残酷な描写あり
白詰草の宝冠
「ミンウェイ。俺の『家族』になってくれないか?」
「教えてほしいの。――亡くなったあなたの家族のこと。それから、家族を亡くしたあと、私と出逢うまでのあなたのこと。私、呆れるくらいに本当に、あなたのことを何も知らないんだから!」
そんな遣り取りのあと、彼は家族の話をしてくれた。
お父様は責任感の強い消防士で、躊躇うことなく火の中に突っ込んでいく、勇ましい人だったこと。だけど、ちょっと報われなくて、防火マスクを外した途端、助けた子供に大泣きされるのが常だったこと。それで、『防火マスクが俺の顔』の謳い文句で、地元では有名な人だったこと。
そんな逸話と共に見せてくれた写真では、シュアンそっくりの男性が、両手にふたりの子どもを抱え上げ、溌剌とした感じの女性とお揃いのTシャツを着て、素敵な顔で笑っていた。
幼いシュアンも、お母様も、妹さんも。お父様が大好きで、家族が大好きで。
幸せな家族の形が、そこにあった。
私が憧れていたもので、私には存在しなかったもの。
……そして、シュアンが、ある日、突然、失ったもの。
そんな言葉が頭をよぎったとき、私はいったい、どんな顔をしていたのだろう。シュアンが黙って私を抱き寄せた。
「シュアン?」
「ミンウェイ、明日、天気がよかったら、墓参りに行こう。俺は、親父とお袋と妹に、あんたを紹介したい。『新しい俺の家族だぞ』と自慢したい。それから、〈蝿〉たちのところにも、挨拶に行かねぇとな?」
「うん。……ありがとう」
シュアンの黒目に、私が映る。
彼が穏やかに笑うほどに、三白眼の白目が黒目を包み込むように広がることは、きっと私と、彼のお母様だけの秘密だろう。
シュアンの家族のお墓は、共同墓地にあった。
両親から親戚の話を聞いたことはなくて、家族を亡くした直後は、お父様の職場の方が親身になって世話を焼いてくれたという。孤児になったときには十三歳の誕生日を迎えていたから、警察隊の幼年学校に編入したそうだ。学費が掛からないことと、凶賊を取り締まる警察隊員になると決めたためだ。
寄宿舎生活だから住むところには困らなかったし、いろいろと運が良かったのだと、彼は笑った。――笑えるようになったのだと……思う。
「よう、見えているか? このとんでもない美女は、ミンウェイ。――俺の、新しい家族だ」
シュアンは得意げにそう告げて、空に向かって目を細めた。
そして、潮の香りが濃くなるほうへと車を走らせ、海を臨む、あの丘に辿り着いた。
ざざぁん、ざざぁぁぁん。
力強い波音が、私たちを迎える。
潮風が私の髪をなびかせ、シュアンのぼさぼさ頭を掻き回していく。
遥か遠くには、空と海とを隔てる、真っ青な水平線。
そして、目の前に、ふたつから四つへと増えた――墓標。
真夏の太陽が、短くも、くっきりとした影を描き出す……。
お父様。
私のオリジナルである、お母様。
お父様の〈影〉で、お父様から受け継いだ記憶によって、私にお父様の本心を伝えてくれた『彼』。――私たちがずっと〈蝿〉と呼んでいた人。
〈蝿〉の対として作られ、その生のほとんどを硝子ケースの中で過ごし、最後の刹那にすべてを懸けた『彼女』。――彼女は、『健康な成功体である私』のクローンだ。……つい最近、そのことに気づいた。ルイフォンから譲り受けた、〈蝿〉の遺した記憶媒体の研究記録から、そう考えるのが自然だった。
私だけが生きているということが、不思議な気がした。
潮風が目に染みたのだろうか。
私の頬を涙が伝う。
「ミンウェイ」
呼ばれて傍らを見上げれば、シュアンの白目が大きくなっていた。
彼は、その場にすっと膝をつき、墓標に向かって頭を垂れる。その仕草は、まるで絵本の中の王子様のように洗練されていて……。そういえば、近衛隊への入隊を嘱望されていたころ、王族付きになるための礼儀作法を叩き込まれたのだと言っていた。
「今日は、ご挨拶に参りました」
そのままの伏した姿勢で、彼は告げる。
「私の名前は、緋扇シュアン。しがない自由民の男でございます。――ですが、お嬢様を必ず幸せにすると、お約束いたしますので……」
シュアンは顔を上げた。三白眼の白目が、ひときわ広がる。
「お嬢様を私にください」
シュアンの濁声が、波音を跳ねのけ、青空へと響き渡った。
「シュ……シュアン!?」
突然の宣誓に、私の涙が止まる。
「な、な、な……、何よ、その『お嬢様』って――!」
「ほう? 『お嬢様』はお気に召しませんかね? 大切な娘をさらっていくんだ。このくらいの挨拶は必要かと思ったんだが?」
「まったく! あなたって人は、もう! 何をふざけているのよ!」
本当は、どきどきしていた。
涙だけじゃなくて、心臓も止まるかと思った。
「まぁ、正直なところ、俺も『らしくねぇな』と思っていたからよ。じゃあ、ここからは、俺らしくいくぞ? 途中で、『ロマンチックじゃない』と言われても、やり直さねぇからな?」
立ち上がりながらシュアンが笑う。皮肉げに唇を歪めているだけなのに、満面の笑顔だって分かる。
彼が笑っているのは、私の涙が止まったからだ。
この場所が、私の心を強く揺さぶることを、彼はちゃんと見抜いているのだ。
そして、彼は、新しく増えた墓標のうちのひとつと向き合った。
「〈蝿〉……。まずは、あんたに挨拶するのが筋だろう。あんただけは、俺と接点があったからな」
私の体が、びくりと強張る。
……〈蝿〉は、シュアンの先輩を〈影〉にした。だから、シュアンは、敬愛していた先輩を自らの手で殺した。――私も、その場にいた……。
「〈蝿〉、あんたにとって、俺は『眼中にない雑魚』だっただろう。まぁ、それは仕方ねぇ。俺にとって、あんたは先輩の仇でも、あんたのほうは俺の存在なんて知る由もなかったんだからよ」
墓石は、何も答えず。
ざざぁんと、波音だけが返ってくる。
「俺はずっと、あんたを殺してやると思っていた。実際、最後の決着のときには、作戦を指揮していたルイフォンから、あんたへの発砲許可が下りていた。……けど、俺が、あんたを撃つことはなかった。……あんたの最期は、最期だけは……あんたの生き方を認めるしかなかった。――そして……」
シュアンの視線が、隣の墓石へと移される。――『彼女』へと。
「あんたは、〈蝿〉の最期に突然、現れて、すべて掻っさらって、思い残すことなく綺麗に去っていった。……あんたのせいで、ミンウェイの気持ちが、宙ぶらりんになっちまった。――けど、あんたは、〈蝿〉にとって救いだった。あの一瞬のためだけに生きてきた――そんな生き方は、それはそれで凄ぇと……思う」
「――……」
〈蝿〉の最期には、『愛している』と伝えようと、私は決めていた。だけど、『彼女』の登場で、私の出番はなくなった。
辛かった……あのときは。
けれど、今は、それで良かったと思う。
シュアンが、ちらりと私を見やる。私を気遣っているのだ。
だから、私は強気に笑う。
だって、私にはシュアンがいる。頼もしい、私だけの王子様がいる。
シュアンは頷き、今度は少し古びた墓石に向かう。
「ヘイシャオ。あんたの人生にとって、俺は、まったく関係のない人間だったから、きっと今、怪訝な顔で、俺を見ていることだろう。けど、俺にしてみりゃ、あんたは幼いミンウェイを虐待した極悪人だ。最低な糞野郎だ」
吐き捨てるように言い、シュアンは墓石を睨みつける。
「だが、俺は、あんたが発明した『仮死の薬』に救われた。……あんたが医術の道に進んだのは、あんたが愛した女を救うため。他は全部捨てて、あんたは〈悪魔〉になった。ミンウェイが、あんたの壊れた心の犠牲になったことを許す気はねぇが、あんたにも、あんたの生き方があったことは知っている」
それから、シュアンは、一番古い墓石へと目線を移す。
『私の名前』が、彫られた石に。
「ミンウェイの『お袋さん』。諸悪の根源は、実は、あんたなのかもしれねぇ。……でも、それは結果であって、あんたはただ、誰よりも懸命に生きようとしただけだ。だから、こうして今、俺とミンウェイが、共にここにいることは、あんたから始まった運命、ってやつなのかもしれねぇと――思うことにする」
ひとりひとりへの挨拶を終え、シュアンは並んだ墓標を見渡した。
「俺は、あんたらに、山ほどの恨みがある。あんたらにしてみれば、『知ったこっちゃねぇ』と、言いたいところだろう。確かにそうだ。今更、俺が、ぐだぐだ言ったところで、世界は不可逆だ。時間は決して戻らない」
シュアンの目が、まるで照準を合わせるかのように、すっと細まった。
「だから、俺が今、口にする恨み言は、ひとつだけだ」
シュアンの顎が、ぐっと上がる。
凄みを増した喧嘩腰の凶相に、私は、ごくりと唾を飲む。
「あんたら、今――この大事な瞬間に、どうして死んでいるのさ?」
…………。
いったい彼は、何を言っているのだろう?
理解不能だ。
「シュアン……?」
私は呆然と、彼の名を呟く。
だけど、彼は前を向いたまま。私を振り返ることなく、語り続ける。
「娘が、どこの馬の骨とも分からん男を連れてきて、その男が『お嬢さんをください』と言ったんだ。そしたら、親父は不機嫌になって外方を向いて、お袋さんは妙に浮かれて美味い茶菓子でも出してくるもんだろう?」
「俺はミンウェイに、そんな幸せを贈りたかった」
「けど、あんたらが死んでいたら、それができねぇんだよ。……仕方ねぇってことは、分かっているさ。俺は、あんたらの生き方を――生き様を知っているんだからよ」
波音が、止まったように感じられた。
ただ、シュアンの声だけが、寄せては返す波のように。私の耳を、潮騒の響きで満たしていく。
「かつての俺は鉄砲玉で、いつ死んでもいいと思っていた。だけど、今の俺には、糞爺になるまで生きていく覚悟がある」
「ミンウェイは、俺が必ず幸せにする」
「……だから、あんたらは安心して眠ってくれ」
潮風が、私の頬を撫でた。
妙に、ひりひりすると思っていたら、シュアンの指先が伸びてきて、いつの間にか流れていた涙を拭ってくれた。
そして、 出し抜けに言う。
「ミンウェイ、結婚式を挙げよう」
「……え?」
「俺は、ちゃんと『家族になるための通過儀礼』ってやつをやった。だから、次は結婚式だろう?」
「結婚式……。考えたこと……なかったわ……」
かすれた声で、私は呟く。
現実味のない、まるで何かの物語のように聞こえた。きっと彼には、私が途方に暮れているように見えたに違いない。
「はぁ? どうしたんだよ?」
案の定、彼は心底、不可解だと言いたげに眉を寄せた。そんな顔にも、威圧感があるのが彼らしい。
――ううん。やっぱり、ちょっと苛立っているのだ。私が年甲斐もなく少女趣味なのはバレているから、『結婚式』と言ったら、絶対に喜ぶと期待していたのだろう。
「あ、あのね……。私、あなたに諭されるまで、『四つ葉のクローバーの男の子』への償いは、『私が幸せにならないこと』だと思ってきたから……。だから、結婚式なんて、考えたことがなかったのよ……」
子供のころ、私の夢は、お姫様になることだった。
素敵な王子様が現れて、真っ白なドレスで結婚式を挙げて、幸せになるのだ。
だけど、私は、四つ葉のクローバーで求婚してくれた男の子を殺してしまった。
だから、その四つ葉を栞にして、大好きな絵本の、王子様がお姫様に求婚するページに挟んで、封印した。
あのページで物語を止めた。
私の幸せは、そこで、おしまい。
もう、次のページを捲ることはない。
結婚式のページまで辿り着くことはできない……――そう信じてきた。
「だったらさ。なおのこと、やるべきだろう? ――結婚式をさ」
「シュアン?」
「ミンウェイはさ、『幸せにならなければ、四つ葉のクローバーの子供に許してもらえる』と思うことは、もうやめたんだろう? そんなの、甘ったれた『逃げ』だった、ってな?」
「え、ええ……」
「ならば、その逃げ道を塞いでしまえ。『幸せにならないこと』以外で、その子供に償うしかない、ってところまで幸せに生きる。――退路を断つには、ちょうどいいケジメじゃねぇか。結婚式ってやつはよ?」
「――!」
都合のいい解釈かもしれない。
本当は、あの子は私を恨み、怒り、呪っているのかもしれない。
だけど、今も生きている私は、立ち止まっているわけにはいかないから――。
私の胸の中で、物語が動き始める。
前に。
結婚式に。
「……うん。私……、結婚式を挙げたいわ……」
ざざぁぁんと。
波音が優しく、背中を押してくれた。
四つの墓標に見守られて、私とシュアンは結婚式について相談した。
ちょっと、おかしな光景だけれど、とても私たちらしい気がした。
私たちの過去は、そこかしこに『死』が散りばめられていて、決して褒められたものじゃない。
それでも、私たちは生きている。
死者の悔しさを、辛さを、やるせなさを背負って、生きていく……。
シュアンは、皆に囲まれた、賑やかな式にしたいと言った。
私のためだ。
天涯孤独な上に、人との関わりを絶ってきて、更には表向きは死んだことになっている彼には、招待するようなお客様はいないのだから。
だけど、私のほうだって、鷹刀から追放処分を受けている身だ。一族を抜けたルイフォンやレイウェンならよいけれど、他の者たちを招待することはできない。
現在の職場となった、藤咲家の人々を中心に……という案も考えたけれど、なんとなく、それは違う気がする。
だから、ふたりだけの式に決めた。
そして、一通だけ、場所も時間も書かれていない招待状を送る。
シュアンの先輩、ローヤンさんとその奥様に。
『幸せになれ』と、シュアンに招待状をくれた先輩への返事だ。
獄死したことになっているシュアンだけど、奥様には、生きていることを知らせてある。ルイフォンとハオリュウが、こっそり連絡してくれたのだ。だから、手紙が届いても驚くことはないだろうけれど、それが結婚式の招待状だということには、きっと驚いてくれるだろう。
善は急げとばかりに、帰りに宝飾店に寄った。
結婚指輪を注文するためだ。
指輪の並んだ隣のショーケースに、結婚式で使う宝冠が飾られていた。
「ねぇ、シュアン。私、あの宝冠で式を挙げたいわ」
私が指差した宝冠に、彼は一瞬、複雑な顔をした。
だけど、すぐに、三白眼の白目を広くする。
「ああ、いいんじゃねぇか」
私の王子様の笑顔は、私だけのもの。店員さんには分からなかったみたいで、シュアンの顔色を窺いながら、震える手で宝冠をショーケースから出してくれた。
そして、今日。
私は、四つ葉のクローバーをあしらった、白詰草の宝冠を身につけて、憧れのお姫様になる。
遠い空の向こう。
彼岸に渡った彼らに、私は誓う。
私は、シュアンと幸せになります。
「教えてほしいの。――亡くなったあなたの家族のこと。それから、家族を亡くしたあと、私と出逢うまでのあなたのこと。私、呆れるくらいに本当に、あなたのことを何も知らないんだから!」
そんな遣り取りのあと、彼は家族の話をしてくれた。
お父様は責任感の強い消防士で、躊躇うことなく火の中に突っ込んでいく、勇ましい人だったこと。だけど、ちょっと報われなくて、防火マスクを外した途端、助けた子供に大泣きされるのが常だったこと。それで、『防火マスクが俺の顔』の謳い文句で、地元では有名な人だったこと。
そんな逸話と共に見せてくれた写真では、シュアンそっくりの男性が、両手にふたりの子どもを抱え上げ、溌剌とした感じの女性とお揃いのTシャツを着て、素敵な顔で笑っていた。
幼いシュアンも、お母様も、妹さんも。お父様が大好きで、家族が大好きで。
幸せな家族の形が、そこにあった。
私が憧れていたもので、私には存在しなかったもの。
……そして、シュアンが、ある日、突然、失ったもの。
そんな言葉が頭をよぎったとき、私はいったい、どんな顔をしていたのだろう。シュアンが黙って私を抱き寄せた。
「シュアン?」
「ミンウェイ、明日、天気がよかったら、墓参りに行こう。俺は、親父とお袋と妹に、あんたを紹介したい。『新しい俺の家族だぞ』と自慢したい。それから、〈蝿〉たちのところにも、挨拶に行かねぇとな?」
「うん。……ありがとう」
シュアンの黒目に、私が映る。
彼が穏やかに笑うほどに、三白眼の白目が黒目を包み込むように広がることは、きっと私と、彼のお母様だけの秘密だろう。
シュアンの家族のお墓は、共同墓地にあった。
両親から親戚の話を聞いたことはなくて、家族を亡くした直後は、お父様の職場の方が親身になって世話を焼いてくれたという。孤児になったときには十三歳の誕生日を迎えていたから、警察隊の幼年学校に編入したそうだ。学費が掛からないことと、凶賊を取り締まる警察隊員になると決めたためだ。
寄宿舎生活だから住むところには困らなかったし、いろいろと運が良かったのだと、彼は笑った。――笑えるようになったのだと……思う。
「よう、見えているか? このとんでもない美女は、ミンウェイ。――俺の、新しい家族だ」
シュアンは得意げにそう告げて、空に向かって目を細めた。
そして、潮の香りが濃くなるほうへと車を走らせ、海を臨む、あの丘に辿り着いた。
ざざぁん、ざざぁぁぁん。
力強い波音が、私たちを迎える。
潮風が私の髪をなびかせ、シュアンのぼさぼさ頭を掻き回していく。
遥か遠くには、空と海とを隔てる、真っ青な水平線。
そして、目の前に、ふたつから四つへと増えた――墓標。
真夏の太陽が、短くも、くっきりとした影を描き出す……。
お父様。
私のオリジナルである、お母様。
お父様の〈影〉で、お父様から受け継いだ記憶によって、私にお父様の本心を伝えてくれた『彼』。――私たちがずっと〈蝿〉と呼んでいた人。
〈蝿〉の対として作られ、その生のほとんどを硝子ケースの中で過ごし、最後の刹那にすべてを懸けた『彼女』。――彼女は、『健康な成功体である私』のクローンだ。……つい最近、そのことに気づいた。ルイフォンから譲り受けた、〈蝿〉の遺した記憶媒体の研究記録から、そう考えるのが自然だった。
私だけが生きているということが、不思議な気がした。
潮風が目に染みたのだろうか。
私の頬を涙が伝う。
「ミンウェイ」
呼ばれて傍らを見上げれば、シュアンの白目が大きくなっていた。
彼は、その場にすっと膝をつき、墓標に向かって頭を垂れる。その仕草は、まるで絵本の中の王子様のように洗練されていて……。そういえば、近衛隊への入隊を嘱望されていたころ、王族付きになるための礼儀作法を叩き込まれたのだと言っていた。
「今日は、ご挨拶に参りました」
そのままの伏した姿勢で、彼は告げる。
「私の名前は、緋扇シュアン。しがない自由民の男でございます。――ですが、お嬢様を必ず幸せにすると、お約束いたしますので……」
シュアンは顔を上げた。三白眼の白目が、ひときわ広がる。
「お嬢様を私にください」
シュアンの濁声が、波音を跳ねのけ、青空へと響き渡った。
「シュ……シュアン!?」
突然の宣誓に、私の涙が止まる。
「な、な、な……、何よ、その『お嬢様』って――!」
「ほう? 『お嬢様』はお気に召しませんかね? 大切な娘をさらっていくんだ。このくらいの挨拶は必要かと思ったんだが?」
「まったく! あなたって人は、もう! 何をふざけているのよ!」
本当は、どきどきしていた。
涙だけじゃなくて、心臓も止まるかと思った。
「まぁ、正直なところ、俺も『らしくねぇな』と思っていたからよ。じゃあ、ここからは、俺らしくいくぞ? 途中で、『ロマンチックじゃない』と言われても、やり直さねぇからな?」
立ち上がりながらシュアンが笑う。皮肉げに唇を歪めているだけなのに、満面の笑顔だって分かる。
彼が笑っているのは、私の涙が止まったからだ。
この場所が、私の心を強く揺さぶることを、彼はちゃんと見抜いているのだ。
そして、彼は、新しく増えた墓標のうちのひとつと向き合った。
「〈蝿〉……。まずは、あんたに挨拶するのが筋だろう。あんただけは、俺と接点があったからな」
私の体が、びくりと強張る。
……〈蝿〉は、シュアンの先輩を〈影〉にした。だから、シュアンは、敬愛していた先輩を自らの手で殺した。――私も、その場にいた……。
「〈蝿〉、あんたにとって、俺は『眼中にない雑魚』だっただろう。まぁ、それは仕方ねぇ。俺にとって、あんたは先輩の仇でも、あんたのほうは俺の存在なんて知る由もなかったんだからよ」
墓石は、何も答えず。
ざざぁんと、波音だけが返ってくる。
「俺はずっと、あんたを殺してやると思っていた。実際、最後の決着のときには、作戦を指揮していたルイフォンから、あんたへの発砲許可が下りていた。……けど、俺が、あんたを撃つことはなかった。……あんたの最期は、最期だけは……あんたの生き方を認めるしかなかった。――そして……」
シュアンの視線が、隣の墓石へと移される。――『彼女』へと。
「あんたは、〈蝿〉の最期に突然、現れて、すべて掻っさらって、思い残すことなく綺麗に去っていった。……あんたのせいで、ミンウェイの気持ちが、宙ぶらりんになっちまった。――けど、あんたは、〈蝿〉にとって救いだった。あの一瞬のためだけに生きてきた――そんな生き方は、それはそれで凄ぇと……思う」
「――……」
〈蝿〉の最期には、『愛している』と伝えようと、私は決めていた。だけど、『彼女』の登場で、私の出番はなくなった。
辛かった……あのときは。
けれど、今は、それで良かったと思う。
シュアンが、ちらりと私を見やる。私を気遣っているのだ。
だから、私は強気に笑う。
だって、私にはシュアンがいる。頼もしい、私だけの王子様がいる。
シュアンは頷き、今度は少し古びた墓石に向かう。
「ヘイシャオ。あんたの人生にとって、俺は、まったく関係のない人間だったから、きっと今、怪訝な顔で、俺を見ていることだろう。けど、俺にしてみりゃ、あんたは幼いミンウェイを虐待した極悪人だ。最低な糞野郎だ」
吐き捨てるように言い、シュアンは墓石を睨みつける。
「だが、俺は、あんたが発明した『仮死の薬』に救われた。……あんたが医術の道に進んだのは、あんたが愛した女を救うため。他は全部捨てて、あんたは〈悪魔〉になった。ミンウェイが、あんたの壊れた心の犠牲になったことを許す気はねぇが、あんたにも、あんたの生き方があったことは知っている」
それから、シュアンは、一番古い墓石へと目線を移す。
『私の名前』が、彫られた石に。
「ミンウェイの『お袋さん』。諸悪の根源は、実は、あんたなのかもしれねぇ。……でも、それは結果であって、あんたはただ、誰よりも懸命に生きようとしただけだ。だから、こうして今、俺とミンウェイが、共にここにいることは、あんたから始まった運命、ってやつなのかもしれねぇと――思うことにする」
ひとりひとりへの挨拶を終え、シュアンは並んだ墓標を見渡した。
「俺は、あんたらに、山ほどの恨みがある。あんたらにしてみれば、『知ったこっちゃねぇ』と、言いたいところだろう。確かにそうだ。今更、俺が、ぐだぐだ言ったところで、世界は不可逆だ。時間は決して戻らない」
シュアンの目が、まるで照準を合わせるかのように、すっと細まった。
「だから、俺が今、口にする恨み言は、ひとつだけだ」
シュアンの顎が、ぐっと上がる。
凄みを増した喧嘩腰の凶相に、私は、ごくりと唾を飲む。
「あんたら、今――この大事な瞬間に、どうして死んでいるのさ?」
…………。
いったい彼は、何を言っているのだろう?
理解不能だ。
「シュアン……?」
私は呆然と、彼の名を呟く。
だけど、彼は前を向いたまま。私を振り返ることなく、語り続ける。
「娘が、どこの馬の骨とも分からん男を連れてきて、その男が『お嬢さんをください』と言ったんだ。そしたら、親父は不機嫌になって外方を向いて、お袋さんは妙に浮かれて美味い茶菓子でも出してくるもんだろう?」
「俺はミンウェイに、そんな幸せを贈りたかった」
「けど、あんたらが死んでいたら、それができねぇんだよ。……仕方ねぇってことは、分かっているさ。俺は、あんたらの生き方を――生き様を知っているんだからよ」
波音が、止まったように感じられた。
ただ、シュアンの声だけが、寄せては返す波のように。私の耳を、潮騒の響きで満たしていく。
「かつての俺は鉄砲玉で、いつ死んでもいいと思っていた。だけど、今の俺には、糞爺になるまで生きていく覚悟がある」
「ミンウェイは、俺が必ず幸せにする」
「……だから、あんたらは安心して眠ってくれ」
潮風が、私の頬を撫でた。
妙に、ひりひりすると思っていたら、シュアンの指先が伸びてきて、いつの間にか流れていた涙を拭ってくれた。
そして、 出し抜けに言う。
「ミンウェイ、結婚式を挙げよう」
「……え?」
「俺は、ちゃんと『家族になるための通過儀礼』ってやつをやった。だから、次は結婚式だろう?」
「結婚式……。考えたこと……なかったわ……」
かすれた声で、私は呟く。
現実味のない、まるで何かの物語のように聞こえた。きっと彼には、私が途方に暮れているように見えたに違いない。
「はぁ? どうしたんだよ?」
案の定、彼は心底、不可解だと言いたげに眉を寄せた。そんな顔にも、威圧感があるのが彼らしい。
――ううん。やっぱり、ちょっと苛立っているのだ。私が年甲斐もなく少女趣味なのはバレているから、『結婚式』と言ったら、絶対に喜ぶと期待していたのだろう。
「あ、あのね……。私、あなたに諭されるまで、『四つ葉のクローバーの男の子』への償いは、『私が幸せにならないこと』だと思ってきたから……。だから、結婚式なんて、考えたことがなかったのよ……」
子供のころ、私の夢は、お姫様になることだった。
素敵な王子様が現れて、真っ白なドレスで結婚式を挙げて、幸せになるのだ。
だけど、私は、四つ葉のクローバーで求婚してくれた男の子を殺してしまった。
だから、その四つ葉を栞にして、大好きな絵本の、王子様がお姫様に求婚するページに挟んで、封印した。
あのページで物語を止めた。
私の幸せは、そこで、おしまい。
もう、次のページを捲ることはない。
結婚式のページまで辿り着くことはできない……――そう信じてきた。
「だったらさ。なおのこと、やるべきだろう? ――結婚式をさ」
「シュアン?」
「ミンウェイはさ、『幸せにならなければ、四つ葉のクローバーの子供に許してもらえる』と思うことは、もうやめたんだろう? そんなの、甘ったれた『逃げ』だった、ってな?」
「え、ええ……」
「ならば、その逃げ道を塞いでしまえ。『幸せにならないこと』以外で、その子供に償うしかない、ってところまで幸せに生きる。――退路を断つには、ちょうどいいケジメじゃねぇか。結婚式ってやつはよ?」
「――!」
都合のいい解釈かもしれない。
本当は、あの子は私を恨み、怒り、呪っているのかもしれない。
だけど、今も生きている私は、立ち止まっているわけにはいかないから――。
私の胸の中で、物語が動き始める。
前に。
結婚式に。
「……うん。私……、結婚式を挙げたいわ……」
ざざぁぁんと。
波音が優しく、背中を押してくれた。
四つの墓標に見守られて、私とシュアンは結婚式について相談した。
ちょっと、おかしな光景だけれど、とても私たちらしい気がした。
私たちの過去は、そこかしこに『死』が散りばめられていて、決して褒められたものじゃない。
それでも、私たちは生きている。
死者の悔しさを、辛さを、やるせなさを背負って、生きていく……。
シュアンは、皆に囲まれた、賑やかな式にしたいと言った。
私のためだ。
天涯孤独な上に、人との関わりを絶ってきて、更には表向きは死んだことになっている彼には、招待するようなお客様はいないのだから。
だけど、私のほうだって、鷹刀から追放処分を受けている身だ。一族を抜けたルイフォンやレイウェンならよいけれど、他の者たちを招待することはできない。
現在の職場となった、藤咲家の人々を中心に……という案も考えたけれど、なんとなく、それは違う気がする。
だから、ふたりだけの式に決めた。
そして、一通だけ、場所も時間も書かれていない招待状を送る。
シュアンの先輩、ローヤンさんとその奥様に。
『幸せになれ』と、シュアンに招待状をくれた先輩への返事だ。
獄死したことになっているシュアンだけど、奥様には、生きていることを知らせてある。ルイフォンとハオリュウが、こっそり連絡してくれたのだ。だから、手紙が届いても驚くことはないだろうけれど、それが結婚式の招待状だということには、きっと驚いてくれるだろう。
善は急げとばかりに、帰りに宝飾店に寄った。
結婚指輪を注文するためだ。
指輪の並んだ隣のショーケースに、結婚式で使う宝冠が飾られていた。
「ねぇ、シュアン。私、あの宝冠で式を挙げたいわ」
私が指差した宝冠に、彼は一瞬、複雑な顔をした。
だけど、すぐに、三白眼の白目を広くする。
「ああ、いいんじゃねぇか」
私の王子様の笑顔は、私だけのもの。店員さんには分からなかったみたいで、シュアンの顔色を窺いながら、震える手で宝冠をショーケースから出してくれた。
そして、今日。
私は、四つ葉のクローバーをあしらった、白詰草の宝冠を身につけて、憧れのお姫様になる。
遠い空の向こう。
彼岸に渡った彼らに、私は誓う。
私は、シュアンと幸せになります。