残酷な描写あり
7.白金に輝く漣に-3
ただならぬ、アイリーの悲鳴。
リュイセンが驚いて振り向けば、彼女は蒼白な顔で口元を覆っていた。小刻みに震える指先までもが白いのは、もはや冷水のためではあるまい。
「どうした!?」
リュイセンは、神速でアイリーのもとへと駆け寄る。
「な、なんでもないわ! 私が、分かっていなかっただけ……」
「なんでもない、って。そんなわけないだろう?」
アイリーは、どことなく悲痛な面持ちで、唇を噛んでいた。リュイセンとしては、戸惑うばかりである。
途方に暮れていると、気まずそうに彼女が目線を上げた。彼を困らせている自覚があるのか、逡巡しながらも、ぽつり、ぽつりと口を開く。
「リュイセンは、凶賊だもの。当然のことなんだ――って、受け止めなきゃいけないの。……きっと、勲章なんでしょう?」
「?」
何を言いたいのか、まるで理解できない。
リュイセンが呆然と立ち尽くしていると、アイリーは大きく息を吸い込んだ。そして、意を決したように、リュイセンの裸の胸に触れる。
「!?」
反射的に身を引こうとした瞬間、アイリーの涙声が耳朶に届いた。
「酷い傷跡……」
胸から腹へと、細い指先が、感触を確かめるように、おずおずと動く。
それから、変色した皮膚に淡い色合いの唇を寄せ、まるで口づけるように触れたかと思うと、ふわりと抱きついてきた。先ほどまで、彼の半裸姿に緊張していたのが嘘のように。ごくごく自然な動作で背中に手を回し、傷ついた獣を慈しむかのように、彼の素肌を切なげに撫でる……。
「!」
迂闊だった。
何も考えずにシャツを脱いでしまったが、リュイセンの腹には深い太刀傷があり、背にも大きな袈裟懸けの跡がある。こんな醜い刀痕を見れば、驚くのは当然だった。
凶賊である以上、負傷は免れない。
しかし、この傷は少々、次元が違う。
数ヶ月前。菖蒲の館への潜入作戦のとき、〈蝿〉との死闘の末に負った傷だ。
天才医師でもあった〈蝿〉の治療により一命を取り留めたが、そのまま囚われの身となり、ミンウェイのためにと、一族を裏切った。――あのときの傷跡だ。
「この怪我をしたとき、リュイセンは痛かったわよね。辛かったわよね……」
縫合された皮膚の引きつれを確かめるかのように、アイリーの指先が傷跡をなぞる。
優しく労るように。繰り返し、何度も。
視力の弱い自分は、目で見ても、彼の苦痛を量りきれない。だから、こうして触れて感じ取りたいのだ――とでも言うように……。
「怖くないのか?」
すっかり忘れていたが、部下の凶賊たちでさえ、庭先で鍛錬の汗を拭くリュイセンの姿に、初めは息を呑んだのだ。荒事とは無縁のアイリーなら、恐怖を覚えたとしても不思議はないだろう。
なのに、彼女は、この惨い傷跡に痛ましげに触れてきて……。
リュイセンは困惑する。
「この傷が、まったく怖くない、って言ったら、嘘になるわ。けど、それより、リュイセンが、いつ大怪我を負ってもおかしくないような世界にいるのが嫌……」
アイリーはそう言ってから、失言だったとばかりに、はっと顔色を変えた。それから、困ったように白金の眉を寄せ、もどかしげに告げる。
「凶賊が悪いとか、リュイセンが凶賊なのが駄目、ってことじゃないのよ。だって、リュイセンは、凶賊として矜持を持って生きている。否定したくないわ。――ただ、リュイセンの世界は、危険と隣り合わせなんだ、って思ったら……」
拙くとも懸命な言葉を落とし、彼女は俯く。駄々をこねた子供が、どうにもならない現実を悟り、押し黙るしかなかったように。
アイリーの言いたいことは、直感で理解できる。何より、彼女はさっき、リュイセンの傷跡を『勲章』だと讃えてくれたのだ。
項垂れた肩の儚さは、彼への憂心ゆえで……。
ぐらり。
リュイセンの心が、大きく揺れ動いた。
それを契機に、勢いよく胸が高鳴り始める。
――駄目だ……!
華奢な肩に伸びかけた手を握りしめた。
今までだって、彼女を運ぶために抱き上げたり、庇うために抱き寄せたりしてきたが、きちんとした目的も理由もあった。けれど、ここで抱きしめたら、それは、まったく別の意味になる。
感情を制御できなくなりかけた――という事実に、リュイセンは焦った。ちらりと覗く、白い項から目を逸らし、鼓動を鎮める。
この『ドライブ』は、アイリーの憧れを叶えるためのものだ。
〈神の御子〉という容姿を持って生まれてきた彼女は、次代の王に玉座を繋ぐためだけに存在する、いわば生贄だ。甘い恋愛は許されない。
だから。
リュイセンは憐憫の情から、『恋人とふたりきりになれるような、穴場の絶景スポットに行ってみたい』という、小さな願いを叶えてやりたいと思った。――あくまでも、彼女のために、だ。
その過程で、まるで恋人のような振る舞いもしたが、それは擬似的なものにすぎない。
陽炎が見せる、幻影と同じだ。
たとえ彼女が錯覚を起こしたとしても、リュイセンまでもが惑わされてはならない。
彼女は『女王陛下』なのだから。
「リュイセン」
おずおずといった体で、アイリーが顔を上げた。
「もし、リュイセンが嫌でなかったら、この傷を負ったときのことを教えてくれる?」
「え……」
想像もしていなかった発言に思考を遮られ、彼は戸惑う。――と、同時に、冷静さを取り戻すことに成功した。
「嫌ならいいの。無理は言わないわ」
きゅっと結ばれた口元に反し、彼女の目元は気弱に揺れていた。刀痕の事情を知らないからこそ、漠然とした不安を感じているのかもしれない。
「別に隠すようなことじゃないから話すよ。そもそも、この傷は、お前が想像しているような凶賊同士の抗争で受けたものじゃないんだ」
「えっ!?」
「屋敷で『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを話しただろう? そのときに出てきた、『ライシェン』を作った〈蝿〉という男。――彼との争いの中で、この傷を負ったんだ」
リュイセンがそう告げた瞬間、アイリーは、きょとんと目を丸くした。刀傷といえば凶賊の抗争、という発想であったためか、すぐには理解できなかったらしい。
ひと呼吸以上の間をおいてから、「なんですって!?」と、大きく音程を外した声が、澄んだ青空に響き渡った。
「それじゃあ、リュイセンは『デヴァイン・シンフォニア計画』のせいで、こんな酷い傷を負ったというの!?」
眉尻の上がった綺羅の美貌が、責め立てるように彼へと迫る。
――実は。
リュイセンは、アイリーに菖蒲の館でのことを――彼が囚われ、〈蝿〉の部下となっていたことを話していない。すべてを語れば、あまりにも長くなるため、セレイエと『ライシェン』のことを中心に話をまとめ、その他は大きく端折ったのだ。
「……違うか」
「え?」
ぽつりと落とされた低音に、アイリーは首をかしげる。
「『話が長くなるから』じゃねぇな。俺自身が、自分の格好悪いところを隠したかっただけだ」
リュイセンは目元を緩め、穏やかに笑った。愚かさを自覚しながらも、懸命だった自分を思い出し……、ほんの少し、胸が痛むのを感じる。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』はさ、セレイエが息子のために作った計画で間違いないんだけど、〈蝿〉と……ミンウェイの運命を大きく変えたんだよ。――俺は一族を裏切って、それから、最後の総帥になるために戻ってきたんだ」
「ちょ、ちょっと、待って! ごめんなさい。全然、話が見えないわ!」
「そうだよな。すまん」
リュイセンは、面目なげに苦笑する。こんな話し方では、アイリーを困らせてしまうだけだろう。
申し訳ない気分で彼女を見やれば、彼の話を聞きたいと、真剣そのものの表情で、じっとこちらを見つめている。
だから、思った。
彼女に、すべて話したい、と。
話して、どうなるというわけではないけれど、ただ聞いてほしい。
もはや過去のものとなった、ミンウェイへの恋心さえも――。
「アイリー。俺は話し下手だけど、聞いてくれるか?」
「うん!」
彼女は黒いパーカーを脱いで、日影の平らな岩の上に広げた。お気に入りのワンピースが汚れないように気をつけながら、そっと腰掛ける。どことなく得意げな表情から察するに、聞く準備は万全だ、ということらしい。
そんな様子に、思わず笑みを溢していると、今度はパーカーの裾の部分を伸ばし、リュイセンにも座るようにと勧めてきた。――が、それは丁重に断る。
さすがに狭すぎるし、リュイセンのズボンなど、汚れてもどうということはない。……それに、並んで座れば、彼女との距離が近すぎるだろう。
リュイセンは、アイリーと向き合うような形で腰を下ろした。
そして、比翼連理の夢を見た〈悪魔〉と、その記憶を受け継いだ『彼』の話を語り始めた。
ミンウェイは、誰かに〈蝿〉のことを話すときには、自分がクローンだったことも包み隠さずに明かすようにと、皆に頼んでいた。そうでなければ、〈蝿〉の――そして、ヘイシャオの本心が伝わらないから、と。
長い話を終え、リュイセンは、すっかり乾いたシャツを身につけた。そして、アイリーは、白いはずの瞼を真っ赤に腫らして泣きじゃくっていた。
「ごめんなさい、リュイセン。私が泣いたって、仕方がないのに……。……でもね、誰もが辛かったんだな、って。誰か、じゃなくて、皆が……」
しゃくりあげる声を、滝の音が優しく包む。
傾きかけた陽射しが涙に反射して、柔らな色合いを帯びた光が、きらきらと流れ落ちた。
「仕方なくなんかねぇよ。……聞いてくれて、ありがとな」
リュイセンは微笑み、滝からの水流に目を向けた。この流れは、やがて大きな川となり、〈蝿〉たちの墓のある海へと繋がっていく。アイリーの涙も、きっと彼らに届くことだろう……。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』は、多くの人を巻き込んで不幸に陥れた。このことは、どうしようもないほどの事実だ。――けど、〈蝿〉とミンウェイは、結果として救われたと思うし、俺自身も、前よりは少しはマシな人間になれたような気がする」
「リュイセン?」
「諸悪の根源は、『デヴァイン・シンフォニア計画』じゃねぇんだよ。もとを辿れば、創世神話とか、〈神の御子〉とか、王家と鷹刀の関係とか――古くからの因習のようなものが根底にあるんだ。……ちょっと壮大過ぎて、実感が湧かねぇけどさ」
祖父イーレオは、ずっと昔から、凶賊としての鷹刀一族の解散を考えていたという。初めてその話を聞いたときには、裏切られたような気持ちになったものだが、今は、それこそが目指すべき道だと、リュイセンも思う。
「たぶん、絶対に悪い『何か』なんてないんだ。……だからさ。大切なのは、自分が、どんなふうに生きていくか、だ」
断言してから、脈絡のないことを口にした気がして、リュイセンは「うまく言えねぇや」と頭を掻いた。
けれど、アイリーになら、きっと伝わっているはずだ。
リュイセンは、すっと立ち上がり、天空を望んだ。挑むような漆黒の眼差しで、魅惑の低音を響かせる。
「俺は、鷹刀の最後の総帥になる」
漆黒の髪を風になびかせ、誓いを立てる。
仰ぎ見る、山に。
流れ着く、海に。
鷹刀に『凶賊』――『闇を統べる一族』の称号を与えた、王家の末裔であるアイリーに。
「創世神話に、『罪人』と記された鷹の一族は消える。鷹刀は、あらゆる古のしがらみから解き放たれ、自由になる」
最後の総帥として、リュイセンは一族を幸せに導く。鷹刀という場所が、心の拠り所として大切であることを尊びつつ、時代遅れとなってしまった凶賊という楔から、皆を解放する。
「俺は、やるべきことをやるよ」
決然と告げてから、はっと我に返り、照れくさくなってきた。アイリーに、おかしく思われていないだろうかと、どぎまぎと彼女を振り返る。
アイリーは先ほどと変わらず、岩の上に、ちょこんと腰掛けていた。
「リュイセン……」
小柄な彼女は、ぐっと頭を傾け、白い喉を無防備に晒しながら、長身の彼を見上げる。白金の髪が風に弄ばれ、ひらひらと舞い乱れた。
「リュイセンは凄いわ。――そして、強い……」
まるで、天に焦がれるかのように、彼女は眩しげに青灰色の瞳を細める。
創世神話に謳われる、天空神そのものの姿をした女王陛下。
その綺羅の美貌は、諦観の色に染まっていた。あたかも、地上に繋ぎ止められ、抗うことのできない生贄の如くに――。
彼女の憂うような面差しを目にした瞬間、リュイセンは思わず呟いた。
「鷹刀だけが解き放たれるなんて、不公平だ……」
彼は、すっと腰を落とした。地面に片膝を付き、彼女と目線を合わせる。青灰色と漆黒――天と地を表したような瞳が、同じ高さで互いを映す。
そして、好戦的なまでの魅惑の低音を、静かに響かせた。
「お前も、最後の王になればいいんだ」
リュイセンが驚いて振り向けば、彼女は蒼白な顔で口元を覆っていた。小刻みに震える指先までもが白いのは、もはや冷水のためではあるまい。
「どうした!?」
リュイセンは、神速でアイリーのもとへと駆け寄る。
「な、なんでもないわ! 私が、分かっていなかっただけ……」
「なんでもない、って。そんなわけないだろう?」
アイリーは、どことなく悲痛な面持ちで、唇を噛んでいた。リュイセンとしては、戸惑うばかりである。
途方に暮れていると、気まずそうに彼女が目線を上げた。彼を困らせている自覚があるのか、逡巡しながらも、ぽつり、ぽつりと口を開く。
「リュイセンは、凶賊だもの。当然のことなんだ――って、受け止めなきゃいけないの。……きっと、勲章なんでしょう?」
「?」
何を言いたいのか、まるで理解できない。
リュイセンが呆然と立ち尽くしていると、アイリーは大きく息を吸い込んだ。そして、意を決したように、リュイセンの裸の胸に触れる。
「!?」
反射的に身を引こうとした瞬間、アイリーの涙声が耳朶に届いた。
「酷い傷跡……」
胸から腹へと、細い指先が、感触を確かめるように、おずおずと動く。
それから、変色した皮膚に淡い色合いの唇を寄せ、まるで口づけるように触れたかと思うと、ふわりと抱きついてきた。先ほどまで、彼の半裸姿に緊張していたのが嘘のように。ごくごく自然な動作で背中に手を回し、傷ついた獣を慈しむかのように、彼の素肌を切なげに撫でる……。
「!」
迂闊だった。
何も考えずにシャツを脱いでしまったが、リュイセンの腹には深い太刀傷があり、背にも大きな袈裟懸けの跡がある。こんな醜い刀痕を見れば、驚くのは当然だった。
凶賊である以上、負傷は免れない。
しかし、この傷は少々、次元が違う。
数ヶ月前。菖蒲の館への潜入作戦のとき、〈蝿〉との死闘の末に負った傷だ。
天才医師でもあった〈蝿〉の治療により一命を取り留めたが、そのまま囚われの身となり、ミンウェイのためにと、一族を裏切った。――あのときの傷跡だ。
「この怪我をしたとき、リュイセンは痛かったわよね。辛かったわよね……」
縫合された皮膚の引きつれを確かめるかのように、アイリーの指先が傷跡をなぞる。
優しく労るように。繰り返し、何度も。
視力の弱い自分は、目で見ても、彼の苦痛を量りきれない。だから、こうして触れて感じ取りたいのだ――とでも言うように……。
「怖くないのか?」
すっかり忘れていたが、部下の凶賊たちでさえ、庭先で鍛錬の汗を拭くリュイセンの姿に、初めは息を呑んだのだ。荒事とは無縁のアイリーなら、恐怖を覚えたとしても不思議はないだろう。
なのに、彼女は、この惨い傷跡に痛ましげに触れてきて……。
リュイセンは困惑する。
「この傷が、まったく怖くない、って言ったら、嘘になるわ。けど、それより、リュイセンが、いつ大怪我を負ってもおかしくないような世界にいるのが嫌……」
アイリーはそう言ってから、失言だったとばかりに、はっと顔色を変えた。それから、困ったように白金の眉を寄せ、もどかしげに告げる。
「凶賊が悪いとか、リュイセンが凶賊なのが駄目、ってことじゃないのよ。だって、リュイセンは、凶賊として矜持を持って生きている。否定したくないわ。――ただ、リュイセンの世界は、危険と隣り合わせなんだ、って思ったら……」
拙くとも懸命な言葉を落とし、彼女は俯く。駄々をこねた子供が、どうにもならない現実を悟り、押し黙るしかなかったように。
アイリーの言いたいことは、直感で理解できる。何より、彼女はさっき、リュイセンの傷跡を『勲章』だと讃えてくれたのだ。
項垂れた肩の儚さは、彼への憂心ゆえで……。
ぐらり。
リュイセンの心が、大きく揺れ動いた。
それを契機に、勢いよく胸が高鳴り始める。
――駄目だ……!
華奢な肩に伸びかけた手を握りしめた。
今までだって、彼女を運ぶために抱き上げたり、庇うために抱き寄せたりしてきたが、きちんとした目的も理由もあった。けれど、ここで抱きしめたら、それは、まったく別の意味になる。
感情を制御できなくなりかけた――という事実に、リュイセンは焦った。ちらりと覗く、白い項から目を逸らし、鼓動を鎮める。
この『ドライブ』は、アイリーの憧れを叶えるためのものだ。
〈神の御子〉という容姿を持って生まれてきた彼女は、次代の王に玉座を繋ぐためだけに存在する、いわば生贄だ。甘い恋愛は許されない。
だから。
リュイセンは憐憫の情から、『恋人とふたりきりになれるような、穴場の絶景スポットに行ってみたい』という、小さな願いを叶えてやりたいと思った。――あくまでも、彼女のために、だ。
その過程で、まるで恋人のような振る舞いもしたが、それは擬似的なものにすぎない。
陽炎が見せる、幻影と同じだ。
たとえ彼女が錯覚を起こしたとしても、リュイセンまでもが惑わされてはならない。
彼女は『女王陛下』なのだから。
「リュイセン」
おずおずといった体で、アイリーが顔を上げた。
「もし、リュイセンが嫌でなかったら、この傷を負ったときのことを教えてくれる?」
「え……」
想像もしていなかった発言に思考を遮られ、彼は戸惑う。――と、同時に、冷静さを取り戻すことに成功した。
「嫌ならいいの。無理は言わないわ」
きゅっと結ばれた口元に反し、彼女の目元は気弱に揺れていた。刀痕の事情を知らないからこそ、漠然とした不安を感じているのかもしれない。
「別に隠すようなことじゃないから話すよ。そもそも、この傷は、お前が想像しているような凶賊同士の抗争で受けたものじゃないんだ」
「えっ!?」
「屋敷で『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを話しただろう? そのときに出てきた、『ライシェン』を作った〈蝿〉という男。――彼との争いの中で、この傷を負ったんだ」
リュイセンがそう告げた瞬間、アイリーは、きょとんと目を丸くした。刀傷といえば凶賊の抗争、という発想であったためか、すぐには理解できなかったらしい。
ひと呼吸以上の間をおいてから、「なんですって!?」と、大きく音程を外した声が、澄んだ青空に響き渡った。
「それじゃあ、リュイセンは『デヴァイン・シンフォニア計画』のせいで、こんな酷い傷を負ったというの!?」
眉尻の上がった綺羅の美貌が、責め立てるように彼へと迫る。
――実は。
リュイセンは、アイリーに菖蒲の館でのことを――彼が囚われ、〈蝿〉の部下となっていたことを話していない。すべてを語れば、あまりにも長くなるため、セレイエと『ライシェン』のことを中心に話をまとめ、その他は大きく端折ったのだ。
「……違うか」
「え?」
ぽつりと落とされた低音に、アイリーは首をかしげる。
「『話が長くなるから』じゃねぇな。俺自身が、自分の格好悪いところを隠したかっただけだ」
リュイセンは目元を緩め、穏やかに笑った。愚かさを自覚しながらも、懸命だった自分を思い出し……、ほんの少し、胸が痛むのを感じる。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』はさ、セレイエが息子のために作った計画で間違いないんだけど、〈蝿〉と……ミンウェイの運命を大きく変えたんだよ。――俺は一族を裏切って、それから、最後の総帥になるために戻ってきたんだ」
「ちょ、ちょっと、待って! ごめんなさい。全然、話が見えないわ!」
「そうだよな。すまん」
リュイセンは、面目なげに苦笑する。こんな話し方では、アイリーを困らせてしまうだけだろう。
申し訳ない気分で彼女を見やれば、彼の話を聞きたいと、真剣そのものの表情で、じっとこちらを見つめている。
だから、思った。
彼女に、すべて話したい、と。
話して、どうなるというわけではないけれど、ただ聞いてほしい。
もはや過去のものとなった、ミンウェイへの恋心さえも――。
「アイリー。俺は話し下手だけど、聞いてくれるか?」
「うん!」
彼女は黒いパーカーを脱いで、日影の平らな岩の上に広げた。お気に入りのワンピースが汚れないように気をつけながら、そっと腰掛ける。どことなく得意げな表情から察するに、聞く準備は万全だ、ということらしい。
そんな様子に、思わず笑みを溢していると、今度はパーカーの裾の部分を伸ばし、リュイセンにも座るようにと勧めてきた。――が、それは丁重に断る。
さすがに狭すぎるし、リュイセンのズボンなど、汚れてもどうということはない。……それに、並んで座れば、彼女との距離が近すぎるだろう。
リュイセンは、アイリーと向き合うような形で腰を下ろした。
そして、比翼連理の夢を見た〈悪魔〉と、その記憶を受け継いだ『彼』の話を語り始めた。
ミンウェイは、誰かに〈蝿〉のことを話すときには、自分がクローンだったことも包み隠さずに明かすようにと、皆に頼んでいた。そうでなければ、〈蝿〉の――そして、ヘイシャオの本心が伝わらないから、と。
長い話を終え、リュイセンは、すっかり乾いたシャツを身につけた。そして、アイリーは、白いはずの瞼を真っ赤に腫らして泣きじゃくっていた。
「ごめんなさい、リュイセン。私が泣いたって、仕方がないのに……。……でもね、誰もが辛かったんだな、って。誰か、じゃなくて、皆が……」
しゃくりあげる声を、滝の音が優しく包む。
傾きかけた陽射しが涙に反射して、柔らな色合いを帯びた光が、きらきらと流れ落ちた。
「仕方なくなんかねぇよ。……聞いてくれて、ありがとな」
リュイセンは微笑み、滝からの水流に目を向けた。この流れは、やがて大きな川となり、〈蝿〉たちの墓のある海へと繋がっていく。アイリーの涙も、きっと彼らに届くことだろう……。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』は、多くの人を巻き込んで不幸に陥れた。このことは、どうしようもないほどの事実だ。――けど、〈蝿〉とミンウェイは、結果として救われたと思うし、俺自身も、前よりは少しはマシな人間になれたような気がする」
「リュイセン?」
「諸悪の根源は、『デヴァイン・シンフォニア計画』じゃねぇんだよ。もとを辿れば、創世神話とか、〈神の御子〉とか、王家と鷹刀の関係とか――古くからの因習のようなものが根底にあるんだ。……ちょっと壮大過ぎて、実感が湧かねぇけどさ」
祖父イーレオは、ずっと昔から、凶賊としての鷹刀一族の解散を考えていたという。初めてその話を聞いたときには、裏切られたような気持ちになったものだが、今は、それこそが目指すべき道だと、リュイセンも思う。
「たぶん、絶対に悪い『何か』なんてないんだ。……だからさ。大切なのは、自分が、どんなふうに生きていくか、だ」
断言してから、脈絡のないことを口にした気がして、リュイセンは「うまく言えねぇや」と頭を掻いた。
けれど、アイリーになら、きっと伝わっているはずだ。
リュイセンは、すっと立ち上がり、天空を望んだ。挑むような漆黒の眼差しで、魅惑の低音を響かせる。
「俺は、鷹刀の最後の総帥になる」
漆黒の髪を風になびかせ、誓いを立てる。
仰ぎ見る、山に。
流れ着く、海に。
鷹刀に『凶賊』――『闇を統べる一族』の称号を与えた、王家の末裔であるアイリーに。
「創世神話に、『罪人』と記された鷹の一族は消える。鷹刀は、あらゆる古のしがらみから解き放たれ、自由になる」
最後の総帥として、リュイセンは一族を幸せに導く。鷹刀という場所が、心の拠り所として大切であることを尊びつつ、時代遅れとなってしまった凶賊という楔から、皆を解放する。
「俺は、やるべきことをやるよ」
決然と告げてから、はっと我に返り、照れくさくなってきた。アイリーに、おかしく思われていないだろうかと、どぎまぎと彼女を振り返る。
アイリーは先ほどと変わらず、岩の上に、ちょこんと腰掛けていた。
「リュイセン……」
小柄な彼女は、ぐっと頭を傾け、白い喉を無防備に晒しながら、長身の彼を見上げる。白金の髪が風に弄ばれ、ひらひらと舞い乱れた。
「リュイセンは凄いわ。――そして、強い……」
まるで、天に焦がれるかのように、彼女は眩しげに青灰色の瞳を細める。
創世神話に謳われる、天空神そのものの姿をした女王陛下。
その綺羅の美貌は、諦観の色に染まっていた。あたかも、地上に繋ぎ止められ、抗うことのできない生贄の如くに――。
彼女の憂うような面差しを目にした瞬間、リュイセンは思わず呟いた。
「鷹刀だけが解き放たれるなんて、不公平だ……」
彼は、すっと腰を落とした。地面に片膝を付き、彼女と目線を合わせる。青灰色と漆黒――天と地を表したような瞳が、同じ高さで互いを映す。
そして、好戦的なまでの魅惑の低音を、静かに響かせた。
「お前も、最後の王になればいいんだ」