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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
2.訪い人の袖時雨-1
 黒づくめの女王を先導し、リュイセンは執務室へと向かう。

 弁解のしようもなく、不審な風体ふうていの彼女であるが、次期総帥たるリュイセンが連れていれば、行く手を阻む者はない。しかし、好奇の目に晒されるのも可哀想なので、できるだけ人の通らない廊下を選んでいった。広い屋敷であるため、経路さえ選べば、ほぼ誰にも会わずにすむのだ。

 彼は歩きながら、ルイフォンが先日、王宮に行ったときの報告書の中の、女王に関する記述を思い返していた。



 お飾りの女王であることは間違いない。彼女が、あまりにも王族フェイラの威信というものから掛け離れているため、公的な場では無口でいるようにと、摂政諫言説教されているらしい。

 同母兄の摂政カイウォルとは不仲ではないが、煙たがっている節がある。むしろ、異母兄であり、婚約者でもあるヤンイェンのほうになついているように思われた。

『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』については、何を知っているのか、そもそも何も知らされていないのか、まるで不明。



 そんなふうに綴られていた。

 そして、ルイフォンにしては珍しく、好意的な表現の所感で締めくくられる。



 流されるままの自分を変えたいという思いが、言葉の端々から感じられた。

 純粋で、素直な性格。悪い子ではない。



 ――それで、行動を起こしたというわけか。

 リュイセンは、得心の息を吐いた。それから、顔をしかめ、眉間の皺を深くする。

 ルイフォンからの報告がなければ、摂政の駒として、鷹刀一族の屋敷の内偵に来た可能性を視野に入れた。唯一無二の存在である女王という餌を撒けば、如何いかに用心深い鷹刀といえども、尻尾を出すと画策したかと。

 しかし、屋敷の周りに、監視や援護の者の気配はなかった。もとより、冷静になって考えれば、あの慎重な摂政が、荒事あらごととは無縁の女王を、単身で凶賊ダリジィンの屋敷に乗り込ませるなどという暴挙に出るはずもない。

 だから、この訪問は、間違いなく彼女の意志なのだ。

 ならば、彼女は王宮を抜け出してきて、大丈夫なのだろうか? 口うるさい摂政に、厳しく叱られるのではないだろうか。

 リュイセンも、よく小言を言われる身である。余計なお世話かもしれないが、他人ひとごとながら心配になってくる。

 とはいえ、女王の来訪は、膠着している『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』の展望に、大きな影響を与えることになるだろう。個人の感情ではなく、『この計画に巻き込まれた、鷹刀一族の次期総帥』という立場からすれば、彼女の無鉄砲は歓迎すべきものだ。

 総帥である祖父イーレオも、彼女との対面に価値があると考えたからこそ、執務室に案内するように言ったのだろう。先ほどのイーレオとの通話では確認しはぐったが、今ごろ、ルイフォンにも連絡が行っているはずだ。

 ヤンイェンとの接触は叶ったものの、今ひとつ、状況が進展しなかったことに、弟分は焦れていた。知らせを受ければ、小躍りしながら飛んでくることだろう。

 弟分の猫の目が輝くところを思い浮かべ、リュイセンは口元を緩めた。

 そのとき。

「お願い……、置いていかないで……」

 哀れを誘うような、よろよろとした女王の声が、リュイセンの耳に届いた。

 振り向けば、すぐそばを歩いていたはずの彼女は、長い廊下の遥か後ろにいた。歩幅コンパスの差を考慮せず、リュイセンが普段通りに颯爽と歩けば、当然の結果である。

 しまった、と立ち止まると、彼女は全力で走ってきた。苦しげに肩で息をしており、黒いフードの先端が、彼の目線から頭ふたつ分くらい下で、ぜいぜいと上下に揺れる。

 間近に来た彼女から、ただ走ってきたにしては高すぎる体温を感じ、リュイセンは自分の無配慮に気づいた。彼女は黒づくめの格好で、真夏の炎天下にいたのだ。さぞや暑かったに違いない。足元など、ふらふらのはずだ。

「すまん」

 考えなしであった。リュイセンは猛省する。

 一方、女王は機嫌を悪くしているわけではないようで、「ううん。それより……」と、きょろきょろと辺りを見渡し、人気ひとけがないことを確認してから、リュイセンに向き直る。

 そして――。

「さっきは、ありがとう!」

 天真爛漫な、天上の音楽が響いた。

 彼女は黒い手袋の両手で、フードの紐を軽く引いてみせる。正体がばれないように、リュイセンが白金の髪を隠してくれた礼を言っているらしい。

「あ、いや……」

 些細なことに真正面から感謝されると、かえって戸惑う。

 押され気味のリュイセンに、女王は「それから、馴れ馴れしくして、ごめんなさい!」と、更に詰め寄った。無遠慮……ではなく、無邪気に距離が近い。

「私はリュイセンのことを聞いていたけれど、リュイセンは私のことを知らなかったのにね。ごめんなさい。……でもね。私はリュイセンに会えて、本当に嬉しかったの。ずっと会ってみたかったのよ」

「お前は何故、俺のことを知っている?」

 及び腰になりつつも、リュイセンは先ほどからいだいていた疑問を口にする。すると、彼女は、気配にさとい彼でなければ気づかないほどの、わずかな間を置き、それから答えた。

「セレイエがね、よく自分の兄弟のことを話してくれたの。――だって、私は、セレイエの……義妹いもうとだもの」

 フェイスカバーに隠されていても分かる、少し唇をとがらせた声。幼い子供が、屁理屈をこねるときの口調に似ている。

 女王の異母兄あにであるヤンイェンは、セレイエと正式に婚姻を結んだわけではない。だから、本当は『義妹いもうと』を名乗ることはできないと分かっている。けれど、『義妹いもうと』でりたいから、『義妹いもうと』を主張するのだ、という意思表示――。

「そうか、セレイエか。……言われてみれば、それしかないよな」

 女王は、異母兄のヤンイェンと仲が良い。ならば、彼の事実上の妻となったセレイエと親しかったとしても不思議ではない。

 なるほど、とリュイセンは思う。

 ルイフォンは王宮に行ったとき、驚くほど自然にヤンイェンに名前を呼ばれたという。それと同じことで、女王もまた、セレイエに連なるリュイセンを身近に感じているというわけだ。王族フェイラのくせに、ふたりとも妙に人懐ひとなつっこい。よく似た異母兄妹きょうだいなのだろう。

「リュイセン」

 不意に、女王の声が不思議な音調を帯びた。

「私は、セレイエに会いにきたの」

「!?」

「セレイエは、このお屋敷に匿われているんでしょう? カイウォルお兄様がそう言っていたわ」

 刹那、リュイセンの背に緊張が走った。

 ――そうだ。

 女王は『このお屋敷に、極秘に匿われている人』に、会いにきたと言っていたのだ。

〈ベロ〉の小部屋に『ライシェン』が隠されていることを知っているリュイセンは、てっきり、『ライシェン』が目的だと思い込んでいたのだが……。

「セレイエ――だと……?」

 秀眉をぴくりと跳ねかせたまま、黄金比の美貌は彫像のように凍りつく。

『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』に関わるものは、すべからく鷹刀一族が抑えている――と、摂政カイウォルが信じていることは知っている。だからこそ、鷹刀一族の屋敷は、家宅捜索のそしりを受けたのだ。



 だが、セレイエは既に死んでいる。



 愛するヤンイェンの腕の中で、息を引き取った。この前、ルイフォンが直接、当事者ヤンイェンの口から聞いてきたのだから間違いない。

「知らないのか……?」

 魅惑の低音が、困惑にかすれた。

 どうして、女王はヤンイェンから正しい情報を得ずに、カイウォルの言葉を信じて、はるばる鷹刀一族の屋敷まで来たのだ?

 彼女は厳しいカイウォルよりも、優しい異母兄ヤンイェンのほうと、仲が良いのではなかったのか?

 ヤンイェンが、セレイエが死んだという事実を秘匿しているのか? 何故、可愛がっている異母妹いもうとに伝えない?

 ――逆だ。

 大切な異母妹いもうとだからこそ、そして、セレイエを慕う『義妹いもうと』だからこそ、ヤンイェンは、セレイエの死を隠したのだ。

 そこまで考えて、リュイセンは、はっと顔色を変えた。

 しかし、時すでに遅し。

「やっ……ぱり……」

 黒いパーカーで覆われた肩が、びくりと上がった。

「セレイエは……、亡くなって……いた……のね」

 サングラスの下から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

 透明な雫は、わずかに見える素肌を濡らし、すぐにフェイスカバーの染みとなった。

 迂闊だった――!

 全身の血の気が引いていき、リュイセンは目眩めまいを覚える。

「あ、いや……」

 意味をなさない言葉は、「分かっていたもの!」という女王のひとことに一蹴される。

「ヤンイェンお異母兄にい様の態度を見ていれば、明らかだわ! 幽閉が解かれて、四年ぶりにお会いしたときから、様子がおかしかったもの。問い詰めようとしても、はぐらかすのよ! お異母兄にい様は知っていて、私に隠していたの!」

 彼女は黒い手袋の両手を握りしめ、小刻みに震わせた。

「セレイエが姿を消したのは、亡くなったからなんでしょう!? ……もう、四年前の時点で、既に!」

「……っ」

 天上の音楽が、嵐を奏でる。

 思わぬ激しい口調に、リュイセンは声を失う。それまでの無邪気な彼女とは、まるで別人だった。

「なのに、カイウォルお兄様は、セレイエが『ライシェンの肉体』を作った、って言うのよ!? しかも、今度は殺されないように、過去の王の遺伝子はすべて廃棄した、って」

 ひくりと喉が動き、また一粒、雫が煌めいた。

「セレイエは、『唯一の〈神の御子〉の男子』を王宮に引き渡す代わりに、ヤンイェンお異母兄にい様を私の婚約者として解放するようにと、侍女だったホンシュアを通じて迫った、って」

 女王は泣きながら、それでも、声を止めない。

 まるで、誰かに助けを求めるかのように。

「それだけのことをして、セレイエが、ヤンイェンお異母兄にい様や私に何も伝えてこないなんて、あり得ないの! だって、セレイエは〈天使〉よ。その気になれば、警備なんて関係ない。お異母兄にい様にも、私にも、会いに来られるわ。なのに、姿を見せないなら……」

 彼女は、そこで呼吸を乱し、しゃくりあげた。

「セレイエは……命を賭けたんでしょう? 〈冥王プルート〉から、『ライシェンの記憶』を手に入れようとして……。――けど、熱暴走を起こして……、そういうことでしょう!?」

「なっ……!?」

 これまでの経緯からして、女王は『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』を知らない。だのに、この計画の根幹に関わるような話が出てきたことに、リュイセンは驚愕する。

「お前……、『セレイエが、〈冥王プルート〉から記憶を』って、そんなことまで知って……?」

「知っているわよ! だって、私は四年前、ヤンイェンお異母兄にい様とセレイエのそばに、ずっといたんだもの! ――ふ たりは、亡くなったライシェンの『記憶』と『肉体』を手に入れて、生き返らせようとしていたわ!」

「――!」

 王宮にいた彼女は、間近で見ていたのだ。

 ライシェンが生まれたことも、ライシェンが人を殺めたことも、ライシェンが祖父先王の手によって殺されたことも。

 ……嘆き悲しむ、ヤンイェンとセレイエの姿も。

「どんなに悲しくても、死んだ人は還ってこないのに……。私は、ふたりが壊れていくのを止めたかった。でも、何もできなくて……。お異母兄にい様は……、お父様を……」

 とめどなく流れる涙を拭うため、女王はサングラスを外した。黒いパーカーの袖で、ごしごしとこすったそのあとに、澄んだ青灰色の瞳が現れる。初めて見る色に、リュイセンの鼓動が、どきりと脈打った。

「リュイセン……」

 白金の睫毛まつげに縁取られた、惹き込まれるような濡れた瞳。長身の彼をじっと見上げ、新たな涙のひと雫が、白い肌を伝う。

「私は、このお屋敷に、セレイエの死を確かめに来たの……」

 彼女はそう言うと、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。青灰色の瞳から流れた涙がごとく、淡い青色のスカートがさざなみとなって広がる。

「おいっ!?」

 リュイセンも、追いかけるようにして、しゃがみ込む。

「リュイセン……、セレイエは……、セレイエは……もう……、この世の人じゃ……」

 彼女は嗚咽混じりに言葉を紡ぎ、やがて、耐えきれなくなったように、リュイセンにすがりついてきた。

「――っ」

 反射的に抱きとめた体は、緩みのあるパーカーからは想像できないくらいに華奢で、柔らかで――。

「セレイエ……、セレイエ……!」

 細い肩が震えるたび、彼女の涙が、リュイセンの胸を濡らす。

 彼は遠慮がちに、彼女の背に腕を回した。初対面の相手にすべきことではないが、一方的に抱きつかれているのでは、まるで彼女を突き放しているみたいな気がしたのだ。

 泣きじゃくる声を聞きながら、セレイエの死に、これほど取り乱した者が他にいただろうかと、リュイセンは自問する。

 鷹刀一族の者たちは、メイシアから明確に死を告げられるよりも前に、セレイエが既に鬼籍に入っているのではないかと、薄々感づいていたように思う。だから、覚悟があったし、諦観もあった。血族であるのに、薄情だったかもしれない。

 それだけに、無垢な涙を流す彼女が、リュイセンには衝撃だった。

 思えば、彼女は四年前、まだ十一歳のときから、独りで胸を痛めてきたのだ。

 異母兄ヤンイェン父親先王を殺して幽閉され、義姉セレイエが姿を消し、自分は幼くして一国の王となった。保護者となったカイウォルは、彼女の代わりにまつりごとは執っても、ヤンイェンとセレイエの運命を嘆く彼女の心に、寄り添うことはなかっただろう。

 ――辛かったよな……。

 腕に包んだ体ごと、彼女の抱えてきた孤独も包んでやりたいと思う。

 そのとき。

 遠くから、メイドの転がすワゴンの音が聞こえてきた。

 いくら人通りの少ない廊下とはいえ、誰も来ないわけではないのだ。そして、この状況を目撃されるのは、どう考えてもよろしくない。

 かといって、今の彼女を執務室に急かせるのも可哀想で――。

 ……むを得ん。

 リュイセンは、いつの間にか床に放り出されていたサングラスをポケットにねじ込むと、彼女の耳元に低く囁く。

「少しだけ、我慢してくれ」

 それだけ言うと、神速の身のこなしで彼女を抱き上げた。小柄な体躯は想像以上に軽く、勢い余ったスカートが大きく一度ふわりと舞い上がり、波打ちながら流れていく。

「きゃっ!?」

 高い悲鳴が響き渡った。リュイセンは心の中で「すまん」と詫びつつも、彼女の声と顔とを自分の胸元に押しつけるようにして、外から見えないように隠す。

 そして、彼女を横抱きにしたまま、可及的速やかに執務室に向かったのだった。

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