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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
1.白蓮華と黒装束-1
 鷹刀一族の屋敷を守る、天まで届かんばかりの煉瓦の外壁。

 その内側にて――。

 次期総帥たるリュイセンは、裏庭の蓮池のほとりで、ひとり、朝の鍛錬を行っていた。

 清澄な空気で満たされた、早朝の景色を映し、銀の刀身が煌めく。決められた型の動きを正確無比になぞりつつ、神速の風を巻き起こす。

 鍛え上げられた肉体から、汗が噴き出す。

 そんな彼の稽古の模様を、凪いだ池の水面みなもが、ひっそりと模写していた。

 双刀をはしらせる長身を、白い蓮の花で飾り、玉の汗を真似て、葉の上で朝露をころころと転がしていく。

 リュイセンは一連の動きを確認し終えると、鍔鳴りの音を響かせ、刀を納めた。

 ふと、気まぐれな風が吹き、池の上にさざなみを立てた。今まで、おとなしくリュイセンを見守っていた白蓮が、自己主張を始めたかのように優美に揺れる。

 純粋なまでに白く無垢な姿に、リュイセンは目元を緩めた。この時間だけの、特別な美しさだ。

 蓮の花は、朝が早い。

 開花の際に、ぽん、という天上の音楽を奏でるという話だが、リュイセンは聞いたことがない。毎朝、必ず、彼が来るよりも先に咲き誇り、強い太陽の光を避けるかのように、午後には花びらを閉じてしまう。

 蓮の花と早起きを競うのが、ここ最近のリュイセンの密かな楽しみとなっていた。

 ここ最近。

 鍛錬の場を、硝子の温室のそばから、この池のほとりに変えてから。

 ミンウェイを緋扇シュアンのもとに送り出して以来の――。

 リュイセンは空を仰いだ。

 まだ、太陽の色に染まる前の風が肌を冷やし、心地がよい。

 あれほど愛したひとを失ったというのに、不思議と後悔はなかった。

 むしろ、やるべきことをやり遂げたような、達成感のような安堵のような、穏やかな気持ちで満たされている。

 少し可哀想なのが弟分のルイフォンで、たまに連絡を取るたびに、不自然な気遣いを感じる。

 シュアンを助ける際、ミンウェイの力を借りる作戦を立てたことが転機きっかけだったのを未だに気にしているらしい。あの件がなくとも、いずれこうなる運命だったのは間違いないというのに。

 心配は要らない。ミンウェイは今、幸せなのだから。

 この前、母のユイランが、女王の衣装の件でハオリュウと打ち合わせをしたとき、使用人として同行してきたミンウェイに会ったという。左手の薬指に、シュアンとそろいの指輪を着けていたと教えてくれた。だが、母から聞かなくとも、リュイセンはそのことを知っていた。シュアンが会いにきたからである。

 所用で情報屋のトンツァイの店に行った帰り、妙な視線を感じた。振り向くと、人込みの向こうにシュアンがいた。

 彼は、相変わらずの胡散臭い演技めいた仕草で、目深に被っていた帽子を取った。しかし、おどけた動きとは裏腹に、あらわになった三白眼は射抜くように鋭く、血色の悪い唇は皮肉げに持ち上がることなく、固く結ばれていた。

 リュイセンと目が合うと、帽子を持った右手を後ろに下げ、左手を胸に当てて、黙って頭を下げた。敬意を示す礼だ。

 その刹那、薬指の付け根が陽光を弾き、銀色に光った。

 それから。

 シュアンは、すっと裏路地へと消えていった。

 昼の繁華街での、一瞬の出来ごとだった。

 雑踏を掻き分け、追いかければ追いつけない距離ではなかった。けれど、リュイセンは、立ち止まったまま見送った。

 なんとも、シュアンらしい挨拶だった。

 そして、『この日、この時間に、リュイセンが来る』という情報をシュアンに売ったトンツァイは、なかなか、いい商売をしている、と思ったのだった。





 鍛錬を終え、朝食を摂り、リュイセンは自室に籠もる。

 次期総帥として、溜まっている事務作業をこなさねばならぬのだ。武闘派の彼には非常に不本意なことであるが、現在の対戦相手は、机の上に山と積まれた書類だった。

 とはいえ、凶賊ダリジィンとしては、実に平和な日常だ。

 ひと月ほど前、摂政のめいで、近衛隊による家宅捜索が行われたときには激震が走った鷹刀一族であるが、その後は極めて穏やかな日々が続いている。正しくは、『物寂しい』というべきか。にぎやかな連中が、いなくなってしまったからだ。

 摂政が次に何を仕掛けてくるか分からないため、ルイフォンとメイシアは草薙家に行ったままであるし、ミンウェイはリュイセンが送り出した。その代わりに、母のユイランが総帥の補佐役として戻ってきたはずなのであるが、女王と婚約者ヤンイェンの服の仕立てを請け負ったため、今は草薙家の二階の作業場で仕事中だ。

 そして、この書類の山は、母の不在が原因だったりする。

 仕立て屋の仕事との二足わらじでも、リュイセンが手伝えばなんとかなるだろう、という見通しは甘かった。……実に、甘すぎた。

 次期総帥の座を退いた父エルファンも手を貸してくれるのだが、人間には向き不向きというものがある。正直なところ、父に任せるくらいならば、すべてリュイセンがやったほうが、まだましだった。

『総帥補佐の補佐』という役職の新設も考えたのだが、残念ながら、適当な人材がいないので、どうにもならない。

 ちなみに、この現状に対し、祖父イーレオは、絶世の美貌に人の悪い笑顔を浮かべ、魅惑の低音で喉を震わせているだけである。

 唯一の救いといえば、リュイセンのもうひとつの顔である『大学生』としては、無事に夏休みを迎えられたことだ。死にかけて〈ムスカ〉に捕らわれたり、一族を裏切って屋敷いえを出たりと、波瀾万丈な生活を送っていた間は、当然のことながら無断欠席の扱いになっており、一時は単位が危うかった。

 しかし、命に関わるような大怪我をしたという事実と、普段のリュイセンが非常に真面目な学生であることから、幸いなことに、レポートの提出をもって大目に見てもらえた。……彼の家の『稼業』を知っている教授陣が、面倒ごとに巻き込まれたくないと判断しただけ、という可能性も否定できないが。

「ふぅ……」

 午前中から作業を始め、昼食をはさみ、午後も黙々と机に向かうこと数時間。

 書類の山の高さが、やっと半分くらいに減り、リュイセンは大きな溜め息をついた。

 疲れたのか、集中力が落ちてきている。少し休憩を取ったほうがよいだろう。

 彼は椅子から立ち上がると、迷わずバルコニーへと出た。暑くても構わない。とにかく、外の空気を吸いたかった。

 硝子の戸を開けた瞬間に、熱気が襲ってきた。空調で冷やされていた肌は、薄皮一枚分の断熱服の効果を持っていたが、すぐに、じりじりと皮膚が焼ける感覚に変わっていく。

 しかし、元来、自然の中で体を鍛えることに喜びを覚えるようなリュイセンである。気温が何度になろうとも、外気を吸い込めば、開放感でいっぱいになる。

 やはり、外は気持ちがいい。

 そう思ったときであった。

 門のほうから、常とは違う気配を感じた。

 かすかに聞こえる門衛たちの声から察するに、どうやら招かれざる客が来たらしい。

「何者だ?」

 リュイセンは呟くと、バルコニーの手すりを飛び越え、地面へと降り立った。





 リュイセンがバルコニーへと出る、少し前。

 門の前に、一台のタクシーが止まった。

 その瞬間、三人の門衛たちの間に緊張が走った。今日は、客人が来るとは聞いていない。すなわち、良からぬ輩がやってきたのだと解釈し、身構えた。

 しかし、降りてきた人物を見て、門衛たちは唖然とした。

 吹けば飛ぶような、小柄で華奢な女だった。王国一の凶賊ダリジィン、天下の鷹刀一族の屋敷を訪問するにしては、随分と可愛らしい御仁である。

 だが、門衛たちが呆けたのは、彼女がこの場にそぐわない小女こおんなだからではなかった。彼女の服装が、不審者を絵に描いたようなものだったためである。

 女は、真っ黒なパーカーのフードを頭からすっぽりとかぶっていた。そして、同じく真っ黒なサングラスとフェイスカバーで顔を覆っている。その結果、彼女の頭部で外気に晒されている素肌は、ごくわずか。こめかみのあたりが、ちらりと白く覗くのみである。

 顔を隠した、危険な賊――とは、誰も思わなかった。

 武にけた門衛たちにとって、彼女がまったくの『素人』であることは、火を見るよりも明らかだったからだ。

 この暑い夏の日に、長袖のパーカーのジッパーをしっかりと上まで閉め、袖口から覗く手には黒い手袋。パーカーの下から流れ出たスカートだけは淡い青色をしていたが、裾から伸びた足は、真っ黒なタイツで隠されている。

 この服装出で立ちから導き出される答えは、ひとつしかない。

 彼女は、日焼けをしたくないのだ。――それも、『絶対』に。

 おそらく、黒い布地はすべて、紫外線防止UVカット加工を施されたものであろう。

 彼女の徹底ぶりに門衛たちは脱力しかけ、途中で、はたと首をかしげる。こんな女が、凶賊ダリジィンの屋敷に、いったいなんの用があるというのだろう? と。

 彼らの疑問は、すぐに解消された。

「私は、ユイランさんに会いにきました」

 天上の音楽もかくや、といった美しい響きが奏でられた。声の感じからすると、まだ若い。『少女』といった年齢だろう。

 天界の琴のような音色に、門衛たちは、先ほどとは別の理由で呆ける。

「お願いします。ユイランさんを呼んでください」

 ぐいと一歩、少女が前に出た。

 小柄な彼女にしてみれば、頭ふたつ分ほども大きな門衛たちへと迫るのは、自ら巨人の群れに取り囲まれに行くようなものだろう。しかし、彼女は、臆することなく詰め寄る。

 そのころになって、やっと門衛たちは自分の仕事を思い出した。

「あんた、何者なにもんだぁ?」

 先鋒役の若い衆が、野太い声を張り上げて誰何すいかする。威圧的な態度は、今まで間抜けづらを晒していたことに対する、照れ隠しだろう。だが、今更のことである上に、愛嬌のある八重歯が特徴的な彼は迫力に欠けた。

 案の定、少女にまるで萎縮する様子はなく、しかし、大真面目に告げる。

「ごめんなさい。名乗るわけにはいかないの。でも、決して! 怪しい者じゃないから!」

「はぁ……?」

 万全の紫外線対策黒づくめで『怪しい者じゃない』と叫ぶ少女。

 あまりにも説得力に欠ける滑稽な姿に、門衛たちは、どっと噴き出す。

「ちょ、ちょっと!」

 彼女の憤慨に、黒いフェイスカバーが、ぷうっと吹き上がった。彼女としては、心外だったらしい。

「いやぁ、すまん、すまん」

 最年長の門衛が、場を取り繕うように口を開く。だが、悪びれない調子で頭を掻いていては、謝罪の台詞も意味がない。

「嬢ちゃん、あんた、鷹刀一族のユイラン様じゃなくて、デザイナーのユイラン様に会いにきたんだな」

「え、ええ……? それが何か? どちらの肩書きで呼んでも、ユイランさんはユイランさんでしょう?」

 機嫌を損ねたままであるためか、少女は強めの口調で首をかしげる。素顔が隠されていても、彼女が口をへの字に曲げているのが感じられた。

 凶賊ダリジィンへの偏見が、まるで感じられない。

 彼女は、凶賊ダリジィンを怖いと思っていないのだ。それは、よほどの馬鹿か、世間知らずか。

 先ほどの門衛は、静かに尋ねた。

「あんた、貴族シャトーアだろう?」

「え?」

「その奇妙けったいな服装も、深窓の令嬢は真っちろじゃなくちゃいけねぇとか、そんな理由なんだろう? ああ、あと、お忍びだから顔を隠している、ってわけか」

「……そんなところ」

 笑われたのは不愉快だけれど、察してくれたのはありがたい。そんな感情をにじませながら、少女は素直に頷く。幼さを感じる、可愛らしい仕草だ。

 年長の門衛は、「いいか、嬢ちゃん」と、わざとらしい溜め息をついた。

「ここは鷹刀一族総帥、イーレオ様の屋敷だ。イーレオ様は、この国の凶賊ダリジィンの頂点に立つお方だからな、お命を狙う不届ふとどきな輩は、ごまんといる。だから、俺たち門衛は、招いてもいない客が来たら蹴散らすのが仕事だ」

 頬に走る古傷を誇張するように、門衛は唇を歪めた。ゆらりと間合いを詰めながら、これ見よがしに刀の柄に手を掛ける。

「……っ」

 ただならぬ気配を感じたのか、さすがの少女も短く息を呑んだ。とんだ暴挙に出ている自分に、今更ながら気づいたのかもしれない。

 だが、ひと呼吸を置いたのちに、門衛は、ふっと口元を緩めた。

凶賊ダリジィンの屋敷がどういうもんだか、分かってくれりゃあそれでいい。――まぁ、ユイラン様の服飾仕事の客とあっちゃあ、丁重に扱わねぇといけねぇけどよ」

「じゃあ、ユイランさんを……!」

 少女の緊迫は、一瞬にして安堵に変わる。しかし、門衛は困ったように眉を寄せた。

「あんた、運が悪いなぁ。ユイラン様は、特別な仕立ての仕事が入ったとかで、作業場のほうに行ったきりだ。今、この屋敷にはいらっしゃらねぇんだよ」

「ええっ! そんな……!」

 悲壮感を漂わせた彼女に、門衛はふところから手帳を取り出し、ページを千切ちぎる。

「今、作業場そっちの住所を書いてやるからよ。本当は、余計な世話を焼いちゃいけねぇんだが、嬢ちゃんのお忍び装束を楽しませてもらった礼だ」

 実は、この門衛は、メイシアが初めて鷹刀一族の屋敷を訪れたときに対峙した者だった。

 彼は、あのときのメイシアを思い出し、わけありらしい貴族シャトーアの少女という共通点から、つい肩入れしたくなったのだ。数ヶ月前までは、凶賊ダリジィンらしく、上流階級の者を毛嫌いする気質があったのだが、メイシアが屋敷を訪れて以来、変わったのである。

 善行は良いものだと、門衛が悦に入ってペンを走らせようとしたとき、唐突に少女が叫んだ。

「ご、ごめんなさい! 本当は、ちょっとだけ違うの!」

 絹を裂くような声に、屈強な門衛たちが、ぎょっとする。

「本当は『このお屋敷に、極秘に匿われている人』に会いにきたの!」

「は……?」

 状況が理解できず、門衛たちの目が点になった。

「でも、いきなり、そう言っても門前払いになるだけだと思って、ユイランさんに取り次いでもらおうと考えたの。ユイランさんなら、私のことを知っているから……。でも、ここにユイランさんがいないなら……どうしよう……」

 心底、途方に暮れたように、少女が狼狽うろたえる。

 その姿に、三人の門衛たちも困惑顔で額を寄せ、同時に「あっ!」と声をそろえた。

「嬢ちゃん、メイシアに会いにきたんか!」

 メイシアは、表向きは死んだことになっている。だから、彼女がルイフォンのもとで生活していることは『極秘』だ。

「なんだぁ、メイシアの友達かぁ」

「わざわざ、お忍びで来てくれたとは! メイシアも喜ぶぞ」

「えっ!? えっと……?」

 盛り上がる門衛たちの耳に、戸惑う少女の声は届かない。

「今、メイシアも、ここにいねぇんだけどよ。ちょうどいいことに、ユイラン様と同じ家にいるんだ」

「あ、あのっ……」

 少女は『待って!』と、黒い手袋の掌を突き出し、勝手に転がっていく話を止めようとした。しかし、目線の遙か下にある手の動きなど、門衛たちは気づかない。

 そのときだった。

「何があった?」

 よく通る、魅惑の低音が響いた。

 鉄格子の門の内側から、黄金比の美貌が覗く。癖ひとつないつややかな黒髪が、さらりと夏風に吹かれた。

「リュイセン様!」

 門衛たちが一斉にこうべを垂れた。

 そして――。

「『リュイセン』……」

 黒いフェイスカバーの下で、少女が小さく呟いた。

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