残酷な描写あり
4.神話に秘められし真実-3
「王族と鷹刀の関係については、義父イーレオが因縁を断ち切った今となっては、もはや過去の歴史。未来を生きる、あなたたちにとっては興味のない話かもしれません」
血の気が失せ、白蝋のような色合いとなった〈蝿〉の美貌。落ち窪んだ眼窩には、深い陰りが入り込み、はっきりとした死相が表れていた。
だのに彼は、朗々たる低音で、静かに告げる。
「ですが、私は鷹刀の者として、伝えておきたいのです。――何故、我が一族が、〈贄〉として王族に求められてきたのかを」
「〈贄〉……!」
小さく呟いたのは、エルファンだった。氷の無表情にひびが入り、緊張をはらんだ眉間に皺が寄る。
逆にいえば、他の者の反応は、得てして希薄だった。〈蝿〉が言ったように、それは過去の話であり、エルファンのように直接的な恐怖を味わったことがないからだ。当事者ではないので、どうしても傍聴の姿勢になってしまう。
それでも、厳粛に過去を受け止めようと、ルイフォンは猫背を正した。一本に編まれた髪が、まっすぐに伸びる。毛先を飾る金の鈴もまた、神妙な構えを取る。
しかし、次の瞬間。
〈蝿〉のひとことを聞くと同時に、金の鈴は飛び上がった。
「端的にいえば、〈贄〉とは『〈冥王〉の餌』です」
「『〈冥王〉』――!?」
「おや、ご存知でしたか?」
思わず腰を浮かせたルイフォンに、〈蝿〉は目を瞬かせた。軽く首をかしげ、過剰ともいえる反応の理由を無言で求める。
「『それ』は〈悪魔〉にとっての禁句だろ? 『〈冥王〉』と言った途端、親父も、メイシアも『呪い』に苦しみ始めた」
「ほう。なるほど」
得心がいったように頷く〈蝿〉に、ルイフォンは慌てて付け加える。
「でも、俺が驚いたのは、名前を知っていたからじゃねぇ! 母さんが『〈冥王〉を破壊する』と言っていたからだ! 〈冥王〉は〈天使〉の力の源だから。セレイエが〈天使〉の宿命から解放されるように、って」
それは、直接、母から聞いたことではない。鷹刀一族の屋敷の地下にいる〈ベロ〉に、教えてもらったことだ。
しかし、間違いなく、母は、ルイフォンが〈冥王〉を破壊することを願っている。
セレイエや〈天使〉が関係するから、というのは勿論あるが、そもそも、〈七つの大罪〉の技術の象徴として、〈冥王〉は、あってはならないものと捉えていた節がある。
〈贄〉については、過去の話かもしれない。
けれど〈冥王〉は、現在の問題だ。
「〈蝿〉、教えてくれ! 『〈冥王〉』とは、いったい『何』だ!? 場合によっては、俺は母さんの遺志を継いで、そいつを破壊する!」
金の鈴を煌めかせ、斬り込むようにルイフォンは叫ぶ。
一方、〈蝿〉は驚愕の形相で固まっていた。
「〈冥王〉を破壊!? そんなことが可能なのか……?」
にわかに研究者の顔になり、口調も変わる。
「〈蝿〉……?」
「あ、ああ、失礼。……あなたが、あまりにも荒唐無稽なことを言うものですから」
「そんなに突拍子もないことなのか?」
「ええ――。……いえ。ひょっとしたら、可能なのかもしれません。――あなたなら」
〈蝿〉は、ふっと口元をほころばせ、そして、いつもの調子に戻った。
「私の昔語りが、過去の感傷で終わるのではなく、あなたの未来に繋がるというのなら結構なことです」
恩着せがましいような、高圧的な物言い。愉悦を含んだ瞳が、すっと細められる。
〈蝿〉の体は、もはや限界のはずだ。先ほど、鎮痛剤だか、麻薬だかを投与して、無理やりに意識を保っているだけだ。
なのに、どうして、相変わらずの高飛車な姿勢を見せようとするのだろう?
……分かっている。
最期だからこそ、自分らしく在りたいのだ。
最期だからこそ、敵対していたルイフォンには、付け焼き刃の友好を示すよりも、敬意を表した憎まれ口を叩くのだ。
「〈冥王〉が誕生するまでの歴史を語ることになりますからね。あなたにとっては退屈な昔話かもしれませんよ」
〈蝿〉は、にやりと唇を歪めた。
先ほど、話を切り出したときの反応の薄さに対しての嫌味だろう。どこまでも彼らしい彼に一種の清々しさを覚えながら、ルイフォンは好戦的な眼差しで応える。
「構わない。頼む」
王族の祖先は『他者の脳から、情報を奪う』能力を得た。いわば『読心』の能力である。
初めは、ひとりの先天性白皮症の少年に固有のものであった能力は、いつしか王族の一族の『異色を持つ、すべての男子』に発現するようになっていた。すなわち、能力を願う発端となった『盲目』の者たちである。
けれど、それだけで古の王朝を斃せたわけではなかった。心が読めたところで、彼らが非力な弱者であることに変わりはなかったからだ。
神への『供物』であった彼らは、神殿の奥深くに閉じ込められていた。彼らが接触できるのは、世話係や警護役など、ごく少数の人間のみ。
あるとき。彼らは、ひとりの警護役に目をつけた。
その警護役は、武勲によって、神殿の守護を任されるまでに取り立てられていたが、もとは王族の一族と同じく、滅ぼされた村の出身だった。故に、同郷の者たちと徒党を組み、古の王朝に対して謀反を企んでいたのである。
心が読める王族の祖先は、その計画を事細かに知ることができた。反逆の証拠の在り処すらも、手にとるように分かった。
彼らは、警護役の一族に迫った。
自分たちと手を組むか。それとも、謀反の計画を古の王に暴露してもよいか――と。
逆上した警護役に口封じに殺される、などという心配は要らなかった。警護役にとって、『供物』である彼らは守護の対象。『供物』が死ねば、警護役は責任を問われて処刑されるだけだ。
警護役の一族に、選択の余地はなかった。
もとより、神殿に住む異色の『供物』たちが、『読心』などという人智を超えた力を示せば、普通の人間である警護役の一族は、畏れをなすしかなかったのである。
こうして、王族の一族は、警護役の一族を配下に収めた。
やがて謀反は成功し、古の王朝は滅びを迎えた。国家転覆の立役者は、いわずもがな警護役の一族である。
しかし、当然のように玉座に腰を下ろしたのは、輝く白金の髪と澄んだ青灰色の瞳を有し、摩訶不思議な力を持った王族の一族の長。
異色を持つ者は〈神の御子〉を自称し、『神の代理人』を名乗って、この国を治めることとなる――。
〈蝿〉の眼差しは、怨嗟に満ちていた。不審に思いながら聞いていたルイフォンは、そこで、はっと気づいた。
「まさか……、警護役の一族って、鷹刀の先祖……」
「ご明察です」
〈蝿〉は慇懃に頷くと、皮肉げに口の端を上げた。
「鷹刀は、もとは『鷹の一族』と呼ばれていました。新しい王朝で、王の護衛の一族を任じられたときに、『鷹刀』の名が与えられたのです。――鷹刀は、王族に重く用いられていました」
話の内容とは裏腹に、〈蝿〉の口元に寄った皺が濃くなり、禍々しさが、ぞくりと深まる。
「弱者である『盲目』の王にとって、護衛は身を守る大切な砦。自身の一部のように思っていたのでしょう。政の役人などよりも、よほど信頼をおいていたといわれています」
「あ、そうか。王は、目が見えないんだったな」
王族に興味のないルイフォンとしては、正直なところ、どうでもよい話なのだが、それでも自国の王の盲目に、まったく気づかずにいたというのは一杯食わされたような気分だった。
なんともいえない溜め息を落とすと、〈蝿〉が正すように言う。
「現在の女王は、たとえ弱視であったとしても盲目ではありませんよ。盲目なのは、〈神の御子〉の男子のみ。伴性遺伝といって、女性は因子があっても表に出ないのです。色覚異常が男性に多い理由と同じなのですが、王族の場合、複雑で極端な……」
〈蝿〉は半端なところで言葉を止め、自嘲した。
「あなたに専門的なことを説明しても仕方ありませんね」
「……」
確かにその通りなのであるが、面と向かって言われるのは癪に障る。憮然とするルイフォンに、〈蝿〉は澄ました顔で続ける。
「それよりも、この先の話が、あなたのお待ちかねの〈冥王〉の誕生に繋がるのですよ」
「!」
息を呑み、猫の目を大きく見開くと、掛かったなとばかりに〈蝿〉が悦に入るが、構いやしなかった。ルイフォンは襟を正し、耳をそばだてる。
「ともかく、王は男子で、盲目です。現在では女王も認められていますが、あくまでも『仮初めの王』。男尊女卑の意味合いがないとは言い切れませんが、それよりも目の見える彼女たちには例の能力が発現しないから、というのが理由です」
淡々と告げる〈蝿〉に、ルイフォンは黙って頷く。
「王は、周りから『視覚情報』を奪えますが、やはり盲目というのは弱点といえます。一国の王という立場は、隙あらば、いつでも寝首をかかれかねないものですからね。用心のため、盲目であることは隠され、万一のときの切り札となる能力のことは王族の『秘密』とされました。そして――」
〈蝿〉の声が、一段、低くなる。
「盲目で、臆病者の王は、信頼する鷹刀の護衛を片時も傍から離さず……、――死んだあともなお、自身の亡骸と共に、生きたまま埋葬させたのですよ」
「……え? 生き埋め……だと……!」
ルイフォンは耳を疑った。
「貴人が死後の世界で困らぬようにと、生きた侍従を埋める風習は、世界各地にあります。別に珍しくもないでしょう」
「なっ……!」
反射的に叫びかけて、ルイフォンは途中で止めた。
軽薄な口調とは裏腹に、底なしの闇をたたえた〈蝿〉の瞳が、じっとルイフォンを捕らえていたのだ。
「ただし、鷹刀の場合は――」
言を継ぐ〈蝿〉の微笑が、酷薄に染まる。
「初めは、単なる死出の旅路の供でしたが、のちに事情が変わりました」
〈蝿〉の声は、まるで冥界の淵から響いてくるかのような怨讐の嘆きであった。
一族特有の美麗な顔貌は、彼のものでありながら、彼のものではなかった。『鷹の一族』と呼ばれていた古き時代から彼にたどり着くまで、脈々と受け継がれてきた血族たちの怨嗟を凝縮し、彼という姿を借りて語っていた。
ルイフォンは戦慄を覚え、知れず、身を固くする。
「事情が変わった……? 何が起きた?」
「ですから、〈冥王〉ですよ」
〈蝿〉の薄ら笑いが不吉に響く。
「鷹刀の者が生き埋めにされた王の墓所で、〈冥王〉が誕生したのです」
「どういう意味だ!? わけが分からねぇぞ!」
焦らすような〈蝿〉の言い回しに、ルイフォンは半ば激昂しながら叫ぶ。
「あなたへの説明は、医者である私の認識よりも、あなたの母親を〈天使〉にした男――〈悪魔〉の〈蠍〉の言葉を借りたほうが分かりやすいでしょう」
「〈蠍〉……?」
ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。
〈蠍〉が母にした仕打ちを思うと名前を聞いただけで虫酸が走るが、技術的な面では、母が〈蠍〉の弟子である以上、ルイフォンは〈蠍〉の孫弟子。――つまり、同類だ。
「彼は、こう言っていました」
冷徹な〈蝿〉の声が、静かに紡がれる。
「『〈冥王〉とは、死んだ王の脳細胞から生まれた、巨大な有機コンピュータだ。鷹刀の人間の血肉を喰らい、動力源とする――な』」
「有機……コンピュータ……。……鷹刀の血肉を……喰らう……」
壊れかけの機械が空回りするように、ルイフォンのテノールが意味もなく〈蝿〉の言葉を繰り返す。
「『王族の脳への負荷を分散させるために誕生した連携構成。――これが〈冥王〉の正体だ』」
〈神の御子〉の男子は、『他者の脳から、情報を奪う』。
初めは『傍らにいる他者』から情報を得る程度のものであったのが、徐々に国中の人間へと有効距離を伸ばしていった。
複数の〈神の御子〉の能力が絡み合い、繋がり合い、盲目の彼らのみが感知できる特殊な情報回路が形成されたために、能力の及ぶ範囲が広がったのだといわれている。
貪欲に情報を求めたことから生まれた能力は、やがて暴走を始めた。
国中に広く張り巡らされた不可視の情報回路は、ありとあらゆる情報を無制限に収集した。その結果、情報の管理者である彼らの脳に、過剰な負荷が掛かるようになったのだ。
独自の進化を遂げたことにより、彼らの脳は常人よりも遥かに大きな容量を持っていたが、あまりの情報量に限界を超え、命を落とす者まで現れた。
そんな、あるとき――。
時の王の葬儀のあとで、ひとりの神官が、とある神儀を執り行った。
彼は『神官』という肩書きを賜ってはいたが、彼に与えられた仕事は『〈神の御子〉の能力の解明』。すなわち、彼は研究者であり、彼の行った『神儀』とは王命による実験だった。
生前、時の王は、脳への過負荷による〈神の御子〉の死を憂い、神官に命じて対処法を考えさせた。そして神官は、王の脳細胞をもとに無限の容量を持つ『人工の脳』を作り出し、連携させることで、〈神の御子〉の負荷が分散されるという仮説を立てた。
故に、王は自分の死後、自分の骸を使って仮説を確かめるよう、言い残して逝ったのである。
王の墓所にて、神官は王の脳から神経細胞を遊離させた。
しかし彼は、実のところ、命なき王の細胞では無意味な作業だと考えていた。だからといって、生きた〈神の御子〉の脳を差し出せなどと言えるはずもなかったのだ。
『神儀』は失敗に終わるはずだった。
だが、奇跡が起きた。
王の脳細胞が、すぐ近くに埋められていた鷹刀一族の護衛の生気を奪い取り、白金に輝く『光』に生まれ変わったのだ。
無数の『光』は、互いに繋がり合い、『光の糸』を紡ぎ出した。
数多の『光の糸』は、互いに絡み合い、ひとつの大きな『光の珠』を編み上げた。
こうして、肉体という枷から解き放たれ、無限の増殖を可能にした、巨大な『脳』が誕生した。
光の珠の姿をした人工の脳は、神官の仮説通りに〈神の御子〉たちと連携した。〈神の御子〉同士の能力が絡み合うのと同じように、不可視の情報回路で繋がり、〈神の御子〉たちに掛かるはずの負荷を請け負った。
それ以降、莫大な情報量に押し潰されて命を落とす〈神の御子〉はいなくなった。
その一方で、『光』を維持するために、鷹刀一族の者が〈贄〉として捧げられるようになったのである。
「その『光の珠』こそが、〈冥王〉……」
ルイフォンの呟きに〈蝿〉は「ええ」と頷いた。
「この国の歴史の中では、様々な名前で呼ばれてきましたが、現在は〈冥王〉と呼ばれている『もの』。――『それ』の養分というのが、永く鷹刀を苦しめてきた〈贄〉の風習の正体です。初めに喰らったのが鷹刀の者であったがために、鷹刀の血肉で活性化するのだと考えられています」
地底を揺るがすような憤怨の声で〈蝿〉が告げる。ルイフォンは、ただ呆然と受け止めるだけだ。
「死者の細胞から生まれた『光の珠』など、学者の端くれである私が口にするのは、恥ずかしいほどの『おとぎ話』ですよ」
土気色のこめかみに神経質な青筋を立て、〈蝿〉は嫌悪もあらわに吐き捨てた。
「信じる、信じないは自由です。ただし、私は神殿に収められた『光の珠』をこの目で見ております。そもそも、私の属する〈七つの大罪〉は、『神官』の研究組織が時代と共に形を変え、現在に至った姿なのですからね」
苛立たしげにまくしたてると、〈蝿〉は疲れたのか、ソファーの背に身を預けた。
「白金に輝く『光の珠』……。光る糸を絡め合わせたような……」
ルイフォンの心臓は、〈蝿〉の話の途中から、ずっと早鐘を打ち続けていた。――〈冥王〉の特徴が、母キリファの作った〈ケル〉や〈ベロ〉に、あまりにも似ていたからだ。
「母さんは、〈冥王〉を真似て、〈ケルベロス〉を作ったんだ……」
特別に力の強い〈天使〉だった母は、人体実験体でありながら、〈七つの大罪〉内で権力を持っていた。ならば、〈冥王〉を見たことがあったとしても不思議ではない。
「〈ケルベロス〉? あなたの母親が作った……?」
〈蝿〉は気だるげであったが、それでも研究者の好奇心がうずいたらしい。鋭い視線で疑問を投げかけてきた。
「母さんは〈冥王〉を破壊するために、〈ケルベロス〉というマシンを作っ……」
ルイフォンは途中で言いよどんだ。
果たして〈ケルベロス〉は、『機械』なのだろうか? 〈冥王〉に酷似した『彼女たち』は……。
「ルイフォン?」
押し黙った彼を〈蝿〉が訝しむ。
「……今、分かった」
自分でも、はっきり分かるほど、ルイフォンの声は震えていた。
「〈ケルベロス〉も、〈冥王〉と同じ、有機コンピュータなんだ。――だから、母さんは死んだんだ。自分の脳を使って〈スー〉を作るために……」
胸が苦しい。
喉が熱い。
えづきを抑えるように身を縮こめれば、背中から金の鈴が転がってきた。
「母さん……」
死んだ王の細胞から生まれたのが〈冥王〉ならば、それに対抗して、冥界の王を守護する『地獄の番犬』で挑むとは、母も皮肉屋だ。
「……飼い犬が……手を噛みに征く――ってことかよ。……〈猫〉のくせに」
母譲りの癖の強い前髪が視界に入る。母にそっくりな猫の目をぎゅっと瞑る。
ルイフォンは掌を握りしめ、……嗚咽をこらえる。
「……ルイフォン」
澄んだ声が彼の名を呼び、温かな感触が震える彼の拳を包み込んだ。
メイシアだ。
ルイフォンは、すがるように夢中で彼女を抱き寄せる。
触れ合った肌から、彼女の鼓動が伝わってくる。優しい振動が、彼に力をくれる。
「大丈夫だ。……ありがとう」
ぐっと口元に力を入れ、口角を上げる。
そして顔を上げれば、〈蝿〉が気遣うような眼差しでルイフォンを見守っていた……ように見えたのは一瞬のこと。彼はすぐに、その美貌を威圧に歪め、いつも通りの口調で告げた。
「私は〈天使〉については門外漢なので確かなことは言えませんが、あなたの母親が〈冥王〉を破壊すると言ったなら、それは可能なのでしょう。――何しろ〈天使〉は、ある意味で王よりも強い、最強の存在ですからね」
素っ気ない低音は、婉曲的な応援。だからルイフォンは、〈蝿〉のわざとらしい誘いに乗って問う。
「最強? どういうことだ?」
「王にできるのは『情報を読み取る』ことだけです。読み取った情報に価値がなければ、なんの意味もない能力なのですよ」
「なるほど。そうかもしれないな」
せっかく侵入しても『外れ』の情報ばかりだったら、がっかりだという気持ちは、クラッカーであるルイフォンには痛いほど分かる。彼は大きく頷き、はたと気づいた。
「――って! もしかして、王は『情報を読み取る』ことはできても、『情報を書き込む』ことはできない……?」
「その通りです。だから、『情報を書き込む』ことのできる〈天使〉が作られたのですよ。……まぁ、先ほども言いました通り、〈天使〉についてはメイシアに。――私にはもう……時間がありませんから」
〈蝿〉は、彼とは思えないほどに、ふわりと溶けるような優しい微笑みを浮かべ、……そして、唐突に崩れ落ちた。
「お父様!」
ミンウェイが悲鳴を上げ、ソファーから落ちそうになる〈蝿〉の体を必死に支える。
「ミンウェイ……」
愛しげに頬を緩め、〈蝿〉は目線で彼女に頼んだ。
ミンウェイは涙ぐみながら頷く。そして、〈蝿〉の体をそっとソファーに横たえた。――ルイフォンとメイシアの顔がよく見える向きに。
〈蝿〉は、血の気の失せた唇を開く。
「ルイフォン、メイシア。――鷹刀セレイエが『デヴァイン・シンフォニア計画』のために選んだ、あなたたち。逝く前に、あなたたちに……」
死の淵にありながらも、厳然たる〈蝿〉の声。
それは、彼がふたりを『最高の終幕』への招待したときと同じ呼びかけ。
舞台の幕は、そろりそろりと……降り始めていた――。
血の気が失せ、白蝋のような色合いとなった〈蝿〉の美貌。落ち窪んだ眼窩には、深い陰りが入り込み、はっきりとした死相が表れていた。
だのに彼は、朗々たる低音で、静かに告げる。
「ですが、私は鷹刀の者として、伝えておきたいのです。――何故、我が一族が、〈贄〉として王族に求められてきたのかを」
「〈贄〉……!」
小さく呟いたのは、エルファンだった。氷の無表情にひびが入り、緊張をはらんだ眉間に皺が寄る。
逆にいえば、他の者の反応は、得てして希薄だった。〈蝿〉が言ったように、それは過去の話であり、エルファンのように直接的な恐怖を味わったことがないからだ。当事者ではないので、どうしても傍聴の姿勢になってしまう。
それでも、厳粛に過去を受け止めようと、ルイフォンは猫背を正した。一本に編まれた髪が、まっすぐに伸びる。毛先を飾る金の鈴もまた、神妙な構えを取る。
しかし、次の瞬間。
〈蝿〉のひとことを聞くと同時に、金の鈴は飛び上がった。
「端的にいえば、〈贄〉とは『〈冥王〉の餌』です」
「『〈冥王〉』――!?」
「おや、ご存知でしたか?」
思わず腰を浮かせたルイフォンに、〈蝿〉は目を瞬かせた。軽く首をかしげ、過剰ともいえる反応の理由を無言で求める。
「『それ』は〈悪魔〉にとっての禁句だろ? 『〈冥王〉』と言った途端、親父も、メイシアも『呪い』に苦しみ始めた」
「ほう。なるほど」
得心がいったように頷く〈蝿〉に、ルイフォンは慌てて付け加える。
「でも、俺が驚いたのは、名前を知っていたからじゃねぇ! 母さんが『〈冥王〉を破壊する』と言っていたからだ! 〈冥王〉は〈天使〉の力の源だから。セレイエが〈天使〉の宿命から解放されるように、って」
それは、直接、母から聞いたことではない。鷹刀一族の屋敷の地下にいる〈ベロ〉に、教えてもらったことだ。
しかし、間違いなく、母は、ルイフォンが〈冥王〉を破壊することを願っている。
セレイエや〈天使〉が関係するから、というのは勿論あるが、そもそも、〈七つの大罪〉の技術の象徴として、〈冥王〉は、あってはならないものと捉えていた節がある。
〈贄〉については、過去の話かもしれない。
けれど〈冥王〉は、現在の問題だ。
「〈蝿〉、教えてくれ! 『〈冥王〉』とは、いったい『何』だ!? 場合によっては、俺は母さんの遺志を継いで、そいつを破壊する!」
金の鈴を煌めかせ、斬り込むようにルイフォンは叫ぶ。
一方、〈蝿〉は驚愕の形相で固まっていた。
「〈冥王〉を破壊!? そんなことが可能なのか……?」
にわかに研究者の顔になり、口調も変わる。
「〈蝿〉……?」
「あ、ああ、失礼。……あなたが、あまりにも荒唐無稽なことを言うものですから」
「そんなに突拍子もないことなのか?」
「ええ――。……いえ。ひょっとしたら、可能なのかもしれません。――あなたなら」
〈蝿〉は、ふっと口元をほころばせ、そして、いつもの調子に戻った。
「私の昔語りが、過去の感傷で終わるのではなく、あなたの未来に繋がるというのなら結構なことです」
恩着せがましいような、高圧的な物言い。愉悦を含んだ瞳が、すっと細められる。
〈蝿〉の体は、もはや限界のはずだ。先ほど、鎮痛剤だか、麻薬だかを投与して、無理やりに意識を保っているだけだ。
なのに、どうして、相変わらずの高飛車な姿勢を見せようとするのだろう?
……分かっている。
最期だからこそ、自分らしく在りたいのだ。
最期だからこそ、敵対していたルイフォンには、付け焼き刃の友好を示すよりも、敬意を表した憎まれ口を叩くのだ。
「〈冥王〉が誕生するまでの歴史を語ることになりますからね。あなたにとっては退屈な昔話かもしれませんよ」
〈蝿〉は、にやりと唇を歪めた。
先ほど、話を切り出したときの反応の薄さに対しての嫌味だろう。どこまでも彼らしい彼に一種の清々しさを覚えながら、ルイフォンは好戦的な眼差しで応える。
「構わない。頼む」
王族の祖先は『他者の脳から、情報を奪う』能力を得た。いわば『読心』の能力である。
初めは、ひとりの先天性白皮症の少年に固有のものであった能力は、いつしか王族の一族の『異色を持つ、すべての男子』に発現するようになっていた。すなわち、能力を願う発端となった『盲目』の者たちである。
けれど、それだけで古の王朝を斃せたわけではなかった。心が読めたところで、彼らが非力な弱者であることに変わりはなかったからだ。
神への『供物』であった彼らは、神殿の奥深くに閉じ込められていた。彼らが接触できるのは、世話係や警護役など、ごく少数の人間のみ。
あるとき。彼らは、ひとりの警護役に目をつけた。
その警護役は、武勲によって、神殿の守護を任されるまでに取り立てられていたが、もとは王族の一族と同じく、滅ぼされた村の出身だった。故に、同郷の者たちと徒党を組み、古の王朝に対して謀反を企んでいたのである。
心が読める王族の祖先は、その計画を事細かに知ることができた。反逆の証拠の在り処すらも、手にとるように分かった。
彼らは、警護役の一族に迫った。
自分たちと手を組むか。それとも、謀反の計画を古の王に暴露してもよいか――と。
逆上した警護役に口封じに殺される、などという心配は要らなかった。警護役にとって、『供物』である彼らは守護の対象。『供物』が死ねば、警護役は責任を問われて処刑されるだけだ。
警護役の一族に、選択の余地はなかった。
もとより、神殿に住む異色の『供物』たちが、『読心』などという人智を超えた力を示せば、普通の人間である警護役の一族は、畏れをなすしかなかったのである。
こうして、王族の一族は、警護役の一族を配下に収めた。
やがて謀反は成功し、古の王朝は滅びを迎えた。国家転覆の立役者は、いわずもがな警護役の一族である。
しかし、当然のように玉座に腰を下ろしたのは、輝く白金の髪と澄んだ青灰色の瞳を有し、摩訶不思議な力を持った王族の一族の長。
異色を持つ者は〈神の御子〉を自称し、『神の代理人』を名乗って、この国を治めることとなる――。
〈蝿〉の眼差しは、怨嗟に満ちていた。不審に思いながら聞いていたルイフォンは、そこで、はっと気づいた。
「まさか……、警護役の一族って、鷹刀の先祖……」
「ご明察です」
〈蝿〉は慇懃に頷くと、皮肉げに口の端を上げた。
「鷹刀は、もとは『鷹の一族』と呼ばれていました。新しい王朝で、王の護衛の一族を任じられたときに、『鷹刀』の名が与えられたのです。――鷹刀は、王族に重く用いられていました」
話の内容とは裏腹に、〈蝿〉の口元に寄った皺が濃くなり、禍々しさが、ぞくりと深まる。
「弱者である『盲目』の王にとって、護衛は身を守る大切な砦。自身の一部のように思っていたのでしょう。政の役人などよりも、よほど信頼をおいていたといわれています」
「あ、そうか。王は、目が見えないんだったな」
王族に興味のないルイフォンとしては、正直なところ、どうでもよい話なのだが、それでも自国の王の盲目に、まったく気づかずにいたというのは一杯食わされたような気分だった。
なんともいえない溜め息を落とすと、〈蝿〉が正すように言う。
「現在の女王は、たとえ弱視であったとしても盲目ではありませんよ。盲目なのは、〈神の御子〉の男子のみ。伴性遺伝といって、女性は因子があっても表に出ないのです。色覚異常が男性に多い理由と同じなのですが、王族の場合、複雑で極端な……」
〈蝿〉は半端なところで言葉を止め、自嘲した。
「あなたに専門的なことを説明しても仕方ありませんね」
「……」
確かにその通りなのであるが、面と向かって言われるのは癪に障る。憮然とするルイフォンに、〈蝿〉は澄ました顔で続ける。
「それよりも、この先の話が、あなたのお待ちかねの〈冥王〉の誕生に繋がるのですよ」
「!」
息を呑み、猫の目を大きく見開くと、掛かったなとばかりに〈蝿〉が悦に入るが、構いやしなかった。ルイフォンは襟を正し、耳をそばだてる。
「ともかく、王は男子で、盲目です。現在では女王も認められていますが、あくまでも『仮初めの王』。男尊女卑の意味合いがないとは言い切れませんが、それよりも目の見える彼女たちには例の能力が発現しないから、というのが理由です」
淡々と告げる〈蝿〉に、ルイフォンは黙って頷く。
「王は、周りから『視覚情報』を奪えますが、やはり盲目というのは弱点といえます。一国の王という立場は、隙あらば、いつでも寝首をかかれかねないものですからね。用心のため、盲目であることは隠され、万一のときの切り札となる能力のことは王族の『秘密』とされました。そして――」
〈蝿〉の声が、一段、低くなる。
「盲目で、臆病者の王は、信頼する鷹刀の護衛を片時も傍から離さず……、――死んだあともなお、自身の亡骸と共に、生きたまま埋葬させたのですよ」
「……え? 生き埋め……だと……!」
ルイフォンは耳を疑った。
「貴人が死後の世界で困らぬようにと、生きた侍従を埋める風習は、世界各地にあります。別に珍しくもないでしょう」
「なっ……!」
反射的に叫びかけて、ルイフォンは途中で止めた。
軽薄な口調とは裏腹に、底なしの闇をたたえた〈蝿〉の瞳が、じっとルイフォンを捕らえていたのだ。
「ただし、鷹刀の場合は――」
言を継ぐ〈蝿〉の微笑が、酷薄に染まる。
「初めは、単なる死出の旅路の供でしたが、のちに事情が変わりました」
〈蝿〉の声は、まるで冥界の淵から響いてくるかのような怨讐の嘆きであった。
一族特有の美麗な顔貌は、彼のものでありながら、彼のものではなかった。『鷹の一族』と呼ばれていた古き時代から彼にたどり着くまで、脈々と受け継がれてきた血族たちの怨嗟を凝縮し、彼という姿を借りて語っていた。
ルイフォンは戦慄を覚え、知れず、身を固くする。
「事情が変わった……? 何が起きた?」
「ですから、〈冥王〉ですよ」
〈蝿〉の薄ら笑いが不吉に響く。
「鷹刀の者が生き埋めにされた王の墓所で、〈冥王〉が誕生したのです」
「どういう意味だ!? わけが分からねぇぞ!」
焦らすような〈蝿〉の言い回しに、ルイフォンは半ば激昂しながら叫ぶ。
「あなたへの説明は、医者である私の認識よりも、あなたの母親を〈天使〉にした男――〈悪魔〉の〈蠍〉の言葉を借りたほうが分かりやすいでしょう」
「〈蠍〉……?」
ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。
〈蠍〉が母にした仕打ちを思うと名前を聞いただけで虫酸が走るが、技術的な面では、母が〈蠍〉の弟子である以上、ルイフォンは〈蠍〉の孫弟子。――つまり、同類だ。
「彼は、こう言っていました」
冷徹な〈蝿〉の声が、静かに紡がれる。
「『〈冥王〉とは、死んだ王の脳細胞から生まれた、巨大な有機コンピュータだ。鷹刀の人間の血肉を喰らい、動力源とする――な』」
「有機……コンピュータ……。……鷹刀の血肉を……喰らう……」
壊れかけの機械が空回りするように、ルイフォンのテノールが意味もなく〈蝿〉の言葉を繰り返す。
「『王族の脳への負荷を分散させるために誕生した連携構成。――これが〈冥王〉の正体だ』」
〈神の御子〉の男子は、『他者の脳から、情報を奪う』。
初めは『傍らにいる他者』から情報を得る程度のものであったのが、徐々に国中の人間へと有効距離を伸ばしていった。
複数の〈神の御子〉の能力が絡み合い、繋がり合い、盲目の彼らのみが感知できる特殊な情報回路が形成されたために、能力の及ぶ範囲が広がったのだといわれている。
貪欲に情報を求めたことから生まれた能力は、やがて暴走を始めた。
国中に広く張り巡らされた不可視の情報回路は、ありとあらゆる情報を無制限に収集した。その結果、情報の管理者である彼らの脳に、過剰な負荷が掛かるようになったのだ。
独自の進化を遂げたことにより、彼らの脳は常人よりも遥かに大きな容量を持っていたが、あまりの情報量に限界を超え、命を落とす者まで現れた。
そんな、あるとき――。
時の王の葬儀のあとで、ひとりの神官が、とある神儀を執り行った。
彼は『神官』という肩書きを賜ってはいたが、彼に与えられた仕事は『〈神の御子〉の能力の解明』。すなわち、彼は研究者であり、彼の行った『神儀』とは王命による実験だった。
生前、時の王は、脳への過負荷による〈神の御子〉の死を憂い、神官に命じて対処法を考えさせた。そして神官は、王の脳細胞をもとに無限の容量を持つ『人工の脳』を作り出し、連携させることで、〈神の御子〉の負荷が分散されるという仮説を立てた。
故に、王は自分の死後、自分の骸を使って仮説を確かめるよう、言い残して逝ったのである。
王の墓所にて、神官は王の脳から神経細胞を遊離させた。
しかし彼は、実のところ、命なき王の細胞では無意味な作業だと考えていた。だからといって、生きた〈神の御子〉の脳を差し出せなどと言えるはずもなかったのだ。
『神儀』は失敗に終わるはずだった。
だが、奇跡が起きた。
王の脳細胞が、すぐ近くに埋められていた鷹刀一族の護衛の生気を奪い取り、白金に輝く『光』に生まれ変わったのだ。
無数の『光』は、互いに繋がり合い、『光の糸』を紡ぎ出した。
数多の『光の糸』は、互いに絡み合い、ひとつの大きな『光の珠』を編み上げた。
こうして、肉体という枷から解き放たれ、無限の増殖を可能にした、巨大な『脳』が誕生した。
光の珠の姿をした人工の脳は、神官の仮説通りに〈神の御子〉たちと連携した。〈神の御子〉同士の能力が絡み合うのと同じように、不可視の情報回路で繋がり、〈神の御子〉たちに掛かるはずの負荷を請け負った。
それ以降、莫大な情報量に押し潰されて命を落とす〈神の御子〉はいなくなった。
その一方で、『光』を維持するために、鷹刀一族の者が〈贄〉として捧げられるようになったのである。
「その『光の珠』こそが、〈冥王〉……」
ルイフォンの呟きに〈蝿〉は「ええ」と頷いた。
「この国の歴史の中では、様々な名前で呼ばれてきましたが、現在は〈冥王〉と呼ばれている『もの』。――『それ』の養分というのが、永く鷹刀を苦しめてきた〈贄〉の風習の正体です。初めに喰らったのが鷹刀の者であったがために、鷹刀の血肉で活性化するのだと考えられています」
地底を揺るがすような憤怨の声で〈蝿〉が告げる。ルイフォンは、ただ呆然と受け止めるだけだ。
「死者の細胞から生まれた『光の珠』など、学者の端くれである私が口にするのは、恥ずかしいほどの『おとぎ話』ですよ」
土気色のこめかみに神経質な青筋を立て、〈蝿〉は嫌悪もあらわに吐き捨てた。
「信じる、信じないは自由です。ただし、私は神殿に収められた『光の珠』をこの目で見ております。そもそも、私の属する〈七つの大罪〉は、『神官』の研究組織が時代と共に形を変え、現在に至った姿なのですからね」
苛立たしげにまくしたてると、〈蝿〉は疲れたのか、ソファーの背に身を預けた。
「白金に輝く『光の珠』……。光る糸を絡め合わせたような……」
ルイフォンの心臓は、〈蝿〉の話の途中から、ずっと早鐘を打ち続けていた。――〈冥王〉の特徴が、母キリファの作った〈ケル〉や〈ベロ〉に、あまりにも似ていたからだ。
「母さんは、〈冥王〉を真似て、〈ケルベロス〉を作ったんだ……」
特別に力の強い〈天使〉だった母は、人体実験体でありながら、〈七つの大罪〉内で権力を持っていた。ならば、〈冥王〉を見たことがあったとしても不思議ではない。
「〈ケルベロス〉? あなたの母親が作った……?」
〈蝿〉は気だるげであったが、それでも研究者の好奇心がうずいたらしい。鋭い視線で疑問を投げかけてきた。
「母さんは〈冥王〉を破壊するために、〈ケルベロス〉というマシンを作っ……」
ルイフォンは途中で言いよどんだ。
果たして〈ケルベロス〉は、『機械』なのだろうか? 〈冥王〉に酷似した『彼女たち』は……。
「ルイフォン?」
押し黙った彼を〈蝿〉が訝しむ。
「……今、分かった」
自分でも、はっきり分かるほど、ルイフォンの声は震えていた。
「〈ケルベロス〉も、〈冥王〉と同じ、有機コンピュータなんだ。――だから、母さんは死んだんだ。自分の脳を使って〈スー〉を作るために……」
胸が苦しい。
喉が熱い。
えづきを抑えるように身を縮こめれば、背中から金の鈴が転がってきた。
「母さん……」
死んだ王の細胞から生まれたのが〈冥王〉ならば、それに対抗して、冥界の王を守護する『地獄の番犬』で挑むとは、母も皮肉屋だ。
「……飼い犬が……手を噛みに征く――ってことかよ。……〈猫〉のくせに」
母譲りの癖の強い前髪が視界に入る。母にそっくりな猫の目をぎゅっと瞑る。
ルイフォンは掌を握りしめ、……嗚咽をこらえる。
「……ルイフォン」
澄んだ声が彼の名を呼び、温かな感触が震える彼の拳を包み込んだ。
メイシアだ。
ルイフォンは、すがるように夢中で彼女を抱き寄せる。
触れ合った肌から、彼女の鼓動が伝わってくる。優しい振動が、彼に力をくれる。
「大丈夫だ。……ありがとう」
ぐっと口元に力を入れ、口角を上げる。
そして顔を上げれば、〈蝿〉が気遣うような眼差しでルイフォンを見守っていた……ように見えたのは一瞬のこと。彼はすぐに、その美貌を威圧に歪め、いつも通りの口調で告げた。
「私は〈天使〉については門外漢なので確かなことは言えませんが、あなたの母親が〈冥王〉を破壊すると言ったなら、それは可能なのでしょう。――何しろ〈天使〉は、ある意味で王よりも強い、最強の存在ですからね」
素っ気ない低音は、婉曲的な応援。だからルイフォンは、〈蝿〉のわざとらしい誘いに乗って問う。
「最強? どういうことだ?」
「王にできるのは『情報を読み取る』ことだけです。読み取った情報に価値がなければ、なんの意味もない能力なのですよ」
「なるほど。そうかもしれないな」
せっかく侵入しても『外れ』の情報ばかりだったら、がっかりだという気持ちは、クラッカーであるルイフォンには痛いほど分かる。彼は大きく頷き、はたと気づいた。
「――って! もしかして、王は『情報を読み取る』ことはできても、『情報を書き込む』ことはできない……?」
「その通りです。だから、『情報を書き込む』ことのできる〈天使〉が作られたのですよ。……まぁ、先ほども言いました通り、〈天使〉についてはメイシアに。――私にはもう……時間がありませんから」
〈蝿〉は、彼とは思えないほどに、ふわりと溶けるような優しい微笑みを浮かべ、……そして、唐突に崩れ落ちた。
「お父様!」
ミンウェイが悲鳴を上げ、ソファーから落ちそうになる〈蝿〉の体を必死に支える。
「ミンウェイ……」
愛しげに頬を緩め、〈蝿〉は目線で彼女に頼んだ。
ミンウェイは涙ぐみながら頷く。そして、〈蝿〉の体をそっとソファーに横たえた。――ルイフォンとメイシアの顔がよく見える向きに。
〈蝿〉は、血の気の失せた唇を開く。
「ルイフォン、メイシア。――鷹刀セレイエが『デヴァイン・シンフォニア計画』のために選んだ、あなたたち。逝く前に、あなたたちに……」
死の淵にありながらも、厳然たる〈蝿〉の声。
それは、彼がふたりを『最高の終幕』への招待したときと同じ呼びかけ。
舞台の幕は、そろりそろりと……降り始めていた――。