残酷な描写あり
4.絹糸の織りゆく道-4
タオロンの運転する車は、漆黒の闇を滑るように走り抜け、草薙家へと到着した。
洒落た門扉の前で、ハオリュウ、クーティエ、ユイランの三人が降り、タオロンは裏手にある車庫へと、そのまま運転していく。
「ハオリュウさんが着いたことを、皆に知らせてくるわね。ハオリュウさんは、クーティエと一緒に、ゆっくり登ってきてくださいね」
門を開けるやいないや、にこやかにユイランが告げた。
草薙家のアプローチは、そこそこの距離の緩やかな勾配になっており、足の悪いハオリュウには少々、不親切な造りである。だから、ユイランは『ゆっくり』と言った――のではないことは、クーティエには分かっていた。
幾つになっても乙女心を忘れない祖母は、『ふたりきりの夜道なんて、素敵でしょう?』と、変な気を回してくれたのだ。
クーティエの顔が、ぼっと赤らみ、いやいや、今は浮かれている場合ではないのだと、慌てて首を振る。その間に、心身ともに年齢よりも、ぐっと若い祖母は、足取り軽く去っていった。
嬉しいけれど、複雑な思いで、クーティエは後ろを振り返る。
「ハ、ハオリュウ。暗いから、気をつけてね」
……声が上ずった。
今晩は雲が多く、月も星も隠されている。庭の外灯には、たいした光度はなく、だから足元が悪い。だが、代わりにクーティエの顔の紅潮は、ハオリュウにばれていないだろう。
そんなことを考えていると、彼が瞳を瞬かせて尋ねてきた。
「道が光っている。……これは、いったい?」
ハオリュウが指差したのは、アプローチの両端の縁石だ。ひとつひとつの石が、電灯とは明らかに異なる、淡く幻想的な光を灯しており、それが連なって光の筋を作り出している。――左右の縁が光ることによって、暗がりの中でも、家へと誘う道がはっきりと示されていた。
「あ、そうか! ハオリュウは、初めて見るのよね?」
草薙家のアプローチは、小洒落た仕掛けになっているのだ。
「あのね。このアプローチは、昼間は全部、同じような白い石が敷き詰められているように見えるんだけど、本当は縁石だけ、特別な人造石なの。その石が、明るい間は光を蓄えて、暗くなると光りだすのよ」
「へぇ……、凄いね」
「うん。父上の趣味なんだって、母上が言っていた」
その瞬間、ハオリュウが小さく息を呑んだ。
そして、低く呟く。
「レイウェンさん……。……闇に囚われた人に、道を示す――か」
「ハオリュウ?」
「レイウェンさんには、すべてお見通しだったのかもしれないな。……だから、僕のところにクーティエを送り出してくれたんだ」
溜め息のように漏らし、ハオリュウは苦笑した。
涼風が彼の前髪を巻き上げ、わずかな外灯の光でも、彼の顔を明るく照らした。
「クーティエ……、弱音を吐いてもいいかな?」
「えっ!?」
見栄っ張りで、意地っ張りなハオリュウの口から、『弱音』などという信じられない単語が溢れ落ちた。クーティエは腰を抜かしそうになりながらも、神妙な顔で、おそるおそる頷く。
「僕は、レイウェンさんに『決闘を申し込む資格すらない』と言われているんだ」
「ど、どういうこと? なんで、ハオリュウが父上と決闘するの!?」
「『顔を洗って、出直してこい』とまで言われている」
ハオリュウはクーティエの質問には答えずに、一方的に言葉を重ねた。どうやら、説明する気はないらしい。
「僕は、レイウェンさんに認められたい」
「はぁ? いったい、どうしたのよ……?」
次から次へと突拍子もない言葉が飛び出してきて、その意味不明さに、クーティエは焦れったいような戸惑いを覚える。
ハオリュウは、そんな彼女に目を細め、それから視線を庭に移した。鮮やかな緑の木々は夜闇に溶け込み、ざわざわという葉擦れの音だけが聞こえている。
「風が……気持ちいいね」
「え?」
「僕は、自由な風に焦がれているんだと――今日、思い知らされたよ」
ざわめきを抱きしめるように両手を広げ、ハオリュウは異母姉によく似た黒絹の髪をなびかせる。不可思議な微笑を浮かべた彼に、クーティエはどきりとした。
彼の語る言葉は謎めいていて、彼女には脈絡なく聞こえる。けれど、吐露するような口調が切なくて、彼の懸命な叫びなのだと、なんとなく理解した。
すぐそばにいても、彼女の知らない貴族という世界に生きる彼は、決して触れることのできない遠い人だ。
彼は軽く目を瞑り、風を浴びる。絹の裾が翻り、流水文様をはためかせる。
彼女はただ、じっと彼の横顔を見守る……。
やがて、ハオリュウは静かに切り出した。
「女王陛下との婚約について、あなたに話しておきたいことがある」
「!」
クーティエの心臓が跳ね上がった。
彼女の顔は一瞬にして凍りつき、呼吸が止まる。耳朶を打つ木々のざわめきも、肌をそよぐ風の気配も、まるで感じられなくなった。
ハオリュウが振り返る。
正面から目が合うと、クーティエの鼓動は余計に早まった。しかし、次に彼が発した語句は、彼女の予想とは、まるで見当違いの方向からのものであった。
「実のところ、正式に結婚するまでの間に、破談になると思っている」
ハオリュウは真顔だった。
「は……?」
クーティエの頭は状況を理解できず、ただ呆けたように彼の顔を凝視する。優しげで、誠実そのもので、誰からも親しみをもって迎えられるような、柔和な面差しだった。
……だが、その大真面目な表情が、実は、裏では腹黒な策略を巡らせている顔であることを――彼女は知っている。
「だって、女王陛下は、この国の頂点に立つ女性だよ? そんな綺羅の化身のような方が、どうして僕みたいな平民丸出しの平々凡々とした容姿のくせに、小生意気で慇懃無礼な年下の男を夫にしなければならないんだ?」
「え……?」
ハオリュウの台詞は疑問の形で終わっていたが、クーティエは何も答えられなかった。皮肉の効きすぎた彼の語句に、思考が停止したのだ。
「たとえ平民だとしても、レイウェンさんのような人であれば、陛下の隣に並んでも見劣りすることはないと思う。でも、僕なんだよ?」
「へっ!? なんで、そこで父上が出てくるの!?」
いきなり話が飛躍した……ような気がする。わけが分からず、クーティエは素っ頓狂な声を張り上げる。
「クーティエの周りで一番、美しくて聡明な男性を挙げたつもりなんだけど? うーん、既婚者じゃ、ピンとこないか。……じゃあ、弟のリュイセンさんでもいいや」
ハオリュウは『自分よりも優れた者』として、レイウェンの名を挙げたのであるが、そこに密やかな対抗意識があることに、クーティエは勿論、気づいていない。純真な彼女は、大真面目に女王の隣に立つ叔父の姿を思い浮かべ、ぶんぶんと首を振った。
……あり得ない。外見はともかく、内面のほうが……。一国の女王の夫というには、叔父は、あまりにも……。
そんなクーティエの挙動を不思議そうに見つめつつ、ハオリュウは「ともかくさ」と続ける。
「僕が婚約者になったら、陛下はきっと僕などには目もくれず、『相思相愛の運命の相手』を探すべく、奔走なさることだろう。間違っても、僕なんかと結婚しないためにね」
人畜無害な善人面で、ハオリュウは無邪気に笑う。
優しげで、温厚そうな彼の笑顔を、クーティエは穴のあくほど見つめ……、ようやく合点がいった。
「……なるほど。……そういうことね」
彼は、女王に嫌われるつもりなのだ。
何をやらかす気なのかは不明だが、彼ならば立派に遣り遂げることだろう。――それを『立派』というべきかは、さておき。
「そもそも、僕との婚約期間は、陛下にとっては『真の相手』を見つけるための猶予期間だ。陛下には、なんとしてでも、ふさわしい相手を見つけていただくよ」
はっきりと告げたハオリュウに、クーティエは緊張から一気に脱力した。がくがくと膝が笑い出し、へたり込みそうになるのを必死に堪える。
彼が女王の婚約者を引き受けたと聞いても、平気なつもりだった。貴族なのだから当然だと、割り切ったはずだった。なのに本当は、自分がこんなにも脆かっただなんて、彼女は知らなかった……。
ざわめく葉擦れと共に、しなやかな彼の声が流れてくる。
「貴族の僕は、王族のカイウォル殿下には逆らえない。姉様は、父様の喪中を理由に先延ばしにするように言ったけれど、結局、断りきれなくなるような予感がしていた」
ハオリュウは風と戯れる。
すっと口角を上げ、夜闇の中に、きらりと絹の光沢を放つ。
「だから、僕は、婚約者を引き受けざるを得ない状況に追い込まれたときには、ありがたく、陛下を利用させていただくことにしようと――密かに、肚を決めていた」
「は? ちょっ、ちょっと、ハオリュウ! 女王陛下を『利用する』って!?」
「単に、恩を売るだけだよ。僕なんかと結婚しないですむことに感謝の念を抱きたくなるような、お気持ちになっていただき、めでたく婚約破棄が成立した暁には、陛下に僕の後ろ盾になっていただくよう、交渉するだけだ」
「なっ!? なんですってぇ!」
爽やかに言い放ったハオリュウに、クーティエの甲高い声が突っ込む。
そのとき、彼女は、はっと思い出した。彼は以前にも、『女王を利用する』と言ったことがあるのだ。
それは、彼が初めて草薙家を訪れたときのこと。レイウェンの服飾会社が女王の婚礼衣装の製作を請け負えば、女王にあやかりたい人々に対して、よい宣伝になると話を持ちかけてきたのだ。
唖然とするあまり、声も出せずに口をぱくぱくとさせていると、「クーティエ」と、静かな声で呼ばれた。
「前にも言ったと思うけど、平民を母に持つ僕は、後ろ盾のない弱い当主だ。だから、摂政であるカイウォル殿下や女王陛下と親しくしておくことは、僕にとっては有益――むしろ、喉から手が出るくらい欲しい縁故なんだよ」
「……!」
どういう反応を返せばよいのか、クーティエには分からなかった。だから、ただ唇を噛んだ。子供っぽいかもしれないけれど、それしかできなかった。
「婚約者の件について、カイウォル殿下の話しか聞いていないから、女王陛下ご本人が、どう考えてらっしゃるのかは分からない。ついでに言えば、婚約が破棄された場合、殿下が本当に約束通り、僕に不利なことはないよう計らってくださるという保証もない。殿下を全面的に信用するのは危険だ」
「――うん」
「ただ、どう考えても、女王陛下は僕との結婚を望んでいないだろう。彼女に利益がなさすぎる。ならば、どうしても断りきれない場合には、潔く仮初めの婚約者を務めるのも策だと、大きく構えようと考えていた。利害の一致する陛下となら交渉が可能。陛下との縁は、僕に与えられた機会だ――とね」
「そう……だったんだ……」
闇を従えるように笑うハオリュウに、クーティエは相槌を打つ。でも、これは、ただの合いの手で、決して同意などではない。彼を取り巻く環境は理不尽で、どこか歪んでいる。……それが悔しくてたまらない。
「――なのにね」
握りしめた拳は、どこに振り下ろせばいいのか。惑うクーティエの思考を、ハオリュウの声が遮る。
「いざ、カイウォル殿下に承諾のお返事をしようとしたとき、僕の中に、殿下への激しい憎悪が生まれた。覚悟の上で殿下にお会いしたはずなのに、そんなことは、すっかり忘れていた」
カイウォルへの激情を示すかのように、ハオリュウは自分の胸元を鷲掴みにした。昏く澱んだ声色から、彼の心情の余波が押し寄せてきて、クーティエの肌が粟立つ。
しかし、そこで急に、彼の雰囲気が、がらりと変わった。
「そして、風に舞う、『森の妖精』の幻を見たよ」
「――!」
澄んだ響きに、クーティエは息を呑む。
ハオリュウは、彼女のことを何故か『森の妖精』と呼ぶ。歯の浮くような台詞を平然と口にするのは、さすが貴族だと思う。嬉しくないわけではないが、その都度、赤面することになり、こっちの身にもなってよ、と彼女は狼狽える。……いつもならば。
「そのときになって初めて、僕は自分が何を望んでいるのか、気づいた。――僕は『あなたのそばに居られる自由』が欲しいんだ」
喉が熱くなり、クーティエの瞳から涙が零れた。
自分がどうして泣いているのかなんて分からない。ただ、ハオリュウのせいであることは間違いない。――彼が、そばに居るからだ。
「王族の後ろ盾があれば、僕が誰を伴侶に選ぼうとも、誰も文句を言えなくなる。だから、ほんの数年、仮初めの婚約者として辛抱すれば、ちょうど適齢期になったあなたを迎えにいける。――そう目論んでいたのに、あなたのそばにいられない数年を考えたら、目の前が真っ暗になった」
ハオリュウは、自嘲めいた笑みを浮かべる。
「……なんてことを、いきなり言うのは卑怯だね。腹の底で勝手に未来を描きながら、僕は、ひとことだって、あなたに言葉を贈ったことはなかったんだから。約束できる立場ではないからと、自分に言い訳をしてさ。今更だ。ごめん」
「う……、ううん……」
クーティエは、嗚咽混じりの声で首を振る。
ハオリュウはいつだって、彼女の想いに真摯に向き合ってくれていた。
ただ、自分の想いを言霊にすることだけは、頑なに避けていた。それは、譲れないけじめなのだと。
無論、寂しくはあったけれど、見栄っ張りで意地っ張りで、確実と完璧を求める彼らしい態度だと諦観して、切なさを跳ねのけていた。――惚れた弱みだ。
「……僕が、動揺と困惑で心を乱している間に、カイウォル殿下は『ライシェン』の居場所を鷹刀一族から聞き出してくるようにと命じられた。そして、気づいたら、シュアンが人質として囚われていた」
怒気をはらんだ声で、彼は告げる。
「僕は、カイウォル殿下を許さない」
「ハオリュウ……」
彼が再び暴走してしまわないかと、クーティエは不安になった。だが、彼は、ふっと目元を和らげた。
「でも、おかげで、僕が為すべきことが見えたよ」
「え?」
ハオリュウは、遠くを見据えるように胸をそらした。
まるで彼に付き従うかのように、風が舞い上がる。涼やかに裾が広がり、淡い電灯の下、絹が織りなす光が弾けた。
「僕は、この国から身分というものをなくそうと思う」
ざわめく葉擦れを押さえ込み、力強い声が響く。
「王族なんかに頼らない。――頼る必要のない世界を作る」
闇に向かって宣告し、彼はクーティエを見つめる。
「それはきっと、シュアンがずっと言い続けている、世直しというものと同じだと思う。――僕は彼と運命を共にする。そして、あなたのそばに居られる自由を手に入れるよ」
上品な口の端がすっと上がり、闇を秘めた瞳が挑戦的に細まる。
柔らかに頬のほころんだ、優しげな面差しであるにも関わらず、ぞくりとする微笑だった。
「ハ、ハオリュウ!?」
とんでもないことを聞いた気がする。
――否。『聞いた気がする』のではなくて、現実として、とんでもないことを『聞いた』のだ。
「そ、それは、凄いけど、そうなったらいいと思うけど……。嬉しいんだけど、あまりにも壮大すぎて、現実味がないというか……。ああ、違う! そうじゃなくて!」
支離滅裂だ。
クーティエは、自分でも何を言っているのか分からない。だが、重要なことに気づいたのだ。
「それって、『革命』っていうんじゃないの!?」
口にした瞬間、全身から、さぁっと血の気が引いていくのを感じた。
万が一、誰かに聞かれていたら、不敬罪で捕まる……どころではない。問答無用で極刑だろう。
だのに、ハオリュウは、とても綺麗な顔で笑った。
「そうだね、革命だね。僕は、反逆者になるね」
軽やかに浮かれた声が、風に溶けるように流れる。
「ハオリュウ!」
「分かっているよ。それが、大それた罪だということくらい。……勿論、すぐには無理だ。おそらく、僕の一生を懸けて為し遂げるような計画になるだろう」
ハオリュウは凛と言い放ち、クーティエへと手を伸ばした。
「クーティエ。僕の手を取ってほしい」
「……っ」
声にならない息が、息にすらならない音が、口から溢れた。
――心が、震えた音だ。
本当に、とんでもない人を好きになってしまったものだと、クーティエは思う。けれど困ったことに、そんな彼から目が離せない。今まで以上に、惹かれてしまうのだ。
差し出された掌に、クーティエは迷うことなく掌を重ねる。すると、ハオリュウは、上流階級の令嬢に対するかのように、そっと彼女の手を包み込んだ。
決して触れてはならないと思っていた人の体温が、直接、伝わってくる。
想像よりも、ずっと大きくて硬い手にどきどきしていると、彼は思わぬことを口にした。
「姉様が、初めて草薙家を訪れた日。サンプルの花嫁衣装を着た姉様を、ルイフォンが抱き上げて階段から降りてきたと聞いた。その様子を、あなたが羨望の眼差しで見つめていたと、教えてもらった」
「えっ? そんなこともあったかな……? ――って、誰に教えてもらったのよ!?」
ただでさえ、心臓が暴れまわっていて大変なのに、更に、どきりとすることを言われ、クーティエは噛み付くように叫んだ。
しかし、彼は、ほんの少し視線をそらして誤魔化し、話を続ける。
「足の悪い僕は、あなたを抱きかかえて連れて行くことはできない。――だから、どうか、僕と手を繋いだまま、隣で一緒に歩いてほしい。そして、僕がまた、暴走しそうになったら止めてほしい。あなたがいれば、僕は大丈夫だ」
「!?」
ハオリュウの言葉は、喩えと現実が入り混じり、時々、難解になる。明言を避けようとする、貴族の習慣が染みついているからだろう。
クーティエは微苦笑を漏らした。そして、それは、やがて満面の笑顔となる。そんなところも含めて、ハオリュウだと。
「勿論よ!」
元気な彼女の声に、彼の口元もほころぶ。
「ありがとう」
「ううん。こちらこそ!」
頷き合い、どちらからともなく前を向いた。
「僕たちの革命のために。まずは、シュアンを取り戻す!」
ハオリュウが宣誓する。
ふたりは肩を寄り添わせ、光の道を歩き出した。
洒落た門扉の前で、ハオリュウ、クーティエ、ユイランの三人が降り、タオロンは裏手にある車庫へと、そのまま運転していく。
「ハオリュウさんが着いたことを、皆に知らせてくるわね。ハオリュウさんは、クーティエと一緒に、ゆっくり登ってきてくださいね」
門を開けるやいないや、にこやかにユイランが告げた。
草薙家のアプローチは、そこそこの距離の緩やかな勾配になっており、足の悪いハオリュウには少々、不親切な造りである。だから、ユイランは『ゆっくり』と言った――のではないことは、クーティエには分かっていた。
幾つになっても乙女心を忘れない祖母は、『ふたりきりの夜道なんて、素敵でしょう?』と、変な気を回してくれたのだ。
クーティエの顔が、ぼっと赤らみ、いやいや、今は浮かれている場合ではないのだと、慌てて首を振る。その間に、心身ともに年齢よりも、ぐっと若い祖母は、足取り軽く去っていった。
嬉しいけれど、複雑な思いで、クーティエは後ろを振り返る。
「ハ、ハオリュウ。暗いから、気をつけてね」
……声が上ずった。
今晩は雲が多く、月も星も隠されている。庭の外灯には、たいした光度はなく、だから足元が悪い。だが、代わりにクーティエの顔の紅潮は、ハオリュウにばれていないだろう。
そんなことを考えていると、彼が瞳を瞬かせて尋ねてきた。
「道が光っている。……これは、いったい?」
ハオリュウが指差したのは、アプローチの両端の縁石だ。ひとつひとつの石が、電灯とは明らかに異なる、淡く幻想的な光を灯しており、それが連なって光の筋を作り出している。――左右の縁が光ることによって、暗がりの中でも、家へと誘う道がはっきりと示されていた。
「あ、そうか! ハオリュウは、初めて見るのよね?」
草薙家のアプローチは、小洒落た仕掛けになっているのだ。
「あのね。このアプローチは、昼間は全部、同じような白い石が敷き詰められているように見えるんだけど、本当は縁石だけ、特別な人造石なの。その石が、明るい間は光を蓄えて、暗くなると光りだすのよ」
「へぇ……、凄いね」
「うん。父上の趣味なんだって、母上が言っていた」
その瞬間、ハオリュウが小さく息を呑んだ。
そして、低く呟く。
「レイウェンさん……。……闇に囚われた人に、道を示す――か」
「ハオリュウ?」
「レイウェンさんには、すべてお見通しだったのかもしれないな。……だから、僕のところにクーティエを送り出してくれたんだ」
溜め息のように漏らし、ハオリュウは苦笑した。
涼風が彼の前髪を巻き上げ、わずかな外灯の光でも、彼の顔を明るく照らした。
「クーティエ……、弱音を吐いてもいいかな?」
「えっ!?」
見栄っ張りで、意地っ張りなハオリュウの口から、『弱音』などという信じられない単語が溢れ落ちた。クーティエは腰を抜かしそうになりながらも、神妙な顔で、おそるおそる頷く。
「僕は、レイウェンさんに『決闘を申し込む資格すらない』と言われているんだ」
「ど、どういうこと? なんで、ハオリュウが父上と決闘するの!?」
「『顔を洗って、出直してこい』とまで言われている」
ハオリュウはクーティエの質問には答えずに、一方的に言葉を重ねた。どうやら、説明する気はないらしい。
「僕は、レイウェンさんに認められたい」
「はぁ? いったい、どうしたのよ……?」
次から次へと突拍子もない言葉が飛び出してきて、その意味不明さに、クーティエは焦れったいような戸惑いを覚える。
ハオリュウは、そんな彼女に目を細め、それから視線を庭に移した。鮮やかな緑の木々は夜闇に溶け込み、ざわざわという葉擦れの音だけが聞こえている。
「風が……気持ちいいね」
「え?」
「僕は、自由な風に焦がれているんだと――今日、思い知らされたよ」
ざわめきを抱きしめるように両手を広げ、ハオリュウは異母姉によく似た黒絹の髪をなびかせる。不可思議な微笑を浮かべた彼に、クーティエはどきりとした。
彼の語る言葉は謎めいていて、彼女には脈絡なく聞こえる。けれど、吐露するような口調が切なくて、彼の懸命な叫びなのだと、なんとなく理解した。
すぐそばにいても、彼女の知らない貴族という世界に生きる彼は、決して触れることのできない遠い人だ。
彼は軽く目を瞑り、風を浴びる。絹の裾が翻り、流水文様をはためかせる。
彼女はただ、じっと彼の横顔を見守る……。
やがて、ハオリュウは静かに切り出した。
「女王陛下との婚約について、あなたに話しておきたいことがある」
「!」
クーティエの心臓が跳ね上がった。
彼女の顔は一瞬にして凍りつき、呼吸が止まる。耳朶を打つ木々のざわめきも、肌をそよぐ風の気配も、まるで感じられなくなった。
ハオリュウが振り返る。
正面から目が合うと、クーティエの鼓動は余計に早まった。しかし、次に彼が発した語句は、彼女の予想とは、まるで見当違いの方向からのものであった。
「実のところ、正式に結婚するまでの間に、破談になると思っている」
ハオリュウは真顔だった。
「は……?」
クーティエの頭は状況を理解できず、ただ呆けたように彼の顔を凝視する。優しげで、誠実そのもので、誰からも親しみをもって迎えられるような、柔和な面差しだった。
……だが、その大真面目な表情が、実は、裏では腹黒な策略を巡らせている顔であることを――彼女は知っている。
「だって、女王陛下は、この国の頂点に立つ女性だよ? そんな綺羅の化身のような方が、どうして僕みたいな平民丸出しの平々凡々とした容姿のくせに、小生意気で慇懃無礼な年下の男を夫にしなければならないんだ?」
「え……?」
ハオリュウの台詞は疑問の形で終わっていたが、クーティエは何も答えられなかった。皮肉の効きすぎた彼の語句に、思考が停止したのだ。
「たとえ平民だとしても、レイウェンさんのような人であれば、陛下の隣に並んでも見劣りすることはないと思う。でも、僕なんだよ?」
「へっ!? なんで、そこで父上が出てくるの!?」
いきなり話が飛躍した……ような気がする。わけが分からず、クーティエは素っ頓狂な声を張り上げる。
「クーティエの周りで一番、美しくて聡明な男性を挙げたつもりなんだけど? うーん、既婚者じゃ、ピンとこないか。……じゃあ、弟のリュイセンさんでもいいや」
ハオリュウは『自分よりも優れた者』として、レイウェンの名を挙げたのであるが、そこに密やかな対抗意識があることに、クーティエは勿論、気づいていない。純真な彼女は、大真面目に女王の隣に立つ叔父の姿を思い浮かべ、ぶんぶんと首を振った。
……あり得ない。外見はともかく、内面のほうが……。一国の女王の夫というには、叔父は、あまりにも……。
そんなクーティエの挙動を不思議そうに見つめつつ、ハオリュウは「ともかくさ」と続ける。
「僕が婚約者になったら、陛下はきっと僕などには目もくれず、『相思相愛の運命の相手』を探すべく、奔走なさることだろう。間違っても、僕なんかと結婚しないためにね」
人畜無害な善人面で、ハオリュウは無邪気に笑う。
優しげで、温厚そうな彼の笑顔を、クーティエは穴のあくほど見つめ……、ようやく合点がいった。
「……なるほど。……そういうことね」
彼は、女王に嫌われるつもりなのだ。
何をやらかす気なのかは不明だが、彼ならば立派に遣り遂げることだろう。――それを『立派』というべきかは、さておき。
「そもそも、僕との婚約期間は、陛下にとっては『真の相手』を見つけるための猶予期間だ。陛下には、なんとしてでも、ふさわしい相手を見つけていただくよ」
はっきりと告げたハオリュウに、クーティエは緊張から一気に脱力した。がくがくと膝が笑い出し、へたり込みそうになるのを必死に堪える。
彼が女王の婚約者を引き受けたと聞いても、平気なつもりだった。貴族なのだから当然だと、割り切ったはずだった。なのに本当は、自分がこんなにも脆かっただなんて、彼女は知らなかった……。
ざわめく葉擦れと共に、しなやかな彼の声が流れてくる。
「貴族の僕は、王族のカイウォル殿下には逆らえない。姉様は、父様の喪中を理由に先延ばしにするように言ったけれど、結局、断りきれなくなるような予感がしていた」
ハオリュウは風と戯れる。
すっと口角を上げ、夜闇の中に、きらりと絹の光沢を放つ。
「だから、僕は、婚約者を引き受けざるを得ない状況に追い込まれたときには、ありがたく、陛下を利用させていただくことにしようと――密かに、肚を決めていた」
「は? ちょっ、ちょっと、ハオリュウ! 女王陛下を『利用する』って!?」
「単に、恩を売るだけだよ。僕なんかと結婚しないですむことに感謝の念を抱きたくなるような、お気持ちになっていただき、めでたく婚約破棄が成立した暁には、陛下に僕の後ろ盾になっていただくよう、交渉するだけだ」
「なっ!? なんですってぇ!」
爽やかに言い放ったハオリュウに、クーティエの甲高い声が突っ込む。
そのとき、彼女は、はっと思い出した。彼は以前にも、『女王を利用する』と言ったことがあるのだ。
それは、彼が初めて草薙家を訪れたときのこと。レイウェンの服飾会社が女王の婚礼衣装の製作を請け負えば、女王にあやかりたい人々に対して、よい宣伝になると話を持ちかけてきたのだ。
唖然とするあまり、声も出せずに口をぱくぱくとさせていると、「クーティエ」と、静かな声で呼ばれた。
「前にも言ったと思うけど、平民を母に持つ僕は、後ろ盾のない弱い当主だ。だから、摂政であるカイウォル殿下や女王陛下と親しくしておくことは、僕にとっては有益――むしろ、喉から手が出るくらい欲しい縁故なんだよ」
「……!」
どういう反応を返せばよいのか、クーティエには分からなかった。だから、ただ唇を噛んだ。子供っぽいかもしれないけれど、それしかできなかった。
「婚約者の件について、カイウォル殿下の話しか聞いていないから、女王陛下ご本人が、どう考えてらっしゃるのかは分からない。ついでに言えば、婚約が破棄された場合、殿下が本当に約束通り、僕に不利なことはないよう計らってくださるという保証もない。殿下を全面的に信用するのは危険だ」
「――うん」
「ただ、どう考えても、女王陛下は僕との結婚を望んでいないだろう。彼女に利益がなさすぎる。ならば、どうしても断りきれない場合には、潔く仮初めの婚約者を務めるのも策だと、大きく構えようと考えていた。利害の一致する陛下となら交渉が可能。陛下との縁は、僕に与えられた機会だ――とね」
「そう……だったんだ……」
闇を従えるように笑うハオリュウに、クーティエは相槌を打つ。でも、これは、ただの合いの手で、決して同意などではない。彼を取り巻く環境は理不尽で、どこか歪んでいる。……それが悔しくてたまらない。
「――なのにね」
握りしめた拳は、どこに振り下ろせばいいのか。惑うクーティエの思考を、ハオリュウの声が遮る。
「いざ、カイウォル殿下に承諾のお返事をしようとしたとき、僕の中に、殿下への激しい憎悪が生まれた。覚悟の上で殿下にお会いしたはずなのに、そんなことは、すっかり忘れていた」
カイウォルへの激情を示すかのように、ハオリュウは自分の胸元を鷲掴みにした。昏く澱んだ声色から、彼の心情の余波が押し寄せてきて、クーティエの肌が粟立つ。
しかし、そこで急に、彼の雰囲気が、がらりと変わった。
「そして、風に舞う、『森の妖精』の幻を見たよ」
「――!」
澄んだ響きに、クーティエは息を呑む。
ハオリュウは、彼女のことを何故か『森の妖精』と呼ぶ。歯の浮くような台詞を平然と口にするのは、さすが貴族だと思う。嬉しくないわけではないが、その都度、赤面することになり、こっちの身にもなってよ、と彼女は狼狽える。……いつもならば。
「そのときになって初めて、僕は自分が何を望んでいるのか、気づいた。――僕は『あなたのそばに居られる自由』が欲しいんだ」
喉が熱くなり、クーティエの瞳から涙が零れた。
自分がどうして泣いているのかなんて分からない。ただ、ハオリュウのせいであることは間違いない。――彼が、そばに居るからだ。
「王族の後ろ盾があれば、僕が誰を伴侶に選ぼうとも、誰も文句を言えなくなる。だから、ほんの数年、仮初めの婚約者として辛抱すれば、ちょうど適齢期になったあなたを迎えにいける。――そう目論んでいたのに、あなたのそばにいられない数年を考えたら、目の前が真っ暗になった」
ハオリュウは、自嘲めいた笑みを浮かべる。
「……なんてことを、いきなり言うのは卑怯だね。腹の底で勝手に未来を描きながら、僕は、ひとことだって、あなたに言葉を贈ったことはなかったんだから。約束できる立場ではないからと、自分に言い訳をしてさ。今更だ。ごめん」
「う……、ううん……」
クーティエは、嗚咽混じりの声で首を振る。
ハオリュウはいつだって、彼女の想いに真摯に向き合ってくれていた。
ただ、自分の想いを言霊にすることだけは、頑なに避けていた。それは、譲れないけじめなのだと。
無論、寂しくはあったけれど、見栄っ張りで意地っ張りで、確実と完璧を求める彼らしい態度だと諦観して、切なさを跳ねのけていた。――惚れた弱みだ。
「……僕が、動揺と困惑で心を乱している間に、カイウォル殿下は『ライシェン』の居場所を鷹刀一族から聞き出してくるようにと命じられた。そして、気づいたら、シュアンが人質として囚われていた」
怒気をはらんだ声で、彼は告げる。
「僕は、カイウォル殿下を許さない」
「ハオリュウ……」
彼が再び暴走してしまわないかと、クーティエは不安になった。だが、彼は、ふっと目元を和らげた。
「でも、おかげで、僕が為すべきことが見えたよ」
「え?」
ハオリュウは、遠くを見据えるように胸をそらした。
まるで彼に付き従うかのように、風が舞い上がる。涼やかに裾が広がり、淡い電灯の下、絹が織りなす光が弾けた。
「僕は、この国から身分というものをなくそうと思う」
ざわめく葉擦れを押さえ込み、力強い声が響く。
「王族なんかに頼らない。――頼る必要のない世界を作る」
闇に向かって宣告し、彼はクーティエを見つめる。
「それはきっと、シュアンがずっと言い続けている、世直しというものと同じだと思う。――僕は彼と運命を共にする。そして、あなたのそばに居られる自由を手に入れるよ」
上品な口の端がすっと上がり、闇を秘めた瞳が挑戦的に細まる。
柔らかに頬のほころんだ、優しげな面差しであるにも関わらず、ぞくりとする微笑だった。
「ハ、ハオリュウ!?」
とんでもないことを聞いた気がする。
――否。『聞いた気がする』のではなくて、現実として、とんでもないことを『聞いた』のだ。
「そ、それは、凄いけど、そうなったらいいと思うけど……。嬉しいんだけど、あまりにも壮大すぎて、現実味がないというか……。ああ、違う! そうじゃなくて!」
支離滅裂だ。
クーティエは、自分でも何を言っているのか分からない。だが、重要なことに気づいたのだ。
「それって、『革命』っていうんじゃないの!?」
口にした瞬間、全身から、さぁっと血の気が引いていくのを感じた。
万が一、誰かに聞かれていたら、不敬罪で捕まる……どころではない。問答無用で極刑だろう。
だのに、ハオリュウは、とても綺麗な顔で笑った。
「そうだね、革命だね。僕は、反逆者になるね」
軽やかに浮かれた声が、風に溶けるように流れる。
「ハオリュウ!」
「分かっているよ。それが、大それた罪だということくらい。……勿論、すぐには無理だ。おそらく、僕の一生を懸けて為し遂げるような計画になるだろう」
ハオリュウは凛と言い放ち、クーティエへと手を伸ばした。
「クーティエ。僕の手を取ってほしい」
「……っ」
声にならない息が、息にすらならない音が、口から溢れた。
――心が、震えた音だ。
本当に、とんでもない人を好きになってしまったものだと、クーティエは思う。けれど困ったことに、そんな彼から目が離せない。今まで以上に、惹かれてしまうのだ。
差し出された掌に、クーティエは迷うことなく掌を重ねる。すると、ハオリュウは、上流階級の令嬢に対するかのように、そっと彼女の手を包み込んだ。
決して触れてはならないと思っていた人の体温が、直接、伝わってくる。
想像よりも、ずっと大きくて硬い手にどきどきしていると、彼は思わぬことを口にした。
「姉様が、初めて草薙家を訪れた日。サンプルの花嫁衣装を着た姉様を、ルイフォンが抱き上げて階段から降りてきたと聞いた。その様子を、あなたが羨望の眼差しで見つめていたと、教えてもらった」
「えっ? そんなこともあったかな……? ――って、誰に教えてもらったのよ!?」
ただでさえ、心臓が暴れまわっていて大変なのに、更に、どきりとすることを言われ、クーティエは噛み付くように叫んだ。
しかし、彼は、ほんの少し視線をそらして誤魔化し、話を続ける。
「足の悪い僕は、あなたを抱きかかえて連れて行くことはできない。――だから、どうか、僕と手を繋いだまま、隣で一緒に歩いてほしい。そして、僕がまた、暴走しそうになったら止めてほしい。あなたがいれば、僕は大丈夫だ」
「!?」
ハオリュウの言葉は、喩えと現実が入り混じり、時々、難解になる。明言を避けようとする、貴族の習慣が染みついているからだろう。
クーティエは微苦笑を漏らした。そして、それは、やがて満面の笑顔となる。そんなところも含めて、ハオリュウだと。
「勿論よ!」
元気な彼女の声に、彼の口元もほころぶ。
「ありがとう」
「ううん。こちらこそ!」
頷き合い、どちらからともなく前を向いた。
「僕たちの革命のために。まずは、シュアンを取り戻す!」
ハオリュウが宣誓する。
ふたりは肩を寄り添わせ、光の道を歩き出した。