残酷な描写あり
6.波音の子守唄-1
固く抱きしめあったまま、骸となった〈蝿〉――『彼』と『彼女』。
ミンウェイは、ふたりのそばに膝をつき、ぺたんと座り込んだ。
潤む瞳で、彼らを見つめる。
どこにも外傷はないのに、白蝋のような肌からは、完全に生気が失われていた。今にも、かさりと音を立てて崩れ落ちそうな脆さを感じる。命の重みが抜け落ちてしまったからだ。
けれど。
ふたりは幸せそうに微笑んでいた……。
「…………」
ミンウェイの首がうなだれ、緩やかに波打つ黒髪が肩を流れた。白いうなじが、あらわになると同時に、顔が隠れる。
うつむいた姿勢のまま、彼女は紅の落ちかけた唇を歪め、こらえるように拳を震わせた。
この天空の間での出来ごとは、本当に現実だったのだろうか。
夢か、あるいは幻だったのではないだろうか。
真っ白で豪奢な部屋は、ミンウェイの知らない別世界。まるで異次元に紛れ込んでしまったかのよう……。
「ミンウェイ」
魅惑の低音が、彼女を呼んだ。〈蝿〉にそっくりであるが、彼ではない。彼はもう、この世の人ではないのだから。
「リュイセン……」
相手の名前を間違わずに言えたのは、今のミンウェイとしては上出来だった。
彼女が振り返ると、リュイセンは口を開きかけ、しかし沈黙した。きっと、何を言ったらよいのか分からなかったのだろう。ミンウェイだって、リュイセンの立場だったら困ってしまうに違いない。
「ありがとう、リュイセン」
ミンウェイは固く目を閉じ、はみ出してきた涙を拭った。強引に呼吸を整え、艶やかな笑顔で上を向く。
「あなたのお陰で、お父様……『彼』の最期は、安らかだった。――奇跡だわ」
〈悪魔〉ではなく、誇り高き鷹刀一族の者として死を迎えた。
『〈蝿〉』でも『ヘイシャオ』でもなく、『彼』として、『彼女』と共に旅立った。
すべて、リュイセンが『彼』を思いやってくれたからこそだ。
「本当に、『最高の終幕』だった……!」
――そう。
舞台の幕は下ろされた。
だから、父に――父の心を伝えてくれた『彼』に、別れを告げる。冥福を祈る。『彼女』との『永遠』に祝福を贈る。
ミンウェイは、自分の心を奮い立たせるように胸を押さえると、すっと立ち上がった。波打つ黒髪が華やかに広がり、鮮やかな緋色の衣服が強気に煌めく。
「ミンウェイ、無理するな……」
遠慮がちなリュイセンの声を「ありがとう」と遮った。彼の気遣いは嬉しいけれど、このままでは駄目なのだ。
生きている者は、いつまでも同じところに留まっていてはいけない。
次の行動へと、ひとつ先の未来へと向かわなければならない。
「リュイセン。あなたとルイフォンが『彼女』を迎えに行っている間に、『彼』は、あとのことを言い遺していったの。……エルファン伯父様、お願いいたします」
この先は、ミンウェイが仕切るべきことではないだろう。だから、彼女は軽く会釈をして、最年長であり、次期総帥であるエルファンに指揮を頼んだ。
今まで黙って見守っていたエルファンが、氷の美貌をふわりと溶かす。だが、すぐにいつもの無表情に戻り、玲瓏たる声を響かせた。
「全員、聞け。――ここは『敵地』だ」
そのひとことで、皆の顔つきが変わる。
「ヘイシャオは、私兵たちに『夕方になったら、この庭園を出るように』と命じたそうだ。つまり、それまでの数時間、私たちが『ライシェン』を連れて行くか否かを議論するための猶予をくれたわけだ。だが、ここが長居すべき場所ではないことは明白だ」
暗に即断を求めたエルファンに、ルイフォンが「ああ」という鋭いテノールで応じる。彼はメイシアと視線を交わすと、明朗な声で告げた。
「『ライシェン』は連れて行く。――このまま、ここに置いていけば、いずれ摂政の手に渡り、摂政の駒になるのが分かりきっているからだ」
そこで一度、彼は言葉を切り、目を尖らせた険しい表情を見せる。
「正直なところ、俺たちは『ライシェン』を持て余すことになるだろう。何故なら、『ライシェン』を連れて行くということは、俺たちが彼の未来を預かった、ということに他ならない。俺たちには、責任が重すぎるからだ」
彼本来の端正な顔立ちを見せての、冷静な物言い。その目元は精悍でありながらも、苦悩が眉間の皺となって表れていて、普段の彼自身よりも、どことなくエルファンに似ていた。
〈蝿〉に言われた『処分』のひとことが、重く、のしかかっているのだ。
ルイフォンは唇を噛み締め、メイシアを見つめる。凛とした眼差しの戦乙女が、彼を肯定するように強く頷いた。
「だが、ここまで巻き込まれた以上、俺たちは、セレイエの『デヴァイン・シンフォニア計画』を最後まで見届けたい。だから、計画の中核を担う『ライシェン』を、ここに残していくことは考えられない」
静かな弁舌はそこまでだった。
ルイフォンは、急にかっと目を見開き、「けど!」と声を張り上げた。
「この選択は、俺たちが、セレイエの『デヴァイン・シンフォニア計画』を叶えてやる、という意味じゃねぇ!」
苦しげな、切なげな顔で、傍らのメイシアを抱き寄せた。不意のことに、メイシアが小さな悲鳴を上げるが、ルイフォンは構わずに言葉を続ける。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』は、セレイエの我儘だ。この計画のせいで、メイシアは親父さんを失い、シュアンも先輩を亡くした。……でも、ふたりを不幸に陥れた元凶の〈蝿〉だって、被害者だった」
メイシアを抱きしめたまま、亡骸となった〈蝿〉に視線を向け、ルイフォンは黙祷を捧げる。
憎かった。恨んでいた。最後まで、決して許したわけではなかった。
それでも今、彼が満ち足りた顔をしていることに祝意を表する。――横顔が、そう告げていた。
そしてルイフォンは、敢然とした表情で皆に向き直る。
「〈蝿〉が言っていた通り、『ライシェン』は争乱の種にしかならない。彼を連れて行くという選択は、どう考えても、この先、皆に迷惑を掛けることになるだろう。――すまない。でも、認めてほしい」
ルイフォンとメイシアは揃って立ち上がり、深々と頭を垂れた。
天空の間が、水を打ったように静まり返る。
おそらく、この場にいた誰もが、『ライシェン』は連れて行くことになると考えていただろう。――だが、それは、あくまでも漠然とした予測だった。
対して、ルイフォンとメイシアは明確な意志を示し、あまつさえ、頭まで下げた。故に、その行動は意外であり、驚きだったのだ。
ミンウェイは自分の心が、ちくりと痛んだのを感じた。
原因は分かっている。ずっと年下のルイフォンたちが眩しすぎて、自分が惨めになったのだ。
でも、だからこそ、ふたりを応援せねばと思う。
「私は勿論、認めるわよ!」
沈黙を破り、ミンウェイは強気に言い放った。
「〈神の御子〉なんて、とんでもないものを押しつけられたのに、なし崩しじゃなくて、ちゃんと考えて決められるなんて、あなたたち偉いわよ。そんな姿を見せつけられちゃったら、褒めるしかないでしょ!」
声が震えたり、裏返ったりはしなかっただろうかと不安になりながらも、ミンウェイは華やかに笑う。
すると、彼女につられたように、リュイセンが「当たり前だろう」と声を上げ、エルファンとシュアンも次々に同意した。
ルイフォンの顔がほころび、「ありがとう」と告げる。それにかぶるように、エルファンが「ここを出る準備をするぞ」と号令を掛けた。
「ルイフォン、お前が持ち込んだ爆発物は、確か、遠隔操作ができたな?」
「あ、ああ?」
それがどうした? と、ルイフォンは首をかしげる。
エルファンが言っている爆発物とは、〈蝿〉が皆をこの庭園に招待するにあたり、『どんな武器を持ち込んでもよい』と言ったために、ルイフォンが用意したものだ。
「それを地下に仕掛けて、あとで研究室を爆破してくれ」
「なるほど。『ライシェン』を連れて行くから、摂政に対する撹乱工作というわけだな」
ぽん、と手を打ったルイフォンに、エルファンは「そんなところだ」と一応は肯定し、しかし、まるで違う理由を付け足した。
「何をしたところで、いずれ摂政にはバレるだろうから、嫌がらせ程度のことだ。だが、ヘイシャオの研究室は禁じられた技術の宝庫だろうし、何より、あいつがいた場所を好き勝手に荒らされたくはないだろう?」
淡々とした口調のまま、エルファンの眼差しがミンウェイへと向けられる。そこで初めて、ミンウェイは、今の台詞の最後は自分に向けられたものだと気づいた。
「ヘイシャオと『彼女』も連れて行く。オリジナルたちの墓の隣に埋めてやろう」
「伯父様……」
ミンウェイは、再び潤みそうになった瞳をぐっと見開き、なんとかこらえた。
本当は、『〈蝿〉の死体』が、爆破された研究室から発見されたほうが、摂政への対処としては正しい判断のはずだ。なのに、エルファンは、そうしないと言う。
「……私のために……ありがとうございます」
「お前だけのためではない。私にとっても、大切な者たちだからだ」
エルファンは相変わらずの無表情だったが、ミンウェイには、ふたりの新たなる門出を祝い、晴れやかに笑っているように感じられた。
ルイフォンが地下研究室へと向かい、エルファンが屋敷で待っているイーレオに報告を入れる。メイシアは展望塔に残っているタオロン父娘への連絡だ。
残った者たちのうち、男手であるリュイセンとシュアンが率先して、〈蝿〉と『彼女』の亡骸を車に運ぶべく、相談を始めた。決して仲の良くないふたりだが、意味もなく、いがみ合ったりしないあたり、互いに道理をわきまえているらしい。
ストレッチャーなら、ふたり一緒のまま連れて行けるとか、車に同乗することになるファンルゥを驚かせないためには、布で包んで隠すべきだとか、リュイセンが優しい気遣いをしてくれる。だからミンウェイは、この部屋のカーテンを外して覆えばよいと提案し、三人で作業に掛かった。
その途中で、ミンウェイはメイシアに呼ばれた。
「あの、タオロンさんが『ここを発つ前に、どうしても、ミンウェイさんに娘の部屋を見てほしい』――だそうです」
「え?」
いったい、どういうことなのだろう。わけが分からない。
ミンウェイが首をかしげている間に、小さな女の子を肩車した大男が、天空の間に現れた。
わずかに息が乱れているので、ここまで走ってきたらしい。エルファンが迅速な行動を求めたからかと思ったが、肩の上できゃっきゃと喜んでいる女の子の様子を見ると、どうやら彼女の笑顔のためのようだった。
彼がタオロンなのだろう。
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目。刈り上げた短髪と額の間に赤いバンダナがきつく巻かれている。聞いていた通りの容貌なのだが、ミンウェイが想像していた以上に童顔だった。そのため、ふたりは父娘というよりも、年の離れた兄妹に見えた。
「パパ、このお部屋、凄ぉい……」
くりっとした丸い目を更に丸くして、娘のファンルゥがシャンデリアに手を伸ばす。高い天井から吊り下げられたそれに届くわけもないのだが、燦然と輝くきらきらに、彼女の瞳もきらきらしていた。
しかし残念ながら、父親のタオロンには娘と感動を共有する余裕はないようだった。ミンウェイを前に太い眉を寄せ、落ち着きなく視線を揺らす。その先に、白いカーテンで覆われた亡骸があることに気づき、ミンウェイは察した。〈蝿〉が亡くなったことを知らされ、〈蝿〉の娘であるミンウェイになんと言ったらよいのか迷っているのだ。
なので、ミンウェイは自分から一歩、前に出た。
「斑目タオロン氏ですね。はじめまして、鷹刀ミンウェイです。この度は、リュイセンが大変お世話になったと聞きました。どうもありがとうございます」
「いや、俺は、そんなんじゃねぇ……。そもそも、リュイセンが捕まっちまったのは、俺のせいだ。俺のほうこそ、鷹刀の連中には助けてもらって……」
言葉遣いは粗野だが、ぼそぼそとした物言いに、かえって好感が持てた。本当に裏表のない、猪突猛進でまっすぐな人柄なのだろう。
しかし、この調子では、なかなか話が進みそうもない。それは少し困る。ここに長居はできないのだから。――そう思ったとき、彼の頭上にいるファンルゥが「あー!」と大声を出した。
「女神様だぁ! 綺麗!」
じっとミンウェイを見つめ、ファンルゥが満面の笑顔を浮かべる。
「え?」
「メイシアがお姫様で、お姉ちゃんが女神様なの! ――ねぇ、パパ。女神様のお姉ちゃんに、ファンルゥのお部屋を見せてあげるんでしょ? 早く行こう!」
ファンルゥは、タオロンの肩の上で足をばたばたとさせる。
それは、いったい、どういう意味なのか。ミンウェイが戸惑っていると、そばで見守っていたメイシアが、そっと耳打ちをしてくれた。
曰く。
「ファンルゥちゃんは、綺麗なミンウェイさんをひと目で気に入ったんです。だから、これから一緒に部屋に行くのが楽しみなんだと思います」
そして、肩車のファンルゥに先導され、なんだかよく分からないままに、ミンウェイは天空の間をあとにしたのだった。
部屋を出ていくミンウェイの後ろ姿を、リュイセンは黙って見送った。しかし、彼女の気配が完全に消えると、低い声で「緋扇」と、シュアンを呼んだ。
リュイセンの黄金比の美貌は、彫像のように凍りついていた。その形相に、シュアンは尋常ならざるものを感じ、三白眼をすっと細める。
「あの小さな嬢ちゃんの部屋に、何があるんだ?」
「…………」
シュアンの問いに、リュイセンは押し黙った。口元の動きから、奥歯を噛んだのが分かる。どうにも煮え切らない態度に、シュアンは焦れて言葉を重ねた。
「ミンウェイが気になるんだろう? だったら、お前も行ってこい。遺体なら、俺ひとりで運べるからよ」
仕方ねぇな、と言わんばかりの口調だが、彼らの関係を考えれば、驚くほど友好的な態度だった。不和の間柄とはいえ、今回、〈蝿〉の心を動かし、ミンウェイとの温かな対面を実現させたリュイセンのことは、シュアンも評価しているのだ。
「緋扇……、お前が、ミンウェイのあとを追ってくれ」
「……は?」
シュアンは、ぽかんと口を開け、間抜け面で呆けた。大きく見開かれた瞳が、彼の特徴であるはずの三白眼を放棄している。
深刻な顔つきのリュイセンに対し、あんまりな反応であるが、この場合はどう考えても、シュアンのほうが正当だろう。しかし、リュイセンの次の台詞は、更に脈絡というものをまるで無視していた。
「俺は、お前が嫌いだ」
唐突なリュイセンの暴言に、そんなことは百も承知のシュアンでも、思わず「はぁっ!?」と声を荒らげずにはいられない。
「大嫌いだ」
「ああ、そうかよ。俺も、あんたが嫌いだ。気が合うな」
内心では、かなりリュイセンを見直していたシュアンなのだが、それをすべて御破算にして投げやりに答える。そのまま、ぷいと横を向いた彼に、しかし、リュイセンは畳み掛けた。
「俺は、お前の、如何にも分かったふうで、耳に心地よくて、適当な言い草が大嫌いだ」
「……だから、なんだよ?」
「――けど!」
険悪な凶相で睨みつけてきたシュアンを、リュイセンは語勢で跳ねのける。
「今のミンウェイには、お前の胡散臭くて、無責任な言葉が必要だ。……だから、ミンウェイのあとを追ってくれ」
「……は?」
リュイセンの発言が先ほどのものに戻り、シュアンの反応もまた、もとに戻る。
「お前が、ミンウェイに、ヘイシャオと会うことを強く勧めてくれたから、この幕引きとなった。……シュアン、ありがとう。感謝している」
「リュイセン? あんた、さっきから、いったい、どうしたんだよ? ――だいたい、この結末は、あんたが〈蝿〉を改心させたからこそだろう? あんたの手柄じゃねぇか。大手柄だろう?」
何を言いたいのか、まったく理解できないと、シュアンは悪相を歪める。だが、リュイセンは視線を落とし、首を振った。肩までの髪が、何かを払いのけるかのように、さらさらと揺れる。
「確かに、俺はヘイシャオの気持ちを変えたかもしれない。けど、ミンウェイを動かしたのは、お前なんだ」
「そりゃあ、この庭園から出られなかったあんたは、ミンウェイとは接触のしようがなくて、代わりに俺が、たまたま彼女のそばにいた、というだけだろう? ――それより、〈蝿〉の野郎をどうにかするほうが、比べようもなく困難だったはずだ。あんたは、よくやったよ」
シュアンは、やれやれと溜め息をついた。どうやら、青臭い義理堅さがリュイセンを不安定にしているのだろうと、結論づけたのだ。
そんなシュアンに、リュイセンはむっと鼻に皺を寄せながらも、硬い声で告げる。
「俺は、ヘイシャオからミンウェイを遠ざけようとばかりしていた。それが、ミンウェイのためだと思ったからだ。――だが、お前は、俺とは正反対のことをした。何度も、何度も、ミンウェイにヘイシャオと向き合うように言ってくれたんだと、ルイフォンから聞いた。……今の状況があるのは、お前の手柄だ」
「おいおい、リュイセン。そんなに堅苦しく考えることはないだろう?」
シュアンは、自論に酔っているリュイセンに弱り、ぼさぼさ頭をがりがりと掻く。普段が普段であるだけに、どうにも妙な調子だった。
けれど、リュイセンは止まらない。
「本当は、お前なんかに頼みたくなどない。……でも、今のミンウェイには、お前の言葉が必要だ」
リュイセンは血を吐くように告げ……、頭を下げた。
「!?」
シュアンの三白眼が極限まで見開かれる。
「ファンルゥの部屋は、ここから二階分下がった、この建物の一番端だ」
「……分かった」
そのひとことだけを残し、シュアンは部屋を出ていった。
シュアンの姿が消えると、リュイセンは肩を落とし、小さな呟きを漏らす。
「仕方ねぇだろう……。俺の前じゃ、ミンウェイは無理に笑おうとするんだからよ……」
ミンウェイは、ふたりのそばに膝をつき、ぺたんと座り込んだ。
潤む瞳で、彼らを見つめる。
どこにも外傷はないのに、白蝋のような肌からは、完全に生気が失われていた。今にも、かさりと音を立てて崩れ落ちそうな脆さを感じる。命の重みが抜け落ちてしまったからだ。
けれど。
ふたりは幸せそうに微笑んでいた……。
「…………」
ミンウェイの首がうなだれ、緩やかに波打つ黒髪が肩を流れた。白いうなじが、あらわになると同時に、顔が隠れる。
うつむいた姿勢のまま、彼女は紅の落ちかけた唇を歪め、こらえるように拳を震わせた。
この天空の間での出来ごとは、本当に現実だったのだろうか。
夢か、あるいは幻だったのではないだろうか。
真っ白で豪奢な部屋は、ミンウェイの知らない別世界。まるで異次元に紛れ込んでしまったかのよう……。
「ミンウェイ」
魅惑の低音が、彼女を呼んだ。〈蝿〉にそっくりであるが、彼ではない。彼はもう、この世の人ではないのだから。
「リュイセン……」
相手の名前を間違わずに言えたのは、今のミンウェイとしては上出来だった。
彼女が振り返ると、リュイセンは口を開きかけ、しかし沈黙した。きっと、何を言ったらよいのか分からなかったのだろう。ミンウェイだって、リュイセンの立場だったら困ってしまうに違いない。
「ありがとう、リュイセン」
ミンウェイは固く目を閉じ、はみ出してきた涙を拭った。強引に呼吸を整え、艶やかな笑顔で上を向く。
「あなたのお陰で、お父様……『彼』の最期は、安らかだった。――奇跡だわ」
〈悪魔〉ではなく、誇り高き鷹刀一族の者として死を迎えた。
『〈蝿〉』でも『ヘイシャオ』でもなく、『彼』として、『彼女』と共に旅立った。
すべて、リュイセンが『彼』を思いやってくれたからこそだ。
「本当に、『最高の終幕』だった……!」
――そう。
舞台の幕は下ろされた。
だから、父に――父の心を伝えてくれた『彼』に、別れを告げる。冥福を祈る。『彼女』との『永遠』に祝福を贈る。
ミンウェイは、自分の心を奮い立たせるように胸を押さえると、すっと立ち上がった。波打つ黒髪が華やかに広がり、鮮やかな緋色の衣服が強気に煌めく。
「ミンウェイ、無理するな……」
遠慮がちなリュイセンの声を「ありがとう」と遮った。彼の気遣いは嬉しいけれど、このままでは駄目なのだ。
生きている者は、いつまでも同じところに留まっていてはいけない。
次の行動へと、ひとつ先の未来へと向かわなければならない。
「リュイセン。あなたとルイフォンが『彼女』を迎えに行っている間に、『彼』は、あとのことを言い遺していったの。……エルファン伯父様、お願いいたします」
この先は、ミンウェイが仕切るべきことではないだろう。だから、彼女は軽く会釈をして、最年長であり、次期総帥であるエルファンに指揮を頼んだ。
今まで黙って見守っていたエルファンが、氷の美貌をふわりと溶かす。だが、すぐにいつもの無表情に戻り、玲瓏たる声を響かせた。
「全員、聞け。――ここは『敵地』だ」
そのひとことで、皆の顔つきが変わる。
「ヘイシャオは、私兵たちに『夕方になったら、この庭園を出るように』と命じたそうだ。つまり、それまでの数時間、私たちが『ライシェン』を連れて行くか否かを議論するための猶予をくれたわけだ。だが、ここが長居すべき場所ではないことは明白だ」
暗に即断を求めたエルファンに、ルイフォンが「ああ」という鋭いテノールで応じる。彼はメイシアと視線を交わすと、明朗な声で告げた。
「『ライシェン』は連れて行く。――このまま、ここに置いていけば、いずれ摂政の手に渡り、摂政の駒になるのが分かりきっているからだ」
そこで一度、彼は言葉を切り、目を尖らせた険しい表情を見せる。
「正直なところ、俺たちは『ライシェン』を持て余すことになるだろう。何故なら、『ライシェン』を連れて行くということは、俺たちが彼の未来を預かった、ということに他ならない。俺たちには、責任が重すぎるからだ」
彼本来の端正な顔立ちを見せての、冷静な物言い。その目元は精悍でありながらも、苦悩が眉間の皺となって表れていて、普段の彼自身よりも、どことなくエルファンに似ていた。
〈蝿〉に言われた『処分』のひとことが、重く、のしかかっているのだ。
ルイフォンは唇を噛み締め、メイシアを見つめる。凛とした眼差しの戦乙女が、彼を肯定するように強く頷いた。
「だが、ここまで巻き込まれた以上、俺たちは、セレイエの『デヴァイン・シンフォニア計画』を最後まで見届けたい。だから、計画の中核を担う『ライシェン』を、ここに残していくことは考えられない」
静かな弁舌はそこまでだった。
ルイフォンは、急にかっと目を見開き、「けど!」と声を張り上げた。
「この選択は、俺たちが、セレイエの『デヴァイン・シンフォニア計画』を叶えてやる、という意味じゃねぇ!」
苦しげな、切なげな顔で、傍らのメイシアを抱き寄せた。不意のことに、メイシアが小さな悲鳴を上げるが、ルイフォンは構わずに言葉を続ける。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』は、セレイエの我儘だ。この計画のせいで、メイシアは親父さんを失い、シュアンも先輩を亡くした。……でも、ふたりを不幸に陥れた元凶の〈蝿〉だって、被害者だった」
メイシアを抱きしめたまま、亡骸となった〈蝿〉に視線を向け、ルイフォンは黙祷を捧げる。
憎かった。恨んでいた。最後まで、決して許したわけではなかった。
それでも今、彼が満ち足りた顔をしていることに祝意を表する。――横顔が、そう告げていた。
そしてルイフォンは、敢然とした表情で皆に向き直る。
「〈蝿〉が言っていた通り、『ライシェン』は争乱の種にしかならない。彼を連れて行くという選択は、どう考えても、この先、皆に迷惑を掛けることになるだろう。――すまない。でも、認めてほしい」
ルイフォンとメイシアは揃って立ち上がり、深々と頭を垂れた。
天空の間が、水を打ったように静まり返る。
おそらく、この場にいた誰もが、『ライシェン』は連れて行くことになると考えていただろう。――だが、それは、あくまでも漠然とした予測だった。
対して、ルイフォンとメイシアは明確な意志を示し、あまつさえ、頭まで下げた。故に、その行動は意外であり、驚きだったのだ。
ミンウェイは自分の心が、ちくりと痛んだのを感じた。
原因は分かっている。ずっと年下のルイフォンたちが眩しすぎて、自分が惨めになったのだ。
でも、だからこそ、ふたりを応援せねばと思う。
「私は勿論、認めるわよ!」
沈黙を破り、ミンウェイは強気に言い放った。
「〈神の御子〉なんて、とんでもないものを押しつけられたのに、なし崩しじゃなくて、ちゃんと考えて決められるなんて、あなたたち偉いわよ。そんな姿を見せつけられちゃったら、褒めるしかないでしょ!」
声が震えたり、裏返ったりはしなかっただろうかと不安になりながらも、ミンウェイは華やかに笑う。
すると、彼女につられたように、リュイセンが「当たり前だろう」と声を上げ、エルファンとシュアンも次々に同意した。
ルイフォンの顔がほころび、「ありがとう」と告げる。それにかぶるように、エルファンが「ここを出る準備をするぞ」と号令を掛けた。
「ルイフォン、お前が持ち込んだ爆発物は、確か、遠隔操作ができたな?」
「あ、ああ?」
それがどうした? と、ルイフォンは首をかしげる。
エルファンが言っている爆発物とは、〈蝿〉が皆をこの庭園に招待するにあたり、『どんな武器を持ち込んでもよい』と言ったために、ルイフォンが用意したものだ。
「それを地下に仕掛けて、あとで研究室を爆破してくれ」
「なるほど。『ライシェン』を連れて行くから、摂政に対する撹乱工作というわけだな」
ぽん、と手を打ったルイフォンに、エルファンは「そんなところだ」と一応は肯定し、しかし、まるで違う理由を付け足した。
「何をしたところで、いずれ摂政にはバレるだろうから、嫌がらせ程度のことだ。だが、ヘイシャオの研究室は禁じられた技術の宝庫だろうし、何より、あいつがいた場所を好き勝手に荒らされたくはないだろう?」
淡々とした口調のまま、エルファンの眼差しがミンウェイへと向けられる。そこで初めて、ミンウェイは、今の台詞の最後は自分に向けられたものだと気づいた。
「ヘイシャオと『彼女』も連れて行く。オリジナルたちの墓の隣に埋めてやろう」
「伯父様……」
ミンウェイは、再び潤みそうになった瞳をぐっと見開き、なんとかこらえた。
本当は、『〈蝿〉の死体』が、爆破された研究室から発見されたほうが、摂政への対処としては正しい判断のはずだ。なのに、エルファンは、そうしないと言う。
「……私のために……ありがとうございます」
「お前だけのためではない。私にとっても、大切な者たちだからだ」
エルファンは相変わらずの無表情だったが、ミンウェイには、ふたりの新たなる門出を祝い、晴れやかに笑っているように感じられた。
ルイフォンが地下研究室へと向かい、エルファンが屋敷で待っているイーレオに報告を入れる。メイシアは展望塔に残っているタオロン父娘への連絡だ。
残った者たちのうち、男手であるリュイセンとシュアンが率先して、〈蝿〉と『彼女』の亡骸を車に運ぶべく、相談を始めた。決して仲の良くないふたりだが、意味もなく、いがみ合ったりしないあたり、互いに道理をわきまえているらしい。
ストレッチャーなら、ふたり一緒のまま連れて行けるとか、車に同乗することになるファンルゥを驚かせないためには、布で包んで隠すべきだとか、リュイセンが優しい気遣いをしてくれる。だからミンウェイは、この部屋のカーテンを外して覆えばよいと提案し、三人で作業に掛かった。
その途中で、ミンウェイはメイシアに呼ばれた。
「あの、タオロンさんが『ここを発つ前に、どうしても、ミンウェイさんに娘の部屋を見てほしい』――だそうです」
「え?」
いったい、どういうことなのだろう。わけが分からない。
ミンウェイが首をかしげている間に、小さな女の子を肩車した大男が、天空の間に現れた。
わずかに息が乱れているので、ここまで走ってきたらしい。エルファンが迅速な行動を求めたからかと思ったが、肩の上できゃっきゃと喜んでいる女の子の様子を見ると、どうやら彼女の笑顔のためのようだった。
彼がタオロンなのだろう。
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目。刈り上げた短髪と額の間に赤いバンダナがきつく巻かれている。聞いていた通りの容貌なのだが、ミンウェイが想像していた以上に童顔だった。そのため、ふたりは父娘というよりも、年の離れた兄妹に見えた。
「パパ、このお部屋、凄ぉい……」
くりっとした丸い目を更に丸くして、娘のファンルゥがシャンデリアに手を伸ばす。高い天井から吊り下げられたそれに届くわけもないのだが、燦然と輝くきらきらに、彼女の瞳もきらきらしていた。
しかし残念ながら、父親のタオロンには娘と感動を共有する余裕はないようだった。ミンウェイを前に太い眉を寄せ、落ち着きなく視線を揺らす。その先に、白いカーテンで覆われた亡骸があることに気づき、ミンウェイは察した。〈蝿〉が亡くなったことを知らされ、〈蝿〉の娘であるミンウェイになんと言ったらよいのか迷っているのだ。
なので、ミンウェイは自分から一歩、前に出た。
「斑目タオロン氏ですね。はじめまして、鷹刀ミンウェイです。この度は、リュイセンが大変お世話になったと聞きました。どうもありがとうございます」
「いや、俺は、そんなんじゃねぇ……。そもそも、リュイセンが捕まっちまったのは、俺のせいだ。俺のほうこそ、鷹刀の連中には助けてもらって……」
言葉遣いは粗野だが、ぼそぼそとした物言いに、かえって好感が持てた。本当に裏表のない、猪突猛進でまっすぐな人柄なのだろう。
しかし、この調子では、なかなか話が進みそうもない。それは少し困る。ここに長居はできないのだから。――そう思ったとき、彼の頭上にいるファンルゥが「あー!」と大声を出した。
「女神様だぁ! 綺麗!」
じっとミンウェイを見つめ、ファンルゥが満面の笑顔を浮かべる。
「え?」
「メイシアがお姫様で、お姉ちゃんが女神様なの! ――ねぇ、パパ。女神様のお姉ちゃんに、ファンルゥのお部屋を見せてあげるんでしょ? 早く行こう!」
ファンルゥは、タオロンの肩の上で足をばたばたとさせる。
それは、いったい、どういう意味なのか。ミンウェイが戸惑っていると、そばで見守っていたメイシアが、そっと耳打ちをしてくれた。
曰く。
「ファンルゥちゃんは、綺麗なミンウェイさんをひと目で気に入ったんです。だから、これから一緒に部屋に行くのが楽しみなんだと思います」
そして、肩車のファンルゥに先導され、なんだかよく分からないままに、ミンウェイは天空の間をあとにしたのだった。
部屋を出ていくミンウェイの後ろ姿を、リュイセンは黙って見送った。しかし、彼女の気配が完全に消えると、低い声で「緋扇」と、シュアンを呼んだ。
リュイセンの黄金比の美貌は、彫像のように凍りついていた。その形相に、シュアンは尋常ならざるものを感じ、三白眼をすっと細める。
「あの小さな嬢ちゃんの部屋に、何があるんだ?」
「…………」
シュアンの問いに、リュイセンは押し黙った。口元の動きから、奥歯を噛んだのが分かる。どうにも煮え切らない態度に、シュアンは焦れて言葉を重ねた。
「ミンウェイが気になるんだろう? だったら、お前も行ってこい。遺体なら、俺ひとりで運べるからよ」
仕方ねぇな、と言わんばかりの口調だが、彼らの関係を考えれば、驚くほど友好的な態度だった。不和の間柄とはいえ、今回、〈蝿〉の心を動かし、ミンウェイとの温かな対面を実現させたリュイセンのことは、シュアンも評価しているのだ。
「緋扇……、お前が、ミンウェイのあとを追ってくれ」
「……は?」
シュアンは、ぽかんと口を開け、間抜け面で呆けた。大きく見開かれた瞳が、彼の特徴であるはずの三白眼を放棄している。
深刻な顔つきのリュイセンに対し、あんまりな反応であるが、この場合はどう考えても、シュアンのほうが正当だろう。しかし、リュイセンの次の台詞は、更に脈絡というものをまるで無視していた。
「俺は、お前が嫌いだ」
唐突なリュイセンの暴言に、そんなことは百も承知のシュアンでも、思わず「はぁっ!?」と声を荒らげずにはいられない。
「大嫌いだ」
「ああ、そうかよ。俺も、あんたが嫌いだ。気が合うな」
内心では、かなりリュイセンを見直していたシュアンなのだが、それをすべて御破算にして投げやりに答える。そのまま、ぷいと横を向いた彼に、しかし、リュイセンは畳み掛けた。
「俺は、お前の、如何にも分かったふうで、耳に心地よくて、適当な言い草が大嫌いだ」
「……だから、なんだよ?」
「――けど!」
険悪な凶相で睨みつけてきたシュアンを、リュイセンは語勢で跳ねのける。
「今のミンウェイには、お前の胡散臭くて、無責任な言葉が必要だ。……だから、ミンウェイのあとを追ってくれ」
「……は?」
リュイセンの発言が先ほどのものに戻り、シュアンの反応もまた、もとに戻る。
「お前が、ミンウェイに、ヘイシャオと会うことを強く勧めてくれたから、この幕引きとなった。……シュアン、ありがとう。感謝している」
「リュイセン? あんた、さっきから、いったい、どうしたんだよ? ――だいたい、この結末は、あんたが〈蝿〉を改心させたからこそだろう? あんたの手柄じゃねぇか。大手柄だろう?」
何を言いたいのか、まったく理解できないと、シュアンは悪相を歪める。だが、リュイセンは視線を落とし、首を振った。肩までの髪が、何かを払いのけるかのように、さらさらと揺れる。
「確かに、俺はヘイシャオの気持ちを変えたかもしれない。けど、ミンウェイを動かしたのは、お前なんだ」
「そりゃあ、この庭園から出られなかったあんたは、ミンウェイとは接触のしようがなくて、代わりに俺が、たまたま彼女のそばにいた、というだけだろう? ――それより、〈蝿〉の野郎をどうにかするほうが、比べようもなく困難だったはずだ。あんたは、よくやったよ」
シュアンは、やれやれと溜め息をついた。どうやら、青臭い義理堅さがリュイセンを不安定にしているのだろうと、結論づけたのだ。
そんなシュアンに、リュイセンはむっと鼻に皺を寄せながらも、硬い声で告げる。
「俺は、ヘイシャオからミンウェイを遠ざけようとばかりしていた。それが、ミンウェイのためだと思ったからだ。――だが、お前は、俺とは正反対のことをした。何度も、何度も、ミンウェイにヘイシャオと向き合うように言ってくれたんだと、ルイフォンから聞いた。……今の状況があるのは、お前の手柄だ」
「おいおい、リュイセン。そんなに堅苦しく考えることはないだろう?」
シュアンは、自論に酔っているリュイセンに弱り、ぼさぼさ頭をがりがりと掻く。普段が普段であるだけに、どうにも妙な調子だった。
けれど、リュイセンは止まらない。
「本当は、お前なんかに頼みたくなどない。……でも、今のミンウェイには、お前の言葉が必要だ」
リュイセンは血を吐くように告げ……、頭を下げた。
「!?」
シュアンの三白眼が極限まで見開かれる。
「ファンルゥの部屋は、ここから二階分下がった、この建物の一番端だ」
「……分かった」
そのひとことだけを残し、シュアンは部屋を出ていった。
シュアンの姿が消えると、リュイセンは肩を落とし、小さな呟きを漏らす。
「仕方ねぇだろう……。俺の前じゃ、ミンウェイは無理に笑おうとするんだからよ……」