Exspetioa2.7.10 (2)
「シスター・セナ! 大丈夫か!」
私はなんとかうなずきました。しかし、あまりの痛みで両腕の感覚がありませんでした。
蟲は再び、片腕を振り上げました。とても速かったのですが、シスター・ルドベキアがさっと私を抱き上げ、後退してくださったおかげで無事でした。シスター・ルドベキアはそのまま、塔の階段の方まで走り、私を下ろしました。
「動けるか? 頑張って、動いてくれ。罪女ニゲラを連れてくるんだ」
「え……っ」
私は、一瞬動揺しました。ですが、うなずきました。そうです。この状況を助けてくださるのは、あのお方しかいらっしゃらないのです。
蟲が、私たちの方に迫ってきました。シスター・ルドベキアは剣を構えました。
「早く!」
「はい!」
私は痛みも忘れて、階段を駆け上がりました。だんだん、腕だけでなく、体中がじんじんとしてきました。感覚が、鈍くなっていくような感じもします。それでも、私は走りました。
牢にたどり着くと、鉄格子越しに、あのお方が見えました。
しかし、シスター・アザレアが、壁となるように、あのお方の前に立ちました。
「就寝の時間はとうに過ぎているわ。戻りなさい。明日、マザーに報告します」
「ち、違うのです……蟲が……、シスター・タンジーが、蟲になってしまわれて……」
私は、くらりとして、へたり込んでしまいました。腕がじんじんして、頭がじんじんして、何も考えられなくなっていきました。
「どきなさい」
あのお方の声が、耳に入ってきました。シスター・アザレアが、抵抗したのでしょうか。厳しい口調が飛び交っているのが聞こえました。意識がぼんやりしていくにつれ、その声は、どんどん遠くなっていきました。
「セナ。聞こえる? 祈るのよ。傷を癒し、毒を抜き、体を元に戻してくださいって。心の中でいい。祈って」
不思議と、あのお方のお声だけは、私の耳にはっきりと届いていました。私は、おっしゃる通りにしました。傷を癒し、毒を抜き、体を元に戻してください。心の中で、何度も強く唱えました。
すると、なんということでしょう。体の奥底から、白い光が湧き上がるのを感じました。うっすらと目を開くと、私の周り――いえ、私の体ごと、白く輝いているのが見えました。私の体から、腕から、痛みやしびれがどんどんと消えていきました。
光がおさまり、自分の手腕を見つめて、私はびっくりしました。噛まれた跡がありません。痛みも、しびれも何もなく、心なしか、いつも以上に元気な気がします。
あのお方は、青い目を細めて、「よかった」と温かくほほ笑んでくださいました。
私は、ドキリとしたのですが――はっと気が付きました。
「あの、ありがとうございます……。ですが、お願いはこれではないのです! お願いします! シスター・アザレア! このお方を解放するご許可を!」
「私にその権限はないわ。罪女ニゲラを解放するなんて、マザーはお赦しにならないでしょう」
「お願いします! お三方の騎士の方々も倒れてしまわれて、今はただおひとり、シスター・ルドベキアだけが戦い、私たちを守っていらっしゃるのです! このままでは……!」
「シスター、ルドベキアが……」
シスター・アザレアが、ひりついた声音でつぶやきました。そのお顔は、動揺していらっしゃるようでしたが、きゅっと唇を噛み、何かを耐えていらっしゃる様子に変わりました。
「だからといって、罪女ニゲラを解放することはできないわ!」
シスター・アザレアは、こぶしを強く握りしめていらっしゃいました。両手の甲に咲く花が、おびえるように少ししわがれているのが見えました。
「ですが、このままでは、皆さんも、東の修道院も……」
「わかっているわ。あなたは、部屋に戻りなさい。帰り際、罪女ニゲラとひとことも口をきいてはならないわよ」
シスター・アザレアは、そうおっしゃると、ばっと階段を駆け下りていってしまわれました。
「――セナ。また会えて、嬉しいわ」
振り向くと、彼女の瞳と花とが、美しく、青く輝いていました。そして彼女は、両手で鉄格子を握ったかと思うと、ぐにゃりと、両側に引っ張ったのです! あっさりと、人ひとり出入りできる穴ができあがりました。
彼女が、私に手を差し伸べました。
「こっちにきて、セナ。あの子たちを、助けましょう」
私の胸が高鳴りました。私は、手を伸ばしました。彼女の手に触れた瞬間、求めるように、強く握りしめていました。
彼女はにっと笑うと、右手に宿した斧を振り下ろし、分厚い壁に、深い横線の傷跡を刻みました。そして、かかとの高い靴で、思い切り蹴り破ったのです! 壁が、ガラガラと崩れていきました。重厚な石でかためられていたはずなのに……。私は唖然としていましたが、彼女は悠々と、長銃を手に宿しました。
「一緒に撃って、セナ。あなたでなければ、彼女は救えない」
私は、招かれるままに、前と同じように、彼女の腕の中に入りました。
引き金に指をかけ、その私の指の上に、彼女の指が重なりました。
シスター・アザレアが紅色に輝きながら、鎖で蟲を縛り、捕えているのが見えました。
「祈って。あの子が、幸せになるように」
私は、目をつむりました。そして、祈りました。どうか、シスター・タンジーが、穏やかな気持ちで種となりますように。幸せな気持ちで、再び咲くことができますように。
体の底から、白く温かい光が込み上がりました。
目を開くと、私の周りに、白く輝く花がたくさん咲いていました。
「いくわよ。祈り続けて」
私がもう一度強く祈ったのと同時に、彼女の指が、私の指を押しました。
パン、と高らかな音が鳴った、次の瞬間。蟲の頭部がきらりと光り、砂のようにあっけなく散っていきました。
彼女は私を抱いたまま、牢の奥に下がりました。私の姿がシスター・アザレアに見られないよう、隠してくださったのだと思います。
彼女の青い光が消えると、彼女は、私を抱いていた腕を緩めました。
「頼ってもらえて嬉しかったわ。また、会えたらいいわね」
私は、彼女の方を向きました。いつもの温かい笑みが、すぐ傍にある。嬉しくて、ドキドキして、私の胸に、次々と、彼女にお伝えしたいことがあふれてきました。
緊張でこわばる唇を開き、私は勇気を振り絞り、「あ……」と音を出しました。
「あ、あの、あ……ありがとうございました。……この前、お花をくださったことも、本当に、ありがとうございました。励ましてくださって……」
「私があげたかっただけよ」
「ずっと飾っています。水に浮かべて……」
「それで、私を思い出してくれているの?」
「は……はい……」
「そう。かわいいのね」
顔がカッと熱くなり、咄嗟にうつむいてしまいました。彼女がクスリとほほ笑んだのが、かすかな息の音でわかりました。
どうしよう。私は、困惑していました。頭の中がぐちゃぐちゃで、うまく言葉が紡げません。ですが、このまま沈黙したままでいたら、この時間が終わりになってしまう予感がして……。私は、ぐちゃぐちゃの頭の中から、必死に言葉を探しました。
「あ、あの、あ……あの時、あの花をいただいた時、私、私がしたいと思っていることを、してみようって……背中を、押していただいたのです。結果的には、間違いで……大切な方を、傷つけてしまったのですが……」
胸が痛くなり、涙がぽろりとこぼれました。青い花の咲いたしなやかな手が伸び、私の頬に触れました。驚いて顔を上げると、彼女の美しいお顔が、すぐ近くにありました。ドキリと胸が大きく鳴り、息が止まりました。
「――セナ。何があっても、未来は意外と大丈夫なの。あなたの傷も、あなたが傷つけてしまった子の傷も、時が経てば、必ず癒えていく。癒える速度はそれぞれだけど、それでも、笑顔になれる日が、必ず来る。だから、あなたはあなたのままでいていい。あなたの好きなあなたでいていい」
心の中にかかっていた灰色の雲がすっと消え、七色の輝きが花開いたように思えました。
涙が一筋、また一筋と、とめどなく、私の頬を伝いました。さっきこぼれたのとは、違う涙でした。
彼女のお言葉は、慰めの言葉ではない。
本当に、私を想ってくださっている。大切に想ってくださっている。心の奥から、彼女のすべてで――。そう感じました。
私は、嬉しくて、温かくて……。
ありがとうございます――。そう伝えたかったけれど、涙で言葉を出すことができませんでした。
私の濡れた頬を親指で拭い、彼女は、やさしくほほ笑んでくださいました。
「もう行った方がいいわ。シスター・アザレアが帰ってくる前に。あなたのネグリジェ姿、見れてよかった」
お別れの時を予感して、私は、ひとりぼっちになってしまうような感覚に襲われました。ですがすぐに、それは私ではないと思い返しました。私には皆さんがいてくださいます。本当にひとりぼっちになってしまうのは、彼女なのです。
私は、ぎゅっと胸を握りしめました。私は、彼女を幸せにしたい。ここから解放したい。そう、心が求めているのです。それならば、動く他に選択肢はありません。私は、決心しました。
「私……マザーに、あなたを解放していただけるよう、お願いします! もし、マザーからご許可をいただけて、ここから出られることになったら……そうしたら、今度はもっと、たくさんお話しさせてください」
彼女は一瞬、びっくりしたようなお顔をされました。ですが、いつもの――いえ、いつもよりも温かく、嬉しそうにほほ笑んで、
「じゃあ、その日のために、私は咲くわ」
とおっしゃってくださいました。
あのお方を解放できるよう、あのお方を幸せにできるよう、精一杯頑張ろう。そう、心から思いました。
私はなんとかうなずきました。しかし、あまりの痛みで両腕の感覚がありませんでした。
蟲は再び、片腕を振り上げました。とても速かったのですが、シスター・ルドベキアがさっと私を抱き上げ、後退してくださったおかげで無事でした。シスター・ルドベキアはそのまま、塔の階段の方まで走り、私を下ろしました。
「動けるか? 頑張って、動いてくれ。罪女ニゲラを連れてくるんだ」
「え……っ」
私は、一瞬動揺しました。ですが、うなずきました。そうです。この状況を助けてくださるのは、あのお方しかいらっしゃらないのです。
蟲が、私たちの方に迫ってきました。シスター・ルドベキアは剣を構えました。
「早く!」
「はい!」
私は痛みも忘れて、階段を駆け上がりました。だんだん、腕だけでなく、体中がじんじんとしてきました。感覚が、鈍くなっていくような感じもします。それでも、私は走りました。
牢にたどり着くと、鉄格子越しに、あのお方が見えました。
しかし、シスター・アザレアが、壁となるように、あのお方の前に立ちました。
「就寝の時間はとうに過ぎているわ。戻りなさい。明日、マザーに報告します」
「ち、違うのです……蟲が……、シスター・タンジーが、蟲になってしまわれて……」
私は、くらりとして、へたり込んでしまいました。腕がじんじんして、頭がじんじんして、何も考えられなくなっていきました。
「どきなさい」
あのお方の声が、耳に入ってきました。シスター・アザレアが、抵抗したのでしょうか。厳しい口調が飛び交っているのが聞こえました。意識がぼんやりしていくにつれ、その声は、どんどん遠くなっていきました。
「セナ。聞こえる? 祈るのよ。傷を癒し、毒を抜き、体を元に戻してくださいって。心の中でいい。祈って」
不思議と、あのお方のお声だけは、私の耳にはっきりと届いていました。私は、おっしゃる通りにしました。傷を癒し、毒を抜き、体を元に戻してください。心の中で、何度も強く唱えました。
すると、なんということでしょう。体の奥底から、白い光が湧き上がるのを感じました。うっすらと目を開くと、私の周り――いえ、私の体ごと、白く輝いているのが見えました。私の体から、腕から、痛みやしびれがどんどんと消えていきました。
光がおさまり、自分の手腕を見つめて、私はびっくりしました。噛まれた跡がありません。痛みも、しびれも何もなく、心なしか、いつも以上に元気な気がします。
あのお方は、青い目を細めて、「よかった」と温かくほほ笑んでくださいました。
私は、ドキリとしたのですが――はっと気が付きました。
「あの、ありがとうございます……。ですが、お願いはこれではないのです! お願いします! シスター・アザレア! このお方を解放するご許可を!」
「私にその権限はないわ。罪女ニゲラを解放するなんて、マザーはお赦しにならないでしょう」
「お願いします! お三方の騎士の方々も倒れてしまわれて、今はただおひとり、シスター・ルドベキアだけが戦い、私たちを守っていらっしゃるのです! このままでは……!」
「シスター、ルドベキアが……」
シスター・アザレアが、ひりついた声音でつぶやきました。そのお顔は、動揺していらっしゃるようでしたが、きゅっと唇を噛み、何かを耐えていらっしゃる様子に変わりました。
「だからといって、罪女ニゲラを解放することはできないわ!」
シスター・アザレアは、こぶしを強く握りしめていらっしゃいました。両手の甲に咲く花が、おびえるように少ししわがれているのが見えました。
「ですが、このままでは、皆さんも、東の修道院も……」
「わかっているわ。あなたは、部屋に戻りなさい。帰り際、罪女ニゲラとひとことも口をきいてはならないわよ」
シスター・アザレアは、そうおっしゃると、ばっと階段を駆け下りていってしまわれました。
「――セナ。また会えて、嬉しいわ」
振り向くと、彼女の瞳と花とが、美しく、青く輝いていました。そして彼女は、両手で鉄格子を握ったかと思うと、ぐにゃりと、両側に引っ張ったのです! あっさりと、人ひとり出入りできる穴ができあがりました。
彼女が、私に手を差し伸べました。
「こっちにきて、セナ。あの子たちを、助けましょう」
私の胸が高鳴りました。私は、手を伸ばしました。彼女の手に触れた瞬間、求めるように、強く握りしめていました。
彼女はにっと笑うと、右手に宿した斧を振り下ろし、分厚い壁に、深い横線の傷跡を刻みました。そして、かかとの高い靴で、思い切り蹴り破ったのです! 壁が、ガラガラと崩れていきました。重厚な石でかためられていたはずなのに……。私は唖然としていましたが、彼女は悠々と、長銃を手に宿しました。
「一緒に撃って、セナ。あなたでなければ、彼女は救えない」
私は、招かれるままに、前と同じように、彼女の腕の中に入りました。
引き金に指をかけ、その私の指の上に、彼女の指が重なりました。
シスター・アザレアが紅色に輝きながら、鎖で蟲を縛り、捕えているのが見えました。
「祈って。あの子が、幸せになるように」
私は、目をつむりました。そして、祈りました。どうか、シスター・タンジーが、穏やかな気持ちで種となりますように。幸せな気持ちで、再び咲くことができますように。
体の底から、白く温かい光が込み上がりました。
目を開くと、私の周りに、白く輝く花がたくさん咲いていました。
「いくわよ。祈り続けて」
私がもう一度強く祈ったのと同時に、彼女の指が、私の指を押しました。
パン、と高らかな音が鳴った、次の瞬間。蟲の頭部がきらりと光り、砂のようにあっけなく散っていきました。
彼女は私を抱いたまま、牢の奥に下がりました。私の姿がシスター・アザレアに見られないよう、隠してくださったのだと思います。
彼女の青い光が消えると、彼女は、私を抱いていた腕を緩めました。
「頼ってもらえて嬉しかったわ。また、会えたらいいわね」
私は、彼女の方を向きました。いつもの温かい笑みが、すぐ傍にある。嬉しくて、ドキドキして、私の胸に、次々と、彼女にお伝えしたいことがあふれてきました。
緊張でこわばる唇を開き、私は勇気を振り絞り、「あ……」と音を出しました。
「あ、あの、あ……ありがとうございました。……この前、お花をくださったことも、本当に、ありがとうございました。励ましてくださって……」
「私があげたかっただけよ」
「ずっと飾っています。水に浮かべて……」
「それで、私を思い出してくれているの?」
「は……はい……」
「そう。かわいいのね」
顔がカッと熱くなり、咄嗟にうつむいてしまいました。彼女がクスリとほほ笑んだのが、かすかな息の音でわかりました。
どうしよう。私は、困惑していました。頭の中がぐちゃぐちゃで、うまく言葉が紡げません。ですが、このまま沈黙したままでいたら、この時間が終わりになってしまう予感がして……。私は、ぐちゃぐちゃの頭の中から、必死に言葉を探しました。
「あ、あの、あ……あの時、あの花をいただいた時、私、私がしたいと思っていることを、してみようって……背中を、押していただいたのです。結果的には、間違いで……大切な方を、傷つけてしまったのですが……」
胸が痛くなり、涙がぽろりとこぼれました。青い花の咲いたしなやかな手が伸び、私の頬に触れました。驚いて顔を上げると、彼女の美しいお顔が、すぐ近くにありました。ドキリと胸が大きく鳴り、息が止まりました。
「――セナ。何があっても、未来は意外と大丈夫なの。あなたの傷も、あなたが傷つけてしまった子の傷も、時が経てば、必ず癒えていく。癒える速度はそれぞれだけど、それでも、笑顔になれる日が、必ず来る。だから、あなたはあなたのままでいていい。あなたの好きなあなたでいていい」
心の中にかかっていた灰色の雲がすっと消え、七色の輝きが花開いたように思えました。
涙が一筋、また一筋と、とめどなく、私の頬を伝いました。さっきこぼれたのとは、違う涙でした。
彼女のお言葉は、慰めの言葉ではない。
本当に、私を想ってくださっている。大切に想ってくださっている。心の奥から、彼女のすべてで――。そう感じました。
私は、嬉しくて、温かくて……。
ありがとうございます――。そう伝えたかったけれど、涙で言葉を出すことができませんでした。
私の濡れた頬を親指で拭い、彼女は、やさしくほほ笑んでくださいました。
「もう行った方がいいわ。シスター・アザレアが帰ってくる前に。あなたのネグリジェ姿、見れてよかった」
お別れの時を予感して、私は、ひとりぼっちになってしまうような感覚に襲われました。ですがすぐに、それは私ではないと思い返しました。私には皆さんがいてくださいます。本当にひとりぼっちになってしまうのは、彼女なのです。
私は、ぎゅっと胸を握りしめました。私は、彼女を幸せにしたい。ここから解放したい。そう、心が求めているのです。それならば、動く他に選択肢はありません。私は、決心しました。
「私……マザーに、あなたを解放していただけるよう、お願いします! もし、マザーからご許可をいただけて、ここから出られることになったら……そうしたら、今度はもっと、たくさんお話しさせてください」
彼女は一瞬、びっくりしたようなお顔をされました。ですが、いつもの――いえ、いつもよりも温かく、嬉しそうにほほ笑んで、
「じゃあ、その日のために、私は咲くわ」
とおっしゃってくださいました。
あのお方を解放できるよう、あのお方を幸せにできるよう、精一杯頑張ろう。そう、心から思いました。