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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
6.波音の子守唄-3
 窓の外から、草原を抜ける風音が聞こえる。

 ざわざわと不規則なようでいながら、どこか一定のリズムを感じるそれは、まるで寄せては返す波のよう。

 緑の海原のさざめきは、父と母の眠る、あの海を臨む小さな丘を思い起こさせる。

 仲良く寄り添う、『両親』の墓標を。

 そして、固く抱きしめあったままむくろとなった『彼』と『彼女』の姿を――。

 ミンウェイは、まぶたの裏に浮かび上がった光景を打ち消すように、目元をこすり上げた。

「私っ……」

 震える唇から漏れ出したのは、しゃくりあげるような声だった。

「やっと……、やっと……、お父様に手が届いたと……思ったの……」

 視線を落とし、ミンウェイは自分の掌を見つめる。

「でも……」

 かすれた呟きと共に、ひと雫の涙が落ちた。

 やっと掴んだと思ったものは、砂粒のように指の隙間からこぼれ、足元に押し寄せてきた引き潮に連れ去られていってしまった。

 掌の中に残ったのは、自分自身の涙だけ。

「私……、お父様とは……、『彼』とは……、これでお別れなんだって――亡くなってしまうんだって……、納得していた! 疲れ切ってしまった『彼』が、『最高の終幕フィナーレ』を迎えるのだと笑うから、私も笑って見送る覚悟はっ……、ちゃんとできていたわ!」

 自分が泣いているのか、怒っているのか、ミンウェイには分からなかった。

 ただ、胸に溜まった想いが苦しくてたまらないから、吐き出している。もう我慢することはないのだと、波の音が誘ってくれたから。

「だから、最後に、お父様に伝えたかった……! ずっと言えなかったことを。――言ってはいけないのか、言いたくないのか、ずっと分からなかったことを……!」

 ミンウェイは、ぐいと顔を上げた。

 長い黒髪が、緩やかに波打つ。草の香りが、ふわりと広がる。オリジナルの『母親』とも、硝子ケースの『彼女』とも違う、彼女だけの姿で、彼女だけの心を響かせる。

「『愛している』――って……」

 訴えるような叫びを、シュアンは、先ほどから変わらぬ切なげな三白眼のまま、驚くほど自然に受け止めてくれた。あたかも、彼女のその言葉を待っていたかのように。

「ああ、そうだな」

 決して綺麗ではない、むしろ濁声だみごえというべき声が、静かに落とされる。

「『彼』の最期の瞬間には、『愛している』と、あんたが言うつもりだった。いきなり出てきた『彼女』なんかじゃなくて、あんたの腕の中で『彼』は逝くはずだった」

 彼はそこで言葉を切り、一段、低い声で告げる。

「他の奴らは、良い臨終だと感じていたようだったが、あんただけは違った。『彼』は、あんたのものになるはずだったのに、そうならなかった。あんたにしてみれば、最後の最後で裏切られたも同然だった」

「――!」

 ミンウェイが口に出せずにいた、どす黒い想いを、シュアンが代わりに言霊ことだまにした。

 醜い部分をあばかれた。なのに、心が、ふっと軽くなる。まるで呪縛から解き放たれたかのように。

 だから、なのだろう。

 綺麗な想いの裏側に沈み込ませ、存在そのものをなかったことにしたはずのきたならしいおりが、ミンウェイの内部から急速に浮かび上がってきた。

 今なら、この想いを外に出してもいいのだろう、と。

 すべてを口にしても、シュアンなら、どこかに流してくれるから……。

「『彼』……、最後に、私に向かって『幸せにおなり』って言ったの。――それって、どういう意味だか分かる!?」

 切れ長の瞳をきっ、ととがらせ、ミンウェイは、シュアンに噛み付くように言い放った。いつもの敬語など、すっかり吹き飛んでいる。

「『自分では、私のことを幸せにするつもりはない』ってことよ!? 私に『ひとりで勝手に幸せになれ』ってことよ! 無責任だと思わない!?」

 こんなの子供の屁理屈だ。『ファンルゥのパパ』であるタオロンが言っていた、『娘の理不尽な癇癪』だ。大人のミンウェイが言うべきことではない。

 けれど。

 せきを切った想いは止まらない。

「『彼』だけじゃないの! オリジナルのお父様も同じだったの! お父様が最期に、なんて言ったのか、あのときは私、聞き取れなかった。――でも、さっき分かっちゃったのよ! だって、『彼』と同じ顔だったんだもの!」

 エルファンの刃を受け、地に倒れたオリジナルの父は、泣き叫ぶミンウェイを見上げ、とても満足そうな、幸せそうな顔をしていた。――『彼』と、そっくりな笑みだった。

 だから、理解してしまった。

『幸せにおなり、私の娘……』

 そう祈って、逝ったのだ。『父』も――。

「酷いじゃない、ふたりとも!」

 ミンウェイは柳眉を逆立てる。

「私を置き去りにして、自分たちだけ満足して、幸せになって、勝手に死んじゃうの! ほんと、まったく同じ!」

 吐き捨てても吐き捨てても、怒りのような感情がこみ上げる。

「だって、クローンだもの! そっくりで当然だわ! ――でも、それなら私は『お母様』のクローンよ……!」

 一気にまくし立て、酸素が足りなくて息を吸う。

 その際、何故だか、ひくっと嗚咽のような音がこぼれた。

「……それならっ……、私を選んでくれたって……よかったじゃない……! ずっと、私をお母様の身代わりにしていたんだから……!」

 いつの間にか『彼』と『お父様』が、ごちゃまぜになっている。もう支離滅裂で、滅茶苦茶だ。

 激しく叫んだことでミンウェイの肌は上気し、息が荒くなっていた。なのに体の芯は――心は、てつくように寒かった。彼女は自分自身を抱きしめ、うずくまる。

 彼女が黙り込むと、窓から入る潮騒のような風音が、より一層はっきりと聞こえてきた。

 ざわざわと。

 時折、荒ぶる波濤のごとく、ごうごうと。

「ミンウェイ」

 殻に閉じこもるように身を縮こめた彼女の名を、シュアンが呼んだ。

 少し離れたところで、胡座をかいていた彼は立ち上がり、彼女へと近づく。ゆっくりと、彼女が嫌がるようであれば、そこで自然に止まれるような速度で。

 ミンウェイは微動だにしなかった。だからシュアンは、彼女の隣に腰を下ろした。

 すぐそばに、シュアンの体温。寒さに震えるミンウェイの心が、ほんのり温まる。

 けれど彼は、決して自分からは、彼女に触れない。

 初対面のときは、べたべたと抱きついてきたくせに、あれは鷹刀一族と縁を結ぶための作戦に過ぎなかったとばかりに、まるで忘れたかのような態度を取る。いつだって、彼女の隣に座ろうとするくせに、必ず、ほんの少しだけ距離を置く。

 彼は、気づいているのだ。彼女が自分より『強くて、大きなもの』を無意識に怖がり、身構えることを。

 だから、彼の気遣いは有難い……はずだ。少なくとも、いつもはそうだ。なのに今は、素っ気なくて寂しいと感じる。

「ミンウェイ」

 再び――、今度は、至近距離で掛けられた声に、彼女は顔を上げた。

「あんたの今の状況を、分かりやすい言葉で教えてやるよ」

 シュアンの口調は軽薄で、すがめた三白眼は威圧的で。なのに、彼のまとう空気は、どこか優しい。

「『失恋』だ」

「なっ……!?」

 前言撤回。シュアンは無礼で失礼だ。

 ミンウェイは、ぎろりとシュアンを睨みつける。しかし、そんなことで動じるシュアンではない。変わらぬ調子で、彼は言葉を重ねる。

「オリジナルも『彼』も、最後には、あんたは誰の代わりでもなく『あんた』なんだと、きちんと認識した。その上で、オリジナルは死んだ妻のもとへ逝き、『彼』は『彼女』の手を取った。――それはつまり、あんたは振られた、ってことだろう?」

「……っ」

「想いが届かないのは、誰だって辛いさ。失恋した奴が、くだを巻いて荒れるのは当然だ。どうしようもないのさ。簡単に割り切れるもんでもねぇんだからよ」

 シュアンの口の端が緩やかに上がる。微笑んだのだと……思う。相変わらずの悪人面では、今ひとつ分かりにくいのだけれど。

「あんたは、いい女だ。愛した奴が幸せなら、それでいいんだと、必死に認めようと足掻あがいている。自分は、苦しくてたまらないのにさ」

「……そんなこと、ない……。私さっき、酷いことを言っていたわ……」

 ミンウェイの反論を、シュアンは鼻で笑い飛ばす。

「酷いのは、奴らのほうだろう? 『幸せになれ』なんて、振った側の常套句であんたを苦しめてさ。あんたの言う通り、無責任なだけだ」

「『常套句』ですって? 違うわ!」

 嘲笑あざわらうシュアンに、ミンウェイは、思わず『彼』と『お父様』を弁護するような台詞を口走る。

「ふたりとも、ちゃんと私のことを思って、幸せになってほしい、って――!」

 そのとき。

 不意に、ミンウェイの脳裏を幼い男の子の姿がよぎった。



『俺が貴族シャトーアをやめて商人になれば、ミンウェイは俺と結婚できるね!』

『待っていて、必ず迎えに行く。誓うよ!』

『約束するよ!』



「――――!」



 絹を裂くような悲鳴が響き渡った。

「ミンウェイ!?」

 揶揄するような顔つきだったシュアンが、血相を変えて叫ぶ。

「忘れていたわ……! ……忘れていたなんて、私……、どうかしている……」

 真っ青な顔で、彼女は呟く。

「私は、幸せになったら駄目なの! だって私は、白詰草しろつめくさの四つ葉に――!」



 遠い遠い、幼き日。ミンウェイはひとりの男の子と出会った。

 彼は彼女に、四つ葉のクローバーを贈った。

 花言葉の通り、彼は彼女の『幸運』を願い、『私のものになって』という愛の告白をし、一方的に将来を『約束』してくれた。

 四つ葉のクローバーに載せられた彼の想いは、ことごとく叶わなかった。

 ミンウェイが彼に毒を盛り、彼を殺したからだ。

 それが、父に命じられた仕事だった。

 裏切られた花言葉たちは、最後の花言葉に意味を変える。

 そう……。

 ――『復讐』に。



 ミンウェイは何かに取り憑かれたように立ち上がり、本棚に向かう。

 あのとき、彼に貰った四つ葉は、押し花にして栞にした。そして、姫と王子が出てくる、大好きだった絵本に挟んで封印した。

 ずらりと並べられた絵本の中から、彼女は迷わず、あの一冊を抜き取る。

 ぱらぱらとページを繰った。あのシーンを求めて。 

 王子がうやうやしく片膝を付き、姫に向かって求婚するクライマックス。

 憧れのあの場面。固く封印した、あの光景。

 ぱらり、と。

 あのページを開く。



 四つ葉は……出てこなかった。



「あ……、当たり前じゃない……。……だって、この絵本は、ファンルゥちゃんの……」

 嗤いがこみ上げる。

 愚かな自分が、可笑おかしくてたまらない。

 あの四つ葉は、古い家にあるミンウェイの絵本の中だ。

 天を仰ぐように白い喉を晒し、波打つ黒髪をわななかせながら、狂ったように彼女は嗤う。

『失恋』――確かにそうかもしれない。

 けれど、そもそも、彼女には誰かを愛する資格などなかったのだ。彼女は『幸運』を殺し、『復讐』の罪を背負ったのだから。

 強い風が窓から吹き込み、彼女の髪を巻き上げた。波に呑まれるように身を任せ、このまま、何もかもを手放したいと願う……。

 嗤い声がかすれ、涙も枯れ果てた。抜け殻のようになって、彼女はうなだれる。

 背後に、シュアンの気配を感じた。

 彼はまた、寄り添うように隣に座るのだろう。――彼女に触れることなく。

 そう思った瞬間、ミンウェイの体は、後ろから、ぐいとシュアンの胸元に引き寄せられた。まるで波間に漂う彼女を引き上げるかのように。

「悪かった。あんたは、いろいろ厄介なもんを抱えていたんだった」

 溜め息混じりの後悔が、耳元で囁かれる。

 銃を握る、グリップだこで変形した手が目の前で固く組まれ、ミンウェイを抱きすくめていた。重心を失った彼女はされるがまま、彼に身を委ねるように倒れ込む。

 中肉中背のシュアンは、ミンウェイの周りにいる凶賊ダリジィンたちと比べて、さして体格がよいとはいえない。けれど警察隊で鍛えた体は硬く引き締まり、彼の腕を振りほどくのは無理だと思う。

 ……振りほどく気は、ないけれど。彼に触れている背中が温かくて、心地良いから。

「初めて殺した相手のことを思い出したんだな? 四つ葉のクローバーの子供ガキをさ」

「緋扇さん? どうして、彼のことを……?」

「あんたが話してくれただろう?」

「え?」

 不思議そうに返したミンウェイに、シュアンは「覚えてないのか?」と、困惑の声を上げた。

「ルイフォンに、あんたは『母親』のクローンだろうと言われた夜だ。あんたが引き籠もるときに使う温室で、俺は一晩中、あんたの話を聞いていた」

 ミンウェイは反射的に、むっと眉を寄せた。『引き籠もるときに使う温室』とは、随分と失礼な言い方だと思ったのだ。言葉のはしを捉えて、目くじらを立てている場合ではないのに、シュアンが相手だと、何故だか、そんな気持ちがもたげてしまう。

「あのときも、あんたは『自分は、幸せになってはいけない』と訴えていた。俺は、それを聞いていたのに迂闊だった。……悪かった」

「緋扇……さん……?」

 しばらくの間、シュアンは動かなかった。

 だから、ミンウェイも、そのままでいた。

 やがて、彼の口から、ひと呼吸だけ、逡巡の息が漏れる。

 何を迷っているのか、ミンウェイは問おうとした。だが、彼女が疑問を口にするよりも先に、シュアンのぼさぼさ頭が彼女の髪にうずめられる。

「!?」

 次の瞬間、彼は、ぐっと脇を締め、両腕できつく彼女を抱きしめた。

 そのときになって初めて、ミンウェイは気づく。シュアンの腕は、緩く彼女を覆っていただけ。彼女が抜け出そうと思えば、いつでもそれは可能だったのだ。

 けれど今、彼は、彼女の逃げ道を完全にふさいだ。

 抗うことのできない力で押さえ込み、彼女の耳朶に凄みのある声を落とす。

「ミンウェイ。過去の出来ごとは不可逆だ。決して、なかったことにはならない」

「!」

子供ガキだったあんたは、『父親』のために手を汚してきた。法的なことをいえば、判断力のない子供ガキのしたことだと、あんたは罪に問われないかもしれない。――だが、そういう問題じゃねぇんだと、あんたは思っているだろうし、俺も分かっている」

 頬へと流れてきた吐息は、火傷するように熱く、そして、冷たい。

 ミンウェイは、思わず身をよじろうとしたが、シュアンの腕はそれを許さなかった。



「あんたには、あんたの事情があった」



「あんたは、もう充分に苦しんだ」



「殺された子供ガキは、あんたを恨むような奴じゃなかった」



「何より、あんたを愛していた」



「あんたの幸せを願っているはずだ」 



 次々に打ち寄せられる、言葉の波。

 優しい意味合いは、しかし、シュアンは逆のことを思っているのだと、はっきり伝わる険しい口調で叩きつけられる。

 そして、案の定――。



「そんな安っぽい慰めを、俺は言わねぇ。――嘘だからな」



 怒気すら感じられる、濁った声。

 ミンウェイは小さく悲鳴を漏らしかけるが、それすらもシュアンは認めない。彼女を遮り、畳み掛けた。

「死んだ奴は、何も認識できない。それが現実だ」

 凛冽とした言葉に、彼女の身が震える。

「その子供ガキは、あんたに毒を盛られたことを知らないから、あんたを恨んだことはないだろう。それどころか、あんたとの約束を守れずに死んでいくことを、あんたに詫び続けたに違いない。――だが、そんな想いも、子供ガキが死んだ瞬間に消える。『死』とは、そういうものだからだ」

 諭すように、彼が告げる。

「現在のあんたが幸せでも、不幸でも、死んだ子供ガキには伝わらねぇんだよ」

 淡々と、静かに。シュアンは摂理を説きつける。

「そんな当たり前のことを理解しないで、『自分は、幸せになってはいけない』と、信じ込むことは、『あんたは、その子供ガキを殺したという事実から逃げている』ってことだ」

 彼に、容赦などない。

「何故なら、裏を返せば『自分が幸せにならなければ、あの子供ガキに許してもらえる』という甘えた意味になるからだ」

 ミンウェイは、はっと口元を押さえた。

「違うだろう? あんたが幸せになっても、ならなくても、罪は罪だ。そのことに変わりはない」

 シュアンは投げかける。



「ならば、あんたのすべきことは、本当に『あんたが幸せにならないこと』なのか?」



「――!」

 問いかけの形で示された彼の真理は、実に正鵠を射ていた。

「――だって、だって……」

 ミンウェイは無意識のうちに、シュアンの腕にしがみつく。この腕を離したら駄目だと、すがるように。

「じゃあ、私はどうすればいいのよ!?」

「さあな、俺には分からん」

「そんなっ!」

 無責任だと言わんばかりに責める口調は、ミンウェイが発する筋合いではないはずだ。だが、シュアンが彼女を咎めることはなかった。

「俺の手も、他人の血で染まっている。俺はろくな死に方をしねぇんだろうなと、常に思っている」

「緋扇さんは、私とは違うわ。あなたは警察隊の仕事で!」

「変わらねぇさ。むしろ、俺のほうが非道ひどい。――俺の人生は、凶賊ダリジィンの抗争に巻き込まれて家族を失ったところから、ねじ曲がった。それだけの理由で、俺は好んで凶賊ダリジィンを血祭りにあげてきたことを否定しない。俺の憂さ晴らしの、とばっちりで死んだ奴もいたはずだ」

「……」

「先輩と殴り合ってたもとを分かったときも、先輩のほうが正しいと理解していながら、俺は立ち止まれなかった。俺は『狂犬』と呼ばれるほどに、荒れまくっていた」

 語られる過去とは裏腹に、シュアンの声は、凪いだ海のように落ち着いていた。それがかえって、かつて起きた嵐の大きさを感じさせた。

 彼から伝わる思いが切なくて、ミンウェイは惹き寄せられるように彼の手に触れた。グリップだこで変形した皮膚は、想像していた以上に固くて、温かかった。

 不意に、シュアンが動いた。

 断りもなく彼に触れたことを、不快に思ったのだろうか。

 恐れるミンウェイの耳元に、彼の柔らかな息が落ち、彼女の髪が波打つ。

「――でも……、俺は最近、ようやく自分の進むべき道を見つけた気がする。俺がすべきことをすための、まっとうな道筋をな」

 それは、とてもシュアンとは思えぬ、穏やかな声だった。

 彼は今、どんな顔をしているのだろう。

 確かめたくて、ミンウェイが後ろを振り向こうとすると、抱きすくめられていた腕が、すっとほどかれた。

 彼の体温が、遠のく。

 瞬間的に訪れる、不安と寂しさ。

 胸に小さな痛みを感じながら身を返すと、少し照れたような、けれど誇らしげなシュアンの微笑が目に飛び込んできた。悪相であることに間違いはないのに、臆することなき力強さに魅せられる……。

 ミンウェイは悟った。



 彼は、不可逆の流れと向き合うことができたのだ。



 ふと気づけば、頬をひと筋の涙が伝っていた。

「私にも……、あなたのように言える日が来るでしょうか?」

 彼に近づきたいと思った。だから、焦がれるように、言葉が口をいて出た。ミンウェイの視線がさまよい、指先が求める。

 シュアンの三白眼が、わずかに惑う。けれども彼の手は、彼女をそっと抱き寄せた。

「さてな。だいたい俺自身、まだまだどうなるか分からねぇんだからよ」

 彼の胸から響く、力強い鼓動。温かな血流が彼女を包み込む。

 体温には人を癒やす力がある。触れ合い、熱を繋げることで、どこまでが自己われで、どこからが他者かれであるかの境界線を不明瞭にする。

 彼のように、強くなれるだろうか。

 波音にいだかれるように、たゆたうように。彼の腕の中でミンウェイは思う。

 その心の声が伝わったのだろうか。シュアンが耳元で囁いた。

「焦ることはねぇさ。……未来これからも長く、あんたは生きるんだから」

 シュアンの言葉と、窓からの風音が重なり合う。

 緑の海原を流れる風は、まるで潮騒。

 まぶたの裏側に、両親の墓標をいだく、あの海を臨む丘が見える。

 ――彼岸に渡った彼らに、別れを告げよう。

 今までの想いは、潮騒の鎮魂歌に乗せて。

 そして。

 まっさらな砂浜から、未来これからの一歩を踏み出すのだ。





~ 第九章 了 ~

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