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作者: 霜月かつろう
キミのことが分からない その3
「明日の本番大丈夫か?」

 アリスは練習から帰ってくるなり、シャワーを浴びた後でソファに座って長い髪を乾かしている。食事を用意しながらそんな風に気を使うだけでいいのかと少し寂しく思う。

 言われたってやらなかったアリスが自発的に動いている。そうなったのも最近の話だ。何か心変わりがあったのだろうか。思い当たることはないのだが、ちょうど立花さんが現われてから。そんな気もする。

「うん。大丈夫。今日もループをちゃんと跳べた」

 課題だったトリプルループも安定してきた。フィギュアスケートで六種類ある中でこじんまりとした印象を受けるジャンプ。しかし、脚を大きく使わずまとまったそのジャンプは技術を使う。それの成功率が上がってきている。つい先日の全日本ノービスではボロボロだったそのジャンプも今日は安定していた。

 まったく。その調子だったら全日本ノービスもいい結果を残せただろうに。

 つま先を使うトゥージャンプ三種類も、脚を大きく使うアクセルもサルコウも苦手ではないのにループだけはどうも苦手意識があるらしい。その長い手足には収まる場所が少なすぎるのだろうか。なんて、コーチとしてはあるまじき発想を振り切るように料理へと集中する。

「今日はなに?」

 アリスが髪の毛を乾かし終えたのかそばまで来ていた。気配を消すのが昔から上手だったが、最近はそれも熟練の腕に達している気がする。これが優太くんと遊ぶためと言うのだから恐れ入る。

「今日はカレーだ。明日の本番頑張って貰わないといけないからな」

 材料は商店街で買い物、と言うか貰い物だ。どうせ捨てるからと押し付けられたのだけれど、味は変わらず。毎度のことながら申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「ん。頑張る」

 今晩のメニューお気に召したらしいアリスは元いたソファに戻っていく。その様子に気負った感じはないのを見てホッとする。普段はこんな感じなのに大きな大会前は緊張してしまうのか実力を発揮できないことが多い。ただでさえ少ない口数も減る。これを周りは気づかないらしい。

 小さいころからだ。おとなしくて、日本人には珍しい背格好をしているのもあってお人形さんみたいだねとずっと言われている。母親は賑やかでいつでも走り回っている様な人だから、最初は驚いたがよくよく考えてみたらなんてことはない。芳樹に似ているだけだ。

 はしゃいだりするのが苦手だった。走り回ったり、ボールを蹴ったり、楽しくない訳じゃない。誘われればやるし、楽しんでいた。でも周りからはそうは見えないらしい。気が付けば誘われなくなっていた。

 フィギュアスケートを始めたのはそんな芳樹を見て両親が心配したからだ。少しでも社会と触れる機会を増やそうとしたのだ。今のアリスを見ているとその気持ちは理解できる。

 何も手を出さなければそのままひとりきりの空間をひたすらに楽しむような雰囲気がアリスにはある。きっと芳樹もそうだったのだろう。今はそんなことはないと思うのだけれど、こういうのって大人になれば変わるものなんだろうか。

「ねえ。ママが明日来るってホント?」

 昔を思い出していたからか、彼女の事も思い返していたし、その言葉に鼓動が早くなる。緊張させまいと黙っていたのに誰から聞いたのだろう。母親の前ではアリスはガチガチに緊張してしまう。もう見てられないくらいにだ。彼女のフィギュアスケーターとしてのオーラがそうさせるのかは分からない。しかし、アリスが苦手としているのは間違いなかった。

 だからと言って。家に帰らない日々を過ごすと言う選択をするとは思わなかったけど。

 そんな彼女から日本に帰ると記載された手紙が届いたのは突然の事だった。なんで手紙。とも思うけれど、時折送られて来るそれは芳樹とアリスにとって楽しみのひとつではある。でも、今回だけは隠さねばそう思い隠していたし、誰にも言わなかったのに。

「あ、ああ。ホントだ」

 隠してしまった手前、罪悪感でたどたどしくなってしまう。こんなことなら最初から素直に報告すればよかった。しかし、滑りを見られるとなると、実力を発揮できないんじゃないかと不安で仕方ないのだ。

「ちゃんと観てくれるかな」

 誰に問いかけるでもなく自分で確認作業をしているかのように呟くアリスに返事をするのを躊躇ってしまう。

「観てくれるさ。そのために帰ってくるんだから」
「……そうだよね」

 気にしてしまっているのだろうか。親子としては仲がいいのだけれど、フィギュアスケーターとしては圧倒的な実力差を気にしすぎている。そう思う。

「商店街対抗戦なんだし、あんまり気を張るんじゃないよ。この後も大きな大会は控えている。ケガなんてしなようにな」
「うん。分かってる」

 それから夕飯まで一言もしゃべらないアリスに不安だけが募っていった。
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