残酷な描写あり
5.死せる悪魔の遺物-1
「改めまして。どうか、僕に力を貸してください」
クーティエに案内され、草薙家の玄関口に現れたハオリュウは、開口一番、そう告げた。
異母姉と同じ黒絹の髪をなびかせ、深々と頭を下げる。風が巻き起こり、その場の空気が変わった。
「ハオリュウ……」
出迎えたルイフォンは、軽い困惑を覚えた。もともと、年齢不相応の雰囲気をまとうハオリュウであったが、久しぶりに会う彼は、風格とでも呼ぶべきものが以前とはまったく異なっていた。そう感じたのはルイフォンだけではないようで、メイシアもまた黒曜石の瞳を瞬かせている。
そんな彼らの背後から、この家の主であるレイウェンが声を掛けた。
「ともかく、家の中に入ってください。いろいろと話すことがおありでしょう?」
刹那、ハオリュウの顔に緊張が走る。心なしか背筋が伸び、それから再び、彼は頭を垂れた。
「レイウェンさん。あなたの大切なお嬢さんを僕に遣わせてくださり、誠にありがとうございました」
そのひとことに、レイウェンがわずかに表情を変える。
「……貴族が、そんなに軽々しく平民に頭を下げるものではありませんよ」
「ですが……」
「娘が、あなたのもとに行きたいと言った――それだけです」
レイウェンの声色は、いつも通りに甘やかでありながらも、感情を抑えたような素っ気なさがあった。
疑問に思ったルイフォンが素早く振り返ると、レイウェンは既に踵を返し、廊下を奥へと歩いている。その行き先は応接室ではなく、この家の食堂であり、広い肩はどこか安堵したように柔らかに落とされていた。
そのままの流れで皆で食卓を囲むと、食欲を刺激する匂いと共に、台所からシャンリーが現れ、ハオリュウの前に丼と汁椀を置いた。目を丸くする彼の背中を、彼女は豪快に、ぱしんと叩く。
「昼間、王宮から帰ってから、何も口にしていないんだろう? まずは食べろ。何ごとも、体が基本だ」
「シャンリーさん……。ありがとうございます」
ハオリュウが礼を述べると、シャンリーは「いやいや」と、照れたように首を振る。
「私はさっきまで、タオロンの代わりにファンルゥの添い寝をしていたからね。残り物に軽く手を加えただけだ。――けど、味は保証するよ。空きっ腹のハオリュウには、なんだって美味いはずだからな」
男装の麗人と謳われる美麗な顔で、シャンリーは男前に笑う。
続いて、人数分のお茶を運んできたユイランが、にこやかに付け加えた。
「シャンリーは、ハオリュウさんの元気が出るように、特別なスパイスを効かせたのよ。どうぞ、召し上がって。――これから、緋扇さんのために、頑張らないといけないものね」
外見的には『品のよい銀髪のご婦人』であるのだが、やはりユイランも鷹刀一族の女である。言葉の端に好戦的な色合いが見え隠れしていた。これから、皆でシュアンを助けようという意気込みだ。
温かくも力強い光景に、ルイフォンも負けじと口を開く。
「ハオリュウ。この数時間で、俺が調べたことを説明するから、お前は食べながら聞いてくれ」
猫の目を光らせ、彼は朗々とテノールを響かせた。
そして――。
「……おい? ハオリュウ?」
出された食事を綺麗に平らげたところで、ハオリュウは崩れ落ちるように眠りに落ちた。昼間からの緊張から解放され、どっと疲れが出たのだろう。
ルイフォンが納得したそのとき、シャンリーが小さく呟いた。
「やっと効いてきたか。今まで、相当、気が張っていたんだな」
「へ? シャンリー?」
何か聞き間違えたかと、きょとんとするルイフォンに、シャンリーがにやりと口角を上げる。
「ユイラン様がおっしゃっただろう? ハオリュウが元気になるように、私が『特別な睡眠薬を効かせた』って。――食事と睡眠。今のハオリュウには、どちらも必要なものだからな」
胸を張って答える彼女に、ルイフォンが口をぱくぱくさせていると、娘のクーティエが食って掛かった。
「ちょ、ちょっと、母上! ハオリュウに勝手なことをしないでよ!」
「私が、シャンリーに頼んだんだよ」
「父上!?」
「ハオリュウさんとしては、今晩にだって緋扇さんを助け出したいところだろう。けど、今の緋扇さんは、自力で動くことすらままならない重傷者だ。――ならば、ハオリュウさんは、まず、しっかりと休息を取って、明日から行動を開始すべきだよ」
違うかい? という、有無を言わせぬ口調に、クーティエは「うぅ……」と押し黙る。
それから、レイウェンはルイフォンに視線を移した。
「ルイフォン。悪いけれど、ハオリュウさんを客間に運んでくれないか。私が運ぶと、彼の矜持を傷つけそうだからね」
「え……、そりゃあ、構わねぇけど……」
レイウェンとハオリュウの関係は、なかなか複雑なものらしい。
含みのある物言いに眉を寄せていると、レイウェンはルイフォンの近くまで寄ってきて、耳元に低い声を落とした。
「君の義弟は、遠くない将来、私に決闘を申し込みに来るよ」
「!?」
「そのうち、楽しい話が聞けそうだ」
ちらりと。ハオリュウを見やりながら、レイウェンは口元を酷薄に歪める。
不穏な眼差しは、ハオリュウに向けられたもので間違いはなかったのだが、ルイフォンの背筋に、ぞくりと悪寒が走った。
低音の言葉は、他の人には聞こえないよう充分に配慮されたものであった。だから、食堂を出る際、レイウェンのもとにやってきたメイシアは、まるで聖人君子を前にしたかのように澄んだ瞳を潤ませ、薄紅の唇を感激に震わせた。
「レイウェンさん。異母弟のために、何から何まで、本当にどうもありがとうございます」
丁寧に腰から体を折り、黒絹の髪の先が床に付きそうなほどに深々と頭を下げられると、さすがのレイウェンも、どこか気まずげな微笑を浮かべたのだった。
ハオリュウを背負ったルイフォンは、クーティエの案内で客間へと向かった。
彼の背後には、心配顔のメイシアが、ぴたりと張りついている。意識のないハオリュウは完全に脱力しているため、時々、ずるりと背中から落ちそうになるのだ。そのたびに、彼女が小さく息を呑むので、ルイフォンは困ったように苦笑を漏らした。
「大丈夫だよ。バランスは崩しても、落としたりはしない。これでも、最近、鍛えているからさ」
「あ、うん。……ごめんなさい」
「別に謝ることじゃないだろ。けど、まぁ。思っていたよりも重いし、随分、背が伸びたな」
初めは抱え上げて運ぼうと思ったのだが、無理だったのだ。出会ったばかりのころは、メイシアとたいして変わらない背丈だと思っていたのに、急に成長したものである。
「そういえば、お前が初めて鷹刀の屋敷に来た日。食堂で酔いつぶれたお前を、俺が部屋まで運んだんだっけ?」
あのときは、メイシアを抱きかかえていったよな、などと思い出し、ルイフォンは懐かしさに目を細める。ふと気づけば、後ろを歩いていたはずのメイシアが、いつの間にか傍らにいて、彼女は恥ずかしげな上目遣いで、けれど、頬を薔薇色に染めながら「うん」と頷いた。
そのとき。
先導のクーティエが「ルイフォン、メイシア」と、硬い声で振り返った。
ルイフォンは反射的に身構えた。『何を呑気な会話をしているのよ!?』と、噛みつかれると思ったのだ。しかし、それは間違いだった。
「あ、あのねっ! ハオリュウの話をちゃんと聞いてほしいの!」
強気な口調でありながら、切羽詰まったような懇願の表情。
「へ……?」
予想外の言葉に、ルイフォンは間抜けな声を上げた。
「さっき、ハオリュウが車から電話したとき、言っていたでしょ。『摂政殿下に対抗するために、僕は〈天使〉になることを考えています』って」
「あ、ああ……」
聞いた瞬間、なんと突拍子もなく、無茶苦茶なことを考えやがるんだ、とルイフォンは思った。
奇想天外な発想ではあるものの、『貴族と平民を両親に持つ僕なら、安定した〈天使〉になれます』などと分析しているあたり、冷静さを失っているわけではないのは分かる。だが、いくらなんでも無鉄砲すぎるだろう。
移動中であったため、話が途中になってしまったのだが、ルイフォンとしては、却下を言い渡すつもりだった。勿論、メイシアも同意見である。
今はハオリュウが寝ているし、この件は明日、改めて――と言おうとしたルイフォンに、クーティエが愛用の直刀が如く、まっすぐな視線で斬り込んできた。
「ふたりが反対なのは分かっているわ。私だって、ハオリュウに〈天使〉になってほしくない。――でも、頭ごなしに否定しないでほしいの。ハオリュウは、皆が幸せになるように、って、ぎりぎりの方法を採ろうとしているんだから……!」
「――と、言われてもな……」
「反対するなら、別の案を出してよ!」
きっ、と目を尖らせて言ってから、クーティエは我に返り、「ごめんなさい」と呟いた。
「私も、本当は嫌なの。でも、ハオリュウの決意を聞いちゃったから。……他に方法がないのなら、私は全力で彼の手助けをする。そう決めたの」
「クーティエ?」
「だから、ルイフォン。……お願い! 『緋扇シュアンを助けるための名案』を思いついて……」
細い声が震える。切なげな瞳が映すのは、ルイフォンではなく、彼に背負われたハオリュウだ。
ルイフォンの口の中に、苦さが混じった。情けなくて、不甲斐ないが、嘘を言うわけにもいかない。ルイフォンは「すまん」と、目線を下げる。
「正直なところ、まだ名案は浮かんでいない。裏から手を回す方法なら幾らでも思いつくけれど、シュアンをお尋ね者にしないためには、摂政を黙らせる必要がある。そこが難点だ」
「……っ」
クーティエの眉が、悲壮に歪んだ。しかし、ルイフォンは、追い打ちをかけるように続けた。
「けど、だからと言って、〈天使〉になるのだって、簡単なことじゃない。確か、神殿に行かないと駄目なんだろ?」
ルイフォンは、傍らのメイシアに尋ねる。
以前、彼は、彼女が知らぬ間に〈天使〉にされているのではないかと、心配したことがあった。そのときに、セレイエの記憶を持つメイシアは、こう説明してくれたのだ。
『〈天使〉化するためには、〈冥王〉が収められている神殿まで行かないと駄目なの。だから、私は〈天使〉になってない、って断言できる。――安心して』
神殿の警備は、厳重だ。おいそれと入れるような場所ではない。だから、ハオリュウの〈天使〉になるという案も、現実的ではないのだ。
ルイフォンに水を向けられたメイシアは、「あのね、クーティエ」と、申し訳なさそうに眉を寄せた。クーティエの心情を思うと、気が重いのだろう。
「ルイフォンの言う通り、〈天使〉になるには神殿に行く必要があるの。光の珠の姿をした〈冥王〉から、光の糸を分け与えられ、『羽』とすることで〈天使〉となる。だから……」
メイシアがそこまで言ったとき、不意にクーティエが、ぐいっと一歩。身を乗り出してきた。
「神殿に入れれば、〈天使〉になれるの?」
「え?」
妙な迫力で食らいついてきたクーティエに、メイシアがたじろぐ。
「ハオリュウは『例えば〈天使〉化に何日も掛かったりするのだったら、別の策を考えないといけない』って言っていた。でも、神殿に入れさえすれば、〈天使〉化そのものは、すぐに可能なの!?」
正直に答えて――と。クーティエの眼差しが、鋭く訴える。
ルイフォンの胸に、警鐘が鳴り響いた。メイシアの黒絹の髪が揺れ、ハオリュウを背負った半袖の腕に掛かる。惑うような黒曜石の瞳が、こちらを見上げていた。
憂いを帯びた花の顔に、ルイフォンは奥歯を噛みしめる。……しかし、彼は、ゆっくりと首肯した。
クーティエを相手に、情報を隠すのは卑怯だ。
その思いは、メイシアも同じだったのだろう。険しい表情ながらも、凛と澄んだ戦乙女の声が響く。
「〈冥王〉の置かれている『光明の間』と呼ばれている部屋に行くことができれば、誰でも苦労せずに、すぐに〈天使〉になれる。そのための仕掛けを、セレイエさんが遺していったの」
クーティエの喉が、こくりと動いた。
「じゃあ、ハオリュウが〈天使〉になるのは可能、ってことね。私が神殿に手引できるから。――私、奉納舞の舞姫のひとりに選ばれたのよ」
「奉納舞の……舞姫?」
唐突に告げられた言葉に、ルイフォンはおうむ返しに語尾を上げた。
「のびのびになっている、女王陛下の婚約の儀の舞い手のことよ」
「あ、ああ……」
初耳であったが、とても『おめでとう』と言える雰囲気ではなく、ルイフォンは冴えない相槌を返すことしかできない。
「王族の儀式は神殿が取り仕切るから、舞い手は神殿の所属ということになるのよ。だから、私は神殿に出入りできる許可証を持っているわ」
「!」
「私、舞姫になって、神殿に通うようになって――、そこに『〈冥王〉』と呼ばれるものがあることを本能で感じたわ」
敵意のような、殺意のような色合いで、クーティエの瞳が、ぎらりと光った。
「初めて神殿に入ったとき、ぞわりと肌が粟立った。でも、同じく舞い手として一緒にいた母上は平気なのよ。私よりも、よっぽど気配に敏感なのに。おかしいと思って、家に帰ってから父上と母上に相談したら、父上が、もしやと思って、曽祖父上に訊いてくれたの」
クーティエの曽祖父とは、すなわち、鷹刀一族総帥イーレオのことである。思わぬ名前が出てきたものだと、ルイフォンが目を瞬かせると、クーティエが更に意外なことを告げた。
「そしたらね、昔、〈悪魔〉として神殿に出入りしていた曽祖父上にも、覚えがあるって。あれは、〈冥王〉が鷹刀の血を持つ者を喰らおうとしている気配だ、って」
「!?」
「私は生粋の鷹刀じゃないけれど、鷹刀の血を引いている。だから、母上は何も感じなくて、私だけが反応したの」
毅然と告げてから、クーティエはぎゅっと口を結び、頭を振った。伝えたいことをうまく表現できず、かえって大袈裟に言い過ぎたかと後悔したのだ。
「だから何って、わけじゃないわ。でも、〈冥王〉が――死んだ王様の脳から生まれたなんていう、おとぎ話のような『もの』が、この国には確かに存在するの。……私には、細かい理屈なんて分からない。けど、この国はどこか歪んでいる。おかしいと思う」
クーティエは、胸元で拳を握りしめた。そして、直刀の瞳でルイフォンとメイシアを、眠ったままのハオリュウを見つめる。
「ハオリュウは、この国の未来を変えてくれる。――私は、そんな彼の力になりたいの」
祈るような声が、静かに響いた。
クーティエに案内され、草薙家の玄関口に現れたハオリュウは、開口一番、そう告げた。
異母姉と同じ黒絹の髪をなびかせ、深々と頭を下げる。風が巻き起こり、その場の空気が変わった。
「ハオリュウ……」
出迎えたルイフォンは、軽い困惑を覚えた。もともと、年齢不相応の雰囲気をまとうハオリュウであったが、久しぶりに会う彼は、風格とでも呼ぶべきものが以前とはまったく異なっていた。そう感じたのはルイフォンだけではないようで、メイシアもまた黒曜石の瞳を瞬かせている。
そんな彼らの背後から、この家の主であるレイウェンが声を掛けた。
「ともかく、家の中に入ってください。いろいろと話すことがおありでしょう?」
刹那、ハオリュウの顔に緊張が走る。心なしか背筋が伸び、それから再び、彼は頭を垂れた。
「レイウェンさん。あなたの大切なお嬢さんを僕に遣わせてくださり、誠にありがとうございました」
そのひとことに、レイウェンがわずかに表情を変える。
「……貴族が、そんなに軽々しく平民に頭を下げるものではありませんよ」
「ですが……」
「娘が、あなたのもとに行きたいと言った――それだけです」
レイウェンの声色は、いつも通りに甘やかでありながらも、感情を抑えたような素っ気なさがあった。
疑問に思ったルイフォンが素早く振り返ると、レイウェンは既に踵を返し、廊下を奥へと歩いている。その行き先は応接室ではなく、この家の食堂であり、広い肩はどこか安堵したように柔らかに落とされていた。
そのままの流れで皆で食卓を囲むと、食欲を刺激する匂いと共に、台所からシャンリーが現れ、ハオリュウの前に丼と汁椀を置いた。目を丸くする彼の背中を、彼女は豪快に、ぱしんと叩く。
「昼間、王宮から帰ってから、何も口にしていないんだろう? まずは食べろ。何ごとも、体が基本だ」
「シャンリーさん……。ありがとうございます」
ハオリュウが礼を述べると、シャンリーは「いやいや」と、照れたように首を振る。
「私はさっきまで、タオロンの代わりにファンルゥの添い寝をしていたからね。残り物に軽く手を加えただけだ。――けど、味は保証するよ。空きっ腹のハオリュウには、なんだって美味いはずだからな」
男装の麗人と謳われる美麗な顔で、シャンリーは男前に笑う。
続いて、人数分のお茶を運んできたユイランが、にこやかに付け加えた。
「シャンリーは、ハオリュウさんの元気が出るように、特別なスパイスを効かせたのよ。どうぞ、召し上がって。――これから、緋扇さんのために、頑張らないといけないものね」
外見的には『品のよい銀髪のご婦人』であるのだが、やはりユイランも鷹刀一族の女である。言葉の端に好戦的な色合いが見え隠れしていた。これから、皆でシュアンを助けようという意気込みだ。
温かくも力強い光景に、ルイフォンも負けじと口を開く。
「ハオリュウ。この数時間で、俺が調べたことを説明するから、お前は食べながら聞いてくれ」
猫の目を光らせ、彼は朗々とテノールを響かせた。
そして――。
「……おい? ハオリュウ?」
出された食事を綺麗に平らげたところで、ハオリュウは崩れ落ちるように眠りに落ちた。昼間からの緊張から解放され、どっと疲れが出たのだろう。
ルイフォンが納得したそのとき、シャンリーが小さく呟いた。
「やっと効いてきたか。今まで、相当、気が張っていたんだな」
「へ? シャンリー?」
何か聞き間違えたかと、きょとんとするルイフォンに、シャンリーがにやりと口角を上げる。
「ユイラン様がおっしゃっただろう? ハオリュウが元気になるように、私が『特別な睡眠薬を効かせた』って。――食事と睡眠。今のハオリュウには、どちらも必要なものだからな」
胸を張って答える彼女に、ルイフォンが口をぱくぱくさせていると、娘のクーティエが食って掛かった。
「ちょ、ちょっと、母上! ハオリュウに勝手なことをしないでよ!」
「私が、シャンリーに頼んだんだよ」
「父上!?」
「ハオリュウさんとしては、今晩にだって緋扇さんを助け出したいところだろう。けど、今の緋扇さんは、自力で動くことすらままならない重傷者だ。――ならば、ハオリュウさんは、まず、しっかりと休息を取って、明日から行動を開始すべきだよ」
違うかい? という、有無を言わせぬ口調に、クーティエは「うぅ……」と押し黙る。
それから、レイウェンはルイフォンに視線を移した。
「ルイフォン。悪いけれど、ハオリュウさんを客間に運んでくれないか。私が運ぶと、彼の矜持を傷つけそうだからね」
「え……、そりゃあ、構わねぇけど……」
レイウェンとハオリュウの関係は、なかなか複雑なものらしい。
含みのある物言いに眉を寄せていると、レイウェンはルイフォンの近くまで寄ってきて、耳元に低い声を落とした。
「君の義弟は、遠くない将来、私に決闘を申し込みに来るよ」
「!?」
「そのうち、楽しい話が聞けそうだ」
ちらりと。ハオリュウを見やりながら、レイウェンは口元を酷薄に歪める。
不穏な眼差しは、ハオリュウに向けられたもので間違いはなかったのだが、ルイフォンの背筋に、ぞくりと悪寒が走った。
低音の言葉は、他の人には聞こえないよう充分に配慮されたものであった。だから、食堂を出る際、レイウェンのもとにやってきたメイシアは、まるで聖人君子を前にしたかのように澄んだ瞳を潤ませ、薄紅の唇を感激に震わせた。
「レイウェンさん。異母弟のために、何から何まで、本当にどうもありがとうございます」
丁寧に腰から体を折り、黒絹の髪の先が床に付きそうなほどに深々と頭を下げられると、さすがのレイウェンも、どこか気まずげな微笑を浮かべたのだった。
ハオリュウを背負ったルイフォンは、クーティエの案内で客間へと向かった。
彼の背後には、心配顔のメイシアが、ぴたりと張りついている。意識のないハオリュウは完全に脱力しているため、時々、ずるりと背中から落ちそうになるのだ。そのたびに、彼女が小さく息を呑むので、ルイフォンは困ったように苦笑を漏らした。
「大丈夫だよ。バランスは崩しても、落としたりはしない。これでも、最近、鍛えているからさ」
「あ、うん。……ごめんなさい」
「別に謝ることじゃないだろ。けど、まぁ。思っていたよりも重いし、随分、背が伸びたな」
初めは抱え上げて運ぼうと思ったのだが、無理だったのだ。出会ったばかりのころは、メイシアとたいして変わらない背丈だと思っていたのに、急に成長したものである。
「そういえば、お前が初めて鷹刀の屋敷に来た日。食堂で酔いつぶれたお前を、俺が部屋まで運んだんだっけ?」
あのときは、メイシアを抱きかかえていったよな、などと思い出し、ルイフォンは懐かしさに目を細める。ふと気づけば、後ろを歩いていたはずのメイシアが、いつの間にか傍らにいて、彼女は恥ずかしげな上目遣いで、けれど、頬を薔薇色に染めながら「うん」と頷いた。
そのとき。
先導のクーティエが「ルイフォン、メイシア」と、硬い声で振り返った。
ルイフォンは反射的に身構えた。『何を呑気な会話をしているのよ!?』と、噛みつかれると思ったのだ。しかし、それは間違いだった。
「あ、あのねっ! ハオリュウの話をちゃんと聞いてほしいの!」
強気な口調でありながら、切羽詰まったような懇願の表情。
「へ……?」
予想外の言葉に、ルイフォンは間抜けな声を上げた。
「さっき、ハオリュウが車から電話したとき、言っていたでしょ。『摂政殿下に対抗するために、僕は〈天使〉になることを考えています』って」
「あ、ああ……」
聞いた瞬間、なんと突拍子もなく、無茶苦茶なことを考えやがるんだ、とルイフォンは思った。
奇想天外な発想ではあるものの、『貴族と平民を両親に持つ僕なら、安定した〈天使〉になれます』などと分析しているあたり、冷静さを失っているわけではないのは分かる。だが、いくらなんでも無鉄砲すぎるだろう。
移動中であったため、話が途中になってしまったのだが、ルイフォンとしては、却下を言い渡すつもりだった。勿論、メイシアも同意見である。
今はハオリュウが寝ているし、この件は明日、改めて――と言おうとしたルイフォンに、クーティエが愛用の直刀が如く、まっすぐな視線で斬り込んできた。
「ふたりが反対なのは分かっているわ。私だって、ハオリュウに〈天使〉になってほしくない。――でも、頭ごなしに否定しないでほしいの。ハオリュウは、皆が幸せになるように、って、ぎりぎりの方法を採ろうとしているんだから……!」
「――と、言われてもな……」
「反対するなら、別の案を出してよ!」
きっ、と目を尖らせて言ってから、クーティエは我に返り、「ごめんなさい」と呟いた。
「私も、本当は嫌なの。でも、ハオリュウの決意を聞いちゃったから。……他に方法がないのなら、私は全力で彼の手助けをする。そう決めたの」
「クーティエ?」
「だから、ルイフォン。……お願い! 『緋扇シュアンを助けるための名案』を思いついて……」
細い声が震える。切なげな瞳が映すのは、ルイフォンではなく、彼に背負われたハオリュウだ。
ルイフォンの口の中に、苦さが混じった。情けなくて、不甲斐ないが、嘘を言うわけにもいかない。ルイフォンは「すまん」と、目線を下げる。
「正直なところ、まだ名案は浮かんでいない。裏から手を回す方法なら幾らでも思いつくけれど、シュアンをお尋ね者にしないためには、摂政を黙らせる必要がある。そこが難点だ」
「……っ」
クーティエの眉が、悲壮に歪んだ。しかし、ルイフォンは、追い打ちをかけるように続けた。
「けど、だからと言って、〈天使〉になるのだって、簡単なことじゃない。確か、神殿に行かないと駄目なんだろ?」
ルイフォンは、傍らのメイシアに尋ねる。
以前、彼は、彼女が知らぬ間に〈天使〉にされているのではないかと、心配したことがあった。そのときに、セレイエの記憶を持つメイシアは、こう説明してくれたのだ。
『〈天使〉化するためには、〈冥王〉が収められている神殿まで行かないと駄目なの。だから、私は〈天使〉になってない、って断言できる。――安心して』
神殿の警備は、厳重だ。おいそれと入れるような場所ではない。だから、ハオリュウの〈天使〉になるという案も、現実的ではないのだ。
ルイフォンに水を向けられたメイシアは、「あのね、クーティエ」と、申し訳なさそうに眉を寄せた。クーティエの心情を思うと、気が重いのだろう。
「ルイフォンの言う通り、〈天使〉になるには神殿に行く必要があるの。光の珠の姿をした〈冥王〉から、光の糸を分け与えられ、『羽』とすることで〈天使〉となる。だから……」
メイシアがそこまで言ったとき、不意にクーティエが、ぐいっと一歩。身を乗り出してきた。
「神殿に入れれば、〈天使〉になれるの?」
「え?」
妙な迫力で食らいついてきたクーティエに、メイシアがたじろぐ。
「ハオリュウは『例えば〈天使〉化に何日も掛かったりするのだったら、別の策を考えないといけない』って言っていた。でも、神殿に入れさえすれば、〈天使〉化そのものは、すぐに可能なの!?」
正直に答えて――と。クーティエの眼差しが、鋭く訴える。
ルイフォンの胸に、警鐘が鳴り響いた。メイシアの黒絹の髪が揺れ、ハオリュウを背負った半袖の腕に掛かる。惑うような黒曜石の瞳が、こちらを見上げていた。
憂いを帯びた花の顔に、ルイフォンは奥歯を噛みしめる。……しかし、彼は、ゆっくりと首肯した。
クーティエを相手に、情報を隠すのは卑怯だ。
その思いは、メイシアも同じだったのだろう。険しい表情ながらも、凛と澄んだ戦乙女の声が響く。
「〈冥王〉の置かれている『光明の間』と呼ばれている部屋に行くことができれば、誰でも苦労せずに、すぐに〈天使〉になれる。そのための仕掛けを、セレイエさんが遺していったの」
クーティエの喉が、こくりと動いた。
「じゃあ、ハオリュウが〈天使〉になるのは可能、ってことね。私が神殿に手引できるから。――私、奉納舞の舞姫のひとりに選ばれたのよ」
「奉納舞の……舞姫?」
唐突に告げられた言葉に、ルイフォンはおうむ返しに語尾を上げた。
「のびのびになっている、女王陛下の婚約の儀の舞い手のことよ」
「あ、ああ……」
初耳であったが、とても『おめでとう』と言える雰囲気ではなく、ルイフォンは冴えない相槌を返すことしかできない。
「王族の儀式は神殿が取り仕切るから、舞い手は神殿の所属ということになるのよ。だから、私は神殿に出入りできる許可証を持っているわ」
「!」
「私、舞姫になって、神殿に通うようになって――、そこに『〈冥王〉』と呼ばれるものがあることを本能で感じたわ」
敵意のような、殺意のような色合いで、クーティエの瞳が、ぎらりと光った。
「初めて神殿に入ったとき、ぞわりと肌が粟立った。でも、同じく舞い手として一緒にいた母上は平気なのよ。私よりも、よっぽど気配に敏感なのに。おかしいと思って、家に帰ってから父上と母上に相談したら、父上が、もしやと思って、曽祖父上に訊いてくれたの」
クーティエの曽祖父とは、すなわち、鷹刀一族総帥イーレオのことである。思わぬ名前が出てきたものだと、ルイフォンが目を瞬かせると、クーティエが更に意外なことを告げた。
「そしたらね、昔、〈悪魔〉として神殿に出入りしていた曽祖父上にも、覚えがあるって。あれは、〈冥王〉が鷹刀の血を持つ者を喰らおうとしている気配だ、って」
「!?」
「私は生粋の鷹刀じゃないけれど、鷹刀の血を引いている。だから、母上は何も感じなくて、私だけが反応したの」
毅然と告げてから、クーティエはぎゅっと口を結び、頭を振った。伝えたいことをうまく表現できず、かえって大袈裟に言い過ぎたかと後悔したのだ。
「だから何って、わけじゃないわ。でも、〈冥王〉が――死んだ王様の脳から生まれたなんていう、おとぎ話のような『もの』が、この国には確かに存在するの。……私には、細かい理屈なんて分からない。けど、この国はどこか歪んでいる。おかしいと思う」
クーティエは、胸元で拳を握りしめた。そして、直刀の瞳でルイフォンとメイシアを、眠ったままのハオリュウを見つめる。
「ハオリュウは、この国の未来を変えてくれる。――私は、そんな彼の力になりたいの」
祈るような声が、静かに響いた。