残酷な描写あり
3.菖蒲の館で叶う抱擁-3
部屋に入った瞬間、ミンウェイは瞳に飛び込んできたシャンデリアの輝きに圧倒された。高い天井から吊るされた繊細な硝子細工から成るそれは、室内にいながら、あたかも太陽を拝むかのよう。
歩を進めれば、純白の絨毯が柔らかに足を包み込んだ。複雑な織りによる美しい紋様に、靴の泥は綺麗に払ってあっただろうか、などと場違いな心配をしてしまう。
次に目に入ったのは、ミンウェイの直前に扉を抜けたシュアンの背中であり、そして、その向こうに、先行していたリュイセン、ルイフォン、メイシアの三人の姿があった。ミンウェイの気配に、彼らが一斉に振り返る。
「ミンウェイさん……!」
なかなか来ないミンウェイを案じていたのだろう。メイシアが、あからさまな安堵の表情を浮かべた。
『大丈夫よ』『心配しないで』――そんな言葉が、ミンウェイの頭をよぎった。けれど、口を衝いて出たのは、まったく別の強気の台詞だった。
「ごめんなさい。あまりにも立派な部屋に、気後れしちゃったのよ」
メイシアは一瞬、黒曜石の瞳を大きく見開いた。けれど、すぐに微笑みながら頷く。
「そうですね。この部屋の造りは、『天空の間』と呼ばれる特別なものですから」
「え?」
「天空神フェイレンのおわす、天上の世界を表しているんです。太陽を象った照明と、雲上を示す織りの絨毯。全体的に白を基調とした調度を用いて、その縁は金箔で飾ります」
なんでも真に受けるメイシアとはいえ、『気後れした』というミンウェイの嘘を信じたわけではないだろう。けれど、そういうことにして説明をくれたのだ。
メイシアの気遣いのおかげで、心が落ち着いていく。
しかし――。
「さすが、貴族の令嬢は詳しいですね」
直後に響いた、不思議な笑みを含んだ低音によって、ミンウェイの体は一瞬にして緊張に包まれた。
その声は、部屋の中央に置かれた、金箔で縁取られた純白のソファーから聞こえた。こちらに背中を向けて座っていた長身が、すらりと立ち上り、振り向く。
「――!」
ミンウェイは息を呑んだ。
真っ黒だったはずの髪には、まばらに白いものが混じっていた。皺が増え、肌も衰えている。記憶の中の父よりも、彼女の後ろにいる伯父のエルファンに似ている……。
長い白衣の裾を翻し、『彼』――〈蝿〉は颯爽と近づいてきた。
柔らかな雲のような床では靴音の立てようもないが、滑るような足の運びは何処を歩いても無音であろう。その動きは父とそっくりで……、ミンウェイとも、そっくりで……。
当然だ。父から学んだのだから。
いつの間にか常に足音を立てなくなっていたミンウェイに『普段から気配を消すようでは、かえって『自分は怪しい者です』と白状しているようなものだよ』と父は苦笑していた。
「お父様……」
ミンウェイの唇から、言葉がこぼれ落ちた。すると、記憶のままの父の表情で、〈蝿〉が苦笑する。
「『私』は、君の知っている『お父様』ではないよ」
「……っ」
分かっている。父ではない。父はもう、とっくに亡くなったのだ。けれど他に、なんと呼べばよいというのだろう?
父との相違点を探すように、あるいは父との類似点を見つけるために、ミンウェイは切れ長の瞳に相手の姿を焼き付ける。
「よく来てくれたね、ありがとう。……君が、今のミンウェイなんだね」
「……」
そんなことを言われても、ミンウェイには、どう答えればよいのか分からない。
押し黙ってしまった彼女に、〈蝿〉は言う。
「正直なところ、私の記憶の君と、今の君は違いすぎて、私は戸惑っているよ」
「…………」
昔のような――『母』に似た姿であったほうが、目の前の『彼』は喜んだのだろうか。
そんな考えが、ミンウェイの頭をかすめた。……その裏側にある、『彼』を喜ばせたい、という自分の思いに愕然として、柳眉をひそめる。
その顔を『彼』――〈蝿〉は、きっと勘違いしたのだろう。困ったように微笑んだ。
「悪い意味で言っているわけではないよ。ただの事実だ」
「いえ、あの……、……」
うまく言葉を紡げずに口ごもるミンウェイに、〈蝿〉は言葉を重ねる。
「白状すれば、目覚めてすぐに君の写真を見せられたとき、私は、君のあまりの変わりように心がついていかなかった。おそらく、君が想像する通りに、激怒したよ」
「……っ」
「十数年も経っていれば、変わっていて当たり前なのにね。けれど、私は取り残されたままで……」
そう言い掛けてから、〈蝿〉は首を振った。
「――違うな。私の時間は、鷹刀を離れ、妻を亡くしたときに止まっていた。だから、置き去りの私は『君』をどう捉えればよいのか分からなかったんだ……。君は、辛かっただろう」
「――!」
「君は妻とは違う、他ならぬ『君』であるということが、『私』には、はっきりと分かるよ。それは、今の『私』が、私であって、私ではないと、きちんと自覚しているから。そして――」
〈蝿〉はリュイセンへと視線を送り、ふっと口の端を上げる。
「若き『鷹刀の後継者』に、時代は変わった、という現実を見せつけられたからだ。――そのとき、私の中の『時』が動き出した」
それから〈蝿〉は、柔らかな笑顔でミンウェイを包みこむ。
「妻は二十歳を迎えられなかったが、君は美しく、華やかに成長した。――良かった。……君が、無事に生き存えて……本当に」
低く優しい声に、ミンウェイの心は震えた。
『彼』は、父ではない。けれど、もしも今、父が生きていたら、きっと……。――そんな幻の存在だ。
ミンウェイの美貌が、ぐにゃりと大きく歪んだからだろう。〈蝿〉は狼狽の息を漏らし、慌てて話題を変えようと、メイシアに声を掛けた。
「この部屋が、どういったときに使われるのか、あなたならご存知ですね。――皆に、教えてあげてください」
「え……? ――はい」
唐突な指名に戸惑いながらも、メイシアは素直に答える。
「神に祈りを捧げ、神と対話するための部屋です。――勿論、実際に神の声が聞こえるわけではありませんが……。貴族や王族なら自分の屋敷に、ひと部屋は作ります。けれど、悩みごとでもない限り、普段は立ち入らない場所となっています」
「ええ、その通りです。簡単に言えば『神との密談の場』ですね」
「全然、違うだろ!」
満足そうに頷く〈蝿〉に、今まで黙って聞いていたルイフォンが、一歩、前に進み出て叫んだ。
思わず突っ込んだ、というだけではない。不気味に和んだ空気に対し、自分はまだ敵対関係にあるのだという意思表示だ。彼は猫の目を鋭く光らせ、肩を怒らせる。
しかし、〈蝿〉は構わず、口元をほころばせた。
「いいえ、合っていますよ。王――すなわち、〈七つの大罪〉の頂点に立つ〈神〉は、防音のよく効いた天空の間で〈悪魔〉たちと会っていましたから」
「は……?」
呆けたような顔をするルイフォンに、〈蝿〉は、わざとらしいほど恭しく頭を垂れる。
「ようこそ、ルイフォン。私の招待を受けてくださりありがとうございます」
「え? 俺……?」
急に話の矛先を向けられ、しかも慇懃無礼というよりは、素直に丁重と言わざるを得ないような声色の挨拶をされ、ルイフォンは戸惑う。
「お呼び立てしておきながら、出迎えをリュイセンに任せ、失礼いたしました。――とはいえ、リュイセンが昨晩、派手に暴れまわってくれたおかげで、私は怪我人の回収と治療で大変だったのですよ。この体には若さがありませんからね、少しくらい休ませていただくのは、ある意味、当然と言えましょう?」
「〈蝿〉……?」
立て板に水の弁に、ルイフォンは絶句していた。
しばし眉間に皺を寄せ……、それから彼は、ゆっくりと口を開く。
「お前の言動には、物凄く違和感がある。はっきり言って、不気味だ」
端的に言い切り、彼は高圧的に顎を上げた。無機質なほどに冷静な光をたたえた猫の目を、すうっと細める。
「だが、どういうわけだか、演技をしているようには思えない。嫌味な口調は変わらねぇし……。――ああ、性格がそのままだからこそ、嘘に見えないのか」
「随分な言われようですね」
「仕方ないだろ。今までが、今までなんだからさ」
「それは、そうですね」
〈蝿〉が自嘲めいた笑みを浮かべる。その顔は、とても穏やかで、同時に切なげにも見えた。
「……本当に、リュイセンを認めたんだな」
静かに落とされたルイフォンの呟きに、ミンウェイは瞳を瞬かせた。
リュイセンから、〈蝿〉が屈したという報告を受けたとき、ルイフォンは信じていなかった。こそこそと隠れるようにしてシュアンと話していたことに、彼女は気づいていた。だから、ルイフォンと〈蝿〉とで、ひと波乱ありそうだと覚悟していたのだ。
ルイフォンが大きく息を吐いた。肩から力が抜け、猫背が強調される。だが、次の瞬間には、気合いの呼吸と共に、彼とは思えぬほどに背筋が伸ばされた。一本に編まれた髪が、天から地へと貫くように背骨の上を綺麗に流れ、その毛先で金の鈴が煌めく。
「〈蝿〉。俺は、メイシアの父親を――あの優しい親父さんを、この手で殺した。お前が、親父さんを〈影〉にしたからだ。……俺は決して、お前を許さない」
「……」
「お前を恨んでいるのは、俺やメイシアだけじゃない。そこにいるシュアンもそうだ」
ルイフォンが振り返ると同時に、シュアンが軽く会釈した。ただし、特徴的な三白眼は、冷たく〈蝿〉を見据えたままだ。
「――見覚えがありますね」
「ああ。あんたは一度、俺と会っている」
思案するような〈蝿〉に、シュアンは口の端を上げ、ぼさぼさ頭の前髪を掻き上げた。抑えた手でオールバックの髪型を作り、視線で〈蝿〉を撃ち抜く。
それは以前、ハオリュウが会食に招かれたとき、車椅子で降りられぬ階段で見せた殺意の再現だった。
〈蝿〉は、はっと顔色を変えた。
「メイシアの異母弟の腹心……」
「おおっと、勘違いするなよ? 俺はハオリュウの代理で来たわけじゃねぇ。俺は、俺個人として、あんたを殺してやりたいほど憎んでいる」
「……」
〈蝿〉は目線で、シュアンに理由を問うた。無言であるのは、不用意な訊き方をして、相手の逆鱗に触れてしまうことを避けたのだろう。
「あんたは、俺が世話になった先輩を〈影〉にした。手駒が必要だった、というだけの理由でな。おそらく、あんたは先輩の名前も知らないだろう。――俺が先輩を殺したこともな」
「そういうことですか……」
黙祷を捧げるように目を伏せた〈蝿〉に、シュアンは言を継ぐ。
「だが、とりあえず俺は、傍観者にまわる。あんたの様子が気になるからだ。――これでいいんだろう、ルイフォン?」
「ああ。すまない」
話を戻してきたシュアンに、ルイフォンは、彼らしくもなく遠慮がちに頷いた。そして、〈蝿〉へと向き直る。
「現在のお前に、敵意がないことだけは認めよう。……お前は、『殺し合い』ではなくて『話し合い』を――いや、『密談』を望んでいるんだな」
以前、ハオリュウの車で潜入し、王妃の支度部屋で対峙したときには、両者の間には『殺し合い』しかなかった。
けれど、今は――。
「そういうことです」
察しのよいルイフォンに粛々と低頭しながらも、知的な会話を好む〈蝿〉は、心なしか嬉しそうに肯定した。
「応じよう」
金の鈴を煌めかせ、ルイフォンは大股で奥へと進んだ。
ずかずかと部屋の中央へと歩いていき、豪奢なソファーで遠慮なく足を組む。先陣を切った彼に続くように、残りの者たちも移動していった。
こうして天空の間にて、神への祈りとは無縁の、人と人との密談が始まった。
歩を進めれば、純白の絨毯が柔らかに足を包み込んだ。複雑な織りによる美しい紋様に、靴の泥は綺麗に払ってあっただろうか、などと場違いな心配をしてしまう。
次に目に入ったのは、ミンウェイの直前に扉を抜けたシュアンの背中であり、そして、その向こうに、先行していたリュイセン、ルイフォン、メイシアの三人の姿があった。ミンウェイの気配に、彼らが一斉に振り返る。
「ミンウェイさん……!」
なかなか来ないミンウェイを案じていたのだろう。メイシアが、あからさまな安堵の表情を浮かべた。
『大丈夫よ』『心配しないで』――そんな言葉が、ミンウェイの頭をよぎった。けれど、口を衝いて出たのは、まったく別の強気の台詞だった。
「ごめんなさい。あまりにも立派な部屋に、気後れしちゃったのよ」
メイシアは一瞬、黒曜石の瞳を大きく見開いた。けれど、すぐに微笑みながら頷く。
「そうですね。この部屋の造りは、『天空の間』と呼ばれる特別なものですから」
「え?」
「天空神フェイレンのおわす、天上の世界を表しているんです。太陽を象った照明と、雲上を示す織りの絨毯。全体的に白を基調とした調度を用いて、その縁は金箔で飾ります」
なんでも真に受けるメイシアとはいえ、『気後れした』というミンウェイの嘘を信じたわけではないだろう。けれど、そういうことにして説明をくれたのだ。
メイシアの気遣いのおかげで、心が落ち着いていく。
しかし――。
「さすが、貴族の令嬢は詳しいですね」
直後に響いた、不思議な笑みを含んだ低音によって、ミンウェイの体は一瞬にして緊張に包まれた。
その声は、部屋の中央に置かれた、金箔で縁取られた純白のソファーから聞こえた。こちらに背中を向けて座っていた長身が、すらりと立ち上り、振り向く。
「――!」
ミンウェイは息を呑んだ。
真っ黒だったはずの髪には、まばらに白いものが混じっていた。皺が増え、肌も衰えている。記憶の中の父よりも、彼女の後ろにいる伯父のエルファンに似ている……。
長い白衣の裾を翻し、『彼』――〈蝿〉は颯爽と近づいてきた。
柔らかな雲のような床では靴音の立てようもないが、滑るような足の運びは何処を歩いても無音であろう。その動きは父とそっくりで……、ミンウェイとも、そっくりで……。
当然だ。父から学んだのだから。
いつの間にか常に足音を立てなくなっていたミンウェイに『普段から気配を消すようでは、かえって『自分は怪しい者です』と白状しているようなものだよ』と父は苦笑していた。
「お父様……」
ミンウェイの唇から、言葉がこぼれ落ちた。すると、記憶のままの父の表情で、〈蝿〉が苦笑する。
「『私』は、君の知っている『お父様』ではないよ」
「……っ」
分かっている。父ではない。父はもう、とっくに亡くなったのだ。けれど他に、なんと呼べばよいというのだろう?
父との相違点を探すように、あるいは父との類似点を見つけるために、ミンウェイは切れ長の瞳に相手の姿を焼き付ける。
「よく来てくれたね、ありがとう。……君が、今のミンウェイなんだね」
「……」
そんなことを言われても、ミンウェイには、どう答えればよいのか分からない。
押し黙ってしまった彼女に、〈蝿〉は言う。
「正直なところ、私の記憶の君と、今の君は違いすぎて、私は戸惑っているよ」
「…………」
昔のような――『母』に似た姿であったほうが、目の前の『彼』は喜んだのだろうか。
そんな考えが、ミンウェイの頭をかすめた。……その裏側にある、『彼』を喜ばせたい、という自分の思いに愕然として、柳眉をひそめる。
その顔を『彼』――〈蝿〉は、きっと勘違いしたのだろう。困ったように微笑んだ。
「悪い意味で言っているわけではないよ。ただの事実だ」
「いえ、あの……、……」
うまく言葉を紡げずに口ごもるミンウェイに、〈蝿〉は言葉を重ねる。
「白状すれば、目覚めてすぐに君の写真を見せられたとき、私は、君のあまりの変わりように心がついていかなかった。おそらく、君が想像する通りに、激怒したよ」
「……っ」
「十数年も経っていれば、変わっていて当たり前なのにね。けれど、私は取り残されたままで……」
そう言い掛けてから、〈蝿〉は首を振った。
「――違うな。私の時間は、鷹刀を離れ、妻を亡くしたときに止まっていた。だから、置き去りの私は『君』をどう捉えればよいのか分からなかったんだ……。君は、辛かっただろう」
「――!」
「君は妻とは違う、他ならぬ『君』であるということが、『私』には、はっきりと分かるよ。それは、今の『私』が、私であって、私ではないと、きちんと自覚しているから。そして――」
〈蝿〉はリュイセンへと視線を送り、ふっと口の端を上げる。
「若き『鷹刀の後継者』に、時代は変わった、という現実を見せつけられたからだ。――そのとき、私の中の『時』が動き出した」
それから〈蝿〉は、柔らかな笑顔でミンウェイを包みこむ。
「妻は二十歳を迎えられなかったが、君は美しく、華やかに成長した。――良かった。……君が、無事に生き存えて……本当に」
低く優しい声に、ミンウェイの心は震えた。
『彼』は、父ではない。けれど、もしも今、父が生きていたら、きっと……。――そんな幻の存在だ。
ミンウェイの美貌が、ぐにゃりと大きく歪んだからだろう。〈蝿〉は狼狽の息を漏らし、慌てて話題を変えようと、メイシアに声を掛けた。
「この部屋が、どういったときに使われるのか、あなたならご存知ですね。――皆に、教えてあげてください」
「え……? ――はい」
唐突な指名に戸惑いながらも、メイシアは素直に答える。
「神に祈りを捧げ、神と対話するための部屋です。――勿論、実際に神の声が聞こえるわけではありませんが……。貴族や王族なら自分の屋敷に、ひと部屋は作ります。けれど、悩みごとでもない限り、普段は立ち入らない場所となっています」
「ええ、その通りです。簡単に言えば『神との密談の場』ですね」
「全然、違うだろ!」
満足そうに頷く〈蝿〉に、今まで黙って聞いていたルイフォンが、一歩、前に進み出て叫んだ。
思わず突っ込んだ、というだけではない。不気味に和んだ空気に対し、自分はまだ敵対関係にあるのだという意思表示だ。彼は猫の目を鋭く光らせ、肩を怒らせる。
しかし、〈蝿〉は構わず、口元をほころばせた。
「いいえ、合っていますよ。王――すなわち、〈七つの大罪〉の頂点に立つ〈神〉は、防音のよく効いた天空の間で〈悪魔〉たちと会っていましたから」
「は……?」
呆けたような顔をするルイフォンに、〈蝿〉は、わざとらしいほど恭しく頭を垂れる。
「ようこそ、ルイフォン。私の招待を受けてくださりありがとうございます」
「え? 俺……?」
急に話の矛先を向けられ、しかも慇懃無礼というよりは、素直に丁重と言わざるを得ないような声色の挨拶をされ、ルイフォンは戸惑う。
「お呼び立てしておきながら、出迎えをリュイセンに任せ、失礼いたしました。――とはいえ、リュイセンが昨晩、派手に暴れまわってくれたおかげで、私は怪我人の回収と治療で大変だったのですよ。この体には若さがありませんからね、少しくらい休ませていただくのは、ある意味、当然と言えましょう?」
「〈蝿〉……?」
立て板に水の弁に、ルイフォンは絶句していた。
しばし眉間に皺を寄せ……、それから彼は、ゆっくりと口を開く。
「お前の言動には、物凄く違和感がある。はっきり言って、不気味だ」
端的に言い切り、彼は高圧的に顎を上げた。無機質なほどに冷静な光をたたえた猫の目を、すうっと細める。
「だが、どういうわけだか、演技をしているようには思えない。嫌味な口調は変わらねぇし……。――ああ、性格がそのままだからこそ、嘘に見えないのか」
「随分な言われようですね」
「仕方ないだろ。今までが、今までなんだからさ」
「それは、そうですね」
〈蝿〉が自嘲めいた笑みを浮かべる。その顔は、とても穏やかで、同時に切なげにも見えた。
「……本当に、リュイセンを認めたんだな」
静かに落とされたルイフォンの呟きに、ミンウェイは瞳を瞬かせた。
リュイセンから、〈蝿〉が屈したという報告を受けたとき、ルイフォンは信じていなかった。こそこそと隠れるようにしてシュアンと話していたことに、彼女は気づいていた。だから、ルイフォンと〈蝿〉とで、ひと波乱ありそうだと覚悟していたのだ。
ルイフォンが大きく息を吐いた。肩から力が抜け、猫背が強調される。だが、次の瞬間には、気合いの呼吸と共に、彼とは思えぬほどに背筋が伸ばされた。一本に編まれた髪が、天から地へと貫くように背骨の上を綺麗に流れ、その毛先で金の鈴が煌めく。
「〈蝿〉。俺は、メイシアの父親を――あの優しい親父さんを、この手で殺した。お前が、親父さんを〈影〉にしたからだ。……俺は決して、お前を許さない」
「……」
「お前を恨んでいるのは、俺やメイシアだけじゃない。そこにいるシュアンもそうだ」
ルイフォンが振り返ると同時に、シュアンが軽く会釈した。ただし、特徴的な三白眼は、冷たく〈蝿〉を見据えたままだ。
「――見覚えがありますね」
「ああ。あんたは一度、俺と会っている」
思案するような〈蝿〉に、シュアンは口の端を上げ、ぼさぼさ頭の前髪を掻き上げた。抑えた手でオールバックの髪型を作り、視線で〈蝿〉を撃ち抜く。
それは以前、ハオリュウが会食に招かれたとき、車椅子で降りられぬ階段で見せた殺意の再現だった。
〈蝿〉は、はっと顔色を変えた。
「メイシアの異母弟の腹心……」
「おおっと、勘違いするなよ? 俺はハオリュウの代理で来たわけじゃねぇ。俺は、俺個人として、あんたを殺してやりたいほど憎んでいる」
「……」
〈蝿〉は目線で、シュアンに理由を問うた。無言であるのは、不用意な訊き方をして、相手の逆鱗に触れてしまうことを避けたのだろう。
「あんたは、俺が世話になった先輩を〈影〉にした。手駒が必要だった、というだけの理由でな。おそらく、あんたは先輩の名前も知らないだろう。――俺が先輩を殺したこともな」
「そういうことですか……」
黙祷を捧げるように目を伏せた〈蝿〉に、シュアンは言を継ぐ。
「だが、とりあえず俺は、傍観者にまわる。あんたの様子が気になるからだ。――これでいいんだろう、ルイフォン?」
「ああ。すまない」
話を戻してきたシュアンに、ルイフォンは、彼らしくもなく遠慮がちに頷いた。そして、〈蝿〉へと向き直る。
「現在のお前に、敵意がないことだけは認めよう。……お前は、『殺し合い』ではなくて『話し合い』を――いや、『密談』を望んでいるんだな」
以前、ハオリュウの車で潜入し、王妃の支度部屋で対峙したときには、両者の間には『殺し合い』しかなかった。
けれど、今は――。
「そういうことです」
察しのよいルイフォンに粛々と低頭しながらも、知的な会話を好む〈蝿〉は、心なしか嬉しそうに肯定した。
「応じよう」
金の鈴を煌めかせ、ルイフォンは大股で奥へと進んだ。
ずかずかと部屋の中央へと歩いていき、豪奢なソファーで遠慮なく足を組む。先陣を切った彼に続くように、残りの者たちも移動していった。
こうして天空の間にて、神への祈りとは無縁の、人と人との密談が始まった。