残酷な描写あり
4.神話に秘められし真実-4
ルイフォンとメイシアは、緊張の面持ちで〈蝿〉と向き合った。
ソファーに横たわった〈蝿〉の呼吸は荒かった。不規則に胸が上下し、それにあわせて白髪混じりの髪が、鈍い銀光を放つ。顔は苦しげに歪められ、しかし、瞳は穏やかにふたりを見つめていた。
「逝く前に、あなたたちに『ライシェン』を託します」
「『ライシェン』……!」
ルイフォンは息を呑む。
彼こそが『デヴァイン・シンフォニア計画』の中核を担う存在。
何故なら、殺された彼を生き返らせるために、母親であるセレイエが作り上げたのが『デヴァイン・シンフォニア計画』であるのだから――。
「『ライシェン』の体は、いつ生まれてもよいほどに成長しましたので、先ほど凍結処理を施しました。地下の研究室に置いてあります。部屋の鍵は……ああ、私が脱ぎ捨てた白衣のポケットの中ですね」
「分かった。『ライシェン』は、俺たちが預かる」
ルイフォンは決然と答える。
安請け合いすべきではない用件であるのは百も承知だが、〈蝿〉の最期の頼みを無下にする気にはならなかった。
しかし――。
次の瞬間、〈蝿〉がぷっと吹き出した。掛かったなと言わんばかりの愉悦の顔は、死に瀕している人間とは思えぬほどに楽しげである。
「〈蝿〉!?」
「私は、あなたたちに『ライシェン』を託すとは言いましたが、預かってほしいと言ったわけではありませんよ」
「じゃあ、どういう意味だよ!?」
ルイフォンの苛立ちの叫びに、〈蝿〉の目がすっと細まった。眉間には神経質な皺が寄り、それまでとは打って変わった厳粛な顔になる。
「『ライシェン』をどうするか――あなたたちの自由にしてよい、ということです」
「え……?」
「この館から連れて行くのか、このまま研究室に放置するのか、あるいは――」
そこで、〈蝿〉の瞳が冷徹な光を帯びた。――否。それは光ではなく、闇……。
「処分するのか……」
血の流れを凍りつかせ、心臓の動きを止めてしまいそうな、ぞわりとした響きがルイフォンを襲った。
「すべては、あなたたちの思うがままに……。『ライシェン』の命運、その全権をあなたたちに委ねます」
恭しさすら感じられる〈蝿〉の口調からは、毒気が漂う。
ルイフォンは、反射的に言葉を返そうとして……呑み込んだ。それから、わずかな逡巡ののちに、かすれた声で尋ねる。
「何故、俺たちに……?」
「メイシアが受け取った記憶によれば、鷹刀セレイエは既に亡くなっているとのこと。ならば、『ライシェン』を託す相手は、セレイエが『デヴァイン・シンフォニア計画』のために選んだ、あなたたちが一番ふさわしいでしょう?」
〈蝿〉は、さも当然とばかりに答え……、ルイフォンの心を見透かしたかのように苦笑する。
彼には、お見通しなのだ。
だからルイフォンは、一度、ためらった台詞を改めて口に載せた。
「『ライシェン』は……、……『処分』すべきもの……なのか…………?」
それは〈蝿〉への質問のはずだった。
〈蝿〉は、『ライシェン』を処分すべきと思っているのか? ――と。
しかし、声に出した瞬間、ルイフォン自身への問いかけとなった。――これから死に逝く〈蝿〉は、『ライシェン』がどうなろうとも無関係であるから。だからこそ、ルイフォンたちに託すと決めたのだと、理解したから……。
ルイフォンの表情が揺れ動くのを、〈蝿〉はじっと見守っていた。ルイフォンは気づいていなかったが、その隣に座るメイシアもまた、胸元を押さえて苦しげに眉を曇らせていた。
ふたりの動揺など、百も承知で言ったこと。もとより〈蝿〉の願いは、彼らが大いに悩み、その上で決断することだ。
しばしの沈黙のあと、〈蝿〉は静かに口を開く。
「『ライシェン』は、王族に残された最後の〈神の御子〉の男子です。争乱の種にしかなりません」
唐突な言葉に、ルイフォンは目を瞬かせた。
「どういうことだ? 〈神の御子〉は自然には、なかなか生まれないけど、過去の王のクローンなら幾らでも作れるだろ? どうして『最後』になる?」
当然の質問をしたルイフォンに、〈蝿〉は待ち構えていたように答える。
「保管してあった過去の王の遺伝子を、セレイエがすべて廃棄してしまったからですよ。『ライシェン』を唯一の存在にすることで、オリジナルのように殺されたりしないように――と」
〈蝿〉の説明に同意するように、メイシアも首肯した。
「セレイエの奴……!」
ルイフォンは絶句する。
それは、『国家に対する反逆罪』といって差し支えないだろう。随分と思い切ったことをしたものだ。
……だが、異父姉の気持ちは分かる。そして、有効な手段だ。
その証拠に、摂政カイウォルは『ライシェン』を次代の王と認めていた。内心は知らないが、そうせざるを得ないと納得していたということだ。
ルイフォンの反応に〈蝿〉は満足したように頷く。
「今の女王が将来〈神の御子〉を産む可能性はありますが、確率は高くありません。ですから、『ライシェン』を失えば、王族は永遠に〈神の御子〉の男子を失うことになりかねない。――となれば、摂政は血眼になって『ライシェン』を手に入れようとするはずです」
「……」
おそらく、その通りだろう。
ならば、どうするべきか。
委ねられた事態の大きさに、ルイフォンが目眩を感じていると、〈蝿〉は更に言葉を重ねた。
「『ライシェン』は、特別な〈神の御子〉です。――彼の目は『見えます』」
「!?」
ルイフォンは一瞬、困惑に呆ける。だが、すぐに尖った声で叫んだ。
「〈神の御子〉の男子は、『必ず盲目』じゃなかったのか!?」
「ええ。ですから、オリジナルのライシェンは盲目でした。しかし、『ライシェン』の肉体を作るにあたり、遺伝子を書き換えて目が見えるようにしてほしいと、セレイエに――彼女の〈影〉のホンシュアに依頼されたため、この私がそうしました」
「え……?」
唖然とするルイフォンの服の端を、傍らのメイシアが引いた。振り向けば、「本当なの」と彼女が言う。
「セレイエさんは、どうしても『ライシェン』の目を見えるようにしたかったの。だからこそ、亡くなった『天才医師〈蝿〉』を蘇らせた。彼の技術でなければ、思うように遺伝子を書き換えるなんて、到底、不可能だったから……」
「――!」
衝撃の告白だった。
けれど、これで納得できた。
〈七つの大罪〉にとって、王のクローンを作ることは、とうに確立した技術である。ならば、死者などに頼らずとも、可能なはずだ。なのに、どうしてセレイエは〈蝿〉を蘇らせたのか? ――ルイフォンは、ずっと疑問に思っていたのだ。
そのとき。
「ああ……!」という、感嘆を含んだ呟きが〈蝿〉の口から漏れた。決して大きくはないのに妙に響いたその声に、皆が注目する。
「そうでしたね。メイシア、あなたなら詳しい事情を知っているのでしたね」
「え?」
突然、瞳を輝かせた〈蝿〉に、メイシアは目を見開く。
「ならば、教えて下さい。どうして、セレイエは『ライシェン』に視力を望んだのですか? 『目が見えるようにすれば、能力を失うかもしれない』と言った私に、彼女は『それこそが目的』とはっきりと答えました。あれは、いったいどういう意味だったのでしょう?」
「……っ」
メイシアの花の顔に陰りが落ちた。
「『私』は、なんのために、この『生』を享けたのか。冥土の土産に、その理由を知りたい。――一番、初めに『不気味な能力を持たない〈神の御子〉を、女王が望んでいるから』という説明を受けましたが、あれは嘘でしょう?」
「……」
メイシアの黒曜石の瞳が揺れる。しかし、構わず、〈蝿〉は畳み掛けた。
「視力を願ったのは、母親であるセレイエの愛情でしょう。しかし、『ライシェン』の身の安全を考えれば、敵だらけの王宮を生き抜くためには、例の能力を失わせるべきではありません。しかも、死者である『私』を蘇らせるために、セレイエは相当の苦労をした模様。――ですから、彼女の行動は、私の腑に落ちないのです」
ソファーに横たわり、メイシアを見上げる〈蝿〉の顔は、蒼白であるにも関わらず、興奮に上気しているように見えた。疑問があるから答えを求める――研究者の性からくる純粋な好奇心が、まさか死の床で満たされるとは思ってもみなかったと、土気色の唇がほころんでいる。
メイシアの喉が、こくりと動いた。その様子に、ルイフォンは不吉な予感を覚える。
彼女は緊張に震えていた。しかし、〈蝿〉の最期の願いに応えようと、澄んだ声を響かせた。
「ライシェンは……『神』として、生まれました。――だから、です」
聡明なメイシアとは思えないほどに、要領を得ない言葉だった。
誰もが動揺に顔色を変える中、ルイフォンが尋ねる。
「メイシア、『神』――って、なんだ?」
「ごめんなさい、変な言い方をして。その……、『神』と呼ぶしかないような力を持って生まれてきたと、シルフェン先王陛下がおっしゃったの。だから、先王陛下は『来神』という名前をくださった……」
メイシアは、そこで大きく息を吸い、皆に向かって一気に告げる。
「ライシェンは、〈神の御子〉の男子が持つ『情報を読み取る』能力に加え、〈天使〉のセレイエさんから受け継いだ『情報を書き込む』能力も持っていました。しかも、〈天使〉のように羽で自分と相手を繋ぐ必要はなく、〈神の御子〉が情報を読み取るのと同じように、相手に触れずに、情報を書き込むことができました」
相手に触れることなく、情報を『読み取る』、そして『書き込む』。
それは、傍目にどう見えるか――。
「――だから、『神』……なのか」
ルイフォンの呟きに、メイシアは首肯した。
「ライシェンの強すぎる力を少しでも封じるために、それよりも、その目で世界を見ることができるように、セレイエさんは『ライシェン』に視力を望んだんです」
まるで、胸の内を打ち明けるかのように告げたメイシアの瞳から、はらりと涙がこぼれた。
「メイシア!? どうしたんだ!?」
「ルイフォン、心配しないで。……これは、セレイエさんの感情。辛い思いが蘇ってきて……」
メイシアの肩は小刻みに震えていた。ルイフォンが彼女を抱き寄せると、彼女の指先が、ぎゅっと彼のシャツを握りしめる。
「……あのね、ライシェンが殺されたのは、平民のセレイエさんの子供だったからじゃないの。勿論、平民が〈神の御子〉の生母なんて、って声はあった。暗殺も計画されていた。殺されるのは時間の問題だったと思う。――けど!」
そこで、メイシアは、しゃくりあげるように大きく息を吸う。
「決定打は、ライシェンが人を殺したから……!」
絹を裂くような、悲痛の叫びだった。
「メイシア!」
ルイフォンは彼女をきつく抱きしめる。
おそらく今のメイシアは、過去のセレイエと同調している。絶望に彩られた、辛い記憶に。
彼は、彼女の背中に手を回し、長い黒絹の髪を掻き上げるようにして豪快にくしゃりと撫でる。
「……ぁ」
ルイフォンの腕の中で、メイシアが小さな声を漏らした。それから彼女は、身を預けるように、彼の胸に額を押し当てる。
「うん……、……大丈夫」
温かな吐息が、ルイフォンに掛かった。セレイエではない。現在を生きている、メイシアの息吹だ。
そして、彼女は意を決したように顔を上げ、告げる。
「ライシェンは、生後まもなくから、周りの人間の感情を読み取りました。言葉など分からなくとも、悪意や敵意――『害意』を向けられれば、彼には分かりました」
〈神の御子〉が生まれれば、大々的に国民に公表される。しかし、ライシェンの誕生は隠蔽された。情報屋であるルイフォンですら感づくことのできなかったほどに、厳重に。
平民を母に持つ〈神の御子〉など、前代未聞に違いない。おそらく、生まれた瞬間から殺害が検討されていたのだ。
そんな王宮にいれば、〈神の御子〉であるライシェンは、常に害意を感じ続けていたはずだ。
「そして、ライシェンが『殺意』を読み取ったとき、彼は自衛のために相手を殺しました。――〈天使〉と同じ『書き込む』という能力を使って……」
「あくまでも自衛だろ? それでライシェンが殺されるのは理不尽だ……」
とうに過ぎた過去について、ルイフォンが反論することに意味はない。しかし、何も言わずにはいられなかった。
「無力なはずの赤子が、手も触れずに人を殺したの。そんなことを聞けば、彼を怖がり、彼に『殺意』を向ける人は、あとを絶たなくなる。そして、ライシェンは、そういう人たちも殺してしまった……」
「……っ」
「だから、先王陛下はライシェンを殺したの。〈神の御子〉同士であれば、互いに感情を読み取ることが出来ないから……」
こうして、ライシェンは先王に殺され、その恨みから先王はヤンイェンに殺され……。
『デヴァイン・シンフォニア計画』が始まる――。
「なるほど」
今まで、黙って聞き入っていた〈蝿〉が、荒い息と共に吐き出した。
「セレイエは、『ライシェン』には害意を読み取ってほしくなかった――というわけですね。だから視力を求め、そのために『私』を必要とした。……納得しました。少しだけ、溜飲が下がりましたよ。最期に、この話を聞けてよかったです。……メイシア、ありがとう」
〈蝿〉が笑う。救いを得られたような穏やかな顔で。
そして、彼の体から、ふっと力が抜ける。
「私は……そろそろ……のようです」
その言葉に、ミンウェイが喉をひくつかせたが、もう『お父様』と叫ぶことはなかった。彼女は唇を噛み締め、覚悟を決めた顔をする。
そんな彼女を〈蝿〉は愛おしげに見つめ、それからリュイセンへと視線を移した。
「リュイセン」
厳かな低音に、リュイセンは「はい」と襟を正して応じる。
「先に申し上げたように、王族と鷹刀の関係は既に終わっています。〈贄〉に関しては、パイシュエ様が自らの細胞を無限に増殖させ、永遠に喰われ続ける細工を施したことで不要になりました。安心してください」
「パイシュエ……?」
リュイセンの息遣いが戸惑いに揺れる。『パイシュエ』が誰だか分からなかったのだ。察したルイフォンが小声で「シャオリエが〈影〉になる前の、本当の名前だ」と教えると、得心がいったように頷く。
その間も、〈蝿〉は荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりとリュイセンに語りかけていた。
「鷹刀は、パイシュエ様とお義父さんが解放してくださった。もう、何も憂うことはない。私は、現在の鷹刀をこの目で見たわけではないけれど、君を見ていれば、誇り高き今の鷹刀が手にとるように分かるよ、……リュイセン」
「ヘイシャオ……」
「鷹刀は自由だ。……だから君は、君の思い描くままに、自由に……君の鷹刀を作り上げ、皆を導いてくれ……、私が言えた義理ではないかもしれないが……頼んだぞ、未来の総帥……」
リュイセンは短く息を呑む。素早く前に歩み出て、ソファーに横たわる〈蝿〉の前にひざまずいた。
「確かに、承りました。俺……私にお任せください」
肩で揃えられた黒髪が床に届くかと思うほどに、リュイセンは深々と頭を垂れる。
〈蝿〉が、ふわりと笑った。そして、祈りのような声を漏らす。
「妻に、会えるか……な」
その瞬間。
リュイセンが、はっと顔色を変え、弾かれたように立ち上がった。
「ルイフォン!」
弟分の名前を叫ぶと同時に、身を翻す。
「ルイフォン、手伝ってくれ! 地下研究室から『彼女』を連れてくる!」
「は? 『彼女』?」
唐突な兄貴分の言動に、ルイフォンの頭がついていかない。
「硝子ケースに入った『彼女』だ。お前も、一緒に見たことがあるだろう!」
「!」
ルイフォンは兄貴分の意図を解した。
『〈蝿〉』の体は、『彼女』と共に、オリジナルのヘイシャオの研究室で見つかったという。生前のヘイシャオが、『対』の『ヘイシャオ』と『ミンウェイ』の肉体を作り、彼らは同じ硝子ケースの中で、歳を重ねていたのだ。
ミンウェイの自殺未遂のあと、ヘイシャオは人が変わり、研究室に籠もりきりになった。状況から考えて、そのとき、ヘイシャオは彼らを作っていたのだ。
なんの目的で、ふたりが作られたのかは不明だが、『対』である以上、〈蝿〉の看取りには『彼女』も同席すべき。――リュイセンはそう考えたのだ。
「ヘイシャオ、頼む! 少しだけ待っていてくれ!」
リュイセンはそう言い残し、部屋を飛び出す。
「あ、おい! リュイセン、鍵!」
ルイフォンは、脱ぎ捨てられていた〈蝿〉の白衣をごそごそとまさぐり、研究室の鍵を持って兄貴分を追いかけた。
慌ただしく駆けていくふたりを〈蝿〉は目尻に皺を寄せて見送り、それから、苦しげな呼吸の中で「エルファン」と、親友であり、義兄である彼を呼ぶ。
「エルファン……。リュイセンは……人の痛みの分かる、優しい良い総帥になるだろう。……今ひとつ、賢さに欠けるのが玉に瑕だが、……それは、きっとルイフォンが補う。リュイセンには、お義父さんのようなカリスマは……ないかもしれない。……けど、彼の優しさに、人は惹かれていく……」
「ああ。……そうだな」
「この『生』で……、彼に会えて、よかった……」
〈蝿〉は穏やかな顔で息を吐き出すと、それから急に表情を改めた。「このあとのことだ」と前置きをすると、事務的な口調で続ける。
「『ライシェン』を……処分するか否かは、今すぐには決断できないだろう。だから、まずは連れて行くか……だ。君たちの車は、ノーチェックでここを出られるから……」
「ああ」
「私兵たちには、既に最後の報酬を振り込んだ……。夕方になったら、この庭園を出ていくように、彼らの端末に連絡も入れた。……門を封じていた近衛隊には、私兵を出していいと通達した。……だから、君たちは私兵たちが動き出すよりも前に……ここを出てくれ」
立つ鳥跡を残さず、とばかりに言い終えると、〈蝿〉の四肢から、だらりと力が抜け落ちる。
「ヘイシャオ……」
エルファンが呟いた、そのときだった。
「ヘイシャオ! 大変だ!」
リュイセンの叫びと共に、部屋の扉が荒々しく開け放たれ、『彼女』を載せたストレッチャーが飛び込んできた。
ソファーに横たわった〈蝿〉の呼吸は荒かった。不規則に胸が上下し、それにあわせて白髪混じりの髪が、鈍い銀光を放つ。顔は苦しげに歪められ、しかし、瞳は穏やかにふたりを見つめていた。
「逝く前に、あなたたちに『ライシェン』を託します」
「『ライシェン』……!」
ルイフォンは息を呑む。
彼こそが『デヴァイン・シンフォニア計画』の中核を担う存在。
何故なら、殺された彼を生き返らせるために、母親であるセレイエが作り上げたのが『デヴァイン・シンフォニア計画』であるのだから――。
「『ライシェン』の体は、いつ生まれてもよいほどに成長しましたので、先ほど凍結処理を施しました。地下の研究室に置いてあります。部屋の鍵は……ああ、私が脱ぎ捨てた白衣のポケットの中ですね」
「分かった。『ライシェン』は、俺たちが預かる」
ルイフォンは決然と答える。
安請け合いすべきではない用件であるのは百も承知だが、〈蝿〉の最期の頼みを無下にする気にはならなかった。
しかし――。
次の瞬間、〈蝿〉がぷっと吹き出した。掛かったなと言わんばかりの愉悦の顔は、死に瀕している人間とは思えぬほどに楽しげである。
「〈蝿〉!?」
「私は、あなたたちに『ライシェン』を託すとは言いましたが、預かってほしいと言ったわけではありませんよ」
「じゃあ、どういう意味だよ!?」
ルイフォンの苛立ちの叫びに、〈蝿〉の目がすっと細まった。眉間には神経質な皺が寄り、それまでとは打って変わった厳粛な顔になる。
「『ライシェン』をどうするか――あなたたちの自由にしてよい、ということです」
「え……?」
「この館から連れて行くのか、このまま研究室に放置するのか、あるいは――」
そこで、〈蝿〉の瞳が冷徹な光を帯びた。――否。それは光ではなく、闇……。
「処分するのか……」
血の流れを凍りつかせ、心臓の動きを止めてしまいそうな、ぞわりとした響きがルイフォンを襲った。
「すべては、あなたたちの思うがままに……。『ライシェン』の命運、その全権をあなたたちに委ねます」
恭しさすら感じられる〈蝿〉の口調からは、毒気が漂う。
ルイフォンは、反射的に言葉を返そうとして……呑み込んだ。それから、わずかな逡巡ののちに、かすれた声で尋ねる。
「何故、俺たちに……?」
「メイシアが受け取った記憶によれば、鷹刀セレイエは既に亡くなっているとのこと。ならば、『ライシェン』を託す相手は、セレイエが『デヴァイン・シンフォニア計画』のために選んだ、あなたたちが一番ふさわしいでしょう?」
〈蝿〉は、さも当然とばかりに答え……、ルイフォンの心を見透かしたかのように苦笑する。
彼には、お見通しなのだ。
だからルイフォンは、一度、ためらった台詞を改めて口に載せた。
「『ライシェン』は……、……『処分』すべきもの……なのか…………?」
それは〈蝿〉への質問のはずだった。
〈蝿〉は、『ライシェン』を処分すべきと思っているのか? ――と。
しかし、声に出した瞬間、ルイフォン自身への問いかけとなった。――これから死に逝く〈蝿〉は、『ライシェン』がどうなろうとも無関係であるから。だからこそ、ルイフォンたちに託すと決めたのだと、理解したから……。
ルイフォンの表情が揺れ動くのを、〈蝿〉はじっと見守っていた。ルイフォンは気づいていなかったが、その隣に座るメイシアもまた、胸元を押さえて苦しげに眉を曇らせていた。
ふたりの動揺など、百も承知で言ったこと。もとより〈蝿〉の願いは、彼らが大いに悩み、その上で決断することだ。
しばしの沈黙のあと、〈蝿〉は静かに口を開く。
「『ライシェン』は、王族に残された最後の〈神の御子〉の男子です。争乱の種にしかなりません」
唐突な言葉に、ルイフォンは目を瞬かせた。
「どういうことだ? 〈神の御子〉は自然には、なかなか生まれないけど、過去の王のクローンなら幾らでも作れるだろ? どうして『最後』になる?」
当然の質問をしたルイフォンに、〈蝿〉は待ち構えていたように答える。
「保管してあった過去の王の遺伝子を、セレイエがすべて廃棄してしまったからですよ。『ライシェン』を唯一の存在にすることで、オリジナルのように殺されたりしないように――と」
〈蝿〉の説明に同意するように、メイシアも首肯した。
「セレイエの奴……!」
ルイフォンは絶句する。
それは、『国家に対する反逆罪』といって差し支えないだろう。随分と思い切ったことをしたものだ。
……だが、異父姉の気持ちは分かる。そして、有効な手段だ。
その証拠に、摂政カイウォルは『ライシェン』を次代の王と認めていた。内心は知らないが、そうせざるを得ないと納得していたということだ。
ルイフォンの反応に〈蝿〉は満足したように頷く。
「今の女王が将来〈神の御子〉を産む可能性はありますが、確率は高くありません。ですから、『ライシェン』を失えば、王族は永遠に〈神の御子〉の男子を失うことになりかねない。――となれば、摂政は血眼になって『ライシェン』を手に入れようとするはずです」
「……」
おそらく、その通りだろう。
ならば、どうするべきか。
委ねられた事態の大きさに、ルイフォンが目眩を感じていると、〈蝿〉は更に言葉を重ねた。
「『ライシェン』は、特別な〈神の御子〉です。――彼の目は『見えます』」
「!?」
ルイフォンは一瞬、困惑に呆ける。だが、すぐに尖った声で叫んだ。
「〈神の御子〉の男子は、『必ず盲目』じゃなかったのか!?」
「ええ。ですから、オリジナルのライシェンは盲目でした。しかし、『ライシェン』の肉体を作るにあたり、遺伝子を書き換えて目が見えるようにしてほしいと、セレイエに――彼女の〈影〉のホンシュアに依頼されたため、この私がそうしました」
「え……?」
唖然とするルイフォンの服の端を、傍らのメイシアが引いた。振り向けば、「本当なの」と彼女が言う。
「セレイエさんは、どうしても『ライシェン』の目を見えるようにしたかったの。だからこそ、亡くなった『天才医師〈蝿〉』を蘇らせた。彼の技術でなければ、思うように遺伝子を書き換えるなんて、到底、不可能だったから……」
「――!」
衝撃の告白だった。
けれど、これで納得できた。
〈七つの大罪〉にとって、王のクローンを作ることは、とうに確立した技術である。ならば、死者などに頼らずとも、可能なはずだ。なのに、どうしてセレイエは〈蝿〉を蘇らせたのか? ――ルイフォンは、ずっと疑問に思っていたのだ。
そのとき。
「ああ……!」という、感嘆を含んだ呟きが〈蝿〉の口から漏れた。決して大きくはないのに妙に響いたその声に、皆が注目する。
「そうでしたね。メイシア、あなたなら詳しい事情を知っているのでしたね」
「え?」
突然、瞳を輝かせた〈蝿〉に、メイシアは目を見開く。
「ならば、教えて下さい。どうして、セレイエは『ライシェン』に視力を望んだのですか? 『目が見えるようにすれば、能力を失うかもしれない』と言った私に、彼女は『それこそが目的』とはっきりと答えました。あれは、いったいどういう意味だったのでしょう?」
「……っ」
メイシアの花の顔に陰りが落ちた。
「『私』は、なんのために、この『生』を享けたのか。冥土の土産に、その理由を知りたい。――一番、初めに『不気味な能力を持たない〈神の御子〉を、女王が望んでいるから』という説明を受けましたが、あれは嘘でしょう?」
「……」
メイシアの黒曜石の瞳が揺れる。しかし、構わず、〈蝿〉は畳み掛けた。
「視力を願ったのは、母親であるセレイエの愛情でしょう。しかし、『ライシェン』の身の安全を考えれば、敵だらけの王宮を生き抜くためには、例の能力を失わせるべきではありません。しかも、死者である『私』を蘇らせるために、セレイエは相当の苦労をした模様。――ですから、彼女の行動は、私の腑に落ちないのです」
ソファーに横たわり、メイシアを見上げる〈蝿〉の顔は、蒼白であるにも関わらず、興奮に上気しているように見えた。疑問があるから答えを求める――研究者の性からくる純粋な好奇心が、まさか死の床で満たされるとは思ってもみなかったと、土気色の唇がほころんでいる。
メイシアの喉が、こくりと動いた。その様子に、ルイフォンは不吉な予感を覚える。
彼女は緊張に震えていた。しかし、〈蝿〉の最期の願いに応えようと、澄んだ声を響かせた。
「ライシェンは……『神』として、生まれました。――だから、です」
聡明なメイシアとは思えないほどに、要領を得ない言葉だった。
誰もが動揺に顔色を変える中、ルイフォンが尋ねる。
「メイシア、『神』――って、なんだ?」
「ごめんなさい、変な言い方をして。その……、『神』と呼ぶしかないような力を持って生まれてきたと、シルフェン先王陛下がおっしゃったの。だから、先王陛下は『来神』という名前をくださった……」
メイシアは、そこで大きく息を吸い、皆に向かって一気に告げる。
「ライシェンは、〈神の御子〉の男子が持つ『情報を読み取る』能力に加え、〈天使〉のセレイエさんから受け継いだ『情報を書き込む』能力も持っていました。しかも、〈天使〉のように羽で自分と相手を繋ぐ必要はなく、〈神の御子〉が情報を読み取るのと同じように、相手に触れずに、情報を書き込むことができました」
相手に触れることなく、情報を『読み取る』、そして『書き込む』。
それは、傍目にどう見えるか――。
「――だから、『神』……なのか」
ルイフォンの呟きに、メイシアは首肯した。
「ライシェンの強すぎる力を少しでも封じるために、それよりも、その目で世界を見ることができるように、セレイエさんは『ライシェン』に視力を望んだんです」
まるで、胸の内を打ち明けるかのように告げたメイシアの瞳から、はらりと涙がこぼれた。
「メイシア!? どうしたんだ!?」
「ルイフォン、心配しないで。……これは、セレイエさんの感情。辛い思いが蘇ってきて……」
メイシアの肩は小刻みに震えていた。ルイフォンが彼女を抱き寄せると、彼女の指先が、ぎゅっと彼のシャツを握りしめる。
「……あのね、ライシェンが殺されたのは、平民のセレイエさんの子供だったからじゃないの。勿論、平民が〈神の御子〉の生母なんて、って声はあった。暗殺も計画されていた。殺されるのは時間の問題だったと思う。――けど!」
そこで、メイシアは、しゃくりあげるように大きく息を吸う。
「決定打は、ライシェンが人を殺したから……!」
絹を裂くような、悲痛の叫びだった。
「メイシア!」
ルイフォンは彼女をきつく抱きしめる。
おそらく今のメイシアは、過去のセレイエと同調している。絶望に彩られた、辛い記憶に。
彼は、彼女の背中に手を回し、長い黒絹の髪を掻き上げるようにして豪快にくしゃりと撫でる。
「……ぁ」
ルイフォンの腕の中で、メイシアが小さな声を漏らした。それから彼女は、身を預けるように、彼の胸に額を押し当てる。
「うん……、……大丈夫」
温かな吐息が、ルイフォンに掛かった。セレイエではない。現在を生きている、メイシアの息吹だ。
そして、彼女は意を決したように顔を上げ、告げる。
「ライシェンは、生後まもなくから、周りの人間の感情を読み取りました。言葉など分からなくとも、悪意や敵意――『害意』を向けられれば、彼には分かりました」
〈神の御子〉が生まれれば、大々的に国民に公表される。しかし、ライシェンの誕生は隠蔽された。情報屋であるルイフォンですら感づくことのできなかったほどに、厳重に。
平民を母に持つ〈神の御子〉など、前代未聞に違いない。おそらく、生まれた瞬間から殺害が検討されていたのだ。
そんな王宮にいれば、〈神の御子〉であるライシェンは、常に害意を感じ続けていたはずだ。
「そして、ライシェンが『殺意』を読み取ったとき、彼は自衛のために相手を殺しました。――〈天使〉と同じ『書き込む』という能力を使って……」
「あくまでも自衛だろ? それでライシェンが殺されるのは理不尽だ……」
とうに過ぎた過去について、ルイフォンが反論することに意味はない。しかし、何も言わずにはいられなかった。
「無力なはずの赤子が、手も触れずに人を殺したの。そんなことを聞けば、彼を怖がり、彼に『殺意』を向ける人は、あとを絶たなくなる。そして、ライシェンは、そういう人たちも殺してしまった……」
「……っ」
「だから、先王陛下はライシェンを殺したの。〈神の御子〉同士であれば、互いに感情を読み取ることが出来ないから……」
こうして、ライシェンは先王に殺され、その恨みから先王はヤンイェンに殺され……。
『デヴァイン・シンフォニア計画』が始まる――。
「なるほど」
今まで、黙って聞き入っていた〈蝿〉が、荒い息と共に吐き出した。
「セレイエは、『ライシェン』には害意を読み取ってほしくなかった――というわけですね。だから視力を求め、そのために『私』を必要とした。……納得しました。少しだけ、溜飲が下がりましたよ。最期に、この話を聞けてよかったです。……メイシア、ありがとう」
〈蝿〉が笑う。救いを得られたような穏やかな顔で。
そして、彼の体から、ふっと力が抜ける。
「私は……そろそろ……のようです」
その言葉に、ミンウェイが喉をひくつかせたが、もう『お父様』と叫ぶことはなかった。彼女は唇を噛み締め、覚悟を決めた顔をする。
そんな彼女を〈蝿〉は愛おしげに見つめ、それからリュイセンへと視線を移した。
「リュイセン」
厳かな低音に、リュイセンは「はい」と襟を正して応じる。
「先に申し上げたように、王族と鷹刀の関係は既に終わっています。〈贄〉に関しては、パイシュエ様が自らの細胞を無限に増殖させ、永遠に喰われ続ける細工を施したことで不要になりました。安心してください」
「パイシュエ……?」
リュイセンの息遣いが戸惑いに揺れる。『パイシュエ』が誰だか分からなかったのだ。察したルイフォンが小声で「シャオリエが〈影〉になる前の、本当の名前だ」と教えると、得心がいったように頷く。
その間も、〈蝿〉は荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりとリュイセンに語りかけていた。
「鷹刀は、パイシュエ様とお義父さんが解放してくださった。もう、何も憂うことはない。私は、現在の鷹刀をこの目で見たわけではないけれど、君を見ていれば、誇り高き今の鷹刀が手にとるように分かるよ、……リュイセン」
「ヘイシャオ……」
「鷹刀は自由だ。……だから君は、君の思い描くままに、自由に……君の鷹刀を作り上げ、皆を導いてくれ……、私が言えた義理ではないかもしれないが……頼んだぞ、未来の総帥……」
リュイセンは短く息を呑む。素早く前に歩み出て、ソファーに横たわる〈蝿〉の前にひざまずいた。
「確かに、承りました。俺……私にお任せください」
肩で揃えられた黒髪が床に届くかと思うほどに、リュイセンは深々と頭を垂れる。
〈蝿〉が、ふわりと笑った。そして、祈りのような声を漏らす。
「妻に、会えるか……な」
その瞬間。
リュイセンが、はっと顔色を変え、弾かれたように立ち上がった。
「ルイフォン!」
弟分の名前を叫ぶと同時に、身を翻す。
「ルイフォン、手伝ってくれ! 地下研究室から『彼女』を連れてくる!」
「は? 『彼女』?」
唐突な兄貴分の言動に、ルイフォンの頭がついていかない。
「硝子ケースに入った『彼女』だ。お前も、一緒に見たことがあるだろう!」
「!」
ルイフォンは兄貴分の意図を解した。
『〈蝿〉』の体は、『彼女』と共に、オリジナルのヘイシャオの研究室で見つかったという。生前のヘイシャオが、『対』の『ヘイシャオ』と『ミンウェイ』の肉体を作り、彼らは同じ硝子ケースの中で、歳を重ねていたのだ。
ミンウェイの自殺未遂のあと、ヘイシャオは人が変わり、研究室に籠もりきりになった。状況から考えて、そのとき、ヘイシャオは彼らを作っていたのだ。
なんの目的で、ふたりが作られたのかは不明だが、『対』である以上、〈蝿〉の看取りには『彼女』も同席すべき。――リュイセンはそう考えたのだ。
「ヘイシャオ、頼む! 少しだけ待っていてくれ!」
リュイセンはそう言い残し、部屋を飛び出す。
「あ、おい! リュイセン、鍵!」
ルイフォンは、脱ぎ捨てられていた〈蝿〉の白衣をごそごそとまさぐり、研究室の鍵を持って兄貴分を追いかけた。
慌ただしく駆けていくふたりを〈蝿〉は目尻に皺を寄せて見送り、それから、苦しげな呼吸の中で「エルファン」と、親友であり、義兄である彼を呼ぶ。
「エルファン……。リュイセンは……人の痛みの分かる、優しい良い総帥になるだろう。……今ひとつ、賢さに欠けるのが玉に瑕だが、……それは、きっとルイフォンが補う。リュイセンには、お義父さんのようなカリスマは……ないかもしれない。……けど、彼の優しさに、人は惹かれていく……」
「ああ。……そうだな」
「この『生』で……、彼に会えて、よかった……」
〈蝿〉は穏やかな顔で息を吐き出すと、それから急に表情を改めた。「このあとのことだ」と前置きをすると、事務的な口調で続ける。
「『ライシェン』を……処分するか否かは、今すぐには決断できないだろう。だから、まずは連れて行くか……だ。君たちの車は、ノーチェックでここを出られるから……」
「ああ」
「私兵たちには、既に最後の報酬を振り込んだ……。夕方になったら、この庭園を出ていくように、彼らの端末に連絡も入れた。……門を封じていた近衛隊には、私兵を出していいと通達した。……だから、君たちは私兵たちが動き出すよりも前に……ここを出てくれ」
立つ鳥跡を残さず、とばかりに言い終えると、〈蝿〉の四肢から、だらりと力が抜け落ちる。
「ヘイシャオ……」
エルファンが呟いた、そのときだった。
「ヘイシャオ! 大変だ!」
リュイセンの叫びと共に、部屋の扉が荒々しく開け放たれ、『彼女』を載せたストレッチャーが飛び込んできた。