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作者: 霜月かつろう
憧れのその先 その4
「無理し過ぎなんじゃない」

 近寄ってきた上里コーチは心配そうな顔をしている。そんなふうに心配されることをしたつもりはないんだけどな。

「大丈夫です。練習してるのは楽しいので」

 心配そうな顔のまま上里コーチが去っていく。あんまり納得はしていなさそうだ。
 実際久しぶりの練習は楽しかった。上里コーチが心配しているのは理解できるが残り時間は少ない。やるべきことをやるためには多少なりとも無理をしなくてはならないと思っている。それに楽しいと言うのは嘘偽りのない本音だ。

 とは言え、今日の練習は一般滑走だ。貸切練習と違って、他にも人はたくさんいる。そのほとんどは選手として練習している人たちだ。小学生くらいの子どもが多いのは時間帯のせいだろう。この後、高校生から大学生までが増えてくる。そしてそのまま貸切練習に移行することが多い。今日は美鶴たち商店街チームが貸切練習をする枠はない。

 他の団体。例えばフィギュアスケートだったり、ショートトラックだったり、アイスホッケーだったり。各種競技の各種年代。小さな子どもから社会人の団体まで。幅広い団体の利用がある。その中で対抗戦のために枠を取れるのだから地元に根づいているものってやっぱり強いのだ。

 でも今は一般滑走。言わば個人練習。ひとりで黙々と練習できる少ない時間。昔を思い出してしまう。あの頃は必死にこの時間帯に練習をした。それでも物足りなかったなと振り返りながら改めて思う。やりたいことやってみたいことがたくさんあったのに、その時間が上手に作れなかった。

 そう考えれば昔より時間の使い方は上手になった気がする。これが大人になることだなんて思いたくはないが、全部やれないのであればやることを絞る。それが感覚として身についていた。

 あの頃にこうやって考えられていたら長続きしたのだろうか。いや、それではだめなのだ。あの頃になりたかった存在はちょっと手を伸ばしても届くはずはない位置にいた。長続きしていたところでダラダラと続いていただけ。憧れていた存在に手が届くことはきっとなかっただろう。

 であればあのときにきっぱりと諦めてよかったのだ。そう改めて確認する。

『美鶴ちゃん。なんでスケートやろうと思ったの』

 不意にそんな言葉が思い出される。きっと周りに滑っている子たちの雰囲気がそう言った子たちにそっくりだからだ。

 不思議なのだが、フィギュアスケートをやろうと思い、続けている人たちの雰囲気はどこか似通っているように見えてしまう。そのせいで嫌な記憶が蘇ってしまうのだ。

 スケートを始めた年齢なんて関係ないはずなのにな。それは今だから言えることだ。同時の美鶴にはその余裕はなかった。自分より遥かに上手な子たちに悪意はなかったのかもしれない。けれど皮肉を言っているように聞こえて、そのことを起因として余裕がなくなっていったのは確かだ。通い初めてすぐの美鶴には堪えた。それも年下の子たちにだ。そんな経験はそれまでの人生で一度もなかった。

 でも、自分で限界だなと思うまで通うことが出来たのは琥珀さんの存在が大きかったように思う。

 歳の差はちょっとしかない。確かふたつかみっつ差だったはずだ。その存在がものすごい大人に見えたのはそのスケートをやっている人たちの中で随分と浮いていたからだと思う。

 周りがはしゃいでいる中、ひとりで黙々と練習したり。馴れ合うなんてことを嫌っているようにも見えた。一匹狼と言う訳では無い。ちゃんと話題に参加するときはするし、孤独な印象はない。でも、必要以上に馴染まないしやることをしっかりと見据えている。それを象徴するように琥珀さんは黒いスケート靴を履いていた。

 前例がないわけじゃない。でも、周りは慣例的にみんな白い靴だ。当然美鶴も白い靴以外の選択肢を持っていなかった。だって、テレビで見る女性スケート選手はもれなく白い靴だった。そもそも黒い靴でいいんだ。そう思ったのは琥珀さんを見てからだ。

 周りを気にせず練習しているその姿を真似した。誰になんと言われようとも自分がなりたいものになる。その思いだけを強めていったのだろう。結果として、リタイヤしてしまったけれど。そのことに後悔はしていない。

 そして巡り巡って。今、この歳になって琥珀さんと一緒にスケートが出来るんだと言うことが嬉しくて仕方なかった。そして迷惑は掛けられない以上、もっと練習しなければならないのだ。

 上里コーチが心配そうにこちらに視線を送ってくるのが見えて、申し訳なくなって軽く頭を下げた。

 大丈夫です。迷惑はおかけしませんから。そう思いを込めたのだけれど伝わったのかは分からない。
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