残酷な描写あり
6.波音の子守唄-2
「あのね、〈蝿〉のおじさんは、とっても、いばりんぼだったけど、自分だけ美味しいご飯を食べていたわけじゃないの。ファンルゥのご飯、とっても美味しかったの」
ファンルゥの部屋に向かうべく、天空の間を出た途端、ミンウェイの頭よりも遥かに高い位置から、子供特有の細い声が響いた。
目線を上げれば、タオロンに肩車されたファンルゥが、訴えるようにミンウェイを見つめていた。父親そっくりの太い眉が下がり、わずかに頬を上気させた顔からは、どこか思いつめたような懸命さが伝わってくる。
「斑目のお家とは違うの。パパは、お仕事がないときは、ずっとファンルゥと一緒にいてよかったの」
「ファンルゥちゃん……?」
先ほどは、ミンウェイと行動できるのが嬉しくてたまらないと、ご機嫌だったファンルゥが、今はくりっとした大きな目にうっすらと涙を浮かべていた。その急激な変化に、ミンウェイは戸惑う。
「〈蝿〉のおじさんは、お姉ちゃんのパパなんでしょ?」
「え……」
まっすぐな視線に、どきりとした。
ミンウェイにとって、『彼』は何者だったのか。そして、彼女を育ててくれた『お父様』は何者だったのか……。
ミンウェイは自問し、切れ長の目を見開いたまま、表情を凍らせる。
勿論、ファンルゥに他意はなく、ただ、そう聞いたから、そう言ったまでなのだろう。
「お姉ちゃんが『悪いことはやめて!』って言ったから、〈蝿〉のおじさんは『ごめんなさい』して、牢屋に行ったんでしょう?」
どうやら、小さなファンルゥには、『娘のミンウェイの勧めで、〈蝿〉が自首した』と説明されたらしい。〈蝿〉には、メイシアを誘拐、監禁していたという事実があるので、ファンルゥは、すんなり納得したようである。
ミンウェイが曖昧に頷くと、タオロンが「すんません」とそっと謝った。その声と重なるように、ファンルゥが言う。
「『ごめんなさい』は大事だって、ファンルゥは知っている。だから、お姉ちゃんは正しいの。……でも、〈蝿〉のおじさんが牢屋に行っちゃったら、お姉ちゃんはパパと会えない……! お姉ちゃんは、正しいことしたのに……!」
ファンルゥの目から、ぽろっと大粒の涙がこぼれた。『パパと会えない』は、彼女にとって、とても悲しいことなのだ。
「あのね、ファンルゥのパパがね、ファンルゥのお部屋を見れば、お姉ちゃんは寂しくても頑張れるって言ったの。ファンルゥのお部屋は、とっても素敵だから、お姉ちゃんに元気をくれるって。だから、ファンルゥは、お姉ちゃんをお部屋に案内するの!」
小さな拳骨で、ぐいぐいっと涙を拭い、ファンルゥは使命感に満ちた太い眉を寄せる。よく分からない理屈であるが、ミンウェイを励まそうと必死なのは分かった。
そんな娘の体を、タオロンはひょいと肩から降ろす。重力をまるで感じさせない動きで、しっかりと胸に抱き直し、見るからに無骨な大きな掌でファンルゥの頭を撫でた。ぴょこぴょこと飛び出た彼女の癖っ毛が、嬉しそうに跳ねる。
「いきなり、すんませんでした」
タオロンはミンウェイに向き直り、頭を下げた。
「俺から話すのが筋とは思ったんですが、あなたの気持ちは『ファンルゥのほうが、よく分かる』と娘が……。それに俺は、あまり口が達者じゃねぇんで……」
大きな体を丸めて紡がれた言葉は、確かに洗練されたものではなかったが、ミンウェイを心から気遣っていた。
この父娘は、本当に素朴で、温かい。
ルイフォンたちから聞いていた通りだ。
ミンウェイの表情が自然に和らぐ。先ほど『彼』を亡くしたばかりの心が、ほわりと癒やされていく。
「ありがとうございます。……ファンルゥちゃんも、ありがとう」
少しだけ虚勢も混じってはいたが、ミンウェイは微笑みを浮かべた。
「――けど、ファンルゥちゃんの部屋を私に見せたいというのは、いったい……?」
「……うまく言えねぇんで、とりあえず見てください。もう着きますから」
首をかしげたミンウェイに、タオロンは弱ったように声を詰まらせながら、ぼそぼそと答えた。そして、その言葉の通りに、すぐに廊下の端――ファンルゥの部屋の前に到着する。
昨晩、ファンルゥの身を守るために、ルイフォンが番号を変えて施錠した電子錠は、先ほど解錠してもらったという。だから、扉はすっと開いた。
部屋の中は、ファンルゥがメイシアのいる展望塔へと、慌ただしく出発する前の状態が、そのまま残されていた。
大きく窓が開け放たれ、その下には脱出の際に踏み台にした、子供用の椅子が置かれている。草原を渡る風が、ざわざわと、まるで波のような音を立てながら部屋に入ってきて、テーブルの上のスケッチブックをぱらりとめくった。
力いっぱい塗られた水色の上に、紫の丸がたくさん描かれていた。『病気のあの子』に届けるからと、リュイセンが預かったのと同じ絵柄だ。
ファンルゥの優しさの象徴ともいえる絵を見て、ミンウェイは口元を緩める。
……しかし。
どうしてタオロンは、この部屋を見せたいと言ったのだろう?
やはり、分からない。
ミンウェイが理由を問おうとしたとき、横の壁から、カチッという機械仕掛けの音が聞こえた。
そして――。
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン……。
時計の鐘が、定時を告げる。
「え……」
ミンウェイは耳を疑った。
軽やかな鐘の音は、聞き覚えのある響きをしていた。
……ボーン、ボーン、ボーン、ボーン……。
ミンウェイの心臓が、時報を追いかけるように早鐘を鳴らす。弾かれたように音をたどれば、そこには可愛らしいデザインの絡繰り時計が掛けられていた。
……ボーン、ボーン、ボーン、ボーン。
十二回。――正午だ。
『お昼の十二時だけは、特別なのだよ。ピエロが全員で、ミンウェイに挨拶に来る』
『そしたら、研究室にいる私を迎えにきてほしい。私はきっと、時間を忘れているだろうからね』
『ミンウェイ。一緒に、お昼を食べよう』
耳の中に蘇る、柔らかな低い声――。
「お父……様……?」
壁に掛けられた絡繰り時計から、軽快な音楽が流れ始めた。
十二個の数字が順に、ぎぃ、ぎぃと音を立てて裏返り、後ろに隠れていた色とりどりのピエロが、次々に飛び出してくる。
『おかえり、ミンウェイ!』
『元気にしていた?』
『また会えて嬉しいよ!』
ピエロたちは踊りながら、ミンウェイに笑いかける。
「嘘……」
ミンウェイの子供部屋にあった絡繰り時計は、とっくの昔に時を止めてしまった。
だから今、目の前で踊っているピエロたちは、新しくファンルゥのために用意されたもの。何処も彼処もぴかぴかの新品だ。
――だけど。
ピエロたちが勢揃いし、代わりに文字盤の数字がすべて隠されてしまった絡繰り時計は、『何時』でもない『時間』を示している……。
『ねぇ、ミンウェイ。僕たちのいる『此処』は、どこだと思う?』
「え……?」
ミンウェイは、はっと顔色を変えた。
ピエロたちがいるのなら……と、部屋のあちこちに視線を走らせる。
見覚えのあるおままごとセット、記憶にあるがままの着せ替え人形、小物作りに夢中になった子供用の大きめきらきらビーズ……。玩具だけではない。洋服掛けには、お気に入りのふわふわワンピースまで下がっている。
「『此処』は……、私の……部屋……」
全身の力が急に抜け落ち、ミンウェイはぺたんと床に座り込んだ。
下がった視線の先に、本棚があった。絵本の背表紙が目に入る。ミンウェイが好きだった、お姫様が出てくるものばかりだ。お姫様の物語でも、怖い魔女が出てきて、わんわん泣いてしまった絵本は見当たらない。
「きっと、そうなんじゃねぇかと思って……。だから、あなたに見せたかったんです」
背後から、タオロンの遠慮がちな太い声が聞こえた。
ミンウェイは振り返るべきだと思いつつ、顔を上げることはできなかった。ただ、相槌を打つように、こくりと頭を動かす。
「ファンルゥは、斑目の家でも人質でした。でも、斑目がファンルゥに与えたのは、こんな立派な部屋じゃねぇ。とりあえず子供用のもんがある、って程度で……、俺も馬鹿だから、それで充分なんだと疑いもしなかったんです」
年上の女性への言葉遣いに迷うのか、タオロンは時々、声を詰まらせた。そして、ぽろりと、素のままの思いがこぼれる。
「斑目がどうだって、俺自身が、綺麗なもんのひとつでも買ってやりゃあよかったのによぉ」
「パパ……」
ファンルゥが、もぞもぞ動く気配がした。けれど、彼女はタオロンの話の邪魔にならないよう、それ以上は何も言わない。物心つく前からの人質生活で、幼いながらも状況を読むべきときを、ちゃんと知っているのだ。
ミンウェイの後ろで、タオロンが笑んだのが分かった。目を細め、愛しげに娘を見つめる眼差しが感じられる。
それから彼は、気を取り直したように続けた。
「この部屋のものは、ファンルゥがおとなしくしているようにと、〈蝿〉が手配したものです。見たこともない贅沢品にファンルゥは喜んで……、だから俺は、この歳の女の子に人気のものを〈蝿〉が適当に掻き集めてきたんだとばかり思っていて……、――けど」
理路整然と話せないことを焦れるように、タオロンは、ほんの少し早口になる。
「そのうち、ファンルゥには上品すぎるというか、ちょっと刺激が足りなくて飽きちまったというか……。そんなとき、〈蝿〉に娘がいると知って、馬鹿な俺でも気づいたんです。――ここは『あなた』の部屋なんだ、って」
やっと説明できた、とばかりにタオロンが力強く言い放った。
ミンウェイは何か言葉を返さねばと思うのに、喉が詰まって声を出せない。だから、無言で首肯する。
タオロンの言う通り。この部屋は、内気な女の子だったミンウェイの部屋。
懐かしく……けれど今まで、すっかり忘れていた遥かな昔のこと。
なのに〈蝿〉は――『お父様』の記憶は、ずっと覚えていたのだ……。
「……あ、……あのぅ、……すんません」
戸惑うような、タオロンの息遣いを感じた。まだ何か、言いたいことがあるらしい。
ミンウェイの後ろ姿に一方的に話しかけるのは、タオロンとしては非常にやりにくいことだろう。それでも彼は、懸命に口を開く。
「俺は正直、〈蝿〉の野郎が大嫌いでした。……だから、あいつを弁護するようなことは言いたくねぇ。けど、あなたには勘違いをしてほしくねぇんです」
「……?」
「娘がいれば、女の子が好きそうなもんくらい自然に分かってくる、なんてことは、絶対にねぇんです。散々、失敗して、時には理不尽に癇癪を起こされて、やっと、なんとかやっていくんです。……俺なんか、ファンルゥに何をしてやったらいいのか、悩んでばっかです」
ぽつり、ぽつりと、タオロンは語る。
「男の子だったら、まだもう少し楽だったんじゃねぇかと思っちまう。女の子なんて、本当に分からねぇ……。――だから、男手ひとつで娘を育てた〈蝿〉は…………凄ぇんです」
「……」
初めてこの父娘を見たとき、ミンウェイは、歳の離れた兄妹みたいだと思った。
けれど、違う。タオロンは、ちゃんと『ファンルゥのパパ』なのだ。
タオロンは、言葉に迷いながら、続ける。
「ファンルゥの腕輪の件。あなたも聞いていますよね」
「え、ええ……」
やっと声が出た。――タオロンが、ミンウェイと……『彼』のために話をしてくれているのだと思うと、自然に声を出せた。
「模造石だって言われたけど、俺には宝石なんて区別できねぇ。だから、大人の女が持つような凄ぇもん寄越しやがってと……、なんて言えばいいんだ……、ファンルゥにはまだ早いっつうか。けど、ファンルゥの奴が凄ぇ喜んで……、俺は、〈蝿〉と……ファンルゥに、むかつきました」
最後のほうは、低く押し殺した声だった。背後の気配が揺れたので、そっとファンルゥの耳をふさいだのだと分かった。娘には聞かせたくなかったのだろう。
「〈蝿〉は、このくらいの歳の子は小さな淑女だと。そんなことも知らないのかと、俺を鼻で嗤いました。――俺は、凄ぇ悔しくて。けど、本当に〈蝿〉の言う通りで……。……でも」
ためらいながら、タオロンは言を継ぐ。
「〈蝿〉との……そのぅ、片がついて、落ち着いた今だからこそ、俺もこんなことを言えるんだと思いますが、あのときの〈蝿〉の態度は、〈蝿〉の自負っつうか……、苦労して娘を育てたから分かるんだという、誇りみたいなもんだったんじゃねぇかと思うんです」
そしてタオロンは、太い声に照れるような色合いを混ぜながら、はっきりと告げる。
「〈蝿〉は、本当に凄ぇ愛情を込めて、あなたを育てたんです」
「――!?」
思ってもみなかった言葉に、ミンウェイは息を呑んだ。
その反応を、タオロンがどう捉えたのかは分からない。ただ、がりがりと頭を掻く音が聞こえる。
「思えば〈蝿〉は、ファンルゥには優しかった気がするんです。――立派な部屋を与えて、おとなしくさせる必要はなかった。人質なんだから、騒ごうが暴れようが、鎖で繋ぐんだってよかった。俺には絶対に手出しができねぇ怪しい技術を使うとか、あの硝子ケースに閉じ込めるとか、なんだってできたんだ……」
「……」
「あの腕輪だって、ただの腕輪だった。俺のことを脅して、そのために、俺はリュイセンを斬ったっていうのに……。ファンルゥに対しては『音が出る腕輪』と説明して、怖がらせないようにして……それも、全部、嘘。本当になんの仕掛けもない、ただの腕輪だった。馬鹿な俺は、すっかり騙されちまったけどよぉ」
「…………」
「ファンルゥは、〈蝿〉のことを『悪い奴』だと嫌っていた。けど、驚いたことに、ちっとも怖がっちゃぁいなかったんだ。俺はてっきり、ファンルゥが餓鬼だから状況が分かっていねぇんだと信じていた。でも、違った。――〈蝿〉は、一度だってファンルゥに危害を加えたことはねぇんです。……それは、ファンルゥに、あなたを重ねて見ていたからだと……俺は思うんです」
「………………」
「俺みたいな奴が説教臭く、すんません。……でもこれは、俺にしか言えねぇから。……その……、……あぁ、うまく言えねぇ……」
あとには、もごもごと言葉にならない声が続き、タオロンが困りきっているのが分かった。
ミンウェイは――……。
本棚の前に座り込んだまま、瞬きひとつできなかった。
絵本の背表紙がにじむ。
膝の上に、ぽたりと涙の粒が落ちた。
「すんません。俺たちは、これで失礼します。……あなたは、この部屋をしばらく見てやってください」
ミンウェイの肩が小刻みに震えていることに気づいたのだろう。タオロンは焦ったようにそう言って、部屋を出ようとした。
そのときだった。
「お姉ちゃん!」
タオロンの腕から、ぴょこんと飛び出したファンルゥが、ミンウェイのもとへとやってきた。
ミンウェイは慌てて目元を拭い、「なぁに?」と答える。
「この腕輪、お姉ちゃんに返す!」
模造石をきらきらと輝かせながら、ファンルゥが腕から腕輪を抜き取った。
「――お姫様の……腕輪……!」
ミンウェイは、思わず目を見開く。
それは、子供のころの宝物と、そっくりだった。
「この腕輪、やっぱりお姉ちゃんのだったんだね!」
「え……?」
そんなことはない。その腕輪は、〈蝿〉がファンルゥのために用意したものだ。
ミンウェイの腕輪なら、昔、住んでいた家のどこかに、今も大切にしまってあるはずだ。ついこの間、ミンウェイがクローンである証拠を求めて生前の父の研究室を調べにいった、あの家のどこかに。
ルイフォンが思い出を持ち帰ることを勧めてくれたのに、『お別れ』をしに来たのだと突っぱねてしまったから、二度と手にすることはないのだけれど――。
「ファンルゥね、パパから『ご褒美』の腕輪を貰ったの!」
ファンルゥは模造石の腕輪をミンウェイに押しつけ、自分のポケットをごそごそとさせた。そして、紫水晶でできた腕輪をはめる。小さな女の子が身に着けるにしては、だいぶ大人びた色合いであったが、細身のデザインが細い手首に意外によく似合っていた。
「これはね、メイシアの『作戦』で、パパがルイフォンに会うために、お出掛けしたときに買ってきてくれたの。ファンルゥの宝物!」
タオロンが、ファンルゥには『ご褒美』をやるべきだと主張して、〈蝿〉から外出許可をもぎ取った、あの一件である。
『ペンダントとか、ブローチを買う』と言って出掛けたくせに、タオロンは、〈蝿〉の腕輪に対抗して『腕輪』を買ってきたのだ。紫色は『空に浮かぶ、紫の風船』の絵から、ファンルゥの好きな色だと考えたのだろう。
「ファンルゥは、ファンルゥのパパの腕輪を着けるから、お姉ちゃんは、お姉ちゃんのパパの腕輪を着けて!」
満面の笑顔で、ファンルゥは言う。
今までは『〈蝿〉の腕輪』を着けていなければならなかったのが、やっと『パパの腕輪』に替えられる。それが、嬉しくてたまらないらしい。
……ミンウェイに、断ることはできなかった。
「ファンルゥちゃん、ありがとう……」
そう言って、ミンウェイは、きらきらのお姫様の腕輪をはめる。
何十年ぶりかの輝きは、幼いころとは違って、どこか色あせて見えた。模造石は、本物ではないことを知ってしまったからかもしれない。
懐かしさに目を細めると、目尻から、すっと涙が流れ落ちた。
タオロンとファンルゥの父娘は、ミンウェイを残して部屋を出ていった。
そして――。
「お疲れさん」
妙に甲高く、耳に障る声が響いた。
振り返らなくても分かる。この庭園を出るための準備をしているはずのシュアンである。
何故、彼がここにいるのか。
ミンウェイは、別に疑問に思わなかった。さっきから気配を感じていたし、いつも、ふらりと現れる人だから、今もそうなのだろうと納得していた。
シュアンは遠慮なくミンウェイに近づいてきて、けれど、そばまでは来ない。中途半端なところで立ち止まり、そこでどっかりと腰を下ろした。
「斑目タオロンは、あんたと〈蝿〉の正確な間柄を知らないんだろう?」
「え? ……ええ、そうだと思います」
単に『父娘』だと、ルイフォンは説明したはずだ。クローン云々なんてことは、わざわざ言う必要はないだろう、と。
シュアンは何故、そんなことを訊くのだろう?
ミンウェイは、わずかに警戒する。泣いていた形跡を手の甲でこすり取ると、視界の端で、きらきらと模造石が輝いた。
「あいつの善意は、あんたには、ちっときつかったな」
「……?」
「斑目タオロンさ。ああ、娘のほうも、父親そっくりだったな。――あんたを慰めよう、励まそうと必死で。凶賊のくせに、愚かしいほどにいい奴で」
そこで急に、シュアンの声が、怖気の走るような、どすの利いたものとなる。
「――そんでもって、あんたの傷をえぐりまくっていた」
「緋扇さん!?」
気遣ってくれた父娘への、あんまりな言葉。
ミンウェイは、涙の跡が残る顔にも関わらず、反射的に振り返る。
「よぉ、やっと、こっちを向いてくれたな」
軽薄な口調で、シュアンが、ぼさぼさ頭を揺らした。くつろいだ様子で床に胡座をかいている姿は、ミンウェイが想像していた通りだ。
しかし、彼を特徴づける三白眼が、切なげに細められていた。まるで泣き出す直前のような顔に見える。シュアンに限って泣き顔など、あろうはずもないが。
「緋扇さん! 今の発言は、あまりにも失礼ではありませんか!?」
眦を吊り上げ、ミンウェイは叫んだ。シュアンの表情は、きっと気のせいだと思いながら。
「ただの事実だろう?」
「『事実』って? 何が『事実』だと言うんですか!」
「事情を知らないタオロンの奴は、『〈蝿〉は、娘に愛情を注いでいた』と伝えれば、あんたも〈蝿〉も報われると信じていた。あんたを喜ばせようと、義務感すら持って語っていた」
「……」
「タオロンは、いい奴だ。〈蝿〉の野郎も、天国だか地獄だかで、タオロンに感謝していることだろう。――だがな。あんたは違う」
「っ!?」
鋭く突き刺さるような三白眼に、ミンウェイは短く息を呑む。
「あんたの欲しかった愛は、『娘』としてじゃねぇんだ」
「緋扇……さん?」
「なのに、『娘として愛されていた』と繰り返し言われて、……あんたが辛くないわけがないだろう!?」
その瞬間、ミンウェイの中で、何かが崩れ落ちた。
目の前の景色が歪み、何もかもが溶けていく。
「あんたはお人好しだから、あの父娘の善意を受け止めなきゃと思ったはずだ。気遣われているんだから。優しくしてもらっているんだから、ってな」
開け放された窓から、草原を渡る風の音が聞こえる。
ざわざわという風音は、まるで緑の海原の波音。それが、シュアンの声と混じり合い、ミンウェイへと押し寄せる。
「あんたは、よく頑張った」
包み込むような言葉が、ミンウェイの心に打ち寄せる。
「〈蝿〉の野郎の最期の瞬間も、本当は奴にすがりつきたかったんだろう?」
「でも、『彼女』がいたから遠慮した」
「あんたは、よく耐えた」
「もう、いいんだ。我慢することはねぇぞ」
ファンルゥの部屋に向かうべく、天空の間を出た途端、ミンウェイの頭よりも遥かに高い位置から、子供特有の細い声が響いた。
目線を上げれば、タオロンに肩車されたファンルゥが、訴えるようにミンウェイを見つめていた。父親そっくりの太い眉が下がり、わずかに頬を上気させた顔からは、どこか思いつめたような懸命さが伝わってくる。
「斑目のお家とは違うの。パパは、お仕事がないときは、ずっとファンルゥと一緒にいてよかったの」
「ファンルゥちゃん……?」
先ほどは、ミンウェイと行動できるのが嬉しくてたまらないと、ご機嫌だったファンルゥが、今はくりっとした大きな目にうっすらと涙を浮かべていた。その急激な変化に、ミンウェイは戸惑う。
「〈蝿〉のおじさんは、お姉ちゃんのパパなんでしょ?」
「え……」
まっすぐな視線に、どきりとした。
ミンウェイにとって、『彼』は何者だったのか。そして、彼女を育ててくれた『お父様』は何者だったのか……。
ミンウェイは自問し、切れ長の目を見開いたまま、表情を凍らせる。
勿論、ファンルゥに他意はなく、ただ、そう聞いたから、そう言ったまでなのだろう。
「お姉ちゃんが『悪いことはやめて!』って言ったから、〈蝿〉のおじさんは『ごめんなさい』して、牢屋に行ったんでしょう?」
どうやら、小さなファンルゥには、『娘のミンウェイの勧めで、〈蝿〉が自首した』と説明されたらしい。〈蝿〉には、メイシアを誘拐、監禁していたという事実があるので、ファンルゥは、すんなり納得したようである。
ミンウェイが曖昧に頷くと、タオロンが「すんません」とそっと謝った。その声と重なるように、ファンルゥが言う。
「『ごめんなさい』は大事だって、ファンルゥは知っている。だから、お姉ちゃんは正しいの。……でも、〈蝿〉のおじさんが牢屋に行っちゃったら、お姉ちゃんはパパと会えない……! お姉ちゃんは、正しいことしたのに……!」
ファンルゥの目から、ぽろっと大粒の涙がこぼれた。『パパと会えない』は、彼女にとって、とても悲しいことなのだ。
「あのね、ファンルゥのパパがね、ファンルゥのお部屋を見れば、お姉ちゃんは寂しくても頑張れるって言ったの。ファンルゥのお部屋は、とっても素敵だから、お姉ちゃんに元気をくれるって。だから、ファンルゥは、お姉ちゃんをお部屋に案内するの!」
小さな拳骨で、ぐいぐいっと涙を拭い、ファンルゥは使命感に満ちた太い眉を寄せる。よく分からない理屈であるが、ミンウェイを励まそうと必死なのは分かった。
そんな娘の体を、タオロンはひょいと肩から降ろす。重力をまるで感じさせない動きで、しっかりと胸に抱き直し、見るからに無骨な大きな掌でファンルゥの頭を撫でた。ぴょこぴょこと飛び出た彼女の癖っ毛が、嬉しそうに跳ねる。
「いきなり、すんませんでした」
タオロンはミンウェイに向き直り、頭を下げた。
「俺から話すのが筋とは思ったんですが、あなたの気持ちは『ファンルゥのほうが、よく分かる』と娘が……。それに俺は、あまり口が達者じゃねぇんで……」
大きな体を丸めて紡がれた言葉は、確かに洗練されたものではなかったが、ミンウェイを心から気遣っていた。
この父娘は、本当に素朴で、温かい。
ルイフォンたちから聞いていた通りだ。
ミンウェイの表情が自然に和らぐ。先ほど『彼』を亡くしたばかりの心が、ほわりと癒やされていく。
「ありがとうございます。……ファンルゥちゃんも、ありがとう」
少しだけ虚勢も混じってはいたが、ミンウェイは微笑みを浮かべた。
「――けど、ファンルゥちゃんの部屋を私に見せたいというのは、いったい……?」
「……うまく言えねぇんで、とりあえず見てください。もう着きますから」
首をかしげたミンウェイに、タオロンは弱ったように声を詰まらせながら、ぼそぼそと答えた。そして、その言葉の通りに、すぐに廊下の端――ファンルゥの部屋の前に到着する。
昨晩、ファンルゥの身を守るために、ルイフォンが番号を変えて施錠した電子錠は、先ほど解錠してもらったという。だから、扉はすっと開いた。
部屋の中は、ファンルゥがメイシアのいる展望塔へと、慌ただしく出発する前の状態が、そのまま残されていた。
大きく窓が開け放たれ、その下には脱出の際に踏み台にした、子供用の椅子が置かれている。草原を渡る風が、ざわざわと、まるで波のような音を立てながら部屋に入ってきて、テーブルの上のスケッチブックをぱらりとめくった。
力いっぱい塗られた水色の上に、紫の丸がたくさん描かれていた。『病気のあの子』に届けるからと、リュイセンが預かったのと同じ絵柄だ。
ファンルゥの優しさの象徴ともいえる絵を見て、ミンウェイは口元を緩める。
……しかし。
どうしてタオロンは、この部屋を見せたいと言ったのだろう?
やはり、分からない。
ミンウェイが理由を問おうとしたとき、横の壁から、カチッという機械仕掛けの音が聞こえた。
そして――。
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン……。
時計の鐘が、定時を告げる。
「え……」
ミンウェイは耳を疑った。
軽やかな鐘の音は、聞き覚えのある響きをしていた。
……ボーン、ボーン、ボーン、ボーン……。
ミンウェイの心臓が、時報を追いかけるように早鐘を鳴らす。弾かれたように音をたどれば、そこには可愛らしいデザインの絡繰り時計が掛けられていた。
……ボーン、ボーン、ボーン、ボーン。
十二回。――正午だ。
『お昼の十二時だけは、特別なのだよ。ピエロが全員で、ミンウェイに挨拶に来る』
『そしたら、研究室にいる私を迎えにきてほしい。私はきっと、時間を忘れているだろうからね』
『ミンウェイ。一緒に、お昼を食べよう』
耳の中に蘇る、柔らかな低い声――。
「お父……様……?」
壁に掛けられた絡繰り時計から、軽快な音楽が流れ始めた。
十二個の数字が順に、ぎぃ、ぎぃと音を立てて裏返り、後ろに隠れていた色とりどりのピエロが、次々に飛び出してくる。
『おかえり、ミンウェイ!』
『元気にしていた?』
『また会えて嬉しいよ!』
ピエロたちは踊りながら、ミンウェイに笑いかける。
「嘘……」
ミンウェイの子供部屋にあった絡繰り時計は、とっくの昔に時を止めてしまった。
だから今、目の前で踊っているピエロたちは、新しくファンルゥのために用意されたもの。何処も彼処もぴかぴかの新品だ。
――だけど。
ピエロたちが勢揃いし、代わりに文字盤の数字がすべて隠されてしまった絡繰り時計は、『何時』でもない『時間』を示している……。
『ねぇ、ミンウェイ。僕たちのいる『此処』は、どこだと思う?』
「え……?」
ミンウェイは、はっと顔色を変えた。
ピエロたちがいるのなら……と、部屋のあちこちに視線を走らせる。
見覚えのあるおままごとセット、記憶にあるがままの着せ替え人形、小物作りに夢中になった子供用の大きめきらきらビーズ……。玩具だけではない。洋服掛けには、お気に入りのふわふわワンピースまで下がっている。
「『此処』は……、私の……部屋……」
全身の力が急に抜け落ち、ミンウェイはぺたんと床に座り込んだ。
下がった視線の先に、本棚があった。絵本の背表紙が目に入る。ミンウェイが好きだった、お姫様が出てくるものばかりだ。お姫様の物語でも、怖い魔女が出てきて、わんわん泣いてしまった絵本は見当たらない。
「きっと、そうなんじゃねぇかと思って……。だから、あなたに見せたかったんです」
背後から、タオロンの遠慮がちな太い声が聞こえた。
ミンウェイは振り返るべきだと思いつつ、顔を上げることはできなかった。ただ、相槌を打つように、こくりと頭を動かす。
「ファンルゥは、斑目の家でも人質でした。でも、斑目がファンルゥに与えたのは、こんな立派な部屋じゃねぇ。とりあえず子供用のもんがある、って程度で……、俺も馬鹿だから、それで充分なんだと疑いもしなかったんです」
年上の女性への言葉遣いに迷うのか、タオロンは時々、声を詰まらせた。そして、ぽろりと、素のままの思いがこぼれる。
「斑目がどうだって、俺自身が、綺麗なもんのひとつでも買ってやりゃあよかったのによぉ」
「パパ……」
ファンルゥが、もぞもぞ動く気配がした。けれど、彼女はタオロンの話の邪魔にならないよう、それ以上は何も言わない。物心つく前からの人質生活で、幼いながらも状況を読むべきときを、ちゃんと知っているのだ。
ミンウェイの後ろで、タオロンが笑んだのが分かった。目を細め、愛しげに娘を見つめる眼差しが感じられる。
それから彼は、気を取り直したように続けた。
「この部屋のものは、ファンルゥがおとなしくしているようにと、〈蝿〉が手配したものです。見たこともない贅沢品にファンルゥは喜んで……、だから俺は、この歳の女の子に人気のものを〈蝿〉が適当に掻き集めてきたんだとばかり思っていて……、――けど」
理路整然と話せないことを焦れるように、タオロンは、ほんの少し早口になる。
「そのうち、ファンルゥには上品すぎるというか、ちょっと刺激が足りなくて飽きちまったというか……。そんなとき、〈蝿〉に娘がいると知って、馬鹿な俺でも気づいたんです。――ここは『あなた』の部屋なんだ、って」
やっと説明できた、とばかりにタオロンが力強く言い放った。
ミンウェイは何か言葉を返さねばと思うのに、喉が詰まって声を出せない。だから、無言で首肯する。
タオロンの言う通り。この部屋は、内気な女の子だったミンウェイの部屋。
懐かしく……けれど今まで、すっかり忘れていた遥かな昔のこと。
なのに〈蝿〉は――『お父様』の記憶は、ずっと覚えていたのだ……。
「……あ、……あのぅ、……すんません」
戸惑うような、タオロンの息遣いを感じた。まだ何か、言いたいことがあるらしい。
ミンウェイの後ろ姿に一方的に話しかけるのは、タオロンとしては非常にやりにくいことだろう。それでも彼は、懸命に口を開く。
「俺は正直、〈蝿〉の野郎が大嫌いでした。……だから、あいつを弁護するようなことは言いたくねぇ。けど、あなたには勘違いをしてほしくねぇんです」
「……?」
「娘がいれば、女の子が好きそうなもんくらい自然に分かってくる、なんてことは、絶対にねぇんです。散々、失敗して、時には理不尽に癇癪を起こされて、やっと、なんとかやっていくんです。……俺なんか、ファンルゥに何をしてやったらいいのか、悩んでばっかです」
ぽつり、ぽつりと、タオロンは語る。
「男の子だったら、まだもう少し楽だったんじゃねぇかと思っちまう。女の子なんて、本当に分からねぇ……。――だから、男手ひとつで娘を育てた〈蝿〉は…………凄ぇんです」
「……」
初めてこの父娘を見たとき、ミンウェイは、歳の離れた兄妹みたいだと思った。
けれど、違う。タオロンは、ちゃんと『ファンルゥのパパ』なのだ。
タオロンは、言葉に迷いながら、続ける。
「ファンルゥの腕輪の件。あなたも聞いていますよね」
「え、ええ……」
やっと声が出た。――タオロンが、ミンウェイと……『彼』のために話をしてくれているのだと思うと、自然に声を出せた。
「模造石だって言われたけど、俺には宝石なんて区別できねぇ。だから、大人の女が持つような凄ぇもん寄越しやがってと……、なんて言えばいいんだ……、ファンルゥにはまだ早いっつうか。けど、ファンルゥの奴が凄ぇ喜んで……、俺は、〈蝿〉と……ファンルゥに、むかつきました」
最後のほうは、低く押し殺した声だった。背後の気配が揺れたので、そっとファンルゥの耳をふさいだのだと分かった。娘には聞かせたくなかったのだろう。
「〈蝿〉は、このくらいの歳の子は小さな淑女だと。そんなことも知らないのかと、俺を鼻で嗤いました。――俺は、凄ぇ悔しくて。けど、本当に〈蝿〉の言う通りで……。……でも」
ためらいながら、タオロンは言を継ぐ。
「〈蝿〉との……そのぅ、片がついて、落ち着いた今だからこそ、俺もこんなことを言えるんだと思いますが、あのときの〈蝿〉の態度は、〈蝿〉の自負っつうか……、苦労して娘を育てたから分かるんだという、誇りみたいなもんだったんじゃねぇかと思うんです」
そしてタオロンは、太い声に照れるような色合いを混ぜながら、はっきりと告げる。
「〈蝿〉は、本当に凄ぇ愛情を込めて、あなたを育てたんです」
「――!?」
思ってもみなかった言葉に、ミンウェイは息を呑んだ。
その反応を、タオロンがどう捉えたのかは分からない。ただ、がりがりと頭を掻く音が聞こえる。
「思えば〈蝿〉は、ファンルゥには優しかった気がするんです。――立派な部屋を与えて、おとなしくさせる必要はなかった。人質なんだから、騒ごうが暴れようが、鎖で繋ぐんだってよかった。俺には絶対に手出しができねぇ怪しい技術を使うとか、あの硝子ケースに閉じ込めるとか、なんだってできたんだ……」
「……」
「あの腕輪だって、ただの腕輪だった。俺のことを脅して、そのために、俺はリュイセンを斬ったっていうのに……。ファンルゥに対しては『音が出る腕輪』と説明して、怖がらせないようにして……それも、全部、嘘。本当になんの仕掛けもない、ただの腕輪だった。馬鹿な俺は、すっかり騙されちまったけどよぉ」
「…………」
「ファンルゥは、〈蝿〉のことを『悪い奴』だと嫌っていた。けど、驚いたことに、ちっとも怖がっちゃぁいなかったんだ。俺はてっきり、ファンルゥが餓鬼だから状況が分かっていねぇんだと信じていた。でも、違った。――〈蝿〉は、一度だってファンルゥに危害を加えたことはねぇんです。……それは、ファンルゥに、あなたを重ねて見ていたからだと……俺は思うんです」
「………………」
「俺みたいな奴が説教臭く、すんません。……でもこれは、俺にしか言えねぇから。……その……、……あぁ、うまく言えねぇ……」
あとには、もごもごと言葉にならない声が続き、タオロンが困りきっているのが分かった。
ミンウェイは――……。
本棚の前に座り込んだまま、瞬きひとつできなかった。
絵本の背表紙がにじむ。
膝の上に、ぽたりと涙の粒が落ちた。
「すんません。俺たちは、これで失礼します。……あなたは、この部屋をしばらく見てやってください」
ミンウェイの肩が小刻みに震えていることに気づいたのだろう。タオロンは焦ったようにそう言って、部屋を出ようとした。
そのときだった。
「お姉ちゃん!」
タオロンの腕から、ぴょこんと飛び出したファンルゥが、ミンウェイのもとへとやってきた。
ミンウェイは慌てて目元を拭い、「なぁに?」と答える。
「この腕輪、お姉ちゃんに返す!」
模造石をきらきらと輝かせながら、ファンルゥが腕から腕輪を抜き取った。
「――お姫様の……腕輪……!」
ミンウェイは、思わず目を見開く。
それは、子供のころの宝物と、そっくりだった。
「この腕輪、やっぱりお姉ちゃんのだったんだね!」
「え……?」
そんなことはない。その腕輪は、〈蝿〉がファンルゥのために用意したものだ。
ミンウェイの腕輪なら、昔、住んでいた家のどこかに、今も大切にしまってあるはずだ。ついこの間、ミンウェイがクローンである証拠を求めて生前の父の研究室を調べにいった、あの家のどこかに。
ルイフォンが思い出を持ち帰ることを勧めてくれたのに、『お別れ』をしに来たのだと突っぱねてしまったから、二度と手にすることはないのだけれど――。
「ファンルゥね、パパから『ご褒美』の腕輪を貰ったの!」
ファンルゥは模造石の腕輪をミンウェイに押しつけ、自分のポケットをごそごそとさせた。そして、紫水晶でできた腕輪をはめる。小さな女の子が身に着けるにしては、だいぶ大人びた色合いであったが、細身のデザインが細い手首に意外によく似合っていた。
「これはね、メイシアの『作戦』で、パパがルイフォンに会うために、お出掛けしたときに買ってきてくれたの。ファンルゥの宝物!」
タオロンが、ファンルゥには『ご褒美』をやるべきだと主張して、〈蝿〉から外出許可をもぎ取った、あの一件である。
『ペンダントとか、ブローチを買う』と言って出掛けたくせに、タオロンは、〈蝿〉の腕輪に対抗して『腕輪』を買ってきたのだ。紫色は『空に浮かぶ、紫の風船』の絵から、ファンルゥの好きな色だと考えたのだろう。
「ファンルゥは、ファンルゥのパパの腕輪を着けるから、お姉ちゃんは、お姉ちゃんのパパの腕輪を着けて!」
満面の笑顔で、ファンルゥは言う。
今までは『〈蝿〉の腕輪』を着けていなければならなかったのが、やっと『パパの腕輪』に替えられる。それが、嬉しくてたまらないらしい。
……ミンウェイに、断ることはできなかった。
「ファンルゥちゃん、ありがとう……」
そう言って、ミンウェイは、きらきらのお姫様の腕輪をはめる。
何十年ぶりかの輝きは、幼いころとは違って、どこか色あせて見えた。模造石は、本物ではないことを知ってしまったからかもしれない。
懐かしさに目を細めると、目尻から、すっと涙が流れ落ちた。
タオロンとファンルゥの父娘は、ミンウェイを残して部屋を出ていった。
そして――。
「お疲れさん」
妙に甲高く、耳に障る声が響いた。
振り返らなくても分かる。この庭園を出るための準備をしているはずのシュアンである。
何故、彼がここにいるのか。
ミンウェイは、別に疑問に思わなかった。さっきから気配を感じていたし、いつも、ふらりと現れる人だから、今もそうなのだろうと納得していた。
シュアンは遠慮なくミンウェイに近づいてきて、けれど、そばまでは来ない。中途半端なところで立ち止まり、そこでどっかりと腰を下ろした。
「斑目タオロンは、あんたと〈蝿〉の正確な間柄を知らないんだろう?」
「え? ……ええ、そうだと思います」
単に『父娘』だと、ルイフォンは説明したはずだ。クローン云々なんてことは、わざわざ言う必要はないだろう、と。
シュアンは何故、そんなことを訊くのだろう?
ミンウェイは、わずかに警戒する。泣いていた形跡を手の甲でこすり取ると、視界の端で、きらきらと模造石が輝いた。
「あいつの善意は、あんたには、ちっときつかったな」
「……?」
「斑目タオロンさ。ああ、娘のほうも、父親そっくりだったな。――あんたを慰めよう、励まそうと必死で。凶賊のくせに、愚かしいほどにいい奴で」
そこで急に、シュアンの声が、怖気の走るような、どすの利いたものとなる。
「――そんでもって、あんたの傷をえぐりまくっていた」
「緋扇さん!?」
気遣ってくれた父娘への、あんまりな言葉。
ミンウェイは、涙の跡が残る顔にも関わらず、反射的に振り返る。
「よぉ、やっと、こっちを向いてくれたな」
軽薄な口調で、シュアンが、ぼさぼさ頭を揺らした。くつろいだ様子で床に胡座をかいている姿は、ミンウェイが想像していた通りだ。
しかし、彼を特徴づける三白眼が、切なげに細められていた。まるで泣き出す直前のような顔に見える。シュアンに限って泣き顔など、あろうはずもないが。
「緋扇さん! 今の発言は、あまりにも失礼ではありませんか!?」
眦を吊り上げ、ミンウェイは叫んだ。シュアンの表情は、きっと気のせいだと思いながら。
「ただの事実だろう?」
「『事実』って? 何が『事実』だと言うんですか!」
「事情を知らないタオロンの奴は、『〈蝿〉は、娘に愛情を注いでいた』と伝えれば、あんたも〈蝿〉も報われると信じていた。あんたを喜ばせようと、義務感すら持って語っていた」
「……」
「タオロンは、いい奴だ。〈蝿〉の野郎も、天国だか地獄だかで、タオロンに感謝していることだろう。――だがな。あんたは違う」
「っ!?」
鋭く突き刺さるような三白眼に、ミンウェイは短く息を呑む。
「あんたの欲しかった愛は、『娘』としてじゃねぇんだ」
「緋扇……さん?」
「なのに、『娘として愛されていた』と繰り返し言われて、……あんたが辛くないわけがないだろう!?」
その瞬間、ミンウェイの中で、何かが崩れ落ちた。
目の前の景色が歪み、何もかもが溶けていく。
「あんたはお人好しだから、あの父娘の善意を受け止めなきゃと思ったはずだ。気遣われているんだから。優しくしてもらっているんだから、ってな」
開け放された窓から、草原を渡る風の音が聞こえる。
ざわざわという風音は、まるで緑の海原の波音。それが、シュアンの声と混じり合い、ミンウェイへと押し寄せる。
「あんたは、よく頑張った」
包み込むような言葉が、ミンウェイの心に打ち寄せる。
「〈蝿〉の野郎の最期の瞬間も、本当は奴にすがりつきたかったんだろう?」
「でも、『彼女』がいたから遠慮した」
「あんたは、よく耐えた」
「もう、いいんだ。我慢することはねぇぞ」