一瞬、遅れて、リュイセンが相槌を打った。
「恐ろしいことに、すっかり元通りだ。――恩恵を受けておきながら言うのもなんだが、〈七つの大罪〉の技術は、封印すべきものなんだろうな……」
なんとも言えない苦々しさを浮かべてから、リュイセンは、改めて皆に向き直る。彼の口癖である『やるべきことをやるだけだ』と言うときの、強い意志に満ちた顔つきになって。
「ヘイシャオのもとに案内する」
ミンウェイの喉が、こくりと鳴った。
摂政が来たときと同じように、私兵たちには『来客のため、自室待機』が命じられているとのことで、館の中は森閑としていた。そんな中、一行は、ひたひたと歩き続け、やがて金箔で縁取られた白塗りの扉の前で、リュイセンが足を止めた。
どうやら、この部屋であるらしい。
ここにたどり着くまでの宮殿のような構造と内装に、ミンウェイは、すっかり腰が引けていた。場違いなところに来てしまった、という萎縮の思いのあまり、心が半ば麻痺してしまっている。
だから、先導するリュイセンの背中が部屋に吸い込まれ、物怖じしないルイフォンと、彼と手を繋ぎ合わせたメイシアがあとに続くのを無感情に眺めていた。
そして、ミンウェイも彼らを追いかけようとして、自分の足がすくんでいることに初めて気づく。
すると、「どうした?」と、この場の雰囲気に、およそ似つかわしくない、のんびりとした声が掛けられた。背後にいたシュアンである。
決して揶揄するような響きではないのに、からかわれていると感じてしまうのは、彼の『人徳』のせいだ。すぐ後ろを歩いていたのなら、急に立ち止まったミンウェイにぶつかってもおかしくないのに、初めから彼女の行動が分かっていたかのような余裕の態度が気に障る。
「……な、なんでもありません」
慌てて首を振るミンウェイに、シュアンは苦い顔を見せた。
「あんたには酷なことになっちまったな」
「え?」
〈蝿〉との対面は、ミンウェイが望んだことだ。それも、周り中に迷惑をかけて、やっと実現したものだ。それのどこが『酷』なのだろう?
きょとんとするミンウェイに、シュアンは一瞬、凍りつき、ぼさぼさ頭を掻きむしる。明後日の方向をさまよう三白眼は、失言だったと思っているらしい。
警察隊という職業柄か、はたまた彼個人の資質の故か、シュアンは人の心の奥底に眠る感情に鋭敏だ。今もまた、ミンウェイにひそむ『何か』を察したのだ。
「緋扇さん、どういう意味ですか!?」
こんなところで足踏みをしていたら、先に部屋に入ったリュイセンたちが困るに違いない。だから、早く教えてほしい。けれど、シュアンが素直に教えてくれるだろうか。
ミンウェイが柳眉を曇らせながら詰め寄ると、助け舟は意外なところから来た。
「緋扇、言ってやれ」
囁くような静けさでありながら、厳かに響く、威圧の低音。皆を見守るように、一番、後ろを歩いていたエルファンの瞳が、じっとシュアンを捕らえる。
「……」
シュアンは子供が不満を訴えるような仏頂面で、心底、嫌そうに顔をしかめた。しかし、初対面のときに力関係が決まってしまったのか、シュアンには、エルファンには敵わないと思っている節がある。そのためか、不承不承といった体で口を開く。
「〈蝿〉は本来、すぐにも殺されるはずだった。それが現在、あんたが『会いたい』と言ったがために、延命されている状態だ。――つまり、この対面が終われば、〈蝿〉には『死』が待っている」
「あっ……」
ミンウェイの顔から血の気が引いていく。がたがたと体が震え始め、手足の感覚が失せていく。
「つまり、他でもない、あんたが〈蝿〉に引導を渡すことになっちまった。――直接、手を下すのが別の奴だったとしても、あんたからしてみれば変わらないだろう」
最後――なのだ。
これでもう、父の記憶を持つ『彼』は消える。
目を背けていた事実だ。ミンウェイの心がひるみ、足がすくんだ原因だ。
「夜中の電話――〈蝿〉が、あんなふうにあんたと話すなんて、誰も想像してなかっただろう。悪くない会話だった。……少なくとも、俺は『良かった』と思った」
「……私も驚いたわ。昔は言えなかったことが、すらすらと言えたのよ」
「ああ、そうだ。あんたはあのとき、自分の思いを告げることができた。自分の意志をしっかり持って、な」
シュアンの声が、強く肯定する。彼は以前、ミンウェイが温室に籠もったときに『私は、自分の意志を持たない父の人形です』と言ったことを覚えているのだ。
「だからさ、あんたは本当はもう、満足しているのさ。〈蝿〉に直接、会わなくとも――むしろ、会わないままに、〈蝿〉は、何処かに行ってほしいと思っている。あんたと対面するまでは、〈蝿〉は殺されることがないんだからな。……心の奥底の願いだ」
「!」
ミンウェイは息を呑んだ。
『私……、〈蝿〉は、何処かに行ってしまえばいいと思っています! 二度と鷹刀に関わらないでほしい。そうすれば、鷹刀は〈蝿〉を殺さないですむ。――そんなふうに思ってしまっているんです……!』
あの温室で、シュアンに向かって叫んだ。――彼は、本当によく覚えている。
「でも……! そんなことは許され……」
「ミンウェイ、『許される』か、どうかの問題じゃないのさ。今のあんたは逃げない。この対面から逃げることはない。あんたは〈蝿〉と会う」
まるで暗示を掛けるかのように、シュアンの言葉が重ねられる。
「あんたには『逃げない』という固い意思があるからこそ、怖いだろうし、足だってすくむ。当たり前だ」
「緋扇さん……?」
「でも、思い出せ。あんたの望みは『穏やかな日常』だ。『誰ひとり傷つかない世界』を祈っている。その願いは……叶うはずなんだ」
「どういうことですか!?」
ミンウェイは噛み付くように、声を張り上げる。
「イーレオさんは、俺に『〈蝿〉への発砲許可を』と言いながら、『ヘイシャオは撃たれたりしない』と笑ったんだ。――それが答えだ」
「わけが分かりません!」
「俺だって詳しいことは知らねぇよ。……だから、見届けたいのさ」
はぐらかすようなシュアンに、ミンウェイは再び詰め寄る。しかし、彼はそれ以上、何も言わず、すがるようにエルファンの顔を覗き込んでも、二度目の手助けはなかった。
「ミンウェイ、メイシア嬢が言っていただろう? 〈蝿〉を救ってやりたい、と。――それができるのは、あんただけだ。……だから、行こうぜ?」
シュアンはそう言って、ミンウェイの前を通り過ぎ、彼女よりも先に部屋に入っていく。
「……」
体の震えは止まっていた。ミンウェイは意を決し、しっかりとした足取りでシュアンの背中を追いかける。
そして、彼女は星霜を超え、幽明を超えた『初対面の再会』を果たすのだ。